弟の言葉が、頭の中で反響する。
「姉ちゃんなんて、ニセモノのくせにっ!」
売り言葉に買い言葉。本心ではなかったはずの言葉。
年の近い弟とは、些細な事でよく喧嘩をする。
今日の夕飯後の時もそうだ。テレビのチャンネル争いだったか、それとも弟の宿題の事だったか。
理由すらはっきりとは思い出せないほどの事で、弟と喧嘩をした。
手は出さない。言い争いが、次第に悪口の応酬になっていくだけだ。
互いに冷静ではなかった。思ってもいない事を口にして、後から後悔して謝るのはいつもの事。そしてそれを笑って許すのも、いつもの事だ。その場限りの言葉など、気にしなければいい。
そうは思うのに、何故こんなにも頭から離れてくれないのだろう。
最後に見た、弟のあの泣きそうに歪められた顔が忘れられない。
肯定も否定も出来ずに唇を戦慄かせて、結局何も言えずに去っていった怯えた眼が消えてくれない。
気のせいだ。自身に言い聞かせて、目を瞑る。
こんな時は寝てしまうのが一番だ。朝が来れば、きっとすべてが元通りになるのだから。
無理やりに眠りにつく。
どうか、と、祈る気持ちで明日を待った。
枕元のデジタル時計の音が、朝が来た事を伝えている。
ひとつ、溜息。あれから眠りにつく事はなく、朝を迎えてしまった。
やけに目が冴えている。眠気など欠片も感じないのは、やはり弟の言葉が気にかかっているからか。
ふと、小さくドアを叩く音がした。
「そろそろ起きなさい。ご飯出来たわよ」
ドア越しに母が声をかける。
時計を見れば、既に朝食の時間が過ぎてしまっていた。
気のない返事をしながら、着替えを済ませる。
リビングで弟に会う事を、少しばかり憂鬱に思いながらも、体は戸惑う様子も見せずにドアを開け、階段を駆け下りた。
朝食は、出来る限り家族で取るのが決まりとなっていた。
仕事でいない父以外、既に皆が席についてわたしを待っている。母と姉と兄。弟も何か言いたげにしながらも、静かに座っていた。
いつもの席に着く。それぞれがいただきます、と挨拶をするのに倣いいただきます、と声を上げる。
感じる視線に目を向ければ、弟が朝食に手をつけずこちらを見ている。
「食べないの?」
「あ……いや、その……」
やはり、昨日の事を気にしているのだろう。
弟の表情はどこか暗く、覇気がない。歯切れの悪い返事に、小さく笑って首を振ってみせる。
「昨日の事なら……」
「姉ちゃん」
泣きそうな、それでいて真剣な表情。静かに名を呼ばれ、思わず居住まいを正して弟を見た。
「あの、さ……昨日言った事。あれ全部、嘘だから。姉ちゃんは、ちゃんと俺の姉ちゃんだから」
「え?……あ、うん。ありが、とう?」
何と答えたらいいのか分からずに、取りあえず礼を言ってみる。
気まずい沈黙に、視線を彷徨わせた。
「――あれ?皆、どうしたの?」
普段とは異なる違和感に、困惑に眉を寄せる。
家族の誰もが、静かにわたし達のやり取りを見つめていた。
誰一人、朝食に手を出そうともせず。まるでわたしの行動を監視するような目に見つめられ、段々に不安が込み上げてくる。
――何か失敗しただろうか。
何か言わなければ。けれど何を言えばいいのか。
答えの出ない思考が、ぐるぐると渦を巻く。視線から逃れるように俯いて、空の食器をただ眺めていた。
かたん、と小さく椅子が引かれる音。
それに視線を向ける前に、誰かの手に目を覆われる。
「お母さん」
背後から聞こえたのは姉の声。いつもの明るい声とは違う、静かな声音。
「私、今日学校休むから……いいよね?」
「俺も休む」
立ち上がる音と共に、兄の声がする。
分かったわ、とやはり静かな母の声がして、リビングを出て行く足音が聞こえた。
――ニセモノ。
昨日の言葉が反響する。
家族の様子と言葉が混ざり合い、ひとつの答えを出そうと思考が巡る。
眠気など一向に訪れない。眠ろうとして、結局無駄だと気づいたのはいつからだっただろうか。
「お、俺も……」
「あんたは学校行きな。いたとこで、また馬鹿な事を言うだけなんだから」
冷たい姉の言葉に、弟が震える声で分かったと答える声がする。ぐすっと鼻をすする音。がたんと音を立て、急いで出ていく誰かの足音。弟は泣いてしまったのだろうか。
姉の手が離れない。何も見えない事が余計に怖くて、色々と考えてしまう。
真っ暗な中でも、眠気は来ない。
何も口にしなくとも、空腹を覚えない。
それは、一体いつからで――。
「駄目」
静かな声がする。泣きそうにも聞こえる姉の声が、鼓膜を揺する。
「お姉ちゃん」
「そう。私はあんたのお姉ちゃん。それであんたは私の妹なんだから」
「そうだ。俺達は家族だ。本物の」
言い聞かせるように囁かれる。
両親と姉と兄と弟。そしてわたし。家族なのだと、繰り返す。
それでも思考は止まらない。違和感がなくならない。
睡眠も食物も必要としない体。
他の兄姉は学校へ行くのに、一人だけ残される意味。
あぁ、そういえば。
一人で外に出た事もなかった事を、何故か今になって気づいた。
気づいてしまえば、後は組み立てるだけだ。
違和感と、気づいてしまった事と。それらを合わせて、ひとつを形作る。
「お姉ちゃん。お兄ちゃん」
「何?」
「なんだ?」
左右から兄姉の声がする。
視界を覆う姉の手に触れながら、笑ってみせた。
「もう大丈夫だよ」
姉の手を軽く叩いて外すよう促して。ゆっくりと外れていく手に自分の手を繋ぎ、明るいリビングの光に目を細めながら。
「大丈夫だよ。わたしは皆の家族だから」
泣きそうな二人を見つめて、もう一度笑ってみせた。
一度形になった答えは、もう消えない。
わたしは本当の家族ではないし、人間ですらなかった。
何年も前の事。
わたしは、この家の亡くなってしまった本当の娘の代わりとして、とある人形師に作られた。
思い出す。目が覚めた時の事を。人形師の言葉を。
――何かの代わりなど、いずれは破綻するもんだ。破綻するって事は、お前の役目は終わったって事。あいつらの虚ろは満たされて、欲が出たって事なんだから。
その時が来たら帰ってこい、と人形師は言っていた。
確かにそれがいいのだろう。そしてその時は、きっともう来ていたのだ。
もうこの家にとって、亡くなった娘への思いは昇華出来ているのだから。
例えば、わたしの部屋。食事の場。そして言葉。
娘の私物はなく、料理の乗らなくなった食器だけが出され。
そして、何度も家族だと告げてくれる。
家族は大分前にもう、わたしを娘の代わりとしてでなく、本当の家族として迎え入れていた。娘を忘れた訳ではない。娘の死を正しく受け入れ、そしてわたしを新しく本当の娘として、大事にしてくれている。
自分が人形だと忘れてしまっていたくらいには。
わたしの役目は終わった。それでもこの先どうすればいいのかは、分からない。
帰らなければいけない。帰りたくはない。
昨日のままであったのならば、何も知らないでこれからも笑っていられただろうに。
でも、今日が来た。全部に気づいてしまった今日が来てしまったから。
「心配しないでいいよ。分かってる。わたしはお兄ちゃんとお姉ちゃんの妹だよ」
きっと昨日のようには笑えない。
哀しい二人の表情が、それを教えてくれている。
もう昨日には戻れない。後戻りなんて出来はしない。
ならばせめて。
「ちゃんとここにいるから。大丈夫」
せめて、顔を上げて笑っているべきだ。
昨日とは違うわたしを抱いたまま、それでも続いていく明日のために。
今日を受け入れて、大好きな家族のいるこの場所で、生きていくために。
20250522 『昨日と違う私』
5/23/2025, 3:44:11 AM