sairo

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5/5/2025, 2:05:22 PM

ふと、居間のテーブルに置かれた一枚の封筒に、彼女は目を留めた。
白の封筒。宛名には『宮代 燈里《みやしろ あかり》様』と書かれているのみで、それ以外は何もない。
首を傾げながら、彼女は封筒を手に取った。裏を見るも、やはり何も書かれてはいなかった。
彼が置いたのだろうか。過ぎる思考に、それはないなと否定する。彼の筆跡ではないし、そもそも同じ屋根の下で暮らしているのだから、伝えたい事があれば直接話せばよい事だ。
では誰が。疑問に思いながらも、彼女はさほど警戒はせず。
封に手をかける。然程抵抗なく離れた封を開け。

中を覗き込んだ。





波の音が聞こえる。
単調で、静かな音。優しく、怖ろしささえ感じるそれに誘われるように、彼女はゆるり、と瞼を開いた。

「――っ!?」

息を呑む。微睡む意識が一瞬で覚醒し、視界に映る光景を凝視する。
夜の闇を照らすいくつもの提灯の灯り。賑わいを見せる様々な出店。
子供達の笑い声がする。誰かが談笑しながら彼女の側を通り過ぎる。
遠くで聞こえる祭り囃子の笛の音に、彼女はふるりと肩を震わせた。

「どうしたの、お姉ちゃん?」

手を握る感触と、高い子供の声に視線を向けた。ふくよかな笑みを湛えた男の面を着けた子供が、首を傾げながら彼女を見つめている。
きゅっと繋いだ手が、少しばかり強く握られる。祭の奥へ行こうと、彼女を誘う。

「早く行こう?お神楽が始まっちゃうよ」

神楽。その言葉に、彼女の表情が強張った。
知っている。提灯の灯りも、祭を楽しむ人の声も。この先にある、舞台の事も。
それは、彼女が学生時代に見た悪夢だ。忘れようとして、忘れたくはなくて、記憶の奥底に刻みつけて封をした。長い夜の夢だった。

「行こうよ。運が良ければ――様が見られるかもしれないし」

先ほどより強く手を引かれる。嫌だと硬直する体は、だが彼女の意思に反して、子供に手を引かれるままに歩き出した。行かない、と一言口にする事も、首を振る事すら出来ず、彼女は子供と共に奥へと歩いていく。

「今回はね、隣のおじさんが――様に選ばれたんだって。いいなぁ。幸せになれるんでしょう?…いいなぁ」

子供と二人、手を繋いで奥へと歩いて行く。心底羨ましそうに呟く言葉は、彼女に取って恐怖でしかなかった。

――祭で、選ばれた者は。

固く閉ざしたはずの封をこじ開け、記憶が溢れ出す。
夜の祭。面。選ばれた者。その行く末を思い出さぬよう、彼女はきつく目を閉じた。
思い出してはいけない。これは思い出さなくてもいいものだ。
何度も自身に言い聞かせる。手を繋いでいない手で胸元を探り、守り袋を強く掴んだ。

「お姉ちゃん」

静かな声が彼女を呼ぶ。目的地に着いたのか、立ち止まっている事に気づいた。
賑やかな声も笛の音も聞こえない。聞こえるのは波の音だけ。

「お姉ちゃん。――様だよ」

繋いだ手が離れていく。
行ってしまう。何故かそれが怖くて、目を開けた。

「――え?」

視界に広がる、夜の海。寄せては返す波の音に、彼女は目を瞬いた。
困惑して、手を繋いでいた子供へと視線を向ける。だが子供は彼女の事など眼中にない様子で、ただ一点を見つめていた。

「ほら、――様。今回はおじさんが呼び込んだんだ」

一点を見つめたまま、子供は指を差す。促されて指の差す方へと視線を向け、彼女は動きを止めた。
小さな小舟。波に揺られるその船から、一人の男が下りて来た。その腕には何かを抱いている。布にくるまれたそれを抱いて、男は彼女らの方へと近づいてきた。
まるで見えていないように、男は彼女に一瞥もくれずその前を通り過ぎる。視線を外せずにいた彼女は、男が過ぎ去る際に、その抱いたものを見てしまった。
ひゅぅ、と張り付く喉がなる。叫ぶ事も目を逸らす事も出来ずに、彼女はただ男を見つめ続けている。
困惑と混乱。一切の理解が出来ず、じわりと視界の端が歪んだ。

「カンタイが始まるよ」

子供の声を聞きながら、彼女は男を見続ける。
岸壁に開いた洞《あな》。海蝕洞に足を踏み入れた男は、祠の前に抱いていた何かを置いた。
深く礼をする。三回。ぼそぼそと何かを唱える声がした。

「お塩と、お酒。あとお魚かお米…一口ずつ。お供えをするんだよ」

子供の言葉の通りに、男が麻の袋から何かを取り出し、祠に供える。また深く礼をして、男は何かを唱え出す。
これは祝詞《のりと》だろうか。単調な声に意識が揺らぎ出す。

「終わったらね、送り出すの。今回の――様は――だから、海に送る事は出来ないけれど。ちゃんと――を」

子供の声が遠く聞こえる。滲み出した視界で、先ほど見た何かを思い出す。
布に包まれたもの。だらりと垂れ下がる青白いあれは。布の隙間から見えた、水を吸ってふやけたあの白は。


「お姉ちゃん、忘れないでね。ジュウ様を呼び入れたら、ちゃんと歓待して、送り出すんだよ」

視界が黒く染まり出す。
遠くなる子供の声に、記憶の中の誰かの声が重なった。



かたん。
小さな音に、彼女は肩を揺らし顔を上げた。
自宅の居間。何も変わらない、いつもの光景。

「今、のは…?」

目を瞬く。夢を、見ていたのだろうか。
ぼんやりとする意識で、彼女は白の封筒を探した。取り落としてしまったらしい封筒が、足下に落ちている事に気づき、徐に身を屈め封筒に手を伸ばした。
しかし、それより速く彼女ではない手が封筒を拾い上げる。封筒を追って視線を向けた彼女は、その手が彼のものだと気づき、目を見張った。

「燈里《あかり》」

低く名を呼ばれ、彼女はびくりと身を縮こませる。ごめんなさい、と無意識に彼への謝罪を口にした。

「これから先、俺の許可したもの以外は不用意に触るな」

小さく頷く。俯く視界の隅で彼が封筒を逆さにし、中身を手に取るのを見ながら、守り袋を握り締めた。
彼の手の上に、数枚の花びらが落ちる。名も知らぬそれは、彼の手の中で色を青から朱へと色を変え、消えていく。

「冬玄《かずとら》」
「警告…いや、示唆か。燈里、何を見たのか教えてくれ」

彼に呼ばれ、彼女は不安げな面持ちで彼を見る。手招く彼の姿に、一瞬誰かの姿を重ね見て。

――先生。

言いかけて、口を噤む。
気のせいなのだと首を振り、彼女は縋るように彼の腕の中に飛び込んだ。



20250505 『手紙を開くと』

5/4/2025, 2:01:29 PM

海の中を、流れのままに漂っていた。
潮が満ち、引いていく。抗う事なくその流れに身を任せ、ここに辿り着いた。
ぼんやりと、空を見上げる。遠く揺らめく空はいつでも昏く、今が昼か夜かすらも分からない。
今となっては、意味のない事。海の中では、時間の概念などありはしないのだから。
潮の流れが変わった。また新しく、流れ着くものがあるだろう。今度は物か、それとも者なのか。
どちらでも、何であれども変わらない。ここに流れ着いたものは、すべて等しくジュウに成る。物体も命も、何もかもが解けて混じり合う。混じり合ってひとつになり、たくさんになるのだ。
流れが変わる。水面が近づいて、岸が近い事を知る。
水面越しに、誰かと目が合った。男か女か、はっきりとはしない。合っていると思う目すら、きっとすれ違っているのだろう。
岸が近い。強く引き寄せられ水面越しの誰かの姿が、少しだけ輪郭をはっきりさせる。
誰かが手を伸ばす。抗わずその手に身を任せ。


カンタイの予感に、ざわりとジュウが揺らめいた。





「――燈里《あかり》!」

名を呼ばれて、彼女ははっと顔を上げた。
視線を巡らせる。自宅の居間。食べかけのトースト。
眉を寄せる、彼。

「あ。ごめんね。何だっけ?」

眉を下げる彼女を、暫し無言で彼は見つめ。
重苦しく溜息を吐く。首を振り、彼は静かに立ち上がった。

「冬玄《かずとら》?」
「やっぱり、行かせるべきじゃなかったか」

低い呟きに、彼女は目を瞬く。不安げに瞳を揺らし彼に手を伸ばすが、普段のようにその手が取られる事はなかった。伸ばした手を戻し俯く彼女を一瞥し、彼は居間を出る。

「冬玄…」

呼んでも答える声はない。それが余計に心細くなり、彼女はごめんなさい、と声に出さずに呟いた。
学校から戻ってきてから、彼と少しばかり距離が開いた事を、彼女は感じていた。彼女自身、彼の目を以前のようにまっすぐには見れないでいる。
彼の目を見る時、不意に誰かの目と重なる時があるのだ。それが誰なのか、彼女には分からない。そんな彼女に彼も何かを言う事はなく。あれから数日が過ぎていた。

「燈里」

彼に呼ばれ、彼女は顔を上げる。その目は彼に向けられているが、やはり視線が合う事はない。戻ってきた彼の手に収まる小さな守り袋を意味なく見つめながら、彼女はもう一度ごめんなさいと心の中で呟いた。


「止めた所で今更だしな。それに中途半場で引き摺る方が、危険だろう」
「どういう、意味?」

困惑する彼女に彼は微笑んで、手にした守り袋を彼女の首に提げる。そのまま背後から抱きしめながら、幼い子供にするように優しく彼女の頭を撫でた。

「朝メシ。冷めるぞ」

あ、と間の抜けた声が彼女から漏れる。それに笑って彼は彼女から離れると、食後のコーヒーを入れるために台所へと足を向けた。





生徒が一人消えたあの日。それから音沙汰のなかった恩師から連絡が入ったのは、その日の午後の事であった。

「――え?美術部の先生が、ですか?」

電話の向こう側の恩師の声が震えているのを感じながら、彼女は小さく身を震わせた。

「そうなのよ。あの子と同じように、絵を赤と青で塗り潰しているの。他の先生方や生徒達にも不安が広がっていて」

あの絵。あの海のような昏い群青色を思い出す。
その色を、彼は「ジュウの青」だと言った。それが何を意味するのかを、彼女はまだ彼に聞いていなかった事に気づく。

「宮代《みやしろ》さん。その…貴女の伝手で、誰かいないかしら……こういった、よく分からないものを解決してくれそうな人に」

解決。
一番最初に思い浮かんだのは、婚約者である彼の事だった。
頭を振る。彼に頼む訳にはいかないと、意識を切り替え、すみません、と恩師に謝罪した。

「あの、先生」

短い沈黙の後の別れの挨拶の前に、彼女は恩師に声をかける。なにかしら、とどこか気落ちした恩師の声に、口籠もりそうになる気持ちを堪えて、口を開く。

「お願いがあるんです…あの絵を、もう一度見せてもらう事は出来ませんか?」

電話の向こうで息を呑む音がした。僅かに明るい、了承の返答を受けて、後日伺う旨と受け入れてもらえた事の礼を言って電話を切る。
深い溜息を吐いて顔を上げれば、腕を組んだ彼の目と視線が合った。

「俺も行く。いいな」

静かに問われ、目を逸らすように彼女は頷く。無意識に首から提げた守り袋を握り締める。

――…せい。

馴染んだ響き。記憶の奥底に刻みつく恐怖に形を与える言葉。

――先生。

恩師ではない。別の誰か。目を閉じ、耳を塞いで、忘れようと踠く悪夢に差し込む一筋の星明かり。
顔も声も思い出す事はないというのに、忘れられない愛しい響き。

何故だか、無性に泣きたかった。

「冬玄」

腕を伸ばし、彼に抱きつく。避けられず受け入れられた事で、余計に泣きたくなり、彼の胸に縋り付いた。

「冬玄、冬玄っ」

頭を撫でられる感覚に、絶えきれず彼女の目から涙が零れ落ちる。嗚咽を溢す彼女の頭を撫でながら、彼は優しく囁いた。

「大丈夫だ、怖くない。怖いものは何もないだろう」
「ほんと、に?」
「あぁ…それでも怖いって言うなら、俺に望め。何とかしてやるから」

涙で滲む視界越しに彼を見上げる。安堵と、幾許かの怖れを抱きながら、彼女は小さく頷いた。

――望み過ぎたら……気ぃつけぇ。

誰かの忠告が、彼女の頭を過ぎる。
それが誰だったのか、彼女は覚えてはいなかった。



20250504 『すれ違う瞳』

5/4/2025, 6:15:24 AM

放課後の美術室。生徒が一人、キャンバスに向かい、無心で何かを描いている。
否、正しくはキャンバスを一色で塗り潰している。その手が止まる事はなく、けれどもキャンバスを見つめる瞳は酷く虚ろだ。
元は一面の緋色が、青で塗り潰されていく。深い青。群青色。
まるで灯り一つない夜のように。深い海の中のように。
朱を青で染め上げて、生徒はようやく筆を置いた。微笑みを携え、塗り上げたばかりの青へと手を伸ばす。
不意に、虚ろな瞳が焦点を結ぶ。一つ、二つ瞬きをして、伸ばした手を見つめ、そしてキャンバスを見た。

「――ぁ……あぁ。ああぁあっ」

目を見開き、言葉にならない悲鳴が漏れる。伸ばした腕を急いで引き、視線は逸らせぬままに、手探りで絵の具を手繰り寄せる。
叩きつけるようにパレットに出したのは、朱色。青を描いた筆とは別の筆を取り出し、半狂乱になりながら染めたばかりの青を朱で塗り潰していく。

「ぃや。や、いや。青が、どうしてっ。青、青い、青い…いやだっ」

青が朱に染められていく。混じり合う事はない。青を覆い隠すように、封じるように朱を重ねていく。

「どうして、なんで……青い、青、が」

繰り返す。何度でも。キャンバスに青と朱が重ねられていく。


それは美術室に教師が訪れ、止めるまで続けられていた。





彼女が母校へと足を運んだのは、恩師から連絡を受けてから三日後の事であった。

「お久しぶりです。先生」
「久しぶりね、宮代さん。元気そうでなによりよ…急に呼び出してしまって申し訳ないわね」

眉を下げる恩師に、彼女は微笑んで首を振る。

「大丈夫です。ちょうど今、仕事も落ち着いていますし…それよりも」

笑みを収め、彼女は真剣な面持ちで恩師を見つめる。さらに眉を下げ憂う表情を浮かべながら、恩師は彼女を促し職員室を出た。


「ごめんなさいね。精神的なものだろうって言われているのだけれど、どうしてもそれだけではない気がして…何ていうのかしら。取り憑かれている、ような」
「私は霊能者ではないので、本当に取り憑かれていても何も出来ないですよ」

申し訳ない、と何度も謝罪しながら、不安を色濃くする恩師の目に微かな希望と期待を見て、彼女は苦笑する。
フリーライターとして地方の廃れた伝統や風習を中心に記事を書く彼女は、確かに他よりはそういったものに関しての知識がある。だがそれだけだ。少しばかり詳しいというだけで、物語のように鮮やかに恩師の憂いを取り除く事など、出来るはずがない。
彼女の困惑を感じ取ったのだろう。恩師は話題を変えるように穏やかに微笑み、努めて明るい声を上げた。

「気にしなくていいの。どちらかと言えば、私が貴女に会いたくなってしまったのよ。卒業してから、連絡がなくなるのは仕方がないけれど、他の子は一度くらいは顔を見せに来てくれたのに、貴女と言ったら」
「すみません。大学で民俗学を専攻したら、色々と忙しくって。卒業して就職したら、さらに地方を飛び回る事になったものですから」
「まったく。いつも心配していたのよ。在学中、数週間も昏睡状態で。その時から貴女は何かが変わった感じもするし…本当に心配していたのよ」

心から彼女の身を案ずる恩師に、彼女は頭を下げるしかない。その当時の朧気な記憶が過ぎ、胸の内に暖かさが広がると同時に、冷たいひとひらが降り注ぐ。それを掻き消すように、恩師に謝罪の言葉を口にしかけ、だがそれは形になる事はなかった。
聞こえたのは、誰かの声。焦りを含み、何かを止めようと声を上げている。
声はどうやら、向かうはずだった美術室から聞こえているらしい。一度恩師に視線を向けてから、彼女は美術室を目指し足を速めた。





美術室の扉を開けて、足を踏み入れた彼女の目を奪ったのは、キャンバスを覆う一面の青だった。
深い群青色。海の中深くにいるような錯覚に、無意識に呼吸が止まる。

「止めなさい!」

叫ぶような声に、はっとして視線を向ける。キャンバスの前、絵筆を手にする生徒と、それを静止しようとする教師。まるで教師の事が見えていないように、生徒は無心でキャンバスを青で塗り潰している。
ふと感じた違和感に、彼女は目を凝らす。遅れて美術室に訪れた恩師の引き止める声も気にかけず、キャンバスへと近づいた。

「――赤?」

塗り潰す青の下に見える色の痕跡を見つけ、彼女は訝しげに眉を寄せた。
赤よりも鮮やかなそれは、朱色。魔を払う力を持つとされる丹《に》の色。それが青に塗り潰されていく。
キャンバスの厚みに、それが何度も繰り返されてきた事に、彼女は気づいて身を震わせた。何度も朱で封じ、その封を破って青が浸食する。

「っ、駄目!」

青を止めようと生徒に駆け寄るが、僅かばかり遅かった。
恍惚と微笑む生徒。筆を置き、キャンバスに手を伸ばす。
その手を止めようとしていた教師が掴むが、それを意に介さず生徒の指先がキャンバスの青に触れた。

聞こえたのは声か、旋律か。
嘆き恨む声のような。祈り願う旋律のような。
音が、美術室に響き渡る。

最初に悲鳴を上げたのは、生徒を止めていた教師だった。手を離し、後退る勢いで崩れ落ちる。見開かれた目は生徒ではなくキャンバスだけを凝視し、地べたに座ったままでさらに後退していく。
声にならない悲鳴が生徒から漏れる。青に触れていた生徒の手が、キャンバスから伸びた手に掴まれ、引き込まれていく。
恐怖で強張り動けない生徒の体を、いくつもの手が覆う。青白い死者の手が、青の向こうに広がる昏い海へと生徒を連れて行く。
その一つ、細い手が生徒の隣で佇む彼女へと伸びた。

「止めろ。これはお前らのもんじゃない」

低い声。ぐいと背後に体が引かれ、手が彼女に届く事はない。
しばらく宙を彷徨う手は、やがて諦めて生徒の肩を掴む。
悲鳴すら出せないでいる生徒を引き寄せていく。

「――いやっ」

か細い声。生徒の指先が逃れるように動き、涙に濡れた目が彼女を見た。
咄嗟に助けようと彼女は身じろぐが、背後から抱き込まれるようにして拘束する誰かの腕がそれを許さない。誰かのもう片方の手は彼女の視界を覆い、嫌だと踠く彼女を生徒と青から隔離した。
音が響く。高く、低く渦を巻くような音は、多重に折り重なった人々の想いだ。
喜び。悲しみ。嘆き。願う。それに似た声を、彼女はかつて聞いた事があった気がした。
水音がする。ぱしゃん、と最後の抵抗のような微かな音を最後に、音のすべては消えた。
彼女の視界を覆う手が外され、拘束する腕の力が緩む。身じろいで背後を振り返り、彼女はか細い声で彼の名を呼んだ。

「冬玄《かずとら》」

一筋零れ落ちた彼女の涙を拭い、彼は微笑んだ。慰めるように背を撫でられ、彼女は彼の胸に凭れながら辺りを見渡した。
床に倒れている教師。戸に凭れるように崩れ落ちている恩師。どうやら意識を失っているようで、動く様子はなかった。
生徒の姿はない。青に塗り潰されたキャンバスが一つ、残されたまま。
生徒の、あの最後の表情が思い返され、なんでと言いかけ、慌てて強く唇を噛んだ。
彼に守られた身で、彼を責める事は出来ない。

「いい。助けてやれなかったのは事実だ」

静かな彼の言葉に、必死で首を振る。強く目を瞑り、自身を落ち着かせるように、彼女は首から提げている守り袋を掴んで深く呼吸をする。
何度か繰り返し、落ち着きを取り戻して、彼女はそろりと目を開けた。
キャンバスに視線を向ける。塗り潰されたキャンバスの青が、波打つように微かに揺らいだように見えた。

「これは…何?さっきのは」

漏れそうになる悲鳴を押し殺し、彼女は問う。

「――ジュウ。海を描いた青。悲しみの色であり、喜びの色。青い青い、命の色」

握り締めた手の中の守り袋が、僅かに熱を帯びる。

「これは、ジュウの青だ」

険しさを滲ませた彼の表情に、誰かの姿が重なって見えた。そんな気がした。



20250503 『青い青い』

5/3/2025, 10:23:59 AM

風が吹いていた。

「――灰?」

手を伸ばし、風に舞う細かな白を掬う。手のひらに乗せた僅かな灰は、どうやら異国から来たようだ。脳裏に浮かぶ風景に、目を細めた。
風に灰を流し、その行く末を追う。鬱蒼と茂る木々の向こう。暗がりに蠢く、白の影を見た。

「珍しい。死霊の塊か。それも、異国のものとは」

興味を引かれて影に近づく。影に触れれば、響き渡るのは聞き慣れぬ異国の言葉。記憶を探り、この国の言葉へと移し替えていく。

「我らは、忘れられた、ね」

繰り返される言葉の意味を理解して、はぁ、と息を吐いた。人間から忘れられた。忘れられたからこそ、この影はここにいるのだという。
人間から認識される事で初めて存在を保つ妖。人間から忘れられた事で存在するという目の前の影。
首を傾げつつ、記憶を探る。その真逆の在り方を、どこか知識として記憶に留めてあったはずだ。

「――あぁ、そうだ。異国の鎮まらぬ死者か。不完全な埋葬。正しく祀られず、祈られず。忘却されていく者達の悲しみだね」

影が呻く。その声は怨嗟のようであり、悲嘆のようでもあった。
人間が聞けば気が触れるであろうその響き。腕に纏わり付く影が、皮膚を突き破り内へと浸食し始める。じわり戸広がる穢れの灼けつく感覚を受け入れながら、ふと思いつき、口を開く。

「誰に、忘れられたくなかったのかな」

声が、動きが止まる、腕を引き抜き、答えを待った。
答える声はない。首を傾げ、繰り返した。

「忘れられたくなかった者がいたはずだ。君らを知らぬ他者の祈りなど、慰めにはならないのだから。親か兄弟か、或いは恋人か…誰に忘れられたくなかったんだい?」

ざわり、と影が蠢いた。ざわりざわり、と形を変えながら、幼い少女の声色で一つの答えを高らかに告げた。

――弟よ!

蠢く影が二つに分かたれ、小さな影を形作る。その影と視線を合わせるように身を屈め、さらに問いかける。

「では何故、弟に忘れられたくないのかな」
――だって私は姉だもの。弟を守ったのよ。そりゃあ褒められた方法ではなかったけれど。それでも忘れられるのはあんまりだわ。

小さな影は輪郭を成し、小さな少女を形作る。影だった少女は目に涙を湛えながらも、気丈にこちらを見上げていた。
――私は、子供達に忘れられたくはなかった。

別の声がした。影が分かたれ、それは凜と佇む女性の姿を成していく。

――どんな形であれ、覚えてくれているのであればよかった。あの子達にだけは忘れられたくはなかったわ。

目を伏せ、女性は微笑む。悲しみを滲ませながらも、そこに涙はない。

――私は妻に。他の誰もが、私を悪だと罵るとしても、妻には信じ続けてもらいたかった。

別の声。壮年の男性が、空を仰ぎ呟いた。

――俺は親友に、俺がいた事を覚えていてもらいたかった。俺の覚悟を、知っていてほしかった。
――俺も仲間にだけは、忘れてほしくなかった。俺達の誇りを、生き様を。ただ一人でいい。記憶していてほしかった。

最後に影は二つに分かたれ、それは二人の青年の姿を形作る。
それぞれ強い目をして、二人の青年はそれでも笑っていた。


「強い者達だね。信念を持って、生きた者の目をしている。ではどうしようか。君らのいた地へ戻るかい?あちらには、赦しを与える神、とやらがいるのだろう」

灰に乗ってこの地まで辿り着いた者らが、果たして復活の時に赦しを与えられるのかは疑問ではあるが。
だが予想に反して彼らは皆、赦しの言葉にそれぞれ顔を顰め否定する。

「嫌よ。私の罪を何も知らない誰かに赦されたくなんてないわ」
「そうね。私を赦すのは、私か子供達だけ。他者の赦しは必要ない」
「あぁ。赦されぬ事すら覚悟の上だった。妻以外の誰かになど、私の罪を量ってもらいたくはない」
「俺の罪は誇りだ。赦しはいらないからこそ、俺はこの身を燃やして弔うように願った」
「部外者の赦しは傲慢だ。それならいっそすべてを忘れて、永遠の影として漂う方がいい」

強い者らだ。余程の覚悟がそこにはあったのだろう。
苦笑して、それならどうするか、と思考する。一つの選択肢を思いながら、そう言えばと疑問を口にする。

「君らの国の風は、どうして君らを遠く離れたこの地に届けたのだろうね」

故郷を離れてしまえば、さらに彼らを知る者はなくなる。忘れられる事を厭う彼らは、何故ここにいるのだろうか。
吹く風に意識を向ける。何も語らず自由に舞う風は、楽しげにくるりと円を描きながら、高く舞い上がっていく。
風を追って見上げた空に、風に乗った花弁が舞い踊る。極彩色に彩られた空を見ていれば、誰かが小さく声を漏らした。

「懐かしいわ。家族で花畑に行ったのよ。花びらが舞ってとても綺麗だった」
「最後の日の朝に見たのが、こんな空だった。風に花が舞って、それに勇気づけられた」
「妻に花を送ったのです。別れと覚悟を託して…妻は笑ってくれました」
「弟はね、花が好きなのよ。だからいつも遊ぶ時は、秘密の花畑に行ったの」
「この身を燃やす時に、一輪で良いから花を手向けて欲しいと願った。それだけは叶えてくれたな」

目を細め、それぞれ思い出に浸る彼らはとても穏やかだ。
ここに来たのは偶然ではない。そういう事かと苦笑する。

「君らの大切な者は、どうやら君らを最後まで覚えていたようだね。だがその者がいなくなり、君らを正しく知る者はなくなった。故に、君らは祀られず、忘れられ。鎮まらぬ死者となったのだろう。そして、君らの大切な者の想いが、君らをここまで運ばせた」

風に舞う花弁が、彼らに降り頻る。手を伸ばし受け入れる彼らは、泣くように皆笑った。
今の彼らならば、停滞するのではなく先に進む事も出来るだろう。

「君らは、赦しを必要ないと言った。だが同時にすべてを忘却しても構わないとも言ったね。ならば、この地で新しく目覚めるために眠るかい?」

彼らの視線を受けながら、笑う。

「常世。新しい目覚めを待つ間の、揺り籠のような所さ。赦しも裁きもない。すべてを忘れて眠る場所」

例外はあるが。心の内だけで付け足した。
妖に成ったもの。妖と深く関わった者。堕ちたモノ。
彼らにも残るものはあるだろうが、彼らは大丈夫だろう。根拠のない確信に小さく笑い、手を差し伸べる。戸惑う彼らを見つめ、どうする、と囁いた。
最初に動いたのは誰だったか。互いを見て頷き、受け入れる。
差し出した手を握る少女の小さな手を握り返し、歩き出した。



「あなたはだあれ?ここの神なの?」

問いかける少女に視線を向けて、肩を竦め首を振る。
この身は神などと、人間に奉られた存在ではない。

「ただの木さ。生えている場所が他と少しばかり違う位の、ただの長くを見てきた老木だよ」

首を傾げる少女に笑いかける。訝しげな顔をする彼らに、良くある事だろう、と呟いた。
そこまで珍しいものではないだろうに。眠る人間の置いていった記憶では、彼らの故郷でも、木が人間になる事はよくあるはずだ。


「常世に在る橘。君らの揺り籠役を任されている、一本の何の変哲もない木だよ」

そう語れば彼らは皆、驚いたようにそれぞれに声を上げた。



20250502 『sweet memories』

5/2/2025, 8:53:22 AM

激しい風の吹き荒ぶ、切り立った岩壁の上。妖が一人、坐禅を組んでいる。
風が妖の髪や結袈裟《ゆいげさ》を煽るが、妖がそれを気にかける素振りは見せない。
岩壁を登る幼子が一人。小さな体で必死に風に抗い、妖の元へと辿り着くために手を伸ばす。
幼子の白い片翼が、首から提げた長鼻の赤い翁面が、風に遊ばれ激しくなびく。空へと誘うように、引き込むように、風はより一層激しく強く、幼子の片翼に纏わり付き。

刹那、幼子の体が宙へと投げ出された。

高く空を舞い上がる。抵抗も出来ぬままに風に弄ばれ、幼子の表情に焦りが浮かぶ。藻掻いても自由にならぬ体。さらに高く押し上げられ、一瞬の凪の後に、無抵抗な体は地へと墜ちていく。
興味を失ったのか、風が再び幼子を飛ばす様子はない。近づく大地に、幼子は強く目を瞑った。

しゃん、と澄んだ音。
風が勢いをなくしていく。幼子の周りで渦を巻き、墜ちる体を引き止める。
息も出来ぬほどの激しさを湛えていた風の変化に、幼子は恐る恐る目を開けた。

「――ごめん、なさい」

静かにこちらを見下ろす妖に、幼子は眉を下げながら謝罪する。それに答える代わりに、妖は幼子の体を抱き上げ、音もなく地に降り立った。

「風を読まず無暗に進めば、自ずと風は貴殿の障害となる」

幼子を下ろし、妖は告げる。
その言葉に幼子は項垂れ、ゆるゆると頭を振った。

「よく分からない。くり返しても、風がわからない」

気まぐれに吹き抜ける風が、幼子の片翼を揺する。下から上へと吹き上げ、俯く幼子の顔を無理矢理に上向かせた。
目を逸らすな、と言いたげに。
妖の凪いだ眼と視線を合わせ、幼子はくしゃりと顔を歪ませる。道に迷い、途方に暮れたその表情を妖は暫し無言で見つめ、不意に視線を逸らし歩き出した。

「貴殿が分からぬというなれば、それは風を知らぬ故にだ」

僅かに遅れて、幼子は妖の後について歩き出す。
それを風が阻む事はない。

「風は流れ、揺らぎ、どこまでも伸びていくものだ。それは木に通ずる。東を司り、春の象徴でもある木。風のはじまりはここにある」
「木…」
「北を司り、冬の象徴である水は、凍てつき湿った風を生む。南、夏の象徴である火。熱を纏い、揺らぐ風。西、秋の象徴の金は鋭い風を生み、時に反響して風を知覚させる事だろう。そして、季節の移ろいである土。風は遮られ、返り、潜る」

足を止めぬまま、幼子は周囲を見渡した。自由に吹き抜けていく風。木々の合間から差し込む陽の熱を纏った風は暖かい。鬱蒼と生い茂る草木を揺らす風は、湿った冷たさを感じた。
木々が騒めく。どこかで唸るような低い声に似た音が聞こえた。岩間に遮られ、跳ね返り、時に潜り抜ける風の声が、反響してここまで届いたのだろう。

「陰陽五行。万物を構成するそれは、風と共に在る我らと切り離せぬものだ」
「五行…切りはなせないもの」
「山を自らの足で歩き、触れ、その身すべてで五行を感じると良い。貴殿に足りぬのは、知る事だ」

妖は振り返る事なく歩き続ける。どこか遠く、夢見心地のようにふわふわとした気持ちで、幼子はその後に続いた。



――神域。

妖について辿り着いた場所を目にし、幼子は思わず感嘆の吐息を溢す。
山の奥。誰も訪れぬだろうそこに、密かに広がる清水。
静寂が場を満たしている。澄んだ空気と水の匂いを受け入れるように、深く呼吸をする。
風が凪いでいる。不用意に音を立てる事を、誰もが怖れているようだ。
前に立つ妖が、音もなく座り禅を組む。少し悩み、幼子は妖の隣で、同じように禅を組んだ。
目を閉じる。妖の言葉に習うべく、五行を感じ取ろうと意識を外へと向けた。
感じるのは陽の暖かさ。清水の清らかで冷えた気配。
微かに水の音がする。静かでゆったりとした、水の湧き出る音。この清水が今も生きている証である鼓動。
或いはそれは己の鼓動か、妖のものか。幼子には分からない。


「きれい」

思わず声が漏れた。
静寂を乱す行為に、はっとして目を開ける。不安に彷徨う目が清水を見、空を見て、そして最後に妖を見上げた。
妖は何も言わない。感情の読めぬ凪いだ眼が、ただ幼子を見下ろし。
不意にその視線が清水へと移る。
ただ一点を見る妖の視線を追って、幼子も清水に視線を向ける。水面は鏡のように静謐さを纏い、まるで時を止めているかのようだ。
訪れた時と何も変わらない光景に、幼子は首を傾げ妖を見る。妖の視線はまだ清水に注がれたまま。
何かいるのだろうか。幼子は不安と期待からそろりと立ち上がると、恐る恐る水面に近づいた。
音を立てぬよう、殊更ゆっくりと水面を覗き込む。底まで見える澄んだ水の中には、何もない。見えるのは水底と、水面に映る己の姿のみ。
不安そうな顔。その背の片翼も力なく折りたたまれている。
同じ顔。同じ片翼。しかしどこか違和感を感じ、幼子はじっと水面を見つめ続けた。
同じ姿。反射して対となった白の片翼。
何かが、足りない。

「――っ」

息を呑む。同じように息を呑む水面に映る幼子の表情が、泣きそうに歪んだ。
手を伸ばす。水面越しの幼子も、同じように手を伸ばし。
その手が触れ合う刹那。
強く、風が吹き抜けた。水面を揺らし、幼子の姿を掻き消していく。

――飛べ。

声が聞こえた気がした。

――飛んで。高く。

無意識に片翼を広げる。空を見上げ、一度大きく羽ばたいて。
風を読み。風と共に。


導かれるまま、空へと飛んだ。


「……いた。見つけた」

遠く燃えるような緑の稜線を見つめ、幼子は呆然と呟いた。
自身の半身。失った片翼。確かに、見えた。
かたかたと、首から提げた面が音を立てる。面を抱きしめ、一筋涙を流した。

「風は読めたか」

静かな声。顔を上げて、妖を見つめた。
頷きを返そうとして、暫し思い留まり幼子は首を振る。風を読んだのではない。風に導かれたのだ。

「声が、した」

風と、風ではない声。声に促されるままに飛んだのだと、幼子は首を振る。それに一つ頷きを返して、妖は幼子の体を抱き上げた。
風が幼子の片翼から離れていく。地に引かれる感覚を僅かに感じながら、ほぅと小さく吐息を溢した。

「あちらだ」

妖が指を差す。その先にば、木々に紛れるように、黒い翼を持つ誰かがいた。

「風に愛され、声を聞くモノ。話を聞くと良い。貴殿の求めるものへの導を教えてくれるだろう」

妖を見て、黒の翼を持つ誰かを見る。妖はそれ以上何も告げる事はない。
小さく頷いて、幼子は妖の腕から飛び降りた。片翼を広げる。飛ぶ必要はない。黒の翼の元まで降りる事が出来ればよい。
ばさり、と黒の翼が羽ばたく。落ちてくる幼子を受け止めるため、慌てたように年若い妖が飛び出した。

「吃驚した。危ない事するなよ」

幼子を抱き留め、深く息を吐く。
どこか幼さの残る、その仕草を幼子は無言で見つめ。

「それで?何か、聞きたい事があるのか」

問いかける黒の翼を持つ妖と視線を合わせ、幼子は丁寧に頭を下げた。



20250501 『風と』

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