sairo

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5/25/2025, 2:06:09 PM

通り雨に降られ、近くのバス停に駆け込んだ。
大分暖かくなってきたとはいえ、雨に濡れたままでは風邪を引く。早く上がらないものかと、溜息を吐きながらハンカチで体を拭いていれば、不意に誰かが駆け込んでくる音がした。
同じように通り雨に降られてしまったのだろう。知り合いだろうかと顔を上げれば、雨に濡れながらも楽しげに笑う青年と目が合った。

「よっ。災難だったな」
「あぁ。まあ」

友人ではない、知らない誰か。妙に馴れ馴れしい態度に一瞬だけ不快に眉を潜めるが、それはすぐに訝しげなものへと変わる。
子供のように晴れやかな笑顔を、昔見た事があった気がした。

「なぁ、あんた名前は?」
「さて、誰でしょう?」

意地悪に笑いながらはぐらかされる。だが不思議と不快には感じない。代わりに奇妙な懐かしさが胸を締め付け、濡れた髪を拭く振りをして俯いた。
雨が屋根を叩く。久しぶりに意識して聞いた心地の良い音に、青年の柔らかな声が混じっていく。

「そういやさ、知ってっか?隣町の学校でさ……」

楽しげに青年は話し出す。
懐かしい笑顔で、懐かしい声音で。
いつどこで出会ったのか。名前は。どこに住んでいるのか。
何一つ分からない。分からないのに、懐かしさだけが心を満たす。
満たされた心は、沸き上がる疑問を軽視して、ただ純粋に青年との会話を楽しんだ。

とある学校で起きた怪談話。
どこかの山奥で暮らす狸と狐の争いの話。
近所の田んぼで起きた幽霊騒動。
怖い話から笑える話まで。下らない話をしては、馬鹿みたいに大笑いをした。
雨の音がする。笑いながらもその優しい音に、目を細めて聞き入った。



「――おっと。そろそろ時間切れだ」
「何が?」
「雨が上がったって事」

そう言って青年は空を指差した。
いつの間にか雨が上がり、見上げる雲間から一筋の光が差し込んでいた。

ふと、この光景を誰かと見た記憶が脳裏を過ぎていく。
隣の青年に視線を向ける。笑いながらもどこか寂しげな表情が、いつかの少年の姿に重なった。

「――ぁ」
「ようやく気づいたか」

にやり、と青年は笑う。その姿が、じわりと滲んでいく。

「相変わらず、泣き虫なのな」
「うっせ。最近出てこなかったくせに、何言ってんだ」

俯きながら、悪態をつく。それに吹き出して笑いながらも、優しく頭を撫でてくれる所は、幼い頃から何一つ変わらない。

「なんで、来なくなったんだよ」

幼い頃。雨の日だけ遊んでくれる特別な友人がいた。
名前は知らない。尋ねた事もない。
雨が降るといつの間にか現れて、一緒に遊んでくれた友人。何でも知っていて、些細な事で大笑いして。
ひねくれた可愛げのない自分に寄り添ってくれた、大切な友人だった。
いつの頃からか、雨の日に現れなくなり。
日常の忙しさに、いつしか友人の事は記憶の片隅に追いやってしまっていた。

「ずっと、待ってたのに」

雨が降る度に、友人の姿を探した。
忘れたと嘯きながらも、一人の夜を泣いて過ごした。
恨み言のように呟けば、頭を撫でる手がいっそう優しくなった。

「心に余裕がなかったからな」
「なんだよ。それ」
「あの頃、いろいろあっただろ?」

そう言えば、と思い出す。
友人が訪れなくなった頃は、生きる事に必死だった。
仕事で滅多に帰ってこない父。
自分を置いて出て行った母。
誰かに相談する事など頭にはなく、ただ必死に生きていた。父方の祖父母に連絡が行ったのは、一月以上が経った後の事だ。

「あの頃はよく頑張ったよ。偉かったな」

頭を撫でていた片手が両手になる。涙越しに見える青年――友人の姿が先ほどよりも薄くなっているのは、きっと気のせいではないのだろう。
雨は上がってしまったのだから。

「見てきたように言うな」
「ずっと見てきたさ。これでもすっごく悩んだんだぜ?もういっそ隠しちゃおうかなって、そう考えるくらいには悩んだんだ」

そうならなくてよかったよ、と友人は言う。それをどこか残念に思う気持ちを見ない振りして、馬鹿とだけ返した。

「まあなんだ。まだいろいろあるだろうけどさ。たまには、こうして雨宿りするように、無為な時間を過ごしてみろよ。ちょっとくらい嫌な事全部忘れてさ。くだらない話をして、馬鹿みたいに笑おうぜ」
「うっせ。馬鹿」

消えていく友人をこれ以上見ていられずに、目を閉じる。
頭を撫でる手の温もりが感じられなくなっていくのに、泣き叫んで縋ってしまいたいのを、必死の思いで耐えた。

「今まで見てきたから知ってる。じいちゃんやばあちゃん。何だったら親父も皆、お前に叔父さんを重ねて見てるって事。次の雨の日には全部聞いてやるから」

囁く声に、思わず肩が震えた。
どうして、と声を上げる代わりに、耐えきれなかった嗚咽が漏れる。

「ちゃんと見てるから。どうしても耐えきれなくなったら、今度こそ隠してやる。だからもう少し頑張ろうな」

熱のない友人の指が涙を拭う。
恐る恐る目を開けて、僅かに輪郭が残るのみとなった友人に手を伸ばした。

「約束、だぞ」
「あぁ、約束だ……心配すんな。もうちょっとしたら梅雨だろ?毎日のように会えるさ」

伸ばした手に――小指に小指を絡め、指切りをする。
それを最後に友人の姿は消えて、後には小さな水たまりが残るのみ。

「約束、だからな」

見えなくなった友人に呟いて、乱暴に涙を拭う。
見上げる空には大きな虹。見えなくなっただけで側にいるらしい友人も同じものを見ているのだろうか。

歩き出す。家へを向かい、ゆっくりと。
自分を見つめる祖父母の目には慣れない。何かと干渉してくる事に、息苦しさしか感じられない。
それでも、約束をしたから。約束がある限りは、きっと頑張れるはずだ。

立ち止まらずに歩いていく。
優しい雨音を思い描きながら。



20250525 『やさしい雨音』

5/25/2025, 7:56:56 AM

どこからか聞こえる子供達の歌声に、男は微睡む意識を浮かばせた。
緩慢な動作で、窓へと視線を向ける。目を細め、遠い過去の記憶を手繰り、だが求めるものは欠片も見つからなかったのだろう。ゆるゆると目を伏せて窓から視線を逸らし、そのまま目を閉じた。

外ではまだ、歌声が響いている。来月に行われる、祭の練習をしているのだろう。
身体健全を願い、社の前で歌われる歌。形だけをなぞった、中身のない祭事。
唯一残ったものを失わないため、留めて置くために始めた事を覚えている者は、過ぎゆく時が皆連れて行ってしまった。おそらく、男が最後なのだろう。
かつて、この村には神子がいた。誰の記憶からも忘れられ、認識されなくなった、祈りの歌を紡ぐ子が。
確かに、この村にいたはずだった。

男の記憶からも失われた誰か。失った痛みと歌だけを残して、それ以外はすべてが消えてしまった。
その痛みを抱き、歌を拠り所として男は生きてきた。泣きながらも生きて大人になり、結婚し、子をもうけた。その子らも大人になり、今では男は祖父となった。
男は生きた。声も姿も思い出せない誰かと、再び出会える事を夢見て、生き続けた。
だがそれも、終わりが近いのだろう。

微睡み始めた男の唇が、ひとつの言葉を求めて震えた。見つける事は出来ぬと知りながら、それでも求めずにはいられない、ただ一人の名前。
大切で、愛おしい。誰よりも優しかった、あの子の。
やがて諦めてしまったのか、男は静かに口を閉ざし。代わりに紡がれたのは、一つの旋律。
男に残された、ただ一つの繋がり。
次第にそれも、男の意識が深く沈んでいくにつれてか細くなり、ついには途絶えていく。
男の夢が叶う事はないのだろう。
一筋零れ落ちた涙が、窓の外から降り注ぐ陽の光を反射して、鈍く煌めいた。





当てもなく歩きながら、影は一人歌を歌う。
今では誰にも届かない、誰かのための歌。祝福の歌であり、呪われた歌。
笑いながら、泣きながら歌う影には、人であった頃の記憶はない。己の名前も姿も、何もかもをなくしてしまった。
残されたのは、誰かのために祈り、歌う事だけだ。

昔、影は小さな子供だった。歌う事が好きな、どこにでもいるような子供。
それがいつしか変わり始め、ただの子供は神子へと成ってしまった。
その始まりは、純粋な思いだった。
重い病に伏せた、大切な友人の回復を願い歌った歌。旋律はそよ風のように友人を包み込み、内側から滲み出した黒いものを絡め取って去って行く。その後目覚めた友人を、大人達は奇跡だと涙を流し喜んだ。
その時はまだ、影は子供のままでいられた。それが狂いだしたのは、家族が怪我を負ってからだ。
酷い怪我だった。このまま目覚めないと医者から告げられ、影は家族と共にとても悲しんだ。悲しくて、友人のような奇跡が欲しくて、回復を願い歌った。
その旋律はやはり涼風のように家族を包み、怪我のひとつひとつを癒やしていった。すべてを癒やした旋律が去った後、目覚めた家族を大人達は奇跡と呼び、影の歌を祝福の歌と呼んだ。
噂は村中を駆け巡り、奇跡を求める村人が家へと押しかけた。
求められる度に、影は歌った。奇跡の代償など誰一人、影自身すらも気づかずに歌い続けた。求められる事が、喜ばれる事が嬉しいと、無邪気に影は笑っていた。
気づいた時には、すでに手遅れ。名前を失って、影は子供から影になった。
残された僅かを掬い上げ、失ったものを取り戻そうと足掻いたが、結局は何一つ戻らない。悲嘆に暮れる家族や村人達の横で、影だけは無邪気に歌っていた。

不意に、風が遠くの歌声を影へと運ぶ。
家族や村人が、影を取り戻すために作り上げた祭が始まったのだろう。
影の足が、自然と歌声の方へと向かう。同じように歌いながら。
影には、歌以外に残るものは何もない。過ごした村の思い出も、家族や友人の顔も、すべてが零れ落ちてしまった。
ただ一つ残された歌を歌う。歌いながら、聞こえる同じ歌を求めて歩き出す。
その姿は、どこか親の声を求めて彷徨う、飛べない雛鳥のようにも見えた。





「オブリガーダ ペロ ミラグレ、オブリガーダ ペロ マール……」

子供達の歌声が響く。言葉の意味も知らず、楽しげに。
それを男は、静かに見つめていた。
誰も男を気に留める事はない。男もまた子供達を見つめながらも、心は遠い過去を彷徨っていた。

「ノイテ プロフンダ、レバ メウ……」

歌声が響く。昔、海の向こうからこの村に辿り着いた異国の者が歌った歌が、音の響きだけを残して村に広がっていく。

「Guia a alma perdida, E nunca deixa voltar.」

旋律に合わせて、男の唇からも歌が零れ落ちる。
紡がれた音の響きに、はっとする。震える指で唇に触れ、泣くように顔を歪めた。
男の時が止まり、終を迎えた後になって、ようやく気づけた事。
この歌は祝福の歌ではない。
これは鎮魂の曲だ。本来ならば、死者を送るための歌なのだ。

「迷い子の魂を導き……二度と還らせない」

気づいて、男は笑った。笑いながら泣いて、失った誰かを想い叫ぶように歌う。

「Obrigada pelo milagre,」
「obrigada pelo mar,」

男の歌に続くように誰かの歌が聞こえた。
音だけをなぞった歌ではない。それはどこか懐かしく、愛おしく。男の内へと染みこんでいく。
歌のした方へと視線を向けれど、そこには誰もいない。ただ誰かが置き忘れてしまったかのような、小さな影があるのみだ。

「Obrigada pelo milagre,……」

影が歌う。無邪気に、言葉の意味とは正反対の願いを込めて。

「――っ、もういい」
「obrigada pelo mar,」
「もう止めてくれ。お願いだ」

ふらつきながらも影に駆け寄る。膝をつき、祈るようにその手を取った。

「この歌は違うんだ。祝福なんかじゃない。送りの歌なんだ。だから」
「奇跡をありがとう。海に感謝」

歌の合間に、影が囁く。意味を知って歌っていると言いたげに。
それに男は首を振る。最初の意味だけを覚えて、続く言葉の意味を覚えず歌ってきたのだろう。
首を傾げて、それでも影は歌い続ける。

「Noite profunda, leva meu amor ao mar,」
「夜の深みよ、我が愛を海へ連れてゆけ」

影の歌に被せるように、男はその言葉の意味を紡いでいく。
歌が止まる。
戸惑うように、影は男を見上げ。それに男は悲しく笑い、続きを紡いでいく。

「Onde o sol não nasce mais, Guia a alma perdida, E nunca deixa voltar.……太陽が昇らぬ遠い場所へ、迷い子の魂を導き、二度と還らせない、だ」

それは異国の者が、嵐の海から生還した事への感謝と、海に沈んでいった仲間達への鎮魂の歌。
正しく意味を理解して、影が僅かに輪郭を取り戻す。

「還ろうか、一緒に」

男の願う言葉に影は暫し沈黙し、だがはっきりと頷いた。

「いっしょに……かえる」

小さな声に男は泣きながらも微笑んで、その体を強く抱きしめた。
男の時が反転していく。老人から青年に、青年から少年へと、時計の針を巻き戻す。
そうしてあの日の、病に伏して終を待っていたはずの少年は、死の淵から引き戻した影の手を引き歩き出す。

行く先で二人を待つのは、穏やかに微笑みを浮かべる男女と、泣き腫らして赤くなった目をした少女。その頭を撫でる青年は、笑いながら二人を手招いた。
近づく二人に少女は抱きつき、青年もまた少女ごと二人を抱きしめる。そして見守る男女に促され、全員で歩き出した。
向かう先は海に浮かぶ大きな船。かつて異国の者が流れ着き、歌を捧げ続けた青い海に向かい歩き続ける。
浜辺では、多くの人々が待っていた。誰もがかつて影に祝福を受けた村人だった。
彼らに頭を撫でられ、抱きしめられ。そして促されて、影は皆と共に船に乗り込んだ。不安からなのか、少年と繋いだ手に僅かに力が込められて、少年は安心させるように微笑んで見せた。

「大丈夫。皆で還ろう」

全員が乗り込んだ船は、静かに沖へと進んでいく。
遠く村から響く歌声を聞きながら、誰もが穏やかに微笑んで。


船は進む。
常世《とこよ》を目指し、戻る事はなく。

船は海の底へ、音もなく進んでいく。



20250524 『歌』

5/24/2025, 6:02:25 AM

胎児のように、体を丸めて眠る小さな子の頭を撫でる。
ある日突然、空から降ってきた子。
体は傷だらけで、歩く事すら覚束ない。
姉はこの子を、翼を奪われた天使と呼んだ。
背中の傷。一番大きな焼け爛れたようにも見える傷が、まるで翼を捥がれた痕のようだと言っていた。
眠る子の背を見る。確かにそうは見えていたが、痕は一つだけだ。
捥がれたのだとしたら、片側だけ。もう片方は元よりなかった事になる。
それを伝えると、姉は楽しそうに片翼の天使だと笑っていた。

――きっとこの子には、私たちのように二人でひとつの存在がいるのよ。

姉の言葉を思い出す。
ならばこの子は、いずれ自分達の元を離れて旅に出るのだろうか。傷だらけの小さな体で、たった一人きりで。

――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。

優しく笑う姉に、頷きながらも感じたあの心の重さは、その責任感からくるものからだったのだろうか。



小さな呻き声に、はっとして子供に視線を向けた。
僅かに顰められた眉。傷が痛むのだろうか。
それとも悪い夢にうなされているのだろうか。
そっと額に触れる。数刻前よりも熱さを感じ、傍らに置いておいた手桶を引き寄せた。
手桶に張った水に手ぬぐいを浸し、絞る。それを子供の額に乗せれば、顰められた眉が幾分か和らいだような気がした。

「大丈夫」

頭を撫でながら、繰り返す。
半ば、自分に言い聞かせるかのように。
これからは、自分がこの子を守らなければならないのだ。姉はもういないのだから。
子供の頭を撫でながら、小さな木箱に視線を向ける。
中には、砕けてしまった茶碗が一口。姉だったもの。
この子のために食べ物を探しに出た先で、悪戯な鴉に攫われて、そのまま落とされ割れてしまった。
姉はいない。これからどうすればいいのか、何も分からない。まるで自分を使っていた男のようだと、思わず笑った。
妻に先立たれた男。無気力で明日を厭い、結局は一年と保たず、妻の後を追うように儚くなってしまった。
ならば自分もそうなるのだろうか。妻が使用していた茶碗《姉》が割れて一年せずに、自分も同じように割れるのか。
想像して馬鹿な事だと笑う。この子を置いて消える訳にはいかない。

「……まって」

小さな声に、視線を子供へと戻す。
浅い呼吸。汗ばんで赤い肌。だというのに、その体はかたかたと細かく震えている。
きっとこれからさらに熱が上がるのだろう。額に乗せた手ぬぐいを取り、汗を拭って手桶の水に浸す。
この子が苦しんでいるというのに、自分はこうして汗を拭い手ぬぐいを変える事くらいしか出来ない。
姉ならば、どうするだろうか。考えて、首を振る。
姉はいないのだ。いつまでも影を追っていては、本当に男と同じになってしまう。
自分の出来ることを、と考え、悩んで。

「大丈夫」

子供の側に寄り添い、同じように横になる。小さな体を、その傷ごとそっと包み込んで。

「大丈夫。側にいるから」

眠る子供に囁く。
いっそこの体の熱が、傷ごと自分に移ってしまえばいいと願いながら。
寄り添い言葉をかけるしか出来ない事が、悲しかった。


「泣かないで」

囁く声。いつの間にか目を覚ましていた子供が、身じろぎ寝返りを打ってこちらを見つめた。
澄んだ目はすべてを見透かしているようで、落ち着かない。けれど同時に縋ってしまいたくなる力強さがあって、視線を彷徨わせながら、腕を離す事が出来ずにいた。

「泣かないで」

繰り返して、手を伸ばした子供に頬を包まれる。暖かな温もり。目元を拭われて、泣いていたのかと他人事のように思った。

「ごめんなさい」

何故謝るのだろう。この子が謝らなければならない事は、何一つないだろうに。
謝るなと伝えるために口を開き、だが言葉はすべて嗚咽に変わる。何も言えずに、只管に首を振って、謝らないでほしいと伝えた。

「ここにいるから。ちゃんとここに」

静かな囁きが、痛む心に染み込んでいく。
触れる温もりが、冷えた感情に火を灯していく。
あぁ、そうか。声に出さずに呟いた。

姉が――ただの無機物だった頃から共にいた半身がいなくなって、自分は寂しかったのか。

ふと、男の姿が過ぎる。一人になった男の行動の意味をようやく知った。
一人になっても、自分と姉を並べて戸棚にしまっていた理由。
食事の際に、姉も出された理由。そしてそれに話しかけていた理由。

自分はどこまでも持ち主に似てしまったらしい。
なんだか可笑しくて、泣きながらも笑う。笑って、目の前の優しい天使をそっと抱きしめた。

「ありがとう」

いずれこの子は旅に出る。
その時に、自分はまた寂しさを感じるのだろう。
それでも。

――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。

自分には、こうしてそっと包み込む事くらいしか出来ないけれど。

「大丈夫。ぼくが守るから」

誓う言葉を口にする。
その言葉に、天使はふわりと微笑んで。

「ん。ありがと」

頬を包んでいた手を伸ばし、包み込むように頭を抱かれた。
鼓動が聞こえる。穏やかな熱に、ほぅと吐息が溢れる。

「一緒に、いよう?」

願う言葉に頷いた。
いつまで、とは聞かず。ずっと、とも返さない。
その期限は、最初から分かっている。

この果てしない空に、天使が飛び立つ日まで、だ。


20250523 『そっと包み込んで』

5/23/2025, 3:44:11 AM

弟の言葉が、頭の中で反響する。

「姉ちゃんなんて、ニセモノのくせにっ!」

売り言葉に買い言葉。本心ではなかったはずの言葉。
年の近い弟とは、些細な事でよく喧嘩をする。
今日の夕飯後の時もそうだ。テレビのチャンネル争いだったか、それとも弟の宿題の事だったか。
理由すらはっきりとは思い出せないほどの事で、弟と喧嘩をした。
手は出さない。言い争いが、次第に悪口の応酬になっていくだけだ。
互いに冷静ではなかった。思ってもいない事を口にして、後から後悔して謝るのはいつもの事。そしてそれを笑って許すのも、いつもの事だ。その場限りの言葉など、気にしなければいい。
そうは思うのに、何故こんなにも頭から離れてくれないのだろう。
最後に見た、弟のあの泣きそうに歪められた顔が忘れられない。
肯定も否定も出来ずに唇を戦慄かせて、結局何も言えずに去っていった怯えた眼が消えてくれない。
気のせいだ。自身に言い聞かせて、目を瞑る。
こんな時は寝てしまうのが一番だ。朝が来れば、きっとすべてが元通りになるのだから。

無理やりに眠りにつく。
どうか、と、祈る気持ちで明日を待った。





枕元のデジタル時計の音が、朝が来た事を伝えている。
ひとつ、溜息。あれから眠りにつく事はなく、朝を迎えてしまった。
やけに目が冴えている。眠気など欠片も感じないのは、やはり弟の言葉が気にかかっているからか。

ふと、小さくドアを叩く音がした。

「そろそろ起きなさい。ご飯出来たわよ」

ドア越しに母が声をかける。
時計を見れば、既に朝食の時間が過ぎてしまっていた。
気のない返事をしながら、着替えを済ませる。
リビングで弟に会う事を、少しばかり憂鬱に思いながらも、体は戸惑う様子も見せずにドアを開け、階段を駆け下りた。



朝食は、出来る限り家族で取るのが決まりとなっていた。
仕事でいない父以外、既に皆が席についてわたしを待っている。母と姉と兄。弟も何か言いたげにしながらも、静かに座っていた。
いつもの席に着く。それぞれがいただきます、と挨拶をするのに倣いいただきます、と声を上げる。
感じる視線に目を向ければ、弟が朝食に手をつけずこちらを見ている。

「食べないの?」
「あ……いや、その……」

やはり、昨日の事を気にしているのだろう。
弟の表情はどこか暗く、覇気がない。歯切れの悪い返事に、小さく笑って首を振ってみせる。

「昨日の事なら……」
「姉ちゃん」

泣きそうな、それでいて真剣な表情。静かに名を呼ばれ、思わず居住まいを正して弟を見た。

「あの、さ……昨日言った事。あれ全部、嘘だから。姉ちゃんは、ちゃんと俺の姉ちゃんだから」
「え?……あ、うん。ありが、とう?」

何と答えたらいいのか分からずに、取りあえず礼を言ってみる。
気まずい沈黙に、視線を彷徨わせた。

「――あれ?皆、どうしたの?」

普段とは異なる違和感に、困惑に眉を寄せる。
家族の誰もが、静かにわたし達のやり取りを見つめていた。
誰一人、朝食に手を出そうともせず。まるでわたしの行動を監視するような目に見つめられ、段々に不安が込み上げてくる。

――何か失敗しただろうか。

何か言わなければ。けれど何を言えばいいのか。
答えの出ない思考が、ぐるぐると渦を巻く。視線から逃れるように俯いて、空の食器をただ眺めていた。
かたん、と小さく椅子が引かれる音。
それに視線を向ける前に、誰かの手に目を覆われる。

「お母さん」

背後から聞こえたのは姉の声。いつもの明るい声とは違う、静かな声音。

「私、今日学校休むから……いいよね?」
「俺も休む」

立ち上がる音と共に、兄の声がする。
分かったわ、とやはり静かな母の声がして、リビングを出て行く足音が聞こえた。

――ニセモノ。

昨日の言葉が反響する。
家族の様子と言葉が混ざり合い、ひとつの答えを出そうと思考が巡る。
眠気など一向に訪れない。眠ろうとして、結局無駄だと気づいたのはいつからだっただろうか。

「お、俺も……」
「あんたは学校行きな。いたとこで、また馬鹿な事を言うだけなんだから」

冷たい姉の言葉に、弟が震える声で分かったと答える声がする。ぐすっと鼻をすする音。がたんと音を立て、急いで出ていく誰かの足音。弟は泣いてしまったのだろうか。
姉の手が離れない。何も見えない事が余計に怖くて、色々と考えてしまう。
真っ暗な中でも、眠気は来ない。
何も口にしなくとも、空腹を覚えない。

それは、一体いつからで――。

「駄目」

静かな声がする。泣きそうにも聞こえる姉の声が、鼓膜を揺する。

「お姉ちゃん」
「そう。私はあんたのお姉ちゃん。それであんたは私の妹なんだから」
「そうだ。俺達は家族だ。本物の」

言い聞かせるように囁かれる。
両親と姉と兄と弟。そしてわたし。家族なのだと、繰り返す。
それでも思考は止まらない。違和感がなくならない。
睡眠も食物も必要としない体。
他の兄姉は学校へ行くのに、一人だけ残される意味。

あぁ、そういえば。
一人で外に出た事もなかった事を、何故か今になって気づいた。
気づいてしまえば、後は組み立てるだけだ。
違和感と、気づいてしまった事と。それらを合わせて、ひとつを形作る。

「お姉ちゃん。お兄ちゃん」
「何?」
「なんだ?」

左右から兄姉の声がする。
視界を覆う姉の手に触れながら、笑ってみせた。

「もう大丈夫だよ」

姉の手を軽く叩いて外すよう促して。ゆっくりと外れていく手に自分の手を繋ぎ、明るいリビングの光に目を細めながら。

「大丈夫だよ。わたしは皆の家族だから」

泣きそうな二人を見つめて、もう一度笑ってみせた。


一度形になった答えは、もう消えない。
わたしは本当の家族ではないし、人間ですらなかった。
何年も前の事。
わたしは、この家の亡くなってしまった本当の娘の代わりとして、とある人形師に作られた。
思い出す。目が覚めた時の事を。人形師の言葉を。

――何かの代わりなど、いずれは破綻するもんだ。破綻するって事は、お前の役目は終わったって事。あいつらの虚ろは満たされて、欲が出たって事なんだから。

その時が来たら帰ってこい、と人形師は言っていた。
確かにそれがいいのだろう。そしてその時は、きっともう来ていたのだ。
もうこの家にとって、亡くなった娘への思いは昇華出来ているのだから。

例えば、わたしの部屋。食事の場。そして言葉。
娘の私物はなく、料理の乗らなくなった食器だけが出され。
そして、何度も家族だと告げてくれる。
家族は大分前にもう、わたしを娘の代わりとしてでなく、本当の家族として迎え入れていた。娘を忘れた訳ではない。娘の死を正しく受け入れ、そしてわたしを新しく本当の娘として、大事にしてくれている。
自分が人形だと忘れてしまっていたくらいには。
わたしの役目は終わった。それでもこの先どうすればいいのかは、分からない。
帰らなければいけない。帰りたくはない。
昨日のままであったのならば、何も知らないでこれからも笑っていられただろうに。
でも、今日が来た。全部に気づいてしまった今日が来てしまったから。

「心配しないでいいよ。分かってる。わたしはお兄ちゃんとお姉ちゃんの妹だよ」

きっと昨日のようには笑えない。
哀しい二人の表情が、それを教えてくれている。
もう昨日には戻れない。後戻りなんて出来はしない。
ならばせめて。

「ちゃんとここにいるから。大丈夫」

せめて、顔を上げて笑っているべきだ。
昨日とは違うわたしを抱いたまま、それでも続いていく明日のために。
今日を受け入れて、大好きな家族のいるこの場所で、生きていくために。



20250522 『昨日と違う私』

5/21/2025, 2:09:38 PM

夜の森に一人。静寂に紛れる音を探すように目を閉じる。
森には誰もいない。一人きりだ。
瞼の裏の暗闇に、かつての自身の姿を思い浮かべる。
男か女か。年の頃は。背は高かったのか、それとも低かったのか。
髪型。服装。そして顔。思い出せるものは何一つとしてない。
そも己という存在はほんの僅かな記憶の欠片と、かつて誰かに語った物語の断片によって成り立っているのだ。
夜啼く鳥であった母と、言の葉を操る父。
そして、愛おしい誰か。
思い出も面影すらも、記憶には残っていない。ただ彼らは確かにいたのだと、その存在を忘れる事は許さないとばかりに、欠片が心に突き刺さる。その痛みすらどこか愛しく感じられるのは、人として生きてきた時の己にとって、かけがえのないものだったのだろう。
目を開けて、自身の姿を見下ろした。
羽が所々抜け落ちた翼腕。その先の指の爪は長く鋭い。破れ、擦り切れた布を辛うじて巻き付けた体。腰辺りまで垂れる髪は、とうに艶を失ってしまっている。
鳥でもなく人ですらない。まるで化け物のように醜い姿。
誰かのために語った物語の一部だろうか。もう覚えてすらいないけれども。
空を見上げる。自身の姿から目を逸らすように、愛しい人の面影を探した。

――今、彼は幸せだろうか。

ふと過ぎていった思いに、可笑しな事だと一人声を出さずに笑う。
あれからどれだけの月日が流れたのか。とうに愛しい人は、その生を終えているだろうに。
それでもこうして時折思い出す。元気だろうか。もう泣いていないだろうかと。
面影すら記憶に留めていないというのに。本当に救いようもなく愚かな事だと、自らを哀れんだ。


かさり。
静寂に音が紛れ込む。草木をかき分ける、そんな小さな音。かさ、かさり。
音はどうやらこちらに近づいているらしい。視線だけを、音のする方向へ向けた。
目の前の草木が揺れる。誰かがこちらへと近づいてくる。
そして――。

そこから顔を出したのは、小さな少年だった。

「みつけた」

少年が笑う。太陽のような、眩いばかりの笑顔。
それをどこかで見たような気がして、首を傾げる。いつ、どこで見たのだろうか。

「夜更かしはほどほどにしとけって言ったのに。馬鹿だなあ」

夜更かし。
懐かしい響きに、目を瞬く。
見つめる少年の姿に、懐かしい面影が重なった気がした。

「……Sunrise, ……home again……」

無意識に紡がれる歌は、酷くざらつき歪んでいる。
いつかどこかで聞いた歌。今の自分の啼き声。
誰なのか、尋ねたくとも言葉は失われ、問いかける事は叶わない。
醜い姿。歪な啼き声。
それでも、少年はこの場を立ち去ろうとはしない。
醜さに顔を顰めるでもなく。歪さに耳を塞ぐでもなく。
それどころか少年の笑みは深くなり、静かに歩み寄り己の正面に立った。
小さな両手に頬を包まれる。顔を寄せて目を合わせ、囁いた。

「そうだ。夜明けだ。家に帰るんだよ」

夜明け。家。夜明けとは、家とは、何だっただろうか。

「Sunrise, sunrise……」

啼き声を上げる。己の言葉は通じないと知りながら、それでも聞かずにはいられなかった。

「Wake me……dark.……where you……」

あなたは誰。
どうしてここに来たの。
何故、夜に戻ってきてしまったの。

少年は答えない。ただ煌めく眼をして、真っ直ぐに己を見据えて言葉を紡ぐ。
言の葉を操る父のように力強く。夜に囀る母の歌のように只管に優しく。

「ちゃんと物語を終わらせろ……いいか?夜を彷徨う小鳥は、夜明けを連れて現れた番《つがい》と共に、いつまでも幸せに暮らしました、だ。めでたし、めでたし、だろ?」

目を瞬く。
めでたし、めでたし。
懐かしい響き。かつて物語の終わりを望まれて、応える事の出来なかった記憶が過ぎていく。
記憶の欠片と物語の断片と。砕けた思い出が、破れたページが互いに繋がり、元の形を取り戻していく。
あぁ、と啼き声ではない声が零れ落ちた。


「Sunrise, sunrise. Wake me from the dark. Show me where you are」

少年が歌う。
懐かしい歌。幼い私に母が教えてくれた事を思い出す。
ずっと覚えていてくれていたのか。
優しい声に導かれるように、声を上げた。

「夜明けよ、夜明け。この暗闇から目覚めさせて。彼がどこにも見当たらないの」

まだ掠れた声。それでも歌える。
母から教わった歌を彼が口ずさみ、父から継いだ物語の結びを、彼と共に紡いでいく。
月は沈み、空が白み始めていく。夜が終わるのだ。
僅かに滲みだした視界の先の彼に、手を伸ばした。

「Sunrise, sunrise. Bring me home again. Over the hills, under the sky, I'll find you in the light」
「夜明けよ、夜明け。お家に帰ろう。丘の上、空の下、光の先に、微笑む彼が待っている」

鋭い爪は彼を傷つける前に、解けて消えていく。
手を取り指を絡めて、彼は物語を終わらせろと望む。

「今度こそ、一緒に帰ろう」

笑いながらも真剣な彼の眼差しに促されるように。
長く続く物語を終わらせるため、口を開いた。





朝日の昇る森を、幼い少年が歩いていく。
その肩には、小さな小鳥。片足に銀色に光るリングが嵌められている。
幸せそうに笑う少年を日が照らす。
その伸びた影は、次第に少年と小鳥の姿を変えていき。
寄り添い歩く、男女の姿を形作っていた。



20250521 『Sunrise』

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