sairo

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きん、と冷えた朝ぼらけの空の下。幼い少年は一人、吐く息を白く染めながら家の軒下を見上げていた。
昨夜母から聞かされた、氷柱が娘になったおとぎ話を思い出しているのだろう。その目には隠し切れぬ好奇心を浮かべ、飽く事なく陽の光を反射して煌めく氷柱を眺めていた。

――ことん。

どこからか音がした。
音の在処を探して、少年の視線が氷柱から逸れる。

――ことん。かたん。

どうやら音は井戸の横。誰かが片付け忘れた桶からしているらしい。
恐る恐る、足音を立てぬようゆっくりと、少年は桶に近づく。
幾許かの恐怖と、それを遙かに超えるほどの好奇心を目に浮かべ。慎重に桶の中を覗き見る。

「――ぁ」

目を見張り、小さく声を漏らす。
厚い氷に覆われた桶の底。白の着物を来た、少年と同じ年の頃に見える美しい少女が座っていた。
少女が徐に顔を上げる。惚けたように言葉なく見下ろす少年と目を合わせ。
ふわり、と微笑んだ。

「ああ」

花開くように美しい、その微笑みに。
一目で心を奪われた。





暖かな日差しに、男は目を細める。
思わず見上げた軒下に、下がる氷柱は数日と比べ明らかに小さく、数も少ない。
周囲を見渡す。溶けかけた雪の下から覗く大地は、茶に混じり緑が垣間見える。木々の枝にも膨らんだ蕾が白と茶や黒だけの世界に彩りを添えようとしている。
春の訪れが違い。長く閉ざされた冬が終わりを迎えようとしていた。

「どうされたのですか」

家の中から聞こえた声に、男は振り返る。玄関を開けたまま立ち尽くす男を心配し近寄る妻に、何もないと首を振り答え。
痩せ細っていく、愛しい妻を抱き寄せた。

「春の訪れが近いな」
「そうですね。数日も過ぎれば別れの時が来るのでしょう」

穏やかな妻の声音に、そうか、とだけ呟いて、男は目を伏せた。

人ではない妻は、冬の訪れと共に男の家を訪れ、冬の終わりと共に去って行く。
また冬になれば会えると理解していても、妻との別れは切ないものだ。しかしその定めを受け入れた上で、男は妻を娶った。それだけ男は妻を深く愛していた。


「――お願いです。どうか」
「断る」

ぽつりと呟かれる妻の言葉を、男は遮るように否定する。その先を言わせまいと、妻を抱く腕に力を込めた。

「俺の妻はお前だけだ。お前以外など必要ない」
「ですが」
「何と言われようと、俺はお前を待ち続ける。離縁など認めはしない」

嗚呼、と吐息にも似た声を溢し、妻は静かに目を伏せる。頑なな男に一筋涙を溢し、されど口元だけは笑みを浮かべて、男の胸に擦り寄った。



妻が男に離縁を申し出たのは、数日前の夜の事だった。

「お願いがあるのです」

居住まいを正す妻に、男もまた居住まいを正し妻を見た。

「わたくしと離縁して頂きたいのです」

柔らかな笑みを湛えた妻の言葉を、男はすぐには理解出来なかった。

「なに、を、言っているんだ」
「わたくしと離縁して下さい」

繰り返される言葉にようやく理解が追いつき、男は何故、とだけ口にする。僅かに見開かれた目は、強く咎めるように、それでいて不安に揺れながら妻を真っ直ぐに射竦めた。

「ずっと思っていたのです。あなたをわたくしから解放すべきではないか、と」

静かに語る妻の表情は、とても穏やかだ。

「冬の間しかあなたと共にいられぬわたくしは、あなたに相応しくはありません。それを分かっていながら、わたくしはあなたを手放す事が出来なかった…あなたをお慕いする気持ちが、想像でもわたくし以外の女と契るあなたを認めたくなかった」
「俺がお前以外を愛する訳がないだろう」
「分かっています。あなたはわたくしを愛して下さる。人間ではない、人間よりも醜いわたくしを妻として大切にし、待っていて下さる」

微笑みながら、妻は一筋涙を流す。頬を伝い落ちるその滴は、次第に氷となって、微かな音を立て床に落ちた。
それを見て、男は無言で腕を伸ばす。目尻に残る滴を拭い、そのまま細い肩を引き寄せる。

「離縁はしない」

低く静かな声に、妻の肩が微かに震える。目を伏せて声なく涙を流す妻の背をさすりながら、男は離縁はしない、と繰り返した。

「待つのは慣れている。何度お前と出会い、別れたのだと思っているんだ」
「ですが、でもっ」
「お前を愛している。桶の底にいたお前と出会った時から、お前だけを愛しているんだ。今更他の者に対して、何の情も浮かばないだろう…お前だけだ」
「わたくしは…わたくしもお慕い申し上げています。あなただけを、ずっと」
「嗚呼」

男は妻の頬に手を添え、顔を上げさせる。涙に濡れる瞳が男を認めて揺れ、ふわり、と微笑んだ。
その微笑みに男も笑みを返し。
そっと、口付けた。



「言ったはずだ。お前を愛している。例え次の冬にお前が俺の元へ帰って来なくとも、俺は待ち続ける。俺の命が尽きるまで、いつまでも」

擦り寄る妻の髪を撫ぜ、男は笑う。
落ち着いてきた妻の額にそっと唇を触れさせて、体を離した。

「いってくる」
「――いってらっしゃいませ」

微笑む妻に背を向けて、男はいつものように外へ出る。
春の気配を感じながらも、普段と何一つ変わらず仕事へと向かう。

「いってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」

男の背を見送りながら、妻はまた一筋涙を流し微笑んだ。
その滴は、差し込む陽の光で氷になる事なく、地面に一つ染みを作った。





ある男がいた。
冬に在る妖に心を奪われた、変わり者の男が。
男は妖を娶り、冬の間だけ夫婦として長く暮らしていた。
だがいつの頃からか。
男の家からは、楽しげな子供の声が聞こえてくるようになった。冬の間だけではなく、一年。男と子供達と、そして冬には妻と。

妻のいない季節。男は子供達を連れ仕事に出かけた。山奥で木を切り、子供達は木の実や山菜、薬草を採る。
そして夕刻になり。家に帰るその前に。
山奥にある滝の裏。ひっそりとした洞窟の中へと、男と子供達は足を踏み入れる。
その奥は夏でも涼しく、冬に張った氷や雪を貯蔵しても溶けてしまう事はない。
夜の帳が降りるまで男と子供達はそこで過ごし、家へと帰っていく。
そこに何があるのか。誰がいるのか。

それは、男と子供達だけが知っている。



20250309 『嗚呼』




※おまけ

姿見の前で、くるり、と一回転。
可愛くない。折角の可愛い制服も私が着ているのだと思うと、急にダサく感じてしまって唇を噛みしめた。

もっと可愛くなりたい。誰よりも可愛く、先輩に振り向いてもらえるような女の子に。
鏡の中の私を睨み付ける。生意気そうな目が、余計に気に障った。

「あんたなんか大嫌い」

鏡に手を当てて吐き捨てる。本当に、可愛くない。



「そうね。わたしも嫌いだわ」

鏡の中の睨む私の顔がぐにゃり、と歪んだ。
唇の端を上げて、にやり、と嫌な笑みを浮かべている。

「――ひっ」

慌てて離れようとしたけれど、鏡に触れていた手が掴まれて、強く引きずり込まれていく。

「いや。やめて。やめてって!」

離そうとしても離れない。どんどんと手が腕が、鏡の中に呑み込まれていく。

「わたしが私になってあげる。わたしの方が可愛いものね」

くすくす、と声を上げて、鏡の中の私が笑う。
それは私よりも綺麗で可愛くて。

「嗚呼、ああ」

一瞬だけ、変わっても良いかな、と思ってしまった。
それがいけなかったのだろう。さらに強い力で引かれ、私は鏡の中に呑まれていく。

「ばいばい。可愛くない私」

楽しげな声がする。私の声で、笑っている。
それは私なのか。それとも鏡の中にいたわたしなのか。

嗚呼、もう分からない。
反転した世界に引き込まれ。
鏡を覗いて見える向こうの世界の私が、ふわり、と可愛い笑顔を浮かべ、くるりと回った。



3/9/2025, 1:43:58 PM