sairo

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5/30/2025, 11:36:00 AM

アラームの音で目を覚ます。
ベッドサイドに置かれたデジタル時計。示された時刻と共に今日の日付を確認するのは、もう習慣になってしまった。

――五月三十一日。

変わらない日付。
いつからだったかは、覚えていない。感覚的にはもう一ヶ月以上経っている気はするのに、六月が訪れる気配はない。
小さく息を吐く。繰り返す一日に泣いて悲しむ気持ちは大分前になくなった。あるのは諦めと、一欠片の希望だけだ。
時計の時刻を確認する。
あと十三分。母が起こしに来る前にと、ベッドから抜け出し身支度を整えていく。
決まった時間に同じ言動を取る周囲は、きっと今日も同じだろう。



同じ行動。同じ台詞。
繰り返し過ぎて一字一句まで覚えてしまった授業を聞き流しながら、今回はどうするかを考える。
前回は確か、街の図書館で何か手掛かりはないかを探したのだったか。その時に確か、時間や空間を自由に行き来できる渡り鳥の伝承を見つけたはずだ。
だから今回は、その伝承のある山へと向かおうと、そこまで話していた事を思い出した。
ちょうどタイミングよく、教室の戸を叩く音が聞こえた。視線を向ければ、にこやかに手を振る彼女の姿。同じように手を振り返し、立ち上がる。
授業中だというのに誰も、教師ですらも反応を示さない。まるで今日という一日が、舞台の中の出来事のようだ。
薄寒い気持ちになりながら、早足に教室を出た。



「伝承にある山ってこの近くなんだ」
「本にはそう書いてあるね」

彼女と二人、本を確認しながら歩いて行く。
すれ違う誰もが、やはりこちらを気にかける様子はない。彼女も周りを気にかける事もなく、本に視線を落としたまま少し前を歩いている。
彼女はとても不思議な人だった。諦めて、ただ受け入れるばかりの自分に、手を差し伸べた彼女。自分と同じように、一日を繰り返している事に気づいているのに、それに動じた様子は一度も見た事はなかった。

「渡り鳥、かぁ……そんな話、一度も聞いた事はなかったけどな」
「人間が求めるものによって、呼び方が変わるからね。それに普通の妖と違って、人間の望みに応えなければ存在出来ないって訳でもないから、人間に関わろうとするモノも少ないし」
「そうなんだ……随分、詳しいんだね」

そこまで詳しく、本に書いてあっただろうか。込み上げる違和感に少しだけ距離を取り、彼女の背を見つめた。

「そりゃあね。いつも見てたし」

そう言って彼女は立ち止まり、振り返る。
一つ遅れて立ち止まり。彼女の言葉に驚く自分に肩をすくめ、どこか寂しげな目をして彼女は笑った。

「君もそうだろう?遠い昔に、いつも会っていたじゃないか」

会っていた。彼女の言葉に記憶を辿るものの、思い出せるものはない。

「――知らない。会った事なんてないよ」

首を振って否定すれば、彼女はより一層悲しい目をする。
手にした本を宙に放り投げて、空を見上げながら、だろうねと呟いた。

「今の君になるずっと前の事だ。一番最初の、まだ何もなくしていない時の君の話だよ」

少し、昔話でもしようか。
そう言って、彼女は空を見上げたまま、語り出した。



空の彼方。人間には認識されないどこかに、渡り鳥の集まる木があった。
自由を好む鳥が、羽を休めるために気まぐれに訪れる、そんな場所。それでも人間の集落のような、いくつかの群れが互いに支え合う事で、そこは保たれていた。
いつの頃からか、姿を見せなくなった鳥が現れるようになった。一羽、また一羽と姿が消えていく。皆が不安に思い、互いに不信感を抱くようになったある日、その事件は起きた。
とある小さな渡り鳥が、いくつかある群れの中でも強い力を持つ年若い鳥に怪我を負わせた。幸い一命を取り留めたその鳥は、襲った鳥こそが全ての元凶だと証言した。
曰く、姿を消した鳥達は皆、その小さな鳥に喰われてしまったのだ、と。

「もちろんその話を信じないモノもいたんだよ。例えば、その子の姉さんとか。その子が慕っていた鳥とかね……でも信じたモノが殆どで、訴えた鳥の影響もとても大きかった」

歌うような彼女の囁きは、とても静かだ。彼女が何を思っているのか。声だけでは分からない。

「結局、その襲った鳥は翼を捥がれて追放された。それが渡り鳥達の最初の誤りだ」
「誤り?」
「そう。間違っていたんだ。襲われ、訴えた鳥の歪さに気づけなかった。気づこうともせず……あの子が何を守ったのかを知ったのは、襲われた鳥の怪我が悪化した時。あの子が追放された後の事だよ」

彼女は語る。その襲われた鳥が痛みと熱で弱っていった末に、何をしたのかを。
鳥の傷は一向に良くならず。次第に意識が混濁するようになった。幻覚にうなされ、叫び声を上げて。
そして、ある晩。
鳥は自身の群れの中の一羽に襲い掛かろうとした。側にいたモノらにすぐに取り押さえられ、大事には至らなかったが、鳥は憎悪に顔を歪め叫んだ。

――俺に寄越せ!その肉を、力を。俺の代わりに、お前が消えてしまえ!

そこにいる誰もが、鳥の言葉の意味が分からなかった。その意味を知ったのは、翌朝の事だ。

「その鳥はね。普通の妖のように、人間の望みに応えて認識してもらわなければ、存在を保っていられなかったんだ。けどその鳥はプライドが高くて、人間の望みに応える事を嫌がった……その代わりに、他の鳥を食べて存在を繋いでいたんだよ」

彼女の視線は空から離れない。
どこか遠く、もしかしたらその木のある方を見ているのかもしれない。

「――その鳥は、どうなったの?」
「翼を折られ、羽を毟られて。その代わりに、存在を繋ぎ留められる術を施されて、木の根元に繋がれたよ。今もきっと、繋がれたままだろうね」

皮肉だよね、と彼女は笑う。
あれほど消える事を恐れていたのに、繋がれてからはずっと消えたいと泣いているのだから。
そう呟く彼女は、笑っているはずなのに、泣いているように見えた。

「――ある一羽の鳥がいた。追放された鳥とは親友で、そしてすべてが明らかになるまでは、家族を傷つけた憎い敵だった」
「親友……敵……」
「そう。そしてすべてを知ってから、その鳥は追放された子を探しに出た。謝りたかったのか、ただ会いたかっただけなのか。今となっては分からないけど、色々な所を探し続けて……ようやく見つけたんだ」

見つけた。そう彼女は言うものの、彼女の声音は悲しげだ。

「その子は翼を捥がれても消えなかった。人間に混じり、必死で生きていたんだよ」
「じゃあ、謝れたの?」

いや、と彼女は首を振る。
空から視線を逸らして、こちらを見つめ。
泣くように笑った。

「声をかける事が出来なかったんだ。遠くから姿を見て、離れた。もう少しだけ勇気を持てたなら、謝ろうって。またいつでも会えるからって呑気に考えて……それが取り返しのつかない誤りだって、気づきもしないで」
「それって……」
「渡り鳥の最大の誤りだ。その子を失って、保たれていた集落は崩壊した。今も木は残っているけれど、残っているのは繋がれたままの鳥と、その群れくらいだ」

伸ばされた手。一瞬だけ躊躇して、戸惑うだけの自分の頬に触れる。

「何も残らなかったんだ。二度と空には還れず、無慈悲に奪われて深い水の底に沈められて。欠片一つ掬い上げる事も出来なかった」
「それは……あなたの話?」

迷いながらも、辿り着いた一つの可能性を口にする。
でも分からない。彼女が渡り鳥だとして何故、彼女は自分にこんな話をするのだろうか。

「そうだよ。これは俺の話であり……君の話でもある」

柔らかく、切なく細められた目に見つめられ、頬に触れていた手が肩に触れそのまま引き寄せられる。

「そん、なの……そんな事、知らない」

首を振り知らないと告げても、彼女が離れる気配はない。
宥めるように背を撫でられて、君の話だ、と繰り返す。

「過去へと渡っても、一度起きてしまった事は変えられないんだ。だから君が再び渡り鳥として戻ってくるのを待っていた……でも君は人間として生まれた。人間として生きて、そして」
「やめて……お願い」

聞きたくないと願っても、逆に背に回った彼女の腕に力が込められるばかりで止められない。
縋るように肩口に額を押し当てて、小さく呟いた。

「君は同じ歳、同じ日に、必ず俺の前で消えていく。手を伸ばしてもすり抜けて、その命を零して……何度も何度も、俺の目の前で」

背に回る腕が震えている。痛いくらいに抱きしめられて、どうすればいいのか分からない。

「俺、たくさん考えたんだ。どうすれば君を失わずにすむのか、生きてくれるのか……それで思いつけたのは、失う日が来る前を繰り返す事だった」
「――じゃあ、これって」
「そうだよ。俺が繰り返してるんだ」

そう言って、彼女は顔を上げて笑う。涙に濡れた目が揺らいで、彼女の姿も揺らいでいく。

「俺は兄さんの妹なんだ。兄さんと、目的のために手段を選ばないような歪な鳥と同じ血が流れてる……これしかないって思った時、私から俺になるって、そう覚悟した」

揺らぎながらも、強さを湛えた目。覚悟を決めた目から視線を逸らして俯いた。
彼女の目を見続けていたら、もう戻れない。そんな気がして怖かった。

「俺が怖い?」
「怖くない」
「無理しないでいいよ。同じ日を繰り返して壊れそうになってたのは、近くで見ていたんだからよく知ってる」

優しい声音。
じゃあなんで、と尋ねる声は、笑えるくらいに震えていた。

「――そろそろ日が暮れるね」

疑問の答えの代わりに返された、彼女の静かな言葉。
思わず顔を上げれば、いつの間にか空は茜に染まっていた。

「今回はこれくらいにしよう。この繰り返しの元凶が渡り鳥だと知ったんだから、次回は何をすればいいか分かるよね?」

首を振る。
これ以上何も分かりたくなどなかった。

「渡り鳥が元凶なんだ。その渡り鳥を従える方法を探さないと。従える事が出来たなら、命じるだけで、明日が来るよ」

けれど彼女は容赦なく、進むべき道を突きつける。

「そして明日が来たら。その時がきたら、渡り鳥を身代わりにする。それで何もかもが終わるよ。忌まわしい鳥に煩わされる事なく。日々を送れるんだ」

それが唯一正しい方法だと、彼女は疑わない。
彼女にとっての最良が、自分にとっても最良なのだと信じて笑い、最後に強く抱きしめてられる。

「また、次でね」

手を離した彼女が、渡り鳥となって空へと鳴きながら飛び去っていく。
今更手を伸ばしても、届かない。黒に染まる世界に呑まれながら、目を閉じた。
ぐにゃり、と何かが歪む感覚。今日の終わりから始まりへと、渡るのだろう。
鳴き声を上げた。彼女に気づかれぬように、小さく微かに。
何かが自分の中から抜けていく。目を開けて、その何かを見据えた。
翼を捥がれた見窄らしい鳥。けれどその目には強い意志を宿した。
この渡る瞬間にだけ認識出来る、一番最初の自分の欠片。
何も言わずとも、何をすべきかは分かっている。お互いに頷いて、鳥は彼女を追って去っていく。
彼女を守るために。
そのために、自分はあの日、空を捨て彼女に憎まれる決意をしたのだから。

鳥を見送り、目を閉じて意識を沈めていく。
遠く、アラームの鳴る音が聞こえ。

そしてまた、今日が始まる。



20250529『渡り鳥』

5/29/2025, 11:20:56 AM

「こんな所で、いつまでも何をやっている」

溜息と共に吐き出された言葉に、砂を掬う手を止める。
だがすぐに砂の中へと手を差し入れて、真白い砂を掬い上げていく。

「思い出を掬い上げる練習」

小さく呟いて、零れ落ちていく砂をただ見つめた。
さらさらと、指の間から零れ落ちる砂。まるで記憶のように、どんなに掬い上げても隙間から零れ落ちていってしまう。

「くだらないな」

吐き捨てて、背後の彼が近づいてくる。それを気にも留めずにいれば、頭に強い衝撃を感じた。

「痛っ……何、急に」
「貴様がいつまでも動かぬのが悪い」
「だからって、殴る事ない……」

文句を言いながら背後を振り返り。さらに続けようと下言葉は、けれど彼の静かで強い目に、勢いをなくしてしまう。
怒っているわけでも、心配しているでもない。ただ自分の心の内を見透かすような、真っ直ぐな眼差し。言葉の真意を求める目から逃れるように、視線を逸らした。

「今度は何だ。喧嘩でもしたか」
「そんなんじゃない。ただ……」

言いかけて、口を噤む。何を言えばいいのか、分からなかった。
忘れてしまう事が悲しい。
言葉にしてしまえば簡単だ。けれどその一言だけでは、何一つ伝えたい事は伝わらない気がしていた。
手の中に僅かに残る砂に、視線を落とす。それが忘れたいもののいくつかと重なって見えて、か細い声が唇から溢れ落ちた。

「なんで、忘れてしまうの?忘れたくなんてないのに」
「阿呆か。そんなくだらん事でうじうじとしていたとは」

はぁ、と重苦しい溜息。そして容赦のない二回目の拳骨が降ってきた。
痛みに閉じた瞼の裏で星が散る。思わず頭を抑えて蹲れば、まったくと呆れが滲む声と共に、頭をそっと引き寄せられた。

「忘却とは、人間が生きるための大切な手段だ。忘れなければ、貴様の小さくて軽い頭はとっくに壊れてしまっているだろうよ」
「でも、それならなんで……」

頭を抱かれ優しく撫でられながら、なんで、を繰り返す。
なんで、忘れたいものを選べないのか。
なんで、忘れたくないものほど最後まで残ってしまうのか。
頭の痛みによるものではない涙が込み上げて、呼吸が乱れていく。泣かないようにと必死で目を瞑り、呼吸を整えていれば、頭を撫でる手が一層優しくなった。

「人間は忘れる生き物だ。魂に刻み込まれるほど強い記憶でない限りは、いずれ忘れてしまうだろう。過去に縋るすべてが悪とは言わんが、生きていく限りは手を離すべきだ」
「――でも……怖い」

こうして彼の優しさに包まれている間にも、何かが零れ落ちていく気がして首を振る。さらさらと見えない砂が落ちていく音が聞こえるようで、それが怖くて声を上げた。

「なんで……父さんや母さんの顔がもう思い出せない。兄弟がいたはずなのに、それが誰なのかさえ分からない。分からないはずなのに、すべてをなくした悲しさや寂しさだけが残って……それが、とても苦しい」
「――あの阿呆共め」

苦さを含んだ呟き。冷え切った響きに、肩が震えた。
恐る恐る開けた目は、けれども彼に塞がれて。

「帰るぞ。その苦痛は、記憶を無理矢理剥がされた故に生じたものだ。帰って事を起こした阿呆共を締め上げれば、苛む苦痛も恐怖も和らぐだろう」
「帰る……?」
「まったく、どいつもこいつも面倒ばかり起こしよって……ほら、早くしろ」

そうは言えど、目は塞がれたまま。
どうすればいいのか分からず、ぼんやりと彼に凭れていれば、何度目かの溜息を吐かれ。
三度目の、強い衝撃を頭に感じたのを最後に、意識が真っ黒に染まった。





「――っ……痛いってば!何度も叩かなくてもいいだろっ」

叫んで飛び起きる。

「……あれ?」

側にいたはずの彼の姿はどこにもない。それどころか外にいる訳でもない事に、目を瞬いた。
視線を巡らせる。見慣れた畳敷きの室内。飛び起きた時に跳ね飛ばされた布団が視界の隅に見えて、あれ、と間抜けな声が漏れた。

「――夢?」

ゆっくりと頭に手を当てる。意識が飛ぶほどの痛みはなく、え、とやはり間抜けな声が出た。
どうやら本当に夢を見ていたらしい。一度夢だと認識してしまえば、途端に記憶が薄れていく。
さらさらと、砂が零れ落ちるように。水が流れていってしまうように。
思わず苦笑する。現であれだけ彼に叱られているというのに、夢の中でも彼に叱られるとは。
深く息を吐き、頭を振って記憶を散らす。これは零すべき記憶だ。意識を逸らそうと、耳を澄ませて外の音に聞き入った。
雨の音。しとしとと、さらさらと細かな雨が降り続いているのが聞こえる。そろそろ梅雨入りの時期であるのを思い出した。
あぁ、そう言えば。ふと思い出しかけた記憶の欠片。けれども近づく荒い足音に零れて、意識の端へと落ちてしまう。


「おい。いつまで寝ているつもりだ」

すぱん、と小気味良い音を立て、襖が開けられる。遠慮の欠片もない行為に文句を言うより早く、布団から出て片付けをし出すのは、悲しいほどに身についてしまった習性だ。

「今回の元凶を連れてきてやったぞ」
「元凶?」

どさり、と重たい音。
布団を片付けながら視線を向ければ、畳に転がる子狐が三匹。皆ぼろぼろで、頻りにごめんなさいを繰り返していた。

「え?どういう事?」
「なんだ。それすら忘れたか」

腰に手を当て半眼で睨み付ける彼に、慌てて記憶を手繰り寄せる。
眠る前の記憶。夢の中の記憶。思いつく限りを考えて。

「――あ。記憶」

ひとつ、思い浮かぶ。
夢の中。酷く曖昧ではあるが、苦しくて怖い思いをしたのを思い出す。
零れていくものを繋ぎ止めようと踠いて、繋ぎ止められず。彼に叱られて、それでも怖いと泣いていた。

「聞けば、元は貴様が過去を悔やんでいたというではないか。それを根こそぎ引き剥がした事は到底許せるものではないが、貴様も同等かそれ以上に反省しろ」
「過去を、悔やむ?」

記憶にはない事に困惑する。
子供の頃とは違い、過去を悔やんだ所で意味はない事を知っている。それなのに、悔やまずにはいられなかった過去とは、何だったのか。

「お花を……あげれば、よかったって……」
「寂しそう、だったから……」
「だから……ない方が、いいかなって……ごめんなさい」

控えめに説明する子狐達に、眉を寄せながら記憶を手繰る。
花。送りたい相手。あげれなかった後悔。
そう言えば、と心当たりを思いながら、深く考えずに口を開く。

「今回も、母の日に花一つあげられなかったって、ついぼやいたっけ」

家のすべての管理を行い、自分の世話まで焼く彼に何も出来なかった事を、悔やんだのだったか。
思い出せた事に安堵して。だが同時に、不用意な事を口にした事に気づき、後悔した。

「ほう?その母の日とやらに花を贈りたかった相手というのは、まさか俺様ではあるまいな?」
「あ、いや。その……」

引き攣る笑みを浮かべながら、彼に視線を向ける。
笑顔だ。笑っているというのに、彼の目は鋭くこちらを見据えて怒りを露わにしている。
だが、その怒りはすぐに鳴りを潜め。呆れを滲ませた溜息と共に、解けていく。

「まあいい。貴様が阿呆である事は、昔から変わらぬのだからな」
「阿呆言うな。あと、別に母親みたいだなんて思ってもないから」

思わず言い返すも、彼は当然だと鼻で笑う。

「俺様に感謝の気持ちがあるのならば、花を贈るよりもまず、規則正しい生活を送る事だ。夜更かしも、好き嫌いも、改善する努力をしろ」

そう言って、彼は踵を返し部屋を出る。

「……努力は、してる」

見えなくなった彼の背にそう呟いて、子狐達の側に寄る。
ぼろぼろではあるものの、怪我はないようだ。最初から分かっていた事ではあるが、ほっと息を吐く。

「ごめんな。巻き込んで」

子狐達の頭をそれぞれ撫でながら、小さく呟いた。
手ぐしで毛並みを整えながら、外の音に耳を澄ます。
しとしとと、さらさらと、雨はまだ降り続いている。零れ落ちていくものを嘆くように。
今外に出て手を伸ばせば、掬う事は出来るだろうか。そんな幻想を抱きながら、何を掬いたいのかを考える。
帰らぬ幼い日の温もりか。はたまた無力だった自分自身か。
意味のない事。過去に縋る時間があるのならば、前を見なくては。同じ事を繰り返さないためにも。
自嘲して、いつの間にか眠ってしまった子狐達をそのままに部屋を出る。
どこからか感じる、いくつもの心配そうな視線を感じながら、大丈夫だと笑ってみせた。



20250528『さらさら』

5/27/2025, 10:21:26 PM

「これで最後だ」

冷たく吐き捨てられた言葉に、唇を噛みしめる。
結局、最後まで敵わないのか。
けれど最後くらいはと歯を食いしばり、震える足に力を込めて立ち上がる。

「根性だけは認めてやろう」
「よく言う。思ってもないくせに」
「嘘ではない。嘘をつくのは、いつでも人間の方だろう」

だろうな、と心の内で同意しながら、自分がここにきた理由を思い返す。

――目の前の男を、本家の当主の元まで連れて行く。

ある日突然に命じられた事。
意味が分からなかった。今まで本家との関わりなど正月や盆の集まりくらいしかなかっというのに。
けれど従うしかなかった。それ以外の選択肢は、本家へと連れられた時点で奪われていた。
この男を連れて行かなければ、家族の命は保証されない。

乱れた息を整えながら、目の前の男に集中する。
男の右手に握られた赤い紐。その先に結ばれた真鍮の鈴を取れば、自分の勝ちだ。
男が提示した勝負。だが男の言うとおり、これが最後だ。
男が言葉にしなくても、自分にはもう男と張り合うだけの力は余り残されてはいない。
これで最後。
息を吸い。そして吐く。
目を閉じて。開き。

真鍮の鈴。ただそれだけを目指し。
真っ直ぐに駆け出した。





「やはり無駄だったな」

倒れ込む自分を見下ろして、男は無感情に呟いた。
目の前で揺れる鈴。手を伸ばせど、やはり届かない。

「まあ、暇つぶしにはなったか」

暇つぶし。自分のすべてで挑んだというのに、男にとっては余興の一つでしかないのか。
荒い呼吸を繰り返しながら、目だけは男を睨み付ける。悔しさに滲み出す視界を、血が滲むほど強く唇を噛む事で必死に耐えた。
泣いている時間はない。男を連れて行けぬ以上、一刻も早く戻り家族を助けなければ。

「なんだ。お前、もしかして今更戻れるとでも思っているのか?」

さも意外だと言わんばかりに、男は目を瞬き問いかける。男と対峙して、初めて聞いた感情の乗った声。だがそれよりも男の言葉の意味が気に掛かった。

「どういう、意味……?」
「お前は俺との勝負に負けたのだろう?ならば、お前は俺のものだ……まあ、もとよりここに来た時点で、お前は俺のものではあるがな」

何を言っているのか。意味を理解しかねて眉を潜めれば、首を傾げた男が何かに気づき笑う。

「ああ、何も知らされていなかったのか。可哀想にな」

無邪気に笑いながら、男は膝をつく。未だに動けない自分の頬を包み、逆さに目を合わせた。
男の炎のように揺らぐ深紅の目が、自分の内側を暴き立てていく。そんな不快な感情が込み上げ、逃れようとするも、体は縫い止められたように動かない。目を逸らす事も、閉じる事も出来ずに、次第に涙の膜を張り出した目から一筋滴が零れ落ちた。

「なるほど、家族のため……健気なもんだ。騙されているとも知らずに、なんて哀れなんだろうか」
「――っ、やだ」
「お前は帰れない。この俺に捧げられたのだから……だが、そうだな。あれらに契約の重さを知らしめる、いい機会かもしれんからな」

揺らぐ視界で男が笑う声がする。動かぬ体に必死に力をいれ、腕を伸ばして頬を包む男の手に爪を立てた。

「っと。痛いだろう。まったく、子猫じゃああるまいに……だがその頑張りに免じて、一時家に帰してやろう」
「ほ、んと、に……?」
「嘘はつかんと言っただろう」

蠱惑的な囁きに、腕の力が抜けていく。
男の顔が近づいて、深紅が意識を解かし始める。男と、自分と。境界が曖昧になっていく。

「小娘。その体、少しばかり借りるぞ」

深紅が揺れる。
男の言葉を最後に、記憶は途絶えた。





部屋一面を染める、深紅の華。
その中央で、一人の少女は老人を前に微笑んだ。

「口約束とはいえ、契約は守らなければな。でなければ道理が歪んでしまう」

がたがたと震える老人を、少女は気にかける事もせず。小首を傾げ、そもそも、と少しばかり呆れを乗せて呟いた。

「守られぬ事を前提とした約束はどうかと思うぞ。こうして予想外な事象が起きた時に、こうして契約不履行で痛い目を見るのはお前らの方なのだから」

幼い子を窘めるような口調で、だが老人へと向けられた右手は床で咲き乱れる華のように深紅に染まっている。
近づく手に、さらに老人の震えは激しくなり。意味の伴わない呻きを断続的に上げながら、腕を持ち上げその指先は一点を示した。
その先には、古い蔵。暫し蔵を見つめていた少女は、ああ、と小さく呟いて、困ったように頬を染めて笑った。

「まあ、なんだ。誰にでも間違いはある、というやつだな。それに数も足りない。両親と上に二人ほどいたはずだが、それはどうした?」

老人は何も言わない。必死で首を振りながら、命乞いを繰り返している。
それをどこか冷めた目で見つめながら。少女はそうだな、と優しい笑みを浮かべて、老人へと手を差し出した。
安堵に老人も笑みを浮かべ。

「約束した者。契約者が絶えれば、約束自体もなくなる。それに娘を捧げた際の儀を誤っていたのだから、結末は変わらない。あまり気にする事でもなかったな」

老人の笑みが凍り付く。
差し出された少女の手が、老人の顔を掴み。

またひとつ、部屋に深紅の華が咲いた。



「さて」

静寂が満ちた部屋を出て、少女は先ほど老人が示した蔵へと向かう。
蔵は堅牢な錠で閉じられていたが、少女にとっては意味のないものだ。軽く右手で触れただけで、錠は粉々に砕け地に落ちた。
蔵を開け、中へと足を踏み入れる。灯りはなくとも迷わずにその足は奥へと進み。
片隅に寄り添うように倒れる、二つの小さな影の前で足を止めた。

「ちょうどよかった。全員であったなら、流石に諦めていた所だった」

安堵したように笑い、少女は躊躇せずにその二つの影――二人の子供を抱え上げる。
小さな呻く声と共に、一人の子供の目が虚ろに開く。

「おねえ、ちゃん……?」
「なんだ。起きたのか」

蔵の外へと向かう足を止めず、少女は無感情に呟いた。

「お前らの姉は、俺に捧げられた。だがお前らを対価にした契約を此方で結んでいたようであったからな。たった今終わらせた所だ」
「けい、やく」
「故にお前らも連れて行く。恨むならば、ここの当主を恨む事だ」

呟く声はどこまでも冷たい。
姉の姿をしていても、姉ではないと気づいたのだろう。虚ろな視線がゆるりと閉じられ、消え入りそうな声が誰、とだけ呟いた。

「誰と尋ねておきながら、気を失ったか……まあ、聞こえていないだろうが、折角だ。答えてやろう」

呆れたように息を吐きながら、少女は笑う。

「俺は、お前達が奉っているモノだ。この屋敷の裏の山にある奥宮で奉られている古より存在する、お前らの祖先に術を授けたモノ。その時の契約で、定期的に一族を捧げる代わりに力と守護を与える、いわば神というやつだ」

くすくすと笑い声を上げながら、少女は蔵を出て山奥へと歩いていく。
その足取りは軽く。迷いもなく。

「まあ、今宵で血の濃い者らは絶えてしまったが。仕方がない事だ。約束とは契約と同意。それを違えてしまったのだから」

だからお前らも気をつける事だ。と少女は歌うように囁く。
その声はどこまでも優しく。どこまでも残酷に。
夜の静寂に解けていった。





誰かに揺り起こされている感覚に、沈んでいた意識が浮上する。

「あ、起きた」
「おはよう、お姉ちゃん」

どこか重苦しい頭を抑えながらも、弟妹におはようを返す。意識がはっきりしない。何かを忘れてしまったかのように。
「ご飯、出来てるからね」

きゃあ、と笑いながら駆けていく二人をぼんやり見送りながら、小さく息を吐いて布団から抜け出した。
布団をたたみ、押し入れにしまう。
その動作にどこか違和感を感じて、内心で首を傾げる。
部屋を見渡す。
何も変わらない。いつもの自分の部屋だ。
六畳一間の、自分の部屋。だというのに、畳の部屋という違和感が拭えない。
頭が痛い。何かが違う。何かを忘れているはずなのに、それがどうしても思い出せない。
耐えきれず、膝をつき頭を抑えて目を閉じた。

「どうした?」

聞こえた声に、はっとして目を開ける。
部屋の扉の前で、兄が首を傾げながらこちらを見つめていた。

「――違う」

違和感。首を振り、否定する。
あれは兄などではない。兄は、兄達はあんな男ではなかったはずだ。

「ああ、やはりお前のような気の強い娘には、名付けでもしない限り認識は変えられないか」

肩を竦めながらも、目の前の男は酷く楽しげだ。ゆっくりと歩み寄る姿に恐怖を覚えて、後退る。
だが然程広くない部屋。すぐに背が壁に触れ、逃げる事も出来ずに距離を詰められる。

「こないでっ」
「俺と対峙していた時の威勢の良さは、すっかりなくなってしまったな……うん、そうだな。やはりしばらくは名付けずに、お前の踠く様を楽しもうか」

そう言って、男は膝をつき腕を伸ばす。頬を包まれて、揺れる炎のような深紅の目に、覗き込まれる。
目の中の怯える自分が、男の目の中で解けていく。違和感も恐怖も、何もかもが解けて、境界が曖昧になっていく。

「――ぃや、なんで……」
「たまには意向を変えてみるのも楽しいだろう?なあに、次が捧げられるまでの間だけだ。たったの五十年ほど……ああ、だが。傍流の者らが同じように、俺との契約を望み捧げるとは限らないか。その時は、永遠にこのままごとを楽しもうか」

深紅が揺れる。思い出ごと記憶が書き換えられて、何もかもが変わっていく。
伏せた目から零れ落ちた滴を男に拭われ、違うと呟く声は低い笑い声に掻き消される。
助けて、と声なく願い。けれども何もかもを諦めて、解けた境界に身を委ねた。



「お姉ちゃん、遅いよ」
「もうお腹空いた」

先に食事を取るでもなく、おとなしく待ってくれていた弟妹にごめんね、と笑ってみせる。

「もしかして、泣いていたの?」

席に着けば、隣に座った弟に目が赤い事を指摘される。
やはり目を冷やしておくべきだったかと、笑って誤魔化しながら思う。大丈夫だと伝えても、納得はしてもらえないのだろう。

「少しな、寂しくなってしまったそうだ」

少し遅れて居間に入ってきた兄が、弟の頭を撫でながら教えてしまう。
内緒にしてほしいと頼んだのは、無駄だったようだ。恨めしげに見つめても、兄は笑うだけで堪えた様子はない。
兄の手から抜け出して、弟は側まで来ると小さな腕を広げて抱きついた。同じように近づいてきた妹にも抱きつかれ、ありがとう、と二人の頭を撫でる。
優しい子達だ。姉である自分がしっかりしないといけないのに、これではどちらが年上か分からないではないか。
苦笑しながら二人を撫でていれば、頭に感じる手の感触。視線を向ければ、兄が優しい顔をして頭を撫でていた。

「嘘つき」
「嘘はついていない。俺は了承してはいなかったからな……それに偽りであっても、それが正しいと認識すれば、それが真実になる」
「なにそれ?」
「ここにいる誰もが、その身を脅かされる事も、孤独を感じる事もないって事だ」
「意味が分からない」

兄は笑って首を振る。撫でていた手を離して席に着き、意地悪な顔をして二人に声をかけた。

「皆が揃ったからな。俺は食事にするが……いらないのなら、俺が二人の分ももらうぞ」
「あ、だめっ!」
「おにいちゃん、いじわるだ」

慌てて席に着く二人は、揃って手を合わせ、いただきます、と声を上げる。
今朝も随分と賑やかだ。寂しがっている暇はないだろう。
同じように手を合わせて、食事に手をつける。楽しげに笑う二人の声を聞きながら、いつもと変わらない一日の始まりに一人笑い。
穏やかな日々が、いつまでも続いていく事を願った。



20250527 『これで最後』

5/27/2025, 6:31:53 AM

声が聞こえる。音が響いている。
楽しそうに、悲しそうに。囁く波が、さんざめく風が音を奏でている。
声が聞こえた。寂しげな声。
遠くどこかで、鳴く声が。

――名前を、呼んで。

首を傾げて、声の聞こえる方を見る。

――誰か、私の名前を。

呼べば良いのか。そうしたら、寂しいのはなくなるのだろうか。
その時は、深く考えもせずに。呼ばれぬ事の意味を知りもせずに。
なら呼びに行こう、と。
軽い足取りで、声のする方へと向かっていった。



辿り着いたのは、古びた神社の裏側。
ご神木の根元に、不思議な色合いの大きな鳥が横たわっていた。
声が聞こえる。言葉ではない、目の前の鳥の思いが聞こえている。
そっと近づけば、鳥の閉じていた瞼が開き、金に煌めく目が鋭くわたしを睨み付けた。

「近づくな。去れ」
――呼んで。名前を呼んで。

冷たい声と、寂しい声。
正反対の声が、立ち尽くすわたしの鼓膜を揺する。

「あなたはだあれ?」

問いかければ、鳥はくつり、と喉を鳴らして嗤った。

「知らぬのか。私の名は禁忌だ」
「きんき?」

その意味を、まだ幼かったわたしは知らなかった。
けれど知っていたとしても、何も変わらなかったのだろう。ずっと声が聞こえていたのだから。寂しい声が、呼んでと泣いていたのだから。

――私を呼んで。私は――。

一歩足を踏み出した。鳥の目がさらにきつく鋭くなり、威嚇するように高く鳴く。けれど怖いとは不思議と感じなかった。
手を差し出す。もう寂しくはないのだと、伝えるように嗤って。

「――」

ずっと聞こえている、ひとつの名前を口にした。

ざわりと風が渦を巻く。雲を呼び、陽を覆い隠していく。
驚きに見開く鳥の金の目が、ゆらりと揺らぐ。鋭さは消えて、残るのは何故か悲しみだった。
首を傾げた。呼んでほしいと言われたから呼んだのに、嬉しくはないのだろうか。
取られる事のなかった手に滴が落ちる。見上げる空は、厚い雲に覆われて、細かな雨が降り始めていた。
見上げている間にも、雨は勢いを増していく。慌てて雨を避けようと社へ駆け出そうとした体は、けれど何かに留められ視界が塞がれた。

「愚かな子だ……可哀想に」

頭上から聞こえる声は、鳥のものだ。
そっと手を伸ばし、体を包む何かに触れる。温かな、それでいて冷たい、なめらかで柔らかな、不思議な感触。それが鳥の羽だと気づいて、目を瞬いた。

「遍く声を聴く事の出来る希有な子。神の愛し子……本当に可哀想に」

囁く声は、どこまでも悲しい。

「呼んだから、悲しくなってしまったの?」

問いかければ、息を呑む音がした。
さらに体を翼で包まれて、いいやと小さく呟かれる。

「呼んでくれて、とても嬉しい」

泣きそうな、悲しい声。
その中に、隠し切れない喜びが混じっているのが聞こえて、それだけで嬉しくなる。

「よかった」

包まれる暖かさに、段々と眠くなる。
ざあざあと聞こえる雨の音も眠気を誘い、ふふ、と笑いながら目を閉じた。
先の事など、何も考えず。禁忌を破った事の、罪の大きさも知りもせず。
優しい温もりに包まれて、最後の穏やかな日は眠りと共に消えていった。





雨の音が聞こえていた。

「起きたのか。まだ眠っているといい」

優しい声が降り注ぐ。
目を開けても変わらない暗闇。痛みのないこの場所は、鳥の翼の中だろう。

「本当に人間とは愚かな生き物だ。最初に私を呼んで縋り、奉ったのは人間だろうに。それを忘れて災厄の根源と定め、私の名を封じて。剰え私と繋がっただけの、同じ人間であるあなたを躊躇いもなく傷つけるのだから」

呆れたような、怒っているような。冷たい声が吐き捨てる。
ごめんね、と答えようとして、遠い昔に潰された喉が、ひゅうとか細く音を鳴らした。

あの日。鳥の名前を呼んだ日から、わたしの世界は一変した。
優しさはすべて失われ、代わりに与えられたのは怒りと、憎しみを含んだ、罵倒と暴力だった。
村の人も家族ですらもわたしの名前を呼ばなくなり、食事も与えられず。傷だらけで動けなくなれば、容赦なく山奥へと棄てた。鳥がいなければ、今まで生きてはいられなかっただろう。

不意に、雨音に混じり人の声が聞こえた。思わず身を竦めれば、宥めるように鳥の羽が包み込んでくれる。

「案ずる必要はない。人間が私の元まで辿り着く事は不可能だ。直に諦めるだろう」

静かな声音。
大丈夫と羽が頬に触れ、強張る体から次第に力が抜けていく。
声はまだ聞こえている。誰かの名前を呼んでいる。
けれど鳥の言うとおり、声が近くなる事はなかった。

遠ざかる声に安堵の息を吐く。力なく羽に凭れると、鳥は微かに身じろいで小さく鳴き声を上げた。
何かを考えているのだろう。ここ数日、悩んでいるようだったから。
何に悩んでいるのか。尋ねたくとも、もう声は出ない。あの日以来名前を呼ぶ事も出来ない。守られてばかりで、歯がゆさばかりが募っていく。
そっと羽に触れる。ここにいるのだと、ひとりではないのだと、せめて伝えたかった。


「――頼みがある」

どこか思い詰めたような声に顔を上げる。翼の中では何も見えないけれど、それでも目を凝らして鳥の姿を探す。
いいよ、と声なく伝えれば、ややあって鳥は一度だけ低く鳴いた。

「名前を、呼んでほしい」

びくり、と肩が震える。
それは、それだけは叶えられない事だ。声を失ったわたしには、出来るはずがない。
それを分かっているはずなのに、鳥は呼んでと繰り返す。

「おいで。私の側で、もう一度名前を呼んで」

ゆっくりと閉じていた翼が開いていく。
光が溢れだし、その代わりに忘れかけていた体の痛みが戻ってくる。
ふらつく足に力を入れながら、鳥を見上げた。金に揺らめいた、悲しい目。痛みに顔を顰めながら、手を伸ばしてその首元に縋り付いた。
鳥の喉に唇を寄せる。
届けばいいと、強く願いながら口を開き。
言葉を、紡ぐ。

「――飛雨」

ざわり、とあの日のように、風が渦を巻く。
雨が勢いを増し、容赦なく体を打ちつける。
しがみついていた腕の力が尽きて、体が崩れ落ちていく。けれどもその前に鳥の翼に支えられ、俯く顔を上げられて目を覗き込まれた。
近い金の目には、悲しみの色はない。強い意志を湛えて煌めき、虚ろなわたしを写している。
甘えるような鳴き声。優しく目が細められて、ひとつの言葉がわたしの鼓膜を揺する。

「――絲雨」

名前。
それがわたしの名前だと、鳥の目が告げている。
棄てられた時に名前もなくしたわたし。そんな名無しに新しく鳥が名付けたのだと、ようやく気づく。
気づいて、認識して。その瞬間に、体の内側から痛みとは違う熱さを感じた。どろどろと、何もかもが溶けてしまいそうな程の熱。耐えきれずに目を閉じると、体を支えていた翼がわたしを強く包み込んだ。
包まれ、覆われ。抱かれながら、境界が曖昧になっていくのを感じる。わたしの体と鳥の体が溶け合って、ひとつになっていく感覚に、声の出せぬ喉で叫びを上げた。
ひょう、と空気の漏れる音。それは何故だか、鳥の鳴き声のように聞こえたのを最後に。

何もかもが、真っ暗に染まっていった。



ざあざあと、雨の降る音。
ごうごうと、水の流れる音。
鳥の鳴く声が聞こえて目を開けた。

「起きたか。ならば行こうか」

どこへ、と首を傾げ。
まだ微睡む意識で、何気なく眼下を見下ろした。

「――ぁ」

一瞬で意識が覚醒する。
思わず下りようとした体は、鳥の翼に押し留められた。

「無駄だ。今から向かったとて、間に合わない」
「でもっ。でも、皆」

冷たい声に言い返して。声が出た事に驚き、喉に手を触れた。
触れようとした。

「つ、ばさ……?」

目に映るものを見て、呆然と呟く。
人の手はなく、代わりに真白の翼がそこにはあった。
戸惑い鳥を見上げる。静かにわたしを見下ろす金はひとつ。そしてわたしを何度も包んでくれたはずの翼もひとつだけになっていた。
どうして、と小さく呟けば、金は優しく細められ、甘い鳴き声が上がる。

「あなたは私の名前を呼んだ。そして私はあなたに名前を与えた……契約は正しく成され、あなたと私は同じになった」
「契約……同じ……?」
「これであなたの翼と私の翼で、どこまでも自由に飛んでいける」

意味が分からない。ゆるゆると首を振って視線を逸らす。
逸らした視線の先で、小さな村が水に沈み、土に埋まっていく。家や人が大量の水に押し流され、山からの土砂で跡形もなく埋められていく。

「なんで、こんな……こんな事、今まで……」
「今までは私が形だけでも奉られ、封じられていたから守られていただけの事。こうして自由になった今、あなた以外を守る必要はないだろう……最後に気づいた所で意味はない。結末は最初から決まっていたのだから」

当然のように鳥は告げ、わたしの体を引き寄せる。覗き込むひとつの金が、鳥とは対の金の目をしたわたしを写して擦り寄った。

「私はあなたのモノ。そしてあなたは私のもの。他の誰かはもう必要ない。名を呼ばれぬ悲しみも、寂しさも。互いがいれば感じない」

触れ合う温もりは、変わらず優しい。それなのに、地上で今も失われていく命には、無慈悲で残酷だ。
その差が哀しくて、とても苦しくて。零れ落ちた涙を、鳥は首を傾げて眺め、ひとつしかない翼を広げた。

「絲雨」

名前を呼ばれて体が跳ねる。
周りの音が消えて、鳥の声しか聞こえなくなる。眼下の惨状など気にもならず、記憶から抜け落ちていく。
鳥はわたしのモノ。そしてわたしは鳥のものなのだから、それ以外はすべてが些細な事だ。必要のないものは忘れて、捨て去ってしまえばいい。

「そろそろ行こうか」

囁く声に頷いた。鳥と同じようにひとつだけの翼を広げ、寄り添った。
風を起こし、空を飛ぶ。体を打つ雨など、気にもならない。
どこまでも高く、どこまでも遠く。



この日。鳥の名前を呼んだ日。
わたしは人ではなくなった。
ひとつの翼とひとつの目。独りでは飛ぶ事の出来ない、不完全な存在。
わたしと鳥と、番う事で初めて飛べる。
大切な半身。わたしにとっての唯一。

「私はあなたのモノ。そしてあなたは私のもの」

楽しそうに鳥は囀る。
その声に合わせて、甘えたように鳴き声を上げた。



20250526『君の名前を呼んだ日』

5/25/2025, 2:06:09 PM

通り雨に降られ、近くのバス停に駆け込んだ。
大分暖かくなってきたとはいえ、雨に濡れたままでは風邪を引く。早く上がらないものかと、溜息を吐きながらハンカチで体を拭いていれば、不意に誰かが駆け込んでくる音がした。
同じように通り雨に降られてしまったのだろう。知り合いだろうかと顔を上げれば、雨に濡れながらも楽しげに笑う青年と目が合った。

「よっ。災難だったな」
「あぁ。まあ」

友人ではない、知らない誰か。妙に馴れ馴れしい態度に一瞬だけ不快に眉を潜めるが、それはすぐに訝しげなものへと変わる。
子供のように晴れやかな笑顔を、昔見た事があった気がした。

「なぁ、あんた名前は?」
「さて、誰でしょう?」

意地悪に笑いながらはぐらかされる。だが不思議と不快には感じない。代わりに奇妙な懐かしさが胸を締め付け、濡れた髪を拭く振りをして俯いた。
雨が屋根を叩く。久しぶりに意識して聞いた心地の良い音に、青年の柔らかな声が混じっていく。

「そういやさ、知ってっか?隣町の学校でさ……」

楽しげに青年は話し出す。
懐かしい笑顔で、懐かしい声音で。
いつどこで出会ったのか。名前は。どこに住んでいるのか。
何一つ分からない。分からないのに、懐かしさだけが心を満たす。
満たされた心は、沸き上がる疑問を軽視して、ただ純粋に青年との会話を楽しんだ。

とある学校で起きた怪談話。
どこかの山奥で暮らす狸と狐の争いの話。
近所の田んぼで起きた幽霊騒動。
怖い話から笑える話まで。下らない話をしては、馬鹿みたいに大笑いをした。
雨の音がする。笑いながらもその優しい音に、目を細めて聞き入った。



「――おっと。そろそろ時間切れだ」
「何が?」
「雨が上がったって事」

そう言って青年は空を指差した。
いつの間にか雨が上がり、見上げる雲間から一筋の光が差し込んでいた。

ふと、この光景を誰かと見た記憶が脳裏を過ぎていく。
隣の青年に視線を向ける。笑いながらもどこか寂しげな表情が、いつかの少年の姿に重なった。

「――ぁ」
「ようやく気づいたか」

にやり、と青年は笑う。その姿が、じわりと滲んでいく。

「相変わらず、泣き虫なのな」
「うっせ。最近出てこなかったくせに、何言ってんだ」

俯きながら、悪態をつく。それに吹き出して笑いながらも、優しく頭を撫でてくれる所は、幼い頃から何一つ変わらない。

「なんで、来なくなったんだよ」

幼い頃。雨の日だけ遊んでくれる特別な友人がいた。
名前は知らない。尋ねた事もない。
雨が降るといつの間にか現れて、一緒に遊んでくれた友人。何でも知っていて、些細な事で大笑いして。
ひねくれた可愛げのない自分に寄り添ってくれた、大切な友人だった。
いつの頃からか、雨の日に現れなくなり。
日常の忙しさに、いつしか友人の事は記憶の片隅に追いやってしまっていた。

「ずっと、待ってたのに」

雨が降る度に、友人の姿を探した。
忘れたと嘯きながらも、一人の夜を泣いて過ごした。
恨み言のように呟けば、頭を撫でる手がいっそう優しくなった。

「心に余裕がなかったからな」
「なんだよ。それ」
「あの頃、いろいろあっただろ?」

そう言えば、と思い出す。
友人が訪れなくなった頃は、生きる事に必死だった。
仕事で滅多に帰ってこない父。
自分を置いて出て行った母。
誰かに相談する事など頭にはなく、ただ必死に生きていた。父方の祖父母に連絡が行ったのは、一月以上が経った後の事だ。

「あの頃はよく頑張ったよ。偉かったな」

頭を撫でていた片手が両手になる。涙越しに見える青年――友人の姿が先ほどよりも薄くなっているのは、きっと気のせいではないのだろう。
雨は上がってしまったのだから。

「見てきたように言うな」
「ずっと見てきたさ。これでもすっごく悩んだんだぜ?もういっそ隠しちゃおうかなって、そう考えるくらいには悩んだんだ」

そうならなくてよかったよ、と友人は言う。それをどこか残念に思う気持ちを見ない振りして、馬鹿とだけ返した。

「まあなんだ。まだいろいろあるだろうけどさ。たまには、こうして雨宿りするように、無為な時間を過ごしてみろよ。ちょっとくらい嫌な事全部忘れてさ。くだらない話をして、馬鹿みたいに笑おうぜ」
「うっせ。馬鹿」

消えていく友人をこれ以上見ていられずに、目を閉じる。
頭を撫でる手の温もりが感じられなくなっていくのに、泣き叫んで縋ってしまいたいのを、必死の思いで耐えた。

「今まで見てきたから知ってる。じいちゃんやばあちゃん。何だったら親父も皆、お前に叔父さんを重ねて見てるって事。次の雨の日には全部聞いてやるから」

囁く声に、思わず肩が震えた。
どうして、と声を上げる代わりに、耐えきれなかった嗚咽が漏れる。

「ちゃんと見てるから。どうしても耐えきれなくなったら、今度こそ隠してやる。だからもう少し頑張ろうな」

熱のない友人の指が涙を拭う。
恐る恐る目を開けて、僅かに輪郭が残るのみとなった友人に手を伸ばした。

「約束、だぞ」
「あぁ、約束だ……心配すんな。もうちょっとしたら梅雨だろ?毎日のように会えるさ」

伸ばした手に――小指に小指を絡め、指切りをする。
それを最後に友人の姿は消えて、後には小さな水たまりが残るのみ。

「約束、だからな」

見えなくなった友人に呟いて、乱暴に涙を拭う。
見上げる空には大きな虹。見えなくなっただけで側にいるらしい友人も同じものを見ているのだろうか。

歩き出す。家へを向かい、ゆっくりと。
自分を見つめる祖父母の目には慣れない。何かと干渉してくる事に、息苦しさしか感じられない。
それでも、約束をしたから。約束がある限りは、きっと頑張れるはずだ。

立ち止まらずに歩いていく。
優しい雨音を思い描きながら。



20250525 『やさしい雨音』

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