「好きだよ」
何十回目の告白は、いつものように彼女の無言の一瞥で終わる。
落ち込みたくなるが、彼女の前だ。必死で笑顔を作ってごめんね、と一言呟き、駆け出した。
いつもの事。何も変わりのない、日常の一場面。分かっていたはずだと自分に言い聞かせ、必死に嗚咽を噛み殺す。それでも気持ちを抑えきれず、元の小さな雀の姿に戻り、空へと羽ばたいた。
「僕が小さな雀だからかな」
適当な木の枝に止まり、溜息を吐く。
彼女の前では、いつも人間の姿になっている。けれども聡い彼女の事だ。自分の本当の姿を、すでに知っているのかもしれない。
「僕が人間だったらなぁ」
或いは、彼女が妖だったのなら。
そうすれば、希望はあったのかもしれない。考えれば考えるほど、気分が落ち込み俯いた。
もう、潮時なのだろう。
「明日…もし明日駄目だったら、諦めよう」
言い聞かせるように、言葉にする。諦めきれない事は明らかだけれども、このまま続ける訳にもいかない。相手を考えない告白は、ただの迷惑だ。彼女に嫌われてしまうのは嫌だった。
俯く顔を上げ、空を睨む。泣きたい気持ちを誤魔化すように、弓張月に向けて声高に鳴いた。
遠く彼女の背を見つけ、地に下りる。
人間の姿を取って、可笑しい所はないかを確認する。これで最後なのだからと、今日は念入りに。
「最後はせめて、かっこよくしないと」
気を抜けば泣きそうな目を強く閉じて、開く。遠い彼女の姿を焼き付けるようにして見つめた。
「好き、だなぁ」
彼女が好きだ。表情のあまり変わらない彼女が、ふとした瞬間に見せる微笑みが、大好きだ。
さりげのない優しさも。誰に対しても誠実な所も。自由気ままな所も。彼女を構成するすべてが好きでたまらない。
ふふ、と思わず笑みが零れ落ちる。こんなにも大好きな気持ちを全部伝えられたら、それで十分な気がしてきた。
彼女に受け取ってもらえなくても。好きの気持ちは捨てずに、大切に鍵をかけてしまっておこう。
昨日までの苦しい気持ちはどこかに消えて、軽い足取りで彼女の元まで歩いて行く。
「おはよう」
声をかける。振り返る彼女に笑いかけ。
「あのね、」
「ずっと思っていたのだけれど」
好きだよ、と続くはずの言葉は、けれど彼女の言葉に掻き消される。
いつもとは違う事。初めて返された言葉に、何も言えずに立ち尽くす。
「君の目に、私はどんなふうに映っているの?」
「――え?」
僅かに顰められた眉に、肩が跳ねる。
どんな、と問われて、色々な言葉が頭を過ぎていく。
可愛い。優しい。綺麗。
けれど混乱している思考では、思いつく事は一つも言葉にはならず。
「普通の、人間の女の子」
彼女にとっては、意味の分からないであろう言葉が口から零れ落ちた。
あ、と後悔するよりも早く。彼女の深い溜息にびくり、と体を縮こまらせる。
「そうだろうとは思った」
怒らせてしまった。その後悔は、彼女の呆れを乗せた声音に疑問に変わる。初めから理解しているような口ぶりに、恐る恐る視線を向ければ、彼女の深い緑の目と交わった。
随分と瞳孔が細い。さらに疑問が膨れ上がる。
それは、まるで猫のような――。
「気づいた?ご先祖様に、猫がいたらしいよ」
目を細めて笑う彼女に、文字通り飛び上がって驚いた。
「え…え、それって」
「考えていたのだけれどね」
情報が多すぎて理解が追いつかない自分をよそに、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
「君の好き、の言葉に同じ言葉を返したいとして。それってちゃんと君と同じ気持ちで届くのかな。捕食対象に対する気持ちと誤解されない?」
例えば、美味しいケーキを前にした時の、好きの気持ちに聞こえないか。
眉を寄せて真剣に悩む彼女に、淡い期待と恐れが混み上がる。喜べばいいのか、怖がればいいのか分からずに、それでも確かめたい事が一つあった。
「それって、つまり…僕の事、好き、って事?」
「そういう事…君が、好きだよ」
目を細めて彼女は笑う。
嬉しい。夢みたいだ。そんな幸せな気持ちとは裏腹に、その笑みが猫のように見えて、思わず元の姿になって空を舞い上がってしまう。
「――あ。ごめん」
見下ろす彼女が哀しげに眉を下げるのを見て、慌てて地に下り人間の姿を取る。改めて謝れば、気にするなとばかりに頭を優しく撫でられた。
彼女を見る。細まる彼女の目を見ただけで、ぞわりと本能的な恐怖が襲い体が震えるのを見て、彼女の手が離れていく。
「あ、あのさっ!」
咄嗟にその手を取り。彼女の目から視線を逸らしながら、一つの提案をする。
「手を。手を、さ。繋ぐ事から、始めない?」
「――そう、だね。君が許してくれるなら」
彼女の言葉に、改めて手を繋ぐ。
これからどうすればいいのだろう。両思いだとは露にも考えた事はなかったため、何をしたら良いのか分からない。
取りあえず。失礼な事だけれども、大事な事を確認しなければ。
「えっと。雀とか鳥を取って食べたり…しない。よね?」
「当たり前。食べるなら、ケーキの方が良い」
僅かにむくれて視線を逸らす彼女に、気づかれないように安堵の息を吐いて。
「でも、逃げる鳥とか小動物を見ると、どうしても追いかけたくなるの」
続いた言葉に、ひっ、と思わず声が出た。
どうやら叶ってしまった恋は、とてつもなく怖ろしく、可愛らしいもののようだ。
20250405 『好きだよ』
桜は貪欲だ。
だから気をつけるように、一人では近づかないようにと誰かが言っていた。不意に過る記憶に、眉を寄せる。
忠告など、大概は手遅れだ。今のこの現状が、雄弁にそれを語っている。
はぁ、と溜息を一つ。もし戻れたら貪欲の意味を辞書で調べ直そうと、目の前の彼、或いは彼女から目を逸らした。
「可愛いわ。でもこちらもきっと似合うわね」
薄桃色の振り袖を着た少女、らしき妖は、手にした反物をあてがいながら微笑む。
らしき、なのは、声が見た目に反してとても低いからだ。声だけで判断するならば、大人の男性。けれど見た目は可憐な少女。その違いに、混乱する。
「ねえ、あなたはどちらが…いえ、どちらもという選択肢があったのを忘れていたわ。折角の機会なのだから、似合うと思うものすべてを選びましょう」
貪欲とは何だっただろうか。確かに欲深くはありそうであるけれど。
痛み出した頭を抑えたくなるが、体は背後の桜の枝に絡めとられて満足に動かす事は出来ない。どこからか取り出した反物を次々とあてがわれているこの現状に、溜息を吐くしか出来ない。
「もう、溜息ばかり吐いていたら、幸せが逃げていってしまうわよ。こんなに可愛いのだから、しゃんと笑っていなさい」
気分を害したように頬を膨らませる。その姿はとても愛らしいけれど、やはり声は低い。
曖昧に笑って誤魔化して、散歩をしたくなって一人庭に出た自分の選択を密かに後悔した。
「何をやっているんだ」
呆れた声に、顔を上げる。ようやくやってきた救世主の登場に、視線だけで助けを求めれば、彼はやはり呆れた顔をしながらもこちらに近づいた。絡みつく枝を払い、抱き上げられる。
「一人で桜に近づくなと言っただろうに」
「覚えてなかったんだから、仕方ないでしょ」
文句を言いながらも彼にしがみつく。宥めるように頭を撫でられて、その心地良さに目を細めた。
「ちょっと。可愛い子を独り占めなんて酷いわ」
「十分だろう。お前の背後にある反物の山は何だ」
彼の言葉に、内心で深く同意する。
だが妖は、まだ満たされてはいなかったようだ。
「可愛い子には、可愛い格好をさせたいものでしょう。それの何かいけないのかしら」
「限度を考えろと言っている」
「嫌よ。あたし、今まで遠くから見ているだけだったのだもの。満足するまで付き合ってもらいたいわ」
腰に手を当てて怒る妖に、彼は嘆息する。気持ちはとても分かるけれども珍しい彼の態度に、思わず彼の横顔を凝視してしまった。
手を伸ばし、さっき彼がしてくれたように頭を撫でる。僅かに目を見開いてこちらを見る彼に、笑ってみせた。
幾分か疲れが滲んでしまった事には、目を瞑ってもらいたい。
「琥珀《こはく》」
「帰ろ、槐《えんじゅ》」
「そうだな」
「ちょっと!待ちなさいよ」
妖の引き止める声がしたとほぼ同時。風に舞った桜の花びらが壁のように周りを覆い引き止められる。
「帰さないわよ。ここで帰したら、もう逢わせてもらえないんでしょ!あたしだけ、いつも屋敷に入れてもらえないもの」
激しく怒る妖に視線を向けて、彼を見る。屋敷に入れてもらえないのは何だか仲間はずれのようで、少しだけ可哀想に思ってしまった。
けれど彼は冷めた目をして妖を一瞥して、当然だろう、と呟いた。
「お前に付き合って、面倒事に巻き込まれるつもりはない。それにこの子をお前が咲き誇るための糧にさせるわけにはいかないからな」
糧。つまりはこの桜の肥料になるという事だろうか。
彼にしがみつく腕の力が、少しだけ強くなる。
「それ、いつの話よ!あたしは可愛い子を着飾りたいだけなのにっ」
「人間だった頃のこの子を、幾度となく拐かそうとしたのは誰だろうな」
「だって可愛かったもの。それにあんただって、結局隠してしまったじゃない」
彼の眉間に皺が寄る。
話を変えなければ、と内心で焦る。記憶にはないが、私が人間から妖になった時の話は、彼だけでなく屋敷の皆の、してはいけない話だ。
「あ、あの、えっと…その反物、どうするの?」
あからさまな話題の逸らし方に、彼と妖の視線が突き刺さる。けれどその意図を汲んでくれたのだろう。妖は山となった反物を一瞥して、当然のように微笑んだ。
「もちろん、すべて仕立てるわよ。採寸は終わっているから、楽しみにしていてね」
「え。それって、誰が作るの?」
「あたしに決まってるでしょ」
思わず妖の顔を見つめる。
「なによ、その顔。桜が和裁をしてはいけないなんて、思わないでほしいわ」
「桜は貪欲だと言っただろう。興味のある事に対して、怖ろしい程にどこまでも拘るんだ」
「可愛い子を着飾るための努力を、惜しまないだけの事よ」
それは確かに貪欲ではあるのだろう。
想像していた意味と異なる、自信に満ちあふれた妖を見る。自分にはないものを持つ妖が眩しく見えて、目を細めた。
妖の事。桜の事。もっと知りたくて、下ろして欲しいと彼を見た。
「止めておけ。桜は貪欲で、雑食だ。着飾って満足したら、喰われるぞ」
「だからっ!いつの時代の話をしているのよ!」
憤慨する妖は、それでも否定はしない。それはつまり、そういう事なのだろう。
「帰ろう、槐」
「そうだな。戻るとするか」
「ちょっと!」
桜に背を向けて、彼は歩き出す。いつの間にか桜の壁は消えて、彼を邪魔するものはない。
抱き上げられたままの格好で妖を見れば、未だ不機嫌そうではあるものの、こちらに手を振ってくれた。
それに手を振り返し。
「何か、疲れた」
思い出したように疲れを感じて、彼にもたれ掛かる。
「屋敷に戻ったら少し休め。このまま寝てしまっても構わない」
優しい彼の言葉に、それならば、と目を閉じる。
優しく背を撫でる手に、笑みが浮かび。心の中だけで、大好き、と囁いた。
20250404 『桜』
地に落ちて砕けた硝子の一欠片を摘まみ上げ、これで良かったのだと笑ってみせた。
硝子越しに、歪んだ顔が見える。泣きそうに、哀しそうに顔を顰めている。
「これで良かったんだ。こうして砕けなければ、いつまでも動けないでいたから」
だから大丈夫だと。相手にも自分自身にも言い聞かせるように、繰り返した。
欠片を手放す。かしゃん、と軽い音を立て、欠片がさらに数を増やし細かくなったのを見遣って立ち上がる。後片付けをしなければ、と場違いな事を考えながら、道具を探して辺りを見渡した。
「ごめん」
微かな声を、聞こえない振りをする。謝罪を受け入れて許す事は、きっとまだ出来ない。大丈夫だと自身を言い聞かせる事は出来ても、砕け散った一欠片ほども納得はしていない。
これが正しいのだとは理解をしているのだ。いつまでも未練がましくしがみつく事の無意味さも、痛いほどに分かっている。
一度砕けたものが、元に戻る事など二度とない。過ぎてしまった昨日は遠くなるばかりで、帰ってくる事はないのだから。
「どうしたら、許してもらえる?」
「許す、許さないじゃないよ。これで良かったって言ったんだから。それで十分でしょ」
視線は向けずに、無感情に言葉を返す。掃除道具を求めて部屋を出ようと踏み出した足は、聞こえた深い溜息に止まった。
視線を向ける。真正面から見たその表情は、泣く訳でもなく、悲しんでいるようにも見えない。
静かな目に見据えられ、息を呑む。形の良い唇が徐に開き言葉が紡がれるのを、止めてしまいたい衝動を抑えながらただ待った。
「今度の休日。スイーツバイキングに一緒に行こう。だからいい加減に機嫌を直してほしい」
ぱちり、と少女の目が瞬いた。
震えるか細い声が、スイーツバイキング、と何度も繰り返す。次第に頬が染まり、唇が笑みに形取られて行くのを見ながら、青年は密かに息を吐いた。
「本当に?嘘じゃない?やっぱなし、とかもない?」
「約束する。だからそんなにはしゃがないで。硝子を踏んだら危ないだろう」
感情が抑えきれずにその場で飛び跳ねながら、何度も確かめる少女の側に寄り、青年は手を引いて近くのソファに座らせる。それでもまだ興奮冷めやらない少女に、落ち着くよう言い聞かせた。
少女が次第に落ち着きを取り戻してきた事を確認してから、備え付けの棚から箒とちり取りを取り出す。砕けた硝子と元は菓子だった残骸を片付けながら、ごめん、と何度目かの謝罪を密かに繰り返した。
「いくら美味しかったからといって、何年も前の菓子を大事に取っておくのは、これで終わりにしてほしい」
「――うん。そう、だね」
少女の笑みが、僅かに陰る。
砕けた硝子瓶や、その中に入っていた過去に食べた菓子が砕けた事を、少女は悲しんでいるのではない。それに付随する記憶を、拠り所を失った事による虚無感に苛まれているのだ。その心の内を理解しながらも、青年は敢えて少女にとって残酷な事を口にした。
「この菓子より美味しくないものはいくらでもあるが、美味しいものもたくさんあるんだ。それを探すのも、悪くないんじゃないか?」
少女は何も言わない。どこか遠くを見る少女の視線は、青年の知り得ない過去を想っているようであった。
青年もまた、それ以上何も言わず。集め終えた残骸を捨て、道具を片付ける。
「――一緒に行く約束、忘れないでよね」
微かな呟きに、青年は少女に視線を向ける。その目に浮かぶ感情は諦めにも似た色を宿し、青年は僅かに眉を寄せた。
「自分から言っておいて、忘れる訳がない」
「約束、だもんね」
少女は、微笑う。泣いているようにも見える笑顔に、青年は眉間に皺を刻んだ。
青年よりも永くを生きる少女は、おそらくすべてに諦念を抱いているのだ。諦めているから、期待を抱かない。
未来に何も望まず、ただ束の間の安らぎだったいくつかの過去を、硝子瓶に閉じ込め慰めにする。
過去だけを見続ける少女が、青年はどうしても許す事が出来なかった。
「そう、約束だ。もしもスイーツバイキングが気に入ったら、また一緒に行こう。他にも色々な所へ行って、好きなものを増やしていけばいい。あの硝子瓶に収まりきれないほどの思い出を、俺と一緒に積み重ねていこう」
少女の側に寄り、跪いてその手を取る。青年よりも小さく華奢な手には、もうあの硝子瓶はない。少女の過去を閉じた瓶は、偶然を装って青年が落として粉々に砕いてしまった。
「俺は、君と共にこれからを生きていきたい。過去を忘れろとは言わないが、過去に縋るのはもう止めて欲しい。今を生きる俺を、どうか見てくれ」
かつては青年と同じくただの人であったという少女が、何故悠久を抱いているのかを青年は知らない。知る必要もないと思っている。
だがもしも。もしも少女がこの先、一人に戻る事に怯えて青年に共に悠久を抱く事を望んだとしたら。
その手を取った後、取り留めのない話の一つとして尋ねればいいと、そう青年は思っている。
「ちゃんと見ているけど…本当に、馬鹿みたい」
青年から視線を逸らし、少女は小さく呟いた。不機嫌な表情をしながらも、その頬は朱に染まっている。
思わず笑みを溢す青年を、横目できつく睨み付け、少女は青年の手を強く握り返した。
「約束したからね!スイーツバイキングも、美味しいお菓子を求めて旅に出るのも。約束したんだから、必ず叶えてよ」
「分かってる。約束だ」
青年は頷き、手を握ったまま少女の小指に自らの小指をを絡める。
僅かでも今を見始めた少女に、青年は微笑みながらも、ごめん、と心の内で繰り返した。
20250403 『君と』
眼下に広がる淵を見下ろす。
夜空の群青よりも尚昏く、底知れぬ深さを湛えた水面は波一つなく凪ぎ。青白い月を、無数の星々を写している。
膝をつき、水面を覗き込む。
月が近い。それこそ、手を伸ばせば届きそうな程に。
「――ぁ」
吹き抜ける風が水面を揺らし、月が歪んだ。そのまま掻き消えてしまいそうに見え、月を捕らえようと咄嗟に手を伸ばし。
だがそれは、水面から突き出た細い腕に掴まれ、叶う事はなかった。
「っ、驚かすな。落ちるだろうが」
思わず詰めた息を吐き出す。
「あのまま手を伸ばしていれば、結局は落ちていた。それを止めてやったのだから、感謝してもらいたいくらいだ」
静かな声が返り、水面から女の頭が現れる。声と同じく感情の乏しい表情で、しかし目だけは咎めるようにこちらを見上げていた。
「酔狂な事だ。水面に写る紛いものの空に向かい、手を伸ばすなど。数日もすれば、本物の空を飛ぶのだろう?」
「仕方がないだろう。俺は今まで、月に行くために動いてきたんだ。例え偽物だとしても、目の前で消えられたら、手くらいは伸びる」
掴まれたままの腕を振り解き、視線から逃れるように空を見上げた。
浮かぶ月はどこまでも遠い。女の言うように数日後にはあの月へと向かうのだと、理解はしているというのに実感は未だ薄い。
まだ迷いがあるのだ。月へ向かう事は、人ならざるモノの否定に繋がるのだから。
「今更、恐れているのか」
女の言葉に頭を振る。恐れはない。前へと進む選択に後悔はない。
「ならば、このような所で立ち止まっている場合ではないだろう。進み続けろ。お前は我らに頼らずとも、一人で望みを叶える事が出来るのだから」
「あんたこそ、怖くないのか。否定され、人から認識されなくなった妖は、消えるのだろう?」
妖である女を知るのは、他にはいない。己が女を否定すれば、女の存在は消えるだろうに。
それを正しく理解して、何故この女は穏やかでいられるのか。
「何を怖がる事があるんだ。我らは人間のために在る。それが人間にとって助けとなるか害となるのかは、望んだ者の認識次第であるがな…道具と同じだ。必要とされないのならば、在っても意味はない。それだけの事さ」
「そうか…なら、最後くらいはしっかりするか」
消えるだろう女にそこまで言われてしまえば、それ以上何も言えはしない。
立ち上がり、女を見下ろす。未練がましい言葉は呑み込んで、女の目を見据え徐に口を開いた。
「俺は月へ行く。月には何もいないのだと、否定するために。兄は妖に連れていかれてなどいないと、断定するために」
女は何も言わない。薄く笑みを湛え、己の別れの言葉を待っている。
「だから、あんたともこれまでだ。俺はここに来ない。あんたとの記憶は、ただの夢だった…あんたは、現実には存在しない。忘れていくだけの、優しい夢だ」
「それでいい」
満たされたような声音。頷く女に背を向けて、歩き出す。
これから先、二度とここを訪れる事はないだろう。来た所で、妖である女に会う事は叶わないのだから。
一人きりで途方に暮れる己の手を引いて、道を指し示し寄り添い続けてくれた愛おしい女。その存在を消して、己はその罪すら忘れ生きていくのだ。
何度も立ち止まりかける足を、必死の思いで動かし続ける。
空に向かい、手を伸ばす。見上げる月は、未だ遠く。だがすぐに捕らえる事が出来るだろう。
月には何もいない。月にいる妖など存在しない。それを認識出来たのならば、月に囚われた兄の魂は安らかに眠る事が出来るはずだ。
それだけが、己にとって唯一の救いだった。
男が見えなくなり、妖はほぅ、と吐息を溢した。
憎む事でしか己を保てなかった少年の成長を見届けて、静かに水底に沈んでいく。
「お前の成長を、嬉しく思うよ」
心からそう思う。その結果が妖の存在をなくすのだとして、それは些事でしかない。
悔いはない。月に兄が連れて行かれたと、昏い瞳をして泣いていた幼い頃の男に道を示したのは妖であったのだから。
――己の眼で見据え、そして否定しろ。
それが果てしなく困難な道のりである事を、妖は知っていた。だが男は努力を重ね、己の力だけで月に行く事を叶えてしまったのだ。
水面越しに遠くなる空を見ながら、かつての少年を思う。
小さくか弱い少年だった。妖に、親に、己自身に、怒りや憎しみを抱いた哀しい子供であった。
消えるのをただ待っていただけの妖が、今一度だけ、と望みに応えようと思うほどに、愛おしい人間だった。
「進む先の幸いを。どうかお前の旅路の果てが、光に満ちている事を…月よ。お前の狂気を抱いた慈悲は、あの子によって否定される。終わる時が来たのだ」
歪む月を見て笑う。
手招く事で終を与える必要はなくなったのだ。永きに渡りその在り方を保ち続けた月に住まう妖も、ようやく終わる事が出来るのだろう。
月に向かい、手を伸ばす。水に溶けるように端から消えていくその様を見ながら、一つの名を唇が形作る。
微笑みを湛え、妖は静かに眼を閉じて。
男を愛し、男に愛された妖の存在は、欠片も残さず消えていく。
20250402 『空に向かって』
人波をすり抜けるようにして駆け抜けていく、小さな影。普段ならば気にも留めない誰かの急ぐ背中が、何故か目を引いた。
今日は特に予定がある訳ではない。これも何かの縁だと、影を追うように駆け出した。
「あの」
「っ、誰?」
何かを探すように辺りを見回すその影に、声をかける。それに返る声は警戒を滲ませ硬い。
「何かを探しているようだったから。急に声をかけてごめんね」
不用意に声をかけてしまった事を少しばかり後悔する。敵ではないのだと伝えるにはどうするべきか悩みながら、一歩だけ影に近づいた。
表情の凪いだ、それでいて刃のように鋭い目と視線が交わる。小柄で華奢な少女には、随分と不釣り合いだ。
不意に、少女の目が僅かに見開かれ。鋭さに戸惑いが滲んで、くらり、と揺れたような気がした。
「――せんせい?」
微かな呟きが、鼓膜を揺する。それが誰なのか問う前に、少女は目を伏せて首を振った。
「何でもないです。気にかけてくれて、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「探しているのは、その先生?」
「違います。せんせいはかみさまだから、きっと大丈夫。だけど」
「探しているのは、貴様の兄か。どうやら面倒事に巻き込まれているようだな」
背後から聞こえた声に、振り返る。険しい顔をして腕を組んだ彼が、見定めるように少女を見ていた。
「黄櫨《こうろ》」
「なに、神様」
「その娘を、我の元まで連れてこい」
何故、と少女がか細い声を上げる。その目には鋭さはなく、困惑と微かな驚愕に揺れていた。
「せんせいではないのに、せんせいがいるみたい…あなたたちは、一体誰?」
泣くように歪んだ表情に、安心させるため笑いかける。
怖くないよ、と手を差し伸べた。
「はじめまして、私は黄櫨。神様の…御衣黄様の眷属だよ」
「けんぞく…?」
「一緒に来てくれる?あなたの探している人を見つける、手助けにもなると思うから」
少女の目が、迷うように揺れて。
怖ず怖ずと、差し伸べた手を取った。
「兄の、行方が分からないんです」
調《しらべ》と名乗った少女は、そう言って力なく目を伏せる。
社務所の一室。少女の話を聞き終えて、隣で佇む彼の様子を伺った。彼は何も言わない。少女を見据えたまま、金の瞳が揺らめいた。
「もう一ヶ月近くにもなります。生きてはいるはずですが…どうしても見つからない」
兄が消えた。家にも学校にも、どこにもいない。
そう訴える少女は、膝の上に置いた手を握り締める。縁を辿って方々を探しているようだが、それも限界なのだろう。
「心当たりはないの?」
握り締めた手に力が籠もる。顔を上げた少女の目は泣きそうに歪んでいた。
「――あります。ですが、兄との約束で直接関わる事は出来ません」
「構わん。貴様の兄とやらは、蜘蛛の元には居らぬからな」
険しい顔をして、彼は断言する。
何か、見えたのだろうか。
「死す事はないだろうよ。随分と巧妙に隠されたものだ。我の眼でも視えぬ」
隠された、という事はつまり、誰かが関与しているのか。それは少女の心当たりであるらしい蜘蛛とは、別の誰かなのだろう。
敵ではない。断言は出来ないだろうけれど、そう思う。そうであって欲しいと、思っている。
「黄櫨」
険しい顔のままの彼に呼ばれ、視線を向ける。
「お前は、何を望む」
問われて、少女を見る。兄が生きているという安堵と、けれど誰かに隠されて何処にいるか分からないという不安で、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
今日出会ったばかりの、見知らぬ少女。調という名前以外には何も知らない。
少女の兄。蜘蛛。そして先生。
「神様の言う蜘蛛は、危険なの?」
「そうだな。ここで黙したままでいた所で、いずれ蜘蛛の糸がそこの娘だけでなく、黄櫨にも絡みつくだろう」
彼の答えを聞きながら、考える。
少女は何も言わない。倒れそうになりながらも、助けを求めて手を伸ばさずに、一人で必死に耐えている。
彼を見た。答えを待つ彼に、笑ってみせる。
「私、この子とお友達になりたいな」
息を呑む音。それに敢えて気づかない振りをして、彼に望む。。
「友達のお兄さんを一緒に探したい」
「――黄櫨がそれを望むのであれば、拒む理由はあるまいよ」
「ありがとう、神様」
不本意だという顔をしながらも否定しない彼に礼を言えば、どうして、と微かな声がした。
振り返り、少女と目を合わせる。泣きそうに揺らぐ黒曜の目を見つめて、安心させるように微笑んだ。
「そういう訳だから。一緒にお兄さんを探そう?」
はじめましてをした時と同じように手を差し伸べる。
迷う目が手を見つめ、どうして、と繰り返す。
「今日初めて会ったばかりなのに、何故危険を冒そうとするのですか」
「あなたの事が知りたい、って思ったの。そして友達になりたくなった。それだけじゃ、理由としては不十分?」
首を傾げて問いかければ、少女は緩く首を振る。顔を上げ、澄んだ黒曜がこちらを真っ直ぐに見返した。
「ありがとう」
小さく呟いて差し出した手に、手を重ね。
「はじめまして、調です。兄を一緒に探してくれる事、とても嬉しいです」
微笑んで、重ねた手をしっかりと握った。
20250401 『はじめまして』