sairo

Open App

歌が聞こえた。
夜に溶けていくように静かな。愛おしい誰かのための、その生を心から喜び慈しむような、そんな優しい歌。

「――ラララ、ラーラ、ラーララ…」

窓辺に腰掛け空を見る。白い弓張り月を見上げ、聞こえる歌に耳を澄ませた。
朝はまだ遠い。夜泣きをする子でもあやしているのだろうか。ゆったりとした旋律をなぞる歌声は、子を想う気持ちに溢れている。
それは母の歌だ。我が子を愛す母の、子を行く末に幸せを想う、願いの歌だった。

「――ラ、ラーラーラ…」

目を細め、自嘲する。
思い起こされるのは、幼い少女の笑顔だ。小さな体には大きすぎる桶を両手で抱え持ち、古びた祠の掃除をする。誰よりも純粋で無垢だった、愛しい子の面影だ。
己が両手に視線を落とす。白く小さな手。未だ大人になりきらぬ、成長途中の少女の手。

それは、少女に成り代わった妖が、穢してしまった手だった。



「ここにいたんだ」

不意にかけられた声に、妖はゆるりと視線を向ける。
部屋の隅でとぐろを巻く、旧知の白蛇を認めて微笑んだ。

「久しいな。幸いだったようでなによりだ」
「君も相変わらずだね。いつまでも旅を止めないから、探すのに苦労したよ」
「何用か。今更、私を止めにでも来たのか」

凪いだ声音に、白蛇は相変わらずだね、と呟き音もなく近寄る。器用に壁を伝い窓枠に乗り上げて、静かに妖を見上げた。

「君の…正しくは、君の中にいる娘の望みを聞きに来た」
「……言っている意味が、分からんな」

眉を寄せる妖に、白蛇はそのままの意味だよ、とだけ伝え。未だ聞こえる歌声を辿るように、外へと視線を向けた。
それに習うように、妖もまた外へと視線を向ける。変わらずどこからか聞こえる歌に耳を澄ませ。
その頬を、一筋の涙が流れ落ちた。

「っ…これ、は」

はっとして、妖は己の頬に触れる。止めどなく流れ続ける涙に指を濡らし、その温かさに何故、と小さく呟いた。
胸に手を当てる。妖が少女に成り代わってから刻まれなくなったはずの鼓動を僅かに感じ、さらに涙が溢れ出した。

「目覚めて…いる、のか」
「それだけ娘は、母を愛していたのだろうね。それでいて、君に対して一切の負の感情を抱いていない…いっそ憐れなほどに純粋な娘だよ」

胸に手を当てたまま、妖は目を閉じる。
呆れたように、それでも哀しげに。呟く白蛇の声を遠くに聞きながら。慈しむ母の歌を導にして。
眠らせた少女の心の内へと、意識を沈めていく。



歌が聞こえる。子を想う母の歌。
それに重なるようにして、微かな歌声が聞こえてくる。

「――らら、らら、ららー…」

幼く、拙い歌。覚えたての歌を口遊むかのようなたどたどしさに、向かう足が速くなる。
白い、或いは黒の空間を駆け抜け。聞こえる歌を、只管に目指す。

そうして辿り着いたのは、一つの部屋。
広い室内の中心で、幼子が歌っていた。
目覚めたばかりなのだろう。時折目を擦りながら、それでも歌い続けている。
母の歌に、その慈しむ想いに応えているのだ。
何故か、そう思った。


「君の望みは、何」

すぐ側で声が聞こえ、視線を向ける。いつの間にか肩から腕に巻き付いた白蛇が、静かに幼子を見据えていた。
歌が止む。ぱちり、と瞬いた目が白蛇を見つめ、そして妖へと視線を移して、首を傾げた。

「のぞみ?」
「そうだよ。君は今、何を望むの」

問いかける白蛇に、幼子の視線が揺らぐ。問いの答えを探すように視線は室内を彷徨い。一つ瞬いて、再び妖へと視線を向けた。

「――おかあさん、は」

真っ直ぐな視線は妖だけを見つめ、抑揚の薄い声が言葉を紡ぐ。
続くであろう言葉を察し、思わず視線を逸らしかける妖に、逃げるな、と白蛇は小さく告げる。その言葉に僅かに肩を揺らし短く息を吐いて、幼子の虚ろに揺らぐ目を見返した。

「おかあさんは、わらっていたよ」
「――な、に」
「さいごにわらっていたの。きっととめてほしかったんだ…おわりがほしかったんだよ」

淡々とした幼子の言葉は、妖を責める言葉ではない。予想したものと異なる言葉に困惑し、妖は一歩だけ幼子の元へと足を進める。

「わたし。あなたにちゃんと、ありがとうがいえなかった…ずっと、言いたかったんだ。私の望みに応えてくれてありがとう。お母さんに終を与えてくれて…その後も側にいてくれてありがとう」

幼子の姿が揺らぐ。成長し、元の少女の姿まで戻る様を見ながら、妖はそれに惹かれるようにして足を進め。
少女の元へと歩み寄る妖もまた、姿が揺らぎ。元の紅い大蛇の姿となって、少女の腕に擦り寄った。

「すまなかった。お前の望みを違えて応えてしまった」
「ううん。あれで良かったんだ。私が弱かったから、ちゃんと言えなくてごめんなさい」

寄り添い、微笑んで。語る少女と妖に、白蛇は小さく息を吐く。誰かが止めねばいつまでも終わる事のないであろうやり取りに、妖の頭から少女の腕を伝い、そのまま肩に乗って呆れたように舌を出す。

「そこまでにしてね…それで、望みは何なのさ」
「私は、別に…お礼が言えればそれで良かったから」
「――言い方を変えるよ。君はこの先、どうなりたいの」

白蛇の言葉に、少女は目を瞬く。眉を下げ、白蛇と妖に視線を向けて。

――歌が、聞こえた。

優しい、子を慈しむ母の歌声。少女の母のものではないその声に、けれど少女は目を細めて泣くように微笑い。

「そう、だね…眠りたい、かな」

歌に掻き消されてしまいそうなほど微かな声で、少女は呟いた。


「それなら、行こうか」

静かな声に、少女は白蛇へと視線を向ける。

「何処へ行くつもりだ」

妖もまた白蛇を見るが、その視線を気にする事なく、決まっているだろう、と白蛇は告げた。

「常世《とこよ》。人間が眠る場所はそこだけだよ」
「妖である私と同化しているこの子が、常世に渡れる手段があるのか」

訝しげに妖は問う。かつて少女の望みに応える対価として妖と同化した事で、少女は人間ではなくなり。故に常世に還る事は出来なくなったはずであった。

「君達が一緒に眠るなら、何とかしてくれるってさ…つまりは、眠って新しく目覚めた君は蛇憑きになるのが決定しているって事さ」
「蛇憑き?」
「君達はずっと一緒って事だよ」

つまりは憑き物筋として、次の生を歩まなければならないという事だ。様々な制限と苦難が待ち受けている事を察し、妖は少女の行く末を嘆き項垂れる。しかし少女は白蛇を見つめ、そして妖を見て、ふわりと微笑んだ。

「一緒にいても、いいの?」
「――物好きだね、君。こんな早とちりばかりする蛇のどこがいいんだか」

呆れたように呟いて、白蛇は行こうかと鎌首を擡げて道を示す。
それに頷く少女を見て、妖は己の身を小さくし、少女の腕に絡みついた。

「常世への道ならば私にも分かる。お前まで着いてくる必要はない」
「いいじゃないか。蛇が一匹増えた所で、そう大きくは変わらないだろう」

少女の肩から動こうとしない白蛇の答えに、妖は思わず威嚇するように舌を出す。そんな妖を宥めるように頭を撫でながら、少女は小さく首を傾げた。

「いいの?お屋敷を守らなくて」
「大丈夫さ。必要になれば、僕じゃないモノが応えて、白蛇になるだろうからね」
「どういう意味?」
「そのままの意味さ。物語の配役は僕じゃなくてもいいって事だよ」

よく分からない。そう呟いて、腑に落ちない顔をしながらも少女は進み続ける。

「妖なんて、人間の認識によって在るモノだからね。自由なのさ」
「自由、ね。私と一緒にいるのは、自由になるのかな」
「気にするな。これの意思よりも大切なのはお前の意思だ。いらぬなら、そこらに捨て置けばいい」

不機嫌に妖は呟くが、少女は笑って首を振る。
その優しさに、妖は嘆息するのを白蛇は楽しげに声を上げて笑った。

「笑うな」
「いいじゃないか。賑やかな方が楽しいだろう」
「確かに。一人でないのは、心強いよ」

白蛇は笑い、少女は微笑んで。
妖は呆れながらも、僅かに口元を綻ばせる。

穏やかに、けれど賑やかに歩く、一人と二匹を見送るように、遠くで歌声が響く。

子を想う、優しい母の歌声が。



20250307 『ラララ』

3/7/2025, 2:14:12 PM