sairo

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空を覆い尽くそうと迫る灰色の雲を背後に、駆け抜ける。
人間達の合間をすり抜け、木々や家々を飛び越え。目的地を目指し無心で駆ける。
背後で上がる人間の悲鳴が煩わしい。木々の騒めきや窓が軋む音を、気にかけてなどいられない。
早くしなければ。急がなければ、間に合わなくなってしまう。
これまで何度間に合わず、口惜しい気持ちを抱いた事か。今回こそはと、駆ける足にも力が入る。
もう少しだ。時間は十分にある。
後は運に任せるのみだ、と。駆ける勢いのままに、道の角を曲がった。





――『私は不用意に風を起こし、人間達に迷惑をかけました』

そんな文言の書かれた看板を首からかけた女性と、その前に仁王立ちしている幼子。
戸を開けた瞬間に視界に入る光景に、情報が処理しきれない。
静かに戸を閉める。一つ呼吸をして、少しばかり冷静になった思考で考える。

「――よくある事か」

姉である女性を弟である幼子が叱る。この屋敷に世話になってから、よく見てきた光景だった。
ならば気にする必要はないはずだ。小さく息を吐いてから、もう一度戸を開いた。

「あ、ごめん。おどろかせた。ねっちゃのせいで」
「だからごめんなさいってば。皆を喜ばせたかったんだって。少しは見逃してっ!」
「だめ。許すとねっちゃ、すぐ調子のる。今日はずっと、そのままね」
「酷いっ」

入って良いものか、悩む。

「どうしました」

不意に背後からかけられた声に振り返る。急須や湯飲みを乗せた盆を手にした青年が、己を見て訝しげに眉を寄せた。
室内から聞こえてくる声に、大方の状況を察したのだろう。青年は呆れたように嘆息し、失礼、と声をかけ己の横をすり抜けて、部屋へと入る。

「いい加減になさい。彼女が困っているではないですか」
「っ!?ご、ごめんね。入っていいからね!」

ぱたぱたとこちらに掛け寄り、幼子が己の手を引く。ゆったりとした足取りで室内に招き入れられ、青年の前に共に座った。

「ごめんね。大丈夫?立ってるのつらいね。ごめん」
「いや。もう大丈夫だ。傷はすべて癒えているし、歩く事にも大分慣れてきている」

落ち込む幼子の頭を撫でる。
片翼を折り、飛べずに傷ばかり作っていた己を保護してくれた幼子は、傷が癒えた今もこうして過保護に心配する。大丈夫だと何度伝えても、何かと世話を焼いてくれるのは、己が頼りないからだろうか。

「歩く事に慣れてきたようですが、無理はなさらないで下さいね。僕達…と言いますか、そこの馬鹿姉が全ての元凶なのですから、遠慮などなさらないで下さい」
「にっちゃの言うとおり。ねっちゃがぜんぶ悪いから、がまんしないでね」
「――遠慮も我慢も、してないが」

二人の優しさには、未だに慣れない。
二人は己が飛べなくなった原因を、彼らの姉だと言う。だからこうして保護される事も、世話をされる事も、当然の権利なのだと。
話を聞く限り、確かに羽が折れた原因は彼らの姉にあるようだ。酒の席で酔い、風を起こして己の羽を折った。
しかしその前から、うまく飛べなくなっていた。羽を折られずとも、いずれは飛べなくなっていたはずだ。
だがそれを伝えても、彼らは――彼らの姉でさえ、悪いのは羽を折った姉だと認識を譲らない。そしてさらに過保護に世話を焼こうとする、そのやりとりを繰り返し。気づけば、季節が一つ過ぎてしまっていた。
困惑に眉を下げ、視線を彷徨わせる。気まずさに室内を一瞥し、未だ正座をしている女性と目が合った。

「――理由は分からないが、そろそろ許してあげてはどうだろうか」

縋るような目に耐えきれず、そう言葉にすれば、不服そうな幼子が彼女に視線を向けて、きつく睨み付けた。ひっと短く上がるか細い声に、駄目だろうかと改めて問えば、幼子は己を見、彼の兄を見て、深く溜息を吐いた。

「次、ないからね」
「分かってる!」

不本意だと言わんばかりの幼子の呟きに、女性の喜色を滲ませた声が上がる。正座を崩して呻き、這うようにこちらに近づき、己に抱きついた。

「ありがとう!助かった」
「ねっちゃ、離れて」
「今回は、何が原因なんだ」

そう問えば、女性ははっとした表情になる。懐に手を入れて包みを出すと、皆の前に包みを解いて中を開けてみせた。

「これ!お気に入りの和菓子屋のぼたもち。一日五十個ずつしか作らなくて、すぐに売り切れるの」

黒や茶などの餡に包まれたもちのような菓子をみせ、女性は自慢げに説明する。その隣にいる幼子の顔は呆れを隠そうともせず、目の前の青年は大きく嘆息した。

「定番の粒あんでしょ。それから、胡麻と、こっちは胡桃。あと、一番人気のずんだもあるよ!今日は雨を呼びそうな曇りになろうとしてたから、いつもより人間が少なくて幸運だったの」
「そのために、風おこして、まわりに迷惑かける。だめ、ぜったい」
「まったくです。本当にこんなのが、僕達の姉だとは嘆かわしい」
「ちょっと、そこまで言わなくても。皆がよろこんでくれるかなって、頑張ったのに」
「――これは、餅、か」

小さく呟いた声は、だが賑やかな三人にしっかりと聞こえたようだ。揃ったように沈黙し、己に視線が向けられる。

「ぼたもち。もしかして知らないの?食べた事ない?」
「餅は、一度だけあるが」

恐る恐る尋ねる女性に答えれば、何故か三人とも傷ついたようにそれぞれ顔を歪ませた。
また何か間違えたのか。ぼたもち、とやらは、餅とはまた異なる菓子のようだ。
今まで飛ぶ事しか考えていなかった己は現世に疎く、それが三人にとって耐えられない事らしい。

「と、取りあえず、食べてみて!何にする。まずは定番の粒あんなんかどうかな?」
「え?あぁ、ありが、とう?」

いつの間にか用意されていた小皿にぼたもち、とやらを乗せて差し出される。それを受け取って、困惑しながら黒文字を差し、一口囓る。

「――おいしい」

餡子の控えめな甘さと、米粒の残る柔らかなもちが口の中に広がっていく。以前食べた餅とは異なる食感に、気づけばすぐに平らげてしまった。
新しく注がれた緑茶を一口飲んで、気恥ずかしさに少し俯く。大して味わいもせずに食べてしまった事が悔やまれる。

「ねっちゃ」
「な、なに?」
「よくやった」
「あ、うん」

隣でひそひそと話し合う幼子と女性が気になったが、その前に青年が新しくぼたもち小皿に乗せて差し出してくる。思わずそれを受け取って、今度は少しずつ味わうように食べ始めた。

「馬鹿姉には、このまま現世の菓子を買いに行く許可を出しましょうか」
「ん…でも、まわりにめいわく、だめだから」
「分かってます。気をつけるようにするって」

ちまちまとぼたもちを食べている間に、三人も和解できたようだ。
密かに安堵して、笑みが浮かぶ。ぼたもちの甘さと穏やかさに、三人から与えられる優しさを素直に受け入れられる気がした。

「おいしい?よかったね」
「ありがとう。こんなにおいしい菓子は初めて食べる」

二個目も全て平らげて、緑茶を啜る。
腹が満たされて微睡み始めた意識で、現世の空を想った。
このぼたもちを買いに行った際に、雨を呼ぶ雲が近かったと言っていた。今は雨が降っているのだろうか。
そして雨が止んで、曇りの空に光が差し込んで。その合間から、あの澄み切った青が覗くのだ。

「ここに来てから、初めての事ばかりだ」

今は遠くなってしまった空を焦がれる気持ちは、この三人といる事で、一人でいた時よりも大分穏やかだ。この先、歩く事に慣れた時にはもしかすればなくなってしまうのかもしれない。

「眠いの?じゃあ、一緒にお部屋、戻ろうか」

幼子に促され、手を引かれて立ち上がる。ふらつきはするものの、足が竦む事も倒れる事ももうない。

この手が繋がれている限り、地に足をつけて歩く事に恐れはないのだから。



20250323 『雲り』

3/23/2025, 2:35:34 PM