sairo

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4/9/2025, 1:43:56 PM

春の陽気が、窓から差し込む午後。
その日差しから逃れるように、窓から離れたソファで丸くなる少女が一人。起こさぬように、静かに少女の元へと近づいた。
顔を覗き込む。汗ばむ肌は赤く、眉を寄せて少女は寝入っていた。
小さく息を吐く。暑さに極端に弱い少女は、この春の穏やかな陽気ですら苦手らしい。
さてどうしようか。心の内で呟いた。
少女の――妹のために、冷房をつける事は簡単だ。だがそうする事で、益々外へは出られなくなってしまう事は、想像に難くない。

「困ったな」

思わず独り言つ。
このままでは、普通の人と同じような生活が出来なくなってしまう。それだけは避けたいが、このまま苦しむ妹を見ているのは忍びない。
眉間に皺を寄せながら考え込み。それを笑うように風が過ぎていった。

「――桜?」

目の前を踊るように過ぎていく白。目で追いかければ、それはふわりと少女の手のひらへと落ちた。
その刹那。少女の表情が穏やかになる。ふふ、と笑みを溢して、唇が何かを囁いた。
耳を寄せても聞こえぬほどの、微かな声。けれど何故だろうか。少女が何を言ったのか、はっきりと理解できた。
――おかあさん。おとうさん。

はっとして、少女の手のひらに落ちたものに視線を向ける。よく見れば、それは桜の花びらではなかった。白の花びらによく似たそれは、小さな雪の結晶だった。

「っ、ねぇ、起きて!」

少女を揺すり、起こす。むぅ、と小さく声を上げて薄く開いた少女の目を覗き込んだ。
夢見心地な目が、次第に焦点を合わせ。はっきりと視線が交わると不思議そうに目を瞬いて、少女はふわりと微笑んだ。

「おにいちゃん。おはよう」
「おはよう。大丈夫?」
「ん。平気。もう大丈夫だよって、お守りをもらったから」

少女の言葉に、眉を寄せる。意味が分からずにいれば、あのね、と体を起こしながら少女は囁いた。

「夢をね、見たの」
「夢?どんな?」
「なんだったかな。優しい夢だったよ」

ほぅ、と息を吐き、少女は目を細める。愛しい何かを探すように視線を巡らせて、淡く微笑んだ。

「お話をしたんだよ。覚えてないけれど、たくさん話をしたの。それで頭を撫でてもらって。お膝に乗せてもらったり、肩車してもらったり…それでね、お守りをもらったの」

手のひらに視線を落とす。そこには既に雪の結晶はなく、けれど大切な何かがあるかのように、少女は手を握り抱きしめた。

「もう大丈夫だよって。暑いのは平気になるから、お外にも出て行けるよって…夢だったけど、本当になったみたい」
「――そうだね。もう平気そうだ」

すっかり汗が引いた少女を見つめ、微笑んだ。
手を差し伸べる。
きっと、春の日差しは少女を苦しめる事はない。そんな確信に、手を取る少女を促して、窓辺へと向かう。

「暖かくて、気持ちがいいね」

春の日差しを受けて、少女は穏やかに囁いた。

「春だからね」

少女の隣で空を見上げつつ、言葉を返す。
くすくす笑う少女につられ、同じように声を上げて笑った。
不意に風が吹き抜けた。目の前を小さな白が過ぎていく。

「……雪だ」

見上げている空はどこまでも青い。晴れの空から、桜が舞うように静かに雪が降っていた。
手を伸ばす。触れる雪は、僅かな冷たさを残して溶けていく。

「――元気かな」

微かな呟きに、少女へと視線を向けた。遠く空を見上げる横顔は、どこか困惑してようだった。
記憶にないのだから当然だろう。幼い頃の事を、少女は覚えていない。
本当の両親の事を。父の思いも、雪と共に逢いにきた母に手を振り別れた、あの夜の事さえも。
少女の肩に手を置き、視線を合わせる。無意識の呟きに、返せる言葉は一つだけだ。

「元気だよ、きっと。だってこうして近くで見守っているんだから」

冬に在る母の血を引いて暑さに弱い少女を心配して、こうして訪れるくらいには。

「そっか…元気なら、それでいいや」
「心配はかけているみたいだけど」
「そんな事ないよ。心配をかけるような変な事はしてないもん」
「どうかな。春先からソファで溶けそうになっていたのは誰だっけ」
「ちょっと!いじわる言わないでよ」

頬を膨らませて怒る少女に、怖い怖いと嘯いて。横目で見る雪の舞う空に、声には出さずに呟いた。

――大丈夫。妹は、あなた達の大切な子は、人として生きる事が出来ています。



「そういえば、溶けそうな誰かさんのために、アイスを買ったんだった。でももう大丈夫なら、アイスはいらないかな」
「いる!それとこれとは別!」
「そう?じゃあ、食べに行こっか」

笑って手を差し出せば、むくれながらもその手を取られ。手を繋いで歩き出す。
忘れてしまった幼い頃から変わらない。

「おにいちゃんは悪い子だから、罰としてわたしがおにいちゃんの分もアイス食べるからね」
「太るぞ」
「聞こえないっ!」

軽口を言い合いながら、扉に手をかける。

「あ。ちょっと待って」

何かに気づいて少女は繋いだ手を離し、窓へと振り返る。
満面の笑みを浮かべて、大きく息を吸い込んで。

「バイバイ!」

窓の外。降り続く雪に向かい、手を振った。



20250409 『元気かな』

4/8/2025, 1:26:56 PM

虚ろに横たわり、幼い少女は一人、遠い波の音を聞いていた。骨が浮き出た小さな体は、最早自力で動かす事もままならず。微かな胸の動きと時折漏れる吐息だけが、少女が生きている事を示していた。
かたり、と音がした。立て付けの悪い戸を開き、少女よりは年上の、痩せさらばえた少年が、静かに少女の元へと歩み寄る。
虚ろな少女の目が少年へと向けられる。かさついた唇が僅かに動き、それに応えるように少年は優しく微笑んだ。
「遅くなってごめんね。もう、どこにも行かないから」

少女の側に寄り、膝をつく。否、崩れ落ちるといった方が正しい。焦点の覚束ぬ目は、少女以上に少年の終が近い事を示していた。
震える手で、懐にしまい込んでいた包みを取り出す。

「かみさまが、くれたんだ。一人分。おまえが食べて」

包みを解き、中の一欠片の肉を少女の口元へと持っていく。だが、少女はそれに反応を見せず。ただ少年に視線を向け続けていた。

「そう、だね。ずっと、食べてなかった、から…待って」

這いずりながら、さらに少女に近づいて。手にした肉片を口に含み咀嚼する。そうして少女に口付け、開いた隙間から、直接流し入れた。
少女の痩せた喉が動く。すべてを飲み込んだ事を確認して、少年は力尽きたように少女の隣に倒れ伏した。

「これで、大丈夫」

少女と目を合わせながら、穏やかに少年は微笑んだ。
細い手が徐に動き少年の頬に触れるのを、目を細めて受け入れる。

「にいちゃん。ちょっと、疲れちゃった。このまま、いっしょに、寝よっか」

眠れば二度と目覚めは来ないのだろう。それを理解して、頬に触れる手を包み込み、額を合わせて少女に囁いた。

「生きて。きっと、未来にはこんなのより、ずっとおいしいものが、たくさん、あるから。食べて、にいちゃんの分も、生きて」

少女の瞬く目の奥に、光が灯る。

「にいちゃん、先に、寝るけど。ちゃんと起きて、お前に会いに、いくよ。何度でも、約束する…だから、今だけ、おやすみ。ごめんな」

少女が何かを言う前に、少年の目は閉じられていく。
そして、静かに。穏やかに。

少年は、少女の目の前でその時を止めた。





「どうした?」

訝しげな声に、顔を上げる。

「何が?」

こちらを見る彼に逆に問いかければ、眉を寄せ首を振る。

「いや、なんだかぼんやりしているみたいだったから」

相変わらず彼は聡い。苦笑しながら立ち上がり、彼の元まで歩み寄る。

「ちょっとね。昔を思い出してたの」

さらに眉を寄せる彼に、今まで読んでいた雑誌を指差した。

「割れた硝子瓶の中のお菓子達と、あなたと食べてきたお菓子達と。どっちが多くなったかなって」

視線を逸らされる。気まずい顔をする彼に、思わずくすくすと笑ってしまう。
彼はいつも優しい。過去から動けない自分の手を引いて、未来を見せてくれる彼には感謝してもしきれないほどだ。

「どう思う?硝子瓶が割れちゃったから、実際に比較出来ないのが残念だけど」

たとえその手段が、強引なものであったとしても。
あの硝子瓶を彼がわざと壊した事など、初めから気づいていた。

「――今度は、何が気になった?」

机の上の雑誌へと近寄り、彼は記事を見る。色鮮やかな写真を見て、一つ息を吐いた。

「ご当地特集、ね。じゃあ、今度の休みに遠出をしようか」
「いいの?約束だからね?」
「分かってる。約束だ」

嬉しくなって、彼の側に寄り念を押す。彼が約束を破った事はないけれど、確認も込めて。
新しい出会いは、いつでも心を浮つかせる。それが何故なのか、今でははっきりと思い出せないけれど。

「本当に好きなんだな。何か理由があるの?」
「知らない。忘れちゃった」

彼から雑誌を取り上げて、写真を指でなぞりながら肩を竦める。
嘘ではない。ただ覚えているものも僅かにある。
例えば、手や額に触れる温もりとか。会いに来てくれる約束とか。
それが誰か、もう分からない。声も、姿も霞んで輪郭すらあやふやだ。
それでも、覚えている。すべて忘れる事は許さないとばかりに。

「生きなきゃ、駄目だからね」
「何か、言った?」

小さな呟きは、彼には届かなかったらしい。それでいいと笑って首を振る。
忘れてしまった誰か。忘れられない約束。それを抱えて一人きりで生きてきた。
手を差し伸べるのは、いつだって彼だ。欠片も覚えていないのに、何度もこうして初めましてを繰り返す。
彼と出会い、共に過ごして。そして最期を見届ける。
彼と共に行く事の出来ないこの体を、憎んだ事は何度もある。それでも終を自ら求めなかったのは、約束があったからだ。
もはや呪いに近い、それ。何を思ってかつての自分は約束をしたのだろうか。

「あ、そうだ。この前行った、ケーキバイキングにまた行きたい。連れてって」
「遠出する話はどこに行ったんだ」
「近場なんだから、すぐに行けるじゃない。連れてってよ」
「あれは予約しないと駄目なやつだ。また今度な」

けち、と呟いて、雑誌で彼の背を叩く。

「こら。人を叩くな」

頭を強めに撫でられる。やはり優しい彼に、笑いながらその手から抜け出した。
この先、彼の終を見届ける事になるのだろう。何度繰り返しても、置いて行かれる苦しみには慣れない。
そして彼の終を見届けた後、きっとまた硝子瓶の中に、彼との記憶を詰め込むのだ。

「じゃあ、連れて行ってよ。約束でしょ」
「分かってる。約束だ。なんだったら、君とずっと一緒にいてもいいよ」
「馬鹿」

彼の言葉を笑って誤魔化した。
彼には悠久は似合わない。それに置いて行かれる苦しみを、忘れずずっと覚えているのだ。精々、置いていく悲しみを、忘れてしまう空しさを味わえばいい。
そんな酷い事を考えながら、もう一度彼に向かって馬鹿、と繰り返した。



20250408 『遠い約束』

4/7/2025, 2:25:57 PM

いたずらに遊ぶ風が、花弁を舞い上げる。それを追いかけ空を舞い、辺り一面に咲き誇る種々の花を見下ろして、微笑んだ。
この地で眠る彼らのための花。かつての焼けた建物の残骸と屍が積み上がる荒れ地の面影は、欠片も見えはしない。
不意に、幼子の笑う声を聞いた。掠れた記憶を揺するその声に惹かれ、ゆるりと視線を巡らせた。

「――あれは」

目を瞬く。幼子が一人と、妖が二匹。花を愛で、遊んでいた。
何故このような場所に、と首を傾げて困惑する。
ここは谷底にある、忘れ去られた場所だ。この地に辿り着くための道は永く閉ざされて、迷い込む事など出来るはずがない。
ここを知ってあえて訪れたのだろうか。警戒しながらも、幼子らの前に降り立った。

「あ。こんにちは」
「人間。何故、ここにいる?」

腕を伸ばしたとして、届く事のない距離。それ以上は近づく事は許されない。今は静観する妖らが、この距離を侵した途端に襲いかかる事だろう。
張り詰めた空気の中、唯一何も知らぬ幼子が、己の問いかけに眉を下げつつ微笑んだ。

「えとね。逃げてきたの」
「逃げてきた?」

意味を理解しかね、妖らに視線を向ける。

「そのままの意味さ」
「憑き物筋は人間から厭われやすい。そういう事だ」

憑き物筋。それはこの妖らの事なのだろう。
目を細め、幼子と妖らを繋ぐ糸を見る。人間にとって不可視のそれは澄んだ緋色を纏い、幼子と妖を離れぬように強く繋ぎ留めていた。
細身ながらも随分としなやかな糸だ。余程深く関わりなのだろう。
その緋色をかつて見た事があった。両親を求めて弱々しく伸ばした小さな手に絡みついた。或いは、互いをかばい合いながら事切れていた、同胞らの腕に括りつけられた。
家族や仲間を繋ぐそれを、己に花を植える事を教えた男は絆だと呼んでいた。

「わたしたちね、生まれる前からいっしょだったんだって。六方《ろっぽう》が教えてくれたの。すてきでしょ…でもね、それはわるいことなんだって、みんな言うから」

赤を纏う妖が肩を竦めた。呆れているような、哀しむような複雑な感情を湛えた目が幼子を見つめ、静かに伏せられた。

「僕達と切り離される事が、余程お気に召さなかったらしいよ。本当に、物好きな子だよね…ま、切り離そうとした所で、切り離す事など不可能なんだけどね」

白を纏う妖は、笑いながら幼子の元へと近づいて、その頭を撫でる。物好きだと言いながらも、その目には慈しみと喜びが浮かんでいる。
不思議な関係だ。人間にとって幼子の存在は異端でしかないのだろうが、それが正しい在り方にも見える。
ここにいた彼らと同じだ。彼らも異端とされ、迫害を受けて都から逃れてここに辿り着いた。生きるために互いに協力し合い、一つの集落を作り上げた。
懐かしさに、目を細める。幼子らには、彼らのような出会いはあるのだろうか。
その行く末が気になった。

「行く当てはあるのか」

己の問いかけに、白の妖は首を振る。

「ないよ。ないから、ここまできた」
「ここは、この子と同じ者がいたと聞いていたからな」

ああ、と思わず声が漏れた。
何も知らないでここまで来たのか。今はいない彼らを思いながら、その事実を告げるべく口を開く。

「残念だが、ここにはもう何もない。彼らは遠い過去に絶やされた。今あるのは、ワタシと花だけだ」

花を見遣り、呟いた。
人間である幼子が必要とするものを求めて、同じように逃れた者らで作られた集落まできたのか。かつての彼らであれば快く受け入れ、必要なものを与えたのだろう。だが今ここに残るのは、妖である己だけだ。必要なものを何一つ与えられはしない。
すまない、と小さく謝罪をする。だが返る小さな笑い声に、不思議に思って視線を向けた。

「ああ、気にしなくていいよ。ここが遠い昔に絶えたのは知っているからね」
「では何故?」
「お花をね、見たかったの」

幼子は笑う。屈んで白の花を一本手折り、手を伸ばして白の妖の髪に挿す。そしてもう一度屈み、今度は赤の花を一本手折る。赤の妖の元まで駆けて、同じように髪に花を挿した。

「この子と同じく厭われ、絶やされた者らの死を悼む妖がいると聞いたのだ」

幼子の頭を撫でながら、赤の妖は苦笑する。いつの間にか和らいだ視線に、何故、と呟いた。

「しばらくここにいさせてはくれないだろうか。この子もお前の植えた花を気に入っているようだ。だがこの地を踏み荒らしているようなものだからな。お前が厭うのであれば立ち去ろう」
「いや荒らしてはないだろうよ。ここには花しかないのだから」

穏やかな赤の妖の言葉に、笑って否を唱える。
ここにはもう誰もいないのだ。土の下で眠る彼らは、すでに新しい生を歩んでいる。彼らの体も魂も、記憶でさえも、残るものはここにはない。
故にこの地はただの花畑だ。踏み荒らす事など気にする必要はない。

「好きなだけここにいるといい。だがワタシにはその子に必要なものを与えられはしない。それでも良いと言うのであれば」
「十分だ」

頷いて、赤の妖は幼子に何かを囁き白の妖を指差した。
幼子の目が輝いて、白の妖の元へと駆けていく。

「燈明《とうみょう》!お花のかんむり作って!」
「え。ちょっと無理言わないでよ。僕、一度も作った事ないのに」

慌てて逃げていく白の妖の背を、幼子はきゃらきゃら笑いながら追いかけていく。その姿がいつかの誰かと重なって、僅かに胸の痛みを覚えた。

「花冠か。前に作ってもらったものが、残っていたはずだ…ああ、そうだ」

思い出す。時折ここに訪れる、変わり者の男の存在を。

「ワタシに花を植える事を教えた男が、前に家を作っていた。簡素なものではあるが、雨風くらいはしのげるだろう」

赤の妖に、指し示す。家というには小さく見た目は粗末な物ではあるが、作りはしっかりしているはずだ。

「ありがたく、使わせてもらおうか」

微笑んで家へと向かう赤の妖の背を見送って、気づけば鬼事をしている幼子と白の妖に視線を向ける。
人間に厭われても、絆で結ばれた妖と共に生きる幼子。その生き方は、やはり彼らにとてもよく似ている。
おそらく幼子の辿る先は、険しいものなのだろう。

どうか、と誰にでもなく呟いた。
どうか、幼子の行く先が、僅かでも安らげるもので在る事を。
どうか、彼らの辿った道だけは、同じように辿る事がないようにと。

吹き抜ける風が、花弁を散らす。それを視線で追いかけて。
願うように、目を閉じた。



20250407 『フラワー』

4/6/2025, 1:54:00 PM

広げた地図にまた一つ印を付ける。
自宅の周囲を描き留めた手書きの地図は、これ以上書き込む事が出来ないくらいに色鮮やかになった。ふふ、と一人笑い、完成した地図を指で辿る。

「完成したのね。おめでとう」

彼女の声に、ありがとうと言葉を返す。首に下げた銀色の羅針盤にそっと触れた。

「自分の目で見て歩くって、大変なんだね」
「慣れてないからよ。すぐに慣れる…といいわね」
「ごめんね。見えてるのに、見えてない時とあんまり変わらなくて」
「まったくだわ」

溜息を吐く彼女に、笑いながら謝って。誤魔化すように、窓の外を見た。
少し前まではくすんだ色で見えていた空は、今は澄み切った青色がよく分かる。白の雲が色々な形をしている事に未だに慣れず、思わず魅入ってしまう。

「目の調子は良いみたいね」
「うん。ちゃんと見えてるよ。見えすぎてる気もするけれど」

雲に紛れるようにして駆け抜けていく黒い影を認めて、苦笑する。今日も自分の目は、人ではないモノもはっきりと見えてしまっていた。
妖。彼女のように人ではない、けれど人に寄り添ってくれる優しい存在。それらは見えても大丈夫なモノだ。

「今日も変わらないのね…仕方がないわ。いつも言っているように、外に出る時は地図の赤い印の所には近づかないで」
「分かってるよ。約束するから」

彼女に大丈夫だと返事をしながら、地図を見る。
色鮮やかに書き込まれた印の中で、いくつか点在する赤の丸印の数を声には出さずに数えていく。
彼女曰く、危険な場所。化生と呼ばれる、妖とは違う怖いモノが彷徨っているらしい場所。それは見えてはいけないモノらしい。

「今日はこのまま、どこにも行かないのだったかしら。お母さんも出かけているみたいだものね」
「そうだよ。今日はお留守番」

彼女の言葉に頷いた。留守番といっても、母は買い忘れた物を買いに行っているだけで、すぐに帰ってくるだろうけれど。
地図の上の赤い三つの丸を指で順に辿る。この丸のどれかが、少し前まで自分の目を奪おうと呪いをかけていたのだろうか。

「あなたの目を奪おうとしたモノは、もういないわ。だから目に関しては、もう大丈夫よ」
「本当に?」
「本当。目の呪いを解いてもらった時に、それが呪いをかけた化生に返って、消えてしまったのよ。だからもうそれは心配しなくてもいいわ」

自分の考えを見通す彼女の声は、とても優しい。不安はすぐに解けて消えて、ありがとうと呟いた。
羅針盤《彼女》に視線を落とす。彼女がいなかったもしもは、想像すらも出来ない。
羅針盤をくれた母は、すべて分かっていたのだろうか。自分の目の事も、彼女についても。ふと、疑問が込み上げた。

「お母さんは知らないわ。ただあなたの視力が弱い事は知っていたし、そのせいで迷子になりやすいだろう事は察していたけれど」
「そうなの?それなら、君に会えたのは、凄く幸運だったんだね」
「そうね…でもまさか、見えるようになっても、迷子は変わらないなんて、お母さんも私も分からなかったけれど」

くすくす、と笑う彼女の声に、羅針盤から目を逸らす。

「でも地図が、あるから。家の周りだけだけど、完成したし」
「それがあっても、家に帰れなかったのはどうして?地図に書いてあった場所だったわ」
「――いじわる、言わないでよ」

昨日の事を思い出し、溜息が出る。地図を描いたのは自分だというのに、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
彼女に頼りすぎているのもあるのだろう。見えなくても見えても、彼女の声がないとまともに歩けもしないのだから。

「ごめんね、つい」

笑いながら謝る彼女に、別に、と小さく呟いた。彼女の言っている事は悲しいくらいに正しくて、文句の一つも言う事は出来なかった。
もう一度溜息を吐いて、広げた地図を折りたたむ。

「新しい地図は作らないの?」
「――作っても、使えないんじゃ意味ないよ」
「そんな事はないわ」

何を言っているのだろう。地図があっても帰れなかったと言ったのは、彼女なのに。

「作る事が大切なのよ。地図を作るために歩き回るのは、とても楽しいでしょう?」

むっとする気持ちは、それでも彼女の穏やかな声にすぐに萎んで消えていく。代わりに込み上げてくるのは、彼女と共に歩き回って見えた、たくさんの景色だった。
きらきらと輝いているような、作った地図よりも色鮮やかで綺麗な景色。季節によって変わるのだと聞いて、楽しみにしていたのを思い出した。

「私もあなたと一緒に、色々な景色を見られるのが嬉しいのよ。だから機嫌を直して、新しい地図を作りましょう?」

そこまで言われては仕方がない。そう自分に言い訳をして、新しい紙を手に取った。
折りたたんだ地図を広げ直す。指で辿って、どこの道の先から始めようかを考える。
いつの間にか、道に迷う心配など欠片も忘れてしまって。ただ新しい冒険への期待に、胸が高鳴った。

「お母さん、帰ってきたみたいね」

ちょうどタイミングよく、玄関が開く音が聞こえた。ただいま、と母の声が聞こえて、たまらず部屋を飛び出した。

「危ないわ。ちゃんと足下に気をつけて」

彼女の声に、分かってる、と返事をして。まだ玄関先にいた母に、出かけてくると告げて家を出た。
空を見上げる。どこまでも青色が広がっていて、雨の気配は見られない。

「行こう!」
「そっちは駄目な方だって。ちょっとは落ち着いてってば!」

慌てる彼女の声を笑いながら、駆け出した。行き先は気の向く方でいいだろう。

「話を聞いてっ!そこは右に行くの!」

返事はせず。けれど彼女の指示通りに右に曲がる。
最初の地図を作り始めた時のように、胸がどきどきして落ち着かない。高鳴る鼓動を抑えるように、羅針盤ごしに胸に手を当てた。

「まったくもう。転ばないでよね」
「大丈夫だって」

道には迷うけれど、転ぶ事はもうほとんどない。
それを彼女も分かっているからか、呆れた溜息を溢すだけで、それ以上は何も言わなかった。
何だか楽しくて仕方がない。手にしたままの白紙の地図が、輝いて見える。

「次はどっち?」

彼女に声をかける。呆れた声が道を示し、その通りに進んでいく。
不安はない。
彼女の指し示す道は、いつでも正しいのだから。



20250406 『新しい地図』

4/5/2025, 1:54:47 PM

「好きだよ」

何十回目の告白は、いつものように彼女の無言の一瞥で終わる。
落ち込みたくなるが、彼女の前だ。必死で笑顔を作ってごめんね、と一言呟き、駆け出した。
いつもの事。何も変わりのない、日常の一場面。分かっていたはずだと自分に言い聞かせ、必死に嗚咽を噛み殺す。それでも気持ちを抑えきれず、元の小さな雀の姿に戻り、空へと羽ばたいた。



「僕が小さな雀だからかな」

適当な木の枝に止まり、溜息を吐く。
彼女の前では、いつも人間の姿になっている。けれども聡い彼女の事だ。自分の本当の姿を、すでに知っているのかもしれない。

「僕が人間だったらなぁ」

或いは、彼女が妖だったのなら。
そうすれば、希望はあったのかもしれない。考えれば考えるほど、気分が落ち込み俯いた。
もう、潮時なのだろう。

「明日…もし明日駄目だったら、諦めよう」

言い聞かせるように、言葉にする。諦めきれない事は明らかだけれども、このまま続ける訳にもいかない。相手を考えない告白は、ただの迷惑だ。彼女に嫌われてしまうのは嫌だった。
俯く顔を上げ、空を睨む。泣きたい気持ちを誤魔化すように、弓張月に向けて声高に鳴いた。





遠く彼女の背を見つけ、地に下りる。
人間の姿を取って、可笑しい所はないかを確認する。これで最後なのだからと、今日は念入りに。

「最後はせめて、かっこよくしないと」

気を抜けば泣きそうな目を強く閉じて、開く。遠い彼女の姿を焼き付けるようにして見つめた。

「好き、だなぁ」

彼女が好きだ。表情のあまり変わらない彼女が、ふとした瞬間に見せる微笑みが、大好きだ。
さりげのない優しさも。誰に対しても誠実な所も。自由気ままな所も。彼女を構成するすべてが好きでたまらない。
ふふ、と思わず笑みが零れ落ちる。こんなにも大好きな気持ちを全部伝えられたら、それで十分な気がしてきた。
彼女に受け取ってもらえなくても。好きの気持ちは捨てずに、大切に鍵をかけてしまっておこう。
昨日までの苦しい気持ちはどこかに消えて、軽い足取りで彼女の元まで歩いて行く。

「おはよう」

声をかける。振り返る彼女に笑いかけ。

「あのね、」
「ずっと思っていたのだけれど」

好きだよ、と続くはずの言葉は、けれど彼女の言葉に掻き消される。
いつもとは違う事。初めて返された言葉に、何も言えずに立ち尽くす。

「君の目に、私はどんなふうに映っているの?」
「――え?」

僅かに顰められた眉に、肩が跳ねる。
どんな、と問われて、色々な言葉が頭を過ぎていく。
可愛い。優しい。綺麗。
けれど混乱している思考では、思いつく事は一つも言葉にはならず。

「普通の、人間の女の子」

彼女にとっては、意味の分からないであろう言葉が口から零れ落ちた。
あ、と後悔するよりも早く。彼女の深い溜息にびくり、と体を縮こまらせる。

「そうだろうとは思った」

怒らせてしまった。その後悔は、彼女の呆れを乗せた声音に疑問に変わる。初めから理解しているような口ぶりに、恐る恐る視線を向ければ、彼女の深い緑の目と交わった。
随分と瞳孔が細い。さらに疑問が膨れ上がる。
それは、まるで猫のような――。


「気づいた?ご先祖様に、猫がいたらしいよ」

目を細めて笑う彼女に、文字通り飛び上がって驚いた。

「え…え、それって」
「考えていたのだけれどね」

情報が多すぎて理解が追いつかない自分をよそに、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。

「君の好き、の言葉に同じ言葉を返したいとして。それってちゃんと君と同じ気持ちで届くのかな。捕食対象に対する気持ちと誤解されない?」

例えば、美味しいケーキを前にした時の、好きの気持ちに聞こえないか。
眉を寄せて真剣に悩む彼女に、淡い期待と恐れが混み上がる。喜べばいいのか、怖がればいいのか分からずに、それでも確かめたい事が一つあった。

「それって、つまり…僕の事、好き、って事?」
「そういう事…君が、好きだよ」

目を細めて彼女は笑う。
嬉しい。夢みたいだ。そんな幸せな気持ちとは裏腹に、その笑みが猫のように見えて、思わず元の姿になって空を舞い上がってしまう。

「――あ。ごめん」

見下ろす彼女が哀しげに眉を下げるのを見て、慌てて地に下り人間の姿を取る。改めて謝れば、気にするなとばかりに頭を優しく撫でられた。
彼女を見る。細まる彼女の目を見ただけで、ぞわりと本能的な恐怖が襲い体が震えるのを見て、彼女の手が離れていく。

「あ、あのさっ!」

咄嗟にその手を取り。彼女の目から視線を逸らしながら、一つの提案をする。

「手を。手を、さ。繋ぐ事から、始めない?」
「――そう、だね。君が許してくれるなら」

彼女の言葉に、改めて手を繋ぐ。
これからどうすればいいのだろう。両思いだとは露にも考えた事はなかったため、何をしたら良いのか分からない。
取りあえず。失礼な事だけれども、大事な事を確認しなければ。

「えっと。雀とか鳥を取って食べたり…しない。よね?」
「当たり前。食べるなら、ケーキの方が良い」

僅かにむくれて視線を逸らす彼女に、気づかれないように安堵の息を吐いて。

「でも、逃げる鳥とか小動物を見ると、どうしても追いかけたくなるの」

続いた言葉に、ひっ、と思わず声が出た。

どうやら叶ってしまった恋は、とてつもなく怖ろしく、可愛らしいもののようだ。



20250405 『好きだよ』

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