sairo

Open App
3/3/2025, 1:42:41 PM

ひらり、とスカートの裾を翻して、少女は少年の元へと駆けていく。

「ごめん。待った?」
「別に」

素っ気ない態度の少年に、少女の表情が僅かに曇る。しかしすぐに笑顔を浮かべると、少年の隣に歩み寄った。

「今日はどこに行くの?話があるって言ってたし、ゆっくり出来る所へ行こうか」
「ここでいい」

淡々とした声音で一言言うと。少年はようやく少女に視線を向ける。冷たささえ感じる静かな目に見据えられて、少女は込み上げる不安を押し殺すようにスカートの裾を握った。

「あのさ。もう、止めにしないか」
「――え?」
「あいつはもういない…ようやく、受け入れられそうなんだ。だからもう、あいつの代わりになる必要はないよ」

静かで、凪いだ声だった。
少年の言葉を心の内で繰り返し、少し遅れてその意味を理解する。理解して、ひゅっと喉が嫌な音を立てた。
握り締めたスカート裾に皺が寄る。俯き、強く目を閉じて。そうして感情を抑え込んでから、少女は顔を上げると、少年に向けて優しい微笑みを浮かべてみせた。

「そっか。もう、大丈夫になったんだね。よかった」
「ああ、だから」
「三年、か。長いようで短かったのかな。でも一緒にいられて楽しかったよ。今まで、ありがとうね」
「…っ」

声が震えないように気を張りながら、少女は穏やかに告げる。それは感謝の言葉でありながら、別れの言葉によく似ていた。
何かを言いたげに口を開き、けれど何も言えずに少年は視線を逸らし唇を噛みしめる。言葉を探して彷徨う目が、静かに離れていく少女の姿を捉え、反射的にその腕を掴んだ。
少女の目が瞬く。掴まれた腕と少年の顔を交互に見て、少しばかり困ったように笑った。

「どうしたの?忘れもの?」
「あ、いや。そうじゃなくて」
「あぁ、そうだね。忘れてた」

淡い微笑みを浮かべたまま、少女は腕を掴む手に触れる。手の甲から指先へ向かい優しく撫でると、少年の手は次第に力を失って、ゆっくりと離れていく。
それをどこか名残惜しげに見つめ。そして少年に視線を向けると、少女は真白いスカートの裾を軽く持ち上げて、可憐にお辞儀をしてみせた。
少年があいつと呼ぶ、三年前に亡くなった彼の幼なじみがよくしていた仕草を最後に真似て、少女は微笑う。

「――じゃあね。ばいばい」
「っ、待って」

ひらり、とスカートを翻して、少女は駆けていく。急に吹いた風が引き止めようとする少年の声を掻き消して、巻き上がる砂が、少女の後ろ姿すらも消してしまう。
あとには、少年がただ一人。

「本当の君は、誰だったの?」

最後まで言えなかった言葉を噛みしめて、俯いた。





木々の合間をすり抜けて、只管に駆け抜けていく。
ひらり、と広がるスカートの裾が木の枝に掛かり裂かれても、少女は構わず走り続ける。
裂かれたスカートの切れ端が、風に舞う。それは風に遊ばれている内に千切れた花弁となって、褪せた大地を僅かに白へと染めていく。

森の奥。一本の美しい梅の木の根元で、少女はようやく足を止めた。

「ふっ、く、うぅ」

堪えきれなくなった涙が溢れる。少年の隣にいる理由がなくなって、寂しさに悲鳴を上げる胸に手を当てて蹲る。
最初から分かっていた事だ。少女は必死に己に言い聞かせる。
限られた期間の中での逢瀬だった。少年が幼なじみの死を受け入れて、一人で再び歩き出せるまでの刹那の時間。
始めから別れを覚悟して、少年の側にいたはずだった。少しでも少年の支えになれるように。幼なじみの死を受け入れられず、虚ろな日々を過ごす少年がまた笑ってくれるように。
しかし三年という月日は、ほんの少しだけ少女に欲を持たせてしまったらしい。

――もう少しだけ。もしかしたらずっとこのまま一緒に。

そんな淡い期待の欠片を抱いた矢先の事だった。少年に夢の終わりを突きつけられたのは。

「かえ、らなきゃ。夢は、終わった、んだもの」

止まらない涙を乱暴に拭う。顔を上げ、震える足に力を入れて立ち上がる。

「だい、じょうぶ。二度と、会えなくなる、わけじゃない。きっと、もうすぐ。会いに来て、くれる」

その時は、今の少女ではないけれど。
泣きながら微笑んで。少年の姿を夢想する。
きっと近い内に少女の元を訪れるのだろう。少年が幼い時から、幼なじみと共に少女の元へ何度も足を運んでくれていたのだから。
幸せそうな笑みを浮かべて。今年も綺麗だね、と少女を褒めてくれるはずだ。
くすり、と笑い声が漏れる。懐かしさに目を細め、振り返って梅の幹に触れた。
ひらり、とスカートが広がるのを視界に収めて、ゆっくりと目を閉じた。
少女の姿が段々に薄くなる。端から解けるように形を失い、しばらくすれば少女の姿はすべて消える。

少女の消えた梅の木の根元を一筋の風が通り過ぎ。満開に咲いた白い花弁を、ひらり、と空へ舞い上がらせた。





それからいくつもの年月が過ぎて。
大人となったかつての少年は、彼の家族を連れてその梅の木の元へ訪れた。
幼い娘が、楽しげに辺りを駆け回る。それを穏やかに見守りながら、妻の手を引いて木の根元へ腰を下ろす。

「白い花が雪みたい!とってもきれいね」
「気に入ったみたいで良かったよ。この梅は父さんの大切な思い出だからね」
「思い出?なにそれ!」

駆け寄る勢いのまま抱きつく娘を優しく抱き留めながら、目を細め、梅の木を見上げた。

「父さんの幼なじみと一緒に見つけた、秘密の梅の木なんだよ。それにこの木はね、よく似ているんだ。父さんの初恋の人に」
「はつこい!」

きゃあ、と娘は声を上げて笑う。
優しく娘の頭を撫でながら、父となった少年は視線を木から己の妻へと移す。
穏やかに微笑む妻の、梅の花のように白いスカートの裾が。
風になびいて、ふわり、ひらり、と揺らめいた。



20250303 『ひらり』

3/3/2025, 9:45:45 AM

「あれ?」

冷蔵庫を開けて、少女は訝しげに眉を潜める。
あるはずのものがない。ほんの数十分前に入れたはずの、期間限定もののプリンが。
冷蔵庫を閉め、もう一度開ける。やはり、プリンは見当たらない。

「なんで」

呟いて、なくなった理由を考える。
考えられる原因の一つは、隣の部屋にいる少女の姉だ。一人暮らしを初めた妹を何かと気にかけては、こうして訪ねて来てくれる。料理が苦手な妹のために、帰る前には作り置きのおかずで冷蔵庫を満たしてくれる姉。優しい彼女が、妹のプリンを盗み食いするなど考えられなかった。
それ以前に姉がプリンを食べるはずがないのだ。

「どうしたの?何かあった?」
「ひゃぁ!?」

急に扉を開けて入ってきた姉に、少女は声をあげて飛び上がる。
中々部屋に戻ってこない妹を心配して来たのだろう。忙しない鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てながら、少女は姉に視線を向けた。

「だ、大丈夫?」
「だいじょうぶ…あの、さ」

逡巡しながらも、視線は自然と姉が手にしているそれに向けられる。
赤い瓶だ。英語のラベルが貼られたその瓶は、姉がプリンを食べた犯人ではない事の何よりの証拠だった。

「お姉ちゃん。お願いだから、タバスコ持ったまま歩かないで」

タバスコ。赤唐辛子を原材料とする調味料を常に持ち歩くほどに、姉は大の辛党だった。

「ごめん。でもちゃんと蓋は閉めてるし。それに全然戻ってこないから心配になって」

しゅん、と項垂れる姉を見て、少女は密かに安堵する。
一人暮らしを始めて一月ほど経つが、姉の食の好みは変わっていないようであった。
辛党であるからなのか、姉はケーキやプリンなど甘いものを苦手としている。昔、何かの罰ゲームか何かでシュークリームを食べた時、三日寝込んでしまったほどだ。
ありがとね、と苦笑しながらも心配してくれた事に礼を言う。姉を伴いキッチンを出ようとして、では誰がプリンを食べたのかを思考する。
姉ではない。冷蔵庫に入れた本人である少女ももちろん違う。
では誰が。考えて、嫌な想像に足が止まった。

「――ぁ」
「ちょっと、本当に大丈夫なの?」

心配そうに顔を覗き込む姉を、縋る気持ちで見る。
今、この部屋には少女と姉の二人だけ。どちらもプリンを食べていないのならば――。
全く別の、第三者がこの部屋にいる事になる。

「お姉ちゃん」

迷うように、怯えるように瞳を揺らし、少女は姉を呼ぶ。
安心させるように微笑んで少女を見る姉に、恐る恐る問いかける。

「冷蔵庫のさ…プリン、食べた?」

きょとり、と姉は目を瞬かせ。
その反応にやはり姉ではないのだと、少女の肩が震え出す。
怖い。だが確認しなければ、と。
姉から視線を逸らして、キッチンを振り返ろうとしたその瞬間に――。
微かな声が聞こえた気がした。

「お姉、ちゃん?」

それはくぐもった笑い声のように聞こえた。戸惑うように姉を見るも、姉の表情は険しく、先ほどまでの優しい笑みはどこにも見えない。

「プリンがなくなったのね?」
「う、うん」

姉の淡々とした質問に、少女はびくり、と肩を跳ねさせながら肯定する。少女の答えを聞いた姉の目はさらに険しく、鋭くなる。
見た事のない姉の表情に、段々と少女が泣きそうになっていると、それに気づいた姉は深く溜息を吐いた。

「お姉ちゃん」
「ごめんね。隠しておくべきじゃなかったね」

眉を下げて姉は微笑む。少女の頭を撫でてから、束ねていた髪をはらりと解き、くるりと少女に背を向ける。

「――な、に?」

目を見張る。姉の解けた髪の合間から覗くそれから、視線を逸らせない。
艶やかな赤いそれは、人の唇の形をしていた。姉の後頭部に生えている唇は、にぃ、と笑みの形に歪めてから、徐に開く。

「プリンがなくなったの…誰のせいかしら?」

歌うように囁いて、くすくすと笑う。呆然と見つめる事しか出来ない少女に誰かしら、と嘯いて。
だがその楽しげな声は、姉の溜息とほぼ同時に悲鳴に成り代わった。

「煩いよ。私の可愛い可愛い妹をいじめないでって、何度言えば分かるの」

手にしたままだったタバスコの瓶の口を開け、後頭部に生えた唇に押し込みながら姉は振り返る。険しい表情は少女を視界に納めると、途端に申し訳なさそうに眉を下げた。

「あの、ね。なんていうかね。この性悪な口は、なんていうか…私の、双子の片割れになるはずだった残り、というか…」
「――双子?」
「あぁ、うん。この口は、母さんのお腹の中で上手く形に成らなかったの。大半は母さんの中に還っていったんだけど、一応私の片割れだしね。一部を吸収して生まれて、これがその一部ってわけ」

知らなかった情報が次々と出され、少女は混乱する。口、吸収、と繰り返し、目を瞬きながら姉に――その背後にあるであろう唇に視線を向ける。

「つまりは――もう一人のお姉ちゃん?」
「お姉ちゃんは、私一人だけでいいの。こいつは気にしないで」
「ひどい。ひどい…辛いの、きらい、なのに。甘いの、食べたかった、だけなのに。わたしもおねえちゃん、なのに。ひどい」

か細い声が泣き言を繰り返す。それに舌打ちをして、再びタバスコの瓶を握り締める姉に気づき、少女は慌ててその手に両手を重ねて止める。

「待って。何だか可哀想だよ」
「だって煩いんだもん。それにこいつ私と違って甘党だから、プリンを食べたのもこいつだろうし。その分の復讐もしなきゃ」
「プリンはもういいからっ!だから落ち着いて」

冷めた目をして物騒な言葉を紡ぐ姉に、少女は必死に声をかける。先ほどまでの恐怖はすっかり消え失せ、これ以上の被害を止めようと思考を巡らせて。
一つ、思いつく。

「お姉ちゃん」

止められて不服そうな姉と目を合わせる。

「久しぶりに、お姉ちゃんの作ったおやつが食べたいな」

首を傾げ。昔のように微笑んで。
姉が妹である少女のおねだりに弱いのは、昔からだった。

「今日は泊まってってくれるんでしょ」
「――ぁ、う」
「ねぇ…だめ?」
「駄目じゃないからっ!お姉ちゃんが食べられちゃったプリンの分まで、何でも作ってあげるからね!}

少し俯いて見せれば、姉は慌てて瓶に蓋をして、近くの棚に置く。少女の両手を握り返し、抱き寄せて頭を撫でてから、満面の笑みを浮かべて部屋に戻っていく。

「お姉ちゃん。相変わらずだなぁ」

一人キッチンに残され、少女は苦笑する。置き忘れた瓶を手に取ると、少し迷ってから冷蔵庫の奥に仕舞い込んだ。
姉は辛党ではあるが、作る料理はとても美味しい。そこは信頼しているが、念のために、である。


「買い物行ってくるよ!何食べたい?」
「はやっ…ちょっと待ってよ。私も行くから」

姉の言葉に急いで準備を整える。ちらりと横目で見た姉の髪はしっかりと結われており、囁き声一つ聞こえはしなかった。
必要最低限の身だしなみを整えて、姉の隣に立つ。微かに聞こえたごめんなさい、の言葉に小さく笑ってもういいよ、と囁いた。

「パンケーキ、作ろうか。好きでしょ?蜂蜜とフルーツと、あとアイスも乗せたスペシャルなやつ」
「お姉ちゃん、甘いのだめなのによく作れるよね」
「そりゃあ、可愛い妹のためですから!…あぁ、あと練りわさびも買うから、帰ったら突っ込んでやって。悪い事をしたお仕置きはちゃんとしないとね」
「だからそれはもういいって!」

にこにこと笑いながらも物騒な台詞を口にする姉に、ひぃ、と引き連れた悲鳴が姉の背後から聞こえた。それに苦笑しながら、少女は姉の手を引いて家をでる。
あれがいい、これがいい、と食べたいものを挙げながら、どちらの姉も手の掛かる、とどちらが年上なのか分からない事を考えた。





夜。ふと喉が渇いて、少女はキッチンへと向かう。
ぼんやりと、ガラス戸越しに灯る明かりに首を傾げる。姉が起きているのだろうかと、然程気にする事もなく戸に手をかけた。

「お姉ちゃん?」

シンクの明かりを点けてだけの薄暗いキッチンで、どうやら姉は何かを食べているらしかった。夕食は済ませたのに、と嘆息して戸をゆっくりと開ける。
だが、何か可笑しい。中途半端に開けた戸に手をかけたまま、違和感に目を凝らす。
冷蔵庫の前で姉が立っている。手には昼間に買った三連のプリンの一つを持って。
息を呑む。プリンをスプーンで掬ったその手を、姉は後頭部に持っていく。解けた髪の奥の紅い唇へとスプーンを運び、大きく口を開けて唇がプリンを食べている。

「お姉、ちゃん」

びくり、と姉の肩が跳ねる。ゆっくりと振り返る姉は、虚ろな目をしながら、手の中のプリンを胸に抱きかかえた。

「どうしたの?こんな夜更けに」

声が聞こえた。姉の背後から、昼間聞いた姉ではない声が誤魔化すように囁いた。

「――もう一人の、お姉ちゃん?」

中途半場に開けていた戸を開けて、中に入る。確かめるように呼べば虚ろな目が細まり、くすくすと笑い声をあげた。

「さあ、誰かしら?」
「えっと…誤魔化さなくても、それはお姉ちゃんのために買ってもらったプリンだから食べていいやつだよ?」
「………え?」

目を瞬いて、姉は少女を見、手の中のプリンを見る。もう一度、少女を見て、ありがとう、と柔らかな声がお礼を告げた。
スプーンを手に取り、プリンを掬う。だがその瞬間、姉の動きが止まった。

「お姉ちゃん?どうしたの?」

呼びかけても姉は答えない。動きが止まったまま、次第に目が焦点を結び始め、ゆっくりと顔を上げ少女を見た。

「あれ?どうしたの?」

姉の唇が動き、姉の声がした。背後からはもう何も聞こえない。

「あ。えっとね…その。私は喉が渇いて」
「――あぁ、なるほど」

手にしたままのプリンに視線を向け、何かを理解したように一つ頷く。もう一度少女に視線を向けた姉の顔は、ぞっとするくらいに艶やかな笑みを浮かべていた。

「お姉ちゃん、ちょっと落ち着こうか。これには深い事情があってね」
「大丈夫よ。すぐに終わらせるから。こんな事もあろうかと昼間こっそりジョロキアの粉末も買っておいたの」

ジョロキア。世界一辛いと言われている唐辛子の一種である。
姉の背後から声にならない悲鳴が漏れる。笑いながらも据わった目をした姉が行動を起こす前にと体を張って止めながら、少女は姉を説得にかかる。

「そのプリンはね、お姉ちゃんのために買ってもらったの。だから食べていいやつなんだって」
「やだな。私は甘いものが駄目だって知っているでしょう?」
「そうじゃなくてね。ああ、もう!本当に落ち着いてよ!」

取り付く島もない姉に、少女は半ば叫ぶようにして声をあげる。
助けて、と震える声が聞こえて、さらに必死になった。

この先、このやりとりが日常の一部になる事とは露知らず。
何かと手のかかる姉達を宥めすかしながら、少女は疲れた顔をして密かに溜息を吐いた。



20250303 『誰かしら?』

3/1/2025, 2:14:43 PM

「お誕生日、おめでと」

控えめに微笑んで、彼は小さな包みを差し出した。
黄金色のふさふさとしたしっぽが、ゆらゆらと揺れている。期待に煌めく瞳が、包みを受け取られるのを待っている。
それだけで、まだ受け取っていないというのに嬉しくなってしまった。

「ありがとう。嬉しい」
「ほんと!?喜んでもらえてよかった」

にぱっ、とお日様みたいな笑顔で、彼は激しくしっぽを振る。感情が抑えきれなくなったのか、わたしの周りをくるくると回り出すのを笑いながら眺め、そっと受け取った包みを指先で撫でた。
小さな包みだ。可愛らしい花柄のちりめんで出来た包み。

「開けてみてもいい?」
「いいよ!開けて開けて」

ぴょこ、と茶色の癖毛の間から黄金色の耳を出し、彼は言う。二本足で歩き回っていたのが、段々と四本足で駆けだして。可愛らしかった男の子の顔が、格好いい狐の顔に変わっていく。
完全に元の狐に戻った彼の前で、包みの紐を解いた。

「――わぁ。きれい」
「それね。ボクが作ったんだよ。絶対、似合うと思ったの」

包みの中に入っていたのは、桜の花びらを模った髪飾り。白に近い薄桃色が光を反射して、とても綺麗だった。

「これ、ガラス?」
「そう!火を出してね。えいやっ、てしてね、作ったの」

肝心のえいやの部分は全く分からなかったけれど、彼の気持ちが嬉しくて、髪飾りを抱きしめありがとう、とお礼を言う。大切な友達にもらう贈り物ほど嬉しいものはないな、とふわふわとした気持ちで笑った。

「つけてあげるよ。座って」

促されて座り、髪飾りを人の姿になった彼に手渡す。

「じっとしててね」

そう言って、彼は真剣な顔をして、わたしの髪に触れる。可愛い男の子の格好いい表情に驚いて、とくん、と心臓が大きく跳ねた。
顔が熱い。俯いてしまいたいのに、じっとしてと言われた以上動けなくて、益々熱が上がっていく。

「はい、出来た。可愛いね。よく似合うよ」
「――っ、あ、りがと」

彼の笑顔がまともに見れない。ちょっと前までは、大切な友達だと思っていたはずなのに。
これじゃあ、まるで。

――彼の事が好き。みたいではないか。


「もうすぐ春が来るね。緑が芽吹いて蕾になって、花が咲く。そうしたら、一緒に花見に行こうか」

わたしの気持ちにお構いなしに、彼は太陽のように笑う。
楽しみで仕方がないと、しっぽを揺らし。絶対行こう、と顔を覗き込んで念を押される。

「分かった。分かったから。ねぇ、ちょっと離れてよ」
「なんで?いつもと変わらないじゃん。ねぇ、どうして?」
「ち、近い、から。とにかく、離れてっ」

小首を傾げる彼の顔を押しのける。悪気はないのだろうけれど、だからこそ余計に質が悪い。

「いいじゃん。いつもと一緒。変わらないでしょ」

ずきり、と胸が痛みを訴える。心臓が動きすぎて、どこかにぶつけてしまったのだろう。
きっとそうだ。変わらない、という言葉のせいではない。
彼のせいでは決してない。
そう言い聞かせる。痛みに泣きそうになるのを、唇を噛んで必死に耐えた。

「――ごめん。もう帰る。髪飾り、ありがとうね」

無理矢理笑みを浮かべてみせて、彼の横を通り過ぎる。
家に帰るまでの辛抱だと。逸る足は、けれど彼の手に腕を掴まれた事で止まった。

「ちょっと、離して」
「だぁめ。もうちょっとで芽吹きそうなんだから」
「なに、言って」

芽吹く意味が分からず、手を振りほどく事も忘れて彼を見る。
あ、と小さく声を上げた彼は、少し恥ずかしそうな顔をする。やっちゃった、と小さく呟いて首を振ると、何かが吹っ切れたように笑みを浮かべた。
太陽のような暖かな笑顔ではない。にやり、と意地の悪そうな顔だ。
鼓動が速くなる。軽やかに踊り出し始める。

「そろそろボクの事、意識してくれたでしょ」
「意識って、そんなこと」
「そんなことあるよ。だってずっと待ってたんだから。友達という種を撒いて。大好きって気持ちのお水をあげて、ようやく芽が出たんだよ」

何を言っているんだろうか。
彼とは友達で。大好きは友達としての大好きって意味のはずで。

「狐はね、頭がいいんだよ。狙った獲物は逃がさないの。だからね、狐のボクに好かれちゃったらもう逃げられないの」

にやにやと彼は笑う。その笑顔にすらどきどきしながら視線を彷徨わせていると、不意に気づく。
彼の耳もしっぽも垂れてしまっている。とても不安そうだった。

「あの、ね。取りあえず、手を離してくれる?」
「やだ。逃がさないって言ったでしょ」
「逃げないから。信じてよ、お願い」

彼の目を真っ直ぐに見る。恥ずかしいし、心臓は煩くなるし。何だかぐちゃぐちゃだけれども、それを耐えて掴まれていない方の手で彼の腕に触れた。

「――分かった」

眉を下げて彼は手を離す。ごめん、と小さく謝る彼の耳としっぽはすっかりしょげてしまっていた。
離れた彼の手を、今度はわたしが握る。驚く彼を、きっと睨み付けて、深く息を吸い込んで心のままに叫んだ。

「芽吹いたとか、逃がさないとか。そんな言葉で誤魔化さないでよ!ちゃんと、はっきり、言葉にして!言葉で伝えて、わたしをきれいに花咲かせてよっ!」

肩で息をする。自覚したばかりの――芽吹いたばかりの気持ちと今までの気持ちが混じり合ってくらくらする。
もう涙目だ。滲む視界の先で、彼がえ、だの、その。だのと混乱している様子が見えた。
彼の顔が赤くなる。
握った手を強く引かれて彼の方へと倒れ込み、そのまま強く抱きしめられた。

「キミの事が好きです!友達じゃなくて、恋人になってください!」

わたしにも負けないくらいの声で彼は叫ぶ。
耳が痛くなるほどの声量が、何故だか嬉しくてたまらない。
「喜んで!わたしの恋狐になってください!」

負けじと声を張り上げる。
彼を好きと自覚してから、あっという間の出来事ではあったが、彼のしっぽが元気よく振られているのを見れば、まあいいかという気持ちになってしまう。

くすくすと笑う。
爽やかな風の吹き抜ける青空の下。互いに抱き合いながら、しばらく笑い続けていた。



20250301 『芽吹きのとき』

3/1/2025, 11:57:57 AM

「ここか。噂の建物は」

カメラを構え、遠目から一枚写真を撮る。データを確認し、落葉した木々に囲まれるレンガ造りの建物がはっきりと写っているのを見て、思わず感嘆の溜息が溢れた。
美しい建物だ。戦前からあるものとは思えない程だ。
況してやあんな噂話があるとは、とても信じられない。
噂を思い出してしまい、小さく体が震えた。気温の低さだけでない薄ら寒いものを感じて、慌てて首を振って気持ちを切り替え、建物の近くへ歩み寄った。


――戦前から建つ、レンガ造りの廃墟がある。

その情報を知ったのはまったくの偶然だった。暇つぶしに見ていたネットの掲示板に乗っていた噂話に出てくる廃墟。
噂話自体はよくあるものだ。誰もいないはずの建物に明かりが点いていただの、夜中に男の話し声がするだの。
そんなあからさまな怪談話よりも、建物事態に興味を引かれた。レンガ造りの、しかも戦前から建つ建物など、古い建築物――取り分け人の絶えた廃墟を好む自分にとって、多少目をつぶっても実際にお目に掛かりたいものだった。
場所が然程自宅から離れていない事も幸いした。廃墟の場所を書き留め、カレンダーで次の休みを確認し。
そして今日。こうして朝から電車を乗り継いで、こんな山奥まで来てしまった。

はぁ、とかじかむ手に息を吹きかけながら、建物を見上げる。近くで見ても尚美しいその姿に、時間を忘れ只管に魅入る。一枚でも多く写真を残そうと、カメラを構えシャッターを切った。


「何用か?」

不意に声をかけられ、飛び上がる。反射的に声がした方へ視線を向けると、建物の入口に男の人が一人、立っているのが見て取れた。
びくり、と肩が跳ねる。この建物の噂話を思い出した。

「ぁ、その。あの…ここって」
「ここは私の屋敷だ。何用だろうか」

え、と思わず声が出た。ネットではここは大分昔に廃墟になったとあった。それは間違いだったのか。
困惑する自分を一瞥して、男の人は僅かに表情を綻ばせた。

「長く屋敷を空けていたので無人だと思われていたか。まあ、態々こんな山奥まで来てくれたのだ。今は家内が不在のため茶ぐらいしか出せる物はないが、少し休んで行くといい」

噂話を思い出した時以上に、体が強張る。
つまり自分は廃墟だと思い込んで人様の敷地内に許可なく入り込み、自分勝手に写真を撮っていたという事になる。
これは立派な犯罪だ。廃墟だと思い込んでいたという言い訳は通用しない。ネットの情報を鵜呑みにせず、しっかりと調べてから訪れるべきだったのだ。
大変な事をしてしまったと血の気が引く。慌てて深く頭を下げ、必死に謝罪をした。

「あ、あの。すみません。勝手に写真を撮ってしまって。その、本当にごめんなさい」
「そんなに謝らないでくれ。私は気にしてはいない」

予想していたより大分穏やかな声に、怖ず怖ずと顔を上げる。特に気分を害したような様子はないようだった。

「気にしないでくれ。長く不在にしたこちらに責はある。家内も今は不在だしな」

苦笑する男の人に、強張っていた肩の力が抜ける。ネットの情報を鵜呑みにしたこちらが悪いというのに、咎める様子のないその優しさに、さらに申し訳なさが込み上げた。

「何もない所だが、ゆっくりしていくといい。久方振りの客人だ。私の話し相手になってくれると助かるな」

そう言われてしまえば、断る理由もない。失礼します、と男の人に告げて、建物へと足を踏み入れた。
玄関を抜け、リビングに通される。大きな窓から降り注ぐ光が室内の美しさを際立たせていた。
ほぅ、と息が漏れる。白いテーブルと椅子が二脚。飾り棚に置かれた品の良い小物は、男の人のいう奥さんのものだろうか。
深い赤の色をしたカーテンがふわり、と風に揺れる。窓際に置かれたテーブルとソファは、晴れた午後に読書をするのに最適だろうな、と促されて椅子に座りながら、不躾ながら室内を見回した。


「どうぞ。茶を入れる事もなかったから、美味いかは分からないが」
「あ、ありがとうございます」

白のティーカップを渡され、礼を言って口を付ける。仄かに甘い香りとさっぱりとした味に、口元が緩んだ。

「あの。長く家を空けていたのは、どこかに行かれていたのですか」

ふと、気になった事を目の前に座った男の人に尋ねる。どこまでも不躾ではあるが、男の人は気にする様子はなく、どこか寂しげな目をして微笑んだ。

「そうだな。色々な場所へ行ったよ。この国だけじゃなく、外の国へも。それが正義だと信じていたからな」
「正義…」
「だが、それが本当に正しかったのか、今となっては分からん…驚いたよ。ようやく戻って来たと思ったら、誰もいなかったのだから」

穏やかに男の人は語る。棚に飾られたフォトフレームに飾られた寄り添う男女の写真を見ながら、左手の薬指に嵌められた銀の指輪にそっと触れた。

「あの写真って、もしかして」
「今まで待たせてばかりだった。いつも何か言いたげに俺を見ているのに、何一つ言ってはくれなかったな。否、俺が言わせなかったのか。思えば気の利いた言葉一つかけてやれなかった」

静かな声音には後悔が滲んでいる。写真に向けられている視線は、けれどどこか別の何かを見ているようで、忍びなさに目を伏せた。

「一人でいると、この屋敷がやけに広く感じるな。ずっとこんな思いをさせていたのだろう…すまなかったな」
「…愛して、いたんですね」
「疲れただろう。こんな山奥だ。それにもう日が暮れかけている…少し休むといい」

言われて顔を上げ、窓を見る。気づけば空は朱から紺へと色を変え、夜が近い事を示していた。

いつの間に、時間が経っていたのだろう。
体感では一時間にも満たないと思っていたというのに。手にしたカップもすっかり冷えてしまっている。その氷のような冷たさに、再び口を付ける気にはならなかった。

「おいで。部屋に行こう」

男の人が徐に立ち上がる。手を差し出されて、戸惑いながらもその手を取り立ち上がった。
歩き出そうとして、ふらつく。自覚はないだけで、大分疲れが溜まっていたようだ。そんな自分に男の人はさりげなく肩を抱いて支えるようにして歩き出す。

「すみません。何から何まで」

あまりの申し訳なさに身を縮めて謝るが、男の人の返答はない。ただ僅かに目を見開いて、そして柔らかく笑み。自分が倒れてしまわぬよう、肩を抱く腕に力を込めた。

リビングを出て、廊下を男の人に支えられながら歩く。大分日も落ちて来たのか、薄暗い廊下はどこか不気味で冷たい空気を漂わせているようだ。先を進む事に僅かな不安を覚えて、身が竦む。

「暖かいな、お前は…懐かしいよ」

微かな呟く声に、そっと男の人を見上げる。淡く微笑むその表情は泣いているようにも見えて、酷く胸がざわついた。

「さあ、ここだ。そのまま一眠りしてしまいなさい」

廊下の奥。黒い扉を開けた先のベッドまで男の人に連れられて、横になる。
とても疲れた。すぐにでも眠ってしまいそうだ。
閉じかけた瞼をこじ開け、男の人を見る。動く力もない自分のために布団をかけて、その手が頭に触れる。

「ゆっくりとお休み。起きたら食事にしよう。その後は、お前の話を聞かせてくれ。――」

そっと一撫でして、男の人は身を起こし部屋を出て行く。
はぁ、と息を吐いて、力なく瞼を閉じた。
眠たくて仕方がない。それなのに、何か引っかかりを覚えて眠る事を脳が拒んでいる。
目を閉じたまま、耳を澄ます。風が吹き抜ける音。遠くで獣が鳴く声。枯れ草を踏み締める音。
微かに違和感を感じた。それが何か考えながら、無意識に深く呼吸をする。
きん、と冷えた空気が肺を満たす。鼻腔を掠める匂いに、眉を寄せた。
土の匂いだ。水を含んだ冷たい土の匂いがする。
緩やかに脈打つ鼓動とは裏腹に、思考は目まぐるしく働く。背筋が冷える感覚に、瞼をこじ開けカメラを手繰り寄せた。
悴む指で、データを開く。眠りに落ちる前の朦朧とする意識を手繰り寄せて、撮ったばかりのデータを確認する。

「――っ」

息を呑む。理解が追いつかず、目を逸らす事が出来ない。
何が起こっているのか。どこからが偽りで、どこまでが真実なのか。
昼間目にしていたものとは全く異なる、廃墟が映し出されていた。
外壁は割れて傾き、崩れ落ちている。木々が窓硝子を割って浸食し、建物を飲み込んでいた。
カメラから目を離し、周囲を見渡す。崩れた壁と木枠だけが残った窓から、青白い月の光が差し込んでいた。
体が震える。それは恐怖からか、それとも寒さからなのかは、もう分からない。
眠い。眠るな、逃げろと、脳は警告しているが、もう指先一つ動かす力はない。
瞼が落ちていく。黒く染まる意識の片隅で、不意に去り際の男の人の言葉が脳裏に響いた。

――おかえり。

今も待っているのか。妻の帰りを。
はぁ、と息を吐き出す。瞼は凍り付いたように開けない。手足の感覚もない。
鼓動が弱い。消えかけた蝋燭の火の揺らめきのように一つ、また一つとゆっくりと鼓動の間隔が開いていき――。

鼓動が、止まる。





「違ったのか」

無感情に男は呟き、眠る骸の頬に指を滑らせた。
硬く、冷たい。骸を起こし腕に抱いても、眠る前に触れた温もりは欠片も感じ取れなかった。
目を閉じ、記憶を手繰る。けれども愛しい妻の温もりは思い出す事は出来なかった。
忘れていく。何もかも。今では声もその姿でさえも、男は忘れてしまった。
目を開ける。腕の中には誰かの骸が一つ。
それは男の妻ではなく、知らない誰かだ。

「いつ、戻ってくるのだろうか」

骸を手放し、立ち上がる。
いっそ探しに行きたいが、男は妻の居場所に心当たりはない。
この屋敷が妻の居場所だと男は思っていた。兵役に就く男に、いつまでも帰りを待つと言っていたのは妻であったのだから。
しかし長い兵役を終えて屋敷に戻った時、妻は何処にもいなかった。寂れた屋敷が、ここが長く無人であった事を示していた。

「寒いな。一人はとても寒い」

呟いて、部屋を出る。朽ちた廊下を進み、リビングに入ると、椅子に腰掛けた。
窓の外へと視線を向ける。擦り切れ破れたカーテンの残骸が、瓦礫の隙間から風に揺らぐのを気にも留めず、ただ妻の姿を探している。

「俺の戻りを驚くだろうか。俺を出迎えぬ事を気に病まねばいいが」

優しい妻を想い、男は苦笑する。掠れた記憶を辿りながら、男は妻を待つ。


男は気づかない。
男が視線を向けている窓の側に置かれた、テーブルとソファに。
テーブルに伏した格好で事切れた、骸の存在に。その左手の薬指に掛かる銀の指輪の鈍い燦めきに。

「いつ帰ってくるだろうか」

窓の外を眺める男は気づかない。

遠い過去に亡くした、在りし日の温もりを求め。
今日も男は、妻を待ち続ける。



20250301 『あの日の温もり』

2/28/2025, 10:52:12 AM

「やあ、可愛らしいお嬢さん。綺麗な星の降る夜だというのに、俯いてばかりでは実にもったいないものだよ」

不思議な抑揚の声が聞こえ、俯く顔を上げる。
膝を抱えた自分と同じ目線。夜の色をした美しい毛並みの猫は、目が合うと恭しくお辞儀をした。

「Good evening《こんばんは》、お嬢さん。今宵はまた一段と星が美しい。ワタクシと共に夜の散歩に行かないかい?」
「でも。わたし」

差し出される手を、首を振って拒絶する。涙の滲む視界で。猫の月のような眼がきらり、と煌めき、瞬いた。

「ごめんなさい。でも、壊してしまうから。わたしが触れるもの全部、壊してしまったの」

煌めく眼から逃げ出すように俯く。手首に絡みついた友人の優しさの残骸が、視界の隅で責めるように小さく音を立てた。


「お嬢さん」

静かな声に呼ばれて、肩が跳ねる。膝を抱える手に温かな肉球が触れて、その温かさに少しだけ顔を上げてそのしなやかな前足を見た。

「あれだね。これは友達からのPresent《贈り物》というやつだね。しかも手作りときた。壊してしまったのかい?」
「ごめん、なさい」
「責めている訳ではないよ、可愛いお嬢さん。ただ一つだけQuestion《質問》に答えてくれるかな」

顔を上げて、猫を見る。そっと体を寄せる猫から、花のような甘い香りがして、無意識に深く呼吸をする。
しばらく悩み、頷きを一つ。小さくいいよ、と呟いた。

「Thank《ありがとう》.お嬢さんは昔から、こうして物を壊すのかい?」

首を振る。物を壊し始めたのは、一週間前の事だ。
切っ掛けは分からない。悪夢を見てから触れるもの全てを壊し始めた気もするが、それがどんな内容だったのか思い出せもしない。
そうかそうか、と猫は呟いて。器用に前足でブレスレットの残骸を取り外し、目の前にかざしてみせる。

「可愛いお嬢さん。Suggestion《提案》があるのだがどうだろうか。お嬢さんのその余分な力を、ワタクシに頂けないかい?」
「余分な、力?」
「もちろんそのReward《報酬》は支払うよ。このBraceletを元の通りに直してあげよう。それでどうかな?」

小首を傾げて、猫は問う。
文字通り余分なものを対価に、大切なブレスレットが元に戻るなら。それはとても素晴らしい事のように思えた。

「――直せるの?」

猫の眼を見つめ、確認する。

「もちろんだとも!ワタクシに出来ない事などないのだよ。任せてくれたまえ…それでは、返答はYesでいいのかな?」
「うん。こんな壊す力はいらない。だからブレスレットを元に戻して」

月のような眼が歪む。
にんまりと、妖しく煌めいて。その輝きに、意識が揺れた。

「では頂くとしよう」

人のような赤い舌が口の周りを舐める。
大きく開いた口から、鋭い牙が覗いているのが見えたのを最後に。
ぶつり、と。意識が途絶えた。





満ち足りた顔をして毛繕いをしながら、二足歩行の猫は傍らで眠る少女に視線を向ける。
今時珍しい、純粋な少女だ。無知故ではなく、全てを知ってそれでも尚、相手に手を差し出せる。それは聖女の在り方によく似ていた。
妬まれるのも仕方がない。とはいえ、不幸を願い呪いをかける行為は、さすがに度を超しているが。
前足で顔を、特に口周りを猫は丁寧に拭う。先ほど喰らった呪いの残り滓を舐め取り、痺れるような舌先の刺激に喉を鳴らす。
悪食。仲間から眉を潜められるほど、猫の食の好みは偏っていた。
妬み嫉み、怒り憎しみなど、人間の負の感情は猫に取って最高の馳走だった。泥のような粘り気の強い舌触りと、舌を刺す痺れる感覚が堪らない。特に呪詛の類いは怨嗟の念が凝縮され、嗅覚や聴覚でも猫を満たす。刺激的でどこか甘ったるい腐敗臭に似た香りと、耳につく恨みの声。それが良いスパイスになるのだと、恍惚とした表情で語る猫の扱いに仲間は困り、故郷から遠く離れたこの地へ猫を追い出した。故郷から離れた場所で、さすがの猫の悪食も収まるだろうとの思惑があったが、数十の年月を過ぎて猫は変わらなかった。
毛繕いを終えて、少女の側に擦り寄る。仲間にすら忌避されるほどの悪食でありながら、猫は可愛らしいものを好んだ。
無垢な少女はこの先も、周囲に愛され、妬まれるのだろう。少女の側にいれば存分に腹は満たされ、可愛らしい少女を愛でる事が存分に出来る。
今更、猫は故郷に戻るつもりなどはなかった。
体を丸め規則正しい寝息を立てる少女のその頬に涙の跡を認め、体を寄せて頬を舐めた。
ざらり、とした猫の舌の感覚に、少女の眉が寄る。徐に瞼が開き、焦点の合わぬ黒い瞳が猫を見て瞬いた。

「Good Morning《おはよう》!可愛いお嬢さん。ご機嫌は如何かな?」

少女の瞳を覗き込むようにして、猫は囁く。

「少し、変な感じ。力が抜けた、みたいな」
「それは良かった。本当に余分な力がなくなったのか確かめるためにも、ワタクシと夜の散歩に行かないかい?」

戸惑う少女に、猫は大仰な仕草で前足を差し出す。片膝をつき、ゆるりと尾を揺らして少女を誘う。
ウインクをすれば、少女は堪らずに小さく笑い声を上げた。
前足に手を重ね、ゆっくりと立ち上がる。少女に合わせて猫も静かに立ち上がった。

「それでは行こうか。可愛いお嬢さん。Escortは任せてくれたまえ」
「あの…私、そんなに可愛くなんてない、から。その」

何度も言わないで、と言外に頼まれ、猫は小首を傾げて少女を見つめる。幼さの抜けきらない白い頬や小さな耳までもがほんのりと赤く色づいている事に気づき、猫は喉を鳴らして笑った。

「可愛いさ。お嬢さんは今まで出会ったどの人間よりも可愛らしい。このまま浚っていってしまいたいくらいだよ」
「そんな、こと。ないから…猫さんの方が、かわいいと思う」
「おや、それは嬉しいな。可愛いお嬢さんと、可愛いワタクシで、so cute《とても可愛い》というわけか…うん。実に良い」

少女の言葉に気を良くして、猫は少女の手に擦り寄った。
擽ったいよ、と笑う少女に月のような眼を歪ませて笑い、手を引いて歩き出す。

「行こうか、可愛いお嬢さん。夜が明けてはもったいない。夜の終わりには家に帰らなければならないからね」

軽く手を揺らしながら誘う猫の言葉に、少女は今度は何も言わず猫と共に歩き出す。

歩く度に少女の手首から、しゃらと微かな音が鳴る。二つのブレスレットが、月明かりを反射して煌めいた。



20250228 『cute!』

Next