sairo

Open App
4/13/2025, 8:49:05 AM

美術室に飾られた一枚の絵。
夕暮れの草原を描いたその風景画には、ある噂があった。

――絵を描く誰かがいる。

何人もの生徒が見たと証言している。
絵を描く誰か。時にはスケッチブックを手に、ある時にはキャンバスに向かい、無心に絵を描いているのだという。
不思議と怖いという話は聞かない。この絵が飾られているのが美術室だというのもあるだろうか。無心で絵を描く姿を羨ましい、と口にする生徒ばかりだった。



絵に向かい、誰かが現れるのを待つ。
噂では、この絵のような鮮やかな夕暮れ時に現れるらしい。ちらりと横目で見た空は、鮮やかな朱に染まっている。ここからでは見えないが、夕陽もまた燃えるような朱や金を湛えて、沈んでいっているのだろう。
不意に、何か音がした。視線を絵に戻しても、誰かが現れた形跡はない。ただ朱に染まった草原を、風が駆け抜けているだけだ。

「――なん、だ?」

違和感に目を瞬く。食い入るように絵を見つめ、その違和感に気づいた。
草が揺れている。風が駆け抜ける度に草原が揺れ、ざああ、と音を立てていた。
よく見れば、夕陽も揺らめいて。少しずつ静かに沈んでいるようだ。
思わず手を伸ばす。草原を揺らす風が手をすり抜けて。



――気がつけば、夕暮れ時の草原に一人、立ち尽くしていた。

辺りを見渡す。どこまでも続く草原に、ただ一人を求めた。

「――いたっ!」

遠く、小さな影が、座り込んで絵を描いている。スケッチブックを手に無心に描くその姿に、酷く胸騒ぎがした。

「秋緋《あきひ》」

駆け寄り、声をかける。だが僅かにも反応の得られない事に、さらに声を張り上げた。

「秋緋!いつまでもこんな所にいないで、帰るぞ。叔母さん達や、夏樹だって心配してるんだ」

やはり、反応はない。止まらない手に焦れて、怖れて、無理矢理にでも止めようと手を伸ばす。
だがその手は彼女に届く前に、横から伸びた誰かの手に掴まれ、絵を描く事を止められはしなかった。

「止めてくれる?邪魔をしないで」

静かな声に、ぞくり、と悪寒が背筋を駆け上がる。手を振りほどき、視線を向けて息を呑んだ。

「この子の幸せを、あんたは何度否定するつもりなの?」

咎める視線。強く怒りの滲む目をした彼は、数年前の自分だった。

「誰、なんだ…お前」
「誰って、俺はあんただよ。巡流《めぐる》。秋緋の幼なじみだ」
「どういう…?」

彼の言わんとしている事が理解できず、眉を潜める。睨み付ける視線の先で、肩を竦めて彼は嗤った。
嘲り、憐み。昏い感情を宿した眼が、緩やかに細められる。彼に守られるような立ち位置で、彼女はこちらを気にかける事もなく、絵を描き続けている。
異様な光景に、だがそれさえも美しいと感じ入ってしまえる構図に、くらり、と世界が歪んだ気がした。

「あんたはもういらない。この子に必要なのは、この子が今まで描いてきた俺達だけになった…もう、痛みでしかないあんたへの感情も、窓の下の倒れ伏す二人の姿も、この子の中に欠片も残ってない。あるのは初めて俺を描いた時の、あの純粋な輝きだけだ」
「間違っている。そんな事…それは秋緋の未来を否定するだけの、お前の自己満足だろう!」
「自己満足、ねぇ」

冷たい眼に見据えられる。彼女を解放しろと、続けるはずの言葉は、憎悪にも似たその眼差しに、形をなくして解けていく。

「あんたのそれこそ自己満足じゃないの?惚れた女に頼まれたからって、この子をこれ以上壊していい理由にはならないよ。あんたは最後まで気づこうとすらしなかったけど、この子は夏樹よりもよっぽど繊細で臆病なんだ」

そんな事はない。そうは思えど断言が出来ない自分がいる。
記憶の中の彼女は、いつでも笑っていた。昔彼女の告白を断った時でさえ、彼女は変わらず笑っていて。その後も変わらないように、少なくとも自分にはそう見えていた。
だがそれは彼女の一部分、それも取り繕った部分なのだとしたら。見えていない部分で、苦しみ悲しんで一人泣いていたのだとしたら。
彼女のいないアトリエに残された、あの紅く染められた夕焼け達が、その答えを示しているのだろうか。

かたん、と鉛筆を置く小さな音に、知らず俯いていた顔を上げる。彼女は変わらず振り返らない。描き終わっただろう絵をスケッチブックから切り離して、こちらを見ずに彼に手渡した。
絵を見た彼が、くすりと笑う。

「帰れってさ。これがこの子の答えだよ」

絵をこちらに向けて差し出される。本物と変わらない白黒の美術室に、ああ、と声が漏れた。
彼が絵を手放す。緩やかな軌跡を描いて地に落ちていく絵を反射的に受け止めて。



――気づけば、元の美術室で絵を見上げていた。

「秋緋、いた?」

か細い声に、振り返る。車椅子に乗った彼女の姉が、不安と期待に揺れる眼をして自分の答えを待っていた。
何も言わず、緩く首を振る。今見てきた事を、伝えられなど出来はしない。

「秋緋」

目を伏せて、両の手を握り締める。泣くのを耐えるかのような仕草に、杖をつき片足を引き摺りながら近づき寄り添った。


――秋緋が行方不明になった。

長い昏睡状態から目覚め、退院した自分を待っていたのは、密かに恋した女性から告げられた残酷な事実だった。
車椅子に乗り、只管に自身を責める彼女。ごめんなさいと、すべてに謝り続ける姿に、何一つ言葉をかける事が出来なかった。
夏の字を抱く彼女は、その実とても繊細だ。あの焼ける日差しよりも、柔らかく移ろっていく秋がよく似合う。
だからだろうか。彼女が自分以外の男と恋仲になり、事故で恋人を喪って壊れてしまったのは必然なのかもしれない。
あの日の事は今も鮮明に覚えている。窓辺に立ち、空を見上げる彼女。風に揺れるカーテン。飛ぶ鳥を追いかけるように、彼女は手を伸ばし。そしてそのまま――。
咄嗟に体が動いていた。落ちて行く彼女を抱き留めて、そこで意識は暗転した。
一年の空白の後、目を覚ました。二人とも命が助かったのは奇跡だと、周りから言われていた。
処置が速かったのだと。すぐに救急に連絡し、治療を行えたから命を救えた。彼女と違い、自分が目覚める可能性は低かったが、奇跡は続いたと喜ぶ周りとは異なり、彼女だけは俯いていた。
秋緋が消えた。自分の目覚めの代償のように、数日前にいなくなってしまった。
それがきっと、答えだった。


「秋緋の絵は、他にもある」

彼女の両手を包み、伝える。それが最早意味のない事だと知りながら、今の彼女に希望を失わせる訳にはいかなかった。
丁度準備室から出てきた、美術部の顧問に礼を言い外に出る。
夕焼けの朱に染められた廊下を車椅子を押し、杖をつき歩きながら思う。
彼女はいつ真実に気づくのか。その時に、自分は今度こそ支える事が出来るのだろうか。
窓の外を見る。朱い夕陽が、静かに辺りを染めている。
秋緋の愛した夕陽。そこに取り残されて、現実をすべて忘れて秋緋は絵を描き続けるのだろう。

それこそ永遠に。
秋緋を愛する絵に囲われて。



20250412 『風景』

4/11/2025, 10:32:57 PM

静かな夜。
こっそりと家を抜け出し、暗い道を一人歩く。
辺りを見回す。夜の暗がりに母の物語に出てくるような、不思議な誰かがいないかと、耳を澄ませ目を凝らした。
静かだ。風が木を揺する事もなく、虫の鳴き声も聞こえない。少しばかり気落ちしながらも、諦めきれずに山の入口まで歩く。
きっといるはずなのだ。母が語る不思議な誰かは。
煙管をふかす、気怠げな緋色の妖も。背に大きな翼を持つ妖も。しゃべる狐や狸、猫も。どこかにいるはずだ。
出会えたならば、何を話そう。一緒に遊んでくれるだろうか。友達になってくれるだろうか。そんな、ふわふわした、浮ついた気持ちでいたからか。道の段差に気づくのが遅れてしまった。

「いっ…たぃ」

鈍い痛みに、込み上げてくる涙を必死に堪える。乱暴に目を擦って、体を起こした。
膝と、手と。ひりひりとする痛みが、擦りむき怪我をしてしまったと伝えている。痛みが夜の暗さをより怖ろしいものにしているようで、足が震えて立ち上がる事すら出来ない。
まるで別の世界に迷い込んでしまったみたいだ。一人ぼっちの心細さに、気を抜けばすぐにでも泣いてしまいそうだ。歯を食いしばり、俯かないように道の先を睨み付ける。一度俯いてしまえば、二度と立ち上がれないような気がして、それが何より怖かった。


「――あれ?」

睨み付ける道の先。ぼんやりと浮かび上がる丸い灯りが見えて、目を瞬く。火ではない。かといって、電気でもおなさそうな温かみのある灯りは、ゆっくりとこちらに近づいてきているみたいだった。

「何だろう、あれ」

近づいてはっきりと見えてきても、よく分からない灯り。どうやらランタンのようなものに似ているが、今まで見た事はなかった。
灯りを持つ誰かの姿も見えてくる。灯りを手に歩いてくる誰かは、自分よりは年上の子供のように見えた。
顔が赤い。まるで鬼灯の実のような赤さに、もしかして、と期待が膨らんでくる。

「何、してるんですかねぃ。こんな夜遅くにお子が一人でいるなんぞ、悪い誰かに攫われても文句は言えやせんよ」

呆れた声が、けれども優しく問いかける。

「かあさんの、おはなしのみんなに会いたかった」

それに小さく答えれば、やはり呆れたように溜息を吐かれた。

「そうですかい。けどももう夜も遅い。探索ごっこはおしまいにして、今日はおとなしくお家に帰りやしょうね…さあ、その前に、手足の傷の手当てをいたしやしょう」

仕方がない、と笑われて。膝をついて、手を差し伸べられた。



「それは、なに」

手を繋いだ帰り道。彼の手にある灯りに視線を向ける。

「これですかい?これは提灯、というんでさぁ」
「ちょうちん」

口の中で転がすように呟いて、自分よりも背の高いその顔を見上げ、期待を込めて口を開いた。

「じゃあ。にいさんは、あやかし?」

その問いに、けれど彼は何も答えず。小さく笑うだけだった。
むっとして、睨みつける。はい、とも、いいえ、とも取れるその反応に、繋いだ手を強く握る。

「そうなの?ちがうの?」
「どっちでしょうかねぃ。大きくなって覚えていたら、分かるかもしれやせん」
「いじわる」

ふい、と視線を逸らし、前を見る。一人で辿った時とは違う、ぼんやりと明るいいつもの道が、彼がどちらかなのかをさらに分からなくさせている気がした。



「さ。着きやしたよ」

気づけば家の前。繋いでいた手を離されて、そっと背を押される。
未練がましく見上げても、彼は笑って何も言わない。さらに背を押されて、おとなしく門扉を潜り抜けた。

「おやすみなさい。良い夢を」

優しく囁いて、元来た道を戻っていく。
その丸い灯りを見送りながら、はあ、と深く息を吐いた。
彼は言った。大人になっても覚えていたら、妖なのかそうでないのかが分かると。忘れるだろうと思っている口ぶりで。
ならば、覚えていようではないか。手を握り締めて、一人決意する。
このまま何もしなければ、彼の思うように少しずつ忘れて、大人になる前に欠片も覚えていないだろう。だけど覚えていられる方法を、一つ知っていた。
父のように、母の語る物語を文字で書き出してしまえばいい。

「ぜったい、おぼえててやる。ぜったいに」

大きく頷いて、静かに家に入る。
教えてもらえなかった怒りも込めて、この夜を書き留めてしまおう。
そう心に決めて、急いでベッドに潜り込んだ。





「先生。こことあといくつか、字が間違ってやす。それからこの台詞は、この流れでは不自然でさぁ」
「――そうか」

校正を終えた子供から手渡された原稿を確認しつつ、男は密かに息を吐いた。
いつの間にか担当よりも口うるさくなってしまった子供は、今度は部屋の整理をし始め忙しく動き回っている。出会った当初は想像もしなかったお互いの変化に、男は困惑するばかりだ。

「先生。手が止まっていやすよ。締切は待っちゃあくれないですからね」
「分かっている」

窘められて、男は肩を竦めて筆をとる。
この現状は己の認識の結果かもしれないと、僅かばかりの後悔を抱えながら、男は仕事に専念する事にした。

妖とは、人の認識で在り方を変える。
子供が男に教えた事だ。一つ目の妖が、いつしか豆腐を手に佇むようになり。そしてその豆腐を人に食わせ害を与えるようになって。一方で、事八日に帳面を手に家々を周って家の落ち度を記し、家々の運勢を決めるようにもなり。
すべて人の認識、想像の結果だ。怖れ、望むままに在る妖を、子供が語るその一部分を男は書き記してきた。かつて男の父が母の物語を記してきたように。

ほぅ、と息を吐き、筆を置く。気づけば子供の姿はない。おそらく茶の用意でもしに行ったのだろう。
引き出しを開け、男はその奥に仕舞い込んだ一冊のノートを取り出した。古ぼけ草臥れたそれは、男の始まりだった。
母の物語に憧れ、抜け出した夜の刹那の出会い。父に教えを請いながら書き留めた、一番初めの物語。ノートを開かずとも、その一番初めの頁に書かれた言葉は忘れる事はない。

――君と僕。出会えたこの奇跡を忘れないために、僕は君を物語に閉じ込める。

表紙を撫でながら、男は微笑む。あの夜に出会った彼がこうして共にいる子供なのか、男には分からない。男が書いた物語に応えた、まったく別の妖なのかもしれない。
それでも、今の男と子供の関係は、この先も続いていくのだろう。


「おや、お仕事は終わったんですかい。先生」

盆を手に戻ってきた子供が、男に声をかける。それにああ、と短く答え、男は再び引き出しの奥にノートを仕舞い込んだ。

「終わったのでしたら、休憩にいたしやしょう。どうぞ、先生。熱いので気をつけてくだせぇ」
「分かっている。子供ではない」

顔を顰めながら置かれた湯飲みを手に取り、心配する子供の言葉を一蹴する。そんな男に、子供は笑いながら首を振り、子供ですよ、と囁いた。

「手前にとっては、いくつになっても先生は子供でさぁ。危険を顧みず、興味のある事に向かって進んでいく。眼を輝かせてまだ知らない世界へと飛び込むような、そんな小さなお子ですよ」

楽しげに語る子供から、男はさりげなく目を逸らす。
湯飲みに口を付け、その熱さに眉を寄せた。



20250411 『君と僕』

4/10/2025, 1:38:21 PM

降り注ぐ日差しを浴びながら、一人きり。
誰かを待っている。そんな気がする。だからこの場を離れる訳にはいかない。
暑い。容赦ない太陽を睨み付け、ぐるりと辺りを見渡した。
すぐ近く。大きな木が立っている事に気づいて、早足で向かう。暑さい事には変わりがないが、ただ日に焼かれているよりは、木陰にいる方がよっぽどいい。
日差しが遮られ、幾分か和らいだ暑さにほっとする。このまま座ってしまおうか迷っていると、視線の先、体育館の裏手から、二人誰かが出てくるのが見えた。
ああ、ようやく来たのか。ぼんやりと二人を見ながら考える。幸せそうな笑顔。腕を組み歩く、その距離の近さ。
どうやら告白は成功したらしい。
こちらに気づいて、彼女が手を振る。腕を組んだまま近づく二人を見て、密かに眉を寄せた。
駄目だ。この先は続かない。
可哀想だが仕方がない。それに傷は浅い方がいいだろう。
彼の腕に絡みつくたくさんの細い腕を。背に覆い被さる虚ろな女性の姿を。
いくつもの女性の影を彼に見て。顔を顰めて舌打ちをした。





「――は?」

思わず間抜けな声が出る。
最悪な夢を見た。気の滅入る目覚めに、思わず目を閉じて二度寝を決め込む。
けれどもすっかり目覚めてしまった頭は、眠る事を拒絶している。布団を頭まで被っても、一向に訪れそうにない睡魔に、諦めて起きる事にした。
もぞもぞと、布団から這い出て机に座る。カードを手に取り、何度か切って一枚捲った。

「まじか」

深く溜息を吐く。
結果を否定するように、別のカードを手に取って。同じように切って一枚捲る。

「――まじかぁ」

呟いて、項垂れた。
波打ち際で寝転がる、猫の蠱惑的な表情がやけに憎らしく感じた。

夢見の後の占いは、当たる。
何度も経験してきた事。だからきっと、この浮気性な男の占い結果も当たるだろう。
早く伝えろ、と占いは急かしている。夢でも傷は浅い内にと言っていた。

「でもなぁ。今まで応援してきたのになぁ」

机に伏して、愚痴を溢す。夢で見た友達が、今度告白するのだと意気込んでいたのを知っていた。
好きな人のために、可愛くなろうと努力している事も。彼の言葉や態度に、一喜一憂していた事も。

「言えない。絶対、泣くじゃん。そんなん、可哀想だよぉ」

そもそも、この結果を告げても告げなくても、結果は変わらないのだ。それに伝えた所で、信じてもらえないかも知れない。ならば束の間の夢くらい見てもいいのではないだろうか。
言い訳をいくつも考えて。行かない理由を積み上げる。
遅れてようやく訪れた睡魔に、安堵しながら身を任せた。





彼女が一人、泣いていた。
どうしたのだろう、と近づいて。いつも側にいたはずの彼がいない事に気づく。
辺りを見渡す。遠い先に、何人もの女を侍らせて笑う彼が見えて、眉が寄った。
酷い男だ。もう彼女に飽きて、次に手を伸ばしたのか。
可哀想に。彼女の背を撫でながら、遠い彼を睨む。夏祭りに一緒に行こうと約束をしたくせに、夏が来る前に捨てるだなんて酷すぎる。

「どうして」

泣きながら、呟く彼女に視線を向ける。泣き腫らして真っ赤になった目に、恨みがましげに睨まれた。

「なんで、止めてくれなかったの。あの時、知ってれば」

両手を伸ばし。細い指が首に絡みつく。
強い力で絞められて、息苦しさに彼女の手に爪を立てた。
「大嫌い」

離れない。じわじわと狭まる視界に、遠くなる意識に、必死で抗い踠いた。
力が抜けていく。滲む視界で見る、憤怒に歪む彼女の額に。
一本の角が見えた、気がした。





はっとして、顔を上げる。
また嫌な夢。今度はさっきよりも最悪だ。

「まじなのか」

悪あがきのようにカードを切る。途端に飛び出した三枚のカードに、うわっと顔を引き攣らせた。

「悪い事ばかりを想像して、泣いて苦しんで。それで最後に破局するって?冗談じゃない」

三枚目の、真正面からこちらを見据える猫を睨み付けた。
彼は決断しろと言っている。犠牲のない結末はないのだと、その犠牲を受け入れる覚悟を問うている。
その覚悟から目を逸らせば、きっと結末は最悪に向かうのだろう。

「告げるタイミングを間違えば、その瞬間にアウトなんだけど。タイミングがシビアすぎて、やんなっちゃう」

溜息を吐く。どうしようかと悩んでいれば、見据えるカードの中の彼の目が僅かに和らいだように見えた。
仕方のないやつだ。そう言われているような錯覚に、目を瞬き。
不意に脳裏に一つの映像が流れ込んでくる。

街中の往来。
開けた場所で言い合う女達に囲まれる誰か。
女達が喚くのを困ったように、楽しむように見ている。

目を瞬く。
手元に視線を落とせば、飛び出した三枚のカードとは異なるカードが二枚。
それは、結果を否定しようと引いたカード。
RUNNING。走れ、今すぐにという意味のカード。
そしてDREAMING。夢見たものを意識して、直感を信じろという意味のカード。
立ち上がる。スマホを片手に、出かける準備を整えていく。


「――もしもし。あのさ、今日ヒマ?遊びに行こうよ。新作の春コスメを見に行かない?」

彼女と約束を取り付けて。準備を済ませて家を出る。

「さぁて。夢と占いの結果を外しに行きますか!彼女に告白なんてさせてやるもんか」

寝てみる夢など、所詮は夢だ。現実になど遠く及ばない。気合いを入れて、駆け出した。
最悪から、最良の結果へと覆すために。
現実の、掴み取れる夢へと向かって。



20250410 『夢へ』

4/9/2025, 1:43:56 PM

春の陽気が、窓から差し込む午後。
その日差しから逃れるように、窓から離れたソファで丸くなる少女が一人。起こさぬように、静かに少女の元へと近づいた。
顔を覗き込む。汗ばむ肌は赤く、眉を寄せて少女は寝入っていた。
小さく息を吐く。暑さに極端に弱い少女は、この春の穏やかな陽気ですら苦手らしい。
さてどうしようか。心の内で呟いた。
少女の――妹のために、冷房をつける事は簡単だ。だがそうする事で、益々外へは出られなくなってしまう事は、想像に難くない。

「困ったな」

思わず独り言つ。
このままでは、普通の人と同じような生活が出来なくなってしまう。それだけは避けたいが、このまま苦しむ妹を見ているのは忍びない。
眉間に皺を寄せながら考え込み。それを笑うように風が過ぎていった。

「――桜?」

目の前を踊るように過ぎていく白。目で追いかければ、それはふわりと少女の手のひらへと落ちた。
その刹那。少女の表情が穏やかになる。ふふ、と笑みを溢して、唇が何かを囁いた。
耳を寄せても聞こえぬほどの、微かな声。けれど何故だろうか。少女が何を言ったのか、はっきりと理解できた。
――おかあさん。おとうさん。

はっとして、少女の手のひらに落ちたものに視線を向ける。よく見れば、それは桜の花びらではなかった。白の花びらによく似たそれは、小さな雪の結晶だった。

「っ、ねぇ、起きて!」

少女を揺すり、起こす。むぅ、と小さく声を上げて薄く開いた少女の目を覗き込んだ。
夢見心地な目が、次第に焦点を合わせ。はっきりと視線が交わると不思議そうに目を瞬いて、少女はふわりと微笑んだ。

「おにいちゃん。おはよう」
「おはよう。大丈夫?」
「ん。平気。もう大丈夫だよって、お守りをもらったから」

少女の言葉に、眉を寄せる。意味が分からずにいれば、あのね、と体を起こしながら少女は囁いた。

「夢をね、見たの」
「夢?どんな?」
「なんだったかな。優しい夢だったよ」

ほぅ、と息を吐き、少女は目を細める。愛しい何かを探すように視線を巡らせて、淡く微笑んだ。

「お話をしたんだよ。覚えてないけれど、たくさん話をしたの。それで頭を撫でてもらって。お膝に乗せてもらったり、肩車してもらったり…それでね、お守りをもらったの」

手のひらに視線を落とす。そこには既に雪の結晶はなく、けれど大切な何かがあるかのように、少女は手を握り抱きしめた。

「もう大丈夫だよって。暑いのは平気になるから、お外にも出て行けるよって…夢だったけど、本当になったみたい」
「――そうだね。もう平気そうだ」

すっかり汗が引いた少女を見つめ、微笑んだ。
手を差し伸べる。
きっと、春の日差しは少女を苦しめる事はない。そんな確信に、手を取る少女を促して、窓辺へと向かう。

「暖かくて、気持ちがいいね」

春の日差しを受けて、少女は穏やかに囁いた。

「春だからね」

少女の隣で空を見上げつつ、言葉を返す。
くすくす笑う少女につられ、同じように声を上げて笑った。
不意に風が吹き抜けた。目の前を小さな白が過ぎていく。

「……雪だ」

見上げている空はどこまでも青い。晴れの空から、桜が舞うように静かに雪が降っていた。
手を伸ばす。触れる雪は、僅かな冷たさを残して溶けていく。

「――元気かな」

微かな呟きに、少女へと視線を向けた。遠く空を見上げる横顔は、どこか困惑してようだった。
記憶にないのだから当然だろう。幼い頃の事を、少女は覚えていない。
本当の両親の事を。父の思いも、雪と共に逢いにきた母に手を振り別れた、あの夜の事さえも。
少女の肩に手を置き、視線を合わせる。無意識の呟きに、返せる言葉は一つだけだ。

「元気だよ、きっと。だってこうして近くで見守っているんだから」

冬に在る母の血を引いて暑さに弱い少女を心配して、こうして訪れるくらいには。

「そっか…元気なら、それでいいや」
「心配はかけているみたいだけど」
「そんな事ないよ。心配をかけるような変な事はしてないもん」
「どうかな。春先からソファで溶けそうになっていたのは誰だっけ」
「ちょっと!いじわる言わないでよ」

頬を膨らませて怒る少女に、怖い怖いと嘯いて。横目で見る雪の舞う空に、声には出さずに呟いた。

――大丈夫。妹は、あなた達の大切な子は、人として生きる事が出来ています。



「そういえば、溶けそうな誰かさんのために、アイスを買ったんだった。でももう大丈夫なら、アイスはいらないかな」
「いる!それとこれとは別!」
「そう?じゃあ、食べに行こっか」

笑って手を差し出せば、むくれながらもその手を取られ。手を繋いで歩き出す。
忘れてしまった幼い頃から変わらない。

「おにいちゃんは悪い子だから、罰としてわたしがおにいちゃんの分もアイス食べるからね」
「太るぞ」
「聞こえないっ!」

軽口を言い合いながら、扉に手をかける。

「あ。ちょっと待って」

何かに気づいて少女は繋いだ手を離し、窓へと振り返る。
満面の笑みを浮かべて、大きく息を吸い込んで。

「バイバイ!」

窓の外。降り続く雪に向かい、手を振った。



20250409 『元気かな』

4/8/2025, 1:26:56 PM

虚ろに横たわり、幼い少女は一人、遠い波の音を聞いていた。骨が浮き出た小さな体は、最早自力で動かす事もままならず。微かな胸の動きと時折漏れる吐息だけが、少女が生きている事を示していた。
かたり、と音がした。立て付けの悪い戸を開き、少女よりは年上の、痩せさらばえた少年が、静かに少女の元へと歩み寄る。
虚ろな少女の目が少年へと向けられる。かさついた唇が僅かに動き、それに応えるように少年は優しく微笑んだ。
「遅くなってごめんね。もう、どこにも行かないから」

少女の側に寄り、膝をつく。否、崩れ落ちるといった方が正しい。焦点の覚束ぬ目は、少女以上に少年の終が近い事を示していた。
震える手で、懐にしまい込んでいた包みを取り出す。

「かみさまが、くれたんだ。一人分。おまえが食べて」

包みを解き、中の一欠片の肉を少女の口元へと持っていく。だが、少女はそれに反応を見せず。ただ少年に視線を向け続けていた。

「そう、だね。ずっと、食べてなかった、から…待って」

這いずりながら、さらに少女に近づいて。手にした肉片を口に含み咀嚼する。そうして少女に口付け、開いた隙間から、直接流し入れた。
少女の痩せた喉が動く。すべてを飲み込んだ事を確認して、少年は力尽きたように少女の隣に倒れ伏した。

「これで、大丈夫」

少女と目を合わせながら、穏やかに少年は微笑んだ。
細い手が徐に動き少年の頬に触れるのを、目を細めて受け入れる。

「にいちゃん。ちょっと、疲れちゃった。このまま、いっしょに、寝よっか」

眠れば二度と目覚めは来ないのだろう。それを理解して、頬に触れる手を包み込み、額を合わせて少女に囁いた。

「生きて。きっと、未来にはこんなのより、ずっとおいしいものが、たくさん、あるから。食べて、にいちゃんの分も、生きて」

少女の瞬く目の奥に、光が灯る。

「にいちゃん、先に、寝るけど。ちゃんと起きて、お前に会いに、いくよ。何度でも、約束する…だから、今だけ、おやすみ。ごめんな」

少女が何かを言う前に、少年の目は閉じられていく。
そして、静かに。穏やかに。

少年は、少女の目の前でその時を止めた。





「どうした?」

訝しげな声に、顔を上げる。

「何が?」

こちらを見る彼に逆に問いかければ、眉を寄せ首を振る。

「いや、なんだかぼんやりしているみたいだったから」

相変わらず彼は聡い。苦笑しながら立ち上がり、彼の元まで歩み寄る。

「ちょっとね。昔を思い出してたの」

さらに眉を寄せる彼に、今まで読んでいた雑誌を指差した。

「割れた硝子瓶の中のお菓子達と、あなたと食べてきたお菓子達と。どっちが多くなったかなって」

視線を逸らされる。気まずい顔をする彼に、思わずくすくすと笑ってしまう。
彼はいつも優しい。過去から動けない自分の手を引いて、未来を見せてくれる彼には感謝してもしきれないほどだ。

「どう思う?硝子瓶が割れちゃったから、実際に比較出来ないのが残念だけど」

たとえその手段が、強引なものであったとしても。
あの硝子瓶を彼がわざと壊した事など、初めから気づいていた。

「――今度は、何が気になった?」

机の上の雑誌へと近寄り、彼は記事を見る。色鮮やかな写真を見て、一つ息を吐いた。

「ご当地特集、ね。じゃあ、今度の休みに遠出をしようか」
「いいの?約束だからね?」
「分かってる。約束だ」

嬉しくなって、彼の側に寄り念を押す。彼が約束を破った事はないけれど、確認も込めて。
新しい出会いは、いつでも心を浮つかせる。それが何故なのか、今でははっきりと思い出せないけれど。

「本当に好きなんだな。何か理由があるの?」
「知らない。忘れちゃった」

彼から雑誌を取り上げて、写真を指でなぞりながら肩を竦める。
嘘ではない。ただ覚えているものも僅かにある。
例えば、手や額に触れる温もりとか。会いに来てくれる約束とか。
それが誰か、もう分からない。声も、姿も霞んで輪郭すらあやふやだ。
それでも、覚えている。すべて忘れる事は許さないとばかりに。

「生きなきゃ、駄目だからね」
「何か、言った?」

小さな呟きは、彼には届かなかったらしい。それでいいと笑って首を振る。
忘れてしまった誰か。忘れられない約束。それを抱えて一人きりで生きてきた。
手を差し伸べるのは、いつだって彼だ。欠片も覚えていないのに、何度もこうして初めましてを繰り返す。
彼と出会い、共に過ごして。そして最期を見届ける。
彼と共に行く事の出来ないこの体を、憎んだ事は何度もある。それでも終を自ら求めなかったのは、約束があったからだ。
もはや呪いに近い、それ。何を思ってかつての自分は約束をしたのだろうか。

「あ、そうだ。この前行った、ケーキバイキングにまた行きたい。連れてって」
「遠出する話はどこに行ったんだ」
「近場なんだから、すぐに行けるじゃない。連れてってよ」
「あれは予約しないと駄目なやつだ。また今度な」

けち、と呟いて、雑誌で彼の背を叩く。

「こら。人を叩くな」

頭を強めに撫でられる。やはり優しい彼に、笑いながらその手から抜け出した。
この先、彼の終を見届ける事になるのだろう。何度繰り返しても、置いて行かれる苦しみには慣れない。
そして彼の終を見届けた後、きっとまた硝子瓶の中に、彼との記憶を詰め込むのだ。

「じゃあ、連れて行ってよ。約束でしょ」
「分かってる。約束だ。なんだったら、君とずっと一緒にいてもいいよ」
「馬鹿」

彼の言葉を笑って誤魔化した。
彼には悠久は似合わない。それに置いて行かれる苦しみを、忘れずずっと覚えているのだ。精々、置いていく悲しみを、忘れてしまう空しさを味わえばいい。
そんな酷い事を考えながら、もう一度彼に向かって馬鹿、と繰り返した。



20250408 『遠い約束』

Next