放課後の美術室。生徒が一人、キャンバスに向かい、無心で何かを描いている。
否、正しくはキャンバスを一色で塗り潰している。その手が止まる事はなく、けれどもキャンバスを見つめる瞳は酷く虚ろだ。
元は一面の緋色が、青で塗り潰されていく。深い青。群青色。
まるで灯り一つない夜のように。深い海の中のように。
朱を青で染め上げて、生徒はようやく筆を置いた。微笑みを携え、塗り上げたばかりの青へと手を伸ばす。
不意に、虚ろな瞳が焦点を結ぶ。一つ、二つ瞬きをして、伸ばした手を見つめ、そしてキャンバスを見た。
「――ぁ……あぁ。ああぁあっ」
目を見開き、言葉にならない悲鳴が漏れる。伸ばした腕を急いで引き、視線は逸らせぬままに、手探りで絵の具を手繰り寄せる。
叩きつけるようにパレットに出したのは、朱色。青を描いた筆とは別の筆を取り出し、半狂乱になりながら染めたばかりの青を朱で塗り潰していく。
「ぃや。や、いや。青が、どうしてっ。青、青い、青い…いやだっ」
青が朱に染められていく。混じり合う事はない。青を覆い隠すように、封じるように朱を重ねていく。
「どうして、なんで……青い、青、が」
繰り返す。何度でも。キャンバスに青と朱が重ねられていく。
それは美術室に教師が訪れ、止めるまで続けられていた。
彼女が母校へと足を運んだのは、恩師から連絡を受けてから三日後の事であった。
「お久しぶりです。先生」
「久しぶりね、宮代さん。元気そうでなによりよ…急に呼び出してしまって申し訳ないわね」
眉を下げる恩師に、彼女は微笑んで首を振る。
「大丈夫です。ちょうど今、仕事も落ち着いていますし…それよりも」
笑みを収め、彼女は真剣な面持ちで恩師を見つめる。さらに眉を下げ憂う表情を浮かべながら、恩師は彼女を促し職員室を出た。
「ごめんなさいね。精神的なものだろうって言われているのだけれど、どうしてもそれだけではない気がして…何ていうのかしら。取り憑かれている、ような」
「私は霊能者ではないので、本当に取り憑かれていても何も出来ないですよ」
申し訳ない、と何度も謝罪しながら、不安を色濃くする恩師の目に微かな希望と期待を見て、彼女は苦笑する。
フリーライターとして地方の廃れた伝統や風習を中心に記事を書く彼女は、確かに他よりはそういったものに関しての知識がある。だがそれだけだ。少しばかり詳しいというだけで、物語のように鮮やかに恩師の憂いを取り除く事など、出来るはずがない。
彼女の困惑を感じ取ったのだろう。恩師は話題を変えるように穏やかに微笑み、努めて明るい声を上げた。
「気にしなくていいの。どちらかと言えば、私が貴女に会いたくなってしまったのよ。卒業してから、連絡がなくなるのは仕方がないけれど、他の子は一度くらいは顔を見せに来てくれたのに、貴女と言ったら」
「すみません。大学で民俗学を専攻したら、色々と忙しくって。卒業して就職したら、さらに地方を飛び回る事になったものですから」
「まったく。いつも心配していたのよ。在学中、数週間も昏睡状態で。その時から貴女は何かが変わった感じもするし…本当に心配していたのよ」
心から彼女の身を案ずる恩師に、彼女は頭を下げるしかない。その当時の朧気な記憶が過ぎ、胸の内に暖かさが広がると同時に、冷たいひとひらが降り注ぐ。それを掻き消すように、恩師に謝罪の言葉を口にしかけ、だがそれは形になる事はなかった。
聞こえたのは、誰かの声。焦りを含み、何かを止めようと声を上げている。
声はどうやら、向かうはずだった美術室から聞こえているらしい。一度恩師に視線を向けてから、彼女は美術室を目指し足を速めた。
美術室の扉を開けて、足を踏み入れた彼女の目を奪ったのは、キャンバスを覆う一面の青だった。
深い群青色。海の中深くにいるような錯覚に、無意識に呼吸が止まる。
「止めなさい!」
叫ぶような声に、はっとして視線を向ける。キャンバスの前、絵筆を手にする生徒と、それを静止しようとする教師。まるで教師の事が見えていないように、生徒は無心でキャンバスを青で塗り潰している。
ふと感じた違和感に、彼女は目を凝らす。遅れて美術室に訪れた恩師の引き止める声も気にかけず、キャンバスへと近づいた。
「――赤?」
塗り潰す青の下に見える色の痕跡を見つけ、彼女は訝しげに眉を寄せた。
赤よりも鮮やかなそれは、朱色。魔を払う力を持つとされる丹《に》の色。それが青に塗り潰されていく。
キャンバスの厚みに、それが何度も繰り返されてきた事に、彼女は気づいて身を震わせた。何度も朱で封じ、その封を破って青が浸食する。
「っ、駄目!」
青を止めようと生徒に駆け寄るが、僅かばかり遅かった。
恍惚と微笑む生徒。筆を置き、キャンバスに手を伸ばす。
その手を止めようとしていた教師が掴むが、それを意に介さず生徒の指先がキャンバスの青に触れた。
聞こえたのは声か、旋律か。
嘆き恨む声のような。祈り願う旋律のような。
音が、美術室に響き渡る。
最初に悲鳴を上げたのは、生徒を止めていた教師だった。手を離し、後退る勢いで崩れ落ちる。見開かれた目は生徒ではなくキャンバスだけを凝視し、地べたに座ったままでさらに後退していく。
声にならない悲鳴が生徒から漏れる。青に触れていた生徒の手が、キャンバスから伸びた手に掴まれ、引き込まれていく。
恐怖で強張り動けない生徒の体を、いくつもの手が覆う。青白い死者の手が、青の向こうに広がる昏い海へと生徒を連れて行く。
その一つ、細い手が生徒の隣で佇む彼女へと伸びた。
「止めろ。これはお前らのもんじゃない」
低い声。ぐいと背後に体が引かれ、手が彼女に届く事はない。
しばらく宙を彷徨う手は、やがて諦めて生徒の肩を掴む。
悲鳴すら出せないでいる生徒を引き寄せていく。
「――いやっ」
か細い声。生徒の指先が逃れるように動き、涙に濡れた目が彼女を見た。
咄嗟に助けようと彼女は身じろぐが、背後から抱き込まれるようにして拘束する誰かの腕がそれを許さない。誰かのもう片方の手は彼女の視界を覆い、嫌だと踠く彼女を生徒と青から隔離した。
音が響く。高く、低く渦を巻くような音は、多重に折り重なった人々の想いだ。
喜び。悲しみ。嘆き。願う。それに似た声を、彼女はかつて聞いた事があった気がした。
水音がする。ぱしゃん、と最後の抵抗のような微かな音を最後に、音のすべては消えた。
彼女の視界を覆う手が外され、拘束する腕の力が緩む。身じろいで背後を振り返り、彼女はか細い声で彼の名を呼んだ。
「冬玄《かずとら》」
一筋零れ落ちた彼女の涙を拭い、彼は微笑んだ。慰めるように背を撫でられ、彼女は彼の胸に凭れながら辺りを見渡した。
床に倒れている教師。戸に凭れるように崩れ落ちている恩師。どうやら意識を失っているようで、動く様子はなかった。
生徒の姿はない。青に塗り潰されたキャンバスが一つ、残されたまま。
生徒の、あの最後の表情が思い返され、なんでと言いかけ、慌てて強く唇を噛んだ。
彼に守られた身で、彼を責める事は出来ない。
「いい。助けてやれなかったのは事実だ」
静かな彼の言葉に、必死で首を振る。強く目を瞑り、自身を落ち着かせるように、彼女は首から提げている守り袋を掴んで深く呼吸をする。
何度か繰り返し、落ち着きを取り戻して、彼女はそろりと目を開けた。
キャンバスに視線を向ける。塗り潰されたキャンバスの青が、波打つように微かに揺らいだように見えた。
「これは…何?さっきのは」
漏れそうになる悲鳴を押し殺し、彼女は問う。
「――ジュウ。海を描いた青。悲しみの色であり、喜びの色。青い青い、命の色」
握り締めた手の中の守り袋が、僅かに熱を帯びる。
「これは、ジュウの青だ」
険しさを滲ませた彼の表情に、誰かの姿が重なって見えた。そんな気がした。
20250503 『青い青い』
風が吹いていた。
「――灰?」
手を伸ばし、風に舞う細かな白を掬う。手のひらに乗せた僅かな灰は、どうやら異国から来たようだ。脳裏に浮かぶ風景に、目を細めた。
風に灰を流し、その行く末を追う。鬱蒼と茂る木々の向こう。暗がりに蠢く、白の影を見た。
「珍しい。死霊の塊か。それも、異国のものとは」
興味を引かれて影に近づく。影に触れれば、響き渡るのは聞き慣れぬ異国の言葉。記憶を探り、この国の言葉へと移し替えていく。
「我らは、忘れられた、ね」
繰り返される言葉の意味を理解して、はぁ、と息を吐いた。人間から忘れられた。忘れられたからこそ、この影はここにいるのだという。
人間から認識される事で初めて存在を保つ妖。人間から忘れられた事で存在するという目の前の影。
首を傾げつつ、記憶を探る。その真逆の在り方を、どこか知識として記憶に留めてあったはずだ。
「――あぁ、そうだ。異国の鎮まらぬ死者か。不完全な埋葬。正しく祀られず、祈られず。忘却されていく者達の悲しみだね」
影が呻く。その声は怨嗟のようであり、悲嘆のようでもあった。
人間が聞けば気が触れるであろうその響き。腕に纏わり付く影が、皮膚を突き破り内へと浸食し始める。じわり戸広がる穢れの灼けつく感覚を受け入れながら、ふと思いつき、口を開く。
「誰に、忘れられたくなかったのかな」
声が、動きが止まる、腕を引き抜き、答えを待った。
答える声はない。首を傾げ、繰り返した。
「忘れられたくなかった者がいたはずだ。君らを知らぬ他者の祈りなど、慰めにはならないのだから。親か兄弟か、或いは恋人か…誰に忘れられたくなかったんだい?」
ざわり、と影が蠢いた。ざわりざわり、と形を変えながら、幼い少女の声色で一つの答えを高らかに告げた。
――弟よ!
蠢く影が二つに分かたれ、小さな影を形作る。その影と視線を合わせるように身を屈め、さらに問いかける。
「では何故、弟に忘れられたくないのかな」
――だって私は姉だもの。弟を守ったのよ。そりゃあ褒められた方法ではなかったけれど。それでも忘れられるのはあんまりだわ。
小さな影は輪郭を成し、小さな少女を形作る。影だった少女は目に涙を湛えながらも、気丈にこちらを見上げていた。
――私は、子供達に忘れられたくはなかった。
別の声がした。影が分かたれ、それは凜と佇む女性の姿を成していく。
――どんな形であれ、覚えてくれているのであればよかった。あの子達にだけは忘れられたくはなかったわ。
目を伏せ、女性は微笑む。悲しみを滲ませながらも、そこに涙はない。
――私は妻に。他の誰もが、私を悪だと罵るとしても、妻には信じ続けてもらいたかった。
別の声。壮年の男性が、空を仰ぎ呟いた。
――俺は親友に、俺がいた事を覚えていてもらいたかった。俺の覚悟を、知っていてほしかった。
――俺も仲間にだけは、忘れてほしくなかった。俺達の誇りを、生き様を。ただ一人でいい。記憶していてほしかった。
最後に影は二つに分かたれ、それは二人の青年の姿を形作る。
それぞれ強い目をして、二人の青年はそれでも笑っていた。
「強い者達だね。信念を持って、生きた者の目をしている。ではどうしようか。君らのいた地へ戻るかい?あちらには、赦しを与える神、とやらがいるのだろう」
灰に乗ってこの地まで辿り着いた者らが、果たして復活の時に赦しを与えられるのかは疑問ではあるが。
だが予想に反して彼らは皆、赦しの言葉にそれぞれ顔を顰め否定する。
「嫌よ。私の罪を何も知らない誰かに赦されたくなんてないわ」
「そうね。私を赦すのは、私か子供達だけ。他者の赦しは必要ない」
「あぁ。赦されぬ事すら覚悟の上だった。妻以外の誰かになど、私の罪を量ってもらいたくはない」
「俺の罪は誇りだ。赦しはいらないからこそ、俺はこの身を燃やして弔うように願った」
「部外者の赦しは傲慢だ。それならいっそすべてを忘れて、永遠の影として漂う方がいい」
強い者らだ。余程の覚悟がそこにはあったのだろう。
苦笑して、それならどうするか、と思考する。一つの選択肢を思いながら、そう言えばと疑問を口にする。
「君らの国の風は、どうして君らを遠く離れたこの地に届けたのだろうね」
故郷を離れてしまえば、さらに彼らを知る者はなくなる。忘れられる事を厭う彼らは、何故ここにいるのだろうか。
吹く風に意識を向ける。何も語らず自由に舞う風は、楽しげにくるりと円を描きながら、高く舞い上がっていく。
風を追って見上げた空に、風に乗った花弁が舞い踊る。極彩色に彩られた空を見ていれば、誰かが小さく声を漏らした。
「懐かしいわ。家族で花畑に行ったのよ。花びらが舞ってとても綺麗だった」
「最後の日の朝に見たのが、こんな空だった。風に花が舞って、それに勇気づけられた」
「妻に花を送ったのです。別れと覚悟を託して…妻は笑ってくれました」
「弟はね、花が好きなのよ。だからいつも遊ぶ時は、秘密の花畑に行ったの」
「この身を燃やす時に、一輪で良いから花を手向けて欲しいと願った。それだけは叶えてくれたな」
目を細め、それぞれ思い出に浸る彼らはとても穏やかだ。
ここに来たのは偶然ではない。そういう事かと苦笑する。
「君らの大切な者は、どうやら君らを最後まで覚えていたようだね。だがその者がいなくなり、君らを正しく知る者はなくなった。故に、君らは祀られず、忘れられ。鎮まらぬ死者となったのだろう。そして、君らの大切な者の想いが、君らをここまで運ばせた」
風に舞う花弁が、彼らに降り頻る。手を伸ばし受け入れる彼らは、泣くように皆笑った。
今の彼らならば、停滞するのではなく先に進む事も出来るだろう。
「君らは、赦しを必要ないと言った。だが同時にすべてを忘却しても構わないとも言ったね。ならば、この地で新しく目覚めるために眠るかい?」
彼らの視線を受けながら、笑う。
「常世。新しい目覚めを待つ間の、揺り籠のような所さ。赦しも裁きもない。すべてを忘れて眠る場所」
例外はあるが。心の内だけで付け足した。
妖に成ったもの。妖と深く関わった者。堕ちたモノ。
彼らにも残るものはあるだろうが、彼らは大丈夫だろう。根拠のない確信に小さく笑い、手を差し伸べる。戸惑う彼らを見つめ、どうする、と囁いた。
最初に動いたのは誰だったか。互いを見て頷き、受け入れる。
差し出した手を握る少女の小さな手を握り返し、歩き出した。
「あなたはだあれ?ここの神なの?」
問いかける少女に視線を向けて、肩を竦め首を振る。
この身は神などと、人間に奉られた存在ではない。
「ただの木さ。生えている場所が他と少しばかり違う位の、ただの長くを見てきた老木だよ」
首を傾げる少女に笑いかける。訝しげな顔をする彼らに、良くある事だろう、と呟いた。
そこまで珍しいものではないだろうに。眠る人間の置いていった記憶では、彼らの故郷でも、木が人間になる事はよくあるはずだ。
「常世に在る橘。君らの揺り籠役を任されている、一本の何の変哲もない木だよ」
そう語れば彼らは皆、驚いたようにそれぞれに声を上げた。
20250502 『sweet memories』
激しい風の吹き荒ぶ、切り立った岩壁の上。妖が一人、坐禅を組んでいる。
風が妖の髪や結袈裟《ゆいげさ》を煽るが、妖がそれを気にかける素振りは見せない。
岩壁を登る幼子が一人。小さな体で必死に風に抗い、妖の元へと辿り着くために手を伸ばす。
幼子の白い片翼が、首から提げた長鼻の赤い翁面が、風に遊ばれ激しくなびく。空へと誘うように、引き込むように、風はより一層激しく強く、幼子の片翼に纏わり付き。
刹那、幼子の体が宙へと投げ出された。
高く空を舞い上がる。抵抗も出来ぬままに風に弄ばれ、幼子の表情に焦りが浮かぶ。藻掻いても自由にならぬ体。さらに高く押し上げられ、一瞬の凪の後に、無抵抗な体は地へと墜ちていく。
興味を失ったのか、風が再び幼子を飛ばす様子はない。近づく大地に、幼子は強く目を瞑った。
しゃん、と澄んだ音。
風が勢いをなくしていく。幼子の周りで渦を巻き、墜ちる体を引き止める。
息も出来ぬほどの激しさを湛えていた風の変化に、幼子は恐る恐る目を開けた。
「――ごめん、なさい」
静かにこちらを見下ろす妖に、幼子は眉を下げながら謝罪する。それに答える代わりに、妖は幼子の体を抱き上げ、音もなく地に降り立った。
「風を読まず無暗に進めば、自ずと風は貴殿の障害となる」
幼子を下ろし、妖は告げる。
その言葉に幼子は項垂れ、ゆるゆると頭を振った。
「よく分からない。くり返しても、風がわからない」
気まぐれに吹き抜ける風が、幼子の片翼を揺する。下から上へと吹き上げ、俯く幼子の顔を無理矢理に上向かせた。
目を逸らすな、と言いたげに。
妖の凪いだ眼と視線を合わせ、幼子はくしゃりと顔を歪ませる。道に迷い、途方に暮れたその表情を妖は暫し無言で見つめ、不意に視線を逸らし歩き出した。
「貴殿が分からぬというなれば、それは風を知らぬ故にだ」
僅かに遅れて、幼子は妖の後について歩き出す。
それを風が阻む事はない。
「風は流れ、揺らぎ、どこまでも伸びていくものだ。それは木に通ずる。東を司り、春の象徴でもある木。風のはじまりはここにある」
「木…」
「北を司り、冬の象徴である水は、凍てつき湿った風を生む。南、夏の象徴である火。熱を纏い、揺らぐ風。西、秋の象徴の金は鋭い風を生み、時に反響して風を知覚させる事だろう。そして、季節の移ろいである土。風は遮られ、返り、潜る」
足を止めぬまま、幼子は周囲を見渡した。自由に吹き抜けていく風。木々の合間から差し込む陽の熱を纏った風は暖かい。鬱蒼と生い茂る草木を揺らす風は、湿った冷たさを感じた。
木々が騒めく。どこかで唸るような低い声に似た音が聞こえた。岩間に遮られ、跳ね返り、時に潜り抜ける風の声が、反響してここまで届いたのだろう。
「陰陽五行。万物を構成するそれは、風と共に在る我らと切り離せぬものだ」
「五行…切りはなせないもの」
「山を自らの足で歩き、触れ、その身すべてで五行を感じると良い。貴殿に足りぬのは、知る事だ」
妖は振り返る事なく歩き続ける。どこか遠く、夢見心地のようにふわふわとした気持ちで、幼子はその後に続いた。
――神域。
妖について辿り着いた場所を目にし、幼子は思わず感嘆の吐息を溢す。
山の奥。誰も訪れぬだろうそこに、密かに広がる清水。
静寂が場を満たしている。澄んだ空気と水の匂いを受け入れるように、深く呼吸をする。
風が凪いでいる。不用意に音を立てる事を、誰もが怖れているようだ。
前に立つ妖が、音もなく座り禅を組む。少し悩み、幼子は妖の隣で、同じように禅を組んだ。
目を閉じる。妖の言葉に習うべく、五行を感じ取ろうと意識を外へと向けた。
感じるのは陽の暖かさ。清水の清らかで冷えた気配。
微かに水の音がする。静かでゆったりとした、水の湧き出る音。この清水が今も生きている証である鼓動。
或いはそれは己の鼓動か、妖のものか。幼子には分からない。
「きれい」
思わず声が漏れた。
静寂を乱す行為に、はっとして目を開ける。不安に彷徨う目が清水を見、空を見て、そして最後に妖を見上げた。
妖は何も言わない。感情の読めぬ凪いだ眼が、ただ幼子を見下ろし。
不意にその視線が清水へと移る。
ただ一点を見る妖の視線を追って、幼子も清水に視線を向ける。水面は鏡のように静謐さを纏い、まるで時を止めているかのようだ。
訪れた時と何も変わらない光景に、幼子は首を傾げ妖を見る。妖の視線はまだ清水に注がれたまま。
何かいるのだろうか。幼子は不安と期待からそろりと立ち上がると、恐る恐る水面に近づいた。
音を立てぬよう、殊更ゆっくりと水面を覗き込む。底まで見える澄んだ水の中には、何もない。見えるのは水底と、水面に映る己の姿のみ。
不安そうな顔。その背の片翼も力なく折りたたまれている。
同じ顔。同じ片翼。しかしどこか違和感を感じ、幼子はじっと水面を見つめ続けた。
同じ姿。反射して対となった白の片翼。
何かが、足りない。
「――っ」
息を呑む。同じように息を呑む水面に映る幼子の表情が、泣きそうに歪んだ。
手を伸ばす。水面越しの幼子も、同じように手を伸ばし。
その手が触れ合う刹那。
強く、風が吹き抜けた。水面を揺らし、幼子の姿を掻き消していく。
――飛べ。
声が聞こえた気がした。
――飛んで。高く。
無意識に片翼を広げる。空を見上げ、一度大きく羽ばたいて。
風を読み。風と共に。
導かれるまま、空へと飛んだ。
「……いた。見つけた」
遠く燃えるような緑の稜線を見つめ、幼子は呆然と呟いた。
自身の半身。失った片翼。確かに、見えた。
かたかたと、首から提げた面が音を立てる。面を抱きしめ、一筋涙を流した。
「風は読めたか」
静かな声。顔を上げて、妖を見つめた。
頷きを返そうとして、暫し思い留まり幼子は首を振る。風を読んだのではない。風に導かれたのだ。
「声が、した」
風と、風ではない声。声に促されるままに飛んだのだと、幼子は首を振る。それに一つ頷きを返して、妖は幼子の体を抱き上げた。
風が幼子の片翼から離れていく。地に引かれる感覚を僅かに感じながら、ほぅと小さく吐息を溢した。
「あちらだ」
妖が指を差す。その先にば、木々に紛れるように、黒い翼を持つ誰かがいた。
「風に愛され、声を聞くモノ。話を聞くと良い。貴殿の求めるものへの導を教えてくれるだろう」
妖を見て、黒の翼を持つ誰かを見る。妖はそれ以上何も告げる事はない。
小さく頷いて、幼子は妖の腕から飛び降りた。片翼を広げる。飛ぶ必要はない。黒の翼の元まで降りる事が出来ればよい。
ばさり、と黒の翼が羽ばたく。落ちてくる幼子を受け止めるため、慌てたように年若い妖が飛び出した。
「吃驚した。危ない事するなよ」
幼子を抱き留め、深く息を吐く。
どこか幼さの残る、その仕草を幼子は無言で見つめ。
「それで?何か、聞きたい事があるのか」
問いかける黒の翼を持つ妖と視線を合わせ、幼子は丁寧に頭を下げた。
20250501 『風と』
苔むした畳を踏み締め、奥へと向かう。
誰もいなくなってしまった屋敷は、傷みが激しい。まるで死んだようにあちらこちらで朽ちてしまっている。
ぐるり、と辺りを見渡した。何かないかと鼻をひくつかせる。
母の生まれた場所。生まれたというだけで、さほど縁は深くない屋敷。期待はしていなかったけれど、やはり何も興味を引くものを見つけられずに鼻白む。
――何か、秘密の一つや二つあってもいいのに。
つまらない、と尾を揺らす。軋む梁の音に嘆息して、仕方がないと外へと駆け出した。
「――宝探しは終わったのか?」
「ととさま」
屋敷の外。腕を組みながらこちらを見下ろす父の姿に目を瞬く。珍しい事もあるものだ。父が屋敷を出るなんて。
狸から人間の姿へと形を変えて、父の元へと駆け寄った。頭に被った埃を、髪をかき混ぜるようにしながら払い、父は呆れたように笑う。
「ととさま。髪の毛ぼさぼさするの、止めてよ」
「埃まみれなんだから仕方ないだろ――で?満足する宝は見つかったのか?」
子供扱いに、むっと頬を膨らませる。何にも、と首を振り、父の手から逃れて髪を整えた。
「別に宝を探してた訳じゃないもん。わたし、絶対に守れるような凄い秘密を探してるんだもん。ととさまやかかさまのような、凄い祓い屋になれるような秘密を探してたのっ!」
「秘密、ねぇ」
目を細める父の視線から逃げるように、服の埃を払いながら歩き出す。遅れてついてくる父の気配に顔を顰めながら、努めて気にしないように、辺りを見回した。
何かないだろうか。誰にも、特に親友にも知られていない、とっておきの秘密になりそうなものは。
「ついてこないでよ」
「秘密探しに、この父様も付き合ってやるってんだ。嬉しいだろ」
「嬉しくなんてない…事もないけど。でも」
「耳としっぽ。出てんぞ」
揶揄うように言われて、慌てて頭に手を当て耳を隠す。ゆらりと揺れる尾と熱くなる頬や耳を感じながら、振り返り父を睨み付けた。
「いじわる」
「何のことだか」
肩を竦める父はとても上機嫌だ。何を言っても敵いそうにない。
おいで、と身を屈めて手を伸ばされる。頬を膨らませながらもその腕の中に飛び込んで。そのまま抱き上げて笑う父の頬を、悔し紛れに引っ張った。
「こら。痛いだろ」
「痛くないって顔してる」
そっぽを向きながら、手を離す。
「そう拗ねるな。いい事を教えてやるから」
「いい事?」
「そうだ。とっておきの秘密だ」
少しだけ声を潜めた父に視線を向ける。暖かな色を浮かべた父の目を見ながら、興味を抑えきれずに続きを促した。
「オマエの母様の事だ。元は人間だった母様が、どうして父様と結ばれたのか。その軌跡を特別に話してやろう」
ちらり、と後ろの廃墟を見てから、父はゆっくりと歩き出す。
「昔々の話だ。まだ母様が生まれる前に、あの家の人間は父様と契約をしたがっていた。だがな、父様は人間に従うつもりはまったくなかったんだ」
その時の事を思い出しているのか、父の表情は穏やかだ。長い物語を語るようば、静かな声が心地良い。父の肩に凭れて、その光景を思い描く。
「そこで諦めればいいものを、人間はある対価を提示した。未来の約束という形で成された契約を持ちかけたんだ。『この先、娘が産む子供が男女の双子であるのなら、女の方を対価として捧げる』…生まれる可能性など殆どない。そんな豪胆な契約に、興味を持った」
「それで、契約したの?」
「あぁ。退屈しのぎの、飽きるまでの契約だ。いつでも破棄できるだろうと思っていたんだがな。娘が本当に双子を産んじまった」
呆れを滲ませて、父は笑う。誰も――捧げる側も、捧げられる側も、予想をしていなかったのだろう。生まれるはずがないと思っていた子供。でも生まれてしまった。
生まれた子の片方を捧げるのは、どんな気持ちだったのか。
「小さな子だった。オマエよりもよっぽど小さく、弱い生き物だったな。まだ仔を持ってなかった父様は、そりゃあ焦ったもんだ。自分の仔すら育てた事はないってのに、相手は人間だ。どうすればいいのか、誰も分かりゃしない…それでも、その時は誰一人、子供を返そうとか喰おうとか言う奴はいなかった。皆手探りで、必死に子供を育てようとした」
「それが…かかさま」
ぐしゃぐしゃと、頭を撫でられた。
「大変だったぞ。泣くわ、動き回るわ…そんなお転婆な所は、そっくりだな。もっとおしとやかに育ってくれたらよかったのに」
「ととさまみたいな、いじわるしない良い子に育ってくれたって、かかさまは喜んでいるからいいんだもん」
ふい、と視線を逸らして、頭を撫で回す手をはたき落とす。
髪を直す振りをして、こっそり見た父の表情は、やはり穏やかだ。優しい色の目に、意味もなく落ち着かなくなる。
「いじわるなととさまと番になったかかさまが、ちょっとだけ可哀想」
「そうだな。父様もそう思う時がある。特に最初の頃は、ただの暇つぶしの玩具だと思っていたからな」
「そうなの?」
「あぁ。最初は暇つぶし。人間っていう命に惹かれたってのもあるが、それだけだった…でもな、いつからだったか。情が出て、そして欲が出始めた」
父の目が僅かに陰る。温かさにほんの少しの寂しい色を湛えて、父は空を仰ぎ見た。
「母様にはな、全部伝えてあった。人間だという事。父様に捧げられた事。何もかも、全部。だからアイツは何もかもを諦めて、ただ受け入れるようになった」
形だけは反抗して、相手の反応を見て行動を切り替えている。捧げられた者の役目として、出来るだけ長く興味を引けるように振る舞う行為に、自身の意思はどこにもない。
それが寂しかったのだと、父は言う。もっと我が儘になって欲しかったと、力なく笑った。
手を伸ばし、父の頭に触れる。いつもされているように、両手で力任せに髪をかき混ぜた。
「こら。髪が乱れるだろう」
「かかさまは、ととさまが大好きだと思うよ」
掻き回す手を止めず呟けば、父は驚いたように目を見開いた。
今まで全く気づいてなかったのだろうか。間の抜けた表情が可笑しくて、笑い声が漏れる。
「かかさまはね、素直になれないだけで、ととさまをいつも思っているよ。ととさまと一緒で、素直でないだけ」
大切な事は二回言うべきだと聞いた事がある。素直でないと強調すれば、父の目が柔らかく綻んだ。
「素直でないのは、オマエもだろ」
「だってかかさまと、ととさまの娘だもん」
素直でない二人から生まれたのだから、素直でないのは当然だ。
「それより、肝心な部分がまだだよ。そこからどうしてととさまとかかさまは番になったの?ととさまが無理矢理そうしたの?」
本気ではなかったが、黙り込む父の姿に溜息が出た。
可哀想、と思わず呟けば、慌てたように父は否定する。
「そりゃあ、騙したようなもんだったけどよ。契約した人間が死んで契約自体がなくなった後も、母様は父様の側にいるんだ。終わりよければ全てよしだろうが」
そう言って、父は眉を下げる。
話題を変えるように、一つ咳払いをして地面に下ろされた。
気づけば屋敷の前。誰もいない、朽ちた廃墟ではない、大好きな皆のいる家の前。
「ま。そういった軌跡を辿って、父様と母様が番になって、オマエが生まれたって訳だ。んでもって、可愛いオマエに特別な秘密《キセキ》を教えてやろう」
にやり、と意地悪な笑みを浮かべて、父は顔を寄せて囁いた。
「母様に会えなくて寂しいのはもうすぐ終わる。藤の花が咲き乱れる頃に、オマエには弟や妹が出来るんだ」
ひゅっと、息を呑んだ。父の言葉を何度も頭の中で繰り返し、目を瞬いて。
「つまりオマエは――って、どうした!?」
慌てる父の声が、どこか遠くに聞こえる。笑顔だったはずの父の表情が、滲んで見えなくなっていく。
徐に頬に触れた。濡れる感覚に困惑して、滲む父を見上げた。
「ととさま。わたし、泣いているの?」
「――あぁ、そうだな」
父の大きな手が目元を拭い、少しだけ輪郭を取り戻した父が、悲しげに笑う。
「そんなに嫌か?姉になるのは」
問われて首を振る。
嫌な訳ではない。嫌ではないのに、何故か涙が止まらない。
「嬉しいの。わたし、とっても嬉しいのに……どうして、止まってくれないの」
乱暴に目を擦る。それでも止まらない涙に、焦りが募る。
どうして、どうして、と繰り返していれば、温かい手が涙を拭う手を止めた。
くすり、と笑う声。優しく頭を撫でられて、焦る気持ちが段々と落ち着いていく。
「それは流して良い涙だ。嬉しい時にも涙は流れるもんだからな」
そっと抱き上げられる。背を撫でられて、思わず父にしがみついた。
「思う存分泣いて甘えておけ。今だけだ。姉になったからには、いつまでも泣き虫ではいられないだろう?」
「っ、うん。うんっ!」
涙で滲む父に笑いかける。何度も頷いて、強く抱きついた。
「今日は久しぶりに父様と寝るか。一緒に飯を食って、風呂に入って。今の間に、父様を一人占めさせてやるよ」
優しい声が降り注ぐ。いつもなら嫌だと逃げていくだろう事も、姉になった後ではきっと軽々しく出来ない事だ。
今日くらいはいいかと、父に擦り寄り頷いた。
20250430 『軌跡』
「おはよう。ご飯出来てるわよ」
「おはようございます」
いつもの日常。いつもと変わらない会話。
笑顔の叔母に笑みを返して、いつもの席へと座った。
テーブルの斜め向かいの席には、従兄弟の姿。叔父はすでに仕事に出たのか、その姿はなかった。
「いただきます」
テーブルの上に用意されている、叔母の作った朝食に手をつける。いつもと同じ味。変わらない。
笑みを繕いながらも、機械的に手を動かす。穏やかな叔母との会話の裏で、冷めた目をした自分が下らない、と吐き捨てるのを感じた。ちらりと横目で見る従兄弟は、こちらを気にする事なく無言で朝食を食べている。これもいつもと同じ、変わらない朝の光景だ。
いつまでこの生活が続くのか。
朝食を終え、食器をシンクで洗いながら考える。家族と離れこの家に来てから、もう何年も過ぎてしまっている。
帰りたいと、泣く声は枯れた。反発する事も止め、受け入れたように取り繕うのも、もう慣れた。けれども、この家で暮らし続ける事を、未だに納得は出来てはいない。
思わず溜息を吐きそうになるのを、すんでのところで堪える。叔母も従兄弟も、家事や準備でこの場にはいないと分かってはいる。それでも気持ちを表に出せないのは、もう誤魔化す事に慣れすぎているからなのだろう。
「――行くぞ」
玄関を開けた先。いつものように待っている従兄弟に、心の中だけで顔を顰める。
無言で頷く。歩き出す従兄弟の少し後ろをついて歩くのも、いつもの事だ。
会話はない。けれど学校へ行く時も帰る時も、必ず従兄弟は側にいる。同じ学校、同じ家。まるで四六時中監視されているみたいに。
さりげなく俯いて、密かに息を吐く。憂鬱でしかないこの時間が、何よりも嫌だった。
幼い頃は憧れて大好きだったはずの従兄弟を、もう好きにはなれない。
家族と引き離された原因。裏切った従兄弟を、この先もきっと許す事はないだろう。
――みんなには、ひみつだよ。
毎年恒例のお泊まり会で、夜の浜辺に妹と一緒に従兄弟を連れ出した。
誰にも、特に大人には内緒の秘密を、従兄弟と共有するために。
波の音。静かで優しいその音に、揺れ動くいくつもの光の玉。両親には見えなかった、蛍みたいに淡く光る幻想的な光景。大好きな従兄弟ならば見えるだろうと、妹と相談して打ち明けた、特別な秘密。
あの夜。絶対だという約束に、従兄弟は頷いたのに。それなのに彼は裏切った。
あれから、一度も家に帰れてはいない。大好きな妹とも、一度も会う事は許されなかった。
不意に従兄弟が立ち止まる。一呼吸遅れて、同じように立ち止まった。
顔を上げる。視界の端で光の玉が揺れ動くのを感じたのと、従兄弟が声をかけたのはほぼ同時だった。
「何もない。光の玉なんて、幻想だろう」
振り返りもせずに、告げられた言葉。無感情な響きに、唇を噛んで強く手を握り締めた。
視界の隅。確かにいたはずの光の玉が、消えている。自分のすべてを否定されているようで、苦しくて何も言えずに立ち尽くす。
静かに、従兄弟が振り返る。その眼に批判や責めるような冷たい色は浮かんでいない。ただ真っ直ぐに、決して逸らさずこちらを見つめている。
「行くぞ。遅刻する」
動けない自分の手を取り、握り締める拳を開いてそのまま繋がれる。そうして手を繋いだまま歩き出すのを、振り解く事も出来ずについて歩く。
従兄弟を好きにはなれない。
けれど彼だけは、いつでも側にいてくれる。
寂しくて眠れない夜も、悲しくて泣いた朝も。いつでも隣にいる。
嫌いになれたなら、きっと楽になるだろう。お前のせいだと、思いの全てを吐き出す事が出来たなら、この胸の中の、どろどろとした昏い思いはなくなるはずだ。
それでも。そうだとしても、従兄弟を前にすると、罵りの言葉一つ出てはこない。
差し出されるその手を離せる強さを、手を振り解いて一人で立てる勇気を、臆病で弱い自分は持っていないのだから。
繋いだ手に視線を向ける。気づかれないよう伺い見る従兄弟の横顔に、大好きだった頃の面影を重ねて、急いで目を逸らした。
もしも今、何もかもを忘れて、昔のように彼を好きになれたのなら。そんな奇跡が起きたなら、幸せにだってなれるのに。
従兄弟を好きにはなれない。けれど嫌いにもなれない。
どちらかに傾く事を許さない天秤。その揺らぎを抱いたままを生きるのは、とても痛くて苦しかった。
何も言わず隣を歩く、従姉妹の手を離さないように強く繋ぐ。
彼女の見る、光の玉は自分には見えない。代わりに聞こえるのは、どろりとした不快に粘ついた響きを持つ、誘う声だけだ。
――おいで。こっちだよ。
――あの子も待っているよ。
顔を顰めたくなるのを耐えて、前だけを見る。従姉妹が光を見る前に、否定の言葉を繰り返した。
「光の玉は見えない。そんなもの、どこにも存在しない」
嘘ではない。だが否定をする度に、従姉妹はいつも泣くのを我慢するような顔をするのが、苦しくて堪らない。
従姉妹が自分を好きになる事はない。
――ひみつだよ。きらきらした光は、ここだけのひみつね。
幼い従姉妹の無邪気な声を思い出す。それに重なるようにして、彼女に纏わり付く無数の声は、数は減れど今も変わらない。
――おいで。
――一緒に行こう。
――海の底は、とても温かいよ。
――怖くはないよ。楽しい所さ。
――さあ、行こう。
あの夜の砂浜で、従姉妹は秘密を打ち明けてくれた。誰にも内緒だと、絶対だと約束をして。
その信頼を裏切り、両親にすべてを打ち明けたのは自分だ。今まで自分に向けられていた、従姉妹の好意を失ってでも、助けたいと願ったのは、他でもないあの日の自分だった。
従姉妹はこの先も、自分を好きにはならないだろう。
しかし優しい彼女は、自分を嫌い憎む事も、おそらくは出来ない。
その優しさにつけ込むように、側で彼女を否定し続けるのは、互いに苦しいだけだと分かっている。分かってはいても、この手は離せない。何よりも大切で愛しい彼女を、連れていかせるつもりはないのだから。
――行こう?おねえちゃん。
毒を孕んだ甘い響き。海から逃げても着いてくる、少女の声音。
従姉妹に妹など、いない。
従姉妹は自分を好きにはならない。
だが少しだけでもいい。自分のこの気持ちの一欠片の重さ分だけでも、彼女の天秤が傾いでくれればと密かに願った。
20250429 『好きになれない、嫌いになれない』