sairo

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獣道を辿り、木立を抜ける。大きな洞の出来たケヤキの木を過ぎれば、目の前の景色はがらり、と色を変えた。
開けた視界一面に広がる、鮮やかな黄色。悪戯な風に運ばれた甘い香りを目一杯吸い込んで、誘われるように菜の花畑に足を踏み入れる。
彼女に教えてもらった、特別な場所。
わたしと彼女だけの、特別な秘密。
ふふ、と声が漏れる。嬉しくて、幸せで。跳ねるように奥へと向かう。

「ごめんっ!待った?」

菜の花を掻き分けて進んだ先。座って本を読む彼女に声をかける。

「別に。私が早く来すぎただけ」

本を閉じて、彼女は微笑う。
それだけで嬉しくなって、勢いよく彼女に飛びついた。

「ちょっと、危ないよ」
「ごめんね。嬉しくて!」

窘める言葉は、けれど頭を撫でる手と同じくらいに優しい。細く綺麗な指が頭を、耳の裏を、顎の下を撫でて、その心地良さにゆらゆらとしっぽが揺れる。

「相変わらず、化けるのが下手な狸さんだ」
「それは言わないで!気にしてるんだから」

むくれてそっぽを向く。しっぽで彼女の膝をてしてし、と叩いて、不機嫌だと主張すれば、柔らかな声がごめんね、と囁いた。
宥めるような優しい手が背を撫でる。それだけで許してしまってもいいかな、と思えるのは、きっと彼女だけだ。
静かで、優しくて、不思議な彼女。わたしが妖だと気づいていても親友になってくれた、大切な人間。

「わたし、成長途中なんだから。すぐに化けるのも上手になるし。びっくりするような秘密だって作れるようになるんだから」
「そうだね。期待してる」

静かに笑われて、いじわる、とさらにむくれて頭を彼女の胸に押しつける。

――秘密を一ヶ月守り通せたら、彼女の秘密を教えてもらえる。

その約束は、未だに叶えられていない。
彼女が聡いのがいけないんだ、と心の中で言い訳をして、彼女の膝から降りて丸くなった。



――ちりん。

どこか遠く。鈴の音が鳴った気がして起き上がる。

――ちりん。ちりん。

規則正しい鈴の音が、木々の向こう側から近づいてくる。
何だろうか。複数の気配に毛が波立つ。様子を覗うため、人間の姿になって立ち上がった。

――ぽつっ、ぽつり。

まだ見えない何かを警戒する体に、冷たい滴があたる。肩を跳ねさせ見上げれば、青空の下、絹糸のように細い雨が音もなく降ってきていた。

「あぁ、今日だったのか」

思わず、というように零れ落ちたらしい彼女の言葉に、不思議に思って視線を向ける。懐かしむような、寂しいような、不思議な感情を目に宿した彼女に、不安になって声をかけようと口を開き。

――りん。ちりん。

近く、はっきりと聞こえた鈴の音に、振り返る。
木々の合間から、僅かに誰かの姿が見える。一人、ではなく、たくさんの。いくつもの松明が揺れるのに合わせて、ちりん、ちりんと音が鳴っていた。

――嫁入りだ。

これからお嫁にいくのだろう。朱い駕籠を見ながら思う。
花嫁さんは花婿さんの所へ行って、夫婦になるんだ。


「――あれ?」

鈴の音が止んだ。合間に覗く朱い駕籠も、動きを止める。
何かあったのだろうか。お嫁に行くのを中断するほどの、何かが。
はっきりとは見えないけれど、皆こちらを見ている気がする。駕籠の中にいるはずの、花嫁さんと目が合って。

不意に強く、風が吹き上がる。
風は菜の花を散らし、花びらを高く舞い上がらせた。空を漂う黄色は、色を溶かして形を変えて。

「――桜?」

ふわり、と舞い降りてきた一枚を手に取れば、それは白に似た薄桃色の桜の花びらになっていた。
風が吹く。桜に変わった花びらを、花嫁さんたちの方へと運んでいく。
桜に降られ。
皆がこちらに向かい、深くお辞儀をした。そんな気がした。

――ちりん。

鈴が鳴る。行列が動き始める。
愛しい花婿さんの所へと向かって、しずしずと歩き出していく。

――りん。

遠くなる鈴の音を聞きながら、ほぅ、と息を吐いた。行列を見送って、さっきの言葉の意味を尋ねようと彼女を振り返り。
彼女がどこにもいない事に気づいた。

「え?なんで、どうして…」

慌てて辺りを見渡すも、彼女の姿はどこにも見えない。
どこに行ってしまったのだろう。あの行列についていってしまったのだろうか。
それとも――。
ぐるぐると意味もなくその場を回る。ぐるぐると嫌な気持ちが胸の中で渦を巻き始める。
不安が不安を呼んで、回る足が段々に速くなっていく。
歩いていたのが早足になり。早足だったのが走り出す。そして次第に、二本足で走っていたのが、四本足で駆け出し始めた。
どうしよう、どうしよう、と気持ちが焦る。いっそあの行列を追いかけるべきだろうかと、木々の向こうへ向きを変え。

――風が吹き抜けた。

彼女の手のように優しい風が、逆立つ毛並みを撫でていく。力が抜けたように座り込んで、ぼんやり見上げたケヤキの枝に、白い何かを認めた。
目を凝らす。
白くとがった耳。艶やかな毛並み。しなやかな四本のしっぽ。

――白狐。神様の使い。

わたしのような、人間に望まれる事で存在を保つ妖とは違う、高位の存在。人間の祈りを、信仰を対価に、遙か遠い昔から人間を守ってきた神使。
静かに見下ろす白狐の金の眼に、動けなくなる。不安な気持ちが段々と解けていって。
そして何故だろう。泣きたくなってしまった。
世界が滲み出す。鼻の奥がツンとして、ぽろぽろと涙の滴が頬を伝っていく。
届かない。そう思いながら、ただ涙を流す。悔しいのか哀しいのか、自分でも分からない感情を抱いたまま、白狐を見つめる。
ゆらり、と四本の尾が揺れて。
涙に滲んだ彼女の姿が、さらにぼやけて消えた。



「――ねぇ、ごめんってば。いつまですねてるの」

ごめんね、と繰り返す彼女の声と触れる手の熱に、はっとして顔を上げる。
僅かに眉を下げた彼女と目が合って、どうしたの、と首を傾げた。

「だって何も言わないから。さすがに怒らせたかと思ったんだけど…もしかして、寝てた?」
「寝て、ない…はず」

体を起こして、さりげなく辺りを見渡す。一面の黄色い菜の花に、地面に濡れた感覚はない。

「雨、降ったっけ?」
「降ってないけど。やっぱり、寝てたんだ」
「そう、なのかな。雨が降って、花嫁さんの行列を見たんだけど」

夢、だったのだろうか。雨も、行列も、そして白狐も。
言われてみれば、酷く実感が薄い。それに彼女が何も言わずにいなくなる事など、落ち着いて考えてみればあり得ない事だ。
ほぅ、と息を吐く。優しく頭を撫でる手に、目を細めて擦り寄った。

「ねえ」
「何?」
「必ず秘密を教えてもらうからね」

届かない。今はまだ。
それでも、少しでも近づけるように手は伸ばせるから。

「期待してる。作った秘密を守ってみせて」

微笑む彼女に、まかせて、と笑顔を浮かべてしっぽを振った。



20250308 『秘密の場所』

3/8/2025, 1:53:30 PM