甘い香りが鼻腔を擽り、目が覚めた。
何の香りだろうか。体を起こし辺りを見回す。
「……木?」
目を擦る。何度か瞬きをしてみるが、目の前の景色は変わらない。
木だ。見渡す限りの背の高い木々に、混乱して立ち上がる。
見覚えのない場所だ。寝る前の記憶を思い返しても、ここに来た覚えはない。
ぐるりと辺りを見ながら、徐に頬を抓る。僅かに感じる痛みに眉を寄せ、溜息を吐いた。
どうやら、夢ではないらしい。
目線を下ろし、地面を見る。細々と続く踏み固められた獣道が二本。ここに来た記憶が全くないため、どちらが家に帰れる道なのかは分からない。
肩を落とし、もう一度溜息を吐いて。
ふと、甘い匂いがしている事に気づく。
「何?花の、香り…?」
人工的な甘味料の匂いではない自然の匂いに、一歩だけ足を進め。立ち止まり、悩む。
この匂いの先が、帰り道だとは限らない。
「……ま、いいか。どっちかには行かないといけなかったし」
もう一本の獣道を見て、匂いのする方の獣道に視線を戻し、苦笑する。
違うとしても、その時は戻ればいい。そう楽観的な思考で、深く考えずに匂いを辿り歩き出した。
道の先。開けた場所にその巨木はあった。
方々に伸ばした枝には青々とした葉が茂り。不思議な色をした花が、風に楽しげに揺れている。
――楽しげに声を上げて笑いながら、揺れていた。
息を呑む。立ち止まる足が、来た道を戻るべきかを逡巡した。
この先に進んだとして、家に辿り着く事はないだろう。
戻るべきだ。そう思っても、足は僅かにも動く事なく、視線は咲く花から逸らす事が出来ない。
「どうされました」
柔らかな女性の声。近づく足音に、ようやく視線を下ろす。
「ご気分が優れないのでしょうか」
薄紅色の着物を着た、憂いタ表情の美しい女性と目が合った。
「だ、大丈夫です。ちょっと道に迷ったというか、見た事がない花に驚いたというか」
しどろもどろになりながら伝えれば、女性はああ、と得心した表情で頷き、背後の木を仰ぎ見る。
風が吹いて花を揺らす度に笑い声が響き、それにつられたのか女性がふふ、と微かに笑った。
「元は海の向こうの大陸の種のようです。海を漂いここへ流れ着いたのを、時折世話していたのですが…どうやらここの土と相性が良く、立派に育ちましたね」
「そう、ですか」
「近くでご覧になられますか」
振り返り尋ねる女性に、いやとは言えず。曖昧に笑みを浮かべて頷いた。
歩き出す女性の、少し後ろについて歩く。近づく程に強くなる匂いに、何とも言えない気持ちで何気なく木を見上げた。
――目が、合った。
よく見れば、それは花ではなかった。いや、花なのかもしれないが、それは人の頭によく似ていた。
黒い目が瞬きもせずに、こちらを見下ろしている。思わず立ち止まってその目を見返していれば、視界の隅で、揺れるいくつもの人の花が、くるりと向きを変えこちらを見ていた。
「え…誰?」
「誰、とは適切ではありません。人間の頭部によく似ていますが、これはただの花です」
女性曰くのただの花は、自身が声をかけられたと思ったのか、声を上げて笑い出す。
「花って、笑うんですね」
「楽しくて嬉しいのでしょう。ここを訪れるものは殆どおりませんから」
「――そう、ですか」
嬉しいのか、と花を見上げて呟けば、さらに花は声を上げて笑い。
からから、きゃらきゃら、と。笑う度に大きく揺れて。
その揺れに耐えきれなくなったのか。ぷつん、と小さく音を立てて、花が地面へと落ちていく。
「あ、落ちた」
「笑いすぎると萎んで、落ちてしまうのです」
淡々と説明しながら、女性は落ちた花の元へと近づいて行く。身を屈め、花を手にするとこちらを見つめ微笑んだ。
「こちらへどうぞ」
促され、微かに息を吐いてから女性の元へと歩みを進める。微笑む女性から花だったものを手渡されて、反射で受け取り眉を寄せた。
「あの…これ、は…?」
「差し上げます。これがあれば家路も見つかる事でしょう」
「それ、って。どういう意味。ですか?」
花に視線を向けながら呟く。木に咲いていたとは思えぬほど黒く小さな丸い物体の扱いに、どうすれば良いのか分からずさらに眉が寄った。
「悩み、迷っているのでしょう。焦るから帰り道が分からぬのです。落ちた花ではありますが、迷いを取り除く事くらいは出来るでしょう」
「…悩み、迷う」
呟く言葉に、頭の中で心当たりが腰に手を当てて嘆息する。細部まではっきりと思い出せるそれには、苦笑するしかない。
思い出してしまった。ずっと悩んでいた。不確定な明日に迷い、未来の別れに怖がってもいた。
家に帰りたくない訳ではないのに一向に焦る事がないのも、こうして寄り道を拒まないのも、その心当たりのせいなのか。
「食すと良いでしょう。そうすればすぐに戻れます」
「食べるの、これ?…本当に大丈夫?」
「はい。害はありません」
そう言われてしまえば、仕方がない。恐る恐る花だった黒い塊に、口を付ける。
さく、と。柔らかな口当たり。瞬間に広がる甘くて苦い味。蜂蜜とバターと、黒く焦げたパンケーキの味。
思わず目を見開いた。
この味を知っている。懐かしさに視界が滲み出す。
忘れていた味だ。けれど忘れられない味でもある。
家族が皆いなくなって、一人きりで必死に生きていた子供の頃。失いたくなくて、別れが怖くて新しく関係を築こうともせず、一人で籠もっていた時に。
頑なな自分のため、彼が風呂場から初めて出て見よう見まねで作ってくれた――。
「ごきげんよう。お気を付けて」
女性の声を遠くに聞きながら、夢中で食べる。甘さと苦さに混じり、しょっぱさを感じながら、只管に食べ続けていた。
「おい。いつまで寝ているんだ!」
べしん、と鈍い衝動に、目が覚める。
慌てて飛び起きれば、眉間に皺を寄せぞうきんを片手に持った彼の不機嫌な目と視線が合った。
「さっさと起きないか。とっくに日は昇りきっているぞ!」
「あ、ごめん」
反射的に謝罪して、急いで布団から出る。
布団をしまおうとするが、そのの前に彼に布団を取られてしまった。
「え?ちょっと」
「今日は天気がいいからな」
どうやら布団を干すようだ。
「さっさと着替えて、顔を洗ってこい。そのみっともない泣き顔を見て、屋敷のやつらがまた煩くなるぞ」
こちらに視線を向けずにそれだけを告げ、彼は布団と共に部屋を出る。
一人残され。徐に頬に触れれば、冷たく湿った涙の跡が指先を僅かに濡らし、訳もなく肩が微かに震えた。
「泣い、てる?」
何か悪い夢でも見ただろうか。思い出そうとしても、うまく思い出す事が出来ない。
目尻を少し乱暴に擦り、意識を切り替えるように首を振る。思い出せないのなら、そのまま忘れてしまうのが一番だろう。
ふと、どこからか甘い香りがした。
庭からだろうか。花のような瑞々しい甘い香りに誘われて、急いで着替えを済ませて部屋を出る。
洗面所へと向かいながら、目を細めて香りを辿る。優しく仄かな香りに、無意識に笑みを浮かべて。
「春が、近いのかな」
今頃、庭で布団を干しているであろう彼を思う。いつの間にか自分よりも家事が得意になってしまった彼に、花を贈るのはどうかと考えて、まだ早いかと一人笑う。
それよりも早く準備を整えて、彼を手伝うのがいいだろう。久しぶりに昼食を作るのも悪くない。
花の香りに酔ってしまったのか。今日はいつもより素直になれそうだ。
「さ。顔を洗わないと」
呟いて、駆け出した。どこからか廊下は走らない、と誰かの怒る声をごめん、と返しつつ、それでも速度を緩める事はせず。
今日のこれからに期待を膨らませ、花の香りと共に廊下を駆け抜けた。
20250316 『花の香りと共に』
つきり、と胸に痛みが走る。
視線の先。親友とクラスメイトの彼が話している。
ただそれだけ。いつもの光景だ。
けれど胸は相変わらず、小さな痛みを訴え続ける。ざわざわと心が落ち着かなくなる。
「どうしたの?」
私の視線に気づいたのか、親友が不思議そうに声をかける。それに作った笑顔で何もないよ、と答えながら、横目で彼を見た。
無気力で気怠さで細まる目は、親友を見ている。その目に胸の痛みが増した。
「本当に大丈夫?保健室、一緒に行く?」
「どうした?調子でも悪いのか」
僅かに寄った眉と、いつもよりも口数が少ない事を心配する親友を見て、彼もこちらに近づいてくる。距離が縮まる程にざわつく心を隠すように、きつく彼を睨み付けた。
「別に大丈夫だから。あんたを見て、ちょっと嫌な事を思い出しただけよ」
「なんだよ、それ」
訝しげに眉を潜める彼から視線を逸らし、立ち上がる。
「え。どこ行くの?もうすぐ授業、始まるよ」
「保健室、行ってくる。やっぱり調子が悪いみたい」
着いてこようとする親友を手だけで制して、教室を出る。
しばらくして鳴り響くチャイムで誤魔化すように、小さく溜息を吐いた。
失敗した。素直にそう思った。
落ち着かない。
親友が彼と一緒にいる姿を見る度に、心がざわついている。引っ込み思案で、私以外に友達を作れなかった親友が、相手が誰であれ交友関係を広げるのはいい事だ。頭では分かっていても、心がそれに疑問を突きつける。
「最近、何か変だよ?悩み事があるなら、私、聞くけど」
怖ず怖ずと声をかける親友が、眉を下げて声をかける。心の底から私を心配する様子に、ごめん、とだけ告げて、首を振った。
言える訳がない。言葉にして、形を持ってしまう事がとても怖い。
「どうした?」
親友を追って近づく彼に視線を向ける。
普段とは異なり、どこか鋭い目をして私を見る彼に、心がざわつき出す。
ざわざわと、落ち着かない。この目は嫌だ。
心の内を全部見透かすような、真っ直ぐな視線が怖い。
彼から逃げるように親友を見た。変わらず心配そうに眉を下げて、口を開き――。
唇の端がぐにゃり、と歪んだ。
「え?」
目を瞬く。
その僅かな時間で、親友の顔は元に戻っていた。
「どうしたの?」
「今。唇、が」
困惑する親友から視線を逸らし、胸に手を当てる。
今のは何だったのだろう。不自然に歪む唇が目に焼き付いて離れない。
一つ深呼吸をする。それでも心は落ち着かない。
逆にさらにざわついて、煩いほどだ。
「唇、ね」
「私、何か変だった?もしかして、何かついてる?」
「そうじゃねえよ。何もついてねぇから、そんなこすんな」
彼と親友の会話を聞きながら、けれど二人の顔を見るのが怖くて教室内を見渡した。
それぞれ楽しそうに会話を楽しんでいる。
それなのに、ちらちらとこちらを気にするように視線を向けてくる。ひそひそと何かを話すクラスメイトに、心が大きくざわついた。
――嫌だ。ここにいたくない。
込み上げる思いに、立ち上がる。それに何かを言いかける親友を気にせず、教室の外へと飛び出した。
屋上に一人。
授業終わりのチャイムを聞きながら、膝を抱えて蹲る。
一人になっても、心が落ち着かない。ざわついて、苦しくてしかたがなかった。
どうしたんだろう。自分が分からなくなってくる。
最初は親友と彼が話していた事に対して、心がざわついていただけだった。それなのに今は、見るもの、聞く音すべてに心がざわつく。
クラスメイトの姿も。噂話をする声も。屋上からの景色も。チャイムの音ですらも。
――何かがおかしい。
耳を塞いで、きつく目を閉じる。
怖い。うまく言葉に出来ないけれど、違うのだ。
ここは違う。私のいたい世界ではない。
「こんなとこにいたのかよ」
耳を塞ぐ手を取られ、聞こえた声に目を開けて顔を上げる。
彼の感情の読めない目が、私を見下ろしていた。
「っ、離してっ!」
腕を振り解き、後ろに下がる。座っていたままの体制では、それほど距離は開かなかったけれど、彼は無理にその距離を縮めようとはしなかった。
ただ私を見ている。静かに見定めている。
彼の背後。気づけば親友が凪いだ目をして、私を見ていた。
親友だけではない。クラスメイトや教師達が、無言で私を見ている。無表情ないくつもの視線が、突き刺さる。
心がざわつく。違和感が大きくなっていく。
「――」
親友が何かを言っている。けれど何を言っているのかが分からない。
違和感しかない、その言葉。昔流行った、音声を逆再生しているかのようで。
耳を塞ぎたくなるけれど、彼の目がそれを許さない。たくさんの視線の中で、彼だけが強い意志を持って私を射竦める。
「ぃ、や。やめて。私を、見ないで」
彼から目を逸らせない。耳を塞ぐ事が出来ない。
「見ないで。お願い」
ぐにゃり、と。視界の隅で、クラスメイトや教師達の顔が歪む。どろり、と絵の具が混じり合うように溶けて、目が、鼻がなくなり。唇がなくなって、輪郭だけになっていく。
その輪郭もぼやけていく。皆の輪郭がぼやけ、複数が一つの塊になってしまう。
まるで失敗した絵を塗りつぶしていくように。作った作品を壊して行くように。
歪んで、崩れて。
彼と親友だけを残して。
すべてが壊れてなくなっていく。
心がざわつく。目を逸らし続けていた違和感を突きつけられる。
――ここは、私の欲しかった世界じゃない。
「止めてよ。どうして」
「もう、十分だろ」
彼の静かな声に、唇を噛みしめた。返す言葉を思いつかず、嫌々と首を振って答える。
「いい加減にしてくれ。面倒なのは嫌いなんだ」
「じゃあ、放っておいてよ!」
必死に叫ぶ。後退る背がフェンスに辺り、小さく音を立てた。逃げ場がない事に焦り、さらに声を張り上げる。
「私。私、ちゃんと出来てたでしょ?記憶の通りに私を演じ切れていたでしょ?だからこのままでいさせてよ!」
「何言ってんだ。出来てないからこうなってんだろうが…まあいいや。面倒だし、このままさようならって事で…さっさと出て行ってくれ」
彼が一歩だけ距離を縮めた。いつの間にか手にしていた透明な石を私に投げて――。
ぶつり、と。意識が暗転した。
「おい。大丈夫か?」
「――たぶん。くらくらするけど」
「一応、保健室で見てもらった方が良いかな」
放課後の屋上。
頭を抑え呻く少女に、少年は手を差し出す。その背後でもう一人の少女は泣きそうに様子を伺いながら、立ち上がる少女と少年に声をかけた。
「大丈夫。大分落ち着いてきたから」
「まあ、保健室に行った所で意味はないしな」
「変な感じ…何がどうなってんの?」
立ち上がり、目の前の二人を見ながら眉を寄せ呻く。それにおろおろとしながら彼女を支えようと少女は寄り添い手を繋いだ。
「何がって、あれだよ…乗っ取り?」
「何それ?私、体を乗っ取られたって事?」
乗っ取りの言葉に顔を顰め、寄り添う少女の頭を繋いでいない方の手で撫でる。
「そういう事だな。隣のクラスで女子が一人、数日前から昏睡状態らしいぜ。ついでに、今は使われていない空き教室で、呪いの痕跡も見つかってる」
そう言って少年は、どこからか取り出した紙切れをひらひらと振ってみせた。揺れる紙には、黒や赤で何かの記号やら文字やらが書き連ねてあるらしかった。
はあ、と彼女は溜息を吐く。少女の頭を撫でる手を止めないまま、なんで、と疑問を口にした。
「さあ?それは本人に聞かないと分からないな」
「戻って良かった。このままだったら、どうしようかと思って…とっても怖かった」
「ごめんね。心配かけた」
繋ぐ手に少しだけ力を込める少女に優しく声をかけ。大丈夫だよ、と頭を撫で続けていれば、少女の強張った表情が次第に安堵したように笑みを浮かべる。
それに笑みを返してから、少年に視線を移し、睨み付けた。
「あんたのせいな気がするわ。ほんと、迷惑かけないでよね」
「え。助けたのに、なんで俺、怒られてんの?」
「あんたが底なしの馬鹿だからじゃない?」
「ひでぇ。こんな事なら、ほっときゃよかった。どうせ何もしなくても、剥がれていっただろうし」
疲れたように嘆息する少年に、どういう意味かと目線だけで尋ねる。少女も気になるようで、少年へと視線を向けた。
二人の視線を受けて、少年は肩を竦め。
「だって、いくら記憶があろうと、それを元にその体の持ち主になりきろうと、魂が違うんだから。体に合う魂は、一つだけ。適合しない臓器を移植した所で拒絶反応が出るように、体に拒絶されて入り込んだ魂は結局弾かれるだけだ」
だから中身の入れ替えなんて、意味ないんだよな。と。
手にした紙を握りつぶし、心底疲れたように少年は息を吐いた。
20250315 『心のざわめき』
過ぎる風を追うように、空を仰ぐ。
澄んだ青に思いを馳せ、されど記憶の一欠片も胸の内にはない。
これではただのままごとだ。口の端を歪め自嘲し空から視線を逸らすと、静かに目を伏せた。
「今日は、ここにいたのか」
「はい…何かありましたか」
かけられた声に、緩慢に答え視線を向ける。
「いや。何もないが、お前の姿が見えたものでな」
「そうですか」
近づく大男の眉が僅かに下がる。己の態度を気にして、何かあったか、と訪ねる男に首を振る事で否を返した。
何かがあった訳ではない。何もないから、すべてに興味が薄れていく。
それを察したのか、男は苦笑しその大きな手で頭を無造作に撫で回す。男の手に合わせ揺れ動く視界に軽く酔いながら、身を捩りどうにかして男から僅かに距離を取った。
「撫で過ぎです」
「すまん、すまん。お前があまりにも悄気ているのでつい、な…まだ、思い出せるものはないのか」
「……はい」
すみません、と声には出さず呟く。世話になっている屋敷の主人である男は、己の記憶に関して謝罪する事を厭う。
己の記憶の有無が、男ら屋敷のモノを煩わせているわけではない。何度も男に言われた事だ。自身に謝罪が出来ぬ苦痛から逃れる手段とするな、とも。
「また余計な事を考えているな。お前が考えるべき事は一つだけだろうに」
優しくも厳しい男の言葉に、何も言葉を返せず俯いた。
考えるべき事。己の記憶を求める、その理由の根源。
――彼に、逢いたい。
それが誰なのか、記憶のない己には知りようがない。その姿や声だけではなく、彼が人か妖かすらも分からない。
ただ逢いたい。衝動にも似たこの想いに焦がれ、記憶のない己自身を責め立てる。
己が誰であるのか知るよりも、彼を知る事が己には大切だった。
「――彼は誰なのでしょう。どこに行けば逢えるのでしょうか」
「さてな。俺の屋敷の前で倒れていたお前の他には誰もいなかった。正月に集まったモノらに尋ねてもお前を知るモノはおらず、探し人を見つけようがなかったからな」
「すみません」
「言っているだろう。謝るな。手間を取っている訳ではない。お前の探し人の情報を探るのも、屋敷でのお前の働きに対する正当な対価だ」
「…はい」
それ以上何も言葉は出ず。
男の視線から逃れるように、もう一度空を仰ぐ。吹き抜ける風が頬を撫で、慰めのように高く舞い上がる。
――彼は、風と陽に似ている。
何故か、そんな気がした。理由はない。思い出すものもなく、故にこれは焦がれるあまり、己の妄想が形を取ったものである気すらした。
それでも――。
「どうした?」
男の声がどこか遠い。代わりにあどけない幼子のような、年若い少年のような。或いは穏やかな青年のような、愛しさを覚える声が鼓膜の奥で響き出す。
――好きです、――。
柔らかなその響きに、気づけば頬を熱い滴が伝って落ちた。
「何か思い出したのか?」
「――いいえ…いいえ。何も。思い出してはいません。けれど響いてくる。彼の声を、私は知っている」
縁《えにし》を結ばずとも己の元に辿り着く、彼を知っている。真っ直ぐなその眼を、愛しいと口にする声を、暖かなその腕の温もりを、記憶になくとも覚えている。
「不思議です。私は私に関する記憶を何一つ有していないのに。その虚ろから彼が溢れてくる」
「覚えていなくとも、残るものがあるのだろうな。噂で聞いた事がある。ここより遙か北の地で、人間の子が我らのようなモノの眷属として新たな名を与えられた。名により、人間としての過去をなくしたはずの子が、かつての過去を辿るような行動を取る事がある、と」
なくした過去を辿る。そんな事が本当に。
それならば、記憶をなくした己も辿れるだろうか。
「残るものがあるならば、お前はここを出た方が良いな」
「しかし…私、は」
「ここらのモノはお前を知らなかった。ならば北か南か…遠くへ行くのが、記憶を戻すのに必要となるだろう。どちらに行くかは、お前に残るもの次第だ」
「残る、もの」
呟いて、男に視線を向ける。蕩々と流れる涙で滲む視界で、男が柔らかく笑みを浮かべたように見えた。
近づいて腕を伸ばし、頭を撫でられる。先ほどのような力強さはない、幼子をあやすような優しさに、さらに涙が込み上げ男の胸に縋り着いた。
「ありがとう、ございます。本当に、今まで」
「気にするな。こちらこそ助かった。お前がいたから、正月の神事で必要とするモノらに必要な言葉を届ける事が出来た」
無骨な手が涙を拭い、己の体を抱き上げる。
屋敷へと戻るのだろう。静かな足取りに男の優しさが感じられ、肩口に額を預けながら、ありがとう、と小さく繰り返した。
「宴を開こうか。お前の門出を祝わせてくれ」
穏やかな声が告げる。それに頷き答え、顔を上げて周囲を見渡した。
過ぎる木々に、彼の姿を探す。吹き抜ける風の音に彼の声を求め、耳を澄ませた。
彼に逢いたい。記憶にない、彼に。
「時には遊びに来い。いつでも歓迎しよう」
「はい――彼に、逢えたなら、きっと。彼と共に」
その時を想い、微笑んで。高く昇る陽に手をかざす。
――虚ろな己を満たす、愛し君。君を探し、旅に出る。
旅の果てに必ず逢えると信じ、陽を捉えるように強く手を握った。
20250314 『君を探して』
廊下を駆け抜ける。部屋の一つ一つを覗いては匂いを確かめ、耳を澄ませ。
嗅ぎ慣れた、柔らかで甘い匂いがしない。楽しげに笑い、或いは不満に泣く声が聞こえない。不安ばかりが込み上げ、気が急くのに合わせ足を速めた。
――あの子がいない。
今朝の事だ。食事を終えて、片付けをしているほんの僅かな時間で彼女は消えた。慌てて部屋や周囲を探すも、彼女はどこにも見当たらない。
まだ歩く事もままらならぬ彼女が、遠くに行く事は考えられない。この屋敷から出てはいないはず。
それなのに、見つからない。小さな体がどこにも見えない。
まるで最初から、彼女という存在がなかったかのように。
ぎり、と歯を食いしばる。最悪を否定するように首を振り、縁側から庭へと飛び降りた。
もしかしたら庭へと下りているのかもしれない。僅かな可能性に縋るように、辺りを見渡した。
匂いを嗅ぎ、耳を澄ます。
だがやはり、匂いがしない。声が聞こえない。
――あの子の姿が、どこにもない。
「――大丈夫だよ。落ち着いて」
柔らかな声に、知らず俯いていた顔を上げる。
この屋敷の主が、穏やかな微笑みを浮かべて己を見ていた。
「焦っていては、逆に何も見つからないよ」
「でも。だけどっ!」
「大丈夫。あの子は強い。信じてあげないと」
信じる。
その言葉に視界が滲む。息苦しさに声が出ず、代わりに只管首を振って、否を答えた。
彼女を信じていないわけではない。だが違うのだ。
彼女は一瞬で姿を消した。まだ歩けぬ彼女がいなくなったのだ。
それは、つまり。もしかしたら。
「俺っ、俺の、せいだ。俺が、いつまでも、あの子に名前を、つけなかった、から」
名がない、という事は、存在が確立していないという事だ。不安定で、いつ消えてしまってもおかしくはない。
「ずっと、迷ってた。本当に俺が、あの子に名付けてもいいのか、って…迷って、決められなくて。先延ばしにしてたから、あの子が消えたんだ…きっと、そうだ。俺のせいなんだ…!」
無垢な彼女に名付け、縛り付ける役目から逃げていた。
だからなのだろう。存在が保てなくなり、おそらく彼女は消えた。彼女の流す、きらきらと光を反射する透明な涙のように、彼女の存在も透明になってしまったのだ。
目を逸らしていたはずの最悪に、だが一度でも考えてしまった事でそれしか考えられなくなる。力なく座り込み、項垂れた。
「――あの子は消えたりしない。だから、大丈夫だよ」
静かだがはっきりとした声音。宥めるように頭を撫でられ、促されるように深く呼吸をする。
まだ冷たさの残る空気を取り込んで、幾許か落ち着きを取り戻す。離れていく手を追うように、顔を上げ屋敷の主を見た。
何故、消えないと断言出来るのか。その真意を知りたかった。
「何故、大丈夫だと言える」
己の問いに主は優しく、どこか哀しげに微笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「あの子は人間だからね。刹那の時を生きて、そして死ぬ…ボクら妖と違い、存在が消える事はないんだよ」
ああ、と思わず声を漏らす。
彼女は人間だ。純粋で無垢な、人間の赤子だ。
「――そう、か。あの子は人間だった。忘れていた訳ではないけど、人間、なんだ」
「そうだよ。だから消えたりしない…もう一度、最初から探してみよう」
促され、屋敷に戻る。
いなくなった部屋へと向かいながら、ではどこに、と疑問を巡らせ。
――声が、聞こえた。
瞬間、駆け出す。
声はいなくなった部屋の方から、微かに聞こえた泣く声にさらに速度を上げ、飛び込むように部屋へと入る。
「――っ、どこ」
部屋を見渡す。姿は見えないが、確かに声は聞こえている。
ふと、押し入れの襖が僅かに開いている事に気づく。近寄れば、声はそこから聞こえているようだった。
「そこに、いるの?」
泣き声が止んだ。
代わりにあーとか、いーと声が上がり、襖の奥の暗がりから小さな手がぬるり、と出て縁を掴む。縁を支えに、肘、肩が襖の向こうから現れ、そして頭が出て。
襖の縁を掴み立つ彼女が、こちらに視線を向けて、嬉しそうに声を上げて笑った。
「え。う、そ…立ってる」
「人間の成長は、やはり早いね。少し前にはいはいが出来る様になったと思ったのに」
遅れて部屋に現れた主が、どこか寂しさを滲ませて呟いた。
「いーああー」
「ちょっ、危ない!」
こちらに足を踏み出した彼女の体が傾ぐ。
慌てて人間の形を取り、頭を打つ前に彼女の体を抱き上げた。
「まったく…心配、したんだから」
「いーああー!」
己の気持ちなど露知らず、彼女は抱き上げられた事を喜び、きゃらきゃらと笑う。
その無邪気さに苦笑して、心配させてしまった屋敷の主に向き直り、頭を下げた。
「ごめん。迷惑をかけた」
「気にしなくてもいいよ…それより、気になったんだけど」
そう言って、主は彼女へと手を伸ばす。構われた事にさらに喜んで、指を掴んで笑う彼女に微笑みながら、もしかしてだけど、と己を見た。
「この子、さっきからキミを呼んでないかな。白刃《しらは》って、聞こえる気がするよ」
「いああー。いーあーあー!」
「ほら。白刃って呼んでる」
「――確かに、言われて見れば」
彼女を見る。
嬉しいと笑う彼女に、今なら伝えられる気がして息を呑んだ。
本当は随分前から決めていた、彼女の名を。
「そんなに呼ばなくてもここにいるよ。なに――ゆり」
名を呼べば、ぱちり、と目を瞬かせ。花開くように笑う彼女につられて笑えば、上機嫌で名を呼ばれた。
「良い名前だね…それじゃあ、ボクは皆にゆりが見つかった事を伝えにいくよ」
「ありがとう。何から何まで」
彼女の手を離し、笑って部屋を出る主の背に、もう一度頭を下げる。
垂れ下がる髪を掴み、いああ、と拙く上機嫌に名を呼ぶ彼女を見て、今更ながらに疲れが出てきた。
「少し、疲れたな。このままお昼寝をしようか」
「あー!」
手を上げて答える彼女の声を聞きながら、狼の姿へと戻る。そのまま伏せれば、彼女は腹のその小さな体を埋めて目を閉じた。
すぐに規則正しい寝息が聞こえ、同じように目を閉じる。
暖かい。彼女は確かにここにいる。
見えずとも確かに繋がった縁を感じ、小さく笑みを浮かべた。
20250313 『透明』
※おまけ
追いかけてくる、いくつもの気配から身を隠しつつ、布は密かに嘆息する。
何故こんな事になったのか。思い返しても、その理由は全く分からない。
いつからか布は己の在り方に疲れていた。人間を害す事に疲れ、全てに疲れて終を求めていた。
何もかもがどうでもよかった。故に、薄汚れたこの身に憤慨し、綺麗にすると意気込む妖から逃げなかった。
今となっては、それが過ちだったと思うが今更だ。
綺麗になった己の身は、全てに疲れた布に僅かにやる気を取り戻させた。だがそのやる気は妖の次の言葉で霧散し、その場からの逃走へと費やされた。
――鬼の褌《ふんどし》。
確かに今の在り方に疲れてはいたが、しかしその在り方だけは認められなかった。褌として使い古されるくらいならば、今の在り方のままが良い。
そう思った。まだ在り続けられると、皮肉にもやる気が出てきた。
それなのに。
がさがさ、と音がして。布はその長い身を少しでも小さくするためにとぐろを巻く。捕まるわけにはいかないのだ。
己が今の在り方に疲れている噂は、何故か鬼だけでなく他の妖らの間で広まっているらしい。あの妖の元から逃げ出してほどなくして、出会う妖に迫られ、捕まえられそうになり。
ふるり、と身を震わせる。捕まれば、褌にされてしまう恐怖に、幾度目かの何故を自問した。
「――何だ。布か」
がさり、と草を掻き分ける音。大きく身を震わせる布の前に、銀色の毛並みを持つ大きな狼は、抑揚の薄い声で呟いた。
どうやら他の妖と違い、布を褌にするつもりはないようだ。
ほっとして弛緩する布を一瞥し、狼は何かを思案する。そしてだらり、と広がる布の端を咥えると、踵を返し駆け出した。
「ど、どこへ行くんだ?」
「屋敷に戻る。丁度新しい布が欲しかったんだ」
器用に布を咥えながら話す狼の言葉に、嫌な予感が布の脳裏を過ぎる。だが狼には褌など必要ないだろうと思い直し、恐る恐る問いかけた。
「何に、使う気だ?褌は勘弁してくれ」
「褌?する訳ないだろう」
その言葉に安堵の息を漏らす。
しかし――。
「ゆりのおむつにするんだよ。お前、長いし、綺麗だし…切って使えば、いいおむつになる」
「なっ!?いやだ。やめろ。やめてくれ!」
「何も全部使い切るつもりはない。少し位はいいじゃないか」
必死に逃れようと布は暴れるも、狼は気にもかけずにさらに速度を上げる。
「やめてくれ!褌も、おむつもいやだぁぁぁ!」
悲痛な叫びが夜の森に木霊する。
その後、布が無事に逃げ出せたのか、それともおむつや褌になったのかは。
狼と布だけが知る。
木の枝に掛かる布を見上げ、どうしたものかと立ち尽くす。
随分と薄汚れた布だ。元は白であっただろうそれは、何かの帯であったのだろうか。端々がほつれ黄ばんでおり、誰もがそのみすぼらしさに顔を顰める事であろう。
「助けは必要?」
眉を顰めながら、一応問いかける。
ただの布きれであれば、気にもかけずに通り過ぎただろう。僅かでも感じてしまった気配に、己の運のなさを密かに嘆いた。
「いらん。このまま朽ちさせてくれ」
静かな声が答える。枝の上で布が僅かに身じろぎ、茶色く汚れた頭であろう部分を擡げた。
そうか、とこの場を去る事が、面倒のない選択だろう。実際、逸らした視線がこちらに近づく影を認識しなければ、そうしていたはずだった。
「こんなとこにいるなんて珍しいな。何を見て…なんだ、あれは」
今日は本当に運が悪い。
布を視界に入れ険を帯び出す彼の目を見て、続く言葉を察し静かに嘆息した。
「汚いっ!何をどうすればそこまで汚せるんだ。愚かモノめ。貴様がこうしてその悍ましい姿を晒している事で、どれだけ周囲を苦しめていると思っているのか…おい!降りてこい、そこの布きれ。降りぬというならば、無理矢理にでも引きずり下ろしてやるぞ!」
彼の言葉に、布はもう反応すらせず。
益々苛立ちを滲ませる彼が、怒りに吊り上げた目をこちらに向けて、布に向けて指を差した。
「下ろしてこい」
「……分かった」
ここで渋れば、その怒りの矛先がこちらに向きかねない。肩を竦め、布を見上げた。
腕を伸ばし、折り鶴を放つ。萌黄色した鶴は優雅に羽を羽ばたかせ布の元まで辿り着くと、布の端を器用に尾に巻き付け戻ってくる。
「ご苦労様」
鶴の頭を一撫ですれば、くるりと宙を一回りして袂《たもと》の中へ戻っていく。それを見届け、だらりと垂れ下がり地面に広がる布の端を彼に手渡した。
「ああ、もう!しゃんとしろ!地面に触れるな。余計に汚れるではないか」
「終わらせてくれ。もう、疲れた」
彼の叱責に、布は力なく答える。草臥れたその様は哀愁を帯びて、無意識に眉を寄せた。
「終を求めるというのであれば、それなりに周りに配慮しろ。貴様のその只管に不快な姿を晒すくらいならば、いっそ燃えて跡形もなくなくなってしまえばよかったのだ。それを怠った貴様に、最早選択肢などあると思うな」
いっそ清々しいまでに布の言葉を両断し、彼は来た道を引き返していく。視線だけで促され、地面に広がる部分を回収しながら後に続く。至極面倒だが、彼を怒らせる訳にはいかない。
「どこへ、行く?」
「俺様の屋敷に決まっているだろう。貴様の見るにも耐えない薄汚さを、徹底的に綺麗にしてやる」
「――私の、受け継いだ屋敷、なんだけど」
「何か言ったか?」
「…別に、何も」
鋭い声音に俯き、首を振る。屋敷の管理の殆どを任せてしまっているため、強く否定出来ない事が悩ましい。
手にした布の塊を見下ろす。彼の言葉に震える布は、まるで泣いているようにも見えた。
「終わらせてくれ。これ以上、人間を害したくはない」
呟く声に、思い出す。
ここより南の方で、夜空を舞う白い布が人を襲うという伝承があったはずだ。時には人を連れ去り、時には命を奪う。
何かの切っ掛けで人の望みに応えた布が、長い時の果てにその望みの通りに在る事を厭うようになったのか。
「後生だ。どうか」
「煩い。貴様の話なぞ、聞く価値もないわ!」
だがやはり、彼は容赦なく布の懇願を切り捨てる。苛立たしげに強く布を握り締め、ひぃ、と布がか細い悲鳴を上げた。
「おとなしく、俺様に綺麗にされろ。その後で思う存分に嘆けば良い。そこの人間を貸してやるから、好きに使え」
「何、勝手に」
「何か言ったか?」
「………別に」
くそじじい、と心の中だけで悪態を吐く。元は風呂を縄張りとし、垢を舐め取るだけの存在だったろうに。何故こんなになってしまったのか、と考え、その原因が己の自堕落さに端を発する事に気づいて、肩を落とした。
炊事洗濯。すべてを任せてしまっている今、文句など到底言えない。
「人間ならば、貴様の新しい在り方も示す事が出来るだろうよ」
「新しい、在り方…そんな事が」
「可能だろう。貴様の今までの在り方は終わり、まったく異なるモノに成り、始めるのもその人間ならば容易い事だ」
「また、無茶を言う」
「事実だ。術師の血を引く貴様にとって、見立ては得意だろう」
まあ、確かに。
そうは思えど、口には出さず。彼もそれ以上言う事はなく、布もまた無言のままで屋敷へと向かう。
気づけば、屋敷の前まで着いてしまった。逃げぬよう握りしめた布の悲鳴など、彼は聞こえぬとばかりに屋敷に入り、真っ直ぐに風呂場へと向かう。
風呂場に布を投げ入れて、彼に言われるがまま必要なものを取りに屋敷内を駆け回る。
時折聞こえる、悲痛な叫びを彼のように聞こえない振りをして。
本当に今日は厄日だと、深く深く嘆息した。
見違える程真白く綺麗になった布を見て、彼はようやく満足そうに頷いた。
彼の所業に泣き叫んでいた布も、綺麗な白を見て満更でもない様子だ。
「――さて、どうするか」
「何が?」
彼の指示で後片付けをしながら、首を傾げる。
どうするもなにも、彼は終わった後の事に関知するつもりはないのではなかっただろうか。
「貴様。今の在り方が嫌なのだろう?今し方思い出したのだが、どこぞの鬼が布を求めている。新しい在り方に丁度良いのではないか?」
「新しい…在り方」
何度も繰り返し言葉にして悩む布を横目に、嫌な予感に彼を見る。少し前とは全く異なる穏やかな目は、純粋に布を想っているようで、どこか心苦しさを覚えながらも、疑問を口にする。
「その、新しい在り方って?」
「うむ。あれだ…活きの良い、新しい褌《ふんどし》を奴めは求めていたぞ」
「褌っ!?」
その言葉に悲壮な叫びを上げて、布は室内を暴れ回る。
やっぱりな、という気持ちで窓を開ければ、慌てて外へ出ていく布を見送って、何も言わずに窓を閉めた。
「何だ?いくら赤い褌を求めていたとはいえ、別に白を赤くするまでは、奴もしないと思うが」
「そうじゃない。絶対に問題はそこじゃないと思う」
眉を下げ、困惑する彼に溜息を吐いて首を振る。
外を見れど、そこに布の姿はもうどこにもなく。
無駄に疲れた一日に、思い出したかのように腹の虫がきゅう、と鳴った。
20250312 『終わり、また初まる、』