「ぁ、おはよう」
玄関を開けたタイミングで、丁度彼も家から出てくる。
挨拶をしたけれども小さく舌打ちをしただけで、こちらに視線を向ける事なく去って行ってしまった。
彼の姿が見えなくなって、一つ溜息を吐く。
こうなる事は分かっていた事だ。いつからこうだったのか、その切っ掛けすらも分からないけれど。
――私は、彼に嫌われている。
昔はそうではなかった。ここまであからさまに接触を嫌がる様子はなく、逆に仲は良かったはずだ。いつも一緒に遊んで、笑い泣いて。たくさん話をした。
幼なじみで、一番の友人だった。幼い頃は。
沈む気持ちを切り替えるように首を振る。彼を追う形で、学校へと歩き出した。
教室にいるのは、少し苦しい。
窓際の一番後ろ。自分の席からちょうど斜め後ろが、彼の席だ。
教室にいる間はそこからいつも、監視するかのように彼に見られている。
視線が合えば、嫌そうに逸らすのに。見られる事を嫌がるように、離れていくというのに。
見ていない所では、彼の視線がずっと離れない。
きゅっと唇を噛む。耐えきれなくなり、こっそり屋上へと逃げ出した。
「なぁ」
不意にかけられた声に、びくり、と体を竦ませる。
なぜ。そればかりが、頭の中を駆け巡る。
今まで彼が声をかけてくる事はなかった。少なくとも、この学校内で彼が話しかけてきた記憶はない。
「なに?」
恐る恐る彼を見る。無表情ながら、その目だけは強く睨み付けるようにこちらを見据えている。
「あんた、何なの?あいつの姿を真似して、一体何がしたいんだよ」
意味が分からない。あいつの真似とは何の事だろうか。
こちらに近づく彼の手が、強く私を突き飛ばす。突然の事に反応が出来ず、フェンスに背中を打ち付けた。
がしゃん、と大きな音を立てて、フェンスが揺れる。
「俺は、あいつの偽物なんかいらない。あいつは一人だけだ。俺を置いて帰ってこなかった、笑って逝ったあいつ、ただひとりだけだ」
「い、たい。やめて」
彼の手が強く肩を掴む。その痛みに顔を顰め、逃げようと藻掻いてもその手が離れる事はなく。さらに力が強くなり、その手は段々に首元に伸びる。
「うるさい。偽物はおとなしく消えろ。この化け物」
感じる息苦しさに、視界が揺れる。
揺れて、滲んで。別の景色を浮かび上がらせる。
家族。友人。学校。
小さくも、暖かな家。
時間を忘れて読んだ、お気に入りの小説。
白の一筋がどこまでも高く燻る、憎らしいほどに澄み切った青空。
――そこに、今の彼の姿はどこにもない。
走馬灯の如く、記憶が巡る。正しい、本当のわたしを認識させて。
すべてを思い出し。衝動のままに、彼を強く蹴り飛ばした。
「っつ、このっ!」
「はっ。いつ、までも、かわ、りに、なってると、思うな!」
必死で酸素を取り込みながら、吐き捨てる。
滲む視界が元に戻るにつれ、この世界の正しい姿が見えてきた。
古ぼけた校舎の屋上。目の前の彼は学生ではなく、大人の姿をして。
そして。
彼の周りで倒れ伏す、人。人。人。
女も、男も。老人も、子供も。すべては、彼によってこの場所に閉じ込められ、彼女の代わりをさせられた、犠牲者だ。
「そっちの、方、こそ。よっぽど、化け物じゃん」
笑う。笑ってみせる。
彼の前で、泣く事など出来るわけがない。
一歩。二歩。彼から距離を取る。
朽ちてその役目を果たさない、フェンスの向こう側まで下がる。
「真実を見ろ。あんたがしている事から、目を逸らすな!」
「煩い。あいつに似ているだけの、偽物が」
「そんなの、当たり前でしょうが」
彼の言葉を鼻で笑う。
まだ気づこうとしない滑稽さが、逆に憐れだった。
息を吸い、吐く。屋上の端まで下がり。
――わたしにとってただひとりの彼へ、告げる。
「わたしはお母さんと、お父さんの娘、なんだから」
目を見張り、息を呑んで。
手を伸ばす彼から逃れるように、飛び降りた。
無駄な事。何度繰り返しても、何一つ変わらなかった事だ。
娘だと告げた所で、母ではないわたしは最後には父に殺される。そしてまた、同じ日を繰り返す。
わたしの存在しない、父にとっての幸せだろう日々を。
「お父さん」
黒く歪んでいく世界の底に落ちながら、父と過ごした僅かな記憶を思う。
優しい人だった。父であり、母としてわたしを育ててくれた。
仕事に疲れた体で、家事をこなす。そんな優しい人を前にして、わたしは自分の事ばかりで。母がいないと泣いて、我が儘ばかりで。
だから父は疲れてしまったのだ。我が儘しか言えないわたしから逃げ出して、甘い夢に逃げ出す程に。
「ごめんなさい」
目を閉じる。訪れる終をただ思う。
また同じ日に戻るのだろう。けれどもおそらく、そこにわたしはいない。
繰り返しすぎて摩耗した心は、もう自我を保つ事は出来ないだろう。次に繰り返す私は彼の望む彼女になり、彼の抱く記憶の綻びで破綻して。
彼女の偽物にしかなれない私は彼に殺され、あの屋上に新しい骸を積み上げるのだ。
「お願いします。どうか」
好きだった小説の登場人物に、願う。
常世と呼ばれる、死んだ人が行き着く先。永遠の暗闇を統べる長が己の一部から作り上げた、名もなき少女。
還れぬ魂を導く、常世の迎え。
作り話だとしても、今はそれ以外に縋れるものはなかった。
「お父さんを、止めて」
次の私が作られる前に。
力なく座り込む男を前に、如何するべきかを悩む。
男によって閉じられ留まっていた魂は既に胎の中に収め、後は男とその腕に抱かれた少女を残すのみだ。
如何するべきか。表には出さずに繰り返す。
無理矢理引き剥がせば、男はさらに歪む。だがこのままでは二つは癒着し、元の形には戻せない。
どちらも後が大変で、どちらにしても最後は変わらない。
そう思い直し、一歩男に近づいた。
「この子だけでも、元に戻せますか」
凪いだ男の声に聞かれ、腕の中の少女に視線を向ける。
己を呼んだ少女。強く願われ、この場所に辿り着いた。
だがその生は、既に終を迎えている。閉じたこの空間で終の前に戻したとして、それは少女の抜け殻にしかならないだろう。
「戻せない。心が死を受け入れているから」
答えれば、男の腕に僅かに力が籠もる。
「この子が泣くんだ。一人ぼっちで泣いて、けど次第に泣けなくなって。そして作り物の笑顔を浮かべ始めた…この子は、きらきらした瞳をして笑うのに。あんな、無理矢理作った、あんな偽物の」
二度と目覚める事のない少女の亡骸を抱いて、男は笑う。
笑い、怒り。そして泣いていた。
「彼女がいればこの子は元のように笑える。戻らない事は分かっていた。だがこの子のために。俺のただひとりの、大切な娘のために。もう一度、もう一度だけ」
「過去は戻らない。死者が生者になる事はない。魂は常世へと還り、現世へ生まれ出ずるだけ」
近づいて、少女に手を伸ばす。もう一度、と繰り返す男とこれ以上話しても、意味がない。
手間は掛かるが、これは無理矢理にでも引き剥がすしかない。
「やめろ。この子を連れて行くなっ!」
男の顔が怒りに染まる。歪みだした周囲に胸中で嘆息し、距離を取る男を捕らえるために足を踏み出し。
――きん、と。
澄んだ音を立て、漆黒の燦めきが男を薙ぎ。
刹那には黒と白の魂魄が、音も立てずに地に落ちた。
「面倒な男だ。戻らぬと知りながらも、尚足掻くか」
納刀の音と呆れを滲ませる声を聞きながら、落ちた魂魄を取り込んだ。
「戻るぞ」
変わらず眉間に皺を寄せた黒い男に頷き、その隣に駆け寄る。機嫌が悪いのはいつもの事ではあるが、今日はいつにも増して機嫌が悪い気がする。
「何かあった?」
首を傾げ、問いかける。
「我らは妖ではない。それを忘れるな」
「忘れた事などないけれど。妖でないのは当然の事でしょう?」
意味が分からず、さらに首を傾げる。
だが男はこれ以上答える気配はなく。仕方がない、と男から視線を逸らした。
「まったく。あれと話をつけに行かねばならないか」
呟く男の言葉が気になるものの、聞いた所で答えはないだろう。
ふっ、と小さく息を吐く。
胎に収めた魂魄が、かちり、と音を立てた気がした。
20250120 『ただひとりの君へ』
「旅に出よう!」
そう言って、彼に手を引かれ外へと飛び出した。
跳ねるように、夜道を駆け抜けて。当てもなく、気の向いた方へと向かう。
最初に訪れたのは、湧き出た小さな温泉のある山奥だった。
「温かい」
「気持ちがいいね」
足を温泉に浸け、その温かさに笑い合う。
温泉に浸かる動物たちの緩んだ顔を見て、いいなぁ、と呟いた。
「えいっ!」
とん、と背を押され。服を着たまま温泉へと倒れ込む。
少し遅れて、ばしゃん、と大きな水音。彼も飛び込んだようだ。
「ちょっと。急に何するの。というか、何してるの」
「折角の温泉。堪能しないとね」
「服、どうするの。びしょびしょなんだけど」
「温泉から出たら、直ぐに乾くよ。問題ない」
文句を言っても、彼は楽しそうに笑うだけ。仕方ない、と溜息を吐いた。
突然の事に距離を取っていた動物たちも、こちらの様子を伺いながら、温泉に浸かっている。
温かい。服を着たままだというのに、とても心地が良い。
少し微睡み細まる目に気づいて、彼はにこにこ笑って手を取り、立ち上がる。
「さあ。次はどこへ行こうか」
次に訪れたのは、月明かり差し込む森の広場。
手ぬぐい片手に踊る猫や、腹鼓を打って楽しそうに騒ぐ狸たちの宴会を見ていた。
「すごい、上手」
「一緒に踊ろうか。おいで」
彼に手を引かれ宴会の場に躍り出る。
突然の事に、踊り騒いでいた猫や狸の動きが止まり騒くが、直ぐに楽しそうに声を上げて、先ほど以上に盛り上がった。
彼と共に、踊り出す。踊り方など知らない。見よう見まね。腹鼓の音に合わせて、夢中になって踊る。
とても楽しい。気づけば声を上げて笑っていた。
その後も、色々な所へ訪れた。
雪山では、皆で雪合戦をして。季節外れに咲く満開の桜の木の下で、花見もした。
川や海へも訪れた。海の上を漂うたくさんの綺麗な光を、けれども彼は気に入らないようで、直ぐに別の場所へと向かってしまったけれど。
そして今、山頂で星空を見ている。
「きれい」
「今の季節は空気が澄んで、星がよく見えるからね」
両手を伸ばす。親指と人差し指で四角を作り、燦めく星を閉じ込めた。
くすくす笑う。手の中に閉じ込めた星か、ちかり、と瞬いた。
「じゃあ、そろそろ最後の旅に出ようか」
おいで、と手を差し出される。
閉じ込めた星を解き放ち、彼の手を取った。
「目を閉じていて。一気に飛ぶから、揺れるよ」
「分かった」
言われるままに目を閉じる。
離れないように彼の手を強く握り、側に寄った。
「行くよ!」
彼の言葉とほぼ同時。地面がぐにゃり、と歪んだ感覚がした。
不安になって彼にしがみつく。小さく笑う気配と、優しく頭を撫でる手の温かさに、さらに強く彼の手を握った。
「着いたよ。もう目を開けても大丈夫」
彼の言葉に、恐る恐る目を開ける。
「っ、わぁ!」
目を見張る。あまりの美しさに息を呑んだ。
一面の星の海。さっき見ていた空よりも近く、手を伸ばせば届きそうな距離で瞬いている。
白、赤、青。たくさんの色の光に囲まれて、鼓動が跳ねる。
「気に入った?」
「うん!ここはどこなの?」
「宙だよ。現世じゃなくて、ぼくたちのいる方の宙だけど」
こっち、と手を引かれ歩き出す。地面がないここでは、歩いているというよりも空中を漂っていると言った方が正しいのかもしれない。
ふわふわと、彼に手を引かれるままについていく。燦めく星が近くを通り過ぎる度に瞬いて、きん、と澄んだ音を立てた。
綺麗だ。とても。星の瞬きを、音を聞きながら、弾む気持ちで微笑んだ。
「到着」
「ここ?」
「そうだよ。ちょっと待っててね」
彼に連れられ辿り着いたのは、七つ並んだ星の場所。
手を離されて、おとなしく彼を待つ。一番端の星に手を差し入れて何かを探すように手を動かす彼は、やがて何かを手にして戻ってきた。
「はいこれ。旅の終わりの記念品」
「ありがとう」
差し出された何かを受け取る。きらきらした青くて白い光が、手のひらの中でちかり、と瞬いた。
「これって、お星様?」
「星の欠片。お守り代わりにね」
手のひらの上の星の欠片ごと手を包まれる。視線を合わせて、彼は優しく微笑んだ。
「今回の旅は、これでおしまい。また来年、迎えに行くよ」
「うん。ありがとう」
「必ず迎えに行くから。手術、頑張って」
「知ってたんだ…ちゃんとがんばる。お星様と一緒に、待ってるから」
彼の目を真っ直ぐ見返して、告げる。
約束だ。一年、諦めないための。優しい彼との、優しい約束。
また彼に会えるように。そう願いを込めて、微笑った。
「そろそろ戻ろうか。目を瞑って」
彼に促されて、目を閉じる。地面が歪む感触は、来た時よりも怖くはなかった。
目が覚めた。
四方を覆う、白いカーテン。白のベッド。
鼻につく、薬品の匂い。
いつもと変わらない。長くいても好きにはなれない病室。
幸せな夢を見ていた。まともに動かす事も侭ならない、欠陥だらけの体で自由な旅に出る。温かくて、優しくて、残酷な夢。
はぁ、と溜息を吐く。
夢は、所詮夢だ。目が覚めてしまえば、いずれ忘れていくだけの、儚いもの。今日見た夢も、きっと直ぐに忘れてしまうのだろう。
ふと、手の中の違和感に気づく。開いてみると、手のひらの中に、小さな石が一つ。
そこらに転がっているのと差異はない、小さな石。手の中で転がしても、やはり石はただの石だった。
捨ててしまおうか。そんな思いが過る。このまま持っていても、もうすぐ検温に来る看護師に見つかれば捨てられてしまうだろう。
少し悩み、床頭台の引き出しを開けた。
中からお菓子の缶を取り出して、蓋を開ける。
中には、落ち葉や枯れた花、木の実が無造作に転がっている。まるで小さな子供が集めた宝物のように。
缶の中に石を入れる。かたん、と小さな音を立てて、また一つ不思議な宝物が増えた。
小さく笑う。鼓動が跳ねた。
「今日も、がんばろ」
呟いて、缶を閉じ。また引き出しの中にしまう。
何故か、今日はとても調子がいい気がした。
20250119 『手のひらの宇宙』
目を閉じて、風の声を聞く。
笑っている。くすくすと、きゃらきゃらと。楽しそうに。
不意に悪戯な風が頬を撫で上げ、背を押した。
空を見上げる。白く丸い月が灯りとなり、迷う事はなさそうだ。
背の翼を意識する。大きく広げ、風を纏わせて。
大きく羽ばたく。
違うよ、と声がした。
もっと力強く、と背を押された。
仕方がないなあ、と笑われて。
風が吹いた。
高く、空へと向かう風が吹き抜けた。
その風に促されるままに。
空を、飛んでいた。
「すごい。綺麗」
眼前に広がる、数多の星々に感嘆の吐息が溢れ落ちる。
これだけ高く飛んでも尚遠い。その燦めきに手を伸ばした。
翼をはためかせる。さらに高く、もっと高くと、強く羽ばたいた。
くすくすと、笑う声。伸ばした手に戯れのように風が纏わり付き。
風が、止んだ。
「え?」
慌てて翼を羽ばたかせるも、体は地へと引かれ落ちていく。
風の声が聞こえない。これ以上、飛ぶ事が出来ない。
覚悟を決めて、強く目を閉じた。
「何やってんだ。こんな夜更けに」
呆れた声と共に、足首を掴まれる感覚。がくん、と強い衝撃の後、体が大きく揺れた。
「夜中にこそこそ抜け出して、何してんのかと思えば」
深い溜息。恐る恐る目を開ければ、にたりと笑う男の逆さまの目と視線があった。
「風に遊ばれているようじゃ、まだ飛べねぇな。精々頑張るこった」
「なんで、いんだよ」
「言うに事欠いてそれか。普通は助けてくれてありがとうございます、だろ」
視線を逸らす。男に礼を言うのは癪だった。
ばさり、と男の大きな翼が羽ばたいて、ゆっくりと地に下りる。掴まれたままの足を離されて、地面に転がり頭を打って呻くのを、けたけた笑って見下ろされた。
「声は正しく聞くものだ。特にここいらの風は、じゃじゃ馬が多いからな」
「うるせ。それくらい知ってる」
「風に悪戯されてんのに気づかないで、いい気になってる餓鬼がよく言う」
男の言葉に、目を閉じて背を向ける。正論故に何も言い返せないのが悔しい。
声に耳を澄ませる。変わらずくすくす笑う風が、自由気ままに吹き抜けて行くのを聞いていた。
「そう拗ねるな。気に入られてると思えばいい」
「拗ねてない」
「まったく。いつまで経っても餓鬼だな、お前は」
どうせ半人前だよ、と小さく愚痴れば、呵々と楽しげに笑われる。
益々悔しくなり、ふらつきながらも立ち上がり、駆けだした。
「おい。どこ行く、っ!」
引き止める男の声が、強く吹いた風に掻き消える。
追い風に背を押され、さらに速度を上げた。
ただ走る。悔しさなど、既になく。風の声を聞きながら、衝動のままに駆け抜ける。
翼を広げ、大きく羽ばたいて。
飛んで、と誰かの声に強く頷き。
足を踏み出し。風を纏いながら。
高く、舞い上がる。
「ありがとう」
小さく笑い、風に礼を言った。
今度は空を見上げる事はない。ただの星屑に戻るつもりはない。
それでいい、と声がする。
声を聞いてごらん、と囁かれ、耳を澄ませる。
風の声。それに混じり、微かに人の声がする。
徒競走で一番になりたい。テストで良い点がとりたい。好きな人と、両思いになりたい。
いくつもの些細な願い事に、くすりと笑う。
思い出す。最初の声を。
――パパと一緒に空を飛べますように。
幼い子供の声。空に思いを馳せる、か弱い子の小さな願い事。
あの子は空を飛べたのだろうか。その身を蝕む病は食べてしまったが、元気になっただろうか。
行こう、と風が促す。
「そうだね。行こうか。皆が待ってる」
声に頷いて、翼を羽ばたかせる。
行かなければ。彼らの願いのほんの少しの手伝いをするために。
「調子にのんな。お前にはまだ早い」
頭に軽い衝撃。振り返れば呆れて笑う男が、けれどどこか咎める目をしてこちらを見ていた。
「なんで。飛べた」
「飛ばしてもらってるだけだろうに。そんなんで現世になんぞ行けるか」
ざわり、と風が不満そうに吹き抜ける。男を押し返そうと強く渦を巻く。
「随分と風に気に入られたようだ。まあ、それはいい事だがな」
頭に置かれたままの手が、無造作に髪をかき混ぜる。風の抗議も男にとっては、些細な悪戯にしかならないのだろう。
「行きたい。行かないと。声がするのに」
「今のお前じゃ、行った所で迷子になって帰れなくなるだけだろうが。探しにいくのはごめんだぜ」
「迷子になんてならない。一人で帰れるから、迎えにこなくてもいい」
男に言い返し髪を乱す手を離そうと踠くも、男の腕はびくともしない。
にやにやと笑い反応を楽しんでいる男に、益々意地になって暴れるも、逆に腰に腕を回して引き寄せられ、そのまま俵のように担がれてしまう。
「ちょっと。止めろって」
「取りあえず、戻るぞ。良い子はもう寝る時間だからな」
「まだ眠くない。子供扱いするなって」
「しっかり寝とけ。んで起きたら、特別に俺の仕事を手伝わせてやるから」
「なんでっ!」
意味が分からない、と暴れる体を気にも留めず。男の起こした風が巻き上がった。
自分で飛んだ時よりも速く、静かに空を駆け抜ける。
「遠出するからな、荷物持ちが欲しかった所だ。その道中で応え方を学びな」
屋敷へと戻りつつ、男にしては珍しく穏やかな声音で告げる。
「なにそれ」
「俺も昔はそれで学んだからな…あの炭焼きの男は、あの後娘に赤い着物を買ってやれたのかねえ」
懐かしむような声。
男も最初は同じだったのだと知って、何だかむず痒い気持ちで身じろいだ。
「買ってやれただろ。あんたが応えたんだから」
小さな声が、男に届いたかは分からない。
けれども、男の起こす風に紛れて、くすくす笑う風の声が、頑張って、と優しく頬を撫でて去って行く。
男に身を任せ、目を閉じる。
現世の空を思いながら、楽しみだと微笑んだ。
20250118 『風のいたずら』
この子はよく泣いている。
お腹が空いては泣き。眠くなっては泣く。
粗相をして下肢を濡らしてしまった時も、泣いていた。
その度に頬を伝って流れ落ちる透明な滴は、光を透かして煌めいて。
綺麗な子だ。たくさん泣いて、笑って。必死に生きている。
憐れな子だった。小さな手を伸ばし助けを求める先が、母を奪ったモノだと気づく事はないのだろう。
また泣いている。いつもよりも力はなく、掠れた声で泣いている。
お腹が空いているのだろう。昨日より、何も口にしてはいない。
小さな体はすぐ飢えてしまう。
この子が口に出来るものを、早く探さなくては。
ああ、それにしても。
本当に腹が減った。
「無茶してる」
傷だらけで横たわる狼を見て、少女は小さく息を吐く。
狼の背後。か細い声で泣く声の方へ向かいたいが、狼が威嚇するためそれは叶う事はない。
「駄目だよ。あの子はお腹が空いているんだ。何か食べないと、人間の子はすぐに死んでしまうよ」
狼の頭を撫でながら、少年は囁く。その言葉に狼は迷うように瞳を揺らし、しばらくして静かに目を閉じ頭を垂れた。
「ちょっと弱っているけれど、大丈夫」
おとなしくなった狼の横を通り抜け、鳴き声の主である赤子の元へと駆け寄った少女が、安堵したように微笑んだ。
赤子を抱き上げ、けれど僅かに眉を寄せる。
「ちょっと臭う。戻ったらお風呂に入れないと」
「川の水で洗ってはいた。粗相をする度に、気持ちが悪いと泣いたから」
目を閉じ、横たわったままで狼は呟く。
酷く凪いだ声音だ。先ほどまでの勢いなど欠片もなく、全てを諦めたかのように身じろぎ一つしない。
「大丈夫だよ。ご飯を食べて、寝て。そうしたらまた、一緒にいればいい」
慰めるような少年の言葉に、けれど狼はゆるく頭を振った。
「いい。一緒にいたら、今度こそ喰ってしまうから」
傷だらけで血に染まった体を起こす。その傷はすべて、赤子を喰らいたいという衝動に抗うため、狼自らがつけたものだ。
道を歩く者を守り、道に伏せる者を喰らう。
遠い過去にいた誰かの望み。その声に応えて目覚めた狼は、誰かがいなくなった後もその望みの通りに在った。
道行く人の背後を歩き、その者が帰れるまで見守る。けれども、足を取られ地に倒れた際には、その身を余す事なく喰らい尽くす。
赤子の母もそうだった。
ふらふらと道を行く、痩せた女。当てもなく彷徨い、そして倒れた。
女の身を喰らい。けれど女の細い腕の中で泣き声を上げていた赤子は、喰らう事は出来なかった。
「この子を助けて、って女が最期に望んだ。それにこの子の涙が、透明できらきらしてて凄く綺麗だったから、応えようって思った。でも」
力なく、狼は笑う。
笑いながら、一筋涙を流した。
「赤子の育て方なんて知らなかったし、この子は弱っていって。ぐったり横になっているのを見てると、道に伏せているように見えて、駄目になりそうだった」
「それ、いつまで応えるの」
「そうだね。望んだ人間はもういないから。新しく望みに応えてもいいと思うよ」
不思議そうに首を傾げた少女が、脱脂綿に含ませた乳を赤子に吸わせながら問いかける。少女に同意するように少年も頷き、優しく狼に告げた。
そんな二人に対し、やはり首を振って狼は否を示す。
「俺はそう在るべきだから。最初の望みが在り方を定めて、人間もそうだと認識している。もう他の望みに応えられない」
たとえその望みが、己の子供をこの地に捨て、戻らなくするためのものであったとしても。
口減らしだったのだろう。歩く事すら覚束ぬ幼子が一人で帰れぬと知りながらも、強く望んでいた。
途中で倒れぬ事のない己が、無事に帰れる事を。まともに歩けぬ子が、ここで終わる事を。
尤も、望んだ者も結局は途中で足を縺れさせ、捨てた我が子と同じように狼に喰われてしまったのだが。
「今回は偶々だから。もう他に応える事はしない。もう、」
「あなたは、この子が泣いている理由が分かるの?」
狼の言葉を遮るように、少女は狼に問いかける。
問われた事の意味を分かりかね首を傾げれば、少女は例えばね、と言葉を続けた。
「さっき泣いていた理由は分かる?他にもたくさん泣いていたと思うけど、その違いは分かる?」
「分かるよ。さっきはお腹が空いていたんだ。他にも眠かったり、寂しかったり。粗相をして気持ち悪いって泣く事も、全部分かる」
少女を見据え、狼ははっきりと告げる。赤子と共にいた時間は決して長いものではなかったが、それでも赤子の事は理解していたつもりだった。
その答えに少女はふわり、と表情を綻ばせ、乳を吸い終わりぐずりだした赤子を狼の前に差し出した。
「じゃあ、あなたはこの子の望みすべてに応えた。遠い昔の誰かの望みに縛られるのではなく、あなたの意思でこの子に応えられている」
「赤子というのは、泣く事で相手に意思を伝えるんだ。それは何よりも強い望みだよ。生きるための望みに応えたのだから、最初の望みに応えなくてもキミは歪まない」
「応えた。俺、が」
呆然と呟いて。
泣き出してしまった赤子に、狼は慌てて人の姿を取る。少女から赤子を受け取って、慣れた手つきであやせば、泣き止みうとうとと目が閉じていく。
その頬を伝う涙は、出会った時から変わらず透明で、とても綺麗だった。
「この子のために、これからも応えてあげればいい」
「でも、俺とこの子は違う。この子は人間で、俺は妖だから」
だから、と戸惑い視線を彷徨わせる狼に、二人は微笑む。
大丈夫、と囁いて、少女の手が赤子の頬を伝う涙を、少年の手が狼の頬を伝う涙を拭った。
「人も妖も、そんなに違いはない」
「この子とキミの流した涙は、同じ透明だよ」
少女の手と、少年の手と。濡らす涙はどちらも同じ透明だ。
人と妖と。涙の色は同じ。流す涙の意味も、きっとそんなに変わりはない。
穏やかに眠る赤子を見て、狼はくしゃり、と顔を歪ませる。赤子と同じものが一つあるだけで、酷く心が満たされていた。
「同じ。同じ、だ」
「そうだよ。だからね。ここに留まるのは終わりにして、ボクらの屋敷においで」
キミの傷の手当てもしなくてはね、と優しく手を差し伸べる少年に。
蕩々と流れる涙をそのままに。狼は恐る恐るその手を取った。
20250117 『透明な涙』
「あぁ、やはりこちらにいたのですね」
柔らかな声に、俯いていた顔を上げる。
涙で滲む世界で、それでもはっきりと彼女の姿は見えていた。
「どうして、分かったの?」
「あなたはわたくしの特別だからですよ。可愛い子」
微笑んで手を差し伸べられる。白くて綺麗で、作り物のような手は、少し冷たいけれど誰よりも温かい事を知っている。
彼女の手を取り、立ち上がる。服についた埃を軽く払われて、恥ずかしくなって目を逸らした。
「さぁ、帰りましょうか」
「帰りたくない。あたし、悪くないもん」
また滲み出す涙を乱暴に拭いながら、首を振る。
悪くはない、はずだ。
幼い弟がいたずらをして雪見障子の硝子を割り、怪我をしてしまった。止めたのに、弟は止まらなかった。
それなのに、怒られたのは弟ではなかった。側にいただけ、姉だからというだけで、両親に叱られた。
「おとうさんもおかあさんも、あたしの事が嫌いなんだ。だからいつもあたしだけが叱られる。もうあんな家に帰りたくない」
「あら。それは困りましたねぇ」
困ったようには見えない微笑みを浮かべて、彼女はそっと涙を拭う。どこまでも優しく、誰かを非難する事のない彼女が、少しだけ恨めしかった。
「あたし。謝らないし、帰らないから。絶対なんだから」
「そんな事を言っていると、隠されてしまいますよ」
「いいもん。怖くなんかないんだから」
「駄目ですよ」
彼女がどこか悲しそうな顔をする。それだけで決して曲げないと思っていた決意が、簡単に揺らいでしまう。
優しい彼女を悲しませるのは嫌だった。彼女が悲しくなるのであれば、自分が我慢すればいいのではないか。
そう思ってしまうくらいには、彼女の事が大好きだった。
「本当に、帰らないと駄目なの?」
「皆さん、心配されていますから。わたくしと一緒に帰りましょう」
「…分かった。手を繋いでてくれるなら、一緒に帰る」
そっぽを向いて、小さく呟く。手を出せば、綺麗な手が包み込むようにして繋がった。
それだけで何だか嬉しくなってしまう自分は、やはりちっぽけな子供でしかないのだろう。
「覚えていて下さいね。可愛い子」
手を繋いだ、帰り道。
彼女が歌うように囁いた。
「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参りますよ」
本当に、と見上げた彼女の横顔は、とても穏やかで。
「絶対だからね」
素直に嬉しいと言えない、ひねくれた言葉しか返せない自分に、呆れてしまいながらも。
彼女の言葉がいつまでも本当でありますように、と繋いだ手を強く握った。
懐かしい夢を見た。
幼い頃。いつも側にいてくれた、優しい彼女の夢。
「嘘つき」
呟いて、起き上がる。
気分は最悪だった。
彼女はいない。声を上げて泣く事をしなくなった自分の側には来てくれなくなった。
所詮は子供だましの約束だったのだろう。我が儘な子供を宥めるための口約束など、大体がそんなものだ。
「もう、こんな時間」
時計を見る。
止まる事も、況してや戻る事もなく動き続ける針を睨み付け、ベッドから抜け出した。
本当に最悪だ。夢でも現実でも、悪い事しかない。
溜息を一つ溢し。準備をするために、部屋を出た。
「おはようございます。お迎えに上がりました」
「おはようございます」
微笑む男に、作った笑みを浮かべ挨拶を返す。
自分より十も年上の男。紳士的な態度を取りながらも、その目に劣情を隠す事なく浮かべた、自分の夫となる男。
「ようやく貴女と夫婦になる事ができるのですね」
頬に触れる男の手に耐えながら、笑みを貼り付ける。
下手に機嫌を損ねては、後が厄介だ。
逃げられはしない。今日の結納を済ませてしまえば、このまま妻として男と暮らす事になるのだから。
「それでは行きましょうか」
「はい」
男の後に続く。
脳裏に浮かぶ彼女を微笑みを思い出し、唇を噛んだ。
今更だ。見合いの時も、婚約の時にも彼女は来てくれなかった。
どんなに求めても彼女は来ない。助けて、なんて言えるはずがないのに。
「どうしました?」
「いえ、何でもありません」
振り返る男に、慌てて笑みを貼り付け、何でもないのだと首を振る。
諦めなければ、と気持ちを切り替えて、外に。
「わたくしの特別。悲しいのですか?」
声が、聞こえた。
「可哀想に。泣けなくなってしまったのですね」
背後から抱き竦めるように回された、白い腕。
白く、細い。血の通わぬ、冷たい手。
「ひっ!?化け物!」
男が怯えたように後退る。恐怖を強く宿した目が、自分の背後を凝視し、耐えられなくなり外へと逃げていく。
「姉ちゃん!」
弟の声が遠い。同じ家の中にいたはずなのに、何かで仕切られたように声がくぐもって聞こえる。
「どうして」
小さく零れた声に、背後の彼女は笑ったようだった。
「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参ります。今回は少しばかり遅れてしまいましたが」
申し訳ありません、と囁く彼女の声は悲しげで。
ゆっくりと振り返る。彼女の姿を確かめたくて。
「駄目だ!振り返るな!」
誰かの声が聞こえた気がした。けれどその声より早く、彼女の姿を認め。
瞬間。世界ががらりを色を変え、暗く冷たい水の底で彼女に抱かれていた。
「これで。ようやくあなたと共にいられる。永遠を共にできる」
歌うような囁きが、気泡と共に上っていく。
あぁ、そう言えば。酷く虚ろな意識で思い出す。
幼い頃住んでいた家にあった小さな井戸。水の底でこちらを見上げる彼女を見たのが始まりだった。
寂しそうな目をしていた。不思議と怖いとは感じられず、だから一人寂しそうな彼女へと向けて、手を差し出した。
あの井戸はもう、埋めてしまってなくなったのだと両親は言っていた。
「可愛い子。わたくしの愛おしい特別。あなたを愛したが故に堕ちてしまったわたくしを、決して許さないで下さいね」
彼女の泣くような声に、少し前に読んだ小説を思い出す。
――妖と深く関われば、いずれ妖は意思を持ち、望む事を知るだろう。応えるもののないそれに、妖は狂い堕ちるのだ。
思い出して、悲しくなった。優しい彼女を悲しませるのは、何よりも嫌だった。
身じろいで、振り返る。彼女と正面から向き合う形で、彼女の白い髑髏となった頬をそっと撫でた。
「約束守ってくれたから、一緒にいてあげてもいいよ。その代わりに、ずっと手を繋いでいてね」
「ありがとう。愛しい子」
頬を撫でていた手を取り、彼女はそっと手を繋ぐ。小さな頃とは違い包み込むようにではなく、指を絡めて離れないようにしっかりと。
繋いだ手を見て、笑う。嬉しくて笑い、幸せで泣いた。
あの頃のように。我慢をする事なく声を上げて笑いながら泣いていた。
20250116 『あなたのもとへ』