sairo

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廊下を駆け抜ける。部屋の一つ一つを覗いては匂いを確かめ、耳を澄ませ。
嗅ぎ慣れた、柔らかで甘い匂いがしない。楽しげに笑い、或いは不満に泣く声が聞こえない。不安ばかりが込み上げ、気が急くのに合わせ足を速めた。

――あの子がいない。

今朝の事だ。食事を終えて、片付けをしているほんの僅かな時間で彼女は消えた。慌てて部屋や周囲を探すも、彼女はどこにも見当たらない。
まだ歩く事もままらならぬ彼女が、遠くに行く事は考えられない。この屋敷から出てはいないはず。
それなのに、見つからない。小さな体がどこにも見えない。
まるで最初から、彼女という存在がなかったかのように。
ぎり、と歯を食いしばる。最悪を否定するように首を振り、縁側から庭へと飛び降りた。
もしかしたら庭へと下りているのかもしれない。僅かな可能性に縋るように、辺りを見渡した。
匂いを嗅ぎ、耳を澄ます。
だがやはり、匂いがしない。声が聞こえない。


――あの子の姿が、どこにもない。


「――大丈夫だよ。落ち着いて」

柔らかな声に、知らず俯いていた顔を上げる。
この屋敷の主が、穏やかな微笑みを浮かべて己を見ていた。

「焦っていては、逆に何も見つからないよ」
「でも。だけどっ!」
「大丈夫。あの子は強い。信じてあげないと」

信じる。
その言葉に視界が滲む。息苦しさに声が出ず、代わりに只管首を振って、否を答えた。
彼女を信じていないわけではない。だが違うのだ。
彼女は一瞬で姿を消した。まだ歩けぬ彼女がいなくなったのだ。
それは、つまり。もしかしたら。

「俺っ、俺の、せいだ。俺が、いつまでも、あの子に名前を、つけなかった、から」

名がない、という事は、存在が確立していないという事だ。不安定で、いつ消えてしまってもおかしくはない。

「ずっと、迷ってた。本当に俺が、あの子に名付けてもいいのか、って…迷って、決められなくて。先延ばしにしてたから、あの子が消えたんだ…きっと、そうだ。俺のせいなんだ…!」

無垢な彼女に名付け、縛り付ける役目から逃げていた。
だからなのだろう。存在が保てなくなり、おそらく彼女は消えた。彼女の流す、きらきらと光を反射する透明な涙のように、彼女の存在も透明になってしまったのだ。
目を逸らしていたはずの最悪に、だが一度でも考えてしまった事でそれしか考えられなくなる。力なく座り込み、項垂れた。


「――あの子は消えたりしない。だから、大丈夫だよ」

静かだがはっきりとした声音。宥めるように頭を撫でられ、促されるように深く呼吸をする。
まだ冷たさの残る空気を取り込んで、幾許か落ち着きを取り戻す。離れていく手を追うように、顔を上げ屋敷の主を見た。
何故、消えないと断言出来るのか。その真意を知りたかった。

「何故、大丈夫だと言える」

己の問いに主は優しく、どこか哀しげに微笑みを浮かべ、静かに口を開いた。

「あの子は人間だからね。刹那の時を生きて、そして死ぬ…ボクら妖と違い、存在が消える事はないんだよ」

ああ、と思わず声を漏らす。
彼女は人間だ。純粋で無垢な、人間の赤子だ。

「――そう、か。あの子は人間だった。忘れていた訳ではないけど、人間、なんだ」
「そうだよ。だから消えたりしない…もう一度、最初から探してみよう」

促され、屋敷に戻る。
いなくなった部屋へと向かいながら、ではどこに、と疑問を巡らせ。

――声が、聞こえた。

瞬間、駆け出す。
声はいなくなった部屋の方から、微かに聞こえた泣く声にさらに速度を上げ、飛び込むように部屋へと入る。

「――っ、どこ」

部屋を見渡す。姿は見えないが、確かに声は聞こえている。
ふと、押し入れの襖が僅かに開いている事に気づく。近寄れば、声はそこから聞こえているようだった。

「そこに、いるの?」

泣き声が止んだ。
代わりにあーとか、いーと声が上がり、襖の奥の暗がりから小さな手がぬるり、と出て縁を掴む。縁を支えに、肘、肩が襖の向こうから現れ、そして頭が出て。
襖の縁を掴み立つ彼女が、こちらに視線を向けて、嬉しそうに声を上げて笑った。

「え。う、そ…立ってる」
「人間の成長は、やはり早いね。少し前にはいはいが出来る様になったと思ったのに」

遅れて部屋に現れた主が、どこか寂しさを滲ませて呟いた。

「いーああー」
「ちょっ、危ない!」

こちらに足を踏み出した彼女の体が傾ぐ。
慌てて人間の形を取り、頭を打つ前に彼女の体を抱き上げた。

「まったく…心配、したんだから」
「いーああー!」

己の気持ちなど露知らず、彼女は抱き上げられた事を喜び、きゃらきゃらと笑う。
その無邪気さに苦笑して、心配させてしまった屋敷の主に向き直り、頭を下げた。

「ごめん。迷惑をかけた」
「気にしなくてもいいよ…それより、気になったんだけど」

そう言って、主は彼女へと手を伸ばす。構われた事にさらに喜んで、指を掴んで笑う彼女に微笑みながら、もしかしてだけど、と己を見た。

「この子、さっきからキミを呼んでないかな。白刃《しらは》って、聞こえる気がするよ」
「いああー。いーあーあー!」
「ほら。白刃って呼んでる」
「――確かに、言われて見れば」

彼女を見る。
嬉しいと笑う彼女に、今なら伝えられる気がして息を呑んだ。
本当は随分前から決めていた、彼女の名を。

「そんなに呼ばなくてもここにいるよ。なに――ゆり」

名を呼べば、ぱちり、と目を瞬かせ。花開くように笑う彼女につられて笑えば、上機嫌で名を呼ばれた。

「良い名前だね…それじゃあ、ボクは皆にゆりが見つかった事を伝えにいくよ」
「ありがとう。何から何まで」

彼女の手を離し、笑って部屋を出る主の背に、もう一度頭を下げる。
垂れ下がる髪を掴み、いああ、と拙く上機嫌に名を呼ぶ彼女を見て、今更ながらに疲れが出てきた。

「少し、疲れたな。このままお昼寝をしようか」
「あー!」

手を上げて答える彼女の声を聞きながら、狼の姿へと戻る。そのまま伏せれば、彼女は腹のその小さな体を埋めて目を閉じた。
すぐに規則正しい寝息が聞こえ、同じように目を閉じる。
暖かい。彼女は確かにここにいる。
見えずとも確かに繋がった縁を感じ、小さく笑みを浮かべた。



20250313 『透明』




※おまけ

追いかけてくる、いくつもの気配から身を隠しつつ、布は密かに嘆息する。
何故こんな事になったのか。思い返しても、その理由は全く分からない。
いつからか布は己の在り方に疲れていた。人間を害す事に疲れ、全てに疲れて終を求めていた。
何もかもがどうでもよかった。故に、薄汚れたこの身に憤慨し、綺麗にすると意気込む妖から逃げなかった。
今となっては、それが過ちだったと思うが今更だ。
綺麗になった己の身は、全てに疲れた布に僅かにやる気を取り戻させた。だがそのやる気は妖の次の言葉で霧散し、その場からの逃走へと費やされた。

――鬼の褌《ふんどし》。

確かに今の在り方に疲れてはいたが、しかしその在り方だけは認められなかった。褌として使い古されるくらいならば、今の在り方のままが良い。
そう思った。まだ在り続けられると、皮肉にもやる気が出てきた。
それなのに。

がさがさ、と音がして。布はその長い身を少しでも小さくするためにとぐろを巻く。捕まるわけにはいかないのだ。
己が今の在り方に疲れている噂は、何故か鬼だけでなく他の妖らの間で広まっているらしい。あの妖の元から逃げ出してほどなくして、出会う妖に迫られ、捕まえられそうになり。
ふるり、と身を震わせる。捕まれば、褌にされてしまう恐怖に、幾度目かの何故を自問した。


「――何だ。布か」

がさり、と草を掻き分ける音。大きく身を震わせる布の前に、銀色の毛並みを持つ大きな狼は、抑揚の薄い声で呟いた。
どうやら他の妖と違い、布を褌にするつもりはないようだ。
ほっとして弛緩する布を一瞥し、狼は何かを思案する。そしてだらり、と広がる布の端を咥えると、踵を返し駆け出した。

「ど、どこへ行くんだ?」
「屋敷に戻る。丁度新しい布が欲しかったんだ」

器用に布を咥えながら話す狼の言葉に、嫌な予感が布の脳裏を過ぎる。だが狼には褌など必要ないだろうと思い直し、恐る恐る問いかけた。

「何に、使う気だ?褌は勘弁してくれ」
「褌?する訳ないだろう」

その言葉に安堵の息を漏らす。
しかし――。

「ゆりのおむつにするんだよ。お前、長いし、綺麗だし…切って使えば、いいおむつになる」
「なっ!?いやだ。やめろ。やめてくれ!」
「何も全部使い切るつもりはない。少し位はいいじゃないか」

必死に逃れようと布は暴れるも、狼は気にもかけずにさらに速度を上げる。

「やめてくれ!褌も、おむつもいやだぁぁぁ!」

悲痛な叫びが夜の森に木霊する。
その後、布が無事に逃げ出せたのか、それともおむつや褌になったのかは。

狼と布だけが知る。

3/13/2025, 2:02:29 PM