この学校には、不可思議な校則がある。
例えば、他者に対する悪意の言葉を吐かない事。
本人が目の前にいようといまいと関係ない。それが『いなくなってしまえ』といった曖昧な言葉でさえ、処罰の対象となる。
そして、不確定な未来に確定した言葉を介して約束をしない事。
どうやら、絶対や必ずといった言葉を約束に使うな、という事らしい。『絶対に遅刻しないで』と約束をした一年生が、入学早々に一週間の停学処分にあった話は記憶に新しい。
漏れ出る欠伸を噛み殺し、窓の外を見る。薄紅色に色づいた花の蕾は、あと数日もすれば美しく咲き誇り、見る者全てを魅了するのだろう。
もうすぐ年度が替わる。自分は一つ学年が上がり、期待に目を輝かせた入学生達がやってくるのだろう。そして校則を知って口々に変だ、と言うのだろう。
「どうしたんだい?考え事かな」
低く穏やかな声。声の主である男を一瞥して、再び視線を外へと向ける。
「勝手に入ってきて、いいのか?」
男の問いには答えずに、問い返す。
「先生方に君の迎えに来たと伝えてね。こうして通してもらったんだよ」
苦笑交じりの答えに、僅かに眉を寄せた。
この学校は例外を除き、例え保護者であろうと、学校内へと通したりなどはしない。それがこうして簡単に通されたという事は、男がその例外だと学校が判断した事を意味している。
唯一の例外。生徒の式や管だと判断されたのだ。
「俺、まだあんたと契約してなかったはずだけど」
「周りはそう思っていないようだね。当主殿も望んでいる事だよ」
「だから俺はっ」
管などいらない、と。男に視線を向け吐き出そうとした言葉は、男の慈しむ微笑みに勢いをなくす。
その笑みは駄目だ。母がいた暖かな過去を、そして失った寂しさを思い出してしまう。
唇を噛みしめて視線を逸らす。これ以上男と共にはいられないと、急いで帰る仕度を調えて立ち上がった。
「――もう帰る」
教室を出るために歩き出そうとして。だがそれは男に手を掴まれた事で、蹈鞴を踏んだ。
「ちょっと、何して」
「詞葉《ことは》」
肩が跳ねる。
強制はない。ただ名を呼ばれただけ。それを理解しながらも、視線は促されるかのように男に向いてしまう。
男の細められた目と視線が合う。そこに浮かぶ感情は、母と同じものだ。
耐えられず、一筋涙が流れ落ちた。
「泣き虫だね。困った子だ」
「うるさいっ!あんたのせいだろ。あんたがいつまでも」
「そうだね。僕が悪い。だからお詫びに一緒に帰ろうか」
ずるい。口には出さずに呟いた。
この男は、いつもそうだ。穏やかな笑みを湛えながら、逃げ道を簡単に塞いでいく。
昔、母の管だった男は母がいなくなった今、こうして自分に主になれと言う。失うのが怖くて、その契約から逃げ出しているのも、もう限界だろう。
そう考えて、ふとこの学校の校則を思い出した。
意味のない校則は、この学校には存在しない。現に他者に対する悪意の言葉を禁じているのは、それがここでは呪になってしまうからだ。
言葉は力を持つ。一番最初に教えられる事だ。言葉の扱いを誤れば、それは途端に周囲に禍を撒きかねない故に、まず校則で縛り、授業で幾度となく教え込まれる。
確定した言葉を介した約束を禁ずるのもまた、同じ事だ。
絶対の言葉で遅刻を禁じられた相手は、嵐の中大怪我を負いながらも、時間通りに約束した場所に現れたのだという。言葉で縛った生徒は停学後も学校に来る事はなく退学し、相手も怪我を理由に退学した。
それほどまでに力を持つ言葉を、もしも男に対して言えたのならば。
「――あの、さ。もしも…もしも、俺が」
――絶対に管を持ちたくないと言ったなら。
「……いや、何でもない。忘れて」
緩く首を振る。続く言葉は出なかった。
もう二度と失いたくないが故の臆病者の言葉が、力を持つとは思えなかった。
「いい子だね」
手を引かれ、抱き留められる。頭を撫でられながら、男に褒められて、複雑な気持ちで男を見上げた。
「子供扱いは止めてくれる?」
「いい子は褒めるものだよ。絶対的な否定の言葉は、後になって己の首を絞めかねないからね」
「なっ!?」
「でも、そうだね。いつまでも不安にさせるのは僕としても本意ではないから、一つ約束をしようか」
頭を撫でていた手を目の前に出し。小指を立てて、男は笑う。
「これから先も、僕は君と共に在るよ。君の大切な者をもう二度と君の前で失わせたりしない。――約束するよ」
優しく、けれど強い意志を湛えた目で見据えられ、息を呑む。信じてもいいのかと迷い彷徨う目を、逸らす事は許さないと顔を近づけて。
「――本当に。信じても、いいの?」
「信じてほしい。僕が嘘を言った事があるかい?」
「ない。けど」
男は嘘は言わない。信じても良いはずだ。
だから約束をしても大丈夫だと。恐る恐る男の小指に小指を近づけた。
大丈夫。不安に思う事は何一つない。
それに約束とは、一種の契約のようなものだ。契約は一度成されてしまえば違える事は許されない。
さらに手を伸ばし、男の小指に僅かに触れて動きを止めた。
何かが引っかかる。このまま約束を交わしてもいいのだろうか。
目を瞬く。今一度約束の内容を思い返し。約束の意味を考えて。
慌てて手を引いて、男と距離を取った。
「っぶね。勝手に契約しようとすんな!」
「おや、残念。気づかれてしまったか」
肩を竦めて笑いながら、男は手を下ろす。
危なく男と契約をする危機を脱した事に、胸中で安堵の息を吐いて、強く男を睨み付けた。
「そんなに怒らないで。大丈夫だよ。次からはこんな回りくどい事はしないから」
「うるさい。馬鹿」
「ごめんね。もうだまし討ちはしないよ、本当だ…だから、帰ろう?」
男に手を差し出され、警戒しながらもその手を取る。
これ以上遅くなる訳にはいかないと、自分自身に言い訳をしながら、男に手を引かれ歩き出した。
「本当に、もう騙すような事するなよ」
「しないよ。する必要はなさそうだからね」
夕闇に染まる家路を辿りつつ。
男に念を押せば、苦笑した答えが返る。
「必要ないって…何で」
訝しげに男の横顔を見上げ。どこか上機嫌にも見えるその表情はあまり見た事がない。
嫌な予感がする。さりげなく繋いだままの手を離そうとすれど、強く繋がれた手は少しも離れない。
「不安を取り除いてあげられれば、嫌ではないようだからね。これからは一層甘やかして、信を得る事にするよ」
ふふ、と男は声を上げて笑い。離そうとしていた手を引いて、抱き上げられる。
「なっ、ちょっと!」
「懐かしいね。昔は泣く度にこうして抱き上げてあげれば、すぐに泣き止んでくれたっけ」
「今、泣いてないだろ!」
早く下ろせと暴れるものの、男が気にする様子はない。
恥ずかしさと、誤魔化しようもない安心感に落ち着かない。下りたいけれど、このままでいたいという矛盾した気持ちで本当に泣きそうだ。
「そうだね。では、僕と契約してくれたのならば、下ろしてあげようか」
「ずるい!」
そう言われてしまえば、下りれない。仕方がないと抵抗を止めて男に凭れ、溜息を吐く。
懐かしい温もりに、鼻の奥がツンとする。見上げた空の朱を、意味もなく睨み付けた。
「最初からこうしていればよかったね。これからは君の大丈夫の言葉を信じすぎないようにしようか」
「――馬鹿」
呟いて、目を閉じる。意地を張った所で、意味はないのだろう。
結局の所、どうやっても男には敵わないのだ。
20250324 『もう二度と』
3/24/2025, 2:23:38 PM