過ぎる風を追うように、空を仰ぐ。
澄んだ青に思いを馳せ、されど記憶の一欠片も胸の内にはない。
これではただのままごとだ。口の端を歪め自嘲し空から視線を逸らすと、静かに目を伏せた。
「今日は、ここにいたのか」
「はい…何かありましたか」
かけられた声に、緩慢に答え視線を向ける。
「いや。何もないが、お前の姿が見えたものでな」
「そうですか」
近づく大男の眉が僅かに下がる。己の態度を気にして、何かあったか、と訪ねる男に首を振る事で否を返した。
何かがあった訳ではない。何もないから、すべてに興味が薄れていく。
それを察したのか、男は苦笑しその大きな手で頭を無造作に撫で回す。男の手に合わせ揺れ動く視界に軽く酔いながら、身を捩りどうにかして男から僅かに距離を取った。
「撫で過ぎです」
「すまん、すまん。お前があまりにも悄気ているのでつい、な…まだ、思い出せるものはないのか」
「……はい」
すみません、と声には出さず呟く。世話になっている屋敷の主人である男は、己の記憶に関して謝罪する事を厭う。
己の記憶の有無が、男ら屋敷のモノを煩わせているわけではない。何度も男に言われた事だ。自身に謝罪が出来ぬ苦痛から逃れる手段とするな、とも。
「また余計な事を考えているな。お前が考えるべき事は一つだけだろうに」
優しくも厳しい男の言葉に、何も言葉を返せず俯いた。
考えるべき事。己の記憶を求める、その理由の根源。
――彼に、逢いたい。
それが誰なのか、記憶のない己には知りようがない。その姿や声だけではなく、彼が人か妖かすらも分からない。
ただ逢いたい。衝動にも似たこの想いに焦がれ、記憶のない己自身を責め立てる。
己が誰であるのか知るよりも、彼を知る事が己には大切だった。
「――彼は誰なのでしょう。どこに行けば逢えるのでしょうか」
「さてな。俺の屋敷の前で倒れていたお前の他には誰もいなかった。正月に集まったモノらに尋ねてもお前を知るモノはおらず、探し人を見つけようがなかったからな」
「すみません」
「言っているだろう。謝るな。手間を取っている訳ではない。お前の探し人の情報を探るのも、屋敷でのお前の働きに対する正当な対価だ」
「…はい」
それ以上何も言葉は出ず。
男の視線から逃れるように、もう一度空を仰ぐ。吹き抜ける風が頬を撫で、慰めのように高く舞い上がる。
――彼は、風と陽に似ている。
何故か、そんな気がした。理由はない。思い出すものもなく、故にこれは焦がれるあまり、己の妄想が形を取ったものである気すらした。
それでも――。
「どうした?」
男の声がどこか遠い。代わりにあどけない幼子のような、年若い少年のような。或いは穏やかな青年のような、愛しさを覚える声が鼓膜の奥で響き出す。
――好きです、――。
柔らかなその響きに、気づけば頬を熱い滴が伝って落ちた。
「何か思い出したのか?」
「――いいえ…いいえ。何も。思い出してはいません。けれど響いてくる。彼の声を、私は知っている」
縁《えにし》を結ばずとも己の元に辿り着く、彼を知っている。真っ直ぐなその眼を、愛しいと口にする声を、暖かなその腕の温もりを、記憶になくとも覚えている。
「不思議です。私は私に関する記憶を何一つ有していないのに。その虚ろから彼が溢れてくる」
「覚えていなくとも、残るものがあるのだろうな。噂で聞いた事がある。ここより遙か北の地で、人間の子が我らのようなモノの眷属として新たな名を与えられた。名により、人間としての過去をなくしたはずの子が、かつての過去を辿るような行動を取る事がある、と」
なくした過去を辿る。そんな事が本当に。
それならば、記憶をなくした己も辿れるだろうか。
「残るものがあるならば、お前はここを出た方が良いな」
「しかし…私、は」
「ここらのモノはお前を知らなかった。ならば北か南か…遠くへ行くのが、記憶を戻すのに必要となるだろう。どちらに行くかは、お前に残るもの次第だ」
「残る、もの」
呟いて、男に視線を向ける。蕩々と流れる涙で滲む視界で、男が柔らかく笑みを浮かべたように見えた。
近づいて腕を伸ばし、頭を撫でられる。先ほどのような力強さはない、幼子をあやすような優しさに、さらに涙が込み上げ男の胸に縋り着いた。
「ありがとう、ございます。本当に、今まで」
「気にするな。こちらこそ助かった。お前がいたから、正月の神事で必要とするモノらに必要な言葉を届ける事が出来た」
無骨な手が涙を拭い、己の体を抱き上げる。
屋敷へと戻るのだろう。静かな足取りに男の優しさが感じられ、肩口に額を預けながら、ありがとう、と小さく繰り返した。
「宴を開こうか。お前の門出を祝わせてくれ」
穏やかな声が告げる。それに頷き答え、顔を上げて周囲を見渡した。
過ぎる木々に、彼の姿を探す。吹き抜ける風の音に彼の声を求め、耳を澄ませた。
彼に逢いたい。記憶にない、彼に。
「時には遊びに来い。いつでも歓迎しよう」
「はい――彼に、逢えたなら、きっと。彼と共に」
その時を想い、微笑んで。高く昇る陽に手をかざす。
――虚ろな己を満たす、愛し君。君を探し、旅に出る。
旅の果てに必ず逢えると信じ、陽を捉えるように強く手を握った。
20250314 『君を探して』
3/14/2025, 1:28:05 PM