木の枝に掛かる布を見上げ、どうしたものかと立ち尽くす。
随分と薄汚れた布だ。元は白であっただろうそれは、何かの帯であったのだろうか。端々がほつれ黄ばんでおり、誰もがそのみすぼらしさに顔を顰める事であろう。
「助けは必要?」
眉を顰めながら、一応問いかける。
ただの布きれであれば、気にもかけずに通り過ぎただろう。僅かでも感じてしまった気配に、己の運のなさを密かに嘆いた。
「いらん。このまま朽ちさせてくれ」
静かな声が答える。枝の上で布が僅かに身じろぎ、茶色く汚れた頭であろう部分を擡げた。
そうか、とこの場を去る事が、面倒のない選択だろう。実際、逸らした視線がこちらに近づく影を認識しなければ、そうしていたはずだった。
「こんなとこにいるなんて珍しいな。何を見て…なんだ、あれは」
今日は本当に運が悪い。
布を視界に入れ険を帯び出す彼の目を見て、続く言葉を察し静かに嘆息した。
「汚いっ!何をどうすればそこまで汚せるんだ。愚かモノめ。貴様がこうしてその悍ましい姿を晒している事で、どれだけ周囲を苦しめていると思っているのか…おい!降りてこい、そこの布きれ。降りぬというならば、無理矢理にでも引きずり下ろしてやるぞ!」
彼の言葉に、布はもう反応すらせず。
益々苛立ちを滲ませる彼が、怒りに吊り上げた目をこちらに向けて、布に向けて指を差した。
「下ろしてこい」
「……分かった」
ここで渋れば、その怒りの矛先がこちらに向きかねない。肩を竦め、布を見上げた。
腕を伸ばし、折り鶴を放つ。萌黄色した鶴は優雅に羽を羽ばたかせ布の元まで辿り着くと、布の端を器用に尾に巻き付け戻ってくる。
「ご苦労様」
鶴の頭を一撫ですれば、くるりと宙を一回りして袂《たもと》の中へ戻っていく。それを見届け、だらりと垂れ下がり地面に広がる布の端を彼に手渡した。
「ああ、もう!しゃんとしろ!地面に触れるな。余計に汚れるではないか」
「終わらせてくれ。もう、疲れた」
彼の叱責に、布は力なく答える。草臥れたその様は哀愁を帯びて、無意識に眉を寄せた。
「終を求めるというのであれば、それなりに周りに配慮しろ。貴様のその只管に不快な姿を晒すくらいならば、いっそ燃えて跡形もなくなくなってしまえばよかったのだ。それを怠った貴様に、最早選択肢などあると思うな」
いっそ清々しいまでに布の言葉を両断し、彼は来た道を引き返していく。視線だけで促され、地面に広がる部分を回収しながら後に続く。至極面倒だが、彼を怒らせる訳にはいかない。
「どこへ、行く?」
「俺様の屋敷に決まっているだろう。貴様の見るにも耐えない薄汚さを、徹底的に綺麗にしてやる」
「――私の、受け継いだ屋敷、なんだけど」
「何か言ったか?」
「…別に、何も」
鋭い声音に俯き、首を振る。屋敷の管理の殆どを任せてしまっているため、強く否定出来ない事が悩ましい。
手にした布の塊を見下ろす。彼の言葉に震える布は、まるで泣いているようにも見えた。
「終わらせてくれ。これ以上、人間を害したくはない」
呟く声に、思い出す。
ここより南の方で、夜空を舞う白い布が人を襲うという伝承があったはずだ。時には人を連れ去り、時には命を奪う。
何かの切っ掛けで人の望みに応えた布が、長い時の果てにその望みの通りに在る事を厭うようになったのか。
「後生だ。どうか」
「煩い。貴様の話なぞ、聞く価値もないわ!」
だがやはり、彼は容赦なく布の懇願を切り捨てる。苛立たしげに強く布を握り締め、ひぃ、と布がか細い悲鳴を上げた。
「おとなしく、俺様に綺麗にされろ。その後で思う存分に嘆けば良い。そこの人間を貸してやるから、好きに使え」
「何、勝手に」
「何か言ったか?」
「………別に」
くそじじい、と心の中だけで悪態を吐く。元は風呂を縄張りとし、垢を舐め取るだけの存在だったろうに。何故こんなになってしまったのか、と考え、その原因が己の自堕落さに端を発する事に気づいて、肩を落とした。
炊事洗濯。すべてを任せてしまっている今、文句など到底言えない。
「人間ならば、貴様の新しい在り方も示す事が出来るだろうよ」
「新しい、在り方…そんな事が」
「可能だろう。貴様の今までの在り方は終わり、まったく異なるモノに成り、始めるのもその人間ならば容易い事だ」
「また、無茶を言う」
「事実だ。術師の血を引く貴様にとって、見立ては得意だろう」
まあ、確かに。
そうは思えど、口には出さず。彼もそれ以上言う事はなく、布もまた無言のままで屋敷へと向かう。
気づけば、屋敷の前まで着いてしまった。逃げぬよう握りしめた布の悲鳴など、彼は聞こえぬとばかりに屋敷に入り、真っ直ぐに風呂場へと向かう。
風呂場に布を投げ入れて、彼に言われるがまま必要なものを取りに屋敷内を駆け回る。
時折聞こえる、悲痛な叫びを彼のように聞こえない振りをして。
本当に今日は厄日だと、深く深く嘆息した。
見違える程真白く綺麗になった布を見て、彼はようやく満足そうに頷いた。
彼の所業に泣き叫んでいた布も、綺麗な白を見て満更でもない様子だ。
「――さて、どうするか」
「何が?」
彼の指示で後片付けをしながら、首を傾げる。
どうするもなにも、彼は終わった後の事に関知するつもりはないのではなかっただろうか。
「貴様。今の在り方が嫌なのだろう?今し方思い出したのだが、どこぞの鬼が布を求めている。新しい在り方に丁度良いのではないか?」
「新しい…在り方」
何度も繰り返し言葉にして悩む布を横目に、嫌な予感に彼を見る。少し前とは全く異なる穏やかな目は、純粋に布を想っているようで、どこか心苦しさを覚えながらも、疑問を口にする。
「その、新しい在り方って?」
「うむ。あれだ…活きの良い、新しい褌《ふんどし》を奴めは求めていたぞ」
「褌っ!?」
その言葉に悲壮な叫びを上げて、布は室内を暴れ回る。
やっぱりな、という気持ちで窓を開ければ、慌てて外へ出ていく布を見送って、何も言わずに窓を閉めた。
「何だ?いくら赤い褌を求めていたとはいえ、別に白を赤くするまでは、奴もしないと思うが」
「そうじゃない。絶対に問題はそこじゃないと思う」
眉を下げ、困惑する彼に溜息を吐いて首を振る。
外を見れど、そこに布の姿はもうどこにもなく。
無駄に疲れた一日に、思い出したかのように腹の虫がきゅう、と鳴った。
20250312 『終わり、また初まる、』
3/12/2025, 1:26:38 PM