胎児のように、体を丸めて眠る小さな子の頭を撫でる。
ある日突然、空から降ってきた子。
体は傷だらけで、歩く事すら覚束ない。
姉はこの子を、翼を奪われた天使と呼んだ。
背中の傷。一番大きな焼け爛れたようにも見える傷が、まるで翼を捥がれた痕のようだと言っていた。
眠る子の背を見る。確かにそうは見えていたが、痕は一つだけだ。
捥がれたのだとしたら、片側だけ。もう片方は元よりなかった事になる。
それを伝えると、姉は楽しそうに片翼の天使だと笑っていた。
――きっとこの子には、私たちのように二人でひとつの存在がいるのよ。
姉の言葉を思い出す。
ならばこの子は、いずれ自分達の元を離れて旅に出るのだろうか。傷だらけの小さな体で、たった一人きりで。
――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。
優しく笑う姉に、頷きながらも感じたあの心の重さは、その責任感からくるものからだったのだろうか。
小さな呻き声に、はっとして子供に視線を向けた。
僅かに顰められた眉。傷が痛むのだろうか。
それとも悪い夢にうなされているのだろうか。
そっと額に触れる。数刻前よりも熱さを感じ、傍らに置いておいた手桶を引き寄せた。
手桶に張った水に手ぬぐいを浸し、絞る。それを子供の額に乗せれば、顰められた眉が幾分か和らいだような気がした。
「大丈夫」
頭を撫でながら、繰り返す。
半ば、自分に言い聞かせるかのように。
これからは、自分がこの子を守らなければならないのだ。姉はもういないのだから。
子供の頭を撫でながら、小さな木箱に視線を向ける。
中には、砕けてしまった茶碗が一口。姉だったもの。
この子のために食べ物を探しに出た先で、悪戯な鴉に攫われて、そのまま落とされ割れてしまった。
姉はいない。これからどうすればいいのか、何も分からない。まるで自分を使っていた男のようだと、思わず笑った。
妻に先立たれた男。無気力で明日を厭い、結局は一年と保たず、妻の後を追うように儚くなってしまった。
ならば自分もそうなるのだろうか。妻が使用していた茶碗《姉》が割れて一年せずに、自分も同じように割れるのか。
想像して馬鹿な事だと笑う。この子を置いて消える訳にはいかない。
「……まって」
小さな声に、視線を子供へと戻す。
浅い呼吸。汗ばんで赤い肌。だというのに、その体はかたかたと細かく震えている。
きっとこれからさらに熱が上がるのだろう。額に乗せた手ぬぐいを取り、汗を拭って手桶の水に浸す。
この子が苦しんでいるというのに、自分はこうして汗を拭い手ぬぐいを変える事くらいしか出来ない。
姉ならば、どうするだろうか。考えて、首を振る。
姉はいないのだ。いつまでも影を追っていては、本当に男と同じになってしまう。
自分の出来ることを、と考え、悩んで。
「大丈夫」
子供の側に寄り添い、同じように横になる。小さな体を、その傷ごとそっと包み込んで。
「大丈夫。側にいるから」
眠る子供に囁く。
いっそこの体の熱が、傷ごと自分に移ってしまえばいいと願いながら。
寄り添い言葉をかけるしか出来ない事が、悲しかった。
「泣かないで」
囁く声。いつの間にか目を覚ましていた子供が、身じろぎ寝返りを打ってこちらを見つめた。
澄んだ目はすべてを見透かしているようで、落ち着かない。けれど同時に縋ってしまいたくなる力強さがあって、視線を彷徨わせながら、腕を離す事が出来ずにいた。
「泣かないで」
繰り返して、手を伸ばした子供に頬を包まれる。暖かな温もり。目元を拭われて、泣いていたのかと他人事のように思った。
「ごめんなさい」
何故謝るのだろう。この子が謝らなければならない事は、何一つないだろうに。
謝るなと伝えるために口を開き、だが言葉はすべて嗚咽に変わる。何も言えずに、只管に首を振って、謝らないでほしいと伝えた。
「ここにいるから。ちゃんとここに」
静かな囁きが、痛む心に染み込んでいく。
触れる温もりが、冷えた感情に火を灯していく。
あぁ、そうか。声に出さずに呟いた。
姉が――ただの無機物だった頃から共にいた半身がいなくなって、自分は寂しかったのか。
ふと、男の姿が過ぎる。一人になった男の行動の意味をようやく知った。
一人になっても、自分と姉を並べて戸棚にしまっていた理由。
食事の際に、姉も出された理由。そしてそれに話しかけていた理由。
自分はどこまでも持ち主に似てしまったらしい。
なんだか可笑しくて、泣きながらも笑う。笑って、目の前の優しい天使をそっと抱きしめた。
「ありがとう」
いずれこの子は旅に出る。
その時に、自分はまた寂しさを感じるのだろう。
それでも。
――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。
自分には、こうしてそっと包み込む事くらいしか出来ないけれど。
「大丈夫。ぼくが守るから」
誓う言葉を口にする。
その言葉に、天使はふわりと微笑んで。
「ん。ありがと」
頬を包んでいた手を伸ばし、包み込むように頭を抱かれた。
鼓動が聞こえる。穏やかな熱に、ほぅと吐息が溢れる。
「一緒に、いよう?」
願う言葉に頷いた。
いつまで、とは聞かず。ずっと、とも返さない。
その期限は、最初から分かっている。
この果てしない空に、天使が飛び立つ日まで、だ。
20250523 『そっと包み込んで』
弟の言葉が、頭の中で反響する。
「姉ちゃんなんて、ニセモノのくせにっ!」
売り言葉に買い言葉。本心ではなかったはずの言葉。
年の近い弟とは、些細な事でよく喧嘩をする。
今日の夕飯後の時もそうだ。テレビのチャンネル争いだったか、それとも弟の宿題の事だったか。
理由すらはっきりとは思い出せないほどの事で、弟と喧嘩をした。
手は出さない。言い争いが、次第に悪口の応酬になっていくだけだ。
互いに冷静ではなかった。思ってもいない事を口にして、後から後悔して謝るのはいつもの事。そしてそれを笑って許すのも、いつもの事だ。その場限りの言葉など、気にしなければいい。
そうは思うのに、何故こんなにも頭から離れてくれないのだろう。
最後に見た、弟のあの泣きそうに歪められた顔が忘れられない。
肯定も否定も出来ずに唇を戦慄かせて、結局何も言えずに去っていった怯えた眼が消えてくれない。
気のせいだ。自身に言い聞かせて、目を瞑る。
こんな時は寝てしまうのが一番だ。朝が来れば、きっとすべてが元通りになるのだから。
無理やりに眠りにつく。
どうか、と、祈る気持ちで明日を待った。
枕元のデジタル時計の音が、朝が来た事を伝えている。
ひとつ、溜息。あれから眠りにつく事はなく、朝を迎えてしまった。
やけに目が冴えている。眠気など欠片も感じないのは、やはり弟の言葉が気にかかっているからか。
ふと、小さくドアを叩く音がした。
「そろそろ起きなさい。ご飯出来たわよ」
ドア越しに母が声をかける。
時計を見れば、既に朝食の時間が過ぎてしまっていた。
気のない返事をしながら、着替えを済ませる。
リビングで弟に会う事を、少しばかり憂鬱に思いながらも、体は戸惑う様子も見せずにドアを開け、階段を駆け下りた。
朝食は、出来る限り家族で取るのが決まりとなっていた。
仕事でいない父以外、既に皆が席についてわたしを待っている。母と姉と兄。弟も何か言いたげにしながらも、静かに座っていた。
いつもの席に着く。それぞれがいただきます、と挨拶をするのに倣いいただきます、と声を上げる。
感じる視線に目を向ければ、弟が朝食に手をつけずこちらを見ている。
「食べないの?」
「あ……いや、その……」
やはり、昨日の事を気にしているのだろう。
弟の表情はどこか暗く、覇気がない。歯切れの悪い返事に、小さく笑って首を振ってみせる。
「昨日の事なら……」
「姉ちゃん」
泣きそうな、それでいて真剣な表情。静かに名を呼ばれ、思わず居住まいを正して弟を見た。
「あの、さ……昨日言った事。あれ全部、嘘だから。姉ちゃんは、ちゃんと俺の姉ちゃんだから」
「え?……あ、うん。ありが、とう?」
何と答えたらいいのか分からずに、取りあえず礼を言ってみる。
気まずい沈黙に、視線を彷徨わせた。
「――あれ?皆、どうしたの?」
普段とは異なる違和感に、困惑に眉を寄せる。
家族の誰もが、静かにわたし達のやり取りを見つめていた。
誰一人、朝食に手を出そうともせず。まるでわたしの行動を監視するような目に見つめられ、段々に不安が込み上げてくる。
――何か失敗しただろうか。
何か言わなければ。けれど何を言えばいいのか。
答えの出ない思考が、ぐるぐると渦を巻く。視線から逃れるように俯いて、空の食器をただ眺めていた。
かたん、と小さく椅子が引かれる音。
それに視線を向ける前に、誰かの手に目を覆われる。
「お母さん」
背後から聞こえたのは姉の声。いつもの明るい声とは違う、静かな声音。
「私、今日学校休むから……いいよね?」
「俺も休む」
立ち上がる音と共に、兄の声がする。
分かったわ、とやはり静かな母の声がして、リビングを出て行く足音が聞こえた。
――ニセモノ。
昨日の言葉が反響する。
家族の様子と言葉が混ざり合い、ひとつの答えを出そうと思考が巡る。
眠気など一向に訪れない。眠ろうとして、結局無駄だと気づいたのはいつからだっただろうか。
「お、俺も……」
「あんたは学校行きな。いたとこで、また馬鹿な事を言うだけなんだから」
冷たい姉の言葉に、弟が震える声で分かったと答える声がする。ぐすっと鼻をすする音。がたんと音を立て、急いで出ていく誰かの足音。弟は泣いてしまったのだろうか。
姉の手が離れない。何も見えない事が余計に怖くて、色々と考えてしまう。
真っ暗な中でも、眠気は来ない。
何も口にしなくとも、空腹を覚えない。
それは、一体いつからで――。
「駄目」
静かな声がする。泣きそうにも聞こえる姉の声が、鼓膜を揺する。
「お姉ちゃん」
「そう。私はあんたのお姉ちゃん。それであんたは私の妹なんだから」
「そうだ。俺達は家族だ。本物の」
言い聞かせるように囁かれる。
両親と姉と兄と弟。そしてわたし。家族なのだと、繰り返す。
それでも思考は止まらない。違和感がなくならない。
睡眠も食物も必要としない体。
他の兄姉は学校へ行くのに、一人だけ残される意味。
あぁ、そういえば。
一人で外に出た事もなかった事を、何故か今になって気づいた。
気づいてしまえば、後は組み立てるだけだ。
違和感と、気づいてしまった事と。それらを合わせて、ひとつを形作る。
「お姉ちゃん。お兄ちゃん」
「何?」
「なんだ?」
左右から兄姉の声がする。
視界を覆う姉の手に触れながら、笑ってみせた。
「もう大丈夫だよ」
姉の手を軽く叩いて外すよう促して。ゆっくりと外れていく手に自分の手を繋ぎ、明るいリビングの光に目を細めながら。
「大丈夫だよ。わたしは皆の家族だから」
泣きそうな二人を見つめて、もう一度笑ってみせた。
一度形になった答えは、もう消えない。
わたしは本当の家族ではないし、人間ですらなかった。
何年も前の事。
わたしは、この家の亡くなってしまった本当の娘の代わりとして、とある人形師に作られた。
思い出す。目が覚めた時の事を。人形師の言葉を。
――何かの代わりなど、いずれは破綻するもんだ。破綻するって事は、お前の役目は終わったって事。あいつらの虚ろは満たされて、欲が出たって事なんだから。
その時が来たら帰ってこい、と人形師は言っていた。
確かにそれがいいのだろう。そしてその時は、きっともう来ていたのだ。
もうこの家にとって、亡くなった娘への思いは昇華出来ているのだから。
例えば、わたしの部屋。食事の場。そして言葉。
娘の私物はなく、料理の乗らなくなった食器だけが出され。
そして、何度も家族だと告げてくれる。
家族は大分前にもう、わたしを娘の代わりとしてでなく、本当の家族として迎え入れていた。娘を忘れた訳ではない。娘の死を正しく受け入れ、そしてわたしを新しく本当の娘として、大事にしてくれている。
自分が人形だと忘れてしまっていたくらいには。
わたしの役目は終わった。それでもこの先どうすればいいのかは、分からない。
帰らなければいけない。帰りたくはない。
昨日のままであったのならば、何も知らないでこれからも笑っていられただろうに。
でも、今日が来た。全部に気づいてしまった今日が来てしまったから。
「心配しないでいいよ。分かってる。わたしはお兄ちゃんとお姉ちゃんの妹だよ」
きっと昨日のようには笑えない。
哀しい二人の表情が、それを教えてくれている。
もう昨日には戻れない。後戻りなんて出来はしない。
ならばせめて。
「ちゃんとここにいるから。大丈夫」
せめて、顔を上げて笑っているべきだ。
昨日とは違うわたしを抱いたまま、それでも続いていく明日のために。
今日を受け入れて、大好きな家族のいるこの場所で、生きていくために。
20250522 『昨日と違う私』
夜の森に一人。静寂に紛れる音を探すように目を閉じる。
森には誰もいない。一人きりだ。
瞼の裏の暗闇に、かつての自身の姿を思い浮かべる。
男か女か。年の頃は。背は高かったのか、それとも低かったのか。
髪型。服装。そして顔。思い出せるものは何一つとしてない。
そも己という存在はほんの僅かな記憶の欠片と、かつて誰かに語った物語の断片によって成り立っているのだ。
夜啼く鳥であった母と、言の葉を操る父。
そして、愛おしい誰か。
思い出も面影すらも、記憶には残っていない。ただ彼らは確かにいたのだと、その存在を忘れる事は許さないとばかりに、欠片が心に突き刺さる。その痛みすらどこか愛しく感じられるのは、人として生きてきた時の己にとって、かけがえのないものだったのだろう。
目を開けて、自身の姿を見下ろした。
羽が所々抜け落ちた翼腕。その先の指の爪は長く鋭い。破れ、擦り切れた布を辛うじて巻き付けた体。腰辺りまで垂れる髪は、とうに艶を失ってしまっている。
鳥でもなく人ですらない。まるで化け物のように醜い姿。
誰かのために語った物語の一部だろうか。もう覚えてすらいないけれども。
空を見上げる。自身の姿から目を逸らすように、愛しい人の面影を探した。
――今、彼は幸せだろうか。
ふと過ぎていった思いに、可笑しな事だと一人声を出さずに笑う。
あれからどれだけの月日が流れたのか。とうに愛しい人は、その生を終えているだろうに。
それでもこうして時折思い出す。元気だろうか。もう泣いていないだろうかと。
面影すら記憶に留めていないというのに。本当に救いようもなく愚かな事だと、自らを哀れんだ。
かさり。
静寂に音が紛れ込む。草木をかき分ける、そんな小さな音。かさ、かさり。
音はどうやらこちらに近づいているらしい。視線だけを、音のする方向へ向けた。
目の前の草木が揺れる。誰かがこちらへと近づいてくる。
そして――。
そこから顔を出したのは、小さな少年だった。
「みつけた」
少年が笑う。太陽のような、眩いばかりの笑顔。
それをどこかで見たような気がして、首を傾げる。いつ、どこで見たのだろうか。
「夜更かしはほどほどにしとけって言ったのに。馬鹿だなあ」
夜更かし。
懐かしい響きに、目を瞬く。
見つめる少年の姿に、懐かしい面影が重なった気がした。
「……Sunrise, ……home again……」
無意識に紡がれる歌は、酷くざらつき歪んでいる。
いつかどこかで聞いた歌。今の自分の啼き声。
誰なのか、尋ねたくとも言葉は失われ、問いかける事は叶わない。
醜い姿。歪な啼き声。
それでも、少年はこの場を立ち去ろうとはしない。
醜さに顔を顰めるでもなく。歪さに耳を塞ぐでもなく。
それどころか少年の笑みは深くなり、静かに歩み寄り己の正面に立った。
小さな両手に頬を包まれる。顔を寄せて目を合わせ、囁いた。
「そうだ。夜明けだ。家に帰るんだよ」
夜明け。家。夜明けとは、家とは、何だっただろうか。
「Sunrise, sunrise……」
啼き声を上げる。己の言葉は通じないと知りながら、それでも聞かずにはいられなかった。
「Wake me……dark.……where you……」
あなたは誰。
どうしてここに来たの。
何故、夜に戻ってきてしまったの。
少年は答えない。ただ煌めく眼をして、真っ直ぐに己を見据えて言葉を紡ぐ。
言の葉を操る父のように力強く。夜に囀る母の歌のように只管に優しく。
「ちゃんと物語を終わらせろ……いいか?夜を彷徨う小鳥は、夜明けを連れて現れた番《つがい》と共に、いつまでも幸せに暮らしました、だ。めでたし、めでたし、だろ?」
目を瞬く。
めでたし、めでたし。
懐かしい響き。かつて物語の終わりを望まれて、応える事の出来なかった記憶が過ぎていく。
記憶の欠片と物語の断片と。砕けた思い出が、破れたページが互いに繋がり、元の形を取り戻していく。
あぁ、と啼き声ではない声が零れ落ちた。
「Sunrise, sunrise. Wake me from the dark. Show me where you are」
少年が歌う。
懐かしい歌。幼い私に母が教えてくれた事を思い出す。
ずっと覚えていてくれていたのか。
優しい声に導かれるように、声を上げた。
「夜明けよ、夜明け。この暗闇から目覚めさせて。彼がどこにも見当たらないの」
まだ掠れた声。それでも歌える。
母から教わった歌を彼が口ずさみ、父から継いだ物語の結びを、彼と共に紡いでいく。
月は沈み、空が白み始めていく。夜が終わるのだ。
僅かに滲みだした視界の先の彼に、手を伸ばした。
「Sunrise, sunrise. Bring me home again. Over the hills, under the sky, I'll find you in the light」
「夜明けよ、夜明け。お家に帰ろう。丘の上、空の下、光の先に、微笑む彼が待っている」
鋭い爪は彼を傷つける前に、解けて消えていく。
手を取り指を絡めて、彼は物語を終わらせろと望む。
「今度こそ、一緒に帰ろう」
笑いながらも真剣な彼の眼差しに促されるように。
長く続く物語を終わらせるため、口を開いた。
朝日の昇る森を、幼い少年が歩いていく。
その肩には、小さな小鳥。片足に銀色に光るリングが嵌められている。
幸せそうに笑う少年を日が照らす。
その伸びた影は、次第に少年と小鳥の姿を変えていき。
寄り添い歩く、男女の姿を形作っていた。
20250521 『Sunrise』
青年に手渡された薬湯を、促されるままに少女は飲み干していく。
「――どうだ?」
空になった湯飲みを受け取り、青年は尋ねる。喉を押さえ僅かに眉を寄せた少女は、その問いに静かに口を開いた。
「――」
だが少女の唇から溢れ落ちるのは、吐息のみ。目を伏せ、緩く首を振る少女に、青年は優しく微笑んでみせた。
「そんな顔をするなよ。必ずお前の声を取り戻してみせるから」
慰めのように少女の頭を撫で、青年は告げる。少女と交わした約束を、確かめるように繰り返した。
それに少女は緩く首を振る。諦めているのだろう。目を合わせる事なく否定する少女を、青年は暫し見つめ。静かに手を伸ばし、少女の顎を掬った。
晒される澄み切った深い青の瞳。困惑を浮かべた青を覗き込みながら、青年は改めて改めて約束を口にする。
「お前の声を取り戻す。約束は必ず守るから、諦めようとするな」
「――っ」
静かで強い声に窘められて、少女は息を呑む。迷うように視線を彷徨わせ、だが青年の目から逃れる事は出来ず。
困惑と諦めを眼に湛えながら、少女はゆっくりと頷いた。
「大丈夫、世界は広いんだ。諦めさえしなければ、必ず見つけて見せる」
青年は笑って少女から離れると、背の翼を大きくはためかせた。
風が渦を巻く。見守る少女の髪を、尾びれを揺すり過ぎていく。
「行ってくる。待っててくれ」
ばさり、と翼を羽ばたかせ、青年の体は空へと舞い上がる。
何かを言いたげな少女を一人残し。
青年は軽やかに、空の向こうへと飛び去っていった。
青年が空の彼方へと溶けるように消えたのを見送って、少女は小さく息を吐いた。
――今日もまた、何も言えなかった。
声が出ないからという理由は、ただの言い訳だ。本当に伝えたいのならば、他にいくらでも方法はあるのだから。
空を見上げ、そして海を見つめる。
少女が在るべき場所。そして青年が求めるものが溶けた、青い海を。
この海には、少女の声が溶けている。
少女が刈り取った、小さな恋心と共に。
空を征くモノ。夜より深い藍の色をした翼を持つ彼に、少女は憧れた。
憧れはいつからか、淡い想いを育て。だがその想いは花開く前に散ってしまった。
空と海。似て非なる二つの青は、果てまで行けども決して交わる事はない。海に在る少女の、この恋が花開く日は永遠に訪れはしないのだと。
少女はそう決めつけた。青年に問う事もなく一人で完結し、想いの蕾を自身の声と共に、黄昏の空に染められた海に溶かして沈めてしまったのだ。
今となっては、それを少女は後悔していた。
失った声を青年が惜しみ、約束という形で声を戻す方法を探すなど考えてもいなかった。
伝えなければと、何度も思った。しかし同時に、青年が少女のために行動を起こしているのだと思うと、仄暗い喜びに動けなかった。
それが青年の優しさ故の事であれ、少女を思ってくれている事が何よりも嬉しくて幸せだった。
目を伏せ首を振る。
――次に会った時こそ、必ず。
このままという訳にはいかない。
空に在る青年が、こうして地上に留まるべきではないのだ。
指先を海に沈める。ぐるりと円を描いて、海に溶け込んだ声と空の青を混ぜ合わせていく。
海に住まうものの鳴く声が響く。溶け込んだ少女の声と空の青を纏い、それは少女の歌声に変わっていく。
――今度こそ、この想いと共に。
眼を閉じて、深く呼吸を繰り返す。
今度こそ、と何度目かの決意を新たにして、静かに目を開けた。
過ぎる海を見下ろしながら、青年は少女の事を思っていた。
海に住まう、可憐な一輪の花。空に在る青年には、本来関わる事の出来るはずのない、そんな美しく愛しい少女の事を。
始まりは少女の声に引かれた。
次に歌う少女の姿に惹かれ。最後には、少女のすべてにどうしようもなく恋い焦がれてしまっていた。
少女と語り合える時間は、青年にとって何よりもかけがえのないものだった。空に染められたかのような青の瞳に自身の姿が映る度、この空に溶けてしまえたならばと、そんな詮無き幻想を抱いた。
けれど、少女は声をなくした。声を、そして笑顔を失い、青年の前からもその存在をなくそうとした。
それが青年には耐えられなかった。
半ば無理矢理、声を取り戻すと約束を交わし、千里を飛び、あらゆる術《すべ》を求めた。
再び少女の声で、青年の名を呼んでもらうため。微笑んでもらうために。
少女のためと大義名分を掲げながらも、その実、それは青年自身のための行為だ。
約束という鎖で少女を地上に繋ぎ止める。
少女が海へと還ってしまったのならば、二度と会う事は叶わないのだろうから。
「ごめんな」
誰にでもなく呟いて、青年は自嘲する。
「本当は知っているよ……でも、離せないんだ」
時折聞こえる海の音は、少女の声色によく似ていた。
おそらくは、少女の声は海へと還ってしまったのだ。
高度を下げ、海へと近づく。空の青を溶かし、そこに青年の劣情を混ぜ込んだような、深く暗い青。
腕を伸ばし触れた海は、少女の温もりなど感じない。
「溶けて、混じり合う事が出来るなら……そうだとしたら、どんなに幸せなんだろうな」
酷く滑稽で馬鹿げた事。それでも、願わずにはいられない。もしもいつかを夢見て青年は笑う。
腕を引き、高度と速度を上げた。
鳥は飛ぶ。天高く、どこまでも飛び続ける。
いつか海に溶けた空を飛び、空を溶かした海を泳ぎ歌う魚と添い遂げる夢を見て。
一羽の鳥が、空を飛ぶ。
20250520 『空に溶ける』
前触れもなく現れた男は、腕にかつて己が求められ作った人形を抱えていた。
少年の人形。数年前に、とある少女が依代として買い求めたものだった。
己の作る人形は、依代として求められる事も多い。命ある人形を求めて作り上げているのだ。人と寸分変わりない人形は、とても扱いやすいのだろう。
「これの使用者を探している」
男はそう言って、買い手の居所を求めた。
確かに作り手である己は、人形を通して様々なものを視る事が出来る。痕跡から、使用者の位置を特定する事すら出来るが、この人形からは何もみえない。
その原因を探り、人形に触れる。随分と丁寧に扱われていたようで、目立つ傷は見られない。良き相手に貰われたと密かに喜んでいれば、探る指先が人形の左薬指に嵌まる、銀製の指輪に触れた。
見慣れぬ指輪。僅かに術の痕跡を認め、目を凝らす。
「その指輪は、人形と共にここで作られたのか」
「いいえ。違います。異国のもののようですので、この子を依代としていた方に近しい者が与えたのではないでしょうか」
詳しくは見えてこないが、どうやら守護の術のようだ。
人形を守っているようで、その実、依代の本体を守っている。
おそらくは、この目の前にいる男から。
「この子を依代としていた者の現在の位置の特定は困難です。残念ですが、お引き取りを」
「ならば、これの中に使用者を入れる事は可能か」
何を言っているのだろう。この男は。
僅かに眉を寄せながら、男を見る。
感情の浮かばない眼や表情からは、男が何を考えているかは分からない。見えない意図に困惑しながらも、静かに首を振り、男の問いを否定した。
「痕跡が見受けられませんので、それも出来ません」
「そうか。邪魔をした」
そう言って、男は人形を抱き上げる。
そうして去って行く男の背に、思わず疑問を投げつけた。
「何故、その子の買い手を求める?」
男は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
相変わらず感情の読めない眼をして、静かに口を開いた。
「兄とは、妹を守るべきだからだ」
当然だと言わんばかりの、迷いのない声音だった。
目を瞬く。少し遅れてその意味を理解し、その不快さに内心で舌打ちする。
思い浮かぶのは、買い求めた時の少女の様子だ。
小さな背。痩せて骨と皮ばかりの体。色素を失った髪は白く、肩辺りでざんばらに切られている。
まともに栄養が取れていないのだろう。何も知らずに守ると言う男の傲慢さに、怒りを通り越し呆れすら浮かぶ。
あぁ、と納得した。
決して安くはない、しかも自身の性別とは真逆の少年の人形を、依代として買い求めた理由。指輪が守るもの。
少女は、男の歪な執着から逃げているのだ。
「あんたの言う、妹を守るとはどういう意味だ?」
問いかける。守ろうとして逃げられるなど、滑稽でしかない。
しかし、男はその問いの意味を理解しきれないのか、暫し沈黙し人形に視線を落とした。
その眼に初めて、微かではあるが感情が浮かぶ。困惑と不安だろうか。まるで迷子になった幼い子供のような色に、おや、と疑問が込み上げる。
「何故、守ろうと思った?その切っ掛けは何だ?」
重ねて問えば、男の視線は人形からこちらへと移る。その眼には困惑はなくなったが、僅かに残る不安はそのままだ。
「……ある兄妹に出会った。その兄が言っていた。兄とは妹を守るものなのだと。一族にとっての利用価値の有無ではなく、妹という人としての存在を慈しみ、守っていた」
「それで、羨ましくなったという訳か」
嘆息し呟けば、男は目を瞬き首を傾げる。
随分と幼い仕草だ。切っ掛けの事といい、この男の精神は物事を覚え始めの子供のように思える。
事実、そうなのかもしれない。妹を利用価値として見ていたのであれば、当然男も利用価値の有無を問われているはずだ。能力の優劣は当然として、そこに一族の従順さが求められたとしたら。そして成長の過程で、いくつもの出会いを通して自身の意思が育まれていたとしたら。
はぁ、と耐えきれず溜息が零れ落ちる。
まったく、術師というのはどんな一族であっても厄介だ。
「――一つ教えておいてやる。その指輪がある限り、買い手の痕跡は隠されたままだろう。詳細までは見えないが、守護の指輪だ――そしてそれは、指輪を嵌めた者にしか外す事は出来ない代物だ」
男は何も言わない。
ただ静かに、続く言葉を待っている。
「指輪の効力を失わせたいのなら、指ごと切り落とせばいい。だが確実ではないだろうし、依代の傷は術師へと反映される。つまり、だ」
男の目を見据え、告げる。
「どうしても、妹を守るために手元に置いておきたいのなら、守るべき者の身を損ねる覚悟をするんだな。守ると言いながらも傷をつけるその矛盾を、あんたがどう捉えるかは知らないが」
「どうしても……?」
ぽつり、と小さな呟き。
人形へと視線を向け、指に嵌まる鈍い銀色の煌めきに、男は表情を崩していく。
それは帰り道を失って、途方に暮れる子供のそれによく似ていた。
「約束は……いや、それも結局は……あぁ、だがそれでも」
哀しく、泣きそうな笑みを浮かべ。
男はこちらに一礼すると、静かに工房を出て行った。
「Poor man, don't you think?可哀想な人ね。ようやく持てた意思を、こんな形で否定されるなんて」
いつの間に来ていたのか。
部屋の片隅の机で優雅にティータイムを楽しむ彼女を一瞥し、疲れたように深く息を吐く。
レイスと呼ばれる、生霊に近い存在の、異国から訪れた術師。
己の作った人形を新たな器として得たというのに、今もこうしてこの工房に留まっているのは何故なのか。
「いつの間に戻ってきたんだか……運命の人とやらはどうしたんだ?」
半眼で見つめ、そう問いかければ、途端に彼女の頬は赤く染まり、恥ずかしげに俯いた。
どうやら、今日も声をかけられなかったようだ。
「いい加減、ここを宿にするのは止めてくれ。どうしてもというから、仕方なく貸しているんだと忘れるな」
「I can't help it, you know.だって、仕方ないじゃない。どうしても声をかける勇気が出ないんですもの」
スカートを握り締め、彼女はだって、だってと言い訳を重ねる。
ここ最近の見慣れた光景に、これ以上は何を言っても無駄だと諦め、工房の片付けに取りかかる事にした。
道具をしまいながら、ふと先ほどの男の行く先を思う。
あの様子では、傷をつけてまで妹を手元に置く事はないだろう。だが人形を手放す事も、あのままの状態では出来ない。意思を持ち始めたばかりの子供が、縋るものを手放して一人で生きていけるはずはない。
「You should probably just let him go.忘れてしまいなさい。どうしても手放さなければいけない時がこない限り、彼はずっとあのままよ」
「どうしても、か」
彼女の言葉に苦笑する。
もしもそのどうしてもが来たとしたら、あの男は一体どんな選択をするのだろうか。
それまでには、子供から大人になれているのだろうか。
「考えても仕方がないな」
緩く頭を振り、止まっていた手を動かす。
どんな事情があれど、すべては男の問題だ。外部が口を出す事でも、況してや面白おかしく詮索するべきでもない。
忘れようと意識を切り替え。
だが、ひとつ気になる事があり、彼女へと視線を向けた。
「あの指輪について、あんたはどう思う?」
問われて、彼女は眼を瞬き。ついと、視線を宙に彷徨わせながら僅かに顔を顰めた。
「That was more of an obsession than a protection.あれこそ、どうしても手放したくないという象徴ね。守るよりも、誰にも渡したくない。まるで蛇のような執念深さを感じるわ。守るために作られたはずのものなのに、作り手の強い想いに染められて。結果、執着の呪物と言えるものが出来上がっているのだから、皮肉なものね」
可哀想に、と呟く彼女に、確かにな、と同意する。
誰が、ではなく、誰もが救いようがない。
頭を振る。嫌な事は忘れてしまうべきだ。
そう自身に言い聞かせ、普段よりも丁寧に工房内を片付け始めた。
20250519 『どうしても…』