「先生は、一体いつまで続けるんですかい?」
「何だ。急に」
赤い顔した子供の言葉に、無精髭を生やした男は至極面倒だと言いたげな顔をした。
六畳の和室。
男の周りを忙しく動き回る子供を一瞥し。子供が止まる様子がない事から、それ以上子供の言葉を気に留めず、男は視線を文机の上の原稿へと戻した。
暫しの沈黙。
子供も男も常と変わる様子はない。だが紙を纏める子供のてが一瞬止まり、いえね、と静かに口を開いた。
「何と言いますか。手前の話をこうして形にして下さるってのは、大変有り難い話ではありやすがねぃ。段々に不安になるってもんです」
「不満か。校正はさせているが。どこが違っている」
「先生自身の話でさぁ」
室内の整理をする手を止めず、男に視線を向ける事もなく、子供は不服を訴える。
その意図を察する事が出来なかったのだろう。男の手が止まり、深い溜息と共に筆を置いた。
子供へと向き直る。面倒だと顔は顰めているものの、男の目は雄弁に子供に語れと訴えかける。
それに気づき、子供は手を止めると同じように男へ向き直り、居住まいを正して座った。
「先生が手前に何も望まない事が、どうにも落ち着きやせん。ここらで一つくらいは望んじゃあくれませんかい?」
「何だ。そんな事か」
子供の訴えを、男は一蹴する。
時間の無駄だと、文机に戻りかける男を慌てて制止し、子供は懇願した。
「先生。後生ですから、望んで下さいよぅ。先生が父君の後を継いでいるだけだとしても、手前が落ち着かないんでさぁ」
「家事全般を任せ、話を強請り、校正までさせている。これ以上、何を望めと」
「釣り合いが取れやせん。先生の作品で、どれほどの妖が消えずに済んだとお思いですかい。特に手前のようなモノは先生がいなければ今頃消えて、跡形もなくなっていたんですから」
次第に熱く語り出す子供に、男はまたか、と顔を顰める。
何度も繰り返されてきたやり取りに、それでも子供を無下には出来ず、男は仕方がないと欠伸を噛み殺した。
「別に、消えるのが怖い訳ではないんです。人間が昔と比べ賢くなったのは、とても喜ばしい事だと手前も思いやす。一人で生きていける人間に、手前共は不必要で御座いやしょう」
目を細め、穏やかに微笑んで。
子供は書架に視線を向ける。
整然と収められている、男が書き記してきた書籍。それは、子供が見聞きし男に語った取り留めのない四方山話を、男が形にしたものであった。
「先生の物語が、手前共の終を先にする。その先延ばしにされた終を思いながら、先生と共に在るとですねぃ。どうしても考えてしまうんですよ。先生の終のその先を」
静かな呟き。
悲しむような。怖れるような。憎むような。
それでいて無感情な声音が、男の鼓膜を揺する。
男は何も言わない。しかし男の目は子供から逸らされる事はなく、紡がれる言葉を静かに聞いていた。
「先生のいない現世で、手前は後悔と孤独を抱えて在り続けるので御座いやしょう。先生のご恩に報いる事が出来ず、ただ先生の優しさに甘え続けた結果を呪い続ける事でしょう。それを思うとね、考えてしまうんでさぁ」
ふっと、電気が消える。
訪れた暗闇に、男は動じない。
変わらぬ男の様子に、子供は小さく笑みを溢し。手にした提灯に火を灯した。
「いっそ、暗い夜道で先生と共に永遠を歩けば。堕ちてしまえば楽になるのでは、と。望まれぬなら、妖も化生も変わりやせんからねぇ」
くすり、くすり、と子供は笑う。
その度に提灯が揺れ、境界を歪ませて行くかのよう。
男はそれでも、動じる事はない。
視線を逸らさず、身じろぎ一つせず。
揺れる灯りに目を細めながら、徐に口を開いた。
「阿呆か」
深い溜息。
仄かな灯りに照らされた男の表情は、至極面倒だと言いたげであった。
「まあいい。話のネタにはなる」
「先生は本当に酷いお人だ。手前の告白すら、物語の一つにしちまうんですかい」
提灯の灯り消え、電気が点く。
子供の手に提灯は既になく。代わりに中断していた整理途中の紙の束が、子供の小さな両手を塞いでいた。
「望みが足りぬというなら、もっとネタを寄越せ。親父には煙々羅に愛されたお袋がいたが、俺にはお前しかいないのだからな。何ならお袋の代わりになれ」
「先生。先生の物語で、手前がどんな名で呼ばれたかお忘れで?小僧ですよ。提灯小僧!母君になぞ、なれやせんて!」
「不満ならば、小娘に変えてやろう。俺としては何でも構わん。何せお前の取り留めない話に付き合って、時間を浪費したのだからな」
ふん、と男は鼻を鳴らし。くるり、と背を向け文机に向かう。先ほどから一枚も終わらぬ原稿に、鬱々とした気持ちで目頭を押さえた。
「茶でも入れてきやしょうか?それの締め切りは何日後なんで?」
「明日だ」
「…はい?」
男の返答に、子供の動きが止まる。
聞き間違いだと一縷の望みを抱いて聞き返せば、重苦しい溜息が聞き間違いではないと、現実を突きつけた。
「他の話を聞く余裕はない。お前の話を書かせてもらおう」
「何故に、そんな説破詰まっているんで?ここ数日余裕があったじゃあ、ありやせんか」
「お前がネタを寄越さんから、ネタを探して外に出ていただけだ。故にお前が全て悪い」
そんな殺生な、と悲鳴に似た叫びを上げて、子供は手にしていた資料を置くと、台所に向かい部屋を飛び出した。
今夜は徹夜になる事だろう。まずは茶の用意と、それから精の出る料理を作らなければ。
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、男は小さく笑みを浮かべる。
男の書く話一つのために、こうも甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは、悪くない。気恥ずかしさはまだあるが、何より孤独ではない事が良い。
穏やかな気持ちで筆をとる。物語の構成を考えながら、時計を一瞥し。
ふと、思う。
「締め切りをなくしてほしいと望んだら、応えてくれるだろうか」
取り留めのない事だとは思っている。だが一応、子供が戻ってきたら聞いてみるかと、疲れた思考で真剣に考えた。
20241218 『とりとめのない話』
目が覚めると、世界が滲んでいた。
子供の落書きのように、水に濡れた絵のように。ぐにゃり、と歪んだ全てに、訳も分からず首をひねる。
目を擦る。けれども世界が元に戻る事はない。
仕方がないと体を起こす。見るもの全てが滲んでいるが、触れた布団の感触は確かに布団の柔らかさがあった。
布団から抜け出し、立ち上がる。
くらり、と強い目眩。ふらつかぬように足に力を入れて耐えれば、直ぐにその波は引いていく。
ほっと、安堵の息を吐く。軽く頭を振って部屋を出た。
「何処へ行こうと言うんだ」
不意に聞こえた声に、辺りを見回す。
姿は見えない。声だけがする。
「何処にも行く場所などはない。行き着く先など、結局は地の底だ」
気がつけば、目の前に一本の太い柱。
声はその柱から聞こえてくるようであった。
「天に向かい伸びたはずが、地の底へと埋まってしまう。よくある事。実によくある事だ」
低くもなく、高くもない。淡々とした、それでいて複数を一つにしたかのような声音が、鼓膜を揺らす。
反響する。木霊する。
目眩に似た視界の揺らぎに、思わず目を閉じた。
「故に誰も外へは出られぬ。外への扉は内へと開き。内への扉は外へと閉じる。全ては逆しまで、全ては正常だ」
目を開けると、部屋の中。
世界の滲みは収まり輪郭を取り戻したが、今度は部屋の全ての部位が可笑しかった。
扉は天井で煌めき、窓は床に埋もれている。床板が壁に張り付いて、机や椅子を呑み込んでいた。
部屋の中央には、先ほどの太い柱。
けたけた、しくしく。
様々な感情を集めて。笑い、泣いていた。
「あぁ、何という喜劇。如何する事も出来ない悲劇。内へは何処へだって行けるというのに、外へは一つも辿り着けない」
声は何が言いたいのだろうか。
ふわふわと、ぼんやりとする意識で考える。
内側。外側。矛盾した世界。
外には出られないと言っていた。
天井の扉を見上げる。確かに此処からでは、あの扉には手が届かない。
床の窓を見下ろした。埋め込まれて、開きそうもなく。開いたとしてもその先は地面しかなさそうだ。
「伸びる先は、地だ。天は遠く、去って行く。何処でもない。何処でもある」
やはり何を言っているのか、分からない。
柱へと近づく。
触れて初めて、その違和感に気づいた。
「逆?」
「あぁ、逆だ」
柱は逆さまに立てられていた。
「全ては逆だ。天が地に、地が天になり、真が嘘に、嘘が真になる」
けたけた、ぎいぎい。
柱の上から笑う声と木を揺する音がする。
見上げれば、鴨居に結ばれた縄に足を括られ吊された誰かが、ゆらゆら揺れながら此方を見上げていた。
「悲劇は喜劇に変わる。攫われる者はなく、失うものもない。喜劇は悲劇になるのだろう。細やかな幸福は永遠に訪れないのだ」
ゆらり、ゆらり。ぎい、ぎしり。
誰かが揺れる。
流した涙が辺りに降り注ぎ、軋む鴨居が耳障りな音を立てる。
変わらず、誰かの言葉の意味は理解出来ない。
この柱が逆に立っているから、全てが逆になるのだろうか。
それならば、柱を正しく立てればよいとは思うが、その方法はやはり分からない。
分からない事ばかりだ。考えすぎたのか軽い頭痛を覚えて、こめかみを押さえた。
「どうすればいいんだろう」
「さ、逆さに、すれ、ば、いい、と、思いますっ!」
呟いた言葉に、自分のものでも柱のものでもない声が返る。
隣を見れば、いつの間にか小さな子供が、おどおどしながらも、自分と柱を交互に見ていた。
「あ、えと、あの、ですねっ。さ、逆さ、なので、逆さに、返すのが、いい、と、あの、その、はいっ」
おどおどとつかえながらも必死で伝えてくれた事は、柱の言葉のように意味が分からない。
それでもその真剣な様子に、そうだね、と同意してみれば、ぱあっと、満面の笑みが溢れ落ちた。
「でも逆さにするにしても、どうやって?」
「あ、はいっ。全部、返しますっ。この部屋ごと、ひっくり返しますっ!」
任せて下さい、と子供は胸を張る。
それならば、と様子を窺えば、子供はどこからともなく白の枕を取り出した。
「枕?」
「はいっ。枕ですっ!」
枕で何をするのだろうか。
首を傾げながらも黙って見ていれば、笑顔の子供は取り出した枕を大きく振りかぶり。
「悪夢、退散!ですっ」
吊られた誰かの顔面めがけ、投げつけた。
「…ん。あれ?」
目を開ければ、いつもの見慣れた天井が目についた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
そもそもいつ部屋に戻って来たのだろうか。
「戻れたようだな」
寝起きでぼんやりしていれば、不意に影が出来る。
「落暉《らっき》、さん?」
「あぁ、勝手に邪魔させてもらったぞ」
穏やかに笑みを浮かべる彼に首を傾げる。
彼が急に訪れるのは珍しい事ではない。しかし寝ている間に訪れたのは初めての事だ。
何かあっただろうかと疑問に思い。さすがにこのまま寝ているのは失礼かと、体を起こして。
くらり、と世界が揺れた。
「まだ寝ているといい。熱は大分下がったが、それでもまだ高いのだから」
「ね、つ?」
「そうだ。どこぞの風に吹かれ、病をもらってきたようだな」
熱。病。
重く怠さのある体。はっきりとしない思考。
そうか。風邪を引いてしまったのか。
「もうすぐ父御が戻ってくるぞ。それまでは儂らが側にいてやろうなぁ」
彼に支えられ、ベッドに横になる。
彼の手が額に触れ、その冷たい心地よさに目を細めた。
「夢を、見ていた気がします」
「そうだな。随分と可笑しな夢を見ていたものだ」
「逆さの柱がある。どこにも行けない夢…助けてくれた、子が、いました」
さっきまで見ていた夢を、彼に話す。
悪夢は誰かに話すといいと、昔母が言っていた事を思い出していた。
小さな両手に、手を握られた気がした。確認しようにも、一度閉じてしまった瞼は、もう開く事を拒んでいる。
「枕を返したからな。眠っても問題ないぞ。儂らも就いている事だからな」
額に触れていた彼の手が、目を覆う感覚。
優しい声に促されて、そのまま眠りに落ちていった。
穏やかな眠りの中。
両親と、友人と。庭にいる彼らと共に。笑い合いながら、お茶会をする。
そんな夢を見た。
20241217 『風邪』
雪を待っていた。
雪の降る夜にだけ訪れる、彼女に逢うために。
周囲を見渡しても、空を見上げても、雪の一欠片も見る事が出来ない。
今夜もまた駄目なのだろうか。
ずっと待っていた。一年は自分には長すぎる。
春が来る事を怖れ、夏の訪れを忌々しく思い。秋が過ぎるのを待ち望んでいた。
ようやく冬が来た。
後は雪が降るのを待つだけだというのに。
「早く、逢いたい」
雪を待つ自分の姿は、まるで恋する乙女のようだ。
だが仕方がない事なのだと、誰にでもなく胸中で言い訳をする。
もうこの雪の夜にしか逢えないのだから。限られた時間の中、出来るだけ長く側にいて、たくさんの話をしたかった。
一年経って少しは成長した自分を見てもらいたい。出来る事が増えたのだと伝えて、たくさん褒めてもらいたかった。
彼女はきっと笑ってくれるのだろう。偉いね、頑張ったんだね、と優しく頭を撫でて、抱きしめてくれるのだ。
それを思うだけで心が弾む。彼女に逢えるまでの寂しいだけの夜を、一時でも忘れられる。
そして叶うならば、今度こそ。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。
見上げた空から、白の雪が音もなく降っている。
あぁ、と声が漏れる。待ち望んだ白を両手を広げ受け入れた。
「また逢えたね」
柔らかな声に、振り返る。淡く笑みを浮かべた彼女と目が合い。
弾かれるようにして、走り出した。
逢って何を話そうかなど、考えていたはずの事は全て忘れて走る。
逢いたかった。ずっと逢いたかったのだ。
込み上げる想いは涙になって零れ出し、目や頬を凍らせ痛いほどだ。
息が苦しい。凍てついた空気が肺を突き刺して、上手く呼吸が出来ない。
それでも足は止まらない。止めるつもりなどあるはずがない。
「あぁ。逢い、た、かった!」
腕を伸ばす。
冷え切った指先が、彼女の腕に、触れ。
腕を、引かれた。
後ろに引く強い力に、バランスを崩す。
彼女へと伸ばした腕は空を切り、そのまま背後に倒れ込んだ。
「ぁ、いやだ。お姉ちゃん」
慌てて起き上がろうとするも、地面についた足も腕も動かす事が出来ない。
何故。どうして。
混乱する思考で、必死に身を捩る。動いてくれと、強く念じながら手足に力を込めた。
それでも体は言う事を聞かず。
目の前の姉は、困ったように笑うだけだった。
「何してんだ!」
背後から、強い声と駆け寄る音が聞こえた。
「皆探してたんだそ!」
「ぃや、いやだ。行かないで。お願い」
肩を掴む従兄弟に目もくれず、只管姉に視線を向けて願った。
行かないで欲しい。それが駄目だと言うのなら、今度こそ。
「お姉ちゃん。連れてって。僕も、一緒に連れていってよぉ!」
無理矢理に体を動かし。必死で腕を伸ばす。
けれどその腕が取られる事はない。
姉は笑う。哀しげに。寂しげに。
そんな顔をさせたいわけではないのに。
「いい加減にしろっ!あの子はここにはいない。お前の前には誰もいない。誰も、いないんだよ!」
「嘘だ!お姉ちゃんは、ここにいる。雪の夜に逢いに来てくれる」
「目を覚ませよ。現実を見ろ。目の前には誰一人いない。あの子は、お前の姉さんは五年前に死んだんだよ!」
肩を掴まれ、従兄弟と目を合わせられる。
「死んだ人は還ってこない。お前が見ているのは、お前が創り出した幻だ」
噛みしめるような彼の言葉に、いやだ、と首を振る。
認めたくない、と泣き叫んだ。
それでも肩を掴む力は緩まず。視線を逸らす事も出来ない。
「俺だって逢いたいさ。でももう逢えないんだ」
従兄弟の声が震える。
涙で歪む世界の中。従兄弟もまた泣いていた。
「帰ろう。お前まで雪に攫われちまったら、皆が雪を嫌いになる。前を向けなくなっちまう。だから、さ。一緒に帰ろう」
帰ろう、と従兄弟は繰り返す。
それに首を振ろうとして、戸惑い。
悩んで、苦しんで、怖れて。
「うん。帰る。一緒に帰るよ」
小さく頷いた。
互いに寄り添って家路に就く二人に、安堵の息を漏らす。
彼は大丈夫だ。今年も雪に引かれる事はないだろう。
二人の背を見送って。その姿が見えなくなったのを認め。
振り返り、彼の求めた彼女を強く睨み付けた。
「もう少しだったのに。邪魔をしないで」
にたり、と唇を歪め、嗤う。その表情は先ほどの微笑みとは比べものにならない程に醜悪だ。
「あの子が望んでいるの。それに応えてあげないといけないのに」
紡がれる言葉は毒のように甘さを孕み。伸ばされた白い指先は、彼らの去って行った方向へ向け、引き止めるようにゆるりと招いた。
ざり、と土を踏み締め前に出る。その音に視線を向けた彼女は、難くて堪らないと顔を歪めた。
「今度こそ閉じる事が出来たのに。何故引き止めたの。あんなに強く腕を引いたら、痛いじゃない」
「煩い」
「アナタは本当に酷いヒトね。あの子が可哀想。ワタシなら、二度と手を離したりしないのに」
「黙れ」
腕を伸ばす。
しかしその腕は彼女をすり抜け、触れる事は叶わない。
それを見て彼女は嗤い、哀れむようにその腕を、掴んだ。
「無駄な事。これで分かったでしょう。アナタはただの残り滓。あの子の姉にはアナタよりもワタシの方が相応しいって」
「黙れ。私の体を返せ、化け物」
「嫌よ。この軀でなければ、あの子に姉だと認識してもらえないもの」
彼女は嗤う。歪に顔を歪め、悍ましい嗤い声を上げる。
それに動じる事なく、もう一人の彼女は――姉は自身の軀を奪った彼女を、強く睨み付けていた。
不意に彼女の姿が揺らぐ。
いつの間にか雪が、止んでいた。
「ここまでか」
無感情に呟いて、彼女は姉の腕を放す。
「まぁ、良いわ。また雪は降るもの」
次こそはきっと。
くすくすと少女の声音で笑い、恍惚に頬を染めながら。
彼女の姿は、雪のように解けて消えていく。
残るのは、軀を奪われた姉、一人。
目を閉じる。短く息を吐き、微かに震える手を胸元で強く握りしめた。
「どうすれば」
呟く声は、か細く震えている。
どうすれば、彼女を止められるのか。軀を取り戻す事が出来るのか、何一つ分からなかった。
姉が弟を庇い、雪の下に埋もれて死んだのは、もう五年も前の事だ。雪解けを待って捜索が開始されはしたものの、姉の軀を見つける事は出来なかった。
それ故に、弟は未だに姉を求め続けているのだろう。
そしてその想いを利用して、彼女が姉の軀を纏って彼の元に現れた。
弟を引き込もうと、優しい笑顔を貼り付けて手招く。その度に必死で引き戻してはいたが、それもいつまで続けられるのか分からない。
彼女は何度でも現れる。姉の軀がある限り、それを止める事は出来ない。
雪の夜に死んだためか、雪の降る夜にしか現れる事が出来ないのが、せめてもの救いだった。
「それでも、必ず守るから」
目を開ける。
恐怖に、不安に震える気持ちを叱咤するように、強く言葉を紡ぐ。
かつては弟を守るために手を離した。そして今度は守るために腕を引く。
弟を守る。ただそれだけが、姉をここに留まらせていた。
「大丈夫。守るよ。だって私はお姉ちゃんなんだから」
呟いて歩き出す。彼らが去って行った方へ。
姉として、弟を守るために。
姉は気づかない。
その想いが、姉だけでなく弟を、彼女を縛り付けている事を。
雪の下。薄れる意識の中で、望んだそれに応えたモノがいた事を。
姉の望みのために、その軀を纏い弟に近づき、一時の夢を見せ。姉の望む悪役を演じる、一羽の妖がいる事を。
子供のまま死んだ姉は、きっと気づく事は出来ないのだろう。
そんな姉の小さな背を見下ろして。
鶴に似た黒の鳥が、羽を震わせて甲高く鳴いた。
20241216 『雪を待つ』
白。赤。青。
色とりどりの電球が、サンタやトナカイ、雪だるまにクリスマスツリーを形作っている。
きらきら、ちかちか。
楽しそうに点滅を繰り返し、道行く人々の目を楽しませていた。
街から少し外れた公園。
街の中心部のそれと比べれば規模は小さいが、可愛らしいキャラクターのイルミネーションを、ぼんやりとただ見つめていた。
夜も更け、道行く人も途絶えた今の公園は、とても静かだ。
車の音も、風の音も。イルミネーションの点滅する音も、呼吸する音すら聞こえない。
とても静かな夜。世界に自分一人しかいなくなったような錯覚に、目を閉じる。
目を閉じても、やはり何も聞こえない。
その静寂を敢えて乱すように音を立て、鞄の中からスケッチブックと鉛筆を取りだした。
目を開ける。視線の先のイルミネーションを見据えて。
今なら、描ける。
景色を、切り取る事が出来る。
沸き上がる確信に、スケッチブックを開いて線を走らせた。
周囲の暗さは気にならない。灯りなど必要ない。
目の前の景色さえあればいい。
目の前の色鮮やかな光景を、白と黒の世界に閉じ込めていく。
何かに憑かれたかのように、ただ。
時を忘れ、無心で描いていた。
「これで、完成」
ようやく、終わる。閉じ込める事が出来る。
口元に笑みが浮かぶ。
最後の線を、殊更丁寧に描いて。
その瞬間、目の前のイルミネーションの灯りが音もなく、消えた。
「え?何?」
突然の事に不安がこみ上げ、辺りを見回す。
少し離れた所にある電灯は皆消えていない事から、イルミネーションの灯りだけが消えてしまったのだろう。
偶然だ。夜も遅いのだから、時間設定で消えてしまったのだとしても可笑しくはない。
だから不安に思う事など一つもないはずなのに。一度芽生えてしまった不安は、直ぐに消えてしまう事はなかった。
何か縋るものが欲しくて、手にしたままのスケッチブックに目を落とす。
鉛筆だけで描かれた、白と黒のイルミネーション。
そのはずであった。
「ひっ」
色が、ついていた。
さっきまでのイルミネーションそのままに。色鮮やかに灯りが点いている。写真と変わらぬほど、本物と見紛うほどの写実さで、スケッチブック内を明るく彩っていた。
不意にその色が消え、また浮かび上がる。
ちかちか、と。
灯りが瞬くその様は、まるで。
描いた景色を、スケッチブックに閉じ込めてしまったような。
「いやっ!」
怖ろしさに、スケッチブックを投げ捨てた。
一体これは何なのだろう。
どうして目の前のイルミネーションの灯りが消えて、スケッチブックの中のそれに色が灯っているのか。
分からない。分かりたくない。
立ち上がる。スケッチブックから視線を外さすに、一歩下がり。
もう一歩、後ろに下がろうとして。
誰かに、腕を、掴まれた。
「何してんの?こんな所で」
はっとして、顔を上げる。
訝しげに眉を寄せた彼が、どうしたの、と顔を覗き込む。
夕暮れ時。
公園のベンチに座っていた。
何も答えない自分の様子に彼はさらに眉を寄せる。体調でも悪いのだと思われたのか、額に手を当てられた。
彼の冷えた指に、恐怖に強張っていた体の力が抜け、冷静な思考が戻ってくる。
あれは、夢だった。本物ではなかった。
そうだ。この公園には、いつもの夕陽を描こうとして訪れたのではなかったか。
「熱はないみたいだけど」
「大丈夫。もう大丈夫」
自分に言い聞かせるようにして、大丈夫を繰り返す。
軽く俯いて、彼の手から逃げ出した。
「そう?無理はしないでよ。いつも、」
心配そうな彼の言葉が、何故か途切れた。
些細な事さえ不安になり、顔を上げる。
彼の視線の先。少し離れた道端に、スケッチブックが落ちていた。
ぎくり、と体が強張る。けれど彼はそんな自分に気づかず、スケッチブックの元へと向かい。
静かにスケッチブックを拾い上げ土埃を払い、ぱらぱらとページをめくりだした。
「すごいな。本物みたいだ」
本物。その言葉に忘れかけていた恐怖を思い出す。
かたかた震える手を抑えるように、胸元で強く握り締めた。
大丈夫。あれは夢だ。現実にあんな怖ろしい事が起こるはずがない。
呪文のように言い聞かせる。何度も心の中で繰り返す。
それでも一向に消えない不安や恐怖に、泣いて逃げ出してしまいたかった。
「ほら。大事なものなんだから、もっと丁寧に扱いなよ」
いつの間にか戻って来ていた彼に、スケッチブックを差し出される。
受け取りたくないと心は拒絶するも、震える手はおとなしくスケッチブックを受け取った。
ぱらり、とスケッチブックを捲る。
見たくはないはずなのに、確認せずにはいられなかった。
一枚、また一枚と、確認していく。
彼と、彼と見た景色と、夕陽。
変化はない。白黒の世界にそれ以外の色が浮かんではいない。
少しの安堵と、スケッチブックを捲る度に募る不安。
また一枚、捲り。
その先の何も描かれていない白に、詰めていた息を吐いた。
「どうしたの?今日は何だか変だよ」
「何でもないの。ちょっと怖い夢を見ただけ」
あの夜のイルミネーションは何処にもなかった。
やはり夢だったのだと、心配する彼に笑ってみせる。
「ちょっとじゃなさそうだね」
「そうかもね。夢か現実か分からなくて、怖くて不安だった」
「手が震えてる…帰ろうか。送るよ」
未だに震えの止まらない手を包まれ、少しだけ肩が跳ねる。
それでも今だけは、その手を振り払いたくはなかった。
促されてスケッチブックを鞄にしまう。彼と手を繋いで立ち上がり、歩き出した。
「それにしても、夢を見て怖がるなんて、可愛い所もあるんだね」
「言わないでよ。本当に怖かったんだから」
これ以上不安にさせないための彼の軽口に、敢えて拗ねてみせながら答える。
彼の優しさが、ただ嬉しい。
手を繋いだまま公園を出る時、ふと視線を向けたそれに足が止まる。
灯りのついていない、イルミネーション。
夜の公園で、スケッチブックの中に閉じ込めたもの。
「あぁ。まだ夜じゃないから灯りがついていないんだよ」
「そう、なの?」
「そうだよ。だからそんなに怖がるなって」
彼に手を引かれ、歩き出す。
少しだけ早足で、イルミネーションから離される。
「大丈夫だよ。心配なら、俺の事描いてみる?」
戯けて笑う彼に、首を振って彼の隣に寄り添って歩く。
手を繋ぎながら帰る、夕暮れ時。
彼の言葉の真意を考えないように、繋ぐ手に少しだけ力を込めた。
20241215 『イルミネーション』
「なんだ。此処は客人に茶の一つも出さんのか」
「ババアなんぞ呼んでねぇよ。さっさと帰れ」
目の前で繰り広げられるやり取りに、どうするべきかと内心で頭を抱える。
表面上は穏やかではあるものの、紡がれる言葉は平穏とはほど遠い。 このままいつ争いが始まったとしても可笑しくはない状況に、止める術を求めて視線を彷徨わせた。
「大体なんだ。後ろの奴らは」
「妾の子だ。可愛らしいだろう」
ふふん、と笑う女性の背後。姿勢良く座る少年と少女に視線を向ける。
静かに座っていながらも、手を繋ぎ。繋いだ手を、相手を見て、ふわふわと笑い合う二人の姿はとても微笑ましい。
「何が子だよ。片方は人間じゃねぇか」
「ひ孫だ。前に会った事があるだろうに、忘れたのか」
「はぁ?嘘だろ。あの時の人形擬きが、後ろにいるガキだってのかよ」
信じられない、とでも言いたげな彼の大きな声に、思わず肩が揺れる。
同じように肩を跳ねさせ、慌てて前を見る二人に申し訳なくなった。
「あ、ごめんなさい」
「申し訳ありませんでした」
「気にしないで。うちの馬鹿が大声を上げて、ごめん」
しゅんとする二人に、慌てて声をかける。
いい加減にしろ、と彼を睨めば、何故か顔を赤くして目を逸らされた。
ぶつぶつと何かを言っているが、上手く聞き取れない。
どうするか、と暫し悩み。だがおとなしくなったのだから、と取りあえずは放っておく事にした。
「その。すみません、煩くて」
「気にするな。そこな小僧が騒々しいのは昔からの事だ。寧ろ静かな小僧は落ち着かぬ」
気分を害している様子はなく、逆にこの状況を愉しんでいる女性に、何とも言えない気持ちになる。
そうですか、と相づちを打てば、彼女の視線が少し柔らかくなった気がした。
「此方方の祝言に参らず、すまなんだ。満たすのに、時間を要してしまってな」
「満たす?」
「ひ孫の事だ」
そう言って背後の二人を見る女性に倣い、同じく視線を向ける。
頬を染めて軽く俯いた少女と優しく寄り添う少年は見ていて微笑ましいが、満たす事の意味は分からないままだった。
「言葉だけが素直でなかったからな。満たすのは容易だと思っていたが、存外乾いていたらしい」
さらに頬を染める少女に女性は柔らかく笑いかけ、おいで、と手招いた。躊躇しながらも側に寄る少女を膝に抱き上げて、優しく頭をなで始める。
「言葉を、想いを注ぎ、漸く素直になってな。此方方を祝いに来たのだ」
「ありがとう、ございます?」
「礼なんぞ、必要ねぇ。どうせガキ共を自慢しに来たついでだ」
不意に腰に手が回り、引き寄せられる。
振り返れば、不機嫌そうに顔を顰めた彼と視線が交わり、その子供染みた様子に溜息が溢れ落ちた。
面倒だな。そうは思うが客人の前だ。
先ほどのやり取りをされるよりは良いかと、彼の頬に触れた。
「先輩」
「それは飽きた」
「…旦那様」
本当に、面倒だ。
だが効果はあったらしい。途端に黙り込む彼を一瞥して、三人の元へ向き直った。
「贄を娶ると聞いて心配ではあったが、仲睦まじいようで何よりだな」
「いえ、そんな事は」
気まずさに、視線を逸らす。
彼と契る事に了承はしたが、彼を好いているかはまた別の話だ。
飽きられ捨てられる事がないと言われたのだから、受け入れるしかない。そこに好意は関係ない。
元が贄でしかない自分には、必要のないものだ。
「誤魔化し続けると、それが本当になる」
静かな声に、視線を向ける。
女性の膝の上。愛でられながら、真っ直ぐな少女の目と視線が交わった。
「本当になってしまえば、自分が分からなくなる。分からなくなれば、ただ苦しいだけ」
「それは」
「もっとたくさん声を聞けば良い。必要かそうでないかは、その後考えても遅くない」
「言うじゃねぇか。何事にも興味を示さなかったくせに」
彼の腕の力が、強まる。
無理矢理向きを変えさせられて、そのまま包み込むように抱き込まれ、僅かに息苦しさを覚えて眉が寄った。
離してほしいと彼の胸を叩き訴えても、腕の力は一向に弱まる気配がない。
「余計な世話だが、オマエらの真似事も悪くはなさそうだな」
「最初は逃げ出すが、それを追うのも悪くはなかったぞ」
「悪趣味なババアだ」
彼が鼻で笑う気配に、同族嫌悪の文字が浮かぶ。
声に険がないため急に争い出す事はないのだろうが、会話の内容が不穏でしかなく、叶うならば今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。
「顔を赤らめて、恥ずかしいと涙目で縋られるのは、大層愛らしいものだった。小僧も好きだろうに」
「ひいばあちゃんっ!」
「まぁ、確かにな」
段々に不穏が増す会話に、焦ったような少女の声が混じる。
可哀想に、と思うものの、続く彼の同意の言葉がそれすら気にする余裕をなくしていく。
「ひとつひとつ。想いを紡いで、たくさん注いでいくと、応えてくれます。人間も妖も変わらない。満たされて、手を取って笑ってくれる小夜《さよ》はとても綺麗で、愛しい」
甘く優しく。それでいて愛しさに溢れた少年の声に、少女が声にならない呻きを上げる。
それにつられて、自分の事ではないはずなのに、何故か恥ずかしくて頬が熱を持つのを感じた。
「此処で惚気るな。帰れ」
「そうだな。伝えるべき事は伝えた事であるし、戻るとするか」
「ガキ共の祝言の時には呼べ。冷やかしに行ってやる」
「小僧も大概素直ではないな」
ふっ、と笑う声と共に、柔らかで澄んだ風が吹き抜けた。
見送りぐらいはすべきだろうと身を捩るものの、それでも彼の腕の力が緩む事はない。
はぁ、と溜息をひとつ。
風が止んで静かになった部屋に、疲れと共に吐き出した。
「まぁ、なんだ。そういうわけだ」
呟く彼の声と共に、漸く抱き竦めている腕の力が弱くなる。
もぞもぞと身じろいで、顔を上げて彼を見る。
いつものように笑う彼の耳が赤い事が不思議で、可笑しかった。
「狼や雀の真似は少し癪だが、満たしてやろう」
「何それ」
満たす意味を知って、それでも知らない振りをする。
恥ずかしさと、不安と、一抹の期待に、彼の服を掴んだ。
「愛を注ぐって事だ。覚悟しろよ、オマエさん?」
耳が赤いままでは、かっこよくはないな。と。
現実逃避染みた事を考えながら、額に触れる彼の唇を受け入れ、目を閉じた。
20241214 『愛を注いで』