木の枝に掛かる布を見上げ、どうしたものかと立ち尽くす。
随分と薄汚れた布だ。元は白であっただろうそれは、何かの帯であったのだろうか。端々がほつれ黄ばんでおり、誰もがそのみすぼらしさに顔を顰める事であろう。
「助けは必要?」
眉を顰めながら、一応問いかける。
ただの布きれであれば、気にもかけずに通り過ぎただろう。僅かでも感じてしまった気配に、己の運のなさを密かに嘆いた。
「いらん。このまま朽ちさせてくれ」
静かな声が答える。枝の上で布が僅かに身じろぎ、茶色く汚れた頭であろう部分を擡げた。
そうか、とこの場を去る事が、面倒のない選択だろう。実際、逸らした視線がこちらに近づく影を認識しなければ、そうしていたはずだった。
「こんなとこにいるなんて珍しいな。何を見て…なんだ、あれは」
今日は本当に運が悪い。
布を視界に入れ険を帯び出す彼の目を見て、続く言葉を察し静かに嘆息した。
「汚いっ!何をどうすればそこまで汚せるんだ。愚かモノめ。貴様がこうしてその悍ましい姿を晒している事で、どれだけ周囲を苦しめていると思っているのか…おい!降りてこい、そこの布きれ。降りぬというならば、無理矢理にでも引きずり下ろしてやるぞ!」
彼の言葉に、布はもう反応すらせず。
益々苛立ちを滲ませる彼が、怒りに吊り上げた目をこちらに向けて、布に向けて指を差した。
「下ろしてこい」
「……分かった」
ここで渋れば、その怒りの矛先がこちらに向きかねない。肩を竦め、布を見上げた。
腕を伸ばし、折り鶴を放つ。萌黄色した鶴は優雅に羽を羽ばたかせ布の元まで辿り着くと、布の端を器用に尾に巻き付け戻ってくる。
「ご苦労様」
鶴の頭を一撫ですれば、くるりと宙を一回りして袂《たもと》の中へ戻っていく。それを見届け、だらりと垂れ下がり地面に広がる布の端を彼に手渡した。
「ああ、もう!しゃんとしろ!地面に触れるな。余計に汚れるではないか」
「終わらせてくれ。もう、疲れた」
彼の叱責に、布は力なく答える。草臥れたその様は哀愁を帯びて、無意識に眉を寄せた。
「終を求めるというのであれば、それなりに周りに配慮しろ。貴様のその只管に不快な姿を晒すくらいならば、いっそ燃えて跡形もなくなくなってしまえばよかったのだ。それを怠った貴様に、最早選択肢などあると思うな」
いっそ清々しいまでに布の言葉を両断し、彼は来た道を引き返していく。視線だけで促され、地面に広がる部分を回収しながら後に続く。至極面倒だが、彼を怒らせる訳にはいかない。
「どこへ、行く?」
「俺様の屋敷に決まっているだろう。貴様の見るにも耐えない薄汚さを、徹底的に綺麗にしてやる」
「――私の、受け継いだ屋敷、なんだけど」
「何か言ったか?」
「…別に、何も」
鋭い声音に俯き、首を振る。屋敷の管理の殆どを任せてしまっているため、強く否定出来ない事が悩ましい。
手にした布の塊を見下ろす。彼の言葉に震える布は、まるで泣いているようにも見えた。
「終わらせてくれ。これ以上、人間を害したくはない」
呟く声に、思い出す。
ここより南の方で、夜空を舞う白い布が人を襲うという伝承があったはずだ。時には人を連れ去り、時には命を奪う。
何かの切っ掛けで人の望みに応えた布が、長い時の果てにその望みの通りに在る事を厭うようになったのか。
「後生だ。どうか」
「煩い。貴様の話なぞ、聞く価値もないわ!」
だがやはり、彼は容赦なく布の懇願を切り捨てる。苛立たしげに強く布を握り締め、ひぃ、と布がか細い悲鳴を上げた。
「おとなしく、俺様に綺麗にされろ。その後で思う存分に嘆けば良い。そこの人間を貸してやるから、好きに使え」
「何、勝手に」
「何か言ったか?」
「………別に」
くそじじい、と心の中だけで悪態を吐く。元は風呂を縄張りとし、垢を舐め取るだけの存在だったろうに。何故こんなになってしまったのか、と考え、その原因が己の自堕落さに端を発する事に気づいて、肩を落とした。
炊事洗濯。すべてを任せてしまっている今、文句など到底言えない。
「人間ならば、貴様の新しい在り方も示す事が出来るだろうよ」
「新しい、在り方…そんな事が」
「可能だろう。貴様の今までの在り方は終わり、まったく異なるモノに成り、始めるのもその人間ならば容易い事だ」
「また、無茶を言う」
「事実だ。術師の血を引く貴様にとって、見立ては得意だろう」
まあ、確かに。
そうは思えど、口には出さず。彼もそれ以上言う事はなく、布もまた無言のままで屋敷へと向かう。
気づけば、屋敷の前まで着いてしまった。逃げぬよう握りしめた布の悲鳴など、彼は聞こえぬとばかりに屋敷に入り、真っ直ぐに風呂場へと向かう。
風呂場に布を投げ入れて、彼に言われるがまま必要なものを取りに屋敷内を駆け回る。
時折聞こえる、悲痛な叫びを彼のように聞こえない振りをして。
本当に今日は厄日だと、深く深く嘆息した。
見違える程真白く綺麗になった布を見て、彼はようやく満足そうに頷いた。
彼の所業に泣き叫んでいた布も、綺麗な白を見て満更でもない様子だ。
「――さて、どうするか」
「何が?」
彼の指示で後片付けをしながら、首を傾げる。
どうするもなにも、彼は終わった後の事に関知するつもりはないのではなかっただろうか。
「貴様。今の在り方が嫌なのだろう?今し方思い出したのだが、どこぞの鬼が布を求めている。新しい在り方に丁度良いのではないか?」
「新しい…在り方」
何度も繰り返し言葉にして悩む布を横目に、嫌な予感に彼を見る。少し前とは全く異なる穏やかな目は、純粋に布を想っているようで、どこか心苦しさを覚えながらも、疑問を口にする。
「その、新しい在り方って?」
「うむ。あれだ…活きの良い、新しい褌《ふんどし》を奴めは求めていたぞ」
「褌っ!?」
その言葉に悲壮な叫びを上げて、布は室内を暴れ回る。
やっぱりな、という気持ちで窓を開ければ、慌てて外へ出ていく布を見送って、何も言わずに窓を閉めた。
「何だ?いくら赤い褌を求めていたとはいえ、別に白を赤くするまでは、奴もしないと思うが」
「そうじゃない。絶対に問題はそこじゃないと思う」
眉を下げ、困惑する彼に溜息を吐いて首を振る。
外を見れど、そこに布の姿はもうどこにもなく。
無駄に疲れた一日に、思い出したかのように腹の虫がきゅう、と鳴った。
20250312 『終わり、また初まる、』
ざざ、ざざ、と。
聞こえるのは、波の音。僅かに欠けた月が、瞬く星が、夜の色に染まった海に淡い光を注いでいる。
あと少しすれば、日付が変わるだろう。
ざり、と砂を踏み締め、海へと近づいた。
見上げた空に星が降る。あの日と同じ、良い天気だ。きっと今回も繋がってくれる。
手にした電話の発信ボタンを押す。呼び出し音を聞きながら、静かに目を閉じる。
――一回、二回。
無機質な音が、鼓膜を揺する。
――三回、四回。
音に合わせて、深く呼吸をした。
――五回、
「――一年ぶりだね」
電話越しに聞こえるのは、変わらない彼女の声。懐かしさに、口元が緩む。
「そうだね…久しぶり。君はまだかえって来れそうにないの?」
「まだ駄目みたい。暗くて何も見えないし、自由に動く事も出来ないの…ごめんね。ずっと待たせて」
彼女には見えていないと知りながら、首を振る。問題ないよ、と静かに返しながら耳を澄ませ、彼女の言葉一つ一つに集中する。
彼女とこうして会話が出来るのは、この数分間だけなのだから。
「待たなくていいんだよ。この一年間で、あなたも変わったでしょう?いっそ私の事なんて綺麗さっぱり忘れて、新しい先を進んでよ」
「待つよ。これから先もずっと。君が戻ってくるまでここで待っているから」
だから早く戻っておいで、と。心の内で強く願う。
何年も前に海に攫われてしまった、彼女が戻るのを待ち続ける。
今でも鮮やかに思い出せる。
あの日も、空はどこまでも青く。まだ寒さが強く残っていた。
穏やかな午後。彼女を含めた多くの人が、海に攫われていった。あっという間の出来事だったと、僅かに残った人々は口にしていた。
それから何年も経ち。海から戻る者は多くいたが、彼女を含む幾人もの人は、未だに海に囚われたままだ。
海に生きるものの糧となった者。海そのものと同化してしまった者。そして海の底で繋がれている者。
その身が帰る事はないのかもしれない。
けれど魂が還る事は出来るであろうから。
「待つのは嫌いじゃない。どんな形であれ、君が戻ってきてくれるなら。そうしたらちゃんと先に進むよ」
「――馬鹿ね。本当に馬鹿…でも、ありがとう」
「どういたしまして、なんてね…そろそろ話題を変えようか。こうして話せる時間は、そんなにないのだから」
「そうね。いつものように、皆の事を教えてくれる?お父さん達は元気にしているかしら」
「皆、元気だよ。今日はさすがに寂しそうにしていたけどね」
小さく笑い、答える。彼女のために、この一年間の出来事を一つずつあげていく。
彼女の妹さんが今年の春に結婚する事。お兄さんの所に去年の暮れ、三人目の可愛らしい女の子が無事に生まれた事。
彼女のご両親が、ようやく彼女の事を話せるようになった事。
「今日はまだ難しいようだったけど、今年のお盆には、きっとちゃんとした法要が行われると思うよ」
「そっか…うん。そっか」
柔らかで静かな声が、相づちを打つ。嬉しそうに、それでいてどこか寂しい声音が、電話の向こうからぽつり、ぽつり、と聞こえてくる。
その声に混じり、微かに何かの音がした。
じじっ、ざざ、と。雑音が次第に大きさを増していく。
終わりが近い。明日が今日を過去にするために、もうすぐ訪れる。
それを彼女も察したのだろう。ねえ、と涙が滲む声で囁いた。
「星は綺麗かしら」
その言葉は別れの合図だ。
ゆっくりと目を開く。見上げた空には、美しく瞬く星の海が広がっている。
一つ、星が流れ。その後を追うように、また一つ、星が流れていく。
次々と流れていく星は、遙か遠くの海に落ち。その燦めきを反射して、いくつもの光の粒を水面にちりばめた。
「綺麗だよ。あの日の夜と同じくらい綺麗だ」
ふふ、と彼女が笑う。
その声も、目を開けた事で、さらに大きくなっていく雑音に掻き消されていく。
「さよなら。また来年、この場所で」
「さようなら。もしかしたら、来年まで待たなくてもいいかもね」
その言葉の意味は、きっと。
彼女の家族が、彼女の死を受け入れる事が出来たから、なのだろう。
そうであれ、と切に願う。消えていく彼女の声に、さようなら、ともう一度呟いて、静かに電話を持つ腕を下ろした。
遠く揺らめく光を見ながら、一つ呼吸をする。鼻腔を掠める焦げた匂いに、今日が昨日になってしまった事を知り、目を伏せた。
瞬間、炎が上がる。自身の体を焼き尽くす炎が、暗い海を明るく照らし出す。
肉の焦げる匂い。肺が焼かれ、呼吸が止まる。
海に攫われた彼女が知らない事。
あの日、彼女達が海に攫われてから程なくして。住んでいた街は海からもたらされた炎に焼かれた。
逃げ場などどこにもなかった。四方を炎に囲まれて、熱さと息苦しさを覚えながら意識は暗転した。
そして、ちょうど一年後の日。この場所で目覚めた。
手には彼女と連絡を取るために、最後まで握り締めていた電話を持って。一人、この海辺に佇んでいた。
ほぼ無意識に彼女へ電話をかけ。そうして今日まで、このほんの僅かな時間での会話を支えに、この場所で彼女を待ち続けている。
吹く風に乗って、黒い灰となった体が空に舞う。崩れ落ちていく体を、どこか他人事のように眺めながら、彼女を想い微笑んだ。
――いつまでも待とう。彼女が戻ってくるまで、それこそ永遠に。
ざざ、ざざ、と。
聞こえるのは波の音。
誰一人いない静かな海を、僅かに欠けた月と流れる星が。
淡く優しく照らしていた。
20250311 『星』
「久しぶり」
数年越しに再会した彼女の笑顔は、最後に別れた時と何一つ変わらなかった。
「偶然だね。この辺りに住んでるの?」
「まぁな。お前こそ、どうした。こんな所にいるなんて」
噂では、彼女は今海外にいるとの事だったが。何故ここにいるのだろうか。
彼女から視線を逸らし、歩き出す。少し遅れて着いてくる彼女の足音を聞きながら、気づかれぬよう密かに息を吐いた。
人のいない、寂れた公園に足を踏み入れる。中央に小さな噴水のあるこの公園は、夏場になれば涼を求めて親子で賑わう事もあるが、今の季節ではそれもない。噴水と、ベンチがある以外は何もないここは、夏以外に訪れる者などなく、話をするのには丁度よかった。
「懐かしいね。相変わらず暑い日以外は誰もいないんだ」
「最近、近くに大型の遊具のある公園が出来てからは、余計にな」
「そうなんだ。知らなかった」
興味深げに噴水を覗き込む彼女を横目に、ベンチに座る。学生時代から変わらない無邪気な後ろ姿は、今でも周りを虜にしているのだろう。
「着いてきたって事は、話があるんだろう?」
「そうね。私が貴方に言いたい事は、あの時から一つだけよ」
振り返り、彼女は笑みを浮かべたまま近づく。蠱惑的な赤い唇が弧を描くのを、眉間に皺を寄せながら見つめていた。
「私達、やり直せないかしら?」
小首を傾げ、顔を覗き込まれる。別れてから幾度となく繰り返したやりとりに、嘆息しながらいつものように断ろうと口を開き。
ふと、思いついて彼女を見る。
「俺の願いを叶えてくれるなら、考えてやってもいい」
「本当に!?いいわ、何でも言って!」
頬を染め、今にも抱きついてきそうな彼女を制しつつ、その目を真っ直ぐに見つめる。逃げださぬよう手首を握り、静かに願いを口にした。
「俺の願いは一つだけだ…お前の部屋にあった姿見。あれを俺に寄越せ」
彼女の笑みが固まる。逃げようとする体を、握っていた手首を引く事で留め。姿見を寄越せ、と繰り返す。
――本物の彼女が閉じ込められている、姿見を。
「ぃや…いやよ、いや!あれは駄目。絶対に駄目なの!お願い、それ以外ならいくらでも叶えてあげるからっ!」
「それ以外に、お前に願う事はない。俺が欲しいのは偽物なんかじゃないんだ」
「っ!」
彼女の目が見開かれる。なんで、と震える唇が問うのを、いっそ笑い出したい思いで睨み付けた。
気づいていないと、本気で思っていたのだろうか。あからさまに変わっているというのに、それを他のさほど親しくもない奴が言うようにイメチェンの一言で納得するとでも思ったのか。
「あいつはな、お前と違って可愛いんだよ。臆病なくせに、人前ではいつも気を張って。周りのために、理不尽な事には強く意見をして生意気だとか言われてるけどな。一人ではいつも泣いて、それでも努力は怠らない…そんな可愛い後輩だったんだよ」
「う、そ。嘘よ!だって、お母さんもお父さんも、わたしの事、可愛いって。いい子だねって、言ってくれたもの!皆だって、可愛くなったねって、わたしの方がいいねって!」
「知るかよ。俺は本物以外、興味なんてねぇ。お前と付き合ったのも、あいつの手がかりを探すためなんだからな」
幼い子供のように首を振り、癇癪を起こす彼女の手首を引いて押さえつける。唇が触れそうな至近距離で、彼女を見据えて選択を突きつける。
「どうするんだ?俺のたった一つの願いを叶えてくれるのか、そうでないのか…姿見をくれなくても、俺は別の方法であいつを取り戻すけどな」
「――んで。なんで、わたしじゃ駄目、なの」
「言っただろ?あいつの方がお前よりよっぽど可愛いんだって。あいつのためなら、姿見の中で一生を終えても良いくらいだ」
彼女の目に、膜が張る。力が抜けて崩れ落ちた彼女は、一筋涙を溢して、選択した。
「――ん。あれ?」
暖かな何かに包まれているような、ふわふわした感覚に目を開けた。
暗い。何一つ見えない暗闇は、目を開けていても閉じても変わらない。
わたしと入れ替わってから、どれだけの時間が経ったのだろう。気づけば実家の蔵の奥に、布をかけられてしまわれて。あれからわたしがどうなったのか、分からないままだ。
わたしは学生生活を楽しめているだろうか。先輩を追う形で受けた高校は地元から遠く、仲の良い友達は誰もいない。私と違って可愛いわたしならば大丈夫だとは思いたいけれど、それだけが心配だった。
自分でも可笑しな気持ちだとは思う。私をここに閉じ込めたのは紛れもないわたしなのに、恨む気持ちも怖がる気持ちも何一つない。
あるのは心配と、少しばかりの寂しさだけだ。
きっと入れ替わった時のわたしが、私よりもうんと可愛かったからなのだろう。ずっと憧れていた、理想の可愛いわたし。先輩の隣に堂々と立てるような、可愛いわたしがいてくれる事が、泣きたいくらいに嬉しかった。
一人ぼっちの寂しさは確かにある。けれどそれ以上に――。
目を閉じる。変わらない暗闇に苦笑して、もしも、を想像する。
もしも。たった一つ願いが叶うのだとしたら。
「わたしと、先輩が。ずっと幸せに」
「それはごめんだな。なんで偽物なんかと幸せにならなきゃなんねんだ」
「――ぴゃぁ!?」
背後から、と言うより耳元で聞こえた声に、飛び上がる。けれど実際には飛び上がった気になっただけで、体は少しも動かなかった。
何故だろう。そう言えば、この暖かなものは何だろうか。
その前に、聞こえた声はもしかして。
「せ、先輩?」
「よぉ。久しぶりだな。暗くて何にも見えないが、相変わらず小さくて可愛いな、おまえ」
「ひぇ!?な、なんで、ここに…というか、なに、これ。なんで、私」
情報が多すぎて、頭が混乱する。何故、先輩がここにいるのか。何故、すぐ後ろから先輩の声がするのか。何故、背中が温かいのか。
何故、何故、何故。
腰に回る暖かな何かに、そっと触れる。恐る恐る指で辿っていけば、急に何かに手を取られ繋がれた。
これは、手だ。大きな手が私の手を捕まえて、指を絡めて繋いでいる。
それが誰の手なのか。少し考えるだけで、心臓が破裂しそうなくらいに騒がしくなる。
「なんでって、そりゃあ。偽物に閉じ込められた、可哀想な本物のお姫様を助けにきたに決まってるだろ?」「た、助けにって…え、それって。つまり。わたし、は…?」
「偽物の心配なんかすんなよ。相変わらずのお人好しだな…そんなとこがまた、可愛いんだけどな」
「か、かわっ!?」
先輩の言葉一つで、顔に熱が集まり出す。誰にも言われる事のなかった可愛いを、まさかの先輩に言われて訳もなく泣きたくなってくる。
取りあえず、この場から逃げ出したかった。そう思って繋がれた手を解こうとするも逆に強く絡め取られ、さらに強く抱き竦められる。
「ちょっとおとなしくしてような。なんせ、とっても疲れてるんだよ、俺。本物のおまえを取り戻す方法をずっと探して、ようやく元凶に姿見の場所を聞き出して…本当に疲れたんだ」
「つ、疲れたんでしたら、お休みになったら、どうでしょう?」
「ん。だからしばらくこのままで、な…お休み」
「せ、先輩ぃ!?」
何一つ分からないまま。会話がかみ合わないまま、耳元で規則正しい寝息が聞こえ始めてくる。
「え?ちょっと…え、ほんとに?ねぇ、先輩」
声をかけても返らない声に、途方にくれて項垂れる。
どうやら先輩が起きるまで、このままでいる事が決定らしい。
はぁ、と溜息を吐く。その息もどこか熱くてくらくらする。
離そうとしてもまったく離れようとしない、大きな手の熱で溶けてしまいそうだ。
「早く起きて下さい。お願いですから」
そっと声をかけても、返ってくるのは寝息だけ。
お願いです、と泣きたい気持ちで囁いた。
「離れて下さいよ、先輩。でもって、顔を見せて下さい」
どうか、と。起きて欲しいのに、起こさないように声を潜めながら繰り返す。
一つだけでいいので願いを叶えて下さい、と。
穏やかな先輩の寝息を聞きながら、只管に願った。
20250310 『願いが1つ叶うならば』
きん、と冷えた朝ぼらけの空の下。幼い少年は一人、吐く息を白く染めながら家の軒下を見上げていた。
昨夜母から聞かされた、氷柱が娘になったおとぎ話を思い出しているのだろう。その目には隠し切れぬ好奇心を浮かべ、飽く事なく陽の光を反射して煌めく氷柱を眺めていた。
――ことん。
どこからか音がした。
音の在処を探して、少年の視線が氷柱から逸れる。
――ことん。かたん。
どうやら音は井戸の横。誰かが片付け忘れた桶からしているらしい。
恐る恐る、足音を立てぬようゆっくりと、少年は桶に近づく。
幾許かの恐怖と、それを遙かに超えるほどの好奇心を目に浮かべ。慎重に桶の中を覗き見る。
「――ぁ」
目を見張り、小さく声を漏らす。
厚い氷に覆われた桶の底。白の着物を来た、少年と同じ年の頃に見える美しい少女が座っていた。
少女が徐に顔を上げる。惚けたように言葉なく見下ろす少年と目を合わせ。
ふわり、と微笑んだ。
「ああ」
花開くように美しい、その微笑みに。
一目で心を奪われた。
暖かな日差しに、男は目を細める。
思わず見上げた軒下に、下がる氷柱は数日と比べ明らかに小さく、数も少ない。
周囲を見渡す。溶けかけた雪の下から覗く大地は、茶に混じり緑が垣間見える。木々の枝にも膨らんだ蕾が白と茶や黒だけの世界に彩りを添えようとしている。
春の訪れが違い。長く閉ざされた冬が終わりを迎えようとしていた。
「どうされたのですか」
家の中から聞こえた声に、男は振り返る。玄関を開けたまま立ち尽くす男を心配し近寄る妻に、何もないと首を振り答え。
痩せ細っていく、愛しい妻を抱き寄せた。
「春の訪れが近いな」
「そうですね。数日も過ぎれば別れの時が来るのでしょう」
穏やかな妻の声音に、そうか、とだけ呟いて、男は目を伏せた。
人ではない妻は、冬の訪れと共に男の家を訪れ、冬の終わりと共に去って行く。
また冬になれば会えると理解していても、妻との別れは切ないものだ。しかしその定めを受け入れた上で、男は妻を娶った。それだけ男は妻を深く愛していた。
「――お願いです。どうか」
「断る」
ぽつりと呟かれる妻の言葉を、男は遮るように否定する。その先を言わせまいと、妻を抱く腕に力を込めた。
「俺の妻はお前だけだ。お前以外など必要ない」
「ですが」
「何と言われようと、俺はお前を待ち続ける。離縁など認めはしない」
嗚呼、と吐息にも似た声を溢し、妻は静かに目を伏せる。頑なな男に一筋涙を溢し、されど口元だけは笑みを浮かべて、男の胸に擦り寄った。
妻が男に離縁を申し出たのは、数日前の夜の事だった。
「お願いがあるのです」
居住まいを正す妻に、男もまた居住まいを正し妻を見た。
「わたくしと離縁して頂きたいのです」
柔らかな笑みを湛えた妻の言葉を、男はすぐには理解出来なかった。
「なに、を、言っているんだ」
「わたくしと離縁して下さい」
繰り返される言葉にようやく理解が追いつき、男は何故、とだけ口にする。僅かに見開かれた目は、強く咎めるように、それでいて不安に揺れながら妻を真っ直ぐに射竦めた。
「ずっと思っていたのです。あなたをわたくしから解放すべきではないか、と」
静かに語る妻の表情は、とても穏やかだ。
「冬の間しかあなたと共にいられぬわたくしは、あなたに相応しくはありません。それを分かっていながら、わたくしはあなたを手放す事が出来なかった…あなたをお慕いする気持ちが、想像でもわたくし以外の女と契るあなたを認めたくなかった」
「俺がお前以外を愛する訳がないだろう」
「分かっています。あなたはわたくしを愛して下さる。人間ではない、人間よりも醜いわたくしを妻として大切にし、待っていて下さる」
微笑みながら、妻は一筋涙を流す。頬を伝い落ちるその滴は、次第に氷となって、微かな音を立て床に落ちた。
それを見て、男は無言で腕を伸ばす。目尻に残る滴を拭い、そのまま細い肩を引き寄せる。
「離縁はしない」
低く静かな声に、妻の肩が微かに震える。目を伏せて声なく涙を流す妻の背をさすりながら、男は離縁はしない、と繰り返した。
「待つのは慣れている。何度お前と出会い、別れたのだと思っているんだ」
「ですが、でもっ」
「お前を愛している。桶の底にいたお前と出会った時から、お前だけを愛しているんだ。今更他の者に対して、何の情も浮かばないだろう…お前だけだ」
「わたくしは…わたくしもお慕い申し上げています。あなただけを、ずっと」
「嗚呼」
男は妻の頬に手を添え、顔を上げさせる。涙に濡れる瞳が男を認めて揺れ、ふわり、と微笑んだ。
その微笑みに男も笑みを返し。
そっと、口付けた。
「言ったはずだ。お前を愛している。例え次の冬にお前が俺の元へ帰って来なくとも、俺は待ち続ける。俺の命が尽きるまで、いつまでも」
擦り寄る妻の髪を撫ぜ、男は笑う。
落ち着いてきた妻の額にそっと唇を触れさせて、体を離した。
「いってくる」
「――いってらっしゃいませ」
微笑む妻に背を向けて、男はいつものように外へ出る。
春の気配を感じながらも、普段と何一つ変わらず仕事へと向かう。
「いってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
男の背を見送りながら、妻はまた一筋涙を流し微笑んだ。
その滴は、差し込む陽の光で氷になる事なく、地面に一つ染みを作った。
ある男がいた。
冬に在る妖に心を奪われた、変わり者の男が。
男は妖を娶り、冬の間だけ夫婦として長く暮らしていた。
だがいつの頃からか。
男の家からは、楽しげな子供の声が聞こえてくるようになった。冬の間だけではなく、一年。男と子供達と、そして冬には妻と。
妻のいない季節。男は子供達を連れ仕事に出かけた。山奥で木を切り、子供達は木の実や山菜、薬草を採る。
そして夕刻になり。家に帰るその前に。
山奥にある滝の裏。ひっそりとした洞窟の中へと、男と子供達は足を踏み入れる。
その奥は夏でも涼しく、冬に張った氷や雪を貯蔵しても溶けてしまう事はない。
夜の帳が降りるまで男と子供達はそこで過ごし、家へと帰っていく。
そこに何があるのか。誰がいるのか。
それは、男と子供達だけが知っている。
20250309 『嗚呼』
※おまけ
姿見の前で、くるり、と一回転。
可愛くない。折角の可愛い制服も私が着ているのだと思うと、急にダサく感じてしまって唇を噛みしめた。
もっと可愛くなりたい。誰よりも可愛く、先輩に振り向いてもらえるような女の子に。
鏡の中の私を睨み付ける。生意気そうな目が、余計に気に障った。
「あんたなんか大嫌い」
鏡に手を当てて吐き捨てる。本当に、可愛くない。
「そうね。わたしも嫌いだわ」
鏡の中の睨む私の顔がぐにゃり、と歪んだ。
唇の端を上げて、にやり、と嫌な笑みを浮かべている。
「――ひっ」
慌てて離れようとしたけれど、鏡に触れていた手が掴まれて、強く引きずり込まれていく。
「いや。やめて。やめてって!」
離そうとしても離れない。どんどんと手が腕が、鏡の中に呑み込まれていく。
「わたしが私になってあげる。わたしの方が可愛いものね」
くすくす、と声を上げて、鏡の中の私が笑う。
それは私よりも綺麗で可愛くて。
「嗚呼、ああ」
一瞬だけ、変わっても良いかな、と思ってしまった。
それがいけなかったのだろう。さらに強い力で引かれ、私は鏡の中に呑まれていく。
「ばいばい。可愛くない私」
楽しげな声がする。私の声で、笑っている。
それは私なのか。それとも鏡の中にいたわたしなのか。
嗚呼、もう分からない。
反転した世界に引き込まれ。
鏡を覗いて見える向こうの世界の私が、ふわり、と可愛い笑顔を浮かべ、くるりと回った。
獣道を辿り、木立を抜ける。大きな洞の出来たケヤキの木を過ぎれば、目の前の景色はがらり、と色を変えた。
開けた視界一面に広がる、鮮やかな黄色。悪戯な風に運ばれた甘い香りを目一杯吸い込んで、誘われるように菜の花畑に足を踏み入れる。
彼女に教えてもらった、特別な場所。
わたしと彼女だけの、特別な秘密。
ふふ、と声が漏れる。嬉しくて、幸せで。跳ねるように奥へと向かう。
「ごめんっ!待った?」
菜の花を掻き分けて進んだ先。座って本を読む彼女に声をかける。
「別に。私が早く来すぎただけ」
本を閉じて、彼女は微笑う。
それだけで嬉しくなって、勢いよく彼女に飛びついた。
「ちょっと、危ないよ」
「ごめんね。嬉しくて!」
窘める言葉は、けれど頭を撫でる手と同じくらいに優しい。細く綺麗な指が頭を、耳の裏を、顎の下を撫でて、その心地良さにゆらゆらとしっぽが揺れる。
「相変わらず、化けるのが下手な狸さんだ」
「それは言わないで!気にしてるんだから」
むくれてそっぽを向く。しっぽで彼女の膝をてしてし、と叩いて、不機嫌だと主張すれば、柔らかな声がごめんね、と囁いた。
宥めるような優しい手が背を撫でる。それだけで許してしまってもいいかな、と思えるのは、きっと彼女だけだ。
静かで、優しくて、不思議な彼女。わたしが妖だと気づいていても親友になってくれた、大切な人間。
「わたし、成長途中なんだから。すぐに化けるのも上手になるし。びっくりするような秘密だって作れるようになるんだから」
「そうだね。期待してる」
静かに笑われて、いじわる、とさらにむくれて頭を彼女の胸に押しつける。
――秘密を一ヶ月守り通せたら、彼女の秘密を教えてもらえる。
その約束は、未だに叶えられていない。
彼女が聡いのがいけないんだ、と心の中で言い訳をして、彼女の膝から降りて丸くなった。
――ちりん。
どこか遠く。鈴の音が鳴った気がして起き上がる。
――ちりん。ちりん。
規則正しい鈴の音が、木々の向こう側から近づいてくる。
何だろうか。複数の気配に毛が波立つ。様子を覗うため、人間の姿になって立ち上がった。
――ぽつっ、ぽつり。
まだ見えない何かを警戒する体に、冷たい滴があたる。肩を跳ねさせ見上げれば、青空の下、絹糸のように細い雨が音もなく降ってきていた。
「あぁ、今日だったのか」
思わず、というように零れ落ちたらしい彼女の言葉に、不思議に思って視線を向ける。懐かしむような、寂しいような、不思議な感情を目に宿した彼女に、不安になって声をかけようと口を開き。
――りん。ちりん。
近く、はっきりと聞こえた鈴の音に、振り返る。
木々の合間から、僅かに誰かの姿が見える。一人、ではなく、たくさんの。いくつもの松明が揺れるのに合わせて、ちりん、ちりんと音が鳴っていた。
――嫁入りだ。
これからお嫁にいくのだろう。朱い駕籠を見ながら思う。
花嫁さんは花婿さんの所へ行って、夫婦になるんだ。
「――あれ?」
鈴の音が止んだ。合間に覗く朱い駕籠も、動きを止める。
何かあったのだろうか。お嫁に行くのを中断するほどの、何かが。
はっきりとは見えないけれど、皆こちらを見ている気がする。駕籠の中にいるはずの、花嫁さんと目が合って。
不意に強く、風が吹き上がる。
風は菜の花を散らし、花びらを高く舞い上がらせた。空を漂う黄色は、色を溶かして形を変えて。
「――桜?」
ふわり、と舞い降りてきた一枚を手に取れば、それは白に似た薄桃色の桜の花びらになっていた。
風が吹く。桜に変わった花びらを、花嫁さんたちの方へと運んでいく。
桜に降られ。
皆がこちらに向かい、深くお辞儀をした。そんな気がした。
――ちりん。
鈴が鳴る。行列が動き始める。
愛しい花婿さんの所へと向かって、しずしずと歩き出していく。
――りん。
遠くなる鈴の音を聞きながら、ほぅ、と息を吐いた。行列を見送って、さっきの言葉の意味を尋ねようと彼女を振り返り。
彼女がどこにもいない事に気づいた。
「え?なんで、どうして…」
慌てて辺りを見渡すも、彼女の姿はどこにも見えない。
どこに行ってしまったのだろう。あの行列についていってしまったのだろうか。
それとも――。
ぐるぐると意味もなくその場を回る。ぐるぐると嫌な気持ちが胸の中で渦を巻き始める。
不安が不安を呼んで、回る足が段々に速くなっていく。
歩いていたのが早足になり。早足だったのが走り出す。そして次第に、二本足で走っていたのが、四本足で駆け出し始めた。
どうしよう、どうしよう、と気持ちが焦る。いっそあの行列を追いかけるべきだろうかと、木々の向こうへ向きを変え。
――風が吹き抜けた。
彼女の手のように優しい風が、逆立つ毛並みを撫でていく。力が抜けたように座り込んで、ぼんやり見上げたケヤキの枝に、白い何かを認めた。
目を凝らす。
白くとがった耳。艶やかな毛並み。しなやかな四本のしっぽ。
――白狐。神様の使い。
わたしのような、人間に望まれる事で存在を保つ妖とは違う、高位の存在。人間の祈りを、信仰を対価に、遙か遠い昔から人間を守ってきた神使。
静かに見下ろす白狐の金の眼に、動けなくなる。不安な気持ちが段々と解けていって。
そして何故だろう。泣きたくなってしまった。
世界が滲み出す。鼻の奥がツンとして、ぽろぽろと涙の滴が頬を伝っていく。
届かない。そう思いながら、ただ涙を流す。悔しいのか哀しいのか、自分でも分からない感情を抱いたまま、白狐を見つめる。
ゆらり、と四本の尾が揺れて。
涙に滲んだ彼女の姿が、さらにぼやけて消えた。
「――ねぇ、ごめんってば。いつまですねてるの」
ごめんね、と繰り返す彼女の声と触れる手の熱に、はっとして顔を上げる。
僅かに眉を下げた彼女と目が合って、どうしたの、と首を傾げた。
「だって何も言わないから。さすがに怒らせたかと思ったんだけど…もしかして、寝てた?」
「寝て、ない…はず」
体を起こして、さりげなく辺りを見渡す。一面の黄色い菜の花に、地面に濡れた感覚はない。
「雨、降ったっけ?」
「降ってないけど。やっぱり、寝てたんだ」
「そう、なのかな。雨が降って、花嫁さんの行列を見たんだけど」
夢、だったのだろうか。雨も、行列も、そして白狐も。
言われてみれば、酷く実感が薄い。それに彼女が何も言わずにいなくなる事など、落ち着いて考えてみればあり得ない事だ。
ほぅ、と息を吐く。優しく頭を撫でる手に、目を細めて擦り寄った。
「ねえ」
「何?」
「必ず秘密を教えてもらうからね」
届かない。今はまだ。
それでも、少しでも近づけるように手は伸ばせるから。
「期待してる。作った秘密を守ってみせて」
微笑む彼女に、まかせて、と笑顔を浮かべてしっぽを振った。
20250308 『秘密の場所』