「お願い。どうか」
夜空を見上げ、星に願う。
僅かに見える星は、今日も変わらない。流れる星は、どこにも見つける事は出来なかった。
分かっている。そう言い聞かせる。これはただの気休めだ。
――流れる星が消える前に願いを言えば、それは叶えられる。
ただのおとぎ話だ。一瞬で流れていく星が消える前に願いを言い終えるなど、到底出来るはずもなく。そもそも、この夜でも明るい空の下では、星を見つけるのでさえ一苦労なのだから。
「またやってんの?いい加減諦めたらどうだよ」
部屋の隅の暗がりから聞こえる声に、聞こえない振りをする。睨み付けるように空を見上げ、口を開いた。
「どうか」
「無視すんなってば。っつうか、いい加減にしろよ」
焦れた声が近づく。視界を塞ぐように前に回り込み、ふわり、と宙に浮いた首が視線を合わせて笑みを浮かべた。
首。自分と然程変わらない年頃の少年の首が、目の前でゆらゆらと楽しげに浮かんでいる。避けようと伸ばした腕をすり抜けてさらに近づいた首は、鋭い目をしながら笑っていた。
「そこにあるだけの星に願うよりも、目の前にいる俺に望んだらどうだ?応えてやらない事もない」
「あんたに望んだってしょうがない」
「しょうがないってなんだよ。言葉にする前から決めつけんな」
笑みを消し、首は静かに咎める。
「うるさい。もう寝るから、さっさと帰って」
謝罪の言葉よりも先に溢れた憎まれ口に、だが一度言葉にして出てしまったものはなかった事にはならない。眉を寄せ手を振って首を追い払うと、窓を閉じカーテンを閉めた。
「また、やっちゃった」
窓から離れ、ベッドに潜り込む。自己嫌悪に溜息を吐いた。
望みに応える。首の言葉を信じていない訳ではない。幼い頃はよく他愛ない些細な事を望んでは、気まぐれに応えてもらった事もある。
「…戻りたいなぁ」
きつく目を閉じて、小さく呟く。
素直だった幼い頃に。先の事など何も考えず、ただ笑って泣いた、あの純粋だった自分に戻りたかった。
膝を抱えて蹲る。
夕暮れに朱く染まる空は次第に色を暗くし、夜の訪れを告げている。
帰らなければ。そうは思うのに、疲れ切った体は立ち上がる気力すらない。
初めて祖母の家に訪れた。古い屋敷や周囲の森は見るもの全てが初めてで、つい時間を忘れて遊んでしまった。
帰らなければ。重い瞼をこじ開けて、顔を上げる。
辺りはすでに薄暗い。暗くなる前に帰る約束を破ってしまった事に、不安になって視線を彷徨わせた。
と。
ゆらゆらと、宙を彷徨う黒い何かが視界の隅をちらついた。
視線を向ける。黒く丸い何かが宙に浮かびながら、こちらに近づいていた。
「こんなとこにいたのかよ。ばあさん達が探してたぞ」
少し高めの声が聞こえた。近づく事ではっきりと見えたその黒を認め、目を瞬く。
それは首だった。自分よりも年上の少年の首が、宙に浮きながら笑っている。
「だれ?」
不思議と恐怖は感じない。楽しげなその表情は、怖さとは無縁だったからなのかもしれない。
「最初に言う事がそれかよ。普通は泣いて怯えるもんだろ」
呆れたように、それでも笑みを浮かべたままで、首が顔を覗き込む。
「電池切れか。疲れて歩けなくなったな」
「おにいちゃん、だあれ?」
「さて、誰だろうな。立って家に帰れるなら教えてやってもいいぞ」
そう言われて、足に力を入れる。だが上手く力が入らずに、立ち上がる事さえ出来なかった。
ころん、と転がる自分を見下ろし、首はけらけらと声を上げて笑う。むくれて首を睨めば、いつの間にか首の後ろに誰かが立っている事に気づく。
大人ではない。少年の体。
その体には、首から上がなかった。
「時間切れ。立てなかったから、教えてやんね」
「いじわる」
「また今度な。ま、機会があるならだけど」
言いながら首はふわり、と浮き上がり、背後の体に近づいた。首の部分に収まると、首を動かし繋がりを確かめて、首は一人の少年になった。
「じゃ、帰るか」
少年がこちらに近づき、膝をつく。転がったままの自分を横抱きにして立ち上がり、歩き出した。
暖かい。歩く振動が眠気を誘い、疲れた体は簡単に意識を沈めていく。
「おまえ、本当に動じないな。会ったばかりの、それも首と胴が離れるようなやつの腕の中で、すぐに寝ようとすんなよ」
「…おやすみ、なさい」
「挨拶しろって意味じゃねぇよ…ったく、可笑しなやつ」
寝るな、と言いながらも、その声はとても穏やかだ。温かさに擦り寄りながら、その言葉を聞こえない振りして微睡む意識に身を委ねた。
「…夢か」
アラームの音に目を覚ます。
懐かしい夢を見た。首と初めて会った時の夢を。
田舎の祖母の家で出会った首。困った時に必ず現れて、揶揄われながらも助けてくれる、ヒーローのような存在。
何も知らない自分に森の中での遊びや、妖について教えてくれたのは彼だった。
だからだろう。彼に惹かれるのは。
それがいつからなのか、覚えてはいない。気づけばすでに彼に恋い焦がれていた。
彼が自分の元まで来てくれた事に、僅かに期待をした。祖母が亡くなり、会えなくなって寂しい思いをしたのは自分だけではないのだと。彼も自分を好いてくれているのではないかという淡い想いは、けれどすぐに消えてなくなってしまったが。
――ばあさんが、望んだから。
祖母の望みに応え、彼はここにいる。
望まれ、応える。妖と人との違いを突きつけられたようで、その時は泣くのを耐えるだけで精一杯だった。
未だ鳴り続けるアラームを止め、ベッドから抜け出す。
決して叶わぬ、それでいて消える事も許されないこの想いは、今はただ苦しいだけだ。
カーテンを開け、空を仰ぐ。今は見えない星にどうか、と願う。
どうか、この想いが報われますように。
どうか、この想いが消えてなくなりますように。
相反する願い。だからこそ言葉には出来ない。
これは気休めだ。叶うはずのない、叶って欲しいとすら思っていない、誤魔化すためのものだ。
くすりと笑う。気休めに縋るほどに自分は、彼が。
「好き、なんだよね」
「なら、告白したらどうだ?」
声が、聞こえた。
外ではない。部屋の中から。
ゆっくりと振り返る。自分のすぐ後ろで、首がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて浮かんでいた。
「な、に。か、勝手に人の部屋に入らないでよっ!」
「おまえがいつまでも言わないのが悪い」
睨み付けた所で、首は気にも留めずに宙を彷徨う。自由気ままに動きながら、それでも目だけは逸らされる事はない。
「言っただろうが。望めば応えてやるって。どんだけ待たせんだよ」
「だから、あんたに望んだって意味ないって」
「何言ってんだ。俺以外に応えられる訳ないだろ?」
ぴたり、と首が静止する。思わず後退り、かたん、と背中が窓にぶつかり音を立てた。
逃げられない。ずきり、と胸が悲鳴を上げる。
「やだ。来ないで」
「こっちはな、苦労してばあさん説得したんだぞ。おまえの両親よりも大変だったんだ。軟弱者の抜け首は許さないって、もの凄い剣幕で怒鳴られて。誓約書まで書かされて。屋敷まで継ぐ事になっちまった」
「…意味、分かんない」
首が近づく。手を伸ばせば触れられる距離で、首はにたり、と唇を歪ませた。
胸が苦しい。息がうまく出来ず、目眩がしそうだ。
「ああ、そういやまだ種明かししてなかった…可哀想に、ごめんな」
「たね、あかし?」
「俺はな。嘘を吐くのが得意だ。今もおまえに言ってない事や騙してきた事がたくさんある…でもさ、知ってたか?妖ってのは、嘘は吐かないんだぜ」
ひゅっと息を呑んだ。
妖は嘘を吐かないならば、嘘が得意だという目の前の彼は一体。
「早く、告白してくれよ。こっちはずっと待ってんだ。ばあさんとの誓約で俺からはなにも言えないからさ」
「っ…いつ、から。気づいて」
「さあ?ばあさんの屋敷にいた時には、気づいてたかな」
顔が熱い。俯きかける顔を、許さないとばかりに首が近づき、目を覗き込こむ。
「ち、近い、よ。離れてっ」
「言ってくれたらな?」
優しい顔をして、残酷な事を言われる。さらに近づかれ、少し動けば触れてしまいそうだ。
熱い。視界が滲む。
もう、耐えきれなかった。
「………ぃ」
「ん?なんだって?」
「このっ、変態!」
ぱあん、と軽い音。
「痛っ!?」
彼の頬を思い切り張って、少しだけ離れた隙間から逃げ出した。
後ろから彼の声が聞こえるが、気にしてなどいられない。
外に出て、当てもなく駆け出す。空を見上げ、心のままに叫ぶ。
「どうか、あの変態が全部忘れてくれますようにっ!」
今は欠片も見えない星に、願った。
20250210 『星に願って』
見慣れた彼女の背を見つけ、駆け出した。
「先輩っ!」
声をかければ立ち止まり、こちらに振り返る優しい彼女に思わず笑みが溢れる。
「おはようございます!」
「おはよう。朝から元気だね」
「先輩が見えたので、走って来ちゃいました」
静かで落ち着いた声音に、少しばかり落ち着きを取り戻し。段々に羞恥心が込み上げて、頬が熱くなる。
そんな自分を彼女はいつもと変わらぬ凪いだ表情で見つめ、視線を逸らして歩き出した。
「行くよ。遅刻してしまう」
「あ、はい。ごめんなさい」
慌てて彼女の背を追う。隣に並んで立てば、彼女の長い黒髪からふわりと甘い匂いがした。
「先輩。トリートメント変えました?」
「変えてないけれど。急にどうしたの」
「いえ。何か甘い香りがしたので」
首を傾げながらそう伝えれば、彼女はああ、と何かに気づいたように鞄から、小さな巾着袋を取り出した。
立ち止まり、こちらに視線を向ける。彼女に倣い足を止めると、はい、と取り出した巾着袋を手渡された。
「先輩?何です、これ?」
「匂い袋。貴女が言っていた匂いは、これでしょう?」
確かに。ふわりと薫るこの匂いは、さっきの香りと同じものだ。
「あげる」
「え?いいんですか」
「いいよ。作りすぎてしまっていたし…それより、少し急ぐよ。本当に遅刻する」
「は、はいっ!すみません。ありがとうございます!」
早足で歩き出す彼女と共に歩き出す。急ぐ、とは言いながらも、自分に合わせて歩いてくれる彼女の優しさに、手にした匂い袋を両手で抱きしめ、微笑んだ。
「先輩!」
先を行く彼女の背が見え、駆け出した。
けれども彼女は足を止める事はなく。普段よりも縮まらぬ距離に焦れて、速度を上げる。
「ねぇ!先輩ってば!」
手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいても、彼女は足を止めない。
不安で、怖くなって。彼女の肩に手を伸ばし。
――その手が、空を切った。
「え?あれ?」
バランスを崩し、倒れ込む。
受け身もまともに取れず、強かに右半身を地面に打ち付けた。
「いっ、たぁ」
「…何、してるの」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
どこか呆れた目をした彼女が、静かにこちらを見下ろしていた。
「せん、ぱい?」
「派手に転んだね。血が出てる」
傍らにしゃがみ込み、擦りむいた腕や足を確かめていく。ハンカチで血を拭い、鞄から取り出した絆創膏を手際よく張っていく。
「なんで、絆創膏持ってるんですか?そんなにたくさん」
「だって貴女。いつも走ってくるでしょう。いつか転んでしまうと思っていたから」
他に傷がないか確かめながら、彼女は言う。言外に、何もない所で転ぶとは思わなかったと言われているようで、恥ずかしさに俯いた。
「ほら、立って。腕を貸してあげるから」
「…ありがとう、ございます」
「どういたしまして。今度から気を付けてね」
彼女に支えられながら立ち上がる。ふらつきながらも歩き出しながら、さっきの背中を思い出す。
「先輩…さっき、わたしの前を歩いていました?」
「いいえ。走る貴女の背を見ていたよ」
「そう、ですか」
彼女の静かな目が、何かあったのかと問いかける。
それに気づかない振りをして、鞄を持つ手に力を込めた。
その日から、彼女の背中の幻を見るようになった。
例えば、階段の踊り場で。赤信号の横断歩道の途中で。
気づくのが遅れれば命がなかったような危ない状況で、彼女の背を見続けていた。
彼女の背を見つけ。けれど追うべきかを戸惑う。
あれは本当に彼女なのか。それとも幻なのか。
迷いながらも、駆けだした。もしも彼女だったなら、という期待が足を動かした。
二つ年上の彼女。仕事でいつも家にいない両親に代わって面倒を見てくれた、大切な従姉妹。
彼女に追いつきたくて、背中を見かける度に追いかけた。幻を見るからと、彼女を追いかける事を止めてしまいたくはなかった。
「先輩っ!」
声をかける。彼女の背が立ち止まる。
ああ、やっぱり彼女だったと。笑みを浮かべて速度を上げて。
――手を引かれる。
「ぅわっ!?」
「何、してるの」
ふらつきながら、引かれた手の先を見る。
普段と変わらぬ凪いだ表情をした彼女が、けれど目には鋭さを湛えて自分を見つめていた。
「先輩?」
呆然と彼女を見つめ。ゆっくりと追いかけていた背に視線を向ける。
「な、んで?」
そこに変わらず彼女はいた。彼女の背は微動だにせず、消える事なくそこに佇んでいる。
「…何だ。そういう事」
彼女も見たのだろう。何かに納得して、腕を強く引かれた。
「な、に。先輩?」
「よく見てごらん」
彼女のしなやかな指が、道の先に佇む背中を指差した。
視線を向ける。目を凝らして、その背中を見つめた。
「っ…なに、あれ」
目にした異形に、目を見張る。
見慣れた背中。自分と同じ制服姿。長く艶やかな黒髪。
スカートから伸びる、細くしなやかな足。
しかしその膝は、つま先はこちらを向いていた。
「無理矢理繋げたのだろうね。半分に千切れてしまっていたから」
淡々とした彼女の声が聞こえたが、理解が追いつかない。目の前の光景から目を逸らす事が出来ない。
ずり、と音がする。異形が振り返る。だが下半身は微動だにしていない。
ず、ずり、と耳障りな音を立て、異形が。上半身だけ、で。
「無理に見る必要はない。見ていて気持ちのいいものじゃないからね」
不意に視界が暗くなる。彼女の手が目を塞ぎ何も見えなくなった。
音は消えない。ずり、ぎり、と視界を塞がれた事で、音がよりはっきりと認識されて、耐えきれず両耳を塞ぐ。
塞ぐ手をすり抜けて、籠もった音が微かに耳に届く。籠もりぼやけた音は、しばらく手の向こう側で形を持とうと鳴り続けていたが、ごきん、という音を最後に沈黙した。
彼女の手が外される。目の前から異形の背が消えて、思い出したように膝が震えてその場に崩れ落ちた。
「思っていたよりも執着していたんだね」
かたかたと震えの止まらない体を抱いて、彼女を見上げる。驚きの混じった声音にすら恐怖を感じ、声にならない悲鳴が喉をひりつかせた。
「追いかけてもらえるのが嬉しかった。それは自覚していたけれど…ごめんね」
立ち上がる事も、況してやこの場から逃げ出す事も出来ずに震えるだけの自分を見下ろして、彼女は微笑む。
膝をついて頬に触れるその手の冷たさに、膜を張っていた涙が耐えられずに零れ落ちた。
「そろそろ思い出してきたね。答え合わせしようか」
彼女の手が頬から離れ、傍らに転がっていた鞄に伸びる。中から以前もらった匂い袋を取り出して袋の口を緩めた。
「ひとつめ」
手を取られ、手のひらに匂い袋の中身を出される。
それは白く、細い。まるで骨のような。
「私は、すでに死んでいる」
静かな声に肩が震えた。
「ふたつめ」
背後から腕が伸びてきて、手のひらの上の白を摘まみ上げる。
滲む視界で見上げると、彼女の空洞の目と視線が合った。
「その体は、私の執着の成れの果てだ。本物は焼かれて骨になって、とっくに土の中さ」
執着。これが、彼女の。
目が合ったまま動けないでいると、摘まみ上げた白を口の中へと差し入れられる。吐き出そうとするより早く腕は口を塞ぎ、抵抗も出来ずに飲み込んだ。
恐怖と苦しさに、しゃくり上げながら涙を流す。背後の彼女の体は頬を包み、止まらない涙を拭っていく。温もりのない冷たい体からは、あの匂い袋の甘い香りがした。
「そして、みっつめ」
くすくすと笑う声に、視線を目の前の彼女に向ける。
唇の端を歪めて笑う彼女は美しく、そして何よりも怖ろしい何かに見えた。
「私は、何だろうね。貴女の作り出した妄想か。魂というものが形を持ったのか」
腕を取られ、促されて立ち上がる。震える足では上手く力が入らないが、背後の彼女の体に支えられて崩れ落ちる事はなかった。
「まあ、今更どうでもいい事だけどね。死の匂いを甘いと表現した貴女には、最期まで私の背を追いかけてもらうから」
可哀想に、と彼女は笑う。幼い頃によくしてもらっていたように頭を撫でられて、その残酷な優しさに只管に首を振って泣きじゃくった。
「追いかけるのはもうイヤ?じゃあ、手を繋いでいこうか。昔みたいに」
手を繋がれる。絡みつく彼女の冷たい指に、逃げられないのだと気づかされた。
泣きながらも彼女に寄り添い立つ。彼女と共に、歩いて行く。
恐怖と、悲しさと、寂しさと。そして喜びと。様々な感情で目眩がする。
もう自分が何故泣いているのか、分からない。
「ぉ、ねぇ、ちゃん」
「久しぶりに呼ばれたね。先輩だなんて格好つけ出すから、少し寂しかったんだ」
上機嫌に笑う目の前の彼女は、本当は誰なのだろう。
ぼんやりとする意識の中で、考える。
いつも面倒を見てくれた大好きな従姉妹。困った時に助けてくれる優しい先輩。
どうか本物であって欲しい、と。
消えていく自分の影を見遣りながら、ただそれだけを願っていた。
20250210 『君の背中』
「ああ…海だ」
眼前に広がる果てない青に、目を細める。
「寒いな。眠ってしまいそうだ」
首に巻き付いた赤い蛇が、力なく呟いた。
「眠っててもいいのに。蛇は冬眠する生き物でしょ?」
「私は妖だ。冬眠などするわけがないだろう。お前の認識で蛇の生態に引き摺られているだけだ」
「ごめんね。だって大蛇だって、お話にはあったから」
苦笑して蛇の頭を指先で撫でる。されるがままの蛇は、ちろりと舌を出してから、フードの中に潜り込んだ。
赤い蛇と故郷を出てから、どれだけの時間がたったのか。一月か。一年か。それともそれ以上なのか。
随分と遠くまで来た。故郷を思い、泣く事もなくなった。
「余計な事を考えているな」
「余計かな。感傷に浸る事って」
「それだけではないだろう。母御を終をもたらした事を、まだ気に病んでいるのか」
フードから頭だけを出した蛇が窘めるように声をかける。
それに首を振って、違うよ、と何度目かの否定をした。
「気に病むとかじゃない。これは一生背負っていくものだ」
母を殺した。死してなお、妄執に囚われ留まり続けていた母を終わらせた。その罪をなかった事には出来ない。
母を終わらせた選択に、後悔はない。父や兄は、どんな形であれ母がいる事を望んでいたが、その代償に失われていく命を見て見ぬ振りなど出来なかった。
泣くように笑う、母の最期を覚えている。怒り、憎む父と兄の呪詛のような声を、表情を忘れる事など出来はしない。
「私の罪を忘れてはいけない。許されるつもりもない…眠っていたあなたを私の望みのためだけに起こして、最低な事をさせたのだから」
「下らないな。実に下らない。妖とは人間の望みに応えるために在る。それを気に病むなど愚かな事だ」
ぴしゃり、と言い捨てられ、でも、と続くはずの言葉は形にならず。深い溜息に、視線を逸らして海を見た。
故郷では見られなかった青。寄せては返す波の音に惹かれるように、近づいた。
「あまり近づきすぎるな。海とは総じて悲哀と不穏が渦巻いているものだ。引き込まれるぞ」
「そうなの?…よく知っているね」
蛇の言葉に目を瞬く。忠告に従って離れながらも、遠くなる海を一瞥した。
故郷にはなかった海を、祠で長い間眠っていたはずの蛇はどこで知ったのだろう。
問うべきかを悩み、結局は口を噤む。聞いた所で、それは意味がない事だ。蛇の過去を徒に暴く事はしたくはない。
「…海まで来たのはいいけれど。これからどこへ行こうか」
「今日はもう宿を探すべきだ。いくら南に下れど、寒さは変わらぬな」
「分かった。じゃあ、街に出ようか」
急に話題を変えても何も言わない蛇の優しさに口元を緩め。気づかれないように手を強く握り締めながら、宿を探すために街へと向かう。
すれ違う人の、突き刺さるような鋭い視線に気づかない振りをして。どこからか聞こえる詰る声をないものとして。
足早に宿を探し歩いた。
深夜。
寝入る少女の傍らで、紅い大蛇は徐に鎌首を擡げた。暗がりを見つめ、舌を出す。
「さて、どうするか」
ずり、と畳の上を蛇の胴が這い。少女を囲うようにとぐろを巻く。
「無駄な事だ。おとなしく海へ戻るがいい」
暗がりを見据え告げれば、恨み妬む声が室内に響き。
だが大蛇が動じぬ姿に、次第にその声は小さく、やがては消えて元の静寂を取り戻す。
「…ん。な、に…?」
「何もない。沈んだものが縋りに来ただけだ。私とお前が同一だと気づいていながら、無駄な事をする」
眠れ、と大蛇に囁かれ、少女は再び眠りにつく。穏やかな寝息に大蛇は僅かに目元を緩ませた。
大蛇が少女の望みに応えたのは、大蛇の質による所が大きい。
少女の母が奪ったものに赤子がいた。故に終わった物語の概念として在った大蛇は、望みに応えるため目覚めた。
少女の故郷で語り継がれる伝承。
縁側で泣き続ける赤子を攫い己の棲家であやしていた大蛇は、赤子の家に棲み着く白蛇に退治され、赤子は無事に家族の元へと帰る。
少女は伝承の大蛇を、優しい蛇だと認識していた。退治された大蛇を奉ったという小さな祠に足繁く通い、幼いながらに祠の手入れをし続けていた。
赤子と蛇。その細い繋がりを縁として、少女は大蛇に己の母を終わらせてほしいと望んだのだ。
「お前が望んだのが私ではなく、白蛇であったのならよかっただろうに」
布団からはみ出した少女の手足を器用に尾で戻しながら、大蛇は幾度目かの詮無き事を思う。
大蛇を退治した白蛇は、守り神として赤子の家に奉られている。白蛇であれば、少女の望みを対価なしに応える事が出来ただろうに。
退治された概念の大蛇では、望みに応える事は出来ず。少女と同一となる事を対価に、少女の母を終わらせた。
どんな形であれ少女に親殺しをさせてしまった事を、大蛇は悔いていた。
ふと、大蛇はカーテン越しに外に視線を向ける。
忌々しいと舌を出し、カーテンをすり抜け現れた半透明の白蛇を警戒を露わに睨めつける。
「邪魔をするなと言っただろうに」
「関係ないよ。僕は人間に望まれた事に応えるだけさ」
「今この娘を家族の元に戻す事は出来ぬと、何度言えば分かる」
母を殺した少女の傷は少女を苛み続け、呪のように纏わり付いている。出会う人間全ての視線や声を、己を責め立てるものだと認識を歪ませ、一人苦しんでいる。
その少女を今家族の元に戻せば、その破滅は誰にでも想像出来るだろうに。
「それも関係ないな。僕は妖だ。人間の望みに応えるのが妖なのだから、それ以上は気にするだけ時間の無駄だ」
だが白蛇はそれを気にかける事もなく。さらに大蛇へと近づいた。
「貴様は本当に妖らしい妖だな」
「君は本当に妖らしくないね。そのままだといずれ堕ちるよ」
「余計な世話だ」
大蛇の尾が白蛇を薙ぐ。しかし尾は白蛇の体をすり抜け、大蛇は舌打ちをした。
「酷いな。まったく…もし、その娘を家族の元に戻したくないのなら、早朝に出立する事をおすすめするよ。昼前には彼らはここに辿り着くだろうからね」
「…何を考えている」
「別に。ただね。僕も君を殺す事に何も感じてない訳じゃないんだよ。君が簡単に人間に応えるから、伝承をなぞらえて最後には君を殺さなくちゃならなくなるんだ。そんな可哀想な僕の事を少しは考えて欲しいものだね」
ふい、と視線を逸らし。白蛇はその姿を霞ませ消えていく。
「嫌なら応えなければよいだけだ。面倒な奴め」
その姿を一瞥して、大蛇は呆れを滲ませ呟いた。
少女を見る。変わらず寝入る姿に安堵して、少女を覆い隠すように伏せた。
もうすぐ夜明けだ。少女を起こして、出立の準備をしなければならない。
終わりは必ず訪れる。少女の傷が癒え、正しく人間を認識する事が出来たのならば、その時はあの白蛇を頼ればいい。白蛇は大蛇を退治し、子を親の元へ連れ帰る存在なのだから。
それまでは、と。大蛇は少女の寝息を聞きながら、囁く。
「次はどこへ行こうか」
少女の傷が少しでも癒える場所へ。少女を追う家族から少しでも離れられるように。
少女と大蛇は、当てもなく旅を続ける。
故郷から離れ、遠く…。
20250209 『遠く…』
「ここだけの秘密なんだけどね」
ふふ、と笑みを浮かべて、彼女は囁いた。
放課後の図書室。今この場にいるのは二人だけだというのに、彼女は周囲を気にして声を潜め、身を近づける。
それを一瞥して、無言で手元の本へと意識を戻す。
また始まった。普段は明るく元気な彼女の、この悪い癖はどうしようもないらしい。。
「ちょっと、聞いてよ」
「聞いてるよ。耳を塞いでいる訳じゃないから、聞こえている」
「聞き流してるだけでしょうが。ちゃんと聞いて。今回のはね、とっても凄いんだから」
はぁ、と溜息を吐き、本を閉じる。
いつもの事ではあるが、やはり今回も見逃してはくれないようだ。
顔を上げ、彼女を見る。きらきらと煌めく眼と視線が交わり、その熱量に思わず身を引いた。
「そこで引かないで。今回のは凄いんだから。まだ誰も知らない秘密なんだからね!」
「はいはい。で?今回は何。踊るガイコツでも見た?それとも歌うピアノ?」
少し前まで彼女が嵌まっていた、この学校の七不思議を適当にあげてみる。だが彼女は頬を膨らませ、違う、と不満を露わにした。
「七不思議なんて、皆知ってるでしょ。秘密じゃないじゃない。今回はそんな子供だましじゃないよ」
そう言って、彼女は真剣な顔する。僅かに視線を揺らし、顔を近づけ。
声を潜めて、あのね、と呟いた。
「わたしたちって、親友だよね?」
「………まあ、そうだね」
意外な言葉に、目を瞬く。それは秘密でも何でもない事だろう。
直ぐに答えを返さない事が不安だったのか。彼女の煌めく眼に涙の膜が張り出す。少し慌てて腕を伸ばし、彼女の少し固めの髪を無造作に撫でた。
「私達が親友だって、秘密にした覚えはないんだけど。いつから秘密の関係になったの?」
「違うの。ちょっと確かめたかったというか…本当に特別な秘密だから」
乱暴に目を擦り、彼女は笑う。心底安心したというような締まりのない笑みに、内心でほっと息を吐いた。
常に変化する彼女の感情には慣れているつもりであるが、それでも泣かれるのは未だに落ち着かなくなる。
そんな思いを表には一切出さず、無言で話の続きを促す。擦った事で僅かに赤くなった目を何度か瞬かせ、彼女は表情を引き締め口を開いた。
「本当はずっと前から言おうと思ってたんだ。でも怖くて、いろんな話をして様子を見てた。まだちょっと怖いけど、言わなくちゃいけないから」
「これ以上長くなるなら、本読んでてもいい?」
「待って待って!言う!ちゃんと言うから」
ぐずぐずと迷う彼女に焦れて本を開く振りをすれば、慌てた彼女が本を奪う。縋り付くように本を抱きしめ、一つ深呼吸をして、真っ直ぐこちらを見据えた。
「わたし。人間じゃないの。人間に化けている妖なの」
何だ、そんな事か。
「…ああ、うん。知ってる」
彼女の目を見返して、告げる。
驚愕に目を見張る彼女の手から少し歪んだ本を取り返し、何事もなかったかのように本を開いた。
「ちょっ、待って!?なんで?なんで知ってるの!だってわたし、誰にも言ってないし、ずっとバレないように頑張って来たのにっ!」
「っ、やめっ。落ちっ、着いて。揺らすなっ、て」
肩を掴まれ揺さぶられる感覚に、必死に抵抗する。思っていたよりも強い彼女の力に視界が揺れ、吐き気が込み上げてきた。
次第にぐったりとする己にようやく気づき、彼女が慌てて手を離す。背をさすられながら最悪の事態が避けられた事に安堵していれば、微かに聞こえたどうして、の言葉に目を細めた。
彼女の腕を叩く。口を開く余裕はまだなく、代わりに指を差して彼女に伝えた。
指を差した先。夕焼けに伸びた影に視線を向けて、彼女は目を丸くし頬を染めた。
人間の形をした己の影とは異なり、彼女の影は獣の形をしていた。
「ぁ、え。いつ、から…?」
恐る恐るこちらを見つめる彼女に、曖昧に笑って視線を逸らす。それだけで察しはついたのだろう。顔を覆い、音もなく崩れ落ちて行く。
「まさか、最初、から…え。待って。これって、皆に、バレ、て…?」
「それはないと思う」
立ち上がり、彼女の隣にしゃがみ込む。崩れ落ちたままの体制の彼女の頭を撫でて、大丈夫、と繰り返す。
「…本当に?」
「多分。でも、夕方のこの図書室でしか、影は出なかったから」
昼間の学校内や登下校時には、彼女の影は人間の形をしていた。夕暮れのこの図書室にいるのは、委員である己くらいしかいない。
それを伝えれば、彼女はそっと顔から手を離し。赤に染まった顔をして、こちらを見上げた。
「秘密を知っても、親友で、いてくれる?」
今更、何を言っているのか。くすくす笑い、強めに彼女の頭を撫で回す。
そもそもが、逆である。
この図書室に獣の影をした彼女が現れ、言葉を交わし。そして親友になったのだから。
影と同じく、どこか抜けている己の親友の髪を心ゆくまで掻き回す。ぴょこん、と現れた、頭の上の丸い獣の耳を摘まんで、軽く引っ張った。
「やっ!ばかっ。耳、引っ張らないで」
「秘密にもなってないのに、変な事を言ってるから、お仕置き」
「だって。だって怖かったんだもん。大好きだから、離れたくなかったのに」
「はいはい。ごめんね。頑張って秘密にしようとしてたのに、最初から気づいてて」
「いじわるだっ!」
頭や耳を撫で回す手をペちぺちと叩く彼女に苦笑し、解放する。
涙目で睨み付ける彼女に、ごめんね、と繰り返して、戸締まりをするために立ち上がる。
気づけば、下校時刻まであと僅かだ。黙々と戸締まりを行う己に、彼女は文句を言いながらも立ち上がり帰る仕度を始めた。
「秘密にしたいなら、もっと気を張らないと。まあ、難しいだろうけれど」
「ばかにしないで。今度からは絶対にバレない秘密を作ってあげるんだから」
「頑張って。本当に誰も知らない秘密を作って、一ヶ月守り通せたら、私も秘密を教えてあげるよ」
きょとり、と彼女は目を瞬かせ、次第にそれは煌めきを増していく。
「秘密!?それってどんな?ねぇ、教えてよ!」
「教えたら秘密にならないでしょうが。ま、誰も知らない秘密だろうね」
きらきらと輝く彼女の目から視線を逸らして図書室を出る。慌てて続く彼女が出たのを見て、扉に鍵をかけた。
「気になる!秘密を守ったら、絶対に教えてよ」
「教えるよ。無駄になるかもしれないけど」
「ならないっ!いじわる言わないでよ」
ごめんね、と気のない謝罪をして。
いつものように、手を繋いで歩き出す。
さて、彼女の新しい秘密が守られるのが先か。己の秘密が暴かれるのが先か。
ぶつぶつと新しい秘密とやらを、口に出しながら考えている彼女を横目に。
夕暮れに伸びた己の影に、一瞬だけ四つの尾が現れ消えたのを見ながら、どちらも当分はないな、と口元だけで笑みを浮かべた。
20250207 『誰も知らない秘密』
夜が明けきらぬ、しん、と静まりかえった暗い空の下。人目を避けるように木の合間を抜けながら走る、小さな影が一つ。
時折周囲を気にして足を止めては、またすぐに駆け出す。
吐く息は白く、それでもその口元は笑みを湛えて。
不意に、小さな影の足が止まる。周囲を気にして足を止めたのではない。まるで時が止まったかの如く、不自然な体勢で影は動きを止めていた。
「随分とお転婆になられたものですね」
呆れを乗せた声と共に、音もなく影の背後に男が現れる。動きを止めたままの影を――幼子を抱き上げ、その体の冷たさに眉を顰めた。
「戻りますよ。まったく、夜遊びは控えるようにと散々申しておりますのに」
「もう少しだったのだが。仕方がないな」
頬を膨らませ不満を露わにしながらも、幼子は暴れる事なく男に擦り寄る。男の首に腕を回し、抱きついた。
「満月《みつき》」
「なんだ。満理《みつり》」
男に呼ばれ、幼子は腕を離し視線を向ける。
「私の元を抜け出してまで、日の出が見たいのですか?」
「見たいな。理由は分からぬが、ずっと見たいと思っていた気がする」
首を傾げ、幼子は屈託なく笑う。その笑みに男もまた柔らかな微笑みを返し、戻る足を止めた。幼子が向かっていた方向へと行き先を変え、ゆっくりと歩き出す。
「満理はいつも優しいな。記憶のない私の側にいてくれるだけで、私は十分だというのに。こうして我が儘を聞き入れてくれるのだから」
「満月は私のものに御座います故」
くすくすと二人、笑い合う。穏やかな足取りで道を行く。
木々を抜けた先。開けた場所で男は立ち止まる。
見上げる空は群青から淡紅へと色を変え、夜明けが近い事を示している。
目を細めて、その不思議な色合いを幼子は見つめ。ほぅ、と息を吐いて、男に凭れかかった。
「不思議な感じだ。日の出はまだだというのに、既に満たされている。満理と共にいるからだろうか」
目を瞬いて男を見上げ、そして空を見て。
何かに気づいて、幼子は花開くように微笑んだ。
「日の出ではないな。私は夜明けが見たかったのか。夜が終わるその先に、私は満理と共に在る事を確かめたかったのだな」
「今日の満月は、随分と素直ですね」
微笑む幼子に男は笑みを浮かべながらも、その目には戸惑いが浮かんでいる。幼子の記憶がどれだけ残っているのか、或いは戻ってきているのかを見極めようと、問いかけた。
「残っているものはありますか」
何が、とは敢えて言わず。
だが幼子はきょとり、と目を瞬かせ、悩み考えながら男に言葉を返す。
「満理を、きっと覚えているのだろう。それは記憶ではない。感覚的な、感情の名残のような、形のないものだけれど」
幼子の答えに男は何も言わず、その小さな背を撫でる。笑みを浮かべ擦り寄る幼子を抱え直し、空を仰いだ。
間もなく夜が明ける。
夜明けを求める幼子が、かつては夜しか在れぬ事を幼子は覚えてはいない。
妖の母と人間の父との間に生まれた、過去、現在、未来全てを見通す眼を宿した娘。妖の母により、陽の光に焼かれる呪をその身に刻まれた、憐れな子。徒人よりも成長の早いその身とは異なり精神が幼いままの娘は、今は男の影の中で眠り続けている。
此処にいるのは、娘の精神に会わせて男が作り上げた形代だ。故に娘は幼いまま。己の過去も眼の事さえ忘れ、ただ男と共に在る。
記憶を消したのは、男の賭けだ。何もかもを忘れた娘は、男と共に在り続ける理由はない。だが妖の母を、己の眼の記憶がなければ、娘はただの娘となる。
結果、男は賭けに勝った。娘は男と共に在り、陽に焼ける呪から解き放たれて、今は陽の光の下を歩く事が出来る。
「満月。夜が明けますよ」
「日の出か。いつ見ても、綺麗なものだ」
赤く染まる空と地の境。一筋の光を幼子は目を細めて見つめた。
日の出だ。夜が明け、朝が訪れる。
昇る陽を見つめ、ふふ、と幼子は笑みを溢す。男の頬に手を伸ばし、眼を覗き込むようにして身を乗り出す。
蕩けるような金が深縹を見つめ、満理、と静かに名を呼んだ。
「如何しましたか?」
「少し思った。日の出は綺麗だが、満理の眼の方がもっと綺麗だ」
「戯《たわむ》れ言も程々になさい」
「本当の事だろう。満理は綺麗だ。陽も、月も。満理には敵わない」
くすり、と微笑んで、幼子は男の首元に戯れついた。
嘘偽りのない本心からの幼子の言葉は、男の心を酷く騒つかせる。悟られぬようにと男は幼子の背を撫ぜて、静かに息を吐いた。
「満月。御母堂が居られない事は、寂しくはありませんか?」
「満理がいるから気にもならないな。記憶にない母より、満理と共にいられない事の方が、私にとっては苦しいよ」
呟いて、幼子は男にしがみつく。離れるもしもを想像して、怖くなったのだろう。離れたくない、と男の服の端を、小さな手で必死に掴んだ。
「そう心配なさらずとも、満月が望む限り私は共に在りますよ」
服を掴む幼子の手を上から握り、摩る。解け離れていく手を繋ぎ、男は柔らかく微笑んだ。
「さて、夜が明けました故、そろそろ戻りましょうか。体が冷えておりますよ」
「分かった。戻ろうか」
戻る旨を伝え、頷く幼子の反応を見て、男は踵を返す。
夜が明けた。
陽は昇り、空が青く染まり出す。
静かだった世界が、明るさと共に賑やかを取り戻していく。
陽に幼子が燃える様子はない。
それに密かに男は微笑んで、幼子を優しく抱きかかえ直した。
20250207 『静かな夜明け』