sairo

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青年に手渡された薬湯を、促されるままに少女は飲み干していく。

「――どうだ?」

空になった湯飲みを受け取り、青年は尋ねる。喉を押さえ僅かに眉を寄せた少女は、その問いに静かに口を開いた。

「――」

だが少女の唇から溢れ落ちるのは、吐息のみ。目を伏せ、緩く首を振る少女に、青年は優しく微笑んでみせた。

「そんな顔をするなよ。必ずお前の声を取り戻してみせるから」

慰めのように少女の頭を撫で、青年は告げる。少女と交わした約束を、確かめるように繰り返した。
それに少女は緩く首を振る。諦めているのだろう。目を合わせる事なく否定する少女を、青年は暫し見つめ。静かに手を伸ばし、少女の顎を掬った。
晒される澄み切った深い青の瞳。困惑を浮かべた青を覗き込みながら、青年は改めて改めて約束を口にする。

「お前の声を取り戻す。約束は必ず守るから、諦めようとするな」
「――っ」

静かで強い声に窘められて、少女は息を呑む。迷うように視線を彷徨わせ、だが青年の目から逃れる事は出来ず。
困惑と諦めを眼に湛えながら、少女はゆっくりと頷いた。

「大丈夫、世界は広いんだ。諦めさえしなければ、必ず見つけて見せる」

青年は笑って少女から離れると、背の翼を大きくはためかせた。
風が渦を巻く。見守る少女の髪を、尾びれを揺すり過ぎていく。

「行ってくる。待っててくれ」

ばさり、と翼を羽ばたかせ、青年の体は空へと舞い上がる。
何かを言いたげな少女を一人残し。

青年は軽やかに、空の向こうへと飛び去っていった。





青年が空の彼方へと溶けるように消えたのを見送って、少女は小さく息を吐いた。

――今日もまた、何も言えなかった。

声が出ないからという理由は、ただの言い訳だ。本当に伝えたいのならば、他にいくらでも方法はあるのだから。
空を見上げ、そして海を見つめる。
少女が在るべき場所。そして青年が求めるものが溶けた、青い海を。
この海には、少女の声が溶けている。
少女が刈り取った、小さな恋心と共に。

空を征くモノ。夜より深い藍の色をした翼を持つ彼に、少女は憧れた。
憧れはいつからか、淡い想いを育て。だがその想いは花開く前に散ってしまった。
空と海。似て非なる二つの青は、果てまで行けども決して交わる事はない。海に在る少女の、この恋が花開く日は永遠に訪れはしないのだと。
少女はそう決めつけた。青年に問う事もなく一人で完結し、想いの蕾を自身の声と共に、黄昏の空に染められた海に溶かして沈めてしまったのだ。
今となっては、それを少女は後悔していた。
失った声を青年が惜しみ、約束という形で声を戻す方法を探すなど考えてもいなかった。
伝えなければと、何度も思った。しかし同時に、青年が少女のために行動を起こしているのだと思うと、仄暗い喜びに動けなかった。
それが青年の優しさ故の事であれ、少女を思ってくれている事が何よりも嬉しくて幸せだった。

目を伏せ首を振る。

――次に会った時こそ、必ず。

このままという訳にはいかない。
空に在る青年が、こうして地上に留まるべきではないのだ。
指先を海に沈める。ぐるりと円を描いて、海に溶け込んだ声と空の青を混ぜ合わせていく。
海に住まうものの鳴く声が響く。溶け込んだ少女の声と空の青を纏い、それは少女の歌声に変わっていく。

――今度こそ、この想いと共に。

眼を閉じて、深く呼吸を繰り返す。
今度こそ、と何度目かの決意を新たにして、静かに目を開けた。





過ぎる海を見下ろしながら、青年は少女の事を思っていた。
海に住まう、可憐な一輪の花。空に在る青年には、本来関わる事の出来るはずのない、そんな美しく愛しい少女の事を。
始まりは少女の声に引かれた。
次に歌う少女の姿に惹かれ。最後には、少女のすべてにどうしようもなく恋い焦がれてしまっていた。
少女と語り合える時間は、青年にとって何よりもかけがえのないものだった。空に染められたかのような青の瞳に自身の姿が映る度、この空に溶けてしまえたならばと、そんな詮無き幻想を抱いた。
けれど、少女は声をなくした。声を、そして笑顔を失い、青年の前からもその存在をなくそうとした。
それが青年には耐えられなかった。

半ば無理矢理、声を取り戻すと約束を交わし、千里を飛び、あらゆる術《すべ》を求めた。
再び少女の声で、青年の名を呼んでもらうため。微笑んでもらうために。

少女のためと大義名分を掲げながらも、その実、それは青年自身のための行為だ。
約束という鎖で少女を地上に繋ぎ止める。
少女が海へと還ってしまったのならば、二度と会う事は叶わないのだろうから。

「ごめんな」

誰にでもなく呟いて、青年は自嘲する。

「本当は知っているよ……でも、離せないんだ」

時折聞こえる海の音は、少女の声色によく似ていた。
おそらくは、少女の声は海へと還ってしまったのだ。

高度を下げ、海へと近づく。空の青を溶かし、そこに青年の劣情を混ぜ込んだような、深く暗い青。
腕を伸ばし触れた海は、少女の温もりなど感じない。

「溶けて、混じり合う事が出来るなら……そうだとしたら、どんなに幸せなんだろうな」

酷く滑稽で馬鹿げた事。それでも、願わずにはいられない。もしもいつかを夢見て青年は笑う。 
腕を引き、高度と速度を上げた。



鳥は飛ぶ。天高く、どこまでも飛び続ける。
いつか海に溶けた空を飛び、空を溶かした海を泳ぎ歌う魚と添い遂げる夢を見て。

一羽の鳥が、空を飛ぶ。



20250520 『空に溶ける』

5/20/2025, 2:08:25 PM