立ち上る白の煙。青空に解けていくその一筋を見上げ、目を細めた。
「ありがとう」
見えない彼女に向けて、感謝の言葉を紡ぐ。
返る言葉はない。もしかしたら、もうここにはいないのかもしれない。
そもそも、彼女が本当に存在していたのかもはっきりとしなかった。
夢うつつに見えた影。長い黒髪を揺らし、燃えるような赤い目をさらに赤くして泣いていた彼女。彼女の姿が掻き消えると同時に聞こえた、叫び。
夢だったのかもしれない。
「貴女がいてくれてよかった。おかげで、さよならを言う時間ができた」
例えそうだとしても構わなかった。
叫ぶ声を聞いて、翌日集まった皆と互いに語り合う事が出来たのだから。叫ぶ声が聞こえた事を皆それぞれに不思議がりながら、それでも楽しい一時を過ごす事が出来た。
何かの予感にさようならと笑い、手を離した。こんなにも穏やかに別れる事が出来たのは、あの叫ぶ声があったからだろう。
「本当にありがとう」
呟いて、視線を下ろす。
そろそろ行かなければ。踵を返し、煙に背を向け歩き出す。
「Why…」
不意に声が聞こえた。困惑した、何故を問う声。
立ち止まり辺りを見渡せど、姿はない。
「アナタ、とても、strange。不思議、変。ワタシ、叫んだ。死、呼んだ。なのに、感謝。とても、とてもstrange」
声は頻りに不思議だと繰り返す。
あの赤い目が戸惑い揺れている様を想像して、隠し切れなかった笑みが零れ落ちる。
声は自分を不思議だと言うが、それはお互い様だろうと内心で思う。叫ぶ事で死を呼ぶなど、それではまるで、異国の伝説にあるマンドレイクのようではないか。
「この国、strange。言葉、とてもstrange。人間、神秘、共存してる。言葉、強い力、ある。strange」
「そんなに変かな」
どうやら声は異国から来たらしい。不思議で仕方がないと、感情を宿す声に、苦笑して言葉を返す
自分では分からない。
言葉には力が宿るから、くれぐれも気をつけなさい。
そう言われた事はある。幼い頃に、よく両親や祖父母から聞かされた事だ。成長し、身をもってその意味を知ったが、それは他の国でも変わらないのではないだろうか。
「言葉が力を持つのは、他の国でも同じだと思っていたけれど。貴女の国では違うの?」
「言葉、力ある。変わらない。But、でも、この国、言葉、とても強い。とてもとても…神秘、作り上げる」
「神秘?」
どういう意味だろうか。聞き返せば、声は言葉に詰まる。
ややあって。たぶんと前置きされながら、声は迷うように言葉を探しつつ話し出した。
「人間、想像、形なる。言葉、伝える。本物成る」
「――そういえば、前に呼んだ小説に、そんな事が書いてたような」
妖、だっただろうか。人の想像が形を持った、人に寄り添う存在。時には人を助け、時には人を害す。人が望み、妖が応える。その共存関係の始まりは、確かに人の言葉だ。
「けど、貴女も妖ではないの?」
ふとした疑問に、けれども声ははっきりと否を答えた。
「No。ワタシ、違う。ワタシ以外、アヤカシ、maybe、いる。But、ワタシ、違う」
それならば、とさらに問いかけようとして止める。
声が誰であろうと、それは些細な事だ。どこか哀愁を帯びた声に、興味本位で踏み入れるものではないと意識を切り替えた。
「――そろそろ行かないと」
もう一度辺りを一瞥する。やはり彼女の姿が見えない事に微かに寂しさを覚えながらも、前に向き直る。
「行くの」
小さな呟く声に、笑って頷く。心残りがないと言えば嘘になるが、だからといって立ち止まっている訳にはいかない。先に進まなければ。
そう伝えれば、どことなく不満げな声がすぐ近くから聞こえた。
「この国、judgment、審判、ある、聞いた…シジュウクニチ」
「よく知ってるね」
四十九日。中陰《ちゅういん》と呼ばれるその期間は、七日毎に審判が行われ、その判決で来世が変わるのだという。
「そうだね。苦海に沈む身であれば、その判決を待つべきだと思うけれど…わたしには迎えがあるからね」
苦笑して、指を差す。その先にいる見慣れた顔ぶれに、手を振り歩み寄る。
「よっ。先日ぶり」
「あなたが最後ですよ」
「相変わらず、時間にルーズね。最後くらいはきっちりしたら?」
「急には変えられないよ。それにようやく終わったんだから」
振り返り、空を見上げて煙が見えなくなった事を認め、視線を戻す。変わらない彼らに、肩を竦めて溜息を吐いてみせた。
「やっぱり皆、駄目だったんだね」
「そうね。あの事故の生存者はゼロだったようよ」
「ま、五体満足で体が戻れた分、ありがたいわな。未だ戻れてない奴らがほとんどらしい」
「これも、あの夜聞いた叫び声のおかげかもしれませんね」
「ちげぇねぇ。会えたなら、礼を言いたいくらいだ」
からからと笑い合う彼らを横目に、自身の影に視線を落とす。揺らぐ影から彼女の動揺を感じ取りつつも、手を差し伸べた。
「だ、そうだよ。そろそろ姿を見せてくれたらうれしいな」
「どうしました?誰かおられるのでしょうか」
全員の視線が影に向く。それにさらに動揺したのか大きく揺らいで沈黙した後、ゆっくりと影から灰色のフードを被った少女が現れた。
戸惑うように視線を彷徨わせ、怖ず怖ずと差し出した手を取る。その手を引いて影から出して、皆の方へと背を押した。
「もしかして、あの叫び声の方は」
「そうみたいだ。優しくしてあげてほしい」
「へぇ。可愛い子じゃない。凄い叫び声だったから、もっとゴツい子を想像してたわ」
「ありがとうな。教えてくれてよ。おかげで周りと別れを言えるわ、こうして集まる事も出来た訳だ。感謝してる」
「そうね。ありがと。大切な人にちゃんとバイバイできたのは、とっても幸せだもの。感謝してもしきれないわ」
「ありがとうございます。貴女が教えて下さったので、悔いなく還れそうです」
「Why、Why…?」
戸惑う彼女に皆それぞれ優しく声をかけていく。混乱し、泣きそうな彼女に笑いかけ、もう一度手を差し出した。
「よければ、常世まで皆で一緒に行かない?人の死を予知し、それを悲しむ優しい魔女さん」
「ワタシ、ワタシ、は…」
他の皆もそれぞれに手を差し出す。それに、彼女は顔をくしゃりと歪めた。赤い目が揺らいで滴を溢し、両の手が縋るものを求めるように宙を彷徨う。
その手を皆で取れば、彼女は声を上げて泣き出した。
「悲しい。痛い。だから、叫ぶ。そして、人間、死ぬ…ずっと、ずっと、ワタシ、殺した、思って…!」
「そんな事ねぇだろ。死神なら、もっとばっさりやるもんだ。あんたは、これから死ぬ人を予知して、それを伝えてんだろ」
「そうよ。だからもう、そんなに泣かないの。可愛い顔が、台無しだわ」
「皆の言う通りです。ですからもう気に病まないで下さい」
手を繋ぎ、背を撫でる。彼らの言葉と手の温もりで、涙が止められなくなってしまった彼女と彼らを見守りながら、振り返る。
遠く、こちらを待つ影に会釈をする。
常世の迎えが来た。審判などはない。刹那を生きて、死んだのだから、そこに他者の判決などはいらない。
全力で生きた自分達は、やはり苦海に沈んでいる訳ではなさそうだ。
「そろそろ行こうか。迎えが来ているよ」
彼らに声をかけ、迎えの元へ歩き出す。
彼らと手を繋ぎ、支えられる彼女もまた、彼らと共に歩き出した。
「貴女も眠れるといいね。聞いてみようか」
優しい彼女にも、眠りは必要だ。一人きりで、死を知らせて叫ぶ声も枯れ果てている頃だろう。
きっと受け入れてもらえる。そう根拠のない確信を抱きながら、迎えの元へと駆け出した。
20250322 『bye bye...』
白のワンピースに、淡いピンクのニット。
鏡の前でくるり、と一回りして、笑顔を作ってみせる。
「――やっぱり変、かな」
笑顔を作ったはずだった。けれど鏡の向こう側の私は、今にも泣いてしまいそうだ。
まるで今の空模様みたいだと、窓の外を見る。重苦しい雲から今にも大粒の雨が降ってきそうで、小さく息を吐いた。
相変わらずだ。少し前の私なら、またかと落ち込んで閉じこもっていただろう。それ以前に、こんな服を着て外に出ようなどとは考えもしなかったはずだ。
苦笑しつつ、ポーチに付けたストラップに触れる。ちりめんの、可愛らしいてるてる坊主。ちりん、と金の鈴が、涼やかな音を立てた。
「どうかな?可愛いって言ってもらえると思う?」
君の制作者さんに。
期待と不安を滲ませて、てるてる坊主に問いかける。答えはないけれど、軽やかな鈴の音が大丈夫だと伝えてくれているみたいに思えて。
ありがとう、と呟いて、てるてる坊主の頭を指先で一撫でした。
空は、昨日から変わらずの曇り。
忙しない人の波をすり抜けて、約束した場所まで急ぐ。
約束の時間までまだ余裕はあるけれど、彼の性格を考えるとゆっくりはしていられない。もしかしたら既に来ているのかもしれないという予感に、自然と足が速くなる。
急いでいるだけが原因ではない、心臓の高鳴りに笑みが浮かぶ。早く逢いたいという気持ちが、さらに足を速めさせる。
初めてだ。こんなにも心が弾むのは。誰かとの待ち合わせがとても嬉しいものだなんて、今まで知る事はなかった。
視界の先、待ち合わせの場所に見慣れた姿を認め、駆け出した。大きな背を丸めて、落ち着きなく辺りを見渡している彼の姿に、笑みが浮かぶ。
学校の外でも、彼は変わらないらしい。それに安心して、手を振り彼を呼んだ。
「日和《ひより》くんっ!」
呼ばれて、彼がこちらを向く。柔らかな表情は、けれども私の姿を見て、驚いたように固まってしまった。
「ごめんね。待った?」
「い、いえ。俺も、今来た所でっ」
何かに焦っているのか、彼は私を見ようとしない。
やはり変だっただろうか。自分の姿を見下ろして、僅かに眉が下がる。
友人達が、私のために選んでくれた服。
雨を呼びやすい私が、卒業旅行を楽しめるようにと彼が作ってくれたてるてる坊主。そのお礼がしたいと友人達に相談して、それならば、と彼とお出かけが出来る様にいろいろと動いてくれた。
この服もそうだ。私に一番似合うらしい服を選んでくれた。
彼に似合っていると褒めてもらうために。彼へのお礼のつもりのお出かけから大分離れている気もするけれど、皆はそれでいいのだと言っていた。それに背を押されて、彼の作ったてるてる坊主に勇気をもらって、着てみたのだけれど。
「あの、その。な、なんていうか、えっと…に、似合って、ます」
「――え?」
密かに落ち込んで俯けば、彼が慌てたように声をかける。
意外な言葉に、顔を上げて目を瞬く。赤い顔をした彼が意味もなく両手を動かしながら、声を上げた。
「すごく、可愛い、です。あ、いえ。先輩は元々可愛らしいですけれど。今日の服、凄く似合ってて、いつも以上に、可愛いし、それから」
「も、もういいから!少し、落ち着こう!?」
堰を切ったように早口で話す彼を、必死に止める。
顔が熱い。このまま聞いていれば、きっと恥ずかしさで逃げ出していたはずだ。
「あ、すみません!煩かった、ですよね」
「そうじゃなくて…えと、煩い、じゃなくて。なんていうか…恥ずかしくて…」
止められた事で落ち込む彼に、違うのだと伝え。耳まで真っ赤になった彼を見て、益々顔が熱くなった。
このままでは、駄目だ。きっと、いつまでもここから移動する事が出来ない。
そっとポーチにつけたてるてる坊主に触れる。ちりん、と微かな音に勇気をもらい、彼の手に触れた。
「せ、先輩っ!?」
「そろそろ行こう?このてるてる坊主のお礼をさせてよ」
「え。お礼なんてっ。俺が、好きで作っただけで。あ、その、気にしなくても」
しどろもどろになりながらも、彼は手を離そうとはしなかった。それに少しだけ希望を持って、歩き出す。
「どこ行きたい?」
「いえ、俺は、その。先輩が」
彼の慌てた声を聞きながら、彼の手を引く。私よりもよっぽど大きな手を、出来るだけ意識しないようにしながら、人混みを避けて歩いて行く。
ふと、空を見上げた。分厚い雲の合間から光が漏れ出てきて、その美しさに思わず立ち止まる。
「ああ、光芒ですね。正しくは薄明光線って言うらしいですけれど。いろいろな呼び名があるんですよ。天使の梯子とか、天使の階段とか…ある作家は、光でできたパイプオルガンって表現しています」
「どれも素敵な名前。日和くんって物知りだね」
「いえ。そんな事ないです」
否定する彼に、笑う。
もっと自信を持ってもいいのに。そう思って、それは私も一緒だと気づいて、不謹慎ではあるけれど嬉しくなった。
彼と同じものが一つでもあるだけで、こんなにも嬉しい。友人達が言っていた〝恋〟の言葉が、甘く胸を締め付ける。
「天笠《あまかさ》先輩」
彼に呼ばれ、視線を向ける。
てるてる坊主をもらったあの放課後の、二人で虹を見ていた時と同じような穏やかな微笑みに、鼓動が跳ねた。
「先輩が行きたい所でいいですよ。俺、先輩と見る景色が、とても好きですから」
たとえそれが、土砂降りの雨であっても。
そう言って笑う彼がとても輝いて見えて、その眩しさから逃げ出すように空を見上げた。
心臓が落ち着かない。胸が苦しくて仕方がないのに、それが嫌なものでない事が、さらに落ち着かなくさせる。
「わ、たしも…日和くんと一緒なら、どこでもいい、かな。日和くんと一緒だと、綺麗な光景が見れるから」
虹も。光芒も。
彼と見る景色は、初めて見た時のように輝いている。彼の言ったように、きっと雨でも輝いて見えるのだろう。
「と、取りあえず。カフェにでも入りますか?」
「そう、だね。テラス席があれば、そこがいいな」
彼の提案に答えて、視線を下ろす。横目で覗う彼の表情は、変わらず穏やかで優しくて。
当分は彼を真っ直ぐに見られそうもない。
「じゃ、じゃあ、行きましょうか」
頷いて歩き出す。手は繋いだまま。
彼の顔が見れなくて、俯き加減でいた視界に、繋いだ手が写ってしまった。
大きな手。彼の手と、私の手が一緒に。
はっきりと意識して、鼓動が煩いくらいに騒ぎ出す。
ああ、彼が好きなんだと。
初めての恋に、心が高らかに歌い出したような気がした。
20250321 『君と見た景色』
遠く、手を繋いで寄り添い歩く少年と少女の姿を認めた
表情が見えなくとも、互いに微笑み合っている様子が手に取るように分かる。幸せそうな二人がとても微笑ましく、妬ましく思えて自嘲した。
なんて愚かで惨めなのだろう。ただ与えられたものを受け入れた結果の婚姻であったはずなのに。
目の前に手をかざし、去って行った二人を思い描く。
二人を自分を彼の姿に置き換え。彼と手を繋ぐ、もしもを想像して。
――本当に、惨めだ。
叶わぬ空想を掻き消して、目を伏せた。
彼と夫婦になり、いくつか変わるものはあれど、彼との関係が変わる事はなかった。
否。ここ最近、彼は屋敷に戻ってはいない。以前は彼と共に祓い屋として方々を駆け回っていたが、今はそれもない。
大事にされているのか。それとも飽きてしまったのか。
結納を済ませた後から、彼は自分を屋敷から出そうとはしなかった。
小さく息を吐く。一人でいるからか、今日はやけに気が滅入る。
そろそろ戻るべきだろうか。屋敷のモノらに辟易して屋敷から抜け出してきたが、こうして悪い事ばかりを考えてしまうのなら、彼らに世話を焼かれている方がよほどいい。
顔を上げ、もう一度だけ二人の去って行った方へと視線を向ける。込み上げる寂しさから逃げるように踵を返し。
背後にいた誰かと、ぶつかった。
「――ぁ。すみません。気づかなくて」
「そうだよな。いつ気づくか待ってたが、結局気づかないままだったな」
揶揄うような低い声に、思わず身を縮ませた。
「な、んで」
「仕事が終わったからな。帰るのは当然だろう?」
離れようとする体を、許さないとばかりに強く抱き留められる。彼の表情が見えない事が不安で、怖くて。これ以上機嫌を損ねるのを恐れて、抵抗する事が出来ない。
「っ、ごめんなさい。屋敷を抜け出して。少し外の空気が吸いたくなって」
言い訳にしか聞こえないと分かっていても、それでも逃げたと思われたくなくて、必死に言葉を紡ぐ。自分の態度一つで、今まで続いていた人と彼の契約が切れてしまうのだけは、避けなければならなかった。
「もう勝手に屋敷から出ないから。だから」
「いい。一人にさせてたオレが悪い」
静かな彼の声からは、怒りの感情は感じられない。それに密かに安堵して、彼の顔を見ようと身じろいだ。
「これからは人間共に振り回されずに済むからな。思う存分一緒にいてやれるぜ」
「……それって」
嫌な予感に動きが止まる。彼の言葉の意味を知りたくないのに、体はその言葉の真意を問うため、視線を上げて彼を見た。
「ああ。別にオマエがどうこうって訳じゃない。ただ爺が死んだ。契約者が死んだから、契約も終わったってだけだ」
爺の子に継ぎたかったみたいだがな、と彼は笑う。楽しげなその笑みに何と返したら良いのか分からず、無言で彼を見続けた。
「赤子だったオマエを対価に、オレを従える人間との契約は、契約者だった人間の死によって終わった。これでオマエも自由になったって訳だ」
「じ、ゆう」
自由。それはつまり、彼と共にいる理由が一つなくなったという事だ。これで自分には夫婦という曖昧な関係しか残されていない。契約よりも遙かに簡単に、それこそ彼の気分一つでなくなるだろう関係。
もしかすれば、それすらもすぐになくなるのかもしれない。彼が人に従っていたのは、自分という暇つぶしの玩具があったからだ。差し出された対価を気に入り、玩具に飽きるまではと、暇つぶしに契約をした。それを契約者の死で終わらせ、新たに契約を結ばなかったのならば、それは自分に飽いてしまったのだろう。
そこまで考えて、ふと彼と離れたくないと強く思っている自分がいる事に気づく。
今まで受け入れるだけだった、受け入れるしかないと、そう思っていたというのに。
贄として彼に捧げられた事も。彼の側にいる事も。彼と夫婦になった事も。
「さて、オマエはこれからどうしたい?オレのご機嫌取りをする必要はなくなったんだ。オマエの意思で、何がしたいか言ってみろ。妻の望みになら何だって応えてやるよ」
顔を近づけて、彼は囁く。彼の言った妻の言葉に、微かに胸の苦しさを覚えた。
まだ妻と、彼と夫婦でいられるのだろうか。彼の隣にいても許されるのか。
それならば、と。ぼんやりと先ほどの二人の姿を思い浮かべる。
幸せそうな二人。手を繋いで、寄り添って歩いて――。
望んでもいいのだろうか。
「手を…」
言葉が続けられず、口籠もる。
言える訳がない。言葉にしてしまうには、それはあまりにも烏滸がましい。
「いいぜ、言え。言葉にしろ」
俯きそうになるが、彼はそれを許さない。目を合わせて、言え、と促される。
望め、と。それを許しているのだと。
傲慢なほどに気高く、美しい狸の主に促されれば、黙するままでいる事など出来ようがない。
無意識に掴んでいた彼の服の裾を、さらに強く握り締める。笑いながらも真剣な彼の目に写る、不安そうな自分を見ながら、静かに口を開いた。
「――手を、繋ぎたい。です」
あの二人のように。
形だけでない、本当の夫婦になりたい。
そう思いを込めて伝えれば、彼は僅かに目を見開き。そして優しく目を細めて微笑んだ。
彼のこんな穏やかな表情を、初めて見る。
「もっと我が儘になればいいのにな。本当にオマエは、純粋で、無垢で」
少しだけ体を離されて、彼の服を握り締めていた手を解かれる。両手で包み込むように目の前まで上げられて、指を絡めて繋がれた。
「そんな可愛いオマエを、オレは一等愛しているよ」
繋いだ手を引いて、彼は唇を触れさせる。
それを間近で見て赤くなる自分を揶揄うでもなく。彼はさらに手を引き、倒れ込む体を抱き上げて歩き出した。
帰るのだろう。彼と自分の屋敷に。
ふと、頬に冷たい一滴が触れた気がして、顔を上げる。
済んだ青の空の下。ぽつり、ぽつり、と雨が降ってきていた。
「天気雨…?」
「案外、狸でも雨を降らせる事が出来るもんだな」
初めて知った、と。楽しそうに、眩しそうに空を見上げる彼の横顔を見ながら。
本当に彼と夫婦になれたのだと、いっそ声を上げて泣いてしまいたかった。
「永遠に大切にさせてもらうぜ?オマエさん」
「はい…私も、愛しています」
いつかの言葉に、今度はしっかりと言葉にして返す。
驚いたようにこちらを見つめる彼に微笑んで、彼に擦り寄った。
20250320 『手を繋いで』
「どこ?」
小さな呟きが、やけに大きくアトリエ内に反響する。
言葉に出してしまった事で、些細な違和感が形を持って不安になり、縋るものを求めて視線がアトリエ内を彷徨った。
絵の一部が消えている。
キャンバスの整理をしていて、初めて気づいた。
砂浜と、海へと沈んでいく夕陽を描いた絵。その一部、夕陽を見つめている誰かが、白い人影を残して消えていた。
自身を落ち着かせるために、深く呼吸を繰り返す。彷徨う目を強く瞑り、一つ、二つと数を数えていく。
息を吸って。吐いて。数を数えて。
ほんの少し落ち着きを取り戻した頭で、見間違いだったのでは、と、淡い期待を思う。そもそも、描いたはずの人が消えるなどあるはずがない。光か何かを見間違えたのだ、と、恐る恐る目を開ける。
目線を落とす。机の上に置かれた絵に、焦点を合わせて。
「っ、いない」
細やかな期待を嘲笑うように、人影がここにいたのだと主張するように、砂浜と海の一部を白く切り抜いていた。
「――どうして」
「何が?」
急にすぐ後ろから聞こえた声に、大きく肩を跳ねさせる。弾かれるように振り返ったそこに、眉を寄せた彼がこちらの様子を伺うように立っていた。
「な、なんで。どうやって…?」
「一度集中すると玄関チャイムに気づかないからって、前に合鍵渡してくれたのは秋緋《あきひ》だろ。まさか、忘れたの?」
そう、だっただろうか。言われて見れば、確かに渡した記憶がある。
「だからって、急に入ってこないでよ」
「一応チャイムは鳴らしたけど?…まあ、そんな事より」
肩を竦めながら、彼が近づいてくる。それに無意識に後退ろうとして、かたり、と机の上のキャンバスが音を立てた。
「――ぁ」
「何?夕陽と、海の絵?…それに、これは」
音でキャンバスに気づいた彼が、絵を覗き込む。彼の視線が消えた人影に注がれているのを見て、反射的に口を開いた。
「消えちゃった…今日、気づいたの。いつからなのか分からないけど」
「消えた?」
視線を人影からこちらへと移し、彼は眉を寄せる。困惑したその表情に何と返したら良いのか分からず、俯いて小さく頷いた。
「消えたって、これが?…俺には、描き直そうとした途中の絵に見えるけど」
「………ぇ?」
予想外の言葉に、顔を上げて彼を見て、そして人影を見る。
「ほら。前に描き直してた時、こうして白くしていたじゃん。それじゃないの?」
「そ…かな。あぁ、そう、だね」
目を凝らして見れば、その白はキャンバスの色ではない。
それに酷く安堵して。段々と気恥ずかしくなって、誤魔化すように彼に笑いかけた。
「ごめん。何か勘違いしてたみたい…落ち着いて考えればそうだよね。絵が消えてどこかに行くなんて、ありえないのに」
「…何かあった?」
誤魔化しを許さないと言わんばかりに、彼が真剣な顔をする。真っ直ぐに見つめられて、逃げる事が出来ずに息を呑んだ。
「最近、何も描いてないだろ」
鋭い指摘に、何も言えなくなる。
彼の言う通りだ。ここ数ヶ月、何も描いていない。
去年の暮れに怖い夢を見てから、何も描けなくなってしまっていた。
公園のイルミネーション。景色を切り取るように、スケッチブックに描いて。
今でもはっきりと思い出せる。あの色鮮やかに明暗する、スケッチブックの中のイルミネーションの怖ろしさを忘れる事が出来ない。
描くのが怖い。夢の通りに、現実を絵に閉じ込めてしまったら。そう考えるだけで、鉛筆を持つ手が震えてくる。
「どこにもいなかったから、心配して来てみたけど…来てみて良かったな」
小さく笑って、彼は手を伸ばした。思わず身を固くする自分を安心させるように、そっと頭に触れて軽く撫でる。
恥ずかしさよりも、胸の中の恐怖が解けてなくなっていく暖かな感覚に、強張っていた体の力が抜けていく。
手を引かれて近くの椅子に座らされて。目の前で屈んだ彼にもう一度、何かあった、と聞かれれば、素直に口が開いていく。
「描くのが怖いの。描いた絵が、本物になってしまうようで、それが凄く怖い」
一度口をついて出てしまえば、もう止められない。
去年見た夢の事。怖くて絵が描けなくなってしまった事。
春からの留学を断った事。
要領を得ない話を、彼は途中で遮る事をせずに聞いて。
だから、言葉は益々止められなくなって。
「もう、絵を描くのを止めようと思ってる」
最後に零れ落ちたのは、まだ誰にも伝えられなかった弱い気持ちだった。
「――描くのを止めて、本当に後悔しないの?」
静かな声に、口籠もる。
後悔しないはずはない。これはただの逃げなのだから。
「でも」
「絵を描きたいと思っていた秋緋の気持ちは、どこに行ったの?怖いからって逃げ出して、それで処分されていく絵の思いはどこへ行けばいいの」
容赦のない言葉に、息を呑む。彼の強い目が、逃げるな、と責め立てて、苦しくなる。
ここから逃げ出したくて仕方がないのに、彼の手がそれを許さない。鎖のように手首に絡みつき、このアトリエに閉じ込められてしまいそうな幻覚に酷く目眩がした。
「――俺を、描いて」
ひゅっと、喉が嫌な音を立てた。
「俺を描け。約束だろ」
「でもっ。だって」
「描いて。それで、確かめてみればいい」
――本当に現実を絵に閉じ込める事が出来るのか。
嫌だ、と首を振りたいのに。彼の鋭い視線から目を逸らせない。
それでも頷く事も出来ず。動けない自分に、彼は顔を寄せながら囁いた。
「もし、本当に描きたくないのなら、この手を振り解いて出て行けばいい。そうしたら俺はもう秋緋の前には現れないから」
会えなくなる。その一言が、心を強く締め付ける。
「ここに残るなら、描いて」
どうする、と目線で問われ。
強く目を瞑る。一つ深呼吸をして。
ゆっくりと目を開けた。
「――描く」
呟いた一言に、彼は笑い、手を離す。
スケッチブックと鉛筆を手渡されて、ゆっくりと表紙を捲った。
「大丈夫。ほら、集中して」
促されて、彼だけを見る。他の事は何も考えず、絵を描く事だけに集中する。
数ヶ月描いていなかっただけで、こんなにも線が歪む事に歯がみした。描いては一枚捲り、また描いては捲る動作を繰り返す。
納得がいくまで、何度でも。
スケッチブックを捲る、その僅かな時間。
ふと、疑問が浮かぶ。
――どうしてあの白い人影を見て、どこに行ったのかと思ったのだろうか。
彼を見ながら、線を走らせる。一瞬前の疑問など、すぐに意識の外へと追いやられていく。
時を忘れ、無心になって描く。
目の前の彼を、この白と黒の世界に閉じ込めるように。
20250319 『どこ?』
「今度の週末、これに行かない?」
そう言って差し出された雑誌に目を落とす。
――『この春おすすめ。スイーツバイキング特集!』
カラフルなポップで書かれたタイトル。綺麗で美味しそうなケーキの数々。
目を瞬いても、変わらない。彼に化かされている訳ではないらしい。
「えっと…こういうの、食べて大丈夫?」
「狐は雑食だから、多分大丈夫。ボクのお姉ちゃんもよく行ってたし」
「――そ、そっか」
雑誌を見る振りをしながら、さっきまではなかったはずの彼のしっぽを見る。ゆらゆらと落ちつきなく揺れているのは、不安からだろうか。
雑誌から顔を上げて彼を見る。いいよ、と頷けば、嬉しそうに破顔した。て雑誌を鞄に戻した。
雑誌がなくなった事で、彼との間の隙間が露わになる。ふさふさとした彼のしっぽ、一本分。たったそれだけの距離が何故か遠い。
「これからどうする?街にでも出てみようか」
いつもならばこのまま草原でのんびりするだろうに。今日の彼は随分と様子が違う。
いや、今日だけではない。少し前――正確には彼との関係が変わってから少し後に、彼は人の生活に興味を示すようになった。
彼が人について知ってくれる事は、とても嬉しい。でもそのせいで、彼との距離が広がって行くのが、それ以上に寂しかった。
「――いい。今日は暖かいし、このままゆっくりしたいな」
曖昧に笑って、空を見上げる。以前の、まだ大切な友達でいられた頃の時には、寄り添いながら雲が何に見えるかを話して笑い合っていたはずなのに。
あれからずっと、手を繋いでいない。好き、の一言が出てこない。
少しだけ乱れた呼吸と熱くなる目元を誤魔化すように、深く呼吸をした。
ふと、風に乗って、目の前を白い花びらが流れていく。くるり、ふわり、と舞う姿を、ぼんやりと眺め。惹かれるようにして、手を伸ばした。
花びらに触れる、その一瞬前。同じように手を伸ばしていたらしい彼の手に触れた。
「っ、ご、ごめんね!」
思わず、後退る。彼との隙間がしっぽ一本分から、狐の姿の彼、一人分に広がってしまったけれど、今は気にしてなどいられない。
熱い。触れた指先から伝った熱が全身に回って、くらくらする。鼓動が忙しなく踊り出し、じわりと視界が滲み出す。
何なのだろう、これは。わたしは、一体どうしてしまったのだろうか。
「――大丈夫?」
「だ、大丈夫。花びらを見てて、気づいてなかったの。本当にごめんね」
わたしは何故、謝っているのだろう。前は触れただけで謝ることなんてなかったのに。
彼が距離を詰めてくれないからだろうか。前のように偶然を笑い合って、そのまま――。
そこまで考えて、硬直する。笑いすぎて狐の姿に戻ってしまった彼とじゃれ合っていた事を思い出して、全身がさらに熱くなる。
「――ひゃあぁぁ!」
「えっ、ちょっと!本当に、大丈夫なの?」
大丈夫ではない。もう、大丈夫ではなくなってしまった。
心臓が煩い。煩くて、痛くて。これ以上は耐えられないと、さらに距離を取るため腰を浮かして。
――風が、吹き抜けた。
逃げようとする体を押し止めて。彼との距離を縮めるように、強く体を押す。倒れないようにと足に力を入れるけれど、許さないとばかりにさらに風は強さを増して。
とん、と。背中を押されるような錯覚を覚えたのも束の間。
「きゃぁ!」
「うわっ!」
彼との距離が、なくなった。
「ぅ、ごめん。今、」
「ちょっと待って。ちょっとだけ、このままでいて」
彼の上に乗り上げてしまった格好に、慌てて身を起こそうとするも、彼に手を掴まれて動けない。
彼が近い。さっきはあれだけ距離がある事が寂しかったはずなのに、今は早く離れたいと思ってしまう。
それでいて、前と同じ距離にとても嬉しくなってしまうのだから、もうどうすれば良いのか分からない。
「少しだけ、話してもいい、かな」
「………いい、よ」
話したいという彼に、このままで、と尋ねるかを迷い。結局何も言えずに頷いて、くらり、と揺れる視界の中で、彼の話を待った。
「この前ね、ボクのお姉ちゃんがお嫁さんに行ったんだ。その前の日に話をして。キミと、こ、恋人、に、なった話もして」
途中、不自然につかえた彼に、少しだけ落ち着く。彼を見れば、耳まで真っ赤になっていて。触れている所から、彼の心臓の忙しない鼓動が感じられて。
意識しているのはわたしだけでない事に、気づいた。
「その時に、お姉ちゃんが言ってたんだ。相手に合わせろって。狐と人間は、いろいろと違うから、まずは相手を知る事から始めなさいって…だからたくさん勉強して、距離感とか態度とか、人間に合わせてみた、んだけど」
へにゃり、と彼の髪の間から飛び出た耳が、力なく垂れる。眉を下げながら笑う彼は、ごめんね、と小さく呟いた。
「やっぱり、この距離がいい。関係はさ、友達、から、こ、恋、人に、なったけどさ…えと、駄目かな?」
駄目じゃない。その一言を言おうと口を開き。けれどもうまく声が出ずに、乱れる呼吸を誤魔化すように軽く活きを吐いて、馬鹿、と囁いた。
「馬鹿じゃないし。嫌なら、別に我慢出来るから」
「そう、じゃ、なくてっ!」
どうして彼は気づいてくれないのだろう。相手を知る所から始めると言われたのに、どうして。
彼を睨む。赤いだろう顔で睨まれても怖くはないだろうけれど、精一杯の不満を表す事は出来ているはずだ。
「相手を知るなら、まず、わたしに言って。全部、わたしに聞いてよっ!」
半ば叫ぶように伝えれば、彼はあ、と小さく呟いて。さらに顔を赤くして、わたしの大好きなお日様のような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、教えて?どうすれば、キミに喜んでもらえるの?今、一番欲しいものは?」
問われて、言葉に詰まる。聞いてと言ったのはわたしだ。訊かれたのなら答えなければ。
視線を彷徨わせながらも、覚悟を決める。彼から欲しいものは、結局は一つだけだ。
息を吸う。声が小さくなってしまうのは、許してほしい。
「――わたしの事、どう思っているのか、教えてほしい」
言葉でも。態度でも。伝えて欲しい。
か細い声で答えれば、彼は掴んでいたままの手を引いた。
強く抱きしめられる。急な事に混乱するわたしの耳元でくすくす笑いながら、彼は一言囁いた。
――大好き。と。
「ああ、もう。何なんだ、まったく」
珍しく感情を露わにしながら戻ってきた彼女に、思わず飛び上がる。
「ど、どうしたの?」
「どうしたもこうも。間怠っこくて、もだもだする…やっぱり、もっと強く押せばよかった」
「え?本当に、何があったの?」
聞いても彼女は答えない。こちらには気づいてもいないのかもしれない。
少しだけ、寂しくなる。それでも、そんな気持ちを彼女に伝えられなくて、力なく尾を垂らした。
こんな時は寝てしまうのが一番だ。しばらくすれば彼女も落ち着くだろうと、座り込んで。
「ねえ。私達、親友だよね?」
突然の問いかけに、尾を膨らませて飛び上がった。
「私達、親友だよね。前にそう言ったもんね」
「――う、うん。わたしたち、親友。大親友!」
笑顔で顔を近づける彼女に、慌てて頷き肯定した。
本当に、何があったのだろう。こんな彼女は初めてだ。
「じゃあ、これから一緒にうどん屋さんに行こう。だしのきいたお揚げが食べたいんだよね、私」
行こう、と誘いの形を取ってはいるが、疑問形ですらない。けれど否定する訳にもいかず、必死に首を縦に振って彼女に答えた。
「なら早く行こう。口の中が見えない砂糖でじゃりじゃりしてて、気持ちが悪いんだ」
「えっ!?大丈夫なの、それ。うどん屋さんじゃなくて、お医者さんに行くべきじゃ」
「気分を変えれば、元に戻るから大丈夫…ほら行こう」
そう言って、有無を言わさず抱き上げられる。足早に歩く彼女に焦って、腕をぺちぺち叩いた。
狸の姿のままで、うどん屋へは行けない。
「下ろしてっ。まず人間にならないと」
「近くに行ったら下ろすから。それまで大好きな親友を堪能させて。お願い」
「!?え、あ。だ、大、好き…!」
思わず尾が揺れる。
「あ、あの、ね!わた、わたしもっ」
「知ってる」
毛並みに顔を埋めながら、彼女は目を細めた。
全部、知られている。それは分かっているけれど、それはそれ。ちゃんと言葉にしたい。
「わたしも。大好きだから!」
必死に叫んで、彼女に擦り寄った。
20250318 『大好き』