sairo

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3/26/2025, 2:02:37 PM

雨上がりの空に浮かぶ七色を、目を細めて見上げた。
欠けた部分のない、はっきりと見える虹は珍しい。そういえば、と幼い頃に聞いたおとぎ話を思い出して、虹の根元を目指し歩き出す。
元より当てのない旅だ。それに虹は弟の憧れでもあったから、ちょうどいい。

「それじゃあ、宝探しといきますか」

笑って、胸に下げた七色に輝く石に触れる。それに応えるかのように石は煌めくと、背中に仄かな温もりと重さを感じた。

「にじのおたからは、何だろうね。にいちゃんは何がいい?」
「何だろうなあ。お宝だから宝石とか、珍しい金貨とかかな」

背中に抱きつく半透明の弟を見ながら、一般的な価値のあるものを述べていく。くすくす笑う弟が、ちがうでしょ、と囁いた。

「にいちゃんがほしいのは、大学のタンイでしょ。あと、あたらしいイガクの本!」
「……よく知ってんね。そのとおり」

得意げに胸を張る弟に、苦笑する。前にぼやいた呟きを、しっかりと聞いて覚えていたようだ。姿が見えずとも色々と聞かれていた事に、何ともいえない気持ちで虹に視線を向ける。
これからは姿は見えなくとも、発言には気をつけよう。密かに心に誓って、僅かに足を速めた。

「そういうおまえは何だと思う?虹の根元に埋まっているお宝は何がいい?」
「ぼくはね。にいちゃんがほしいものがうまっていたらいいと思うよ」
「欲がないなあ。本当に何かないのかよ」
「だって、今とっても幸せだもん。こうしてお外に出れるのも、にいちゃんとたびが出来るのも、本当にゆめみたいで、とってもとっても幸せ」
「――俺も幸せだよ。おまえが最期に石を託してくれたから、こうして夢を見ていられるんだ」

くふくふ笑う声を聞きながら、石を握る。
弟の願い事を思い返して、幸せだ、と自身に言い聞かせるように繰り返した。



数年前、弟は死んだ。
元々体が弱かった弟は、それでも医者に宣告された三年の余命宣告を超えて、七つを迎えるまで生き抜いた。
最期の日。窓の外の抜けるような青空を見ながら、穏やかに眠るように、弟は自身の時を止めた。ちっぽけな石とたった一つの願い事を託して、逝ってしまった。

――にいちゃん。ぼくのはんぶんを、この石にのこしていくから。だから、おねがい。ぼくをお外につれていってね。

その石は、自分が持ち込んだ外の一つだった。
外に憧れながら、一度も自らの意思で外へはいけなかった弟。窓から見える景色と、自分が語る話だけが外を知る手段だった弟のため、皆には内緒で何度も外にあるものを持ち込んだ。

春には、色とりどりに咲き誇る花を。
夏には、空へ飛び立つ蝉がおいていった抜け殻を。
秋には、風に乗って舞い踊っていた美しく色づいた葉を。
冬には、透き通る氷と、大地を白く染めていた雪を。

何度も見つかり、その度に怒られはしたが外の一部を持ち込む事を止めなかった。部屋の中に囚われて長くを生かされるよりも、短くも自由に生を駆け抜けていく方が余程大事だと思っていた。
自己満足でしかないその選択を、けれど今も後悔はしていない。弟の願いが、微笑むような最期の表情が、自分がした選択の答えだった。


「にいちゃん。何かんがえてるの?」
「ん。おまえの事。今、どうしてるのかなって」

背中から離れ、今度は腕に抱きつきながら浮かぶ弟を見ながら、微笑む。
あの日託された何の変哲もない石は、弟の葬儀が終わった後に七色の煌めきを宿すようになった。そしてその石から半透明の弟が現れるようになり。
それから機会がある毎に、こうして当てもない旅をしている。

「まだね、ねむっているよ。だからね、ゆめの中でいっしょに見てるんだよ」

石から現れた弟がいうには、弟の魂はすでに常世で眠っているのだという。今目の前にいる弟は、生前の弟の外に対する憧れと、あの最期の願いに石が応えて出来たモノらしい。
詳しくは分からない。だが弟の魂と繋がっているという目の前の弟を、疑うつもりはなかった。

「いつ目覚めて、新しく生まれてくるんだろうな」
「きっとね。にいちゃんとのたびにまんぞくしたらだと思うよ。だからまだまだ、ねむってるかな。ぼく、もっとにいちゃんとたびがしたいもん」
「そっか。じゃあ、虹の宝探しが終わったら、もっと楽しい目的地を見つけないとな」

虹の根元に向かいながらも、次を考える。
当てもない旅ではあるが、折角ならば弟に喜んでもらえる所がいい。
ふと、虹を見上げる。大分時間が経つというのに、まだ色鮮やかに残る七色に、珍しいな、と呟いた。

「あれね。たぶん、ぼくと同じようなモノだよ。雨が止んでほしい、おねがいに応えたんだ」
「そうなのか?本物の虹じゃないんじゃあ、お宝もないかな」
「あるよきっと!だって、にじだもん」

誰かの望みに応えた虹だろうと、虹は虹。だからきっと宝も埋まっていると弟は笑う。
そういうものだろうか。まあ、弟が言うのだから間違いはないのだろう。

「――少し走るか。どっちが先に虹の根元まで競争しよう」
「まけないもんね…よーい、どん!」
「おい!ずるいぞ」

腕から離れ、虹に向かい飛んでいく弟を、一呼吸遅れて追いかける。

「にいちゃん、はやく!」

楽しげに笑いながら自分を呼ぶ弟を追いかけながら、同じように笑う。

新しく生まれるために、今は眠り続けているらしい弟。
たとえ夢でしかないとしても、どうか憧れた外を精一杯に楽しんでほしい。
そしてどうか、次の生では本当の外を自由にその足で駆け抜けてほしい、と。

切に、願っている。



20250326 『七色』

3/25/2025, 2:04:12 PM

肩で切りそろえた黒髪を揺らし、少女は頬を染めてはにかんだ。
父親らしき男に差し出された手と手を繋ぎ、少女は破顔する。歩き出す二人の向かう先で、赤子を抱いた母親らしき女が、微笑んで迎え入れる。
幸せそうな家族の一場面。ぼんやりと眺めていれば、少女がこちらに気づき、手を振った。
シフォンのスカートがふわりと広がる。男と繋いでいた手を離し、駆け寄る少女がその勢いのままに抱きついて。
こちらを見上げ、少女は満面の笑みを浮かべる。その赤い唇が、言葉を紡ぐために開かれて。

そこでいつも夢から覚める。





「今回も、夢の内容は同じですか」
「……はい」

俯く患者を横目に、医師はカルテを打ち込んでいく。

「私、どこか可笑しいのでしょうか」

疲れた声音で吐き出される言葉は、とても弱々しい。

――同じ夢を見続ける。それもまったく記憶にない家族らしき人の夢を。

そう訴える患者が、この病院に通院し始めて、そろそろ一月が過ぎようとしていた。いくら処方を変えても一向に変わらぬ症状に、患者だけでなく医師の表情も重苦しい。
夢の中の人物の誰にも、患者は心当たりがない。家族や親戚でもなく。友人や知り合いの中にも、あの家族はいなかった。

「それとも、あれは私の前世の記憶、というものなのでしょうか」

患者の呟きに、医師は何も答えない。
前世など非現実的な事を、医師が認める訳はないのだ。患者自身も夢を見るまでは、欠片も信じてはいなかったのだから。
実際、夢の見始めはただの夢だと歯牙にもかけなかった。二日、三日と続けて見ても、こんな事もあるだろうと、軽く考えていた。
だが一週間が過ぎ。さすがに可笑しいと、病院を受診した。
そこで処方された睡眠薬を飲んでも一向に変わらぬ現状に、患者は疲れ切っていた。

「改善が見られないようですので、もう少し量を増やしてみましょう。数日、様子を見て下さい」
「――はい。ありがとうございました」

力なく一礼して、診察室を出る。薬の量が増えれどおそらく意味がないだろう事は、患者自身が一番理解していた。



「――ぁ」

処方を受け取り、病院を出て。
患者の目が一点を見つめ、固まる。
視線の先。道路を挟んだ向かい側に、あの夢で見た少女がいた。
シフォンのスカートを揺らし、肩で切りそろえた黒髪を揺らして。笑みを浮かべて歩いている。
その背を追いかけ、思わず駆け出していた。赤信号を忌々しいとばかりに睨み付け、人混みに紛れ見えなくなる小さな背を必死に探す。
そうして、信号が青になると同時。少女を求めて駆け出して。
だが信号を渡り、辺りを見渡せど少女の姿はすでにない。
荒い呼吸を整える。道行く人が迷惑そうな表情を隠しもせずに患者の横を通り過ぎていくが、まったく気にならない。
胸に手を当てた。早鐘を打つ鼓動を感じながら、目を閉じる。

「本当に…いた」

立ち尽くし、呆然と呟くその言葉は、隠し切れない歓喜に濡れていた。





次の日訪れた患者に、医師は困惑に眉を寄せた。

「ですから、本当に彼女はいたんです!」

昨日とは打って変わって喜色溢れる表情を浮かべ、患者は医師に力説する。

「前世などではなかった。ただ、私が忘れていただけなんです」

患者は医師を見ながらも、遠いどこかを見つめている。記憶の欠落を悔いるように、欠落した事すら忘れてこうして病院を受診している事を恥じるように、だから、と呟いた。

「私は正常だった。可笑しくなった訳ではなかった!…ですので、もうこの先受診する事はないでしょう。今までありがとうございました」

お待ちください、と医師が止める間もなく、患者は一礼して診察室を去って行く。閉じられた扉に、医師は重苦しい溜息を吐いた。

――今回も駄目だった。

目頭を押さえ、椅子にもたれ掛かる。
あの患者はもうここには来ないと言っていた。だがそう遠くない先に、再び訪れる事になるのだろう。

「先生」

看護師が怖ず怖ずと声をかけるのを、何も言うなとばかりに手で制す。手を離し体を起こすと、軽く頭を振ってカルテに向き直った。

「――後で新しい病床の準備を」
「はい」

カルテに必要事項だけを記入して切り替える。それを見て、看護師が次の患者を呼ぶのを聞きながら、鬱々とした気持ちで医師は嘆息した。





深夜。医師の個室にて。
取り寄せたばかりの資料を見ながら、医師は幾度目かの溜息を吐く。
いくら資料を読み込めど、データベース内に収まる症例を検索しても、すべて結果は変わらない。
昼間訪れた患者には伝えていなかったが、同じような夢を見続ける症状の訴えが、ここ数ヶ月前から増えてきていた。
少女。両親らしき男女。乳児。これらの人物画現れる夢を見続けた者は、次第に現実にも少女がいたと訴え始め、そして最後には昏睡状態に陥る。
治療法はない。そもそも原因が不明であるがために、治療法が確立されていないのだ。
存在しない家族。存在しない記憶。
最初の症例と思われる一番古い記録には、補足でこう書かれていた。

――「彼女はいる」「今度こそやり直す」と、繰り返し発話がみられる。意思疎通は困難。


溜息を吐いて、顔を上げる。机の上のデジタル時計が、既に日付が変わっている事を示しており、込み上げる疲労に気分を変えようと立ち上がりかけて――。

「――そん、な」

何気なく来客用のソファに視線を向けて、そのまま硬直する。
ばさばさと、手にしていた資料が落ちる。拾わなければと意識の隅で思うものの体は自由にならず、視線を逸らす事も出来ない。

「そんな、ばかな」

幻覚だ。疲労で脳が働かず、現実にないものを写しているだけだ。
何度も自身に言い聞かせるも、思考のどこかではこれが現実であると認めている。相反し混乱する思考の片隅で、あの補足で書かれた言葉が思い浮かぶ。

――彼女は、いる。

此方側へ。現実の世界に来ようとしているのだ。

「――あぁ、そうか」

呆然と呟いて、崩れ落ちる。
それでも逸らす事の出来ない、視線の先。
ソファに行儀良く座りこちらを見つめる少女が、ふわり、と微笑んだ。



20250325 『記憶』

3/24/2025, 2:23:38 PM

この学校には、不可思議な校則がある。
例えば、他者に対する悪意の言葉を吐かない事。
本人が目の前にいようといまいと関係ない。それが『いなくなってしまえ』といった曖昧な言葉でさえ、処罰の対象となる。
そして、不確定な未来に確定した言葉を介して約束をしない事。
どうやら、絶対や必ずといった言葉を約束に使うな、という事らしい。『絶対に遅刻しないで』と約束をした一年生が、入学早々に一週間の停学処分にあった話は記憶に新しい。
漏れ出る欠伸を噛み殺し、窓の外を見る。薄紅色に色づいた花の蕾は、あと数日もすれば美しく咲き誇り、見る者全てを魅了するのだろう。
もうすぐ年度が替わる。自分は一つ学年が上がり、期待に目を輝かせた入学生達がやってくるのだろう。そして校則を知って口々に変だ、と言うのだろう。

「どうしたんだい?考え事かな」

低く穏やかな声。声の主である男を一瞥して、再び視線を外へと向ける。

「勝手に入ってきて、いいのか?」

男の問いには答えずに、問い返す。

「先生方に君の迎えに来たと伝えてね。こうして通してもらったんだよ」

苦笑交じりの答えに、僅かに眉を寄せた。
この学校は例外を除き、例え保護者であろうと、学校内へと通したりなどはしない。それがこうして簡単に通されたという事は、男がその例外だと学校が判断した事を意味している。
唯一の例外。生徒の式や管だと判断されたのだ。

「俺、まだあんたと契約してなかったはずだけど」
「周りはそう思っていないようだね。当主殿も望んでいる事だよ」
「だから俺はっ」

管などいらない、と。男に視線を向け吐き出そうとした言葉は、男の慈しむ微笑みに勢いをなくす。
その笑みは駄目だ。母がいた暖かな過去を、そして失った寂しさを思い出してしまう。
唇を噛みしめて視線を逸らす。これ以上男と共にはいられないと、急いで帰る仕度を調えて立ち上がった。

「――もう帰る」

教室を出るために歩き出そうとして。だがそれは男に手を掴まれた事で、蹈鞴を踏んだ。

「ちょっと、何して」
「詞葉《ことは》」

肩が跳ねる。
強制はない。ただ名を呼ばれただけ。それを理解しながらも、視線は促されるかのように男に向いてしまう。
男の細められた目と視線が合う。そこに浮かぶ感情は、母と同じものだ。
耐えられず、一筋涙が流れ落ちた。

「泣き虫だね。困った子だ」
「うるさいっ!あんたのせいだろ。あんたがいつまでも」
「そうだね。僕が悪い。だからお詫びに一緒に帰ろうか」

ずるい。口には出さずに呟いた。
この男は、いつもそうだ。穏やかな笑みを湛えながら、逃げ道を簡単に塞いでいく。
昔、母の管だった男は母がいなくなった今、こうして自分に主になれと言う。失うのが怖くて、その契約から逃げ出しているのも、もう限界だろう。
そう考えて、ふとこの学校の校則を思い出した。
意味のない校則は、この学校には存在しない。現に他者に対する悪意の言葉を禁じているのは、それがここでは呪になってしまうからだ。
言葉は力を持つ。一番最初に教えられる事だ。言葉の扱いを誤れば、それは途端に周囲に禍を撒きかねない故に、まず校則で縛り、授業で幾度となく教え込まれる。
確定した言葉を介した約束を禁ずるのもまた、同じ事だ。
絶対の言葉で遅刻を禁じられた相手は、嵐の中大怪我を負いながらも、時間通りに約束した場所に現れたのだという。言葉で縛った生徒は停学後も学校に来る事はなく退学し、相手も怪我を理由に退学した。
それほどまでに力を持つ言葉を、もしも男に対して言えたのならば。

「――あの、さ。もしも…もしも、俺が」

――絶対に管を持ちたくないと言ったなら。

「……いや、何でもない。忘れて」

緩く首を振る。続く言葉は出なかった。
もう二度と失いたくないが故の臆病者の言葉が、力を持つとは思えなかった。

「いい子だね」

手を引かれ、抱き留められる。頭を撫でられながら、男に褒められて、複雑な気持ちで男を見上げた。

「子供扱いは止めてくれる?」
「いい子は褒めるものだよ。絶対的な否定の言葉は、後になって己の首を絞めかねないからね」
「なっ!?」
「でも、そうだね。いつまでも不安にさせるのは僕としても本意ではないから、一つ約束をしようか」

頭を撫でていた手を目の前に出し。小指を立てて、男は笑う。

「これから先も、僕は君と共に在るよ。君の大切な者をもう二度と君の前で失わせたりしない。――約束するよ」

優しく、けれど強い意志を湛えた目で見据えられ、息を呑む。信じてもいいのかと迷い彷徨う目を、逸らす事は許さないと顔を近づけて。

「――本当に。信じても、いいの?」
「信じてほしい。僕が嘘を言った事があるかい?」
「ない。けど」

男は嘘は言わない。信じても良いはずだ。
だから約束をしても大丈夫だと。恐る恐る男の小指に小指を近づけた。
大丈夫。不安に思う事は何一つない。
それに約束とは、一種の契約のようなものだ。契約は一度成されてしまえば違える事は許されない。
さらに手を伸ばし、男の小指に僅かに触れて動きを止めた。
何かが引っかかる。このまま約束を交わしてもいいのだろうか。
目を瞬く。今一度約束の内容を思い返し。約束の意味を考えて。

慌てて手を引いて、男と距離を取った。

「っぶね。勝手に契約しようとすんな!」
「おや、残念。気づかれてしまったか」

肩を竦めて笑いながら、男は手を下ろす。
危なく男と契約をする危機を脱した事に、胸中で安堵の息を吐いて、強く男を睨み付けた。

「そんなに怒らないで。大丈夫だよ。次からはこんな回りくどい事はしないから」
「うるさい。馬鹿」
「ごめんね。もうだまし討ちはしないよ、本当だ…だから、帰ろう?」

男に手を差し出され、警戒しながらもその手を取る。
これ以上遅くなる訳にはいかないと、自分自身に言い訳をしながら、男に手を引かれ歩き出した。



「本当に、もう騙すような事するなよ」
「しないよ。する必要はなさそうだからね」

夕闇に染まる家路を辿りつつ。
男に念を押せば、苦笑した答えが返る。

「必要ないって…何で」

訝しげに男の横顔を見上げ。どこか上機嫌にも見えるその表情はあまり見た事がない。
嫌な予感がする。さりげなく繋いだままの手を離そうとすれど、強く繋がれた手は少しも離れない。

「不安を取り除いてあげられれば、嫌ではないようだからね。これからは一層甘やかして、信を得る事にするよ」

ふふ、と男は声を上げて笑い。離そうとしていた手を引いて、抱き上げられる。

「なっ、ちょっと!」
「懐かしいね。昔は泣く度にこうして抱き上げてあげれば、すぐに泣き止んでくれたっけ」
「今、泣いてないだろ!」

早く下ろせと暴れるものの、男が気にする様子はない。
恥ずかしさと、誤魔化しようもない安心感に落ち着かない。下りたいけれど、このままでいたいという矛盾した気持ちで本当に泣きそうだ。

「そうだね。では、僕と契約してくれたのならば、下ろしてあげようか」
「ずるい!」

そう言われてしまえば、下りれない。仕方がないと抵抗を止めて男に凭れ、溜息を吐く。
懐かしい温もりに、鼻の奥がツンとする。見上げた空の朱を、意味もなく睨み付けた。

「最初からこうしていればよかったね。これからは君の大丈夫の言葉を信じすぎないようにしようか」
「――馬鹿」

呟いて、目を閉じる。意地を張った所で、意味はないのだろう。

結局の所、どうやっても男には敵わないのだ。



20250324 『もう二度と』

3/23/2025, 2:35:34 PM

空を覆い尽くそうと迫る灰色の雲を背後に、駆け抜ける。
人間達の合間をすり抜け、木々や家々を飛び越え。目的地を目指し無心で駆ける。
背後で上がる人間の悲鳴が煩わしい。木々の騒めきや窓が軋む音を、気にかけてなどいられない。
早くしなければ。急がなければ、間に合わなくなってしまう。
これまで何度間に合わず、口惜しい気持ちを抱いた事か。今回こそはと、駆ける足にも力が入る。
もう少しだ。時間は十分にある。
後は運に任せるのみだ、と。駆ける勢いのままに、道の角を曲がった。





――『私は不用意に風を起こし、人間達に迷惑をかけました』

そんな文言の書かれた看板を首からかけた女性と、その前に仁王立ちしている幼子。
戸を開けた瞬間に視界に入る光景に、情報が処理しきれない。
静かに戸を閉める。一つ呼吸をして、少しばかり冷静になった思考で考える。

「――よくある事か」

姉である女性を弟である幼子が叱る。この屋敷に世話になってから、よく見てきた光景だった。
ならば気にする必要はないはずだ。小さく息を吐いてから、もう一度戸を開いた。

「あ、ごめん。おどろかせた。ねっちゃのせいで」
「だからごめんなさいってば。皆を喜ばせたかったんだって。少しは見逃してっ!」
「だめ。許すとねっちゃ、すぐ調子のる。今日はずっと、そのままね」
「酷いっ」

入って良いものか、悩む。

「どうしました」

不意に背後からかけられた声に振り返る。急須や湯飲みを乗せた盆を手にした青年が、己を見て訝しげに眉を寄せた。
室内から聞こえてくる声に、大方の状況を察したのだろう。青年は呆れたように嘆息し、失礼、と声をかけ己の横をすり抜けて、部屋へと入る。

「いい加減になさい。彼女が困っているではないですか」
「っ!?ご、ごめんね。入っていいからね!」

ぱたぱたとこちらに掛け寄り、幼子が己の手を引く。ゆったりとした足取りで室内に招き入れられ、青年の前に共に座った。

「ごめんね。大丈夫?立ってるのつらいね。ごめん」
「いや。もう大丈夫だ。傷はすべて癒えているし、歩く事にも大分慣れてきている」

落ち込む幼子の頭を撫でる。
片翼を折り、飛べずに傷ばかり作っていた己を保護してくれた幼子は、傷が癒えた今もこうして過保護に心配する。大丈夫だと何度伝えても、何かと世話を焼いてくれるのは、己が頼りないからだろうか。

「歩く事に慣れてきたようですが、無理はなさらないで下さいね。僕達…と言いますか、そこの馬鹿姉が全ての元凶なのですから、遠慮などなさらないで下さい」
「にっちゃの言うとおり。ねっちゃがぜんぶ悪いから、がまんしないでね」
「――遠慮も我慢も、してないが」

二人の優しさには、未だに慣れない。
二人は己が飛べなくなった原因を、彼らの姉だと言う。だからこうして保護される事も、世話をされる事も、当然の権利なのだと。
話を聞く限り、確かに羽が折れた原因は彼らの姉にあるようだ。酒の席で酔い、風を起こして己の羽を折った。
しかしその前から、うまく飛べなくなっていた。羽を折られずとも、いずれは飛べなくなっていたはずだ。
だがそれを伝えても、彼らは――彼らの姉でさえ、悪いのは羽を折った姉だと認識を譲らない。そしてさらに過保護に世話を焼こうとする、そのやりとりを繰り返し。気づけば、季節が一つ過ぎてしまっていた。
困惑に眉を下げ、視線を彷徨わせる。気まずさに室内を一瞥し、未だ正座をしている女性と目が合った。

「――理由は分からないが、そろそろ許してあげてはどうだろうか」

縋るような目に耐えきれず、そう言葉にすれば、不服そうな幼子が彼女に視線を向けて、きつく睨み付けた。ひっと短く上がるか細い声に、駄目だろうかと改めて問えば、幼子は己を見、彼の兄を見て、深く溜息を吐いた。

「次、ないからね」
「分かってる!」

不本意だと言わんばかりの幼子の呟きに、女性の喜色を滲ませた声が上がる。正座を崩して呻き、這うようにこちらに近づき、己に抱きついた。

「ありがとう!助かった」
「ねっちゃ、離れて」
「今回は、何が原因なんだ」

そう問えば、女性ははっとした表情になる。懐に手を入れて包みを出すと、皆の前に包みを解いて中を開けてみせた。

「これ!お気に入りの和菓子屋のぼたもち。一日五十個ずつしか作らなくて、すぐに売り切れるの」

黒や茶などの餡に包まれたもちのような菓子をみせ、女性は自慢げに説明する。その隣にいる幼子の顔は呆れを隠そうともせず、目の前の青年は大きく嘆息した。

「定番の粒あんでしょ。それから、胡麻と、こっちは胡桃。あと、一番人気のずんだもあるよ!今日は雨を呼びそうな曇りになろうとしてたから、いつもより人間が少なくて幸運だったの」
「そのために、風おこして、まわりに迷惑かける。だめ、ぜったい」
「まったくです。本当にこんなのが、僕達の姉だとは嘆かわしい」
「ちょっと、そこまで言わなくても。皆がよろこんでくれるかなって、頑張ったのに」
「――これは、餅、か」

小さく呟いた声は、だが賑やかな三人にしっかりと聞こえたようだ。揃ったように沈黙し、己に視線が向けられる。

「ぼたもち。もしかして知らないの?食べた事ない?」
「餅は、一度だけあるが」

恐る恐る尋ねる女性に答えれば、何故か三人とも傷ついたようにそれぞれ顔を歪ませた。
また何か間違えたのか。ぼたもち、とやらは、餅とはまた異なる菓子のようだ。
今まで飛ぶ事しか考えていなかった己は現世に疎く、それが三人にとって耐えられない事らしい。

「と、取りあえず、食べてみて!何にする。まずは定番の粒あんなんかどうかな?」
「え?あぁ、ありが、とう?」

いつの間にか用意されていた小皿にぼたもち、とやらを乗せて差し出される。それを受け取って、困惑しながら黒文字を差し、一口囓る。

「――おいしい」

餡子の控えめな甘さと、米粒の残る柔らかなもちが口の中に広がっていく。以前食べた餅とは異なる食感に、気づけばすぐに平らげてしまった。
新しく注がれた緑茶を一口飲んで、気恥ずかしさに少し俯く。大して味わいもせずに食べてしまった事が悔やまれる。

「ねっちゃ」
「な、なに?」
「よくやった」
「あ、うん」

隣でひそひそと話し合う幼子と女性が気になったが、その前に青年が新しくぼたもち小皿に乗せて差し出してくる。思わずそれを受け取って、今度は少しずつ味わうように食べ始めた。

「馬鹿姉には、このまま現世の菓子を買いに行く許可を出しましょうか」
「ん…でも、まわりにめいわく、だめだから」
「分かってます。気をつけるようにするって」

ちまちまとぼたもちを食べている間に、三人も和解できたようだ。
密かに安堵して、笑みが浮かぶ。ぼたもちの甘さと穏やかさに、三人から与えられる優しさを素直に受け入れられる気がした。

「おいしい?よかったね」
「ありがとう。こんなにおいしい菓子は初めて食べる」

二個目も全て平らげて、緑茶を啜る。
腹が満たされて微睡み始めた意識で、現世の空を想った。
このぼたもちを買いに行った際に、雨を呼ぶ雲が近かったと言っていた。今は雨が降っているのだろうか。
そして雨が止んで、曇りの空に光が差し込んで。その合間から、あの澄み切った青が覗くのだ。

「ここに来てから、初めての事ばかりだ」

今は遠くなってしまった空を焦がれる気持ちは、この三人といる事で、一人でいた時よりも大分穏やかだ。この先、歩く事に慣れた時にはもしかすればなくなってしまうのかもしれない。

「眠いの?じゃあ、一緒にお部屋、戻ろうか」

幼子に促され、手を引かれて立ち上がる。ふらつきはするものの、足が竦む事も倒れる事ももうない。

この手が繋がれている限り、地に足をつけて歩く事に恐れはないのだから。



20250323 『雲り』

3/23/2025, 11:16:49 AM

立ち上る白の煙。青空に解けていくその一筋を見上げ、目を細めた。

「ありがとう」

見えない彼女に向けて、感謝の言葉を紡ぐ。
返る言葉はない。もしかしたら、もうここにはいないのかもしれない。
そもそも、彼女が本当に存在していたのかもはっきりとしなかった。
夢うつつに見えた影。長い黒髪を揺らし、燃えるような赤い目をさらに赤くして泣いていた彼女。彼女の姿が掻き消えると同時に聞こえた、叫び。
夢だったのかもしれない。

「貴女がいてくれてよかった。おかげで、さよならを言う時間ができた」

例えそうだとしても構わなかった。
叫ぶ声を聞いて、翌日集まった皆と互いに語り合う事が出来たのだから。叫ぶ声が聞こえた事を皆それぞれに不思議がりながら、それでも楽しい一時を過ごす事が出来た。
何かの予感にさようならと笑い、手を離した。こんなにも穏やかに別れる事が出来たのは、あの叫ぶ声があったからだろう。

「本当にありがとう」

呟いて、視線を下ろす。
そろそろ行かなければ。踵を返し、煙に背を向け歩き出す。

「Why…」

不意に声が聞こえた。困惑した、何故を問う声。
立ち止まり辺りを見渡せど、姿はない。

「アナタ、とても、strange。不思議、変。ワタシ、叫んだ。死、呼んだ。なのに、感謝。とても、とてもstrange」

声は頻りに不思議だと繰り返す。
あの赤い目が戸惑い揺れている様を想像して、隠し切れなかった笑みが零れ落ちる。
声は自分を不思議だと言うが、それはお互い様だろうと内心で思う。叫ぶ事で死を呼ぶなど、それではまるで、異国の伝説にあるマンドレイクのようではないか。

「この国、strange。言葉、とてもstrange。人間、神秘、共存してる。言葉、強い力、ある。strange」
「そんなに変かな」

どうやら声は異国から来たらしい。不思議で仕方がないと、感情を宿す声に、苦笑して言葉を返す
自分では分からない。
言葉には力が宿るから、くれぐれも気をつけなさい。
そう言われた事はある。幼い頃に、よく両親や祖父母から聞かされた事だ。成長し、身をもってその意味を知ったが、それは他の国でも変わらないのではないだろうか。

「言葉が力を持つのは、他の国でも同じだと思っていたけれど。貴女の国では違うの?」
「言葉、力ある。変わらない。But、でも、この国、言葉、とても強い。とてもとても…神秘、作り上げる」
「神秘?」

どういう意味だろうか。聞き返せば、声は言葉に詰まる。
ややあって。たぶんと前置きされながら、声は迷うように言葉を探しつつ話し出した。

「人間、想像、形なる。言葉、伝える。本物成る」
「――そういえば、前に呼んだ小説に、そんな事が書いてたような」

妖、だっただろうか。人の想像が形を持った、人に寄り添う存在。時には人を助け、時には人を害す。人が望み、妖が応える。その共存関係の始まりは、確かに人の言葉だ。

「けど、貴女も妖ではないの?」

ふとした疑問に、けれども声ははっきりと否を答えた。

「No。ワタシ、違う。ワタシ以外、アヤカシ、maybe、いる。But、ワタシ、違う」

それならば、とさらに問いかけようとして止める。
声が誰であろうと、それは些細な事だ。どこか哀愁を帯びた声に、興味本位で踏み入れるものではないと意識を切り替えた。


「――そろそろ行かないと」

もう一度辺りを一瞥する。やはり彼女の姿が見えない事に微かに寂しさを覚えながらも、前に向き直る。

「行くの」

小さな呟く声に、笑って頷く。心残りがないと言えば嘘になるが、だからといって立ち止まっている訳にはいかない。先に進まなければ。
そう伝えれば、どことなく不満げな声がすぐ近くから聞こえた。

「この国、judgment、審判、ある、聞いた…シジュウクニチ」
「よく知ってるね」

四十九日。中陰《ちゅういん》と呼ばれるその期間は、七日毎に審判が行われ、その判決で来世が変わるのだという。

「そうだね。苦海に沈む身であれば、その判決を待つべきだと思うけれど…わたしには迎えがあるからね」

苦笑して、指を差す。その先にいる見慣れた顔ぶれに、手を振り歩み寄る。

「よっ。先日ぶり」
「あなたが最後ですよ」
「相変わらず、時間にルーズね。最後くらいはきっちりしたら?」
「急には変えられないよ。それにようやく終わったんだから」

振り返り、空を見上げて煙が見えなくなった事を認め、視線を戻す。変わらない彼らに、肩を竦めて溜息を吐いてみせた。

「やっぱり皆、駄目だったんだね」
「そうね。あの事故の生存者はゼロだったようよ」
「ま、五体満足で体が戻れた分、ありがたいわな。未だ戻れてない奴らがほとんどらしい」
「これも、あの夜聞いた叫び声のおかげかもしれませんね」
「ちげぇねぇ。会えたなら、礼を言いたいくらいだ」

からからと笑い合う彼らを横目に、自身の影に視線を落とす。揺らぐ影から彼女の動揺を感じ取りつつも、手を差し伸べた。

「だ、そうだよ。そろそろ姿を見せてくれたらうれしいな」
「どうしました?誰かおられるのでしょうか」

全員の視線が影に向く。それにさらに動揺したのか大きく揺らいで沈黙した後、ゆっくりと影から灰色のフードを被った少女が現れた。
戸惑うように視線を彷徨わせ、怖ず怖ずと差し出した手を取る。その手を引いて影から出して、皆の方へと背を押した。

「もしかして、あの叫び声の方は」
「そうみたいだ。優しくしてあげてほしい」
「へぇ。可愛い子じゃない。凄い叫び声だったから、もっとゴツい子を想像してたわ」
「ありがとうな。教えてくれてよ。おかげで周りと別れを言えるわ、こうして集まる事も出来た訳だ。感謝してる」
「そうね。ありがと。大切な人にちゃんとバイバイできたのは、とっても幸せだもの。感謝してもしきれないわ」
「ありがとうございます。貴女が教えて下さったので、悔いなく還れそうです」
「Why、Why…?」

戸惑う彼女に皆それぞれ優しく声をかけていく。混乱し、泣きそうな彼女に笑いかけ、もう一度手を差し出した。

「よければ、常世まで皆で一緒に行かない?人の死を予知し、それを悲しむ優しい魔女さん」
「ワタシ、ワタシ、は…」

他の皆もそれぞれに手を差し出す。それに、彼女は顔をくしゃりと歪めた。赤い目が揺らいで滴を溢し、両の手が縋るものを求めるように宙を彷徨う。
その手を皆で取れば、彼女は声を上げて泣き出した。

「悲しい。痛い。だから、叫ぶ。そして、人間、死ぬ…ずっと、ずっと、ワタシ、殺した、思って…!」
「そんな事ねぇだろ。死神なら、もっとばっさりやるもんだ。あんたは、これから死ぬ人を予知して、それを伝えてんだろ」
「そうよ。だからもう、そんなに泣かないの。可愛い顔が、台無しだわ」
「皆の言う通りです。ですからもう気に病まないで下さい」

手を繋ぎ、背を撫でる。彼らの言葉と手の温もりで、涙が止められなくなってしまった彼女と彼らを見守りながら、振り返る。
遠く、こちらを待つ影に会釈をする。
常世の迎えが来た。審判などはない。刹那を生きて、死んだのだから、そこに他者の判決などはいらない。
全力で生きた自分達は、やはり苦海に沈んでいる訳ではなさそうだ。

「そろそろ行こうか。迎えが来ているよ」

彼らに声をかけ、迎えの元へ歩き出す。
彼らと手を繋ぎ、支えられる彼女もまた、彼らと共に歩き出した。

「貴女も眠れるといいね。聞いてみようか」

優しい彼女にも、眠りは必要だ。一人きりで、死を知らせて叫ぶ声も枯れ果てている頃だろう。

きっと受け入れてもらえる。そう根拠のない確信を抱きながら、迎えの元へと駆け出した。



20250322 『bye bye...』

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