「おはよう。ご飯出来てるわよ」
「おはようございます」
いつもの日常。いつもと変わらない会話。
笑顔の叔母に笑みを返して、いつもの席へと座った。
テーブルの斜め向かいの席には、従兄弟の姿。叔父はすでに仕事に出たのか、その姿はなかった。
「いただきます」
テーブルの上に用意されている、叔母の作った朝食に手をつける。いつもと同じ味。変わらない。
笑みを繕いながらも、機械的に手を動かす。穏やかな叔母との会話の裏で、冷めた目をした自分が下らない、と吐き捨てるのを感じた。ちらりと横目で見る従兄弟は、こちらを気にする事なく無言で朝食を食べている。これもいつもと同じ、変わらない朝の光景だ。
いつまでこの生活が続くのか。
朝食を終え、食器をシンクで洗いながら考える。家族と離れこの家に来てから、もう何年も過ぎてしまっている。
帰りたいと、泣く声は枯れた。反発する事も止め、受け入れたように取り繕うのも、もう慣れた。けれども、この家で暮らし続ける事を、未だに納得は出来てはいない。
思わず溜息を吐きそうになるのを、すんでのところで堪える。叔母も従兄弟も、家事や準備でこの場にはいないと分かってはいる。それでも気持ちを表に出せないのは、もう誤魔化す事に慣れすぎているからなのだろう。
「――行くぞ」
玄関を開けた先。いつものように待っている従兄弟に、心の中だけで顔を顰める。
無言で頷く。歩き出す従兄弟の少し後ろをついて歩くのも、いつもの事だ。
会話はない。けれど学校へ行く時も帰る時も、必ず従兄弟は側にいる。同じ学校、同じ家。まるで四六時中監視されているみたいに。
さりげなく俯いて、密かに息を吐く。憂鬱でしかないこの時間が、何よりも嫌だった。
幼い頃は憧れて大好きだったはずの従兄弟を、もう好きにはなれない。
家族と引き離された原因。裏切った従兄弟を、この先もきっと許す事はないだろう。
――みんなには、ひみつだよ。
毎年恒例のお泊まり会で、夜の浜辺に妹と一緒に従兄弟を連れ出した。
誰にも、特に大人には内緒の秘密を、従兄弟と共有するために。
波の音。静かで優しいその音に、揺れ動くいくつもの光の玉。両親には見えなかった、蛍みたいに淡く光る幻想的な光景。大好きな従兄弟ならば見えるだろうと、妹と相談して打ち明けた、特別な秘密。
あの夜。絶対だという約束に、従兄弟は頷いたのに。それなのに彼は裏切った。
あれから、一度も家に帰れてはいない。大好きな妹とも、一度も会う事は許されなかった。
不意に従兄弟が立ち止まる。一呼吸遅れて、同じように立ち止まった。
顔を上げる。視界の端で光の玉が揺れ動くのを感じたのと、従兄弟が声をかけたのはほぼ同時だった。
「何もない。光の玉なんて、幻想だろう」
振り返りもせずに、告げられた言葉。無感情な響きに、唇を噛んで強く手を握り締めた。
視界の隅。確かにいたはずの光の玉が、消えている。自分のすべてを否定されているようで、苦しくて何も言えずに立ち尽くす。
静かに、従兄弟が振り返る。その眼に批判や責めるような冷たい色は浮かんでいない。ただ真っ直ぐに、決して逸らさずこちらを見つめている。
「行くぞ。遅刻する」
動けない自分の手を取り、握り締める拳を開いてそのまま繋がれる。そうして手を繋いだまま歩き出すのを、振り解く事も出来ずについて歩く。
従兄弟を好きにはなれない。
けれど彼だけは、いつでも側にいてくれる。
寂しくて眠れない夜も、悲しくて泣いた朝も。いつでも隣にいる。
嫌いになれたなら、きっと楽になるだろう。お前のせいだと、思いの全てを吐き出す事が出来たなら、この胸の中の、どろどろとした昏い思いはなくなるはずだ。
それでも。そうだとしても、従兄弟を前にすると、罵りの言葉一つ出てはこない。
差し出されるその手を離せる強さを、手を振り解いて一人で立てる勇気を、臆病で弱い自分は持っていないのだから。
繋いだ手に視線を向ける。気づかれないよう伺い見る従兄弟の横顔に、大好きだった頃の面影を重ねて、急いで目を逸らした。
もしも今、何もかもを忘れて、昔のように彼を好きになれたのなら。そんな奇跡が起きたなら、幸せにだってなれるのに。
従兄弟を好きにはなれない。けれど嫌いにもなれない。
どちらかに傾く事を許さない天秤。その揺らぎを抱いたままを生きるのは、とても痛くて苦しかった。
何も言わず隣を歩く、従姉妹の手を離さないように強く繋ぐ。
彼女の見る、光の玉は自分には見えない。代わりに聞こえるのは、どろりとした不快に粘ついた響きを持つ、誘う声だけだ。
――おいで。こっちだよ。
――あの子も待っているよ。
顔を顰めたくなるのを耐えて、前だけを見る。従姉妹が光を見る前に、否定の言葉を繰り返した。
「光の玉は見えない。そんなもの、どこにも存在しない」
嘘ではない。だが否定をする度に、従姉妹はいつも泣くのを我慢するような顔をするのが、苦しくて堪らない。
従姉妹が自分を好きになる事はない。
――ひみつだよ。きらきらした光は、ここだけのひみつね。
幼い従姉妹の無邪気な声を思い出す。それに重なるようにして、彼女に纏わり付く無数の声は、数は減れど今も変わらない。
――おいで。
――一緒に行こう。
――海の底は、とても温かいよ。
――怖くはないよ。楽しい所さ。
――さあ、行こう。
あの夜の砂浜で、従姉妹は秘密を打ち明けてくれた。誰にも内緒だと、絶対だと約束をして。
その信頼を裏切り、両親にすべてを打ち明けたのは自分だ。今まで自分に向けられていた、従姉妹の好意を失ってでも、助けたいと願ったのは、他でもないあの日の自分だった。
従姉妹はこの先も、自分を好きにはならないだろう。
しかし優しい彼女は、自分を嫌い憎む事も、おそらくは出来ない。
その優しさにつけ込むように、側で彼女を否定し続けるのは、互いに苦しいだけだと分かっている。分かってはいても、この手は離せない。何よりも大切で愛しい彼女を、連れていかせるつもりはないのだから。
――行こう?おねえちゃん。
毒を孕んだ甘い響き。海から逃げても着いてくる、少女の声音。
従姉妹に妹など、いない。
従姉妹は自分を好きにはならない。
だが少しだけでもいい。自分のこの気持ちの一欠片の重さ分だけでも、彼女の天秤が傾いでくれればと密かに願った。
20250429 『好きになれない、嫌いになれない』
重苦しい扉を前にして、立ち竦む。
この先には、己の侵した罪がある。何よりも大切だった家族を奪った憎き敵の復讐のため、己に好意を寄せていた彼女を使って作り上げた、終わりのない夜の箱庭が広がっているはずだ。
ポケットから指輪を取り出し、目を閉じる。記憶の片隅に置き忘れていた彼女の姿は、酷く霞んで朧気だ。
彼女の紡ぐ物語は、現実となる。己が望み、彼女が紡ぎ上げた夜の森は、今も彼女ごと敵を閉じ込め壊し続けているのだろうか。
目を開ける。かつてはこの先から聞こえる声に満たされた。だがすぐに空しさを覚え、それを飽きたからだと誤魔化し、箱庭を忘れて生きてきた。手の中の指輪がなければ、思い出す事はなかったのだろう。
指輪を戻し、扉に手をかける。ここまで来て、今更逃げる訳にはいかない。これ以上、夜を続ける意味などないのだから。
微かに震える手に力を込めて、扉を押し開いた。
広がる森の先を一瞥して、足を踏み入れる。
声は聞こえない。耳が痛い程の静寂が、暗い夜の森に漂っている。
ゆっくりと歩き出す。彼女が己を見つけてくれる事を願って、音を立てながら。
ふと、獣のような唸り声が聞こえた。立ち止まり、視線を向ける。
がさがさと、草を掻き分ける音。近づく気配に、目を細め対峙する。
がさり、一際大きな音を立て、黒い影が現れる。
夜に似た黒髪を振り乱し、鋭い爪と裂けた口元から牙を剥き出しにして威嚇する、細身の女。
それは己が迎えにきたはずの、彼女の成れの果てだった。
「――馬鹿が」
顔を顰め、舌打ちをする。
遅すぎた故の結末を、受け入れる事が出来ない。まだ戻れるはずだと、思考を巡らせた。
「もういい」
足を踏み出す。途端に感じる肌を切り裂くような鋭い殺気に、息を呑む。
彼女はもう、誰の事も認識出来ないのだろう。こうして対峙していても、彼女の警戒は解かれない。己の声に反応を示す事もしない。おそらくは、自身の事すらも分からないのだ。
「終いにしよう。とっくの昔に夜は明けちまった。お前だけだ。いつまでも夜に取り残されているのは」
やはり答えはない。低い唸り声と瞳孔の開いた瞳は、獣と何も変わらない。
かつての彼女の面影一つ見出せないそれは、確かな己の罪であった。
土を踏み締める。この先一歩でも近づけば、彼女は己を敵として認識するのだろう。
本能的な恐怖に、呼吸が荒くなる。だが口元は弧を描き、迷いなく足を踏み出した。
「――っ!」
彼女の鋭い爪が喉を切り裂くよりも早く、その華奢な体を抱きしめる。逃がさぬように、二度と置き去りになどしないように。
「かえろうか。夜は明けたんだ――今度は一緒に」
逃れようと踠く彼女の手が、腕や頬を切り裂いた。鋭い牙が肩に食い込む。痛みに顔を歪ませながら、それでも力は緩めずに、願うように言葉を紡ぐ。
「もういいんだ。この夜を、物語を終わらせてくれ。夜は明け、家へと帰る…それだけでいいんだ。ごめんな。後一度だけ、言葉を紡いでくれ」
どうか、と。繰り返す言葉に、次第に彼女の体から力が抜けていく。それに僅かな可能性を見出して、その身を掻き抱いた。
不意に、声がした。唸る声ではない、微かな言葉。
彼女の口元に耳を寄せる。
囁く声は、ただ一言を繰り返していた。
――ごめんなさい。
期待した言葉ではないその囁き。その意味を遅れて理解して、呆然と顔を上げた。
微笑みを浮かべる彼女と目が合った。その眼の美しさは、かつての彼女を思い起こさせ、思わず言葉を忘れて見入ってしまう。
「ごめんなさい」
囁きではない、はっきりとした言葉。
眉を下げ微笑むのは、彼女の悪い癖だ。何度言っても直らなかったそれは、己がさせていたのだとようやく気づく。
徐に上げる彼女の手が頬に触れようとして、止まる。今更だ、とこれ以上傷つけぬように離れていくその手を取り、己の頬に触れされた。
暖かい。その温もりが愛おしい。
「帰ろうか」
一緒に。そう続けるはずの言葉は、しかし声にはならなかった。
ごめんなさい、と彼女の唇が動く。微笑んだまま緩やかに目が閉じられていく。
無音。何も聞こえない。
彼女の声も。呼吸も、鼓動すらも、何一つ。
彼女の腕が力なく落ちる。時を止めたその体を、静かに横たえた。
消えていく温もり。遠くで彼女の作り上げた夜が、壊れていく音がする。
意味もなく、乾いた笑いが漏れた。
「馬鹿やろう。夜が明けたっつっただろうが。なのになんで寝ちまうんだよ。普通は起きるもんだろ」
彼女の頬に触れる。温もりを失った冷たい皮膚を撫でていれば、彼女の姿がじわりと歪んでいく。
「一人でいる間に、すっかり自堕落になりやがって。夜更かしばかりするから、今になって眠くなんだよ…っ、なぁ」
彼女の頬に雨が降る。生暖かい滴を払い、耐えかねて空を仰いだ。
滲む視界でも鮮明に見える、白む空。
夜の終わりだ。繰り返していた夜が、ようやく明けたのだ。
何度も彼女に望んだ夜明け。だというのに、今はそれが憎くて仕方がない。
この夜明けは、彼女を連れていってしまうのだから。
「ごめんなさいってなんだよ。謝るのは俺の方だろうが。俺が、お前を」
嗚咽が漏れる。泣く資格などないはずなのに、止める事はもう出来ない。
夜が明けていく。閉ざされていた箱庭が壊れていく。
その先に見える無機質なコンクリートの壁が、彼女の紡いだ物語の崩壊を告げていた。
「馬鹿やろう」
気がつけば、暗い地下室で一人きり。己の他には誰もいない。
震える指で、ポケットから指輪を取り出した。彼女がいたという最後の縁。
冷たい金属に手の熱が移っていく。仄かな温もりに、彼女の熱を重ね。
一人きり、声が枯れるまで泣き崩れた。
20250429 『夜が明けた。』
ふと、何か違和感を感じて立ち止まる。
例えば、空の色。山の緑。木々の騒めき。川のせせらぎ。花の香り。
いつもと変わらない。変わらないはずだというのに、ふとした瞬間に違和感を感じる。
空はあんなに暗い青をしていただろうか。山の緑は本当にくすんでいただろうか。
聞こえる音は。匂いは、本当に正しいのだろうか。
首を振り、歩き出す。目を逸らすように。何も変わらないと、自分自身に言い聞かせながら。
ざわり、と木が揺れる音。かさり、と草を掻き分けて。
ぞくり、と。ふと感じた何かの視線に、背筋が寒くなった。
耐えきれず、駆け出した。視線から逃げるように、当てもなく。
頭の中の冷静な思考は、向かう先が逆だと警告している。この先は山の奥へと続いている。麓の家に帰るには、引き返さなければ。
だが思考とは裏腹に、足は止まらない。増え続ける背後の視線の中を潜り抜けて、元来た道を戻る事など到底出来そうにはなかった。
只管に駆ける。かさかさ、がさり、と何かを掻き分ける音を振り切るように。音もなく近づく何かの気配から逃げるように、夢中で足を動かした。
ふと、背後で音がした。ぱぁん、と何かの破裂音。
その音を知っている。家の向かいに住んでいる男が持つ、猟銃の音だ。
猪か、狸か。誰かまた麓へ下りてきてしまったのだろうか。
気になって、足は止めずに背後に視線を向ける。
ほんの一瞬。だがその一瞬が終わりの合図だった。
「――っ!?」
急な浮遊感。足が空を掻き、大地に引かれるまま落ちていく。藻掻けど既に体は宙に投げ出され、何も出来ぬままに遙か下へと向かう。
見上げた空が、不気味なほどに紅い。気づけば夕暮れ時。時期に夜が訪れる。
――あぁ、嫌だ。
ぼんやりと、そう思う。
暗い夜に一人きり。誰にも気づかれずに終わってしまうのは、あまりにも寂しい。
――だれか。
空に手を伸ばせど、掴めるものは何もない。あぁ、と呻くように声を漏らし、諦めて手を下ろす。
そのまま、目を閉じた。
誰かの視線を感じた。
複数の視線。鼻をつく獣の匂い。
囲まれているような気配。
恐る恐る、目を開ける。
狸や狐、鼬など。たくさんの生き物の静かな目と視線が合った。
「――ぅわっ!?」
思わず飛び起きる。その瞬間に全身を激痛が襲い、崩れ落ちる。
痛い。熱さにも似た感覚に、涙が滲む。痛みで上手く呼吸が出来ない。
浅い呼吸を繰り返す。複数の視線など気にする余裕はなく、痛みの熱とは異なる温かさが何であるか、考える事も出来なかった。
しかし波が引くように、次第に痛みは落ち着いて。浅い呼吸が深くなり、安堵の息を吐く。
視線を巡らせ、見つめる目を無言で見返した。何かを言いたげな、見守るような視線に大丈夫だと笑ってみせれば、一匹、また一匹と視線を外して離れていく。
残ったのは小さな狸と大きな狸の二匹だけだ。
ゆっくりと体を起こす。心配げに鳴きながら鼻を擦り寄せる子狸を撫で、抱き上げる。
「――あぁ。そっか」
思い出す。自分は庭の垣根に挟まっていた子狸を、山に返しにきたのだと。
苦笑する。少しだけ強めに子狸の頭を撫でて、親らしき狸の元へと下ろしてやる。
「本当にありがとうございました」
丁寧に頭を下げる親狸に、ふと思いついて忠告する。
「気をつけて見とけよ。俺んとこの庭だったからよかったものの、向かいのじぃさんのとこだったら、今頃狸汁にされてただろうからな」
「申し訳ありません。本当に何から何まで。この子には後できつく言い聞かせますので」
親狸の隣で、しゅんと耳を垂らす子狸に笑い、そうしてくれと念を押した。
まあ、大分反省しているようだ。この次は一匹で麓に下りる事はないだろう。
何度もこちらを振り返り頭を下げつつ去って行く狸の親子を見送って、一つ息を吐く。
体の痛みはほとんどなくなったようだ。理由の分からない痛みは気になるが、今はとても疲れていた。
何気なしに空を見上げる。雲一つなく晴れ渡る空は、どこまでも青い。目を細めて高く昇った太陽を見遣り。
ふと、違和感を感じた。
例えば、空の色。風の音。山の匂い。
ふとした瞬間に、違和感を感じる。ここは本当に自分の知っている山なのだろうか。
あぁ、そういえば。今し方の記憶を思い返す。
自分は、狸と会話をしていなかっただろうか。何も疑問に思わずに。
「あー!こんなとこにいた」
背後から聞こえた無邪気な声に、思わず体を震わせる。
聞き覚えのない声だ。少なくとも、自分の記憶にはない。
「何してるの?早く帰ろうよ」
動けない自分の前に、声の主が現れる。
やはり知らない子だ。自分よりも年下の、まだ幼さが抜けきらない子。
「どうしたの?大丈夫?」
何も答えられないでいる自分を心配そうに見つめ。少年、或いは少女は、手を伸ばしぺたぺたと確かめるように体に触れてくる。
小さな手が背中に触れる。ずくり、とした重苦しい痛みに、眉を顰めた。
「痛いの?傷はないみたいだけど、打ち付けたりしたのかな?」
泣きそうに顔を歪める子。
自分がいたい訳でないだろうに。相変わらずの優しさに馬鹿だなぁ、と苦笑する。
ふと、違和感を感じた。それが何かは分からない。
そう言えば、何故こんなにも背中が痛むのだろうか。
「立てる?帰ったら、ちゃんと見てもらおうね」
「――大丈夫だって。ちょっと痛かっただけだから、すぐに収まるさ」
違和感を拭い去るように首を振る。これ以上心配をかけまいと、笑って立ち上がった。
「それより腹が減ったな。今日の夕飯は何だったっけか」
「今日はね、お魚だよ。僕が釣ったんだよ」
すごいでしょ、と胸を張る子の頭を撫でて、手を繋ぐ。
ふと、感じる違和感は、気にするほどでもない。
夕暮れを二人、歩いて帰る。
沈む太陽を追いかけながら、山の奥にある家へと向かう。
違和感など、もう何も感じない。
20250427 『ふとした瞬間』
「主人《マスター》、手を」
青年に促され、首を傾げながらも少年は素直に手を差し出した。
恭しくその手を取り、青年は薬指に銀製の指輪を嵌める。
「――蛇?」
指輪の嵌まる指を目の前に翳し、目を細める。一匹の蛇が己の尾を喰んでいる。蛇の煌めく紅い目に呪術《まじない》の気配を感じ取り、少年は微かに苦笑する。
「蛇。故郷の永遠、不死の象徴。主人を、守る」
「過保護だね」
片言で語る青年の、彫りの深い顔立ちを指輪越しに眺めながら、それだけではない微かな呪術の痕跡に肩を竦める。
遠い異国の、呪術師《シャーマン》の血を濃く継ぐ青年が施した呪術。目を凝らしても、それが何であるのか理解出来ず、少年は諦めて手を下ろした。
「主人」
目の前の青年より、僅かに低い声に視線を向ける。部屋に入って来たのは青年と同じ顔をしたもう一人の青年。唯一異なるのは、目の前の青年は右の耳に銀のリングピアスを嵌めているのに対し、入ってきた彼は左の耳にピアスをしている事だけだ。
ピアス以外は見分けがつかない二人を見ながら、双子というのは本当に不思議だと、少年はぼんやりと思う。元々が一つの存在が二つに分かたれたような、誰よりも近しい存在。だからこそ彼らは怖れられ忌避されて、この国に辿りついた。彼らとの出会いを思い返し、少年は密かに嘆息する。
「トキ。出来たか」
左にピアスをつけた双子の兄が弟の言葉に頷きつつ、少年の前に歩み寄る。差し出されたそれを見て、少年はあぁ、と苦笑とも嘆きとも取れる声を漏らした。
「主人。受け取ってくれ。守護のまじないをかけてある」
「――それだけじゃないだろう」
少年の小さな呟きに、双子は僅かに表情を綻ばせた。
「主人、守る、見つける。どんなに離れても。必ず」
「どこへいても、主人が分かるように。身につけてくれさえすれば、一度だけリングをつけた主人の下へ、リングを通じて行けるように。そういうまじないだ」
差し出されたそれを受け取り、少年は双子の説明を聞きながら手の中で弄ぶ。双子の弟にもらった指輪と同じ蛇を模った、けれども少年の指には不釣り合いなほど小さな指輪。それが意味する事は、一つだけだ。
少年の人形を依代としている、本当の双子の主人。今は隠れ逃げるために封じてある、本来の体に身につけろと言っている。それはつまり、この長い鬼事の終わりが近い事を示していた。
「結局、おにいちゃんが諦めてくれる前に、見つかっちゃうのか」
誰にでもなく呟いて、手の中の指輪を放る。光を反射し煌めくそれは、小さな放物線を描いて、少年の影の中に吸い込まれそのまま消えていった。
少年の瞳の奥。白髪の小さな少女の姿が揺らいで見えて、双子はそれぞれ少年の手を取った。
「ここにいる主人か、それとも隠されている主人かは見えない」
「でも結果、一緒。その先、部屋の中。出られない」
「二人の占いは外れないもんな」
呪術師の占い予言は外れない。どんなに足掻いた所で、最後の結末は同じだという事を、少年は知っている。
小さく息を吐いて、双子を見る。眉を下げ、微笑んで。少年は無駄だと知りながらも、問いかけた。
「いつまでも、私に囚われる必要なんてないよ。もう二人だけで生きていけるだろう?」
どうか、と少年の密かな願いを、けれども双子は首を振り否定する。
「主人に掬われた命だ。ならば主人と共に在るのが望ましい」
「一緒、いたい。わがまま、分かっている。でも…逢いたい」
「その先が、二度と出られない檻の中でも?」
双子は笑う。その笑みに、少年はそれ以上何も言えずに俯いた。
「――あの時、約束なんてしないで、さっさと出て行ってくれればよかったのに。十にも満たない子供が、一人残されていく意味を分かってたくせに。憐みや義務感だけで約束するなんて、最低だ」
低く呟く少年の言葉に、双子は何も言わない。
少年は双子に語る事はなかったが、少年が何から逃げている事も約束の内容も、双子はすべて知っていた。
――十年後、迎えに来る。どんなに離れても、時が過ぎても忘れたりしない。必ず迎えに行くから、そうしたら一緒に暮らそう。
一方的な約束。それは生き残れるはずがないと理解した上での、情けだった。
少年が――少年の依代を得る前の、かつての少女が八歳を迎える時に、少女は家族に捨てられた。
術師の家系に生まれた少女は、優秀な兄と比べ明らかに劣っていた。式の一つも打てず、術の一つも覚えられず。
少女を恥と思った家族は修行と称し山奥の小屋に少女を一人残し、体よく葬ろうと考えたのだ。
「ちゃんと、生き残れなかったって見立ててみたんだけどなぁ。出来損ないの見立ては、すぐに分かるものなのかなぁ」
呟く少年の背を双子の兄は撫で、弟は目を覆う。されるがままの少年が、しばらくして力を失ったように崩れ落ちるのを抱き留める。
「主人のせい、違う」
「十年とは、人を変えるのに十分な時間だ」
寝入った体を抱き上げて、双子の兄は寝室へと向かう。
起こさぬよう、そっとベッドに寝かせ。遅れて入ってきた弟が、手にした煙の立ち上る香炉をサイドテーブルに置くのを見ながら、兄はカーテンを静かに閉めた。
双子は知っている。主人のためと大義名分を掲げ、過去を未来を視てきた。その過程で、約束をした主人の兄の変化にも気づいていた。
いくつもの出会いの中で、利用価値や道具としてでない、普通の兄妹を知る切っ掛けが幾度もあったのだ。その差を羨み、妹という存在を手放す事が惜しくなったのだろう。
人とは傲慢な生き物だ。双子を売り、奴隷の如く扱った末に狩りの標的にしたのは、まぎれもなく人だった。だが同時に、双子の命を掬い上げ生きる術を与えたのもまた人であった。
あの苦痛と恐怖に彩られた夜の事を、双子は今でも忘れる事はない。
戯れに追い回され、互いに庇い合い、這いずりながら逃げた夜。
虚ろに光を失っていく瞳。細く途切れていく呼吸。下卑た男らの嗤う声。
それが悲鳴に成り代わるのを。月を反射し煌めく白銀の髪がなびくのを。半身に寄り添って、ただぼんやりと見ていた。
いつの間にか体の痛みは消え。怪我など何一つなく。
倒れ伏す男らを背後に手を差し伸べる少女は、双子よりも余程小さく、その手は枯れ枝の如く細かった。
「トキ」
「ロウ」
互いに目配せし、頷き合う。
今はどこか遠く、隠れ眠り続けている双子の主人を思い、依代である少年の手をそれぞれ取った。
目を閉じ、祈る。どんなに遠く離れていても想い描ける故郷の、見えざるモノの声を聴き、願う。
予知した結末の、その先を変えるために。
結末は変わらない。双子の主人は主人の兄の手によって部屋の中に閉ざされる。
だがそれは、本物の少女か依代の少年か、はっきりとは見えていない事もまた事実だった。
「「――――」」
歌うように、一つの言葉を口にする。
双子の故郷で『希望』という意味を持つその言葉。
それは捨て置かれた際に名を失った双子の主人のための、双子が定めた新しい名だった。
この国では、言葉は強い呪いであり、名は縛るものだという。在り方を定め、何よりも深い鎖《つながり》になる。双子の故郷と縁のない主人に故郷の言葉で名付ければ、それは確かな導となるだろう。
ざわり、と空気が振動する。風もないのに、香炉から立ち上る煙が大きく揺らぎ。
中身を失った少年の依代だけを残し、双子の姿は掻き消えた。
20250426 『どんなに離れていても』
古ぼけた姿見の前。姿を見せない彼女を一人待つ。
少し前までの彼女なら、一番にこの姿見まで来たはずだった。学校での出来事。友達の事。家族の事。何でもない些細な事まで、時間を忘れて話してくれていた。
だが時が経ち。彼女の世界が広がるにつれて、ここに来る事は少なくなったように思う。
それは良い事だ。内にこもるよりも、外へと飛び出して行く方が彼女には似合う。日々を楽しみ、元気に駆け回っているのならば、こうして待つのを止められるというのに。
はぁ、と重苦しい溜息を吐く。顰めた顔はそのままに、彼女の元へと移動した。
「またか。止めとけって言っただろうに。物好きな奴」
「――うるさい」
洗面台の鏡の前。泣き腫らした目をした彼女を、真正面から見据えた。
視界の隅に転がる、彼女には派手すぎるチークやリップに眉が寄る。何度目かの忠告も意味を成さなかった事に歯痒さを感じ、彼女にかける言葉もきつくなる。
「いいかげんにしておけ。いつまでも縋って泣くなんて、馬鹿らしいと思わないのかよ」
「うるさいってば!あんたには関係ないでしょ!」
睨み付ける彼女の目尻から、また一筋涙が零れ。思わずその滴を拭おうと伸ばした手は、鏡に阻まれ届く事はなかった。
「これ以上口出ししないで!鏡の中から出ても来られないくせに」
散らばる化粧品を掻き集め、彼女はこちらを見ようともせずに離れていく。無機質な鏡に触れながら、その姿をただ見ていた。
あれから、何度か彼女に声をかけるも、彼女は答える事も視線すらも合わせようとはしなかった。
存在を否定するような行為に、だが自身の姿しか見えない鏡を縋るように見つめる彼女に、どうしたものかと眉を寄せる。
忘れるのは、思っているよりも簡単だろう。時が経てば思い出すら曖昧になり、消え去る事が出来るはずだ。その方がお互いのためにもよほどいい。
分かっている。しかし理解はしても、彼女を前にしては手放せるはずなど出来そうにはなかった。
自嘲し、目を伏せる。鏡越しの奇妙な関係が、何よりも愛おしいものになっていくのを、あえて止めなかったのはお互い様だ。仕方がない、と笑い、覚悟を決めて足を踏み出した。
明かりも付けない暗い部屋。雨に濡れたままの格好で、彼女は力なく座り込んでいた。
凭れた壁側の窓の外は、土砂降りの雨。時折走る稲妻と、遅れて響く轟音が、雨の終わりがまだ来ない事を告げていた。
「本当に、馬鹿な奴」
徐に彼女は顔を上げる。虚ろな視線が、宙を彷徨い揺れ動く。
稲光。それに合わせて、部屋の電気がついた。
「――え?」
呆然と呟く彼女の視線が窓ガラスを、それに映り込む姿を捉え、僅かに見開かれる。
轟音。低く、重く雷の音が鳴り響く。
「もういいだろ。終わりにしろ」
静かに彼女に告げる。それに彼女は何かを言いかけて、力なく首を振り、唇を噛みしめ俯いた。
頑なな彼女に溜息を吐く。馬鹿な奴、と繰り返して、手を伸ばした。
「強情だな。なら、俺も好きにさせてもらう」
稲光。そして先ほどよりも早く轟音が響く。
窓ガラスに阻まれると思った手は、ガラスをすり抜け、彼方側へと伸びていく。
「誤魔化すのは、もう止めた。だからお前も逃げるな」
声もなく、ただこちらを見つめる彼女の腕を掴んだ。
稲光と、ほぼ同時に重い音が室内を震わせ。
「こっちに恋《こい》」
目を合わせて、そう告げた。
「――やだ」
掴まれた腕から手を離し、距離を取る。
それだけで簡単に諦めて手を引いてしまう彼を、強く睨み付けた。
「何でも知ってるって顔をして、勝手な事を言わないで」
雷光が彼の姿を揺らめかせる。続く雷の音に眉を顰めつつ、カーテンを勢いに任せて引いた。
そのままの勢いで、部屋の片隅に布をかけて仕舞い込んだ姿見を引っ張り出した。
布を取る。窓ガラスよりもはっきりとした彼を叩くように、鏡に強く手をついた。
「本当は、私の気持ちなんて、少しも分かってないくせに」
鏡についた手を握り締める。込み上げる感情が、また新しい涙になって流れ落ちていく。
「そうやって、いつも分かった振りして諦める所が大嫌い!」
彼はいつもそうだ。いつでも自分よりも年上の振る舞いをする。昔はそれに憧れもしたし、反発もした。けれど今は、只管にそれが憎らしい。
彼が好きだ。それがいつからかは、もう覚えていない。いつでも側にいた彼は、家族のようで、悪友のようで、ライバルのような。そんな近しい存在だったから。
彼に恋をして、そしてそれは叶わないものだと理解してしまった。鏡の向こう側。どんなに手を伸ばしても、鏡が邪魔で彼には届く事はなかった。
「馬鹿なのはどっちよ。一言も何も言わなかったくせに」
彼の気持ちに蓋をして、諦めるために色々な方法を試した。
もしも彼が同じ気持ちだと、一言でも言ってくれたのなら。そうしたらまだ、こんなに惨めな思いをしなくて済んだというのに。
縋れるものだったら、何でもよかった。一番苦しかったのは、彼にその諦めるための行為を咎められた事だ。他に縋る事も許さない、その残酷さが痛くて、息が出来ないほど苦しかった。
「――どうすれば許してもらえる」
鏡の向こうの彼が、静かに問いかける。
気づけば雷の音は消えている。音に掻き消される事のない彼の声に、鏡から手を離して涙を拭った。
一歩下がり、彼を見る。困ったような、戸惑うような目を見つめながら、手を差し出す。
「来てよ。あなたの気持ちが嘘でないっていうなら、ここまで来て」
息を呑む彼に、それ以外は許さないと睨みながら。
「私の所に愛《あい》にきて」
彼の目を見据えて、そう告げた。
20250425 『「こっちに恋」「愛にきて」』