「久しぶり」
数年越しに再会した彼女の笑顔は、最後に別れた時と何一つ変わらなかった。
「偶然だね。この辺りに住んでるの?」
「まぁな。お前こそ、どうした。こんな所にいるなんて」
噂では、彼女は今海外にいるとの事だったが。何故ここにいるのだろうか。
彼女から視線を逸らし、歩き出す。少し遅れて着いてくる彼女の足音を聞きながら、気づかれぬよう密かに息を吐いた。
人のいない、寂れた公園に足を踏み入れる。中央に小さな噴水のあるこの公園は、夏場になれば涼を求めて親子で賑わう事もあるが、今の季節ではそれもない。噴水と、ベンチがある以外は何もないここは、夏以外に訪れる者などなく、話をするのには丁度よかった。
「懐かしいね。相変わらず暑い日以外は誰もいないんだ」
「最近、近くに大型の遊具のある公園が出来てからは、余計にな」
「そうなんだ。知らなかった」
興味深げに噴水を覗き込む彼女を横目に、ベンチに座る。学生時代から変わらない無邪気な後ろ姿は、今でも周りを虜にしているのだろう。
「着いてきたって事は、話があるんだろう?」
「そうね。私が貴方に言いたい事は、あの時から一つだけよ」
振り返り、彼女は笑みを浮かべたまま近づく。蠱惑的な赤い唇が弧を描くのを、眉間に皺を寄せながら見つめていた。
「私達、やり直せないかしら?」
小首を傾げ、顔を覗き込まれる。別れてから幾度となく繰り返したやりとりに、嘆息しながらいつものように断ろうと口を開き。
ふと、思いついて彼女を見る。
「俺の願いを叶えてくれるなら、考えてやってもいい」
「本当に!?いいわ、何でも言って!」
頬を染め、今にも抱きついてきそうな彼女を制しつつ、その目を真っ直ぐに見つめる。逃げださぬよう手首を握り、静かに願いを口にした。
「俺の願いは一つだけだ…お前の部屋にあった姿見。あれを俺に寄越せ」
彼女の笑みが固まる。逃げようとする体を、握っていた手首を引く事で留め。姿見を寄越せ、と繰り返す。
――本物の彼女が閉じ込められている、姿見を。
「ぃや…いやよ、いや!あれは駄目。絶対に駄目なの!お願い、それ以外ならいくらでも叶えてあげるからっ!」
「それ以外に、お前に願う事はない。俺が欲しいのは偽物なんかじゃないんだ」
「っ!」
彼女の目が見開かれる。なんで、と震える唇が問うのを、いっそ笑い出したい思いで睨み付けた。
気づいていないと、本気で思っていたのだろうか。あからさまに変わっているというのに、それを他のさほど親しくもない奴が言うようにイメチェンの一言で納得するとでも思ったのか。
「あいつはな、お前と違って可愛いんだよ。臆病なくせに、人前ではいつも気を張って。周りのために、理不尽な事には強く意見をして生意気だとか言われてるけどな。一人ではいつも泣いて、それでも努力は怠らない…そんな可愛い後輩だったんだよ」
「う、そ。嘘よ!だって、お母さんもお父さんも、わたしの事、可愛いって。いい子だねって、言ってくれたもの!皆だって、可愛くなったねって、わたしの方がいいねって!」
「知るかよ。俺は本物以外、興味なんてねぇ。お前と付き合ったのも、あいつの手がかりを探すためなんだからな」
幼い子供のように首を振り、癇癪を起こす彼女の手首を引いて押さえつける。唇が触れそうな至近距離で、彼女を見据えて選択を突きつける。
「どうするんだ?俺のたった一つの願いを叶えてくれるのか、そうでないのか…姿見をくれなくても、俺は別の方法であいつを取り戻すけどな」
「――んで。なんで、わたしじゃ駄目、なの」
「言っただろ?あいつの方がお前よりよっぽど可愛いんだって。あいつのためなら、姿見の中で一生を終えても良いくらいだ」
彼女の目に、膜が張る。力が抜けて崩れ落ちた彼女は、一筋涙を溢して、選択した。
「――ん。あれ?」
暖かな何かに包まれているような、ふわふわした感覚に目を開けた。
暗い。何一つ見えない暗闇は、目を開けていても閉じても変わらない。
わたしと入れ替わってから、どれだけの時間が経ったのだろう。気づけば実家の蔵の奥に、布をかけられてしまわれて。あれからわたしがどうなったのか、分からないままだ。
わたしは学生生活を楽しめているだろうか。先輩を追う形で受けた高校は地元から遠く、仲の良い友達は誰もいない。私と違って可愛いわたしならば大丈夫だとは思いたいけれど、それだけが心配だった。
自分でも可笑しな気持ちだとは思う。私をここに閉じ込めたのは紛れもないわたしなのに、恨む気持ちも怖がる気持ちも何一つない。
あるのは心配と、少しばかりの寂しさだけだ。
きっと入れ替わった時のわたしが、私よりもうんと可愛かったからなのだろう。ずっと憧れていた、理想の可愛いわたし。先輩の隣に堂々と立てるような、可愛いわたしがいてくれる事が、泣きたいくらいに嬉しかった。
一人ぼっちの寂しさは確かにある。けれどそれ以上に――。
目を閉じる。変わらない暗闇に苦笑して、もしも、を想像する。
もしも。たった一つ願いが叶うのだとしたら。
「わたしと、先輩が。ずっと幸せに」
「それはごめんだな。なんで偽物なんかと幸せにならなきゃなんねんだ」
「――ぴゃぁ!?」
背後から、と言うより耳元で聞こえた声に、飛び上がる。けれど実際には飛び上がった気になっただけで、体は少しも動かなかった。
何故だろう。そう言えば、この暖かなものは何だろうか。
その前に、聞こえた声はもしかして。
「せ、先輩?」
「よぉ。久しぶりだな。暗くて何にも見えないが、相変わらず小さくて可愛いな、おまえ」
「ひぇ!?な、なんで、ここに…というか、なに、これ。なんで、私」
情報が多すぎて、頭が混乱する。何故、先輩がここにいるのか。何故、すぐ後ろから先輩の声がするのか。何故、背中が温かいのか。
何故、何故、何故。
腰に回る暖かな何かに、そっと触れる。恐る恐る指で辿っていけば、急に何かに手を取られ繋がれた。
これは、手だ。大きな手が私の手を捕まえて、指を絡めて繋いでいる。
それが誰の手なのか。少し考えるだけで、心臓が破裂しそうなくらいに騒がしくなる。
「なんでって、そりゃあ。偽物に閉じ込められた、可哀想な本物のお姫様を助けにきたに決まってるだろ?」「た、助けにって…え、それって。つまり。わたし、は…?」
「偽物の心配なんかすんなよ。相変わらずのお人好しだな…そんなとこがまた、可愛いんだけどな」
「か、かわっ!?」
先輩の言葉一つで、顔に熱が集まり出す。誰にも言われる事のなかった可愛いを、まさかの先輩に言われて訳もなく泣きたくなってくる。
取りあえず、この場から逃げ出したかった。そう思って繋がれた手を解こうとするも逆に強く絡め取られ、さらに強く抱き竦められる。
「ちょっとおとなしくしてような。なんせ、とっても疲れてるんだよ、俺。本物のおまえを取り戻す方法をずっと探して、ようやく元凶に姿見の場所を聞き出して…本当に疲れたんだ」
「つ、疲れたんでしたら、お休みになったら、どうでしょう?」
「ん。だからしばらくこのままで、な…お休み」
「せ、先輩ぃ!?」
何一つ分からないまま。会話がかみ合わないまま、耳元で規則正しい寝息が聞こえ始めてくる。
「え?ちょっと…え、ほんとに?ねぇ、先輩」
声をかけても返らない声に、途方にくれて項垂れる。
どうやら先輩が起きるまで、このままでいる事が決定らしい。
はぁ、と溜息を吐く。その息もどこか熱くてくらくらする。
離そうとしてもまったく離れようとしない、大きな手の熱で溶けてしまいそうだ。
「早く起きて下さい。お願いですから」
そっと声をかけても、返ってくるのは寝息だけ。
お願いです、と泣きたい気持ちで囁いた。
「離れて下さいよ、先輩。でもって、顔を見せて下さい」
どうか、と。起きて欲しいのに、起こさないように声を潜めながら繰り返す。
一つだけでいいので願いを叶えて下さい、と。
穏やかな先輩の寝息を聞きながら、只管に願った。
20250310 『願いが1つ叶うならば』
きん、と冷えた朝ぼらけの空の下。幼い少年は一人、吐く息を白く染めながら家の軒下を見上げていた。
昨夜母から聞かされた、氷柱が娘になったおとぎ話を思い出しているのだろう。その目には隠し切れぬ好奇心を浮かべ、飽く事なく陽の光を反射して煌めく氷柱を眺めていた。
――ことん。
どこからか音がした。
音の在処を探して、少年の視線が氷柱から逸れる。
――ことん。かたん。
どうやら音は井戸の横。誰かが片付け忘れた桶からしているらしい。
恐る恐る、足音を立てぬようゆっくりと、少年は桶に近づく。
幾許かの恐怖と、それを遙かに超えるほどの好奇心を目に浮かべ。慎重に桶の中を覗き見る。
「――ぁ」
目を見張り、小さく声を漏らす。
厚い氷に覆われた桶の底。白の着物を来た、少年と同じ年の頃に見える美しい少女が座っていた。
少女が徐に顔を上げる。惚けたように言葉なく見下ろす少年と目を合わせ。
ふわり、と微笑んだ。
「ああ」
花開くように美しい、その微笑みに。
一目で心を奪われた。
暖かな日差しに、男は目を細める。
思わず見上げた軒下に、下がる氷柱は数日と比べ明らかに小さく、数も少ない。
周囲を見渡す。溶けかけた雪の下から覗く大地は、茶に混じり緑が垣間見える。木々の枝にも膨らんだ蕾が白と茶や黒だけの世界に彩りを添えようとしている。
春の訪れが違い。長く閉ざされた冬が終わりを迎えようとしていた。
「どうされたのですか」
家の中から聞こえた声に、男は振り返る。玄関を開けたまま立ち尽くす男を心配し近寄る妻に、何もないと首を振り答え。
痩せ細っていく、愛しい妻を抱き寄せた。
「春の訪れが近いな」
「そうですね。数日も過ぎれば別れの時が来るのでしょう」
穏やかな妻の声音に、そうか、とだけ呟いて、男は目を伏せた。
人ではない妻は、冬の訪れと共に男の家を訪れ、冬の終わりと共に去って行く。
また冬になれば会えると理解していても、妻との別れは切ないものだ。しかしその定めを受け入れた上で、男は妻を娶った。それだけ男は妻を深く愛していた。
「――お願いです。どうか」
「断る」
ぽつりと呟かれる妻の言葉を、男は遮るように否定する。その先を言わせまいと、妻を抱く腕に力を込めた。
「俺の妻はお前だけだ。お前以外など必要ない」
「ですが」
「何と言われようと、俺はお前を待ち続ける。離縁など認めはしない」
嗚呼、と吐息にも似た声を溢し、妻は静かに目を伏せる。頑なな男に一筋涙を溢し、されど口元だけは笑みを浮かべて、男の胸に擦り寄った。
妻が男に離縁を申し出たのは、数日前の夜の事だった。
「お願いがあるのです」
居住まいを正す妻に、男もまた居住まいを正し妻を見た。
「わたくしと離縁して頂きたいのです」
柔らかな笑みを湛えた妻の言葉を、男はすぐには理解出来なかった。
「なに、を、言っているんだ」
「わたくしと離縁して下さい」
繰り返される言葉にようやく理解が追いつき、男は何故、とだけ口にする。僅かに見開かれた目は、強く咎めるように、それでいて不安に揺れながら妻を真っ直ぐに射竦めた。
「ずっと思っていたのです。あなたをわたくしから解放すべきではないか、と」
静かに語る妻の表情は、とても穏やかだ。
「冬の間しかあなたと共にいられぬわたくしは、あなたに相応しくはありません。それを分かっていながら、わたくしはあなたを手放す事が出来なかった…あなたをお慕いする気持ちが、想像でもわたくし以外の女と契るあなたを認めたくなかった」
「俺がお前以外を愛する訳がないだろう」
「分かっています。あなたはわたくしを愛して下さる。人間ではない、人間よりも醜いわたくしを妻として大切にし、待っていて下さる」
微笑みながら、妻は一筋涙を流す。頬を伝い落ちるその滴は、次第に氷となって、微かな音を立て床に落ちた。
それを見て、男は無言で腕を伸ばす。目尻に残る滴を拭い、そのまま細い肩を引き寄せる。
「離縁はしない」
低く静かな声に、妻の肩が微かに震える。目を伏せて声なく涙を流す妻の背をさすりながら、男は離縁はしない、と繰り返した。
「待つのは慣れている。何度お前と出会い、別れたのだと思っているんだ」
「ですが、でもっ」
「お前を愛している。桶の底にいたお前と出会った時から、お前だけを愛しているんだ。今更他の者に対して、何の情も浮かばないだろう…お前だけだ」
「わたくしは…わたくしもお慕い申し上げています。あなただけを、ずっと」
「嗚呼」
男は妻の頬に手を添え、顔を上げさせる。涙に濡れる瞳が男を認めて揺れ、ふわり、と微笑んだ。
その微笑みに男も笑みを返し。
そっと、口付けた。
「言ったはずだ。お前を愛している。例え次の冬にお前が俺の元へ帰って来なくとも、俺は待ち続ける。俺の命が尽きるまで、いつまでも」
擦り寄る妻の髪を撫ぜ、男は笑う。
落ち着いてきた妻の額にそっと唇を触れさせて、体を離した。
「いってくる」
「――いってらっしゃいませ」
微笑む妻に背を向けて、男はいつものように外へ出る。
春の気配を感じながらも、普段と何一つ変わらず仕事へと向かう。
「いってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
男の背を見送りながら、妻はまた一筋涙を流し微笑んだ。
その滴は、差し込む陽の光で氷になる事なく、地面に一つ染みを作った。
ある男がいた。
冬に在る妖に心を奪われた、変わり者の男が。
男は妖を娶り、冬の間だけ夫婦として長く暮らしていた。
だがいつの頃からか。
男の家からは、楽しげな子供の声が聞こえてくるようになった。冬の間だけではなく、一年。男と子供達と、そして冬には妻と。
妻のいない季節。男は子供達を連れ仕事に出かけた。山奥で木を切り、子供達は木の実や山菜、薬草を採る。
そして夕刻になり。家に帰るその前に。
山奥にある滝の裏。ひっそりとした洞窟の中へと、男と子供達は足を踏み入れる。
その奥は夏でも涼しく、冬に張った氷や雪を貯蔵しても溶けてしまう事はない。
夜の帳が降りるまで男と子供達はそこで過ごし、家へと帰っていく。
そこに何があるのか。誰がいるのか。
それは、男と子供達だけが知っている。
20250309 『嗚呼』
※おまけ
姿見の前で、くるり、と一回転。
可愛くない。折角の可愛い制服も私が着ているのだと思うと、急にダサく感じてしまって唇を噛みしめた。
もっと可愛くなりたい。誰よりも可愛く、先輩に振り向いてもらえるような女の子に。
鏡の中の私を睨み付ける。生意気そうな目が、余計に気に障った。
「あんたなんか大嫌い」
鏡に手を当てて吐き捨てる。本当に、可愛くない。
「そうね。わたしも嫌いだわ」
鏡の中の睨む私の顔がぐにゃり、と歪んだ。
唇の端を上げて、にやり、と嫌な笑みを浮かべている。
「――ひっ」
慌てて離れようとしたけれど、鏡に触れていた手が掴まれて、強く引きずり込まれていく。
「いや。やめて。やめてって!」
離そうとしても離れない。どんどんと手が腕が、鏡の中に呑み込まれていく。
「わたしが私になってあげる。わたしの方が可愛いものね」
くすくす、と声を上げて、鏡の中の私が笑う。
それは私よりも綺麗で可愛くて。
「嗚呼、ああ」
一瞬だけ、変わっても良いかな、と思ってしまった。
それがいけなかったのだろう。さらに強い力で引かれ、私は鏡の中に呑まれていく。
「ばいばい。可愛くない私」
楽しげな声がする。私の声で、笑っている。
それは私なのか。それとも鏡の中にいたわたしなのか。
嗚呼、もう分からない。
反転した世界に引き込まれ。
鏡を覗いて見える向こうの世界の私が、ふわり、と可愛い笑顔を浮かべ、くるりと回った。
獣道を辿り、木立を抜ける。大きな洞の出来たケヤキの木を過ぎれば、目の前の景色はがらり、と色を変えた。
開けた視界一面に広がる、鮮やかな黄色。悪戯な風に運ばれた甘い香りを目一杯吸い込んで、誘われるように菜の花畑に足を踏み入れる。
彼女に教えてもらった、特別な場所。
わたしと彼女だけの、特別な秘密。
ふふ、と声が漏れる。嬉しくて、幸せで。跳ねるように奥へと向かう。
「ごめんっ!待った?」
菜の花を掻き分けて進んだ先。座って本を読む彼女に声をかける。
「別に。私が早く来すぎただけ」
本を閉じて、彼女は微笑う。
それだけで嬉しくなって、勢いよく彼女に飛びついた。
「ちょっと、危ないよ」
「ごめんね。嬉しくて!」
窘める言葉は、けれど頭を撫でる手と同じくらいに優しい。細く綺麗な指が頭を、耳の裏を、顎の下を撫でて、その心地良さにゆらゆらとしっぽが揺れる。
「相変わらず、化けるのが下手な狸さんだ」
「それは言わないで!気にしてるんだから」
むくれてそっぽを向く。しっぽで彼女の膝をてしてし、と叩いて、不機嫌だと主張すれば、柔らかな声がごめんね、と囁いた。
宥めるような優しい手が背を撫でる。それだけで許してしまってもいいかな、と思えるのは、きっと彼女だけだ。
静かで、優しくて、不思議な彼女。わたしが妖だと気づいていても親友になってくれた、大切な人間。
「わたし、成長途中なんだから。すぐに化けるのも上手になるし。びっくりするような秘密だって作れるようになるんだから」
「そうだね。期待してる」
静かに笑われて、いじわる、とさらにむくれて頭を彼女の胸に押しつける。
――秘密を一ヶ月守り通せたら、彼女の秘密を教えてもらえる。
その約束は、未だに叶えられていない。
彼女が聡いのがいけないんだ、と心の中で言い訳をして、彼女の膝から降りて丸くなった。
――ちりん。
どこか遠く。鈴の音が鳴った気がして起き上がる。
――ちりん。ちりん。
規則正しい鈴の音が、木々の向こう側から近づいてくる。
何だろうか。複数の気配に毛が波立つ。様子を覗うため、人間の姿になって立ち上がった。
――ぽつっ、ぽつり。
まだ見えない何かを警戒する体に、冷たい滴があたる。肩を跳ねさせ見上げれば、青空の下、絹糸のように細い雨が音もなく降ってきていた。
「あぁ、今日だったのか」
思わず、というように零れ落ちたらしい彼女の言葉に、不思議に思って視線を向ける。懐かしむような、寂しいような、不思議な感情を目に宿した彼女に、不安になって声をかけようと口を開き。
――りん。ちりん。
近く、はっきりと聞こえた鈴の音に、振り返る。
木々の合間から、僅かに誰かの姿が見える。一人、ではなく、たくさんの。いくつもの松明が揺れるのに合わせて、ちりん、ちりんと音が鳴っていた。
――嫁入りだ。
これからお嫁にいくのだろう。朱い駕籠を見ながら思う。
花嫁さんは花婿さんの所へ行って、夫婦になるんだ。
「――あれ?」
鈴の音が止んだ。合間に覗く朱い駕籠も、動きを止める。
何かあったのだろうか。お嫁に行くのを中断するほどの、何かが。
はっきりとは見えないけれど、皆こちらを見ている気がする。駕籠の中にいるはずの、花嫁さんと目が合って。
不意に強く、風が吹き上がる。
風は菜の花を散らし、花びらを高く舞い上がらせた。空を漂う黄色は、色を溶かして形を変えて。
「――桜?」
ふわり、と舞い降りてきた一枚を手に取れば、それは白に似た薄桃色の桜の花びらになっていた。
風が吹く。桜に変わった花びらを、花嫁さんたちの方へと運んでいく。
桜に降られ。
皆がこちらに向かい、深くお辞儀をした。そんな気がした。
――ちりん。
鈴が鳴る。行列が動き始める。
愛しい花婿さんの所へと向かって、しずしずと歩き出していく。
――りん。
遠くなる鈴の音を聞きながら、ほぅ、と息を吐いた。行列を見送って、さっきの言葉の意味を尋ねようと彼女を振り返り。
彼女がどこにもいない事に気づいた。
「え?なんで、どうして…」
慌てて辺りを見渡すも、彼女の姿はどこにも見えない。
どこに行ってしまったのだろう。あの行列についていってしまったのだろうか。
それとも――。
ぐるぐると意味もなくその場を回る。ぐるぐると嫌な気持ちが胸の中で渦を巻き始める。
不安が不安を呼んで、回る足が段々に速くなっていく。
歩いていたのが早足になり。早足だったのが走り出す。そして次第に、二本足で走っていたのが、四本足で駆け出し始めた。
どうしよう、どうしよう、と気持ちが焦る。いっそあの行列を追いかけるべきだろうかと、木々の向こうへ向きを変え。
――風が吹き抜けた。
彼女の手のように優しい風が、逆立つ毛並みを撫でていく。力が抜けたように座り込んで、ぼんやり見上げたケヤキの枝に、白い何かを認めた。
目を凝らす。
白くとがった耳。艶やかな毛並み。しなやかな四本のしっぽ。
――白狐。神様の使い。
わたしのような、人間に望まれる事で存在を保つ妖とは違う、高位の存在。人間の祈りを、信仰を対価に、遙か遠い昔から人間を守ってきた神使。
静かに見下ろす白狐の金の眼に、動けなくなる。不安な気持ちが段々と解けていって。
そして何故だろう。泣きたくなってしまった。
世界が滲み出す。鼻の奥がツンとして、ぽろぽろと涙の滴が頬を伝っていく。
届かない。そう思いながら、ただ涙を流す。悔しいのか哀しいのか、自分でも分からない感情を抱いたまま、白狐を見つめる。
ゆらり、と四本の尾が揺れて。
涙に滲んだ彼女の姿が、さらにぼやけて消えた。
「――ねぇ、ごめんってば。いつまですねてるの」
ごめんね、と繰り返す彼女の声と触れる手の熱に、はっとして顔を上げる。
僅かに眉を下げた彼女と目が合って、どうしたの、と首を傾げた。
「だって何も言わないから。さすがに怒らせたかと思ったんだけど…もしかして、寝てた?」
「寝て、ない…はず」
体を起こして、さりげなく辺りを見渡す。一面の黄色い菜の花に、地面に濡れた感覚はない。
「雨、降ったっけ?」
「降ってないけど。やっぱり、寝てたんだ」
「そう、なのかな。雨が降って、花嫁さんの行列を見たんだけど」
夢、だったのだろうか。雨も、行列も、そして白狐も。
言われてみれば、酷く実感が薄い。それに彼女が何も言わずにいなくなる事など、落ち着いて考えてみればあり得ない事だ。
ほぅ、と息を吐く。優しく頭を撫でる手に、目を細めて擦り寄った。
「ねえ」
「何?」
「必ず秘密を教えてもらうからね」
届かない。今はまだ。
それでも、少しでも近づけるように手は伸ばせるから。
「期待してる。作った秘密を守ってみせて」
微笑む彼女に、まかせて、と笑顔を浮かべてしっぽを振った。
20250308 『秘密の場所』
歌が聞こえた。
夜に溶けていくように静かな。愛おしい誰かのための、その生を心から喜び慈しむような、そんな優しい歌。
「――ラララ、ラーラ、ラーララ…」
窓辺に腰掛け空を見る。白い弓張り月を見上げ、聞こえる歌に耳を澄ませた。
朝はまだ遠い。夜泣きをする子でもあやしているのだろうか。ゆったりとした旋律をなぞる歌声は、子を想う気持ちに溢れている。
それは母の歌だ。我が子を愛す母の、子の行く末に幸せを想う、願いの歌だった。
「――ラ、ラーラーラ…」
目を細め、自嘲する。
思い起こされるのは、幼い少女の笑顔だ。小さな体には大きすぎる桶を両手で抱え持ち、古びた祠の掃除をする。誰よりも純粋で無垢だった、愛しい子の面影だ。
己が両手に視線を落とす。白く小さな手。未だ大人になりきらぬ、成長途中の少女の手。
それは、少女に成り代わった妖が、穢してしまった手だった。
「ここにいたんだ」
不意にかけられた声に、妖はゆるりと視線を向ける。
部屋の隅でとぐろを巻く、旧知の白蛇を認めて微笑んだ。
「久しいな。幸いだったようでなによりだ」
「君も相変わらずだね。いつまでも旅を止めないから、探すのに苦労したよ」
「何用か。今更、私を止めにでも来たのか」
凪いだ声音に、白蛇は相変わらずだね、と呟き音もなく近寄る。器用に壁を伝い窓枠に乗り上げて、静かに妖を見上げた。
「君の…正しくは、君の中にいる娘の望みを聞きに来た」
「……言っている意味が、分からんな」
眉を寄せる妖に、白蛇はそのままの意味だよ、とだけ伝え。未だ聞こえる歌声を辿るように、外へと視線を向けた。
それに習うように、妖もまた外へと視線を向ける。変わらずどこからか聞こえる歌に耳を澄ませ。
その頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
「っ…これ、は」
はっとして、妖は己の頬に触れる。止めどなく流れ続ける涙に指を濡らし、その温かさに何故、と小さく呟いた。
胸に手を当てる。妖が少女に成り代わってから刻まれなくなったはずの鼓動を僅かに感じ、さらに涙が溢れ出した。
「目覚めて…いる、のか」
「それだけ娘は、母を愛していたのだろうね。それでいて、君に対して一切の負の感情を抱いていない…いっそ憐れなほどに純粋な娘だよ」
胸に手を当てたまま、妖は目を閉じる。
呆れたように、それでも哀しげに。呟く白蛇の声を遠くに聞きながら。慈しむ母の歌を導にして。
眠らせた少女の心の内へと、意識を沈めていく。
歌が聞こえる。子を想う母の歌。
それに重なるようにして、微かな歌声が聞こえてくる。
「――らら、らら、ららー…」
幼く、拙い歌。覚えたての歌を口遊むかのようなたどたどしさに、向かう足が速くなる。
白い、或いは黒の空間を駆け抜け。聞こえる歌を、只管に目指す。
そうして辿り着いたのは、一つの部屋。
広い室内の中心で、幼子が歌っていた。
目覚めたばかりなのだろう。時折目を擦りながら、それでも歌い続けている。
母の歌に、その慈しむ想いに応えているのだ。
何故か、そう思った。
「君の望みは、何」
すぐ側で声が聞こえ、視線を向ける。いつの間にか肩から腕に巻き付いた白蛇が、静かに幼子を見据えていた。
歌が止む。ぱちり、と瞬いた目が白蛇を見つめ、そして妖へと視線を移して、首を傾げた。
「のぞみ?」
「そうだよ。君は今、何を望むの」
問いかける白蛇に、幼子の視線が揺らぐ。問いの答えを探すように視線は室内を彷徨い。一つ瞬いて、再び妖へと視線を向けた。
「――おかあさん、は」
真っ直ぐな視線は妖だけを見つめ、抑揚の薄い声が言葉を紡ぐ。
続くであろう言葉を察し、思わず視線を逸らしかける妖に、逃げるな、と白蛇は小さく告げる。その言葉に僅かに肩を揺らし短く息を吐いて、幼子の虚ろに揺らぐ目を見返した。
「おかあさんは、わらっていたよ」
「――な、に」
「さいごにわらっていたの。きっととめてほしかったんだ…おわりがほしかったんだよ」
淡々とした幼子の言葉は、妖を責める言葉ではない。予想したものと異なる言葉に困惑し、妖は一歩だけ幼子の元へと足を進める。
「わたし。あなたにちゃんと、ありがとうがいえなかった…ずっと、言いたかったんだ。私の望みに応えてくれてありがとう。お母さんに終を与えてくれて…その後も側にいてくれてありがとう」
幼子の姿が揺らぐ。成長し、元の少女の姿まで戻る様を見ながら、妖はそれに惹かれるようにして足を進め。
少女の元へと歩み寄る妖もまた、姿が揺らぎ。元の紅い大蛇の姿となって、少女の腕に擦り寄った。
「すまなかった。お前の望みを違えて応えてしまった」
「ううん。あれで良かったんだ。私が弱かったから、ちゃんと言えなくてごめんなさい」
寄り添い、微笑んで。語る少女と妖に、白蛇は小さく息を吐く。誰かが止めねばいつまでも終わる事のないであろうやり取りに、妖の頭から少女の腕を伝い、そのまま肩に乗って呆れたように舌を出す。
「そこまでにしてね…それで、望みは何なのさ」
「私は、別に…お礼が言えればそれで良かったから」
「――言い方を変えるよ。君はこの先、どうなりたいの」
白蛇の言葉に、少女は目を瞬く。眉を下げ、白蛇と妖に視線を向けて。
――歌が、聞こえた。
優しい、子を慈しむ母の歌声。少女の母のものではないその声に、けれど少女は目を細めて泣くように微笑い。
「そう、だね…眠りたい、かな」
歌に掻き消されてしまいそうなほど微かな声で、少女は呟いた。
「それなら、行こうか」
静かな声に、少女は白蛇へと視線を向ける。
「何処へ行くつもりだ」
妖もまた白蛇を見るが、その視線を気にする事なく、決まっているだろう、と白蛇は告げた。
「常世《とこよ》。人間が眠る場所はそこだけだよ」
「妖である私と同化しているこの子が、常世に渡れる手段があるのか」
訝しげに妖は問う。かつて少女の望みに応える対価として妖と同化した事で、少女は人間ではなくなり。故に常世に還る事は出来なくなったはずであった。
「君達が一緒に眠るなら、何とかしてくれるってさ…つまりは、眠って新しく目覚めた君は蛇憑きになるのが決定しているって事さ」
「蛇憑き?」
「君達はずっと一緒って事だよ」
つまりは憑き物筋として、次の生を歩まなければならないという事だ。様々な制限と苦難が待ち受けている事を察し、妖は少女の行く末を嘆き項垂れる。しかし少女は白蛇を見つめ、そして妖を見て、ふわりと微笑んだ。
「一緒にいても、いいの?」
「――物好きだね、君。こんな早とちりばかりする蛇のどこがいいんだか」
呆れたように呟いて、白蛇は行こうかと鎌首を擡げて道を示す。
それに頷く少女を見て、妖は己の身を小さくし、少女の腕に絡みついた。
「常世への道ならば私にも分かる。お前まで着いてくる必要はない」
「いいじゃないか。蛇が一匹増えた所で、そう大きくは変わらないだろう」
少女の肩から動こうとしない白蛇の答えに、妖は思わず威嚇するように舌を出す。そんな妖を宥めるように頭を撫でながら、少女は小さく首を傾げた。
「いいの?お屋敷を守らなくて」
「大丈夫さ。必要になれば、僕じゃないモノが応えて、白蛇になるだろうからね」
「どういう意味?」
「そのままの意味さ。物語の配役は僕じゃなくてもいいって事だよ」
よく分からない。そう呟いて、腑に落ちない顔をしながらも少女は進み続ける。
「妖なんて、人間の認識によって在るモノだからね。自由なのさ」
「自由、ね。私と一緒にいるのは、自由になるのかな」
「気にするな。これの意思よりも大切なのはお前の意思だ。いらぬなら、そこらに捨て置けばいい」
不機嫌に妖は呟くが、少女は笑って首を振る。
その優しさに、妖は嘆息するのを白蛇は楽しげに声を上げて笑った。
「笑うな」
「いいじゃないか。賑やかな方が楽しいだろう」
「確かに。一人でないのは、心強いよ」
白蛇は笑い、少女は微笑んで。
妖は呆れながらも、僅かに口元を綻ばせる。
穏やかに、けれど賑やかに歩く、一人と二匹を見送るように、遠くで歌声が響く。
子を想う、優しい母の歌声が。
20250307 『ラララ』
柔らかな風がカーテンを揺らし、窓際に置かれたテーブルに薄紅の花弁を散らす。
「あら?」
読んでいた本を閉じ、女は花弁を手に取り窓の外を見る。見える範囲に花弁と同じ色をした花はない。そも、未だ寒さの残るこの季節に咲く花など、この辺りにはなかったはずだ。
「あなたはどこから来たのかしら?」
指先で花弁をなぞり、女はくすくすと笑う。揺れるカーテンに視線を向けて、ありがとう、と囁いた。
「遠くの方では、もう春が来ているのね。この庭にはいつ頃来てくれるのかしら」
目を細め遠くを見つめる女の眼は、少女のように煌めいて。
「春が来て、花が咲いたのなら。そうしたら皆でお花見をするのもいいわね。お弁当をたくさん作って…楽しみでしょう?」
見えない何かと語る女は春を夢見て頬を染め、ほぅ、と吐息を溢した。
その言葉に応えるように、風が吹き抜ける。カーテンを揺らし、女の髪を悪戯に乱して、自由気ままに駆け抜けていく。
それを笑って見送って、楽しみね、と繰り返し。
こほん、と咳を一つ。
ひゅう、と喉が鳴って。
「少し、疲れたみたい…皆が戻ってくるまで、ちょっとだけ。ほんのちょっと、眠っていよう、かしら」
机の上に身を伏せる。待ち人を想い、口元に微笑みを浮かべ。眼を閉じて、息を吐き。
そのまま眠りに落ちるように、静かに女は自身の時計の針を止めた。
はぁ、と重苦しい息を吐き、着替えもせずにベッドに横になる。
母が亡くなって一年が経った。一年経っても、未だに母の死はどこか遠い。
それはあの日。眠るようにその時を止めた母が、死とは無縁の穏やかな表情をしていたからなのだろう。
「――疲れた」
酷く疲れていた。皺になる前に礼服を脱いでしまいたいと、冷静な自分は急かしている。けれど心の内の本能に近い自分が、頑なに動く事を拒否している。
「疲れた、な」
肉体的に、ではなく。精神的に。
母の死を受け入れているとはいえ、その死と改めて向き合うのは、精神を摩耗させる。心の奥底の柔く繊細な部分を、容赦なく抉り取って行く気すらした。
目を閉じる。少しだけ、と誰にでもなく言い訳をして、微睡みに身を任せた。
不意に、どこからか甘い香りが、した。
薄目を開けて、視線を巡らせる。かたり、と音のする方へと視線を向けて、そこで始めて窓が開いている事に気づいた。
かたん、と音を立てて風が窓枠を通り過ぎ。カーテンを揺らし、ベッドシーツを波立たせて、何かを目の前に落として去って行く。
「な、に…?」
気怠い腕を持ち上げ、目の前のそれへと伸ばす。濃い紅色をしたそれは、よく見れば梅の花だった。
内心で首を傾げる。家の庭には梅の木は植えてなかったはずだ。
「邪魔をするぞ」
聞こえた声に、視線を向ける。体を起こそうとして、けれど重く怠さの強い体は動く事を只管に拒み、ほんの僅かもベッドから離れる事はなかった。
「あぁ、気にするな。母御の一年忌だったのだろう。疲れて当然だ。親しき者の死と向き合うのは、疲労を伴うものだ」
「――すみません」
穏やかに笑う彼に、小さく謝罪をする。気にするな、と繰り返して、彼は静かにこちらに歩み寄ると、そのままベッドに腰をかけた。
「庭のモノらが心配をしていたぞ。風が儂らの所まで便りを運ぶくらいだ」
大きな手が優しく頭を撫で、そっと視界を塞ぐ。
「落暉《らっき》、さん?」
「――穢れに中てられたのだろう。死とは、誰であれ、どんな形であれ穢れを呼びやすいからな」
「穢れ…」
眉が寄る。母の死を不浄だと思えなかった。
「死を忌むべきものだと、古くから人間は怖れているからな。仕方のない事だ。死に対して、悲嘆や苦痛といった負の感情が纏わり付けば、それは穢れの形をとる。どんなに穏やかな死であれ、残された者が負の感情を持てば穢れとなり、それは精神を摩耗させる」
そうか。哀しいのか。
哀しくて、寂しい。そういった想いが、母の一周忌に集まった人達の中で溢れてしまって。
自分は今、その想いで溺れかけているのか。
「疲れた時は、休むといい。父御に書き置きを残しておいた。しばらくは儂らの元でゆるりと過ごせ」
きぃん、と耳鳴りに似た音がする。地面が揺らぐ感覚がして、縋るものを求めて目を塞ぐ彼の手を掴んだ。
「怖がる事はない…ほら、着いたぞ」
穏やかな声と共に手を外される。急な眩しさに目を細めつつ、辺りを見渡した。
見覚えのある部屋だ。自分の家とは違う、木とい草の匂いのする和室。
ここは彼が何よりも大事にしている、彼女の屋敷だ。
「ちょっと!?何やってるの!」
襖が開く音と共に、聞き覚えのある声がした。目を瞬いて焦点を合わせ、声のした方へと視線を向ける。
「樹《たつき》、大丈夫?」
「――桔梗《ききょう》?」
「うん。そうだよ。気持ち悪くない?苦しかったり、痛い所があったらすぐに言って」
側に駆け寄ってきた彼女の名前を呼べば、心配そうに眉を寄せながらも微笑まれる。無理に起き上がったために、ふらつく体を支えてくれる彼女に申し訳なく思いながらお礼を言った。
「ありがとう。ごめん」
「気にしないで。落暉の馬鹿が無理に連れてきたんだろうから。こっちこそごめんね」
眉を下げて謝る彼女に首を振り、ふと視線を巡らせた。
側にいたはずの彼の姿が、どこにもない。
「落暉さんは?」
「出て行った。台所の方へ行ったみたい」
まったく、と嘆息して、彼女は彼が出て行ったであろう障子戸を睨み付ける。ゆるりと頭を振って、支えていた体を横にさせ、布団をかけられた。
「え?ちょっと」
「少し寝た方がいいよ。ここにいてあげるから」
さっき彼がしたように、彼女の手が目を塞ぐ。暗くなった視界で、意識が揺らいだ。
遠く、誰かの声が聞こえた。彼女の答える声も、どこか遠い。
「風が、樹のお父さんが元気になるまでここにいていいよ、だって」
柔らかな彼女の声に、ありがとう、と小さく返す。目を一つ瞬いてから、ゆっくりと閉じた。
風が頬を撫でる感覚がした。ふわり、と花の香りがして、思わず深く息を吸い込んだ。
重い怠さが消えて、後は心地の良い微睡みがさらに眠気を誘う。
「樹は皆に愛されてるね」
くすくす笑う彼女の笑い声を聞きながら、それはお互い様だよ、と声に出さずに呟いた。
20250306 『風が運ぶもの』