「どこ?」
小さな呟きが、やけに大きくアトリエ内に反響する。
言葉に出してしまった事で、些細な違和感が形を持って不安になり、縋るものを求めて視線がアトリエ内を彷徨った。
絵の一部が消えている。
キャンバスの整理をしていて、初めて気づいた。
砂浜と、海へと沈んでいく夕陽を描いた絵。その一部、夕陽を見つめている誰かが、白い人影を残して消えていた。
自身を落ち着かせるために、深く呼吸を繰り返す。彷徨う目を強く瞑り、一つ、二つと数を数えていく。
息を吸って。吐いて。数を数えて。
ほんの少し落ち着きを取り戻した頭で、見間違いだったのでは、と、淡い期待を思う。そもそも、描いたはずの人が消えるなどあるはずがない。光か何かを見間違えたのだ、と、恐る恐る目を開ける。
目線を落とす。机の上に置かれた絵に、焦点を合わせて。
「っ、いない」
細やかな期待を嘲笑うように、人影がここにいたのだと主張するように、砂浜と海の一部を白く切り抜いていた。
「――どうして」
「何が?」
急にすぐ後ろから聞こえた声に、大きく肩を跳ねさせる。弾かれるように振り返ったそこに、眉を寄せた彼がこちらの様子を伺うように立っていた。
「な、なんで。どうやって…?」
「一度集中すると玄関チャイムに気づかないからって、前に合鍵渡してくれたのは秋緋《あきひ》だろ。まさか、忘れたの?」
そう、だっただろうか。言われて見れば、確かに渡した記憶がある。
「だからって、急に入ってこないでよ」
「一応チャイムは鳴らしたけど?…まあ、そんな事より」
肩を竦めながら、彼が近づいてくる。それに無意識に後退ろうとして、かたり、と机の上のキャンバスが音を立てた。
「――ぁ」
「何?夕陽と、海の絵?…それに、これは」
音でキャンバスに気づいた彼が、絵を覗き込む。彼の視線が消えた人影に注がれているのを見て、反射的に口を開いた。
「消えちゃった…今日、気づいたの。いつからなのか分からないけど」
「消えた?」
視線を人影からこちらへと移し、彼は眉を寄せる。困惑したその表情に何と返したら良いのか分からず、俯いて小さく頷いた。
「消えたって、これが?…俺には、描き直そうとした途中の絵に見えるけど」
「………ぇ?」
予想外の言葉に、顔を上げて彼を見て、そして人影を見る。
「ほら。前に描き直してた時、こうして白くしていたじゃん。それじゃないの?」
「そ…かな。あぁ、そう、だね」
目を凝らして見れば、その白はキャンバスの色ではない。
それに酷く安堵して。段々と気恥ずかしくなって、誤魔化すように彼に笑いかけた。
「ごめん。何か勘違いしてたみたい…落ち着いて考えればそうだよね。絵が消えてどこかに行くなんて、ありえないのに」
「…何かあった?」
誤魔化しを許さないと言わんばかりに、彼が真剣な顔をする。真っ直ぐに見つめられて、逃げる事が出来ずに息を呑んだ。
「最近、何も描いてないだろ」
鋭い指摘に、何も言えなくなる。
彼の言う通りだ。ここ数ヶ月、何も描いていない。
去年の暮れに怖い夢を見てから、何も描けなくなってしまっていた。
公園のイルミネーション。景色を切り取るように、スケッチブックに描いて。
今でもはっきりと思い出せる。あの色鮮やかに明暗する、スケッチブックの中のイルミネーションの怖ろしさを忘れる事が出来ない。
描くのが怖い。夢の通りに、現実を絵に閉じ込めてしまったら。そう考えるだけで、鉛筆を持つ手が震えてくる。
「どこにもいなかったから、心配して来てみたけど…来てみて良かったな」
小さく笑って、彼は手を伸ばした。思わず身を固くする自分を安心させるように、そっと頭に触れて軽く撫でる。
恥ずかしさよりも、胸の中の恐怖が解けてなくなっていく暖かな感覚に、強張っていた体の力が抜けていく。
手を引かれて近くの椅子に座らされて。目の前で屈んだ彼にもう一度、何かあった、と聞かれれば、素直に口が開いていく。
「描くのが怖いの。描いた絵が、本物になってしまうようで、それが凄く怖い」
一度口をついて出てしまえば、もう止められない。
去年見た夢の事。怖くて絵が描けなくなってしまった事。
春からの留学を断った事。
要領を得ない話を、彼は途中で遮る事をせずに聞いて。
だから、言葉は益々止められなくなって。
「もう、絵を描くのを止めようと思ってる」
最後に零れ落ちたのは、まだ誰にも伝えられなかった弱い気持ちだった。
「――描くのを止めて、本当に後悔しないの?」
静かな声に、口籠もる。
後悔しないはずはない。これはただの逃げなのだから。
「でも」
「絵を描きたいと思っていた秋緋の気持ちは、どこに行ったの?怖いからって逃げ出して、それで処分されていく絵の思いはどこへ行けばいいの」
容赦のない言葉に、息を呑む。彼の強い目が、逃げるな、と責め立てて、苦しくなる。
ここから逃げ出したくて仕方がないのに、彼の手がそれを許さない。鎖のように手首に絡みつき、このアトリエに閉じ込められてしまいそうな幻覚に酷く目眩がした。
「――俺を、描いて」
ひゅっと、喉が嫌な音を立てた。
「俺を描け。約束だろ」
「でもっ。だって」
「描いて。それで、確かめてみればいい」
――本当に現実を絵に閉じ込める事が出来るのか。
嫌だ、と首を振りたいのに。彼の鋭い視線から目を逸らせない。
それでも頷く事も出来ず。動けない自分に、彼は顔を寄せながら囁いた。
「もし、本当に描きたくないのなら、この手を振り解いて出て行けばいい。そうしたら俺はもう秋緋の前には現れないから」
会えなくなる。その一言が、心を強く締め付ける。
「ここに残るなら、描いて」
どうする、と目線で問われ。
強く目を瞑る。一つ深呼吸をして。
ゆっくりと目を開けた。
「――描く」
呟いた一言に、彼は笑い、手を離す。
スケッチブックと鉛筆を手渡されて、ゆっくりと表紙を捲った。
「大丈夫。ほら、集中して」
促されて、彼だけを見る。他の事は何も考えず、絵を描く事だけに集中する。
数ヶ月描いていなかっただけで、こんなにも線が歪む事に歯がみした。描いては一枚捲り、また描いては捲る動作を繰り返す。
納得がいくまで、何度でも。
スケッチブックを捲る、その僅かな時間。
ふと、疑問が浮かぶ。
――どうしてあの白い人影を見て、どこに行ったのかと思ったのだろうか。
彼を見ながら、線を走らせる。一瞬前の疑問など、すぐに意識の外へと追いやられていく。
時を忘れ、無心になって描く。
目の前の彼を、この白と黒の世界に閉じ込めるように。
20250319 『どこ?』
3/19/2025, 2:00:13 PM