夜の森に一人。静寂に紛れる音を探すように目を閉じる。
森には誰もいない。一人きりだ。
瞼の裏の暗闇に、かつての自身の姿を思い浮かべる。
男か女か。年の頃は。背は高かったのか、それとも低かったのか。
髪型。服装。そして顔。思い出せるものは何一つとしてない。
そも己という存在はほんの僅かな記憶の欠片と、かつて誰かに語った物語の断片によって成り立っているのだ。
夜啼く鳥であった母と、言の葉を操る父。
そして、愛おしい誰か。
思い出も面影すらも、記憶には残っていない。ただ彼らは確かにいたのだと、その存在を忘れる事は許さないとばかりに、欠片が心に突き刺さる。その痛みすらどこか愛しく感じられるのは、人として生きてきた時の己にとって、かけがえのないものだったのだろう。
目を開けて、自身の姿を見下ろした。
羽が所々抜け落ちた翼腕。その先の指の爪は長く鋭い。破れ、擦り切れた布を辛うじて巻き付けた体。腰辺りまで垂れる髪は、とうに艶を失ってしまっている。
鳥でもなく人ですらない。まるで化け物のように醜い姿。
誰かのために語った物語の一部だろうか。もう覚えてすらいないけれども。
空を見上げる。自身の姿から目を逸らすように、愛しい人の面影を探した。
――今、彼は幸せだろうか。
ふと過ぎていった思いに、可笑しな事だと一人声を出さずに笑う。
あれからどれだけの月日が流れたのか。とうに愛しい人は、その生を終えているだろうに。
それでもこうして時折思い出す。元気だろうか。もう泣いていないだろうかと。
面影すら記憶に留めていないというのに。本当に救いようもなく愚かな事だと、自らを哀れんだ。
かさり。
静寂に音が紛れ込む。草木をかき分ける、そんな小さな音。かさ、かさり。
音はどうやらこちらに近づいているらしい。視線だけを、音のする方向へ向けた。
目の前の草木が揺れる。誰かがこちらへと近づいてくる。
そして――。
そこから顔を出したのは、小さな少年だった。
「みつけた」
少年が笑う。太陽のような、眩いばかりの笑顔。
それをどこかで見たような気がして、首を傾げる。いつ、どこで見たのだろうか。
「夜更かしはほどほどにしとけって言ったのに。馬鹿だなあ」
夜更かし。
懐かしい響きに、目を瞬く。
見つめる少年の姿に、懐かしい面影が重なった気がした。
「……Sunrise, ……home again……」
無意識に紡がれる歌は、酷くざらつき歪んでいる。
いつかどこかで聞いた歌。今の自分の啼き声。
誰なのか、尋ねたくとも言葉は失われ、問いかける事は叶わない。
醜い姿。歪な啼き声。
それでも、少年はこの場を立ち去ろうとはしない。
醜さに顔を顰めるでもなく。歪さに耳を塞ぐでもなく。
それどころか少年の笑みは深くなり、静かに歩み寄り己の正面に立った。
小さな両手に頬を包まれる。顔を寄せて目を合わせ、囁いた。
「そうだ。夜明けだ。家に帰るんだよ」
夜明け。家。夜明けとは、家とは、何だっただろうか。
「Sunrise, sunrise……」
啼き声を上げる。己の言葉は通じないと知りながら、それでも聞かずにはいられなかった。
「Wake me……dark.……where you……」
あなたは誰。
どうしてここに来たの。
何故、夜に戻ってきてしまったの。
少年は答えない。ただ煌めく眼をして、真っ直ぐに己を見据えて言葉を紡ぐ。
言の葉を操る父のように力強く。夜に囀る母の歌のように只管に優しく。
「ちゃんと物語を終わらせろ……いいか?夜を彷徨う小鳥は、夜明けを連れて現れた番《つがい》と共に、いつまでも幸せに暮らしました、だ。めでたし、めでたし、だろ?」
目を瞬く。
めでたし、めでたし。
懐かしい響き。かつて物語の終わりを望まれて、応える事の出来なかった記憶が過ぎていく。
記憶の欠片と物語の断片と。砕けた思い出が、破れたページが互いに繋がり、元の形を取り戻していく。
あぁ、と啼き声ではない声が零れ落ちた。
「Sunrise, sunrise. Wake me from the dark. Show me where you are」
少年が歌う。
懐かしい歌。幼い私に母が教えてくれた事を思い出す。
ずっと覚えていてくれていたのか。
優しい声に導かれるように、声を上げた。
「夜明けよ、夜明け。この暗闇から目覚めさせて。彼がどこにも見当たらないの」
まだ掠れた声。それでも歌える。
母から教わった歌を彼が口ずさみ、父から継いだ物語の結びを、彼と共に紡いでいく。
月は沈み、空が白み始めていく。夜が終わるのだ。
僅かに滲みだした視界の先の彼に、手を伸ばした。
「Sunrise, sunrise. Bring me home again. Over the hills, under the sky, I'll find you in the light」
「夜明けよ、夜明け。お家に帰ろう。丘の上、空の下、光の先に、微笑む彼が待っている」
鋭い爪は彼を傷つける前に、解けて消えていく。
手を取り指を絡めて、彼は物語を終わらせろと望む。
「今度こそ、一緒に帰ろう」
笑いながらも真剣な彼の眼差しに促されるように。
長く続く物語を終わらせるため、口を開いた。
朝日の昇る森を、幼い少年が歩いていく。
その肩には、小さな小鳥。片足に銀色に光るリングが嵌められている。
幸せそうに笑う少年を日が照らす。
その伸びた影は、次第に少年と小鳥の姿を変えていき。
寄り添い歩く、男女の姿を形作っていた。
20250521 『Sunrise』
5/21/2025, 2:09:38 PM