本の頁を捲る。
ここではない、遠いどこかの物語。思いを馳せながら、只管に文字を追う。
「物好きだね。いつまで読んでるの?」
呆れた声に顔を上げる。
「…今回は、何があった」
目の前の男の姿に、目を瞬く。
小袖を纏ったその姿。元々中性的な容姿をしているために、呆れ顰めた表情すら女性と見紛うほどに美しい。
思わず魅入り、手にした本を取り落とす。ばさり、と地に落ちる紙の音に、はっとして本を拾いつつ視線を逸らした。
「いつもの曰く付き。業が深くて大変だよ」
まったく、と男の愚痴を聞きながら、机に本を置く。
茶でも出すか、と湯を取りに移動しようとすれば、男の手がそれを阻む。視線だけで抗議すれば、柔らかく細まる男の目と視線が合い、びくり、と肩が跳ねた。
「茶ぐらい自分で出す。お前は此処にいて」
いいね、と念を押され、渋々頷く。
急須と湯飲みを置いた盆を手に取り部屋を出る男の背を見送って、静かに息を吐いた。
甘やかされている。記憶の中の男と同一だとは考えられぬほどに。
「甘いなぁ。甘すぎて、目が覚めちまった」
部屋の隅で寝ていたはずの、男よりも若い青年が欠伸を漏らしながら起き上がる。
「起きちまったからには、おれも甘やかしてみるか」
にたり、と笑い。音もなく近づくと、そのまま膝に乗せられる。突然の事に羞恥で逃れようと暴れるも、青年はただ笑うだけで解放するつもりはないようであった。
「よしよし。ほら、とっておきの饅頭をやるから、機嫌を直せ」
「食べ物で誤魔化されると思うな。離せ」
「食べないのか?おれの気に入りの店の限定品だぞ」
「……食べる」
限定品、という言葉には弱い。
青年の手から饅頭を受け取り、おとなしく齧り付く。しっとりとした皮と甘すぎない餡子の美味しさに、これ以上文句も言えずに饅頭を無心で囓った。
「なんだ。起きたのか」
「丁度良かった。こいつが饅頭を詰まらせる前に、茶をくれ。おまえの分もやるから」
ほら、と青年は饅頭を男に手渡し、代わりに湯飲みを受け取る。そして半分ほどになってしまった饅頭を己の手から取り上げると、受け取った湯飲みを押しつけた。
「あ」
「取りあえず、茶を飲め。詰まらせたら大変だ」
「何なんだ、まったく。お前達、どうかしてるぞ」
目の前の男と、背後の青年。記憶にある限り、お互いこのように和やかな関係ではなかったはずだ。
領地を巡り、互いに争い。協定を結びこそはしたものの、それでも仲間のような気安い関係ではなかったというのに。
「何言ってんだ、おまえ」
「今のお前の体は人間の体なのだから。心配するのは当たり前だろう」
「ただでさえ足が動かないんだからさ。おれらがいないとおまえ、すぐに死ぬだろ?」
「だからって」
言葉に詰まる。
確かに、かつては二人と同じ妖であっても今の己は人間だ。歩く事すらままならぬ弱き存在でしかない。
そも、妖であった時に何処ぞの侍に切り捨てられ死んだ己が、今こうして人間として生きているのが理解し難い。終わったはずの先がこうしてある事を、未だに認める事が出来ない。
「我慢しろよ。仕方ないだろ。上手く定着できたのが、人間の体だったんだから」
「人間の望みに応えて退治された、お前のその先があってもいいだろう」
「でも」
茶を啜りながら、男に視線を向ける。
男の手に重なるようにして絡みつく、半透明の女の手を表情一つ変えぬまま握りつぶすのを見て、ひっと声が漏れた。
「鬱陶しい。いいかい。この小袖もね、菩薩所に納められて終わったものだ。けれど今もこうして人間の念を取り込んで、曰く付きとして俺の元まで来た」
「人間に怪談話として語り継がれてるんだよ、それ。だからそれを何とかしても、またどこかで現れるんだろうな。そんで誰かがそれを終わらせる。それの繰り返しだ」
「お前も同じだよ。人間を化かして悪さをして、最後には人間に殺される。その話を人間が覚えている限り、お前はずっと此処に在る。俺達は次の形に成る前のお前に別の形を与えただけだ」
よく、意味が分からない。
取られた饅頭に手を伸ばしつつ首を傾げれば、呆れた溜息が前後から聞こえた。
仕方がないだろうに。己の頭が良くない事は、己だけでなく、二人も知っているはずだ。
「お前が読んでいた物語。読み終われば、悪者は倒され平穏が訪れるだろう?だが最初から読み始めれば、悪者は再び平穏を脅かして、読み進めればまた悪者は倒される。そういう事だよ」
「おれらは終わらない物語がまた始まる前に、悪役を悪さが出来ないように攫って甘やかしてるってだけだ」
分かったような、やはり分からないような。
取り戻した饅頭を囓りながら曖昧に頷いて見せれば、男の目に憐みが浮かぶ。それを見ない振りして、残りの饅頭を口に放った。
「とにかく、俺達は堕ちたりはしないから、心配しないでいいって事だけ知ってて」
「そうか…それなら、いい」
口の中の饅頭を飲み込んで、茶を啜る。
二人が堕ちないのであれば、それでいい。
「なんだかんだ言いながら、おまえが一番おれらに甘いよな。尾を千切って戻って来た時なんかは、薬を塗って一晩中世話をしてくれたし。こいつが真っ黒になって帰ってきた時には、元に戻るまで洗ってやってたしさぁ」
「お前が最初に甘やかしたんだから、今度は俺達に甘やかされなよ…それにしても鬱陶しいな。仕方がない。燃やすか」
次々と重なる女の手を潰していきながら、男は苛立たしげに眉を寄せる。
行ってくる、と部屋を出る男を見送りながら、燃やした小袖が風に乗って空に舞わなければいいが、と一抹の不安を覚えた。
「直ぐ戻ってくるだろうし、それまでゆっくりしてるか」
「いい加減に下ろしてくれ」
「戻ってくるまでは、念のためこのままな。人間は直ぐ死ぬし」
これやるからな、と今度は煎餅を手渡される。言いたい事は山ほどあるが、仕方がない。
ばり、と音を立てて煎餅に齧り付く。素朴でありながら、香ばしく甘い米と醤油の風味を堪能して、口元を綻ばせた。
「あと一年くらいはこの部屋の中だけで我慢しろよ。七つを過ぎたら、少しずつ外へも出してやるからな」
「過保護か。このまま私一人では何も出来なくなったらどうしてくれる」
「それもいいかもな」
ぽつりと溢れ落ちた言葉に、思わず振り返る。
どこか不穏な言葉とは裏腹に、優しい目をして青年は穏やかに微笑んだ。
「そうしたらもう、野ざらしの後ろ足のない狐の骸なんて見なくてすむだろうしな」
押し黙る。遠い過去の事だとしても、それに関しては何の弁解もしようがない。
視線を逸らし、青年にもたれ掛かる。
ばりん、と音を立てて囓る煎餅の味が、やけにしょっぱく感じた。
20250126 『終わらない物語』
妹が帰ってきた。
その知らせを受けて、考えるよりも早く体は実家へと向かっていた。
会ってまず、何を言うべきか。
いなくなった事を叱ればいいのか。それとも帰ってきた事を喜べばいいのか。
思考は渦を巻き、同じような事を考えては打ち消していく。迷う事のない体とは裏腹に、何一つ決められない。
だが、結局は。
何か言葉をかけるよりも、ただ確かめたかったのだ。
妹の、己の半身の無事を。この目で確かめたかった。
妹が行方不明になってから、彼此七年が経とうとしている。
いつもと変わりのない、あの日。後悔している事があった。
――会いたい。
別々の高校へと進学し、会う機会の減った妹からの連絡を、いつものように適当な嘘で断った。
双子と言えど、男と女だ。いつまでも二人一緒という訳にもいかない。
それは成長と共に顕著になり。進学を機に、実家から離れた。
泣き喚く妹に辟易し、嘘をついた。
それは己のための嘘であった。妹を納得させるためだけの作り話だ。
重苦しい息を吐き、手にしたままのそれに視線を落とす。
草臥れ、薄汚れた紅い紐。あの日に千切れてしまった、二人を繋ぐ糸。
――お互いに紅い紐を結べば、離れていても繋がっている事が出来る。
即席の作り話。それでも妹は納得して、縋りついた手を離した。
ようやく自由になれたのだと、心の内で安堵した。ようやく一人になる事が出来るのだと、その時は本気で喜んでいたのだ。
今は、後悔しかない。
――次は――駅。――駅。
電車がゆっくりと速度を落とす。窓の外の見慣れた景色に、戻って来たのだと実感した。
電車が停止するのを待てず、席を立つ。扉が開いた瞬間に、速足で改札へと向かった。
改札を抜け、走り出す。ここではバスを待つよりも、歩いた方が早く家に着く。
無心で走り続ける。握る手の中の紐が、ただの偶然なのだと笑って欲しかった。
「そんなに急いでどうしたの?」
無人のバス停。ベンチに一人座るその姿に、足を止めた。
荒い息を整え、ゆっくりと歩み寄る。記憶にあるまま変わらない姿に、手の中の紐を強く握り締めた。
「え、と。久しぶり」
「馬鹿やろう。勝手にいなくなりやがって」
「ごめん。でもどうしようもなかったの」
眉を下げて微笑う。困った時の癖も変わらない。
数歩、距離を開けて立ち止まる。視線だけで促せば、妹はベンチから立ち上がり己の隣に立った。
「帰ろうか」
差し出しかけた手は、ポケットの中に仕舞い込む。
今更だ。逃げ出した己が、触れられる訳がない。
視線を逸らし、俯いた。
家への帰り道を、肩を並べて、二人歩く。
昔から変わらない。異なるのは、手を繋いでいない事くらいか。
「懐かしいね。昔はよくこうして一緒に帰ったのを思い出す」
穏やかな声に、肯定する。
何も考えず、お互いがすべてだったあの頃が懐かしい。煩わしいと思っていたこの距離が、今はただ愛おしかった。
「本当に、帰ってきたんだな」
「そうだね。ようやく、かえって来れた」
「今まで何処で何をしてたんだ」
「ずっと学校にいたよ。ごっこ遊びをしてた」
哀しい誰かと、と笑う妹に気づかれないように、拳を握る。
妹は思っていたよりも側にいた。それに両親も妹の友人達も、誰一人気づかなかった。
己がそこにいたのなら、きっと直ぐにでも見つけて連れ戻す事が出来ただろうに。
離れるべきではなかった、と思い上がった思考に吐き気がする。どこまでも自分勝手で傲慢で、酷く滑稽だった。
「お袋達はどうしてる?」
「今はすごく忙しくしてるよ。急だったから、準備が大変みたい」
「側にいれば良いだろ。お前がいなくなって何年経ってると思ってんだ」
帰らぬ妹を探し続ける事も待ち続ける事も、苦痛を伴うものだ。僅かな希望が、諦める事を否定する。
諦めてしまえば楽になれると、何度思った事だろうか。
特に両親は、見ている周囲が耐えられぬほど必死だった。只管に。どんな形であれ、帰って来る事を願い続けていた。
ようやく帰ってきたのだ。
「ごめんね。皆に心配かけてばっかりだ」
「気にするな。帰ってきたから、もうそれだけで報われる」
不意に、妹の足が止まる。
数歩遅れて立ち止まり、振り返る。変わらず眉を下げて微笑う妹に手を伸ばしたくなるのを、作った笑みで誤魔化した。
「どうした?」
「ありがとう、って言ってなかったなって思って」
意図が分からず首を傾げれば、妹は左手を上げ袖をまくった。
「これがあったから、かえって来れた」
左手首に結ばれた紅い紐。慈しむように視線を向けて、妹はありがとう、と繰り返す。
「同じ時間を繰り返して気が狂いそうになっても、私にはこれがあった。繋がってるって感じられたから、他の子が皆壊れていっても、こうして私を保っていられた」
ゆっくりと歩き出す。その視線は己ではなく、家の方を向いていた。
足は止まる事なく、己の横を通り過ぎ。妹の背を追う形で、続いて歩き出す。
「私はもう大丈夫だよ」
凪いだ声音で妹は呟く。
「私にはこれがあるから。一人でも大丈夫」
「嘘をつくなよ」
「本当だよ。だから忘れてくれてもいいよ」
何を言っているのか。
思わず立ち止まる。だが妹は立ち止まる事も、振り返る事もなく先を行く。
「かえって来れたから。父さんも母さんも落ち着いてる。だから無理に帰ってくる必要はないよ」
「お前は俺に、帰ってきてほしくないのか?」
「そうじゃないけど」
妹を追いかけながら問いかける。
忘れていい、帰らなくていいなどと。これではまるで、ここから追い出そうとしているようではないか。
「そうじゃない。けど、傷になるくらいなら、いっそ忘れてほしい」
ぽつり、と呟かれたその言葉に、耐えきれず妹の腕を掴んだ。
驚き瞬く妹の目と視線を合わせる。涙一つ見えない瞳が苦しいほどに憎く、温もり一つない腕の冷たさが狂いそうなほどに悲しかった。
「いい加減にしろよ。俺達は双子なんだぞ。生まれる前から一緒にいた特別なんだ。お前が言っていた事だろうが。忘れるなんて出来ない事くらい分かれよ!」
家を出ると決めた時のように、感情のままに縋ってほしかった。行かないでと、離れないでと一言でも言ってくれたのなら、今度こそこの手を離す事はないというのに。
後悔していた。
離れた事。嘘を吐いた事。その全てを後悔していた。
一時の感情に流されずにいれば、この手はまだ温もりを抱いていられたはずだ。一人の空しさを思い知る事もなかった。
あの日からずっと、後悔ばかりだった。
「大丈夫だよ」
静かで柔らかな声音。
腕を掴んだままの己の手に触れ、妹は穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。忘れられるよ。怪異に攫われた私なんて忘れて、幸せになれるよ。これから先、好きな人が出来て、結婚して。そういえばって、思い出にする事が出来る」
「出来るかよ。お前がいないのに」
「出来るって。大丈夫。それでも哀しいって、幸せでないって言うなら。その時は仕方がないから、会いに行ってあげる」
嘘つき。と胸中では思いながらも、妹の腕を放す。
泣くのを耐えた不格好な笑みを浮かべ、約束だぞ、と嘯いた。
「会いに来いよ。待ってる」
「今から待たないで。幸せになる努力をしなよ」
「気が向いたらな」
くすくすと妹は笑う。
数歩下がり、後ろを振り返った。
「おかえり。父さんと母さんが待ってるよ」
いつの間にか家についていたらしい。
門扉を抜けて振り返る妹に、馬鹿だな、と笑った。
「お前が言う言葉じゃないだろ」
「そっか。うん。そうだね」
家を見上げ。眩しそうに目を細めて。
妹は、笑いながらも静かに泣いた。
「ただいま」
「おかえり。皆、ずっとお前を待ってた」
玄関扉の向こう側へと消えていく、妹の背を見送る。
黒と白の鯨幕を視界の隅に入れ、どこからか薫る線香の匂いを取り込むように深く呼吸をする。
妹が帰ってきた。
化生と呼ばれる、妄執に狂った人ではないモノの檻の中から戻ってきた。
化生に一度でも囚われれば、その生存は絶望的だ。五体満足で戻れるだけで、奇跡と言えるだろう。
最初から覚悟はしていた。妹が行方不明になった状況が、化生の存在を示していた。
妹が帰ってきた。
もしもの希望を見出す時間は終わった。生きていなくとも帰ってきたのだから、先に進まなくてはならない。
今だけだ。今この時だけは、と誰にでもなく言い訳をして。
声を殺して、只管に泣き続けた。
20250125 『やさしい嘘』
目を閉じて、耳を澄ませた。
風の音。水の音。
誰かの囁く声。
笑みが浮かぶ。目を閉じたまま、一歩足を踏み出した。
かさり、と足元の枯葉が音を立てる。囁く声に、笑い声が混じる。
二歩目、足を踏み出して。枯葉を踏みしめ、さらに足を踏み出した。
さくさく、と軽快な音を立てて歩いていく。その音を楽しみ、周囲の音を楽しんで、歩く速度が速くなる。
今にも踊り出しそうなほどに、足取りは軽い。さく、さくり、と音を鳴らし。
気が緩んでいたのだろう。踏み出す足が地面を滑り。
受け身すら取れず、そのまま地面に倒れこんだ。
「っ、いたい」
強かに打ち付けた頭をさする。ちかちかと星が瞬いているかのように、瞼の裏で光が点滅する。
ふっ、と息を吐いて、目を開ける。視界に広がるいつもの光景が、ぼやけて見えた。
「何をしている」
不意に視界が陰り、男がのぞき込むようにして声をかける。
男の目は見えない。今は黒い布に覆われているものの、その内側に男の瞳がない事を知っている。
「ちょっとした好奇心。見えない分よく聞こえて、少し調子に乗った」
苦笑し、起き上がる。離れた男が差し出す手に逡巡して、そっと手を重ねた。
「遠慮をするものではない」
「遠慮というか」
言い淀めば、想像したよりも強い力で引き上げられる。
蹈鞴を踏みながらも立ち上がり。未だに揺れる視界に眉を潜めた。
目を閉じる。
「頭を打ったか。安静にするべきだ」
「問題ない。人間だった時とは違う」
深く息をして、すべての瞳を開けた。
両腕を上げる。無数に開いた瞳が、呆れたように、心配そうに、咎めるように己を見た。
「ごめんね」
刺さる視線に謝罪をする。細まり、逸れて、各々自由に視線を向ける瞳に、くすり、と声が零れた。
「軽率なのは、変わらぬらしいな。皆が案ずるのも理解できるというものだ」
「それは、弟の言葉?」
「兄として、心配になるそうだ」
男の言葉に、眉を寄せる。
相変わらずだ。己の半身は、未だに弟だとは認めないらしい。
「あたしが姉なのに」
腕の瞳に同意を求めれば、迷うように視線が揺れる。真っ直ぐに視線を向けている瞳は一つもない。
溜息を吐き、腕を下ろす。
瞳は正直だ。愛しい弟妹達は、昔から姉思いの良い子だった。
「手癖の悪い女の腕には目が生える、とは言われてたけど。まさか本当に皆の瞳が生えてくるとは思わなかった」
「盗みをした事を、後悔しているのか」
「まさか。盗まなければ皆飢えて死ぬか、間引かれるかだった。最初から覚悟は決めていたわ」
生きるため、守るために。子供の己が出来た唯一が、盗む事だった。
親に見放されぬように、あの頃は必死だったのだ。
「そういう時代だったと、今なら笑えるけれど…死んだ後も皆がついてくるとはね」
腕に視線を向け、呆れ、哀しむように笑う。
人として死した後も終はなく。何の因果か、弟妹達の瞳を腕に有し今も在る。
成ったばかりで不安定な己を妖として定め、姉として保たせてくれる。
本当に、優しくて愛しい良い子達だ。
「そう言えば、弟の瞳はどう?しっかりと見えている?」
男の手に視線を移し、問いかける。
問われた男は一つ頷き、手のひらをこちらへと向けた。
手のひらで瞳が開く。半身の瞳が己を見据え、にたり、と歪んだ。
「問題ない。望みに応えてくれた事、感謝する」
「問題はたくさんありそうだけれど。あたしの目でも良かったのに」
小さく呟けば、腕の瞳と男の手のひらの瞳がすべて己を見た。咎める皆の視線から逃げるように顔を背ければ、視線が一層きつくなった。
「分かったってば。ごめんね。もう言わないから」
「愛されているな。身を損ねる事を厭うているのだろう」
穏やかに告げる男の言葉に、己の最期を思う。穏やかではなかったのだから、皆の気持ちも分からなくはない。
はぁ、と息を吐く。先ほどのように目を閉じて、耳を澄ませた。
微かな囁き声を聞く。瞳だけとなった弟妹の思いに耳を傾ける。
「見えない事も悪くはない。皆の声も聞こえるようになるから」
聞こえるのは優しい声ばかりだ。
己を心配し、愛しんでくれる。変わらない声。
「見えないと、他の感覚が研ぎ澄まされているようだ。気にも留めていなかった音や感覚が、鋭く明確になっていく。皆がより近くに感じられる」
「人間である頃より盲いていたが、気にした事もなかったな。見えぬ不自由は生きるのに致命的だ」
確かに、と言葉にはせずに同意する。
見えぬが故に抵抗も出来ず、賊に襲われ終を迎えた男にとっては、特にその思いが強いのだろう。
「賊の顔は拝めたの?」
「ああ。首だけではあったが」
晒し首か、或いは仲間割れでもしたのか。
どちらにしても、碌な終ではない。
「満足した?」
「否。空しいだけであった」
凪いだ声音。酷く草臥れたような声だった。
「拝借していた瞳をお返しする」
「いいよ。そのまま連れて行ってあげて」
「一人にされるのは嫌だそうだ」
男の言葉に重なって、弟の不満げな囁き声が耳を掠めた。
困ったものだ。男といれば、そのまま一緒に還る事も出来るだろうに。
仕方がない、と目を開ける。
男の差し出す手に、己の手を重ね。
腕に一対の瞳が増えた。
「一人で還れるの?」
「心配無用。還り道は見えずとも感じられる」
元の老人の姿になった男は、薄く笑う。
こちらに一礼をして、踵を返した。
「叶うならば、次の生は瞳を閉じて感覚を楽しめる余裕を持ちたいものだ」
呟く男の言葉に、叶うよ、と言葉を返す。
叶うはずだ。男の魂は堕ちてはいない。
「世話になった」
しっかりとした足取りで去って行く男の背を見送って。
弟妹達の瞳を見ながら、声をかけた。
「これから何処へ行こうか?」
迷うように視線が彷徨い、真っ直ぐな視線に見据えられる。
様々な反応に、小さく笑って目を閉じる。
弟妹達の声を聞くために。
20250124 『瞳をとじて』
ぼんやりと、目の前で倒れ伏すそれを見下ろしていた。
何処へ向かう途中だったのだろうか。今は僅かにも動かない体は、最後まで前に進もうと足掻くように指先が地を掻いていた。
ふと、それの上着のポケットから、小さな白い箱が僅かに覗いているのに気づく。
誰かへの贈り物だろうか。綺麗にリボンをかけられていただろう箱は、無残にもひしゃげてしまっていた。
無意識に己のポケットを探る。中から同じような赤いリボンのかけられた箱が出てきたのを、見るとも無しに見る。
手のひらに収まる程度の小さな箱。中身は何だったか、霞み掛かる意識の中、考える。
「ぁ」
戯れにリボンをつついていればその端から解け、風に乗って飛ばされていく。それを見遣り視線を戻せば、箱が開き中が露わになっていた。
黒いオニキスのついたピアス。
大切な、あの人への贈り物。
思い出す。思い出して、自嘲した。
自分勝手に贈り物を用意して、浮かれ。そして勝手に落ち込んで、渡す事すら出来ずに逃げ出したのだ。
冷静になって思い返してみれば、彼の優しさと己の浅はかさが露わになり、耐えられずに溜息を吐く。彼は常から忙しい人だというのは分かっていた事だ。だというのに、己のためにいつも時間を作ってくれていた。それを足りないのだと嘆き、剰えその態度を冷たいと傷ついていたのだから救いようがない。
溜息を吐く。手の中のピアスをポケットに押し込み、目の前の憐れで愚かな自分の成れの果てをただ見つめていた。
「お姉さんが、大本?」
不意にかけられた言葉に視線を向ける。
まだ年若い少年だ。大人になる直前の、強い意志を秘めた目が、己を見据えている。
少年の問いに首を振る。己の影を指さし、そして繋がれた先を指させば、少年の顔があからさまに歪んだ。
「なんだ、あれ?気持ち悪ぃ」
影を繋ぐ黒い不定形の塊に、そして塊へと伸びる繋がれた影の多さに、少年は嘆息する。
「お姉さん以外は、駄目だな」
ポケットから取り出した水晶を手の中で弄びながら、少年は繋がれたいくつもの影の先を見据え、己を見据えた。
その視線を肩を竦める事で返す。己の意思が残っているからといって、無事という訳でもない。
「まぁ、いいか。さっさと終わらせないと、後が詰まってるんだ」
どこか疲れた顔で少年は視線を逸らし、影を繋ぐ塊の元へと向かう。手にした水晶の他に、同じ水晶で出来ているであろう小さなナイフを取り出した。
塊が行動を起こすよりも速く、塊目がけ水晶を投げつけ。それとほぼ同時に、塊と己の影をナイフで切り離す。
一瞬の出来事に、目を瞬き。少年のさようなら、の声と、燃え上がる塊の耳障りな叫び声をただ聞いていた。
「俺、もう行くけどさ。お姉さんはどうすんだ?」
まだ生きてるみたいだし、と倒れ伏した方の己を見ながら少年は問う。
問われて、悩む。戻れる選択肢など、考えてはいなかった。
彼に何も言えずに部屋を飛び出し、その先で事故にあった。
そして気づけば、ここに繋がれて。このまま他の繋がれた影のように朽ちていくものだとばかり思っていたのに。
困ったように、己を見下ろす。だが倒れ伏す体は次第に薄くなり。霞み消えて、後には何一つ残らない。
「どうするもなにも、選択肢は一つか。怖ぇな。男の執着って」
小さく呟き腕をさする少年に、何の事だと問いかけようとして。
強く、手を引かれた。
振り返る。黒い人影が、逃がさないとばかりに強く手を掴み。そのまま引き寄せ、抱き留められる。
触れた場所から人影に呑み込まれる。助けを求めて少年を見れば、顔を引き攣らせながらも首を振って無理だ、と告げられる。
「手を出したら、特定されて刺されそう。運良く刺されなくても、無事じゃない気がする」
大人って怖ぇ、と疲れたように呟く少年の姿を最後に、視界が黒く染まる。
落ちていく意識の中で、強く繋がれた手の熱がやけにはっきりと感じられた。
頬に触れる誰かの手の感覚に、目を開けた。
焦点の合わぬ視界に、誰かの姿がぼんやりと映り込む。
息を呑む音。掠れた低い声が、己の名を呼んだ。
ここは何処だろうか。目の前の影は、聞き覚えのあるこの声の主は誰だっただろうか。
目を瞬いて、焦点を合わせる。次第に明瞭になる視界が、目の前の誰かの姿を正しく映す。
「ようやく、起きてくれた」
震える声。嬉しそうに、悲しそうに、愛おしそうに。
彼の手が頬を撫でる。確かめるようなゆっくりとした動きに、思わず目が細まった。
こんなに弱った彼は初めて見る。どんな時でも表情一つ動かさず冷静に対処していた彼が、泣きそうに顔を歪めているなど。
己の知らない彼の姿に、何か言わなくてはと口を開く。だが溢れ落ちたのは掠れた吐息のみ。
それならばと手を伸ばそうとするも、指先すら動かす事は出来なかった。
「俺が悪かった」
頬を撫でる指が唇に触れる。何も言うなと言われているようで、静かに口を閉じた。
「恨んでくれても構わない。お前が生きているならば、俺を愛さなくてもいい」
唇に触れていた手が静かに離れ、左手を取る。
繊細な壊れ物を扱うような手つきで、己の眼前に上げられて。
「結婚しよう」
その薬指に嵌まった銀色に、困惑する。
さっきから彼は何を言っているのだろうか。
分からない。理解したくないだけなのかもしれない。
最後に見た彼と、今の彼の差異に目眩がしそうだった。
「愛している。今までも、これからもずっと。お前だけを」
指輪に口付けて、彼は微笑む。
こんな彼は知らない。彼はこんな事をするような人ではなかった。
不意に彼の耳元の何かが光が反射した。
目を凝らす。焦点を合わせ、耳につけられたそれをはっきりと認め、息を呑んだ。
割れたオニキス。彼のための贈り物。
彼を祝うための贈り物が。
彼を縛り付ける呪いになってしまっていた。
20250123 『あなたへの贈り物』
「あなたは直ぐに迷子になってしまうから、これをあげるわ」
そう言って首にかけられた、銀色の何か。丸くて銀色で、まるで懐中時計のようなそれに首を傾げれば、母は柔らかく微笑んで頭を撫でた。
「これは、羅針盤。星の燦めきが見えないあなたのための、道標よ」
「みちしるべ?」
「そうよ。これから先、あなたが迷ってしまった時には、羅針盤の声を聞きなさい。進むべき道を示してくれるから」
「うん。分かったよ、おかあさん」
母の言葉全てを理解した訳ではないが、大切なものだと言う事だけは確かだ。真剣な顔をして頷けば、母の笑みはさらに優しくなった。
「あなたの道行く先が、少しでも光に溢れていますように」
額に口付け願う言葉に、ごめんなさいと、声には出さずに謝罪をする。
遠くない未来は暗闇でしかない事は、自分が一番よく知っていた。
「朝だよ!起きて」
賑やかな声に、目を覚ます。
目を開けたとて然程変わらぬ視界に、苦笑しながら身を起こした。
随分と懐かしい夢を見た。
優しい母との暖かな記憶。彼女と出会った始まりの日を。
「足下、注意して。そのまま真っ直ぐ進んで」
彼女の声に従い、ベッドから抜け出し歩く。
「止まって。右を向いて十四歩」
いち、に、と心の中で数を数え。彼女の言う十四歩目で止まる。
手を伸ばす。把手を掴んで、扉を開けた。
今日も変わらず、正確だ。
「右に進んで。途中でお父さんに会うから、挨拶を忘れないで」
彼女の言葉の通りに、右に進む。
途中、僅かに浮かび上がる人の輪郭に、立ち止まり。
「お父さん。距離は十歩」
きゅう、はち、と近づく距離に、耳を澄ませ。
「六、五。止まった」
「おはよう、父さん」
笑顔で父に挨拶をする。
「ああ、おはよう。今日も調子が良さそうだな」
さらに近づく距離を聞き、頭を撫でられる感覚に声を上げて笑う。
普段通り。変わらない朝のやりとり。
彼女の声も姿も見えない周りは、誰一人として自分の目が殆ど機能していない事に気づいていないだろう。
それでいい。心配させるのは本意ではない。
「時間。そろそろ進んで」
「あんまり髪の毛、ぐちゃぐちゃにしないでよ。顔洗いに行くから、もうおしまい」
「すまん。父さんはもう仕事に行くが、お前も今日は学校だろう。気をつけて行くんだぞ」
「分かってるって。行ってらっしゃい」
手を振り、父の横を通り抜ける。
彼女の指示で洗面台で顔を洗い、着替えを済ませ、リビングに向かう。
一つ一つ確認しながら、彼女の声を聞いていた。
「お願いがあるんだけど」
不意に聞こえた声に、周囲を見渡す。
何処にも人の輪郭がない事に首を傾げ。思いついて彼女に声をかける。
「お願いって、何?僕に出来る事?」
彼女の指示がなければ、何一つ出来ない自分でも大丈夫だろうか。不安を抱きながら問う言葉に、彼女はあのね、と控えめに囁いた。
「行ってほしい場所があるの」
「遠いの?」
「そんなに遠くない。歩いて行けるから」
「あまり遅くならないならいいよ」
遅くなれば、母が心配する。それだけを伝えて了承すれば、ありがとう、と彼女とはまた違う声が聞こえた。
「誰?」
聞いても答えはない。人の輪郭が見えない事から、おそらく人ではないのだろう。
彼女が何も言わないのであれば、特に気にすることはない。害があるモノを遠ざけてくれるのは、彼女の得意とする所だから。
意識を切り替えるように、緩く首を振る。彼女の声を聞いて動けるように、前を向いた。
「正面。そのまま進んで」
彼女の指示の通りに足を踏み出す。
普段とは異なる道に、それでも恐怖はなかった。
「止まって。ここでおしまい」
「ここ?」
見えないと知りながらも、辺りを見渡す。
湿った土の匂い。木の匂い。冷たく吹き抜ける風の感覚。
木々に囲まれた場所。知らない場所だった。
「おい。これは違うだろうが」
一際強い風が吹き抜ける。羽ばたく翼の音がして、誰かが上から下りてくる。
人の輪郭は見えない。目の前にいるだろう誰かは人ではないモノだ。
「お前は人間と妖の区別のつかねぇのか。阿呆が」
「うるせ。だって困ってるみたいだったから」
低い男の声と、それに答える少し高めの声。
「困ってるってなぁ。それだけで俺らの領分を超えて応えるもんじゃねぇ事くらい、分かんだろうが」
「だから態々来てもらったんだ。何も考えてないわけじゃない」
何かを言い争っている声に、困惑する。状況が分からないため何も言うことは出来ないが、これは自分が原因なのではないだろうか。
「ねえ」
彼女の声がする。意識を向ければ、それだけで彼女以外の声は遠く、気にもならなくなった。
「今から言う言葉を繰り返して」
意味が分からないが、頷き了承する。彼女のためにここまで来たのだから、分からないからと言って断るつもりはまったくない。
「私の目の」
「私の目の」
「呪いを解いて下さい」
「のろいをといて下さい」
彼女の言葉を繰り返す。
目の前の誰かに願う形になってしまったが、そもそも呪いとは何の事だろうか。
声が止まる。痛いほど突き刺さる視線に、願ってはいけないものだったろうかと少しだけ不安になった。
「これは、あり?」
「言わせられてんだろうが。なしだ、なし」
「けちだ」
「うるせぇよ。ったく、仕方ねぇな」
男の声が疲れたように嘆息する。おい、と声をかけられて、声のする方へと見えない視線を向けた。
「お前、呪いを解きたいのか?」
首を傾げた。呪いが分からないのに、解きたいかそうでないかは答えられない。
「そっからか。ちゃんと説明しとけよ」
「解いた方がいいの?」
「解かなきゃお前の目はそのままだ。近い内に、完全に目を奪われる」
思わず、目に手を当てた。
誰かに奪われる。全部奪われてしまったら、皆に目が見えない事を知られてしまうだろうか。
「目が見えるようになりたいなら、ちゃんと望め。望まない限りは、応えてやる事が出来ねぇぞ」
望み。昔、彼女が教えてくれた事だ。
妖は人に望まれ、応える事で在り続ける事が出来る。
見る事が出来る様になれば、妖である彼女に望むものがなくなる。そうしたら、彼女はどうなってしまうのだろう。
「目が見えても変わらない。私はあなたの側で道を示すだけ」
彼女の声が聞こえた。
自分の考えを全て見通す彼女は、最初から変わらない。
道を示す、羅針盤の針はいつでも正しい方向を指し示してくれている。
俯きそうになる顔を上げる。
息を吸って、しっかりと言葉を紡ぐ。
「私の目の、呪いを解いて下さい」
風が吹き抜ける。目を覆い尽くす何かを奪い、駆け抜けて行く。
「こら。はしゃぐな」
「はしゃいでない。望まれたから応えた。それだけ」
「今のは俺に望んだようなものじゃねぇか」
「連れてきたのは俺。だから俺が応えた」
「だからはしゃぐなって。勝手にふらふらして、また迷子になるだろうが」
風と共に遠くなる声に、思わず閉じていた目を開けた。
空を見上げる。空の青の向こうに、黒い翼を持つ二つの影が消えて行くのがはっきりと見えた。
目を擦る。生まれて初めてはっきりと見える事に、戸惑いを隠せない。
世界は、こんなにもきらきらと燦めいているのか。
「自分の目で見る世界はどう?」
彼女の声がして、視線を落とす。胸元にかけたままの羅針盤の銀色が、光を反射して燦めいた。
もう一度見る事の出来た彼女に、嬉しくなって頬が緩む。母から渡された時から、その輝きは変わらない。
「とても綺麗だよ」
「そういう意味じゃない」
呆れる声に、小さく笑う。
心が弾む。こんなにわくわくするのは本当に久しぶりだった。
「そろそろ帰る時間」
「そうだね。帰らないと皆心配する」
彼女の声に歩き出す。一人で歩く事も久しぶりで、それだけで嬉しくなってしまう。
「そっちは反対方向。立ち止まって、戻って」
「え?」
「見えても、見えなくても迷子は変わらないね」
楽しそうに笑われて、恥ずかしさに顔を赤くする。
くるりと振り返り、早足で歩き出した。
けれど木の根に足を取られ、そのまま派手に転ぶ。
痛い。こうして転ぶのも久しぶりではあるが、これはまったく嬉しくはなかった。
「足下に注意してって言ってるのに。見えてる方が危なっかしいのは何故?」
「ちょっと、浮かれてただけだから。痛みで少し落ち着いた」
「道案内は必要?」
「よろしくお願いします」
小さな声で頼むと、くすり、と笑い声が返る。
ゆっくりと立ち上がり、埃を払って意識を集中させる。
彼女の、声を聞くために。
「落ち着いたら、真っ直ぐ進んで。足下に注意して」
彼女の声に導かれ、歩き出す。
一人だけで歩く時よりも安心するのは、きっと彼女だからなのだろう。
20250122 『羅針盤』