sairo

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甘い香りが鼻腔を擽り、目が覚めた。
何の香りだろうか。体を起こし辺りを見回す。

「……木?」

目を擦る。何度か瞬きをしてみるが、目の前の景色は変わらない。
木だ。見渡す限りの背の高い木々に、混乱して立ち上がる。
見覚えのない場所だ。寝る前の記憶を思い返しても、ここに来た覚えはない。
ぐるりと辺りを見ながら、徐に頬を抓る。僅かに感じる痛みに眉を寄せ、溜息を吐いた。
どうやら、夢ではないらしい。
目線を下ろし、地面を見る。細々と続く踏み固められた獣道が二本。ここに来た記憶が全くないため、どちらが家に帰れる道なのかは分からない。
肩を落とし、もう一度溜息を吐いて。
ふと、甘い匂いがしている事に気づく。

「何?花の、香り…?」

人工的な甘味料の匂いではない自然の匂いに、一歩だけ足を進め。立ち止まり、悩む。
この匂いの先が、帰り道だとは限らない。

「……ま、いいか。どっちかには行かないといけなかったし」

もう一本の獣道を見て、匂いのする方の獣道に視線を戻し、苦笑する。
違うとしても、その時は戻ればいい。そう楽観的な思考で、深く考えずに匂いを辿り歩き出した。





道の先。開けた場所にその巨木はあった。
方々に伸ばした枝には青々とした葉が茂り。不思議な色をした花が、風に楽しげに揺れている。

――楽しげに声を上げて笑いながら、揺れていた。

息を呑む。立ち止まる足が、来た道を戻るべきかを逡巡した。
この先に進んだとして、家に辿り着く事はないだろう。
戻るべきだ。そう思っても、足は僅かにも動く事なく、視線は咲く花から逸らす事が出来ない。


「どうされました」

柔らかな女性の声。近づく足音に、ようやく視線を下ろす。

「ご気分が優れないのでしょうか」

薄紅色の着物を着た、憂いタ表情の美しい女性と目が合った。


「だ、大丈夫です。ちょっと道に迷ったというか、見た事がない花に驚いたというか」

しどろもどろになりながら伝えれば、女性はああ、と得心した表情で頷き、背後の木を仰ぎ見る。
風が吹いて花を揺らす度に笑い声が響き、それにつられたのか女性がふふ、と微かに笑った。

「元は海の向こうの大陸の種のようです。海を漂いここへ流れ着いたのを、時折世話していたのですが…どうやらここの土と相性が良く、立派に育ちましたね」
「そう、ですか」
「近くでご覧になられますか」

振り返り尋ねる女性に、いやとは言えず。曖昧に笑みを浮かべて頷いた。
歩き出す女性の、少し後ろについて歩く。近づく程に強くなる匂いに、何とも言えない気持ちで何気なく木を見上げた。

――目が、合った。

よく見れば、それは花ではなかった。いや、花なのかもしれないが、それは人の頭によく似ていた。
黒い目が瞬きもせずに、こちらを見下ろしている。思わず立ち止まってその目を見返していれば、視界の隅で、揺れるいくつもの人の花が、くるりと向きを変えこちらを見ていた。

「え…誰?」
「誰、とは適切ではありません。人間の頭部によく似ていますが、これはただの花です」

女性曰くのただの花は、自身が声をかけられたと思ったのか、声を上げて笑い出す。

「花って、笑うんですね」
「楽しくて嬉しいのでしょう。ここを訪れるものは殆どおりませんから」
「――そう、ですか」

嬉しいのか、と花を見上げて呟けば、さらに花は声を上げて笑い。
からから、きゃらきゃら、と。笑う度に大きく揺れて。
その揺れに耐えきれなくなったのか。ぷつん、と小さく音を立てて、花が地面へと落ちていく。

「あ、落ちた」
「笑いすぎると萎んで、落ちてしまうのです」

淡々と説明しながら、女性は落ちた花の元へと近づいて行く。身を屈め、花を手にするとこちらを見つめ微笑んだ。

「こちらへどうぞ」

促され、微かに息を吐いてから女性の元へと歩みを進める。微笑む女性から花だったものを手渡されて、反射で受け取り眉を寄せた。

「あの…これ、は…?」
「差し上げます。これがあれば家路も見つかる事でしょう」
「それ、って。どういう意味。ですか?」

花に視線を向けながら呟く。木に咲いていたとは思えぬほど黒く小さな丸い物体の扱いに、どうすれば良いのか分からずさらに眉が寄った。

「悩み、迷っているのでしょう。焦るから帰り道が分からぬのです。落ちた花ではありますが、迷いを取り除く事くらいは出来るでしょう」
「…悩み、迷う」

呟く言葉に、頭の中で心当たりが腰に手を当てて嘆息する。細部まではっきりと思い出せるそれには、苦笑するしかない。
思い出してしまった。ずっと悩んでいた。不確定な明日に迷い、未来の別れに怖がってもいた。
家に帰りたくない訳ではないのに一向に焦る事がないのも、こうして寄り道を拒まないのも、その心当たりのせいなのか。

「食すと良いでしょう。そうすればすぐに戻れます」
「食べるの、これ?…本当に大丈夫?」
「はい。害はありません」

そう言われてしまえば、仕方がない。恐る恐る花だった黒い塊に、口を付ける。
さく、と。柔らかな口当たり。瞬間に広がる甘くて苦い味。蜂蜜とバターと、黒く焦げたパンケーキの味。
思わず目を見開いた。
この味を知っている。懐かしさに視界が滲み出す。
忘れていた味だ。けれど忘れられない味でもある。
家族が皆いなくなって、一人きりで必死に生きていた子供の頃。失いたくなくて、別れが怖くて新しく関係を築こうともせず、一人で籠もっていた時に。
頑なな自分のため、彼が風呂場から初めて出て見よう見まねで作ってくれた――。

「ごきげんよう。お気を付けて」

女性の声を遠くに聞きながら、夢中で食べる。甘さと苦さに混じり、しょっぱさを感じながら、只管に食べ続けていた。





「おい。いつまで寝ているんだ!」

べしん、と鈍い衝動に、目が覚める。
慌てて飛び起きれば、眉間に皺を寄せぞうきんを片手に持った彼の不機嫌な目と視線が合った。

「さっさと起きないか。とっくに日は昇りきっているぞ!」
「あ、ごめん」

反射的に謝罪して、急いで布団から出る。
布団をしまおうとするが、そのの前に彼に布団を取られてしまった。

「え?ちょっと」
「今日は天気がいいからな」

どうやら布団を干すようだ。

「さっさと着替えて、顔を洗ってこい。そのみっともない泣き顔を見て、屋敷のやつらがまた煩くなるぞ」

こちらに視線を向けずにそれだけを告げ、彼は布団と共に部屋を出る。
一人残され。徐に頬に触れれば、冷たく湿った涙の跡が指先を僅かに濡らし、訳もなく肩が微かに震えた。

「泣い、てる?」

何か悪い夢でも見ただろうか。思い出そうとしても、うまく思い出す事が出来ない。
目尻を少し乱暴に擦り、意識を切り替えるように首を振る。思い出せないのなら、そのまま忘れてしまうのが一番だろう。
ふと、どこからか甘い香りがした。
庭からだろうか。花のような瑞々しい甘い香りに誘われて、急いで着替えを済ませて部屋を出る。
洗面所へと向かいながら、目を細めて香りを辿る。優しく仄かな香りに、無意識に笑みを浮かべて。

「春が、近いのかな」

今頃、庭で布団を干しているであろう彼を思う。いつの間にか自分よりも家事が得意になってしまった彼に、花を贈るのはどうかと考えて、まだ早いかと一人笑う。
それよりも早く準備を整えて、彼を手伝うのがいいだろう。久しぶりに昼食を作るのも悪くない。
花の香りに酔ってしまったのか。今日はいつもより素直になれそうだ。

「さ。顔を洗わないと」

呟いて、駆け出した。どこからか廊下は走らない、と誰かの怒る声をごめん、と返しつつ、それでも速度を緩める事はせず。
今日のこれからに期待を膨らませ、花の香りと共に廊下を駆け抜けた。



20250316 『花の香りと共に』

3/16/2025, 2:35:44 PM