「ここだけの秘密なんだけどね」
ふふ、と笑みを浮かべて、彼女は囁いた。
放課後の図書室。今この場にいるのは二人だけだというのに、彼女は周囲を気にして声を潜め、身を近づける。
それを一瞥して、無言で手元の本へと意識を戻す。
また始まった。普段は明るく元気な彼女の、この悪い癖はどうしようもないらしい。。
「ちょっと、聞いてよ」
「聞いてるよ。耳を塞いでいる訳じゃないから、聞こえている」
「聞き流してるだけでしょうが。ちゃんと聞いて。今回のはね、とっても凄いんだから」
はぁ、と溜息を吐き、本を閉じる。
いつもの事ではあるが、やはり今回も見逃してはくれないようだ。
顔を上げ、彼女を見る。きらきらと煌めく眼と視線が交わり、その熱量に思わず身を引いた。
「そこで引かないで。今回のは凄いんだから。まだ誰も知らない秘密なんだからね!」
「はいはい。で?今回は何。踊るガイコツでも見た?それとも歌うピアノ?」
少し前まで彼女が嵌まっていた、この学校の七不思議を適当にあげてみる。だが彼女は頬を膨らませ、違う、と不満を露わにした。
「七不思議なんて、皆知ってるでしょ。秘密じゃないじゃない。今回はそんな子供だましじゃないよ」
そう言って、彼女は真剣な顔する。僅かに視線を揺らし、顔を近づけ。
声を潜めて、あのね、と呟いた。
「わたしたちって、親友だよね?」
「………まあ、そうだね」
意外な言葉に、目を瞬く。それは秘密でも何でもない事だろう。
直ぐに答えを返さない事が不安だったのか。彼女の煌めく眼に涙の膜が張り出す。少し慌てて腕を伸ばし、彼女の少し固めの髪を無造作に撫でた。
「私達が親友だって、秘密にした覚えはないんだけど。いつから秘密の関係になったの?」
「違うの。ちょっと確かめたかったというか…本当に特別な秘密だから」
乱暴に目を擦り、彼女は笑う。心底安心したというような締まりのない笑みに、内心でほっと息を吐いた。
常に変化する彼女の感情には慣れているつもりであるが、それでも泣かれるのは未だに落ち着かなくなる。
そんな思いを表には一切出さず、無言で話の続きを促す。擦った事で僅かに赤くなった目を何度か瞬かせ、彼女は表情を引き締め口を開いた。
「本当はずっと前から言おうと思ってたんだ。でも怖くて、いろんな話をして様子を見てた。まだちょっと怖いけど、言わなくちゃいけないから」
「これ以上長くなるなら、本読んでてもいい?」
「待って待って!言う!ちゃんと言うから」
ぐずぐずと迷う彼女に焦れて本を開く振りをすれば、慌てた彼女が本を奪う。縋り付くように本を抱きしめ、一つ深呼吸をして、真っ直ぐこちらを見据えた。
「わたし。人間じゃないの。人間に化けている妖なの」
何だ、そんな事か。
「…ああ、うん。知ってる」
彼女の目を見返して、告げる。
驚愕に目を見張る彼女の手から少し歪んだ本を取り返し、何事もなかったかのように本を開いた。
「ちょっ、待って!?なんで?なんで知ってるの!だってわたし、誰にも言ってないし、ずっとバレないように頑張って来たのにっ!」
「っ、やめっ。落ちっ、着いて。揺らすなっ、て」
肩を掴まれ揺さぶられる感覚に、必死に抵抗する。思っていたよりも強い彼女の力に視界が揺れ、吐き気が込み上げてきた。
次第にぐったりとする己にようやく気づき、彼女が慌てて手を離す。背をさすられながら最悪の事態が避けられた事に安堵していれば、微かに聞こえたどうして、の言葉に目を細めた。
彼女の腕を叩く。口を開く余裕はまだなく、代わりに指を差して彼女に伝えた。
指を差した先。夕焼けに伸びた影に視線を向けて、彼女は目を丸くし頬を染めた。
人間の形をした己の影とは異なり、彼女の影は獣の形をしていた。
「ぁ、え。いつ、から…?」
恐る恐るこちらを見つめる彼女に、曖昧に笑って視線を逸らす。それだけで察しはついたのだろう。顔を覆い、音もなく崩れ落ちて行く。
「まさか、最初、から…え。待って。これって、皆に、バレ、て…?」
「それはないと思う」
立ち上がり、彼女の隣にしゃがみ込む。崩れ落ちたままの体制の彼女の頭を撫でて、大丈夫、と繰り返す。
「…本当に?」
「多分。でも、夕方のこの図書室でしか、影は出なかったから」
昼間の学校内や登下校時には、彼女の影は人間の形をしていた。夕暮れのこの図書室にいるのは、委員である己くらいしかいない。
それを伝えれば、彼女はそっと顔から手を離し。赤に染まった顔をして、こちらを見上げた。
「秘密を知っても、親友で、いてくれる?」
今更、何を言っているのか。くすくす笑い、強めに彼女の頭を撫で回す。
そもそもが、逆である。
この図書室に獣の影をした彼女が現れ、言葉を交わし。そして親友になったのだから。
影と同じく、どこか抜けている己の親友の髪を心ゆくまで掻き回す。ぴょこん、と現れた、頭の上の丸い獣の耳を摘まんで、軽く引っ張った。
「やっ!ばかっ。耳、引っ張らないで」
「秘密にもなってないのに、変な事を言ってるから、お仕置き」
「だって。だって怖かったんだもん。大好きだから、離れたくなかったのに」
「はいはい。ごめんね。頑張って秘密にしようとしてたのに、最初から気づいてて」
「いじわるだっ!」
頭や耳を撫で回す手をペちぺちと叩く彼女に苦笑し、解放する。
涙目で睨み付ける彼女に、ごめんね、と繰り返して、戸締まりをするために立ち上がる。
気づけば、下校時刻まであと僅かだ。黙々と戸締まりを行う己に、彼女は文句を言いながらも立ち上がり帰る仕度を始めた。
「秘密にしたいなら、もっと気を張らないと。まあ、難しいだろうけれど」
「ばかにしないで。今度からは絶対にバレない秘密を作ってあげるんだから」
「頑張って。本当に誰も知らない秘密を作って、一ヶ月守り通せたら、私も秘密を教えてあげるよ」
きょとり、と彼女は目を瞬かせ、次第にそれは煌めきを増していく。
「秘密!?それってどんな?ねぇ、教えてよ!」
「教えたら秘密にならないでしょうが。ま、誰も知らない秘密だろうね」
きらきらと輝く彼女の目から視線を逸らして図書室を出る。慌てて続く彼女が出たのを見て、扉に鍵をかけた。
「気になる!秘密を守ったら、絶対に教えてよ」
「教えるよ。無駄になるかもしれないけど」
「ならないっ!いじわる言わないでよ」
ごめんね、と気のない謝罪をして。
いつものように、手を繋いで歩き出す。
さて、彼女の新しい秘密が守られるのが先か。己の秘密が暴かれるのが先か。
ぶつぶつと新しい秘密とやらを、口に出しながら考えている彼女を横目に。
夕暮れに伸びた己の影に、一瞬だけ四つの尾が現れ消えたのを見ながら、どちらも当分はないな、と口元だけで笑みを浮かべた。
20250207 『誰も知らない秘密』
夜が明けきらぬ、しん、と静まりかえった暗い空の下。人目を避けるように木の合間を抜けながら走る、小さな影が一つ。
時折周囲を気にして足を止めては、またすぐに駆け出す。
吐く息は白く、それでもその口元は笑みを湛えて。
不意に、小さな影の足が止まる。周囲を気にして足を止めたのではない。まるで時が止まったかの如く、不自然な体勢で影は動きを止めていた。
「随分とお転婆になられたものですね」
呆れを乗せた声と共に、音もなく影の背後に男が現れる。動きを止めたままの影を――幼子を抱き上げ、その体の冷たさに眉を顰めた。
「戻りますよ。まったく、夜遊びは控えるようにと散々申しておりますのに」
「もう少しだったのだが。仕方がないな」
頬を膨らませ不満を露わにしながらも、幼子は暴れる事なく男に擦り寄る。男の首に腕を回し、抱きついた。
「満月《みつき》」
「なんだ。満理《みつり》」
男に呼ばれ、幼子は腕を離し視線を向ける。
「私の元を抜け出してまで、日の出が見たいのですか?」
「見たいな。理由は分からぬが、ずっと見たいと思っていた気がする」
首を傾げ、幼子は屈託なく笑う。その笑みに男もまた柔らかな微笑みを返し、戻る足を止めた。幼子が向かっていた方向へと行き先を変え、ゆっくりと歩き出す。
「満理はいつも優しいな。記憶のない私の側にいてくれるだけで、私は十分だというのに。こうして我が儘を聞き入れてくれるのだから」
「満月は私のものに御座います故」
くすくすと二人、笑い合う。穏やかな足取りで道を行く。
木々を抜けた先。開けた場所で男は立ち止まる。
見上げる空は群青から淡紅へと色を変え、夜明けが近い事を示している。
目を細めて、その不思議な色合いを幼子は見つめ。ほぅ、と息を吐いて、男に凭れかかった。
「不思議な感じだ。日の出はまだだというのに、既に満たされている。満理と共にいるからだろうか」
目を瞬いて男を見上げ、そして空を見て。
何かに気づいて、幼子は花開くように微笑んだ。
「日の出ではないな。私は夜明けが見たかったのか。夜が終わるその先に、私は満理と共に在る事を確かめたかったのだな」
「今日の満月は、随分と素直ですね」
微笑む幼子に男は笑みを浮かべながらも、その目には戸惑いが浮かんでいる。幼子の記憶がどれだけ残っているのか、或いは戻ってきているのかを見極めようと、問いかけた。
「残っているものはありますか」
何が、とは敢えて言わず。
だが幼子はきょとり、と目を瞬かせ、悩み考えながら男に言葉を返す。
「満理を、きっと覚えているのだろう。それは記憶ではない。感覚的な、感情の名残のような、形のないものだけれど」
幼子の答えに男は何も言わず、その小さな背を撫でる。笑みを浮かべ擦り寄る幼子を抱え直し、空を仰いだ。
間もなく夜が明ける。
夜明けを求める幼子が、かつては夜しか在れぬ事を幼子は覚えてはいない。
妖の母と人間の父との間に生まれた、過去、現在、未来全てを見通す眼を宿した娘。妖の母により、陽の光に焼かれる呪をその身に刻まれた、憐れな子。徒人よりも成長の早いその身とは異なり精神が幼いままの娘は、今は男の影の中で眠り続けている。
此処にいるのは、娘の精神に会わせて男が作り上げた形代だ。故に娘は幼いまま。己の過去も眼の事さえ忘れ、ただ男と共に在る。
記憶を消したのは、男の賭けだ。何もかもを忘れた娘は、男と共に在り続ける理由はない。だが妖の母を、己の眼の記憶がなければ、娘はただの娘となる。
結果、男は賭けに勝った。娘は男と共に在り、陽に焼ける呪から解き放たれて、今は陽の光の下を歩く事が出来る。
「満月。夜が明けますよ」
「日の出か。いつ見ても、綺麗なものだ」
赤く染まる空と地の境。一筋の光を幼子は目を細めて見つめた。
日の出だ。夜が明け、朝が訪れる。
昇る陽を見つめ、ふふ、と幼子は笑みを溢す。男の頬に手を伸ばし、眼を覗き込むようにして身を乗り出す。
蕩けるような金が深縹を見つめ、満理、と静かに名を呼んだ。
「如何しましたか?」
「少し思った。日の出は綺麗だが、満理の眼の方がもっと綺麗だ」
「戯《たわむ》れ言も程々になさい」
「本当の事だろう。満理は綺麗だ。陽も、月も。満理には敵わない」
くすり、と微笑んで、幼子は男の首元に戯れついた。
嘘偽りのない本心からの幼子の言葉は、男の心を酷く騒つかせる。悟られぬようにと男は幼子の背を撫ぜて、静かに息を吐いた。
「満月。御母堂が居られない事は、寂しくはありませんか?」
「満理がいるから気にもならないな。記憶にない母より、満理と共にいられない事の方が、私にとっては苦しいよ」
呟いて、幼子は男にしがみつく。離れるもしもを想像して、怖くなったのだろう。離れたくない、と男の服の端を、小さな手で必死に掴んだ。
「そう心配なさらずとも、満月が望む限り私は共に在りますよ」
服を掴む幼子の手を上から握り、摩る。解け離れていく手を繋ぎ、男は柔らかく微笑んだ。
「さて、夜が明けました故、そろそろ戻りましょうか。体が冷えておりますよ」
「分かった。戻ろうか」
戻る旨を伝え、頷く幼子の反応を見て、男は踵を返す。
夜が明けた。
陽は昇り、空が青く染まり出す。
静かだった世界が、明るさと共に賑やかを取り戻していく。
陽に幼子が燃える様子はない。
それに密かに男は微笑んで、幼子を優しく抱きかかえ直した。
20250207 『静かな夜明け』
「レディ。今日こそは話をしようか」
「話す事は何もありません」
唇の端を歪めて嗤う彼から目を逸らす。
金色を纏った炎のように鮮やかな赤色が、視界の端でちらついた。
赤は怒りの色だ。激しく燃え上がる怒りを内に秘めながら、彼は話せと繰り返す。
一体何を話せと言うのだろうか。話す事で何の意味があるのだろうか。
「聞きたい事があるならば、素直に言葉にする事だ。レディ」
「話す事など、何も」
「嘘を吐くな」
鋭く冷たい声が、赤色を濃くして責め立てる。彼の手が首を掴んで、無理矢理に彼と目を合わせられた。
「俺は嘘が嫌いだと、最初に言ったはずだ」
「嘘、じゃない。本当に、何も…意味が、ない、のに」
「レディ」
赤色が消える。静かでありながら強い目に見据えられ、小さく肩が跳ねた。
色が見えない。他者の心の内を色で見る自分には、初めての事だ。
「レディ。最初の質問は何だ?」
「…何で。色が見えなくなるの?」
微かな呟きは、彼には理解できぬ事だろう。だが彼は笑みを浮かべ、首を掴んだままの手を離した。
彼の回りで金色が揺れる。誇りや自信。自分にはないものを纏い、彼は口を開いた。
「簡単な事だ。心を静めれば無になる。感情の色を見るレディには、無の色が見えないだけだろう」
「っ、なんで、知って」
「レディの瞳と似たものを、俺の故郷で見た事がある。より精巧な、心の内をすべて暴く瞳を知っている」
この忌々しい瞳を持つ誰かが、自分の他にもいる。それに救いを見出しかけて、自嘲する。
ただの色以上が見える誰かは、自分以上の苦痛を味わっているだろうに。それを比較して自分は誰かよりましなのだと、勝手に救われようとする自分の浅はかさに嫌悪した。
「次の質問の前に座るか。長い話になりそうだしな」
彼に促され、ソファへと向かう。一人掛けのソファに座らされ、彼は近くの椅子に腰をかけた。
「さて次の質問を聞こうか」
俯いて、首を振る。何を聞けばいいのか、分からない。
「思うままを言葉にしろ。俺はそのすべての言葉に、誠実に答えを返そう」
「何故?」
「それが俺の在り方だからだ」
彼の在り方。存在。
そもそも、彼について何も知らない事に気づいた。
「貴方は誰ですか?何故、こんな山奥にいたの?」
顔を上げて、彼に問う。
人目を避けるために移り住んだ山奥の家。山菜を採るために出かけた先で、彼を見つけた。
今目の前の人の姿をした彼ではない、黒い翼を有した狼のような姿をした彼。何の色も見えない、作り物のように美しい彼に目を奪われた。
彼と目が合って、人の姿へと形を変えた彼にも色は見えず。彼の求めるままに、気づけば家に招き入れていた。
自分は彼の故郷も、名前すらも知らないのだ。
「そうだな…Devil、Demon…悪魔、と言えば通じるだろうか。この島国から遠い大陸から、契約者だった者と共にこの地に訪れた」
彼が纏う金色に、赤色が滲む。先ほどよりも暗い赤色がゆらりと揺れて、彼は酷薄に唇を歪めた。
「だが契約者は死んだ。俺が殺した。俺に嘘をつくものは、例外なくそうなる。レディも気をつける事だ」
「契約者がいないのなら、帰ればいい」
「それが正しいのだろう。本来ならば、契約者が死んだ時点で帰るべきだ」
彼の目に射竦められる。消えない暗い赤色が揺らぎながら近づいて、鎖のように纏わり付く。
こんな事は初めてだ。今まで誰かの色が自分に影響する事はなかった。どんなに黒く濁った感情を誰かに向けられても、その色はその誰かに纏わり付いているだけだったはずなのに。
動けない自分に彼は笑う。その目に怒りは見えないのに、赤色はさらに色を濁らせていく。
「レディ。俺の契約者になってくれ。対価としてその身を害するものすべてから守り、求める答えを与えよう」
契約者。それが何を意味するのか、正しくは知らない。
けれど一度頷いてしまえば戻れない恐怖から、必死で首を振り否定した。
「ぃ、やです。貴方と、契約なんて、しない」
「残念だ、レディ…その言葉は、少しばかり遅かったようだ」
徐に、彼は立ち上がる。音もなく歩み寄り、身を屈めて目を覗き込んだ。
彼の誇りを表した金色と、怒りの赤色が混じった不思議な色合いの瞳が、怯える自分を映して歪む。
「拒絶するならば、最初からでなければ。家に招き入れ言葉を交わしたその瞬間に、契約は成された」
「なん、で。そんな」
「レディのその瞳が気に入った。異端として虐げられて尚、純粋さを保つ魂の色を映す綺麗な瞳を、欲しいと思った」
彼の手が頬に触れる。冷たい指先が零れ落ちる滴を拭い、そこで自分が泣いている事に気づく。
「何も告げずにいた無礼は詫びよう。代わりに暫くはレディの言葉の誤りを嘘とはしないでおこう。誰かと言葉を交わす事などなかったレディには、言葉を正しく紡ぐ事はまだ難しいだろうからな」
彼は笑う。涙の止まらない自分を見つめ、瞼に唇を寄せる。
動けず固まったままの自分を、彼の赤色が縛り上げていく。
あぁ、と声が漏れる。気づいてしまった。
この色は怒りではない。この赤は血の色だ。
これは血の契約だ。
「さあ、レディ。心ゆくまで語り合おう。Have a heart to heartというやつだ。こちらの言葉では、腹を割って話す、だったか?…心配するな。本当に腹を割る事も、心臓を抉る事もしないさ。レディが誠実である限りは、ね」
契約の鎖に縛られる自分を前に、彼は手を差し出す。
動けないはずの腕が、意思に反して持ち上がり。
その手を取って恭しく口付ける彼を、ただ見つめるしか出来なかった。
20250206 『heart to heart』
その女性はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
信号待ちの交差点。視界の隅で揺れる極彩色に、少年は視線を向けた。
道路を挟んだ向かい側に、花束を持った女性が立っていた。幸せそうに微笑んで、手にした花束を見つめている。
遠目からでは花の種類までは分からない。ただ赤や白、黄色など色とりどりの花は遠目からでも美しく、目を惹きつけた。
信号が青に変わり、人々が動き出す。女性から視線を逸らし、少年も歩き出した。
こちらへ歩く人の波に、女性の姿は見つける事は出来ない。視線だけを動かして花束の鮮やかな色を探すが、見えるのは少年と同じ紺や白の制服ばかりだ。
信号を渡りきり、周囲を見る。けれども女性の姿を見つける事は出来なかった。
はぁ、と少年は溜息を吐く。こうして女性の姿を探しては、見つけられずに信号を渡りきるのは疾うに十を超えていた。
心の底から美しいと思えるあの花束を、一度は間近で見てみたい。
もう一度周囲を見渡して、肩を落としながら少年は歩き出した。
「ねえ」
不意に声をかけられて、少年は肩を跳ねさせ振り返る。
「驚かせてごめんなさい」
眉を下げ、微笑む女性がそこにいた。
手にした花束は今日も変わらず色鮮やかで、少年は魅入るように視線を向ける。
「あなた、いつも私の花を見てくれているよね」
「ぁ。ご、ごめんなさいっ」
女性の言葉にはっとして、慌てて少年は謝罪する。赤く染まる顔に、女性は怒るでもなく笑んだまま首を振った。
「謝らないで。私、あなたとお話をしてみたかったの」
「話、ですか?」
「そうよ。私の育てた花を、あなたは見てくれたから」
愛おしげに花束を見つめ、ありがとう、と女性は感謝の言葉を述べる。その声音がどこか寂しげにも感じられて、少年は女性を見つめた。
「えっと、あの」
「皆、忙しくなってしまったわね。綺麗に咲いたから見てもらいたくて、こうして花束にしてみたけど。あなた以外は気にもかけてくれなかったわ」
以前は誰かしら足を止めて、花を褒めてくれたのに。
そう呟く女性はやはり寂しそうで。
花を見る。美しく咲いた種々の花はふわり、と甘い香りを漂わせ、少年を惹きつける。
こんなにも美しい花に何も感じない大人達が、少年には信じられなかった。
「とても、きれいだと思います。うまく言えないけど、すごく目を惹くっていうか。俺、ずっと近くで花を見てみたかったんです」
「ありがとう。そう言ってくれると、幸せだわ」
ふふ、と女性は微笑んで、そして何かを思いついたように、そうだ、と小さく呟いた。
「あなた、これから時間はあるかしら?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」
今日は特に予定もなく、家に帰るだけだ。少年がそれを伝えると、女性は楽しげな色を目に浮かべ、囁いた。
「花を褒めてくれたお礼に、私の温室に招待してあげる。特別よ」
女性が大切に育ててきたという花が見られるという期待に、少年は迷う事なく頷いた。
街の外れの一角にある大きな屋敷が、女性の家であるらしい。
尻込みする少年を余所に、女性は門扉を開け入っていく。
「こっちよ。おいで」
手招かれて、少年は恐る恐る門扉を抜ける。先を行く女性の背を追いながら、広大な庭へと足を踏み入れた。
「すごい」
綺麗に整えられた庭の奥。美しい硝子張りの温室を視界に入れて、少年は思わず声を上げた。温室内に咲き誇る花々は、外から見ても瑞々しく美しい。
「入口はこっちよ。いらっしゃい」
温室の扉に手をかけ、女性は少年を呼ぶ。少年を前に恭しく扉を開けて、悪戯めいた目をして女性は笑った。
「ようこそ。私の秘密の温室へ」
「お、おじゃまします」
気恥ずかしげに俯いて、少年は温室の中に足を踏み入れる。だが漂う香しさと視界の隅の極彩色に、すぐに顔を上げて表情を綻ばせた。
赤、白、黄色、紫。
少年でも名前を知っている花や見た事もない花が、温室内に咲き乱れている。枯れる事を知らないような、永遠に似た楽園がそこにはあった。
「綺麗でしょう?私の自慢の花なのよ」
「きれいです。凄く、とっても凄くきれいだ」
「気に入ってもらえてよかったわ」
きらきらと目を輝かせる少年に、女性は満足げに笑い扉を閉めた。硝子越しの空が夜色に染まっていくのを、だが花に魅入る少年は気づかない。
音もなく少年の背後に立ち、ねえ、と女性は声をかける。
「あなた、この温室で花を育ててみない?」
「え?俺が、ですか?」
困惑して少年は女性を見る。突然の事に理解が追いついていないのだろう。
そんな少年に笑って、女性はそうよ、と頷いた。
「でも、俺。花とか育てた事がないし」
「大丈夫よ。あなたは花を綺麗だと思ってくれているもの」
「だけど」
迷い視線を彷徨わせる少年に、来て、と女性は告げて歩き出す。躊躇いながらも、花の香りに導かれるように少年は女性の後に続いた。
「あなたに花を育ててほしいの。私を戻さなければならなくなってしまったから」
「戻るって?どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。戻さないと、温室を壊されてしまうから。私がいなくなった後を頼みたいの」
淡々とした女性の声は、向かう温室の奥のような暗さを孕み不安をかき立てる。
「私の花は永遠なの。そうでなければならないのよ」
足は止まらない。不安に視線を彷徨わせながらも、少年は女性の紡ぐ言葉に同意する。
この花は永遠だ。終わりなどは相応しくない。
花の香りに思考が霞み、不安を覆い隠す。どこか夢見心地で、少年は女性の背を追い続けた。
温室の最奥。そこでようやく女性の足が止まる。
硝子越しに見える空は既に暗く。僅かに欠けた月と星だけが、暗い温室をぼんやりと照らしていた。
遅れて少年の足も止まり。女性は少年に視線を向けて、困ったように微笑んだ。
「良い土を選んでいるから当分は枯れる心配はないけれど。手入れをしなくては、美しさは損なわれてしまう」
女性が指を差す。その方向へと少年は視線を向け、少年は息を呑んだ。
不自然な土の塊から、赤いバラが群生している。無秩序に咲き乱れるバラは、温室の入口で見た花とは異なり、少年に嫌悪感を抱かせた。
美しくない。このままの状態では、この温室に相応しくはない。
「お願い出来るかしら。私の次の管理者になって」
「…でも、どうすればいいか」
「大丈夫よ。これを」
そう言って、女性は少年に花束を差し出す。
色鮮やかな花束。永遠の花で作られた、永遠の花束。
ゆっくりと腕を上げて、花束を受け取る。香しい花の匂いを吸い込んで、目を閉じた。
「受け取ってくれてよかった。花の手入れをお願いね」
女性からではなく、すぐ側で声が聞こえた。
目を開ければ、花束の中に一輪、黒と白の花が紛れている。
目を凝らせば、それは美しい女の顔になり。
「上手に手入れが出来ている間は、土にはしないでいてあげる。さあ、まずはあの薔薇を整えてちょうだい」
女の顔をした花は妖しく微笑み、囁く。
「はい」
その言葉に少年は頷いて、花束を抱えたままバラの元へと歩み寄る。
その目は虚ろでありながら、夢に浮かされたように微笑みを湛えて。
膝をついて、傍らに花束を置く。代わりに土に突き刺さったままの鋏を抜いた。
僅かに身じろぐ土を押さえつけ、呻く声など聞こえないかのように。
人の体に咲き乱れるバラを、一本ずつ間引いていった。
交差点の片隅。
いつからか密やかに囁かれる噂話。
その少年はいつも、色鮮やかな花束を抱いて立っている。
もしも、少年に声をかけられても、決して振り返ってはいけない。
振り返ってしまったのならば。
20250205 『永遠の花束』
「やさしくしないで」
抑揚のない声が座敷に響く。
「優しくしているつもりはないよ」
言葉を返せば、座敷の四方や内土間からひそひそといくつもの囁く声がする。
うそだ、と誰かが囁いて。そうだ、といくつもの声が同意した。
「うそつき」
「あなたはいつでもやさしい」
「やさしいのはこわい」
「こわいよ」
こわい、こわい、と声は囁く。
内土間でダレかが這い回り、ナニかが臼を搗《つ》く音を立てる。
段々に増える声と音に、一つ息を吐いた。
「どこが優しい?」
声を上げる。
刹那に静まりかえる座敷は、しかし次の瞬間には先ほどよりも多くの声が響き渡る。
「こえをかけてくれるところ」
「みてくれるところ」
「ふれてくれる。なでてくれるところも」
「ぜんぶ。ぜんぶがやさしい」
「あなたのそんざいが、やさしいの」
くすくすと笑う囁きが、波のように座敷に広がっていく。
やさしくしないで、といくつもの声が繰り返す。
はぁ、とまた一つ息を吐いて。どうしたものか、と誰にでもなく呟いた。
優しくするなと声は言うが、同じ声で己の存在が優しいのだと言う。己の意思では変えられぬそれに、僅かに眉を顰めた。
「此処から出て行けと。そういう意味か?」
「違うっ!」
困惑を乗せた言葉は、強い声に否定される。声の方へ振り返れば、白く綺麗な幼子が肩で息を切らせてこちらを睨み付けていた。
「なんでそんなひどい事を言うの!」
「優しくするなと言ったのはそっちだろうに」
「っ、ばか!」
きっ、と睨み付け、幼子は大股でこちらに歩み寄る。小さな両手で己の頬に触れ、怒りの感情のままに抓り上げた。
「逆でしょう!?ここはあなたのお家なんだから。出て行くならわたしたちの方なのにっ!」
「痛っ。やめ、」
抓った頬を上下に揺すられ、慌てて止める。幼子の力だといえど、普通に痛い。
ふん、と鼻息荒く、そっぽを向いて。幼子は頬から手を離すと己を押しのけ炬燵に入り、食べかけの饅頭に手を伸ばした。
「人のものを食べるな。新しいのを出してやるから」
「そういう所!なんですぐに優しくするの」
さらに怒りを露わにし、幼子は止める間もなく饅頭を口にする。まったく、と文句を言いながら饅頭を平らげ、こちらを睨み上げた。
「優しいのは怖いのよ。特にわたしたちにとって、優しさは最期と同じ意味になるわ」
「あぁ、そういう」
「それにね。わたしたちは妖なのよ」
優しさが怖いという言葉の意味を理解しかけ、しかし続く幼子の言葉に首を傾げた。
前者は理解できる。幼子を含めた声達は皆、かつて間引かれて最期を迎えたのだから。
良心の呵責か。命を奪うという罪悪感か。それとも自らが生き残るための行為に対する言い訳か。
どんな理由であれ、子を間引く前に親は子に優しさを与えた。抱きしめ、頭を撫でて。愛を口にし、涙を流す。
この家に移り住んで、夜ごと繰り返し夢で見てきた事だ。話した事はないが、あれは幼子達の最期の記憶なのだろう。
優しさは別れに繋がり、それ故に怖いのだという事は理解できる。
だが、後者は分からない。
「妖であろうとなかろうと、お前達は何も変わらないと思うが」
考えても分からず、幼子に問いかける。呆れたように溜息を吐いて、幼子はあのね、と子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「妖はね、人間の望みに応えるモノなの。わたしたちもそう。豊かであれば子を間引く事もなかった親の後悔に、富が欲しいという望みに応えてここに在るの」
「それは知ってる」
何度も聞かされてきた事だ。さすがに覚えていると伝えれば、幼子の目に僅かに憐みの色が浮かんだ。
「知っているなら、何故あなたはわたしたちに何も望まないの?人間が望み、妖が応えて。その対価として妖は認識されるのに」
咎めるように視線に、思わず目を逸らす。
何故、と言われても、望みはないのだから仕方がない。
「毎日共にいるから、認識は歪まない、はずだ。だからあえて何かを望まなくても」
「一方的に与えられるその優しさはね、毒みたいなものよ。段々と手放したくなくなるの。何の見返りもなく、正しく認識してくれる存在を失うのが怖くなって…そうしたら、どうなると思う?」
昔、教えられた事のある幼子の問いかけに、視線を逸らしたままで記憶を辿る。
話半分に聞いていた事だ。思い返せど、何一つ思い出せるものはない。
幼子に視線を向けて。気まずさに、曖昧な笑みを浮かべた。
「大変な、事になる?」
「あなた、本当に物覚えが悪いのね」
頬を抓られる。先ほどよりも強い力に、ごめんなさい、と素直に謝罪をした。
「堕ちるのよ。その優しさが他に向かないように、失う事のないように隠して壊してしまうの。否定されるのは嫌だから、都合のいいように中身を作り替えて…その内、隠した子の事を忘れて、自分自身を忘れて狂っていくわ」
だから優しくしないで、と幼子は言う。
たくさんの声がやさしいのはこわい、と続けた。
「分かってくれた?」
幼子が微笑む。痛みに赤く染まる己の頬に触れて、答えを待っている。
理解したと頷くのは簡単だ。だがその後には、幼子に望まなくてはならない。
望みはない。本当に望むものは何一つないのだ。
「望みはないよ」
幼子を見返し、事実を告げる。何もないのだと、自嘲して見せた。
「空っぽなんだ。何もない。これは優しさなんかじゃない。易しいから、そうしているだけだ」
「易しくはないわ。あなたがしている事は」
「易しいよ。何も考えていない行動だ。無責任で、自己満足な。最低の行為だ」
力なく横になる。幼子や声、己自身から逃げるように、目を閉じた。
不意に頭に小さな手が触れる。慰めるような優しい手が頭を撫で。次第にその手は増えていき、背や頬を撫でていく。
「いいこ」
「さびしくないよ」
「みんなここにいるよ」
たくさんの声が優しく降り注ぐ。伽藍堂の己の隙間に入り込むその優しさは、暖かでありながらどこか痛みを伴っていた。
「優しくしないで」
痛くて泣いてしまいそうだ。
そう伝えれば、いくつもの笑い声が応え。さらにたくさんの声が、手が、己を慰める。
「ばかね。言葉を間違っているわ」
くすくすと、幼子が笑う。母のようで父のような。懐かしい優しさを乗せて、囁いた。
「こんな時はね。寂しいって素直に言うものよ。あなたのお父さんとお母さんの代わりには成れないけれど、一緒にいる事くらいは、わたしたちにも出来るわ」
唇を噛んで、泣くのを耐える。けれど暖かな手が目尻をなぞり唇に触れて、小さな抵抗は意味をなさなくなった。
嗚咽が漏れる。零れる滴が頬を伝い、頬を撫でていた手に拭われる。
「ずっと、一緒に、いて。置いて、いかな、い、で」
一人は嫌だ、と。しゃくり上げながら望めば、撫でる手は一層優しさを増した。
「応えてあげる。わたしたちがあなたを一人にはさせないわ。寂しさなんかなくして、空っぽでなくしてあげるから」
幼子の声に、たくさんの声が同意する。
きゃらきゃらと笑う声に。いっしょだよ、と囁く声にさらに涙が零れ落ちる。
いくつもの声に囲まれながら。
優しさは、痛いものだと初めて知った。
20250204 『やさしくしないで』