ざざ、ざざ、と。
聞こえるのは、波の音。僅かに欠けた月が、瞬く星が、夜の色に染まった海に淡い光を注いでいる。
あと少しすれば、日付が変わるだろう。
ざり、と砂を踏み締め、海へと近づいた。
見上げた空に星が降る。あの日と同じ、良い天気だ。きっと今回も繋がってくれる。
手にした電話の発信ボタンを押す。呼び出し音を聞きながら、静かに目を閉じる。
――一回、二回。
無機質な音が、鼓膜を揺する。
――三回、四回。
音に合わせて、深く呼吸をした。
――五回、
「――一年ぶりだね」
電話越しに聞こえるのは、変わらない彼女の声。懐かしさに、口元が緩む。
「そうだね…久しぶり。君はまだかえって来れそうにないの?」
「まだ駄目みたい。暗くて何も見えないし、自由に動く事も出来ないの…ごめんね。ずっと待たせて」
彼女には見えていないと知りながら、首を振る。問題ないよ、と静かに返しながら耳を澄ませ、彼女の言葉一つ一つに集中する。
彼女とこうして会話が出来るのは、この数分間だけなのだから。
「待たなくていいんだよ。この一年間で、あなたも変わったでしょう?いっそ私の事なんて綺麗さっぱり忘れて、新しい先を進んでよ」
「待つよ。これから先もずっと。君が戻ってくるまでここで待っているから」
だから早く戻っておいで、と。心の内で強く願う。
何年も前に海に攫われてしまった、彼女が戻るのを待ち続ける。
今でも鮮やかに思い出せる。
あの日も、空はどこまでも青く。まだ寒さが強く残っていた。
穏やかな午後。彼女を含めた多くの人が、海に攫われていった。あっという間の出来事だったと、僅かに残った人々は口にしていた。
それから何年も経ち。海から戻る者は多くいたが、彼女を含む幾人もの人は、未だに海に囚われたままだ。
海に生きるものの糧となった者。海そのものと同化してしまった者。そして海の底で繋がれている者。
その身が帰る事はないのかもしれない。
けれど魂が還る事は出来るであろうから。
「待つのは嫌いじゃない。どんな形であれ、君が戻ってきてくれるなら。そうしたらちゃんと先に進むよ」
「――馬鹿ね。本当に馬鹿…でも、ありがとう」
「どういたしまして、なんてね…そろそろ話題を変えようか。こうして話せる時間は、そんなにないのだから」
「そうね。いつものように、皆の事を教えてくれる?お父さん達は元気にしているかしら」
「皆、元気だよ。今日はさすがに寂しそうにしていたけどね」
小さく笑い、答える。彼女のために、この一年間の出来事を一つずつあげていく。
彼女の妹さんが今年の春に結婚する事。お兄さんの所に去年の暮れ、三人目の可愛らしい女の子が無事に生まれた事。
彼女のご両親が、ようやく彼女の事を話せるようになった事。
「今日はまだ難しいようだったけど、今年のお盆には、きっとちゃんとした法要が行われると思うよ」
「そっか…うん。そっか」
柔らかで静かな声が、相づちを打つ。嬉しそうに、それでいてどこか寂しい声音が、電話の向こうからぽつり、ぽつり、と聞こえてくる。
その声に混じり、微かに何かの音がした。
じじっ、ざざ、と。雑音が次第に大きさを増していく。
終わりが近い。明日が今日を過去にするために、もうすぐ訪れる。
それを彼女も察したのだろう。ねえ、と涙が滲む声で囁いた。
「星は綺麗かしら」
その言葉は別れの合図だ。
ゆっくりと目を開く。見上げた空には、美しく瞬く星の海が広がっている。
一つ、星が流れ。その後を追うように、また一つ、星が流れていく。
次々と流れていく星は、遙か遠くの海に落ち。その燦めきを反射して、いくつもの光の粒を水面にちりばめた。
「綺麗だよ。あの日の夜と同じくらい綺麗だ」
ふふ、と彼女が笑う。
その声も、目を開けた事で、さらに大きくなっていく雑音に掻き消されていく。
「さよなら。また来年、この場所で」
「さようなら。もしかしたら、来年まで待たなくてもいいかもね」
その言葉の意味は、きっと。
彼女の家族が、彼女の死を受け入れる事が出来たから、なのだろう。
そうであれ、と切に願う。消えていく彼女の声に、さようなら、ともう一度呟いて、静かに電話を持つ腕を下ろした。
遠く揺らめく光を見ながら、一つ呼吸をする。鼻腔を掠める焦げた匂いに、今日が昨日になってしまった事を知り、目を伏せた。
瞬間、炎が上がる。自身の体を焼き尽くす炎が、暗い海を明るく照らし出す。
肉の焦げる匂い。肺が焼かれ、呼吸が止まる。
海に攫われた彼女が知らない事。
あの日、彼女達が海に攫われてから程なくして。住んでいた街は海からもたらされた炎に焼かれた。
逃げ場などどこにもなかった。四方を炎に囲まれて、熱さと息苦しさを覚えながら意識は暗転した。
そして、ちょうど一年後の日。この場所で目覚めた。
手には彼女と連絡を取るために、最後まで握り締めていた電話を持って。一人、この海辺に佇んでいた。
ほぼ無意識に彼女へ電話をかけ。そうして今日まで、このほんの僅かな時間での会話を支えに、この場所で彼女を待ち続けている。
吹く風に乗って、黒い灰となった体が空に舞う。崩れ落ちていく体を、どこか他人事のように眺めながら、彼女を想い微笑んだ。
――いつまでも待とう。彼女が戻ってくるまで、それこそ永遠に。
ざざ、ざざ、と。
聞こえるのは波の音。
誰一人いない静かな海を、僅かに欠けた月と流れる星が。
淡く優しく照らしていた。
20250311 『星』
3/11/2025, 1:05:18 PM