sairo

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6/1/2025, 11:02:13 AM

「また負けちゃった」

そう言って、彼女は笑う。負けたというのに、悔しさの欠片も見せず。
その笑顔が眩しくて目を細める。散らばったカードを纏めながら、さりげなく視線を逸らした。
勝負には勝った。だがその瞬間に、自分は彼女という存在の大きさにまた負けたのだ。

「どうしたの?」

問いかける声に首を振る。
羨ましい、悔しいと思う気持ちを、浮かべた笑みで隠して終わりを告げる。

「そろそろ帰る時間だね。また明日」
「もうこんな時間か、残念。今日こそは勝てると思ったのに」
「――勝ってるよ。いつも君には負けている」

ぼつりと小さく呟いた。
何か言った、と問いかける彼女に、何もないと答えて手を振る。

「まあ明日ね。次は絶対に勝つからね」
「うん。期待してる」

部屋から出て行く彼女の背を見送りながら、手にしたカードを気まぐれに弄ぶ。
勝負の勝ち負けなんて、何の意味もない。
彼女のように強くなれない自分は、その時点で既に負けているのだから。

「強く、なりたいな」

カードを片付けながら、嘆息する。
窓の外を見れば、空は青から赤へと色を変えて。遠くカラスの鳴き声を聞きながら、徐に手を上げた。
その瞬間に部屋の灯りはすべて消える。窓から差し込む陽の光が、部屋の暗がりに自分の影を伸ばしていき。
その影は揺らいで形を小さく崩して、人間から獣の姿へと変わっていく。

「彼女のようになりたい」

影と同じく獣――狸へと姿を変えて、彼女を思い項垂れた。

半年ほど前、寝所にしていたこの廃墟で彼女と出会った。
明るく、好奇心旺盛で。それでいてとても優しい彼女。この廃墟に来たのも、友人が肝試しに訪れてから戻らない事を心配していたためだった。
まあ、その友人は実際には別の廃墟に行っていた訳であるが。その時は何も知らず、二人して廃墟の中を探し回って、それで仲良くなった。
それから毎日のように、この場所で彼女と一緒に遊んだ。
廃墟に残されていたものや彼女が持ち込んだもので一緒に遊び、勝負をして楽しく過ごしていた。彼女はゲームの類いが得意ではないようで、勝つのはいつも自分だった。
けれど。

「また、言えなかった」

彼女は自分が狸である事を知らない。彼女と出会ってからずっと人間の姿で接していて、今も告げる事が出来ないでいる。言わなければと思い立って、そろそろ一月が経とうとしていた。
本当の事を打ち明けても、きっと彼女はそうなんだ、と笑ってくれるだろう。でも万が一、もしも彼女にすべてを打ち明けて、怖がられたり怯えられたりしたとしたら。二度とこの廃墟に遊びに来てくれなくなったとしたら。
それを考えると、怖くて怖くて、何も言えなくなってしまうのだ。

「強く、なりたいな」

ソファに飛び乗り、丸くなる。
強くなりたかった。勝負の悉くに負けても、それを笑っていられるくらいの強さがほしかった。そうしたらきっと、彼女に自分の気持ちごと、すべてを話せるのに。
勝負の勝ち負けなんて、彼女の強さに比べたら些細な事だ。何も言えない臆病な自分は、彼女よりも遙かに弱い存在なのだから。

「明日。明日こそ、ちゃんと言おう」

何度目かの決意を口にして、目を閉じる。

「ぼくが狸だって事。それから、大好きだって事」

明日こそ。結局無駄になって散らばった、言葉達の残骸を見ない振りして明日が来るのを待つ。

はずだった。


「その明日は、いつになったら来てくれるのっ!」

ばんっ、と大きな音を立てて扉が開けられたと同時に、少し怒っているような彼女の声が聞こえた。
思わず飛び上がる。飛び上がって、扉に視線を向けて固まった。
強い目をした彼女が、大股でこちらへ歩いてくる。怒っているような、拗ねているような顔をして目の前まで来ると、躊躇う事なく体を持ち上げた。

「私は、あと何回、その明日こそを待てばいいのっ!」
「え、えと……え?」
「君が人間じゃない事くらい、ずっと前から知ってるの!負けそうになる度に耳としっぽが出てくるんだから、誰でも気づけるって」

前足の下に手を入れて持ち上げられたせいで、後ろ足がぷらぷらとして落ち着かない。
なんて、現実逃避をしたくなるくらいの事実に、思わず泣きたくなる。恥ずかしすぎて逃げてしまいたいというのに、けれども彼女の勢いは止まらない。

「驚かそうって、さよならしてから少しして部屋に忍び込んだ時なんか、今みたいに狸の姿で呑気に寝ててさ。それで寝言で好きって言ってるのも知ってるんだからね」
「あ、あ、やだ……うそ」
「嘘じゃない!何だったら、その後からずっと、明日こそっていう言葉を聞いてから帰ってるんだから……で?私をいつまで待たせる気なの?」

がくがくと彼女の感情のままに揺さぶられる。その気持ち悪さよりも、何もかもを知られていたという衝撃に、目眩がしてきた。
狸でよかった。状況は悪くなるばかりで、彼女の怒りも収まるどころか高まっていく一方だ。それでも人間の姿では真っ赤になっているだろう顔が、見られないのはせめてもの救いだった。
それすらも現実逃避でしかないのだけれど。

「私だってね、女の子なの!好きな子にそう思われてるって知って、期待してるんだけど!?本当にいつまで待たせるのよ!」
「あ、う……ごめん、ごめんね。だから」
「じゃあ、言って。今すぐ、ここで。私の前で告白して」

揺さぶる腕が止まり、彼女と真正面から視線を合わせられる。逸らしたくはなるけれど、逸らしてしまったらもう彼女とは一緒にいられないだろう。
落ち着くために深く呼吸をして、彼女の怒りながらも悲しげな目を見つめた。
そこでようやく、彼女を悲しませているのに気づく。意気地のない自分を叱咤して、もう一度呼吸をしてから口を開いた。

「えっと……実はね、僕は狸なんだ」
「うん。知ってる」
「それで。えっと……君が、好き。です」

最後の方は、声が震えてしまっていたが、はっきりと告げる。ようやく、告げられた。
ふっと、彼女の表情が緩み。でもすぐに眉を寄せ、睨まれる。

「駄目。やり直し。何かきゅんとしない。散々待たせたんだから、もっと言って」

え、と間抜けな声を上げ、慌てて身を捩る。彼女の腕から下りて、人間の姿に変わった。
腕を上げて灯りをつける。恥ずかしいけれど仕方がない。それよりも彼女を悲しませる事の方がよっぽど嫌だから。
何度も夢の中で練習したように、彼女の両手を握り目を合わせる。

「君が好き。僕と付き合ってほしい」

真剣に、思いのすべてを込めて告げる。
彼女の頬が段々と赤くなる。それを可愛いなと見ていれば、握った手を解いて、彼女に抱きつかれた。

「遅い!でも、合格……私も、大好き」

予想していなかった答えに、一瞬で顔が熱くなる。
どうすればいいのか分からない手が宙を彷徨って、そしてそっと彼女の背に回す。
くすくすと笑う声。頬に触れた熱に、今にも倒れてしまいそうだ。



その後。
暗くなった夜道を一人で帰らせるのが嫌で、二人手を繋いで彼女の家へと帰り。
何故か言いくるめられ。狸の姿ではあるものの、彼女との同棲が始まった。

「女の子って、怖い」
「失礼な事言わないで」

彼女の家に来てから、一回も勝てない勝負に溜息を吐く。
彼女はやっぱり強い。勝ち負けなんて、始まる前から決まっていたようだ。

「勝ち負けよりも、楽しいか楽しくないかじゃない?今はまだ、ちょっと怒ってるから手加減しないけど」
「本当に怖い……でも、そんな所も大好き」

楽しそうに笑う彼女の顔が赤くなる。
そして赤くなりながらも、真っ直ぐに目を合わせて。

「私の方が好き。最初から……あの廃墟でずっと手を繋いで、怖いのから守ってくれた時からずっと好き」

真剣な表情で告げられて、意味を持たない声が漏れた。



20250531 『勝ち負けなんて』

5/31/2025, 1:29:12 PM

楽しそうな笑い声が、風に乗って駆け抜けていく。
赤や紫、白の花が咲き乱れる庭を過ぎて、テラスへと向かう。

「――少女ははらはらと涙を流しながら、神様へと手を伸ばしました。忘れる事を怖がり、残った家族や神様から逃げ続けていた少女は、ようやくすべてを受け入れる覚悟が出来たのです」

柔らかな声音。白いテーブルでたくさんの子供達に囲まれながら、誰かが絵本を読み聞かせていた。

「こうして可哀想な少女は、助けてくれた神様と家族と共に、いつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」

本は閉じられ、物語が終わる。
もっととせがむ子供達に、彼女は優しく微笑んで。

「また明日」

お決まりの言葉を囁いた。





懐かしい夢を見た。
苦笑して体を起こす。いつもと変わらぬ暗い部屋に視線を巡らせてから、ゆっくりと立ち上がる。
幸せだった幼い頃の夢を見たせいか、やけに体が重く感じられる。温かな優しさなど、夢の中だけの幻だと自分自身に言い聞かせる。ここが現実だ。最後には覚めてしまう夢に逃げても、何の意味もない。
そういえば、と身支度を整えながら思う。他の皆は、今どうしているだろうか。
元気でいてくれればそれでいい。あの場所は寂しくて悲しい子供達が辿り着く場所だと教えられたが、だからこそ幸せを願ってしまう。皆の面倒を率先して見てくれたあの子は特に。
優しい子だった。子供達の中で一番年上だった事もあってか、家の主だった彼女の隣にいつもいた、落ち着いた子。部屋や庭の隅ですべてを拒んで蹲る自分に、手を差し伸べてくれたのは彼女の他にはあの子だけだった。
あの子の優しさや暖かさに何かお礼がしたくて、あの時一番大切だったものをあげた。それが何か、もう覚えてはいない。けれど驚き目を見張り、そしてふんわりと笑った顔は今も褪せずに覚えている。

――もしも……。

差し出された小指。お礼として交わした約束は、はたして何だっただろうか。
頭を振り、過去の残滓を散らしていく。
今更過去には戻れない。夢に縋っても空しいだけで、意味はないのだから。

「過去は戻らない。明日が来るとも限らない」

呟いて部屋を出る。
自分に出来るのは、今日を足掻いて過ごしていく事だけだ。





「ねぇ」

夕暮れ時。家に帰る途中で声をかけてきた幼い少年は、どこか恥ずかしそうにしながら、手にした小さな石を差し出した。

「えっと……」

白くて丸い、綺麗な石。それは少年にとって大切なものではないのだろうか。差し出されたものの、受け取って良いのか躊躇する。

「おにいさんが渡してって」
「お兄さん?」

益々困惑する。同級生か誰かの弟なのだろうか。だがそもそも何かを貰うまでの、友人と呼べる人は自分にはいない。人違いではないだろうか。
少年は少し首を傾げて、石を受け取るのを待っている。伝えるべきかを悩み、声をかけようとして。

「まだ痛くて寂しいのなら、どうぞって」

そう言ってはにかみ、固まる自分の手を取り石を乗せた。

「――ぁ」

石から伝わる温もりに、忘れていたすべてを思い出す。
あの子への贈り物。あの時の自分が唯一渡す事の出来た、まだ優しかった家族との思い出の宝物。その時、あの子は一つの約束をくれたのだ。

――もしも、大きくなっても痛くて寂しいままだったら。本当の意味でこの場所に来てしまう事になったら、僕が代わりに幸せにしてあげる。それまでには、ちゃんと跡を継いでみせるから。

柔らかな、優しいあの子の声を思い出す。指切りをした小指が、あの日の熱を持ち始める。

「約束したんでしょ?だからおねえさんもいっしょに行こう」

石を持つ手とは反対の手を引かれ、少年と共に歩き出す。幼い頃に迷い込んだ、あの場所へ行くのだろう。

「おねえさんは特別だって。明日は続かないけど、痛くて寂しくならないのはいいなぁ。ぼく、すごく嫌だったもん。ごめんなさいしても、やめてって言っても終わらなくてね……だからおねえさんは良かったね」

無邪気に少年は笑う。心から喜んで、早く行こうと手を引いた。
寂しくて悲しい子供達の魂が集う場所。眠りにつく前の一時の安らぐ場所に向かい、段々に足が速くなっていく。
幼い頃に迷い込んだ時は、命は細い糸一本で辛うじて繋がっていた。あの時切ってしまおうと思っていた糸を留めて現に戻ったのは、あの子が約束をくれたからだ。これから先も変わらないと理解して、あえてその約束を糧に今までを生き抜いてきた。
今日で終わるはずだったのか。まぁ確かに、節目の日ではあったのだろう。
今日は姉が死んだ日だ。そして丁度自分は姉と同じ年になった。彼らの心はやはり、耐えきれなかった。

「おねえさんは、絵本読むの上手?おにいさんはちょっとだけ下手なの。上手なら絵本を読んでほしいな」

期待に満ちた目で見上げられて、どう答えるべきかを思案する。頭を過ぎていくのは、テラスで絵本を読んでくれた彼女の事だ。
彼女ではなく、あの子が絵本を読んでいるのならば、正しく代替わりが行われたという事だろう。
あの子は、約束をすべて叶えてくれたのだ。

「――絵本を読んだ事がないから、上手かどうかは分からないな。でも向こうに行ったら、好きな絵本を読んであげる」
「ほんとっ?約束だよ!」

眼を輝かせて念を押す少年に、小さく笑って頷いた。
やったあ、と飛び跳ねてはしゃいで、逸る気持ちにとうとう駆け出していく。無邪気な姿を微笑ましく思いながら、手を引かれるままに駆け出していく。
街を横切り、裏路地を通り抜け。木々の合間を抜けていく。
現が終わる事に悔いはない。今はただ、終わりの先に続いた温もりが、泣いてしまいそうなほどに嬉しい。あの子とした約束が与えてくれる、奇跡のような優しさが愛おしい。
森を抜け、色とりどりの花が咲き乱れる庭を過ぎていく。
テラスに佇む青年が、こちらに気づき振り向いた。
懐かしい面影を宿した彼。柔らかく微笑んで、軽く腕を広げた。
少年は手を離す。けれども足は止まらずに。
成長した彼の腕の中へと、飛び込んでいく。





楽しそうな笑い声が、風に乗って駆け抜けていく。
赤や紫、白の花が咲き乱れる庭を過ぎて、テラスへと向かう。

「――こうして少女の物語は終わりを迎えました。ですがその次のページに、誰かがこっそりと続きを書き込んだのです。暖かな、光溢れる物語を」

たくさんの子供達に囲まれながら、テラスに座り絵本を読む。
不意に抱き上げられて、彼の膝の上。柔らかく微笑む彼の唇が、額に触れて思わず声が上がった。

「そして少女は、約束を交わした青年と皆に囲まれて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
「おねえさんの邪魔しちゃダメ!」
「せっかくいいところだったのに、終わらせないでよ」
「おにいさん、大人気ないー」

子供達の不満もに気にせず本は閉じられ、物語が終わる。
もっととせがむ子供達に、ごめんねと微笑んで。

「また明日」

お決まりの言葉を囁いた。



20250530 『まだ続く物語』

5/30/2025, 11:36:00 AM

アラームの音で目を覚ます。
ベッドサイドに置かれたデジタル時計。示された時刻と共に今日の日付を確認するのは、もう習慣になってしまった。

――五月三十一日。

変わらない日付。
いつからだったかは、覚えていない。感覚的にはもう一ヶ月以上経っている気はするのに、六月が訪れる気配はない。
小さく息を吐く。繰り返す一日に泣いて悲しむ気持ちは大分前になくなった。あるのは諦めと、一欠片の希望だけだ。
時計の時刻を確認する。
あと十三分。母が起こしに来る前にと、ベッドから抜け出し身支度を整えていく。
決まった時間に同じ言動を取る周囲は、きっと今日も同じだろう。



同じ行動。同じ台詞。
繰り返し過ぎて一字一句まで覚えてしまった授業を聞き流しながら、今回はどうするかを考える。
前回は確か、街の図書館で何か手掛かりはないかを探したのだったか。その時に確か、時間や空間を自由に行き来できる渡り鳥の伝承を見つけたはずだ。
だから今回は、その伝承のある山へと向かおうと、そこまで話していた事を思い出した。
ちょうどタイミングよく、教室の戸を叩く音が聞こえた。視線を向ければ、にこやかに手を振る彼女の姿。同じように手を振り返し、立ち上がる。
授業中だというのに誰も、教師ですらも反応を示さない。まるで今日という一日が、舞台の中の出来事のようだ。
薄寒い気持ちになりながら、早足に教室を出た。



「伝承にある山ってこの近くなんだ」
「本にはそう書いてあるね」

彼女と二人、本を確認しながら歩いて行く。
すれ違う誰もが、やはりこちらを気にかける様子はない。彼女も周りを気にかける事もなく、本に視線を落としたまま少し前を歩いている。
彼女はとても不思議な人だった。諦めて、ただ受け入れるばかりの自分に、手を差し伸べた彼女。自分と同じように、一日を繰り返している事に気づいているのに、それに動じた様子は一度も見た事はなかった。

「渡り鳥、かぁ……そんな話、一度も聞いた事はなかったけどな」
「人間が求めるものによって、呼び方が変わるからね。それに普通の妖と違って、人間の望みに応えなければ存在出来ないって訳でもないから、人間に関わろうとするモノも少ないし」
「そうなんだ……随分、詳しいんだね」

そこまで詳しく、本に書いてあっただろうか。込み上げる違和感に少しだけ距離を取り、彼女の背を見つめた。

「そりゃあね。いつも見てたし」

そう言って彼女は立ち止まり、振り返る。
一つ遅れて立ち止まり。彼女の言葉に驚く自分に肩をすくめ、どこか寂しげな目をして彼女は笑った。

「君もそうだろう?遠い昔に、いつも会っていたじゃないか」

会っていた。彼女の言葉に記憶を辿るものの、思い出せるものはない。

「――知らない。会った事なんてないよ」

首を振って否定すれば、彼女はより一層悲しい目をする。
手にした本を宙に放り投げて、空を見上げながら、だろうねと呟いた。

「今の君になるずっと前の事だ。一番最初の、まだ何もなくしていない時の君の話だよ」

少し、昔話でもしようか。
そう言って、彼女は空を見上げたまま、語り出した。



空の彼方。人間には認識されないどこかに、渡り鳥の集まる木があった。
自由を好む鳥が、羽を休めるために気まぐれに訪れる、そんな場所。それでも人間の集落のような、いくつかの群れが互いに支え合う事で、そこは保たれていた。
いつの頃からか、姿を見せなくなった鳥が現れるようになった。一羽、また一羽と姿が消えていく。皆が不安に思い、互いに不信感を抱くようになったある日、その事件は起きた。
とある小さな渡り鳥が、いくつかある群れの中でも強い力を持つ年若い鳥に怪我を負わせた。幸い一命を取り留めたその鳥は、襲った鳥こそが全ての元凶だと証言した。
曰く、姿を消した鳥達は皆、その小さな鳥に喰われてしまったのだ、と。

「もちろんその話を信じないモノもいたんだよ。例えば、その子の姉さんとか。その子が慕っていた鳥とかね……でも信じたモノが殆どで、訴えた鳥の影響もとても大きかった」

歌うような彼女の囁きは、とても静かだ。彼女が何を思っているのか。声だけでは分からない。

「結局、その襲った鳥は翼を捥がれて追放された。それが渡り鳥達の最初の誤りだ」
「誤り?」
「そう。間違っていたんだ。襲われ、訴えた鳥の歪さに気づけなかった。気づこうともせず……あの子が何を守ったのかを知ったのは、襲われた鳥の怪我が悪化した時。あの子が追放された後の事だよ」

彼女は語る。その襲われた鳥が痛みと熱で弱っていった末に、何をしたのかを。
鳥の傷は一向に良くならず。次第に意識が混濁するようになった。幻覚にうなされ、叫び声を上げて。
そして、ある晩。
鳥は自身の群れの中の一羽に襲い掛かろうとした。側にいたモノらにすぐに取り押さえられ、大事には至らなかったが、鳥は憎悪に顔を歪め叫んだ。

――俺に寄越せ!その肉を、力を。俺の代わりに、お前が消えてしまえ!

そこにいる誰もが、鳥の言葉の意味が分からなかった。その意味を知ったのは、翌朝の事だ。

「その鳥はね。普通の妖のように、人間の望みに応えて認識してもらわなければ、存在を保っていられなかったんだ。けどその鳥はプライドが高くて、人間の望みに応える事を嫌がった……その代わりに、他の鳥を食べて存在を繋いでいたんだよ」

彼女の視線は空から離れない。
どこか遠く、もしかしたらその木のある方を見ているのかもしれない。

「――その鳥は、どうなったの?」
「翼を折られ、羽を毟られて。その代わりに、存在を繋ぎ留められる術を施されて、木の根元に繋がれたよ。今もきっと、繋がれたままだろうね」

皮肉だよね、と彼女は笑う。
あれほど消える事を恐れていたのに、繋がれてからはずっと消えたいと泣いているのだから。
そう呟く彼女は、笑っているはずなのに、泣いているように見えた。

「――ある一羽の鳥がいた。追放された鳥とは親友で、そしてすべてが明らかになるまでは、家族を傷つけた憎い敵だった」
「親友……敵……」
「そう。そしてすべてを知ってから、その鳥は追放された子を探しに出た。謝りたかったのか、ただ会いたかっただけなのか。今となっては分からないけど、色々な所を探し続けて……ようやく見つけたんだ」

見つけた。そう彼女は言うものの、彼女の声音は悲しげだ。

「その子は翼を捥がれても消えなかった。人間に混じり、必死で生きていたんだよ」
「じゃあ、謝れたの?」

いや、と彼女は首を振る。
空から視線を逸らして、こちらを見つめ。
泣くように笑った。

「声をかける事が出来なかったんだ。遠くから姿を見て、離れた。もう少しだけ勇気を持てたなら、謝ろうって。またいつでも会えるからって呑気に考えて……それが取り返しのつかない誤りだって、気づきもしないで」
「それって……」
「渡り鳥の最大の誤りだ。その子を失って、保たれていた集落は崩壊した。今も木は残っているけれど、残っているのは繋がれたままの鳥と、その群れくらいだ」

伸ばされた手。一瞬だけ躊躇して、戸惑うだけの自分の頬に触れる。

「何も残らなかったんだ。二度と空には還れず、無慈悲に奪われて深い水の底に沈められて。欠片一つ掬い上げる事も出来なかった」
「それは……あなたの話?」

迷いながらも、辿り着いた一つの可能性を口にする。
でも分からない。彼女が渡り鳥だとして何故、彼女は自分にこんな話をするのだろうか。

「そうだよ。これは俺の話であり……君の話でもある」

柔らかく、切なく細められた目に見つめられ、頬に触れていた手が肩に触れそのまま引き寄せられる。

「そん、なの……そんな事、知らない」

首を振り知らないと告げても、彼女が離れる気配はない。
宥めるように背を撫でられて、君の話だ、と繰り返す。

「過去へと渡っても、一度起きてしまった事は変えられないんだ。だから君が再び渡り鳥として戻ってくるのを待っていた……でも君は人間として生まれた。人間として生きて、そして」
「やめて……お願い」

聞きたくないと願っても、逆に背に回った彼女の腕に力が込められるばかりで止められない。
縋るように肩口に額を押し当てて、小さく呟いた。

「君は同じ歳、同じ日に、必ず俺の前で消えていく。手を伸ばしてもすり抜けて、その命を零して……何度も何度も、俺の目の前で」

背に回る腕が震えている。痛いくらいに抱きしめられて、どうすればいいのか分からない。

「俺、たくさん考えたんだ。どうすれば君を失わずにすむのか、生きてくれるのか……それで思いつけたのは、失う日が来る前を繰り返す事だった」
「――じゃあ、これって」
「そうだよ。俺が繰り返してるんだ」

そう言って、彼女は顔を上げて笑う。涙に濡れた目が揺らいで、彼女の姿も揺らいでいく。

「俺は兄さんの妹なんだ。兄さんと、目的のために手段を選ばないような歪な鳥と同じ血が流れてる……これしかないって思った時、私から俺になるって、そう覚悟した」

揺らぎながらも、強さを湛えた目。覚悟を決めた目から視線を逸らして俯いた。
彼女の目を見続けていたら、もう戻れない。そんな気がして怖かった。

「俺が怖い?」
「怖くない」
「無理しないでいいよ。同じ日を繰り返して壊れそうになってたのは、近くで見ていたんだからよく知ってる」

優しい声音。
じゃあなんで、と尋ねる声は、笑えるくらいに震えていた。

「――そろそろ日が暮れるね」

疑問の答えの代わりに返された、彼女の静かな言葉。
思わず顔を上げれば、いつの間にか空は茜に染まっていた。

「今回はこれくらいにしよう。この繰り返しの元凶が渡り鳥だと知ったんだから、次回は何をすればいいか分かるよね?」

首を振る。
これ以上何も分かりたくなどなかった。

「渡り鳥が元凶なんだ。その渡り鳥を従える方法を探さないと。従える事が出来たなら、命じるだけで、明日が来るよ」

けれど彼女は容赦なく、進むべき道を突きつける。

「そして明日が来たら。その時がきたら、渡り鳥を身代わりにする。それで何もかもが終わるよ。忌まわしい鳥に煩わされる事なく。日々を送れるんだ」

それが唯一正しい方法だと、彼女は疑わない。
彼女にとっての最良が、自分にとっても最良なのだと信じて笑い、最後に強く抱きしめてられる。

「また、次でね」

手を離した彼女が、渡り鳥となって空へと鳴きながら飛び去っていく。
今更手を伸ばしても、届かない。黒に染まる世界に呑まれながら、目を閉じた。
ぐにゃり、と何かが歪む感覚。今日の終わりから始まりへと、渡るのだろう。
鳴き声を上げた。彼女に気づかれぬように、小さく微かに。
何かが自分の中から抜けていく。目を開けて、その何かを見据えた。
翼を捥がれた見窄らしい鳥。けれどその目には強い意志を宿した。
この渡る瞬間にだけ認識出来る、一番最初の自分の欠片。
何も言わずとも、何をすべきかは分かっている。お互いに頷いて、鳥は彼女を追って去っていく。
彼女を守るために。
そのために、自分はあの日、空を捨て彼女に憎まれる決意をしたのだから。

鳥を見送り、目を閉じて意識を沈めていく。
遠く、アラームの鳴る音が聞こえ。

そしてまた、今日が始まる。



20250529『渡り鳥』

5/29/2025, 11:20:56 AM

「こんな所で、いつまでも何をやっている」

溜息と共に吐き出された言葉に、砂を掬う手を止める。
だがすぐに砂の中へと手を差し入れて、真白い砂を掬い上げていく。

「思い出を掬い上げる練習」

小さく呟いて、零れ落ちていく砂をただ見つめた。
さらさらと、指の間から零れ落ちる砂。まるで記憶のように、どんなに掬い上げても隙間から零れ落ちていってしまう。

「くだらないな」

吐き捨てて、背後の彼が近づいてくる。それを気にも留めずにいれば、頭に強い衝撃を感じた。

「痛っ……何、急に」
「貴様がいつまでも動かぬのが悪い」
「だからって、殴る事ない……」

文句を言いながら背後を振り返り。さらに続けようと下言葉は、けれど彼の静かで強い目に、勢いをなくしてしまう。
怒っているわけでも、心配しているでもない。ただ自分の心の内を見透かすような、真っ直ぐな眼差し。言葉の真意を求める目から逃れるように、視線を逸らした。

「今度は何だ。喧嘩でもしたか」
「そんなんじゃない。ただ……」

言いかけて、口を噤む。何を言えばいいのか、分からなかった。
忘れてしまう事が悲しい。
言葉にしてしまえば簡単だ。けれどその一言だけでは、何一つ伝えたい事は伝わらない気がしていた。
手の中に僅かに残る砂に、視線を落とす。それが忘れたいもののいくつかと重なって見えて、か細い声が唇から溢れ落ちた。

「なんで、忘れてしまうの?忘れたくなんてないのに」
「阿呆か。そんなくだらん事でうじうじとしていたとは」

はぁ、と重苦しい溜息。そして容赦のない二回目の拳骨が降ってきた。
痛みに閉じた瞼の裏で星が散る。思わず頭を抑えて蹲れば、まったくと呆れが滲む声と共に、頭をそっと引き寄せられた。

「忘却とは、人間が生きるための大切な手段だ。忘れなければ、貴様の小さくて軽い頭はとっくに壊れてしまっているだろうよ」
「でも、それならなんで……」

頭を抱かれ優しく撫でられながら、なんで、を繰り返す。
なんで、忘れたいものを選べないのか。
なんで、忘れたくないものほど最後まで残ってしまうのか。
頭の痛みによるものではない涙が込み上げて、呼吸が乱れていく。泣かないようにと必死で目を瞑り、呼吸を整えていれば、頭を撫でる手が一層優しくなった。

「人間は忘れる生き物だ。魂に刻み込まれるほど強い記憶でない限りは、いずれ忘れてしまうだろう。過去に縋るすべてが悪とは言わんが、生きていく限りは手を離すべきだ」
「――でも……怖い」

こうして彼の優しさに包まれている間にも、何かが零れ落ちていく気がして首を振る。さらさらと見えない砂が落ちていく音が聞こえるようで、それが怖くて声を上げた。

「なんで……父さんや母さんの顔がもう思い出せない。兄弟がいたはずなのに、それが誰なのかさえ分からない。分からないはずなのに、すべてをなくした悲しさや寂しさだけが残って……それが、とても苦しい」
「――あの阿呆共め」

苦さを含んだ呟き。冷え切った響きに、肩が震えた。
恐る恐る開けた目は、けれども彼に塞がれて。

「帰るぞ。その苦痛は、記憶を無理矢理剥がされた故に生じたものだ。帰って事を起こした阿呆共を締め上げれば、苛む苦痛も恐怖も和らぐだろう」
「帰る……?」
「まったく、どいつもこいつも面倒ばかり起こしよって……ほら、早くしろ」

そうは言えど、目は塞がれたまま。
どうすればいいのか分からず、ぼんやりと彼に凭れていれば、何度目かの溜息を吐かれ。
三度目の、強い衝撃を頭に感じたのを最後に、意識が真っ黒に染まった。





「――っ……痛いってば!何度も叩かなくてもいいだろっ」

叫んで飛び起きる。

「……あれ?」

側にいたはずの彼の姿はどこにもない。それどころか外にいる訳でもない事に、目を瞬いた。
視線を巡らせる。見慣れた畳敷きの室内。飛び起きた時に跳ね飛ばされた布団が視界の隅に見えて、あれ、と間抜けな声が漏れた。

「――夢?」

ゆっくりと頭に手を当てる。意識が飛ぶほどの痛みはなく、え、とやはり間抜けな声が出た。
どうやら本当に夢を見ていたらしい。一度夢だと認識してしまえば、途端に記憶が薄れていく。
さらさらと、砂が零れ落ちるように。水が流れていってしまうように。
思わず苦笑する。現であれだけ彼に叱られているというのに、夢の中でも彼に叱られるとは。
深く息を吐き、頭を振って記憶を散らす。これは零すべき記憶だ。意識を逸らそうと、耳を澄ませて外の音に聞き入った。
雨の音。しとしとと、さらさらと細かな雨が降り続いているのが聞こえる。そろそろ梅雨入りの時期であるのを思い出した。
あぁ、そう言えば。ふと思い出しかけた記憶の欠片。けれども近づく荒い足音に零れて、意識の端へと落ちてしまう。


「おい。いつまで寝ているつもりだ」

すぱん、と小気味良い音を立て、襖が開けられる。遠慮の欠片もない行為に文句を言うより早く、布団から出て片付けをし出すのは、悲しいほどに身についてしまった習性だ。

「今回の元凶を連れてきてやったぞ」
「元凶?」

どさり、と重たい音。
布団を片付けながら視線を向ければ、畳に転がる子狐が三匹。皆ぼろぼろで、頻りにごめんなさいを繰り返していた。

「え?どういう事?」
「なんだ。それすら忘れたか」

腰に手を当て半眼で睨み付ける彼に、慌てて記憶を手繰り寄せる。
眠る前の記憶。夢の中の記憶。思いつく限りを考えて。

「――あ。記憶」

ひとつ、思い浮かぶ。
夢の中。酷く曖昧ではあるが、苦しくて怖い思いをしたのを思い出す。
零れていくものを繋ぎ止めようと踠いて、繋ぎ止められず。彼に叱られて、それでも怖いと泣いていた。

「聞けば、元は貴様が過去を悔やんでいたというではないか。それを根こそぎ引き剥がした事は到底許せるものではないが、貴様も同等かそれ以上に反省しろ」
「過去を、悔やむ?」

記憶にはない事に困惑する。
子供の頃とは違い、過去を悔やんだ所で意味はない事を知っている。それなのに、悔やまずにはいられなかった過去とは、何だったのか。

「お花を……あげれば、よかったって……」
「寂しそう、だったから……」
「だから……ない方が、いいかなって……ごめんなさい」

控えめに説明する子狐達に、眉を寄せながら記憶を手繰る。
花。送りたい相手。あげれなかった後悔。
そう言えば、と心当たりを思いながら、深く考えずに口を開く。

「今回も、母の日に花一つあげられなかったって、ついぼやいたっけ」

家のすべての管理を行い、自分の世話まで焼く彼に何も出来なかった事を、悔やんだのだったか。
思い出せた事に安堵して。だが同時に、不用意な事を口にした事に気づき、後悔した。

「ほう?その母の日とやらに花を贈りたかった相手というのは、まさか俺様ではあるまいな?」
「あ、いや。その……」

引き攣る笑みを浮かべながら、彼に視線を向ける。
笑顔だ。笑っているというのに、彼の目は鋭くこちらを見据えて怒りを露わにしている。
だが、その怒りはすぐに鳴りを潜め。呆れを滲ませた溜息と共に、解けていく。

「まあいい。貴様が阿呆である事は、昔から変わらぬのだからな」
「阿呆言うな。あと、別に母親みたいだなんて思ってもないから」

思わず言い返すも、彼は当然だと鼻で笑う。

「俺様に感謝の気持ちがあるのならば、花を贈るよりもまず、規則正しい生活を送る事だ。夜更かしも、好き嫌いも、改善する努力をしろ」

そう言って、彼は踵を返し部屋を出る。

「……努力は、してる」

見えなくなった彼の背にそう呟いて、子狐達の側に寄る。
ぼろぼろではあるものの、怪我はないようだ。最初から分かっていた事ではあるが、ほっと息を吐く。

「ごめんな。巻き込んで」

子狐達の頭をそれぞれ撫でながら、小さく呟いた。
手ぐしで毛並みを整えながら、外の音に耳を澄ます。
しとしとと、さらさらと、雨はまだ降り続いている。零れ落ちていくものを嘆くように。
今外に出て手を伸ばせば、掬う事は出来るだろうか。そんな幻想を抱きながら、何を掬いたいのかを考える。
帰らぬ幼い日の温もりか。はたまた無力だった自分自身か。
意味のない事。過去に縋る時間があるのならば、前を見なくては。同じ事を繰り返さないためにも。
自嘲して、いつの間にか眠ってしまった子狐達をそのままに部屋を出る。
どこからか感じる、いくつもの心配そうな視線を感じながら、大丈夫だと笑ってみせた。



20250528『さらさら』

5/27/2025, 10:21:26 PM

「これで最後だ」

冷たく吐き捨てられた言葉に、唇を噛みしめる。
結局、最後まで敵わないのか。
けれど最後くらいはと歯を食いしばり、震える足に力を込めて立ち上がる。

「根性だけは認めてやろう」
「よく言う。思ってもないくせに」
「嘘ではない。嘘をつくのは、いつでも人間の方だろう」

だろうな、と心の内で同意しながら、自分がここにきた理由を思い返す。

――目の前の男を、本家の当主の元まで連れて行く。

ある日突然に命じられた事。
意味が分からなかった。今まで本家との関わりなど正月や盆の集まりくらいしかなかっというのに。
けれど従うしかなかった。それ以外の選択肢は、本家へと連れられた時点で奪われていた。
この男を連れて行かなければ、家族の命は保証されない。

乱れた息を整えながら、目の前の男に集中する。
男の右手に握られた赤い紐。その先に結ばれた真鍮の鈴を取れば、自分の勝ちだ。
男が提示した勝負。だが男の言うとおり、これが最後だ。
男が言葉にしなくても、自分にはもう男と張り合うだけの力は余り残されてはいない。
これで最後。
息を吸い。そして吐く。
目を閉じて。開き。

真鍮の鈴。ただそれだけを目指し。
真っ直ぐに駆け出した。





「やはり無駄だったな」

倒れ込む自分を見下ろして、男は無感情に呟いた。
目の前で揺れる鈴。手を伸ばせど、やはり届かない。

「まあ、暇つぶしにはなったか」

暇つぶし。自分のすべてで挑んだというのに、男にとっては余興の一つでしかないのか。
荒い呼吸を繰り返しながら、目だけは男を睨み付ける。悔しさに滲み出す視界を、血が滲むほど強く唇を噛む事で必死に耐えた。
泣いている時間はない。男を連れて行けぬ以上、一刻も早く戻り家族を助けなければ。

「なんだ。お前、もしかして今更戻れるとでも思っているのか?」

さも意外だと言わんばかりに、男は目を瞬き問いかける。男と対峙して、初めて聞いた感情の乗った声。だがそれよりも男の言葉の意味が気に掛かった。

「どういう、意味……?」
「お前は俺との勝負に負けたのだろう?ならば、お前は俺のものだ……まあ、もとよりここに来た時点で、お前は俺のものではあるがな」

何を言っているのか。意味を理解しかねて眉を潜めれば、首を傾げた男が何かに気づき笑う。

「ああ、何も知らされていなかったのか。可哀想にな」

無邪気に笑いながら、男は膝をつく。未だに動けない自分の頬を包み、逆さに目を合わせた。
男の炎のように揺らぐ深紅の目が、自分の内側を暴き立てていく。そんな不快な感情が込み上げ、逃れようとするも、体は縫い止められたように動かない。目を逸らす事も、閉じる事も出来ずに、次第に涙の膜を張り出した目から一筋滴が零れ落ちた。

「なるほど、家族のため……健気なもんだ。騙されているとも知らずに、なんて哀れなんだろうか」
「――っ、やだ」
「お前は帰れない。この俺に捧げられたのだから……だが、そうだな。あれらに契約の重さを知らしめる、いい機会かもしれんからな」

揺らぐ視界で男が笑う声がする。動かぬ体に必死に力をいれ、腕を伸ばして頬を包む男の手に爪を立てた。

「っと。痛いだろう。まったく、子猫じゃああるまいに……だがその頑張りに免じて、一時家に帰してやろう」
「ほ、んと、に……?」
「嘘はつかんと言っただろう」

蠱惑的な囁きに、腕の力が抜けていく。
男の顔が近づいて、深紅が意識を解かし始める。男と、自分と。境界が曖昧になっていく。

「小娘。その体、少しばかり借りるぞ」

深紅が揺れる。
男の言葉を最後に、記憶は途絶えた。





部屋一面を染める、深紅の華。
その中央で、一人の少女は老人を前に微笑んだ。

「口約束とはいえ、契約は守らなければな。でなければ道理が歪んでしまう」

がたがたと震える老人を、少女は気にかける事もせず。小首を傾げ、そもそも、と少しばかり呆れを乗せて呟いた。

「守られぬ事を前提とした約束はどうかと思うぞ。こうして予想外な事象が起きた時に、こうして契約不履行で痛い目を見るのはお前らの方なのだから」

幼い子を窘めるような口調で、だが老人へと向けられた右手は床で咲き乱れる華のように深紅に染まっている。
近づく手に、さらに老人の震えは激しくなり。意味の伴わない呻きを断続的に上げながら、腕を持ち上げその指先は一点を示した。
その先には、古い蔵。暫し蔵を見つめていた少女は、ああ、と小さく呟いて、困ったように頬を染めて笑った。

「まあ、なんだ。誰にでも間違いはある、というやつだな。それに数も足りない。両親と上に二人ほどいたはずだが、それはどうした?」

老人は何も言わない。必死で首を振りながら、命乞いを繰り返している。
それをどこか冷めた目で見つめながら。少女はそうだな、と優しい笑みを浮かべて、老人へと手を差し出した。
安堵に老人も笑みを浮かべ。

「約束した者。契約者が絶えれば、約束自体もなくなる。それに娘を捧げた際の儀を誤っていたのだから、結末は変わらない。あまり気にする事でもなかったな」

老人の笑みが凍り付く。
差し出された少女の手が、老人の顔を掴み。

またひとつ、部屋に深紅の華が咲いた。



「さて」

静寂が満ちた部屋を出て、少女は先ほど老人が示した蔵へと向かう。
蔵は堅牢な錠で閉じられていたが、少女にとっては意味のないものだ。軽く右手で触れただけで、錠は粉々に砕け地に落ちた。
蔵を開け、中へと足を踏み入れる。灯りはなくとも迷わずにその足は奥へと進み。
片隅に寄り添うように倒れる、二つの小さな影の前で足を止めた。

「ちょうどよかった。全員であったなら、流石に諦めていた所だった」

安堵したように笑い、少女は躊躇せずにその二つの影――二人の子供を抱え上げる。
小さな呻く声と共に、一人の子供の目が虚ろに開く。

「おねえ、ちゃん……?」
「なんだ。起きたのか」

蔵の外へと向かう足を止めず、少女は無感情に呟いた。

「お前らの姉は、俺に捧げられた。だがお前らを対価にした契約を此方で結んでいたようであったからな。たった今終わらせた所だ」
「けい、やく」
「故にお前らも連れて行く。恨むならば、ここの当主を恨む事だ」

呟く声はどこまでも冷たい。
姉の姿をしていても、姉ではないと気づいたのだろう。虚ろな視線がゆるりと閉じられ、消え入りそうな声が誰、とだけ呟いた。

「誰と尋ねておきながら、気を失ったか……まあ、聞こえていないだろうが、折角だ。答えてやろう」

呆れたように息を吐きながら、少女は笑う。

「俺は、お前達が奉っているモノだ。この屋敷の裏の山にある奥宮で奉られている古より存在する、お前らの祖先に術を授けたモノ。その時の契約で、定期的に一族を捧げる代わりに力と守護を与える、いわば神というやつだ」

くすくすと笑い声を上げながら、少女は蔵を出て山奥へと歩いていく。
その足取りは軽く。迷いもなく。

「まあ、今宵で血の濃い者らは絶えてしまったが。仕方がない事だ。約束とは契約と同意。それを違えてしまったのだから」

だからお前らも気をつける事だ。と少女は歌うように囁く。
その声はどこまでも優しく。どこまでも残酷に。
夜の静寂に解けていった。





誰かに揺り起こされている感覚に、沈んでいた意識が浮上する。

「あ、起きた」
「おはよう、お姉ちゃん」

どこか重苦しい頭を抑えながらも、弟妹におはようを返す。意識がはっきりしない。何かを忘れてしまったかのように。
「ご飯、出来てるからね」

きゃあ、と笑いながら駆けていく二人をぼんやり見送りながら、小さく息を吐いて布団から抜け出した。
布団をたたみ、押し入れにしまう。
その動作にどこか違和感を感じて、内心で首を傾げる。
部屋を見渡す。
何も変わらない。いつもの自分の部屋だ。
六畳一間の、自分の部屋。だというのに、畳の部屋という違和感が拭えない。
頭が痛い。何かが違う。何かを忘れているはずなのに、それがどうしても思い出せない。
耐えきれず、膝をつき頭を抑えて目を閉じた。

「どうした?」

聞こえた声に、はっとして目を開ける。
部屋の扉の前で、兄が首を傾げながらこちらを見つめていた。

「――違う」

違和感。首を振り、否定する。
あれは兄などではない。兄は、兄達はあんな男ではなかったはずだ。

「ああ、やはりお前のような気の強い娘には、名付けでもしない限り認識は変えられないか」

肩を竦めながらも、目の前の男は酷く楽しげだ。ゆっくりと歩み寄る姿に恐怖を覚えて、後退る。
だが然程広くない部屋。すぐに背が壁に触れ、逃げる事も出来ずに距離を詰められる。

「こないでっ」
「俺と対峙していた時の威勢の良さは、すっかりなくなってしまったな……うん、そうだな。やはりしばらくは名付けずに、お前の踠く様を楽しもうか」

そう言って、男は膝をつき腕を伸ばす。頬を包まれて、揺れる炎のような深紅の目に、覗き込まれる。
目の中の怯える自分が、男の目の中で解けていく。違和感も恐怖も、何もかもが解けて、境界が曖昧になっていく。

「――ぃや、なんで……」
「たまには意向を変えてみるのも楽しいだろう?なあに、次が捧げられるまでの間だけだ。たったの五十年ほど……ああ、だが。傍流の者らが同じように、俺との契約を望み捧げるとは限らないか。その時は、永遠にこのままごとを楽しもうか」

深紅が揺れる。思い出ごと記憶が書き換えられて、何もかもが変わっていく。
伏せた目から零れ落ちた滴を男に拭われ、違うと呟く声は低い笑い声に掻き消される。
助けて、と声なく願い。けれども何もかもを諦めて、解けた境界に身を委ねた。



「お姉ちゃん、遅いよ」
「もうお腹空いた」

先に食事を取るでもなく、おとなしく待ってくれていた弟妹にごめんね、と笑ってみせる。

「もしかして、泣いていたの?」

席に着けば、隣に座った弟に目が赤い事を指摘される。
やはり目を冷やしておくべきだったかと、笑って誤魔化しながら思う。大丈夫だと伝えても、納得はしてもらえないのだろう。

「少しな、寂しくなってしまったそうだ」

少し遅れて居間に入ってきた兄が、弟の頭を撫でながら教えてしまう。
内緒にしてほしいと頼んだのは、無駄だったようだ。恨めしげに見つめても、兄は笑うだけで堪えた様子はない。
兄の手から抜け出して、弟は側まで来ると小さな腕を広げて抱きついた。同じように近づいてきた妹にも抱きつかれ、ありがとう、と二人の頭を撫でる。
優しい子達だ。姉である自分がしっかりしないといけないのに、これではどちらが年上か分からないではないか。
苦笑しながら二人を撫でていれば、頭に感じる手の感触。視線を向ければ、兄が優しい顔をして頭を撫でていた。

「嘘つき」
「嘘はついていない。俺は了承してはいなかったからな……それに偽りであっても、それが正しいと認識すれば、それが真実になる」
「なにそれ?」
「ここにいる誰もが、その身を脅かされる事も、孤独を感じる事もないって事だ」
「意味が分からない」

兄は笑って首を振る。撫でていた手を離して席に着き、意地悪な顔をして二人に声をかけた。

「皆が揃ったからな。俺は食事にするが……いらないのなら、俺が二人の分ももらうぞ」
「あ、だめっ!」
「おにいちゃん、いじわるだ」

慌てて席に着く二人は、揃って手を合わせ、いただきます、と声を上げる。
今朝も随分と賑やかだ。寂しがっている暇はないだろう。
同じように手を合わせて、食事に手をつける。楽しげに笑う二人の声を聞きながら、いつもと変わらない一日の始まりに一人笑い。
穏やかな日々が、いつまでも続いていく事を願った。



20250527 『これで最後』

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