部屋の隅。壁に背をつけて膝を抱える。
灯りを点けず、カーテンを開けたままの暗い室内。窓から差し込む月の光が、部屋の中央を白く染め上げていた。
ゆらり、と影が揺れる。
差し込む淡い光が、形を持ち始める。
白と黒。混じり合って、くるりくるりと回り始めて。
白い踊り子が可憐に舞い。黒の獣が雄々しく駆け回る。
まるで物語の一幕のように、美しく幻想的な光景。
時が経つのも忘れ、静かに魅入っていた。
「今宵も楽しんでもらえたようで」
不意に聞こえた声。
気がつけば、いつの間にか部屋の片隅に誰かが立っていた。光沢のある白の着物が、月の光を反射する。
きらきらと輝いているような錯覚を覚えて、思わず目を細めた。
「さて。此度は何があったかな」
低く静かな声に問われ、口を噤んで俯いた。
何もないと言うのは簡単だ。大丈夫だと、誤魔化す事にも慣れてしまっている。
「沈黙は、時に雄弁に物事を語る。家族の事で何かあったようだな」
びくり、と肩が震える。
「そうだな。弟の事か」
「あいつは関係ない。あいつのせいじゃないし、仕方がなかったんだ」
これでは認めているようなものだ。
そうは思いながらも、仕方がないのだと繰り返す。
分かっている。いつもの事だ。
家族で出かける予定があった。ずっと楽しみにしていた事だった。
けれど弟が朝から熱を出し。出かける予定は、当然のようになくなった。
今、この家には自分以外誰もいない。
朝から病院へと行った両親と弟は、このまま今夜は帰らないのだろう。
いつもの事だ。
こうして予定や約束がなくなる事も。
一人で過ごす夜も。
次の日に、帰ってきた弟や両親に謝られる事も。それに笑って大丈夫だと答える自分も。
繰り返し過ぎて、何も感じられなくなるくらいには。
「ありがとう、楽しかった。もう大丈夫だから」
顔を上げて笑ってみせる。
雲のない月の夜に見られる、この特別な舞台を楽しんだのは本当の事だ。
現にさっきまであったはずの、自分で消化しきれない心に溜まったどろどろとした気持ちが、今はもう消えてなくなっている。
嘘は言っていない。
だがその答えは、相手にとって満足のいくものではなかったようだ。
「幼子が物分かりのいい言葉を述べるものではない」
静かな声に叱られる。
音も立てずに近づいて、大きな手が頭を撫でた。
「幼子とは我が儘であるべきだ。何にも縛られず、自由勝手に笑っておればいい」
我が儘。自由。
自分が忘れてしまったもの。
兄になったのだからと、言い聞かせてなくしてしまったそれは、遠い国の言葉のように思えた。
「機は熟している。招き終わらせるよりも、意向を変えてこのまま拐かす方が良いか」
何を言っているのだろう。彼の言葉はいつも難しい。
「何?どういう事?」
聞いても、静かに笑うだけで答えはなく。
頭を撫でていた手が離れ、抱き上げられる。
間近で見る彼の、月のような目が穏やかに細まった。
「共に参るか。弟がおらねば、その笑みが陰る事はないだろう」
弟のいない世界。
想像して、それは嫌だと首を振った。
何もかも、弟中心ではあるけれど。それでも弟が笑っていられる世界が一番で、大切だった。
「そうか。なれば機を見て弟も手招こう。応えるかは分からぬ故、体は残しておかねばなるまいな」
呟く彼の大きな手に目を塞がれる。
急に何も見えなくなり、少しだけ不安を覚えるけれど。
ゆらゆらと、揺れる感覚と。
彼の歌う、澄んだ声に。
不安も、悲しみも、寂しさも。全部融かして。
何もかもを忘れて、眠りについた。
灯りを消して、カーテンを開けた。
部屋の片隅。壁を背にして座る。
数年前に、兄がそうしていたように。
家族で出かける予定の日の朝、熱を出した。
いつもの事だ。思い通りにならない自分の体に、嫌悪すら抱く。
兄がその予定を楽しみにしていた事を知っていた。知っていたはずであるのに、熱は一向に引く様子はなく。
結局あの日。暗い家に兄一人をおいて、病院で両親と共に一夜を明かした。
いつもの事。次の日に家に戻って兄に謝り、そして兄が作った笑顔で大丈夫だと答える。
その時も、変わらないと思っていた。
最初は眠っているのだと思った。
壁に背を預け。緩く微笑みを浮かべて。
だが触れた体は氷のように冷たく、硬く。
時を止めた兄の体が倒れていく様を、半狂乱になる母の姿を、ただ呆然とみている事しかできなかった。
兄の時が止まったあの日から、この家も時を止めた。
母は兄を喪った現実を受け入れる事が出来ず。父は受け入れたように見せかけてその実、この家に兄の幻を見続けている。
兄の部屋は、あの時のままだ。
ふ、と息を吐く。
あの夜。兄はここで最期に何を見ていたのだろうか。
兄はいつでも優しかった。
泣きわめく事も、我が儘を言うでもなく。家族に心配をかけまいと、笑顔で嘘をつく。
簡単に病に伏して兄を傷つける自分を、心の底から心配してくれた。
その兄が見た景色を、見てみたかった。
部屋の中央。月の光が差し込むその周りで、暗闇が蠢いた。
浸食するように光と混ざり合い。光でも闇でもない、歪な何かが形を作る。
その動きは手招いているようにも見えた。
こんな醜悪なものを、兄は見ていたのか。
顔を顰めて立ち上がる。
カーテンに手を伸ばして。
「お気に召さなかったかな」
低い声が聞こえて、振り返る。
部屋の片隅。
いつの間にか、白の直衣を身に纏った美しい男が。
虚ろな目をした子供を腕に抱いて、立っていた。
20241208 『部屋の片隅で』
朽ちた鳥居をくぐり抜ける。
一変する周囲を気にも留めず。奥へと向かい、ただ歩き続けた。
妹達の記憶を縁に、漸く辿り着ける場所。
崩れ落ちた社。枯れる事のない古木。
ぎり、と唇を噛みしめる。
男が今まで思っていた事とは、真逆の記憶を見た。だがそれは、大人になり多くを知る内に、ある程度予想はしていた事だった。
時が経つにつれて元気になっていく下の妹と、それに反するように静かに衰弱していく上の妹。
部屋の中、力なく倒れ伏していた妹の姿を、今もはっきりと思い出せる。あの時小さな違和感に部屋を訪れなければ、今頃上の妹は家から姿を消し。
おそらくはこの忌まわしい場所で、他と同じように吊られていたのだろう。
妹の記憶と違わぬ、古木。吊られた者の中によく知る顔を見て。男の目が鋭さを増す。
男達の両親が、虚ろな目をして笑っていた。
「オマエはお呼びじゃないよ」
「ムスメ達を寄越せ」
「どちらかでいい。上のムスメで構わない」
「アレは器として使い勝手が良さそうだ」
けらけら。けたけた。
耳障りな笑い声が響く。ゆらゆらと吊られながら揺れている。
その異様な光景に、けれども男は表情一つ変える事はなく。
「うるせぇよ。俺の可愛い妹をやるわけねぇだろうが」
忌々しいと吐き捨てて、足を踏み出した。
轟々と燃えさかる炎を一瞥し、男は地に横たわる両親を見下ろした。
「最初から全部分かっていたんだな」
呟く声に、答えはない。
二人の胸の傷跡が、彼らが二度と目覚める事はないと示していた。
両親は妹達の様子から、全てを悟っていたのだろう。
何も知らなかったのは、知らずに誤った選択をし続けてきたのは男の方だった。
いつかの母と妹の様子を思い出す。
眠る下の妹に上の妹が近づく事を、母は良しとしなかった。
「何をしているの!出て行きなさい!」
その言葉は全てを知る前と後で、逆の印象を男に与えた。
子供だったあの時。母は、下の妹を上の妹から守ろうとしたのだと思っていた。思っていたからこそ、部屋から出され呆然とする妹を、半ば引き摺る形で彼女の部屋に押し込めたのだ。
だが母はおそらくあの時、妹を守ろうとしたのだろう。下の妹の形代として澱みを受け入れようとしていた彼女を引き離し、澱みにその身が晒されるのを防ごうとした。
その後、祖父母の家に上の妹だけが預けられた事も、彼女の身を守るためだった。
目覚めた下の妹にそれを告げたのは、彼女が形代になってしまった事を下の妹も知っていると思っていたからだ。
大丈夫だと。目覚めたのは彼女が形代として澱みを受け入れたからではないのだと、そう伝えたかったのだろう。
「言わなきゃ、分かんねぇだろうが」
両親はただ妹達をどちらも等しく愛し、守ろうと手を尽くしてきた。
それを踏みにじったのは、男の無知さだ。
下の妹の話を聞いて、祖父母の家から上の妹を連れ戻した。
だが連れ戻さなくても、結果は変わらなかったのかもしれない。
両親は何も言わなかった。祖父母から妹の様子を聞いていたのだろう。
彼女が緩やかに澱みに浸食されていた事を。今目の前で横たわる両親の胸の傷跡と同じものが、彼女の胸にもある事を。
彼女の時は、既に止まってしまっている事を。
――助ける事が出来ないのであれば、せめて人として終わらせてあげたい。
それが両親の願いだったのだろう。
だからこそ根源を絶とうとした。
けれどもそれは叶わず。古木に吊される結果となった。
「悪ぃな。最期まで親不孝のままで」
両親の最期の願いを、叶える事は出来ない。
自嘲し、手にした木片に視線を向ける。
全て燃やす前に、古木から抜き取った核。今のままを続ける事が出来る、唯一の方法。
人として終わるのではなく。化生の元で永遠に澱みの器として吊られるのでもなく。
兄妹として、共にいられるために。
「約束だから。ずっと一緒だって、つきひが言ったんだ」
下の妹が生まれ一人になって泣く彼女が、宥める男に小指を差し出しながら願った約束。
それを言い訳にして、男はここまで来た。化生の核を手に入れるための口実を彼女のせいにした。
兄としては最低だと、分かっている。
何も知らずに妹を忌避し、約束などないものとしていたはずが、全てを知った今約束を理由に、妹の穏やかな眠りを否定して側に留めようとしているのだから。
口の端を歪めて笑う。笑っていなければ、泣いてしまいそうだった。
上の妹とはもう、約束をした幼い頃のような関係には戻れない。優しい彼女の事だ。表面上は男を慕ってくれるのだろう。それでも彼女の目に浮かぶ恐怖を消す事は出来ない。
だが下の妹は違う。
まだ何も知らないのだ。純粋に己の姉が助かる方法を信じて今も男を待っている。
全てを知ってしまった時、何を思うのかは分からない。
男と同じように、約束に縋り続けるのか。それとも両親のように終わりを願うのか。
どちらにしても、全てを知るその時までは。どうか妹達だけは以前の穏やかな関係であってほしいと、密かに願う。
「そのためなら、何にだってなってやるさ」
両親を喪った今、彼女達を守れるのは男だけだ。
ふと気づけば、炎は燃やす糧をなくして勢いを失い。
古木も吊られた者も、両親すらも灰となって空へと舞っていた。
それを見上げながら、もしもを夢想する。
吊られていた者のように逆さまに見る世界では、結果は変わっていたのだろうか。
逆しまの世界の中で、妹達は神隠しに会う事はなく。兄妹が離れてしまう事もなく。
両親と妹達と共に、今も笑っていられたのだろうか。
馬鹿らしい、と一笑する。
意味のない事だ。今のこの現実が変わる事は決してない。
「早く戻らねぇとな」
呟いて、踵を返し。
手にしていた木片を、躊躇いもなく呑み込んだ。
20241207 『逆さま』
窓を開ける。
深夜。全てが眠る丑三つ時。
それでも遠く見える灯りは、いつまでも潰える事はなく。
不意にどこかで、声が聞こえた。
楽しそうに、夜を歌っている。
寂しそうに、誰かを求めて啼いている。
それに惹かれるようにして、窓から外へと飛び出した。
「あ、夜更かしさんだ」
くすくすと背後から笑い声。
振り返れば、にんまり笑う子供が一人。木の枝に腰掛けて、足を揺らしながらこちらを見下ろしていた。
「安眠妨害しておいて、何を言う」
睨み付けるが、特に堪える様子はなく。
「こんな遠くまで来ておいて、よく言う」
笑いながら返された言葉に、思い切り顔を顰めてみせた。
「キミはいつも優しい。こんな遠くで啼いていても、必ず駆けつけてくれる」
「偶々、だよ。偶々、寝ようとした時に声が聞こえたから。気になってしまっただけの事」
子供に手を引かれて進む、獣道。
純粋な好意の言葉に、そんな事はない、と否定する。
ただ遠くの灯りが、今夜は何故か気になってしまっただけ。
窓を開けたら、偶然啼く声が聞こえただけ。
聞こえないふりも出来た。けれども聞こえぬふりをするには、あまりにも必死に啼いているものだから。
決して子供のためではないのだと、素直になれない言葉は、それでも、と笑う声に静かに解けていく。
「こうして来てくれたのだから。優しい事に、変わりはない」
ありがとう、と感謝を告げられて、それ以上何も言えず。
まぁ、うん、と。間の抜けた自分の声に、何とも言えない気持ちになった。
「今回は、何に啼いていたの?」
気まずい心境に耐えられず、話題を変える。
それに気づいたのだろう。ふふ、と漏れる声に、見えてはいないと分かっていても、熱くなる頬を誤魔化すように俯いた。
「夜が明るくなってしまったからね」
歌うように子供は囁く。
「人間は気づかなくなってしまったね。暗闇を怖れなくなった。遠くない先に、ボクらは皆消えてしまうのだろう」
声は酷く穏やかだ。変わらず笑っているのか、それとも泣いているのか。
手を引かれている今、声だけでは子供が何を思っているのか察する事は出来ない。
「だから昔を思い出していた。暗い暖かな夜を懐かしんで、歌っていたんだよ」
受け入れてしまっているのか。終わりを。
夜に在るモノ達にとって、それは悲しい事ではないのだろう。必然だと、最初から理解してしまっている。
しかし人である自分にとって。
その終わりは、どうしようもなく寂しい事だと思ってしまった。
立ち止まる。引かれていた手を解いた。
「優しい子。不快にさせてしまったかな」
振り返る子供の表情は、声と同じく穏やかで。
少しだけ視線を逸らして、馬鹿、と呟く。拗ねて見せれば、小さな手が宥めるように離した手を包み込んだ。
「ここに啼く声を聞いて姿を見れるのがいるのに、いないように話をしないでほしい」
「そんなつもりではなかったのだけれど。でも、そうだね。キミの前で話してはいけない事だったね」
ごめん、と。謝罪の言葉を口にして。
「行こうか」
静かな声に促され、小さく頷いた。
手を引かれ、再び歩き出す。
話題を振ったのは自分の方であるのに、謝らせてしまった事を心苦しく思いながらも。
今は何も言う気にはなれず、俯いてただ促されるままに暗い道を歩いていた。
「ほら、着いたよ」
立ち止まりかけられた声に、同じように立ち止まり顔を上げる。
いつの間にか、境界を越えていたようだ。
木の上で鳥達が久しぶり、と歌う。
獣達がこちらに駆け寄り、鼻先を押しつける。
背を押され、繋いでいた手を離して促されるままに歩き出す。
月明かりの下。白い花の咲き乱れるその中央に座る、彼女の元へと。
「また呼ばれてしまったのだね。まったく、仕方のない子らだ」
「ひいばあちゃん」
腕を伸ばして彼女に抱きつく。軽く目を見張った彼女は、それでも優しく受け入れてくれ、小さく安堵の息を吐いた。
「どうした?子らに何か言われたか?」
「別に、何も。夜に啼く声を聞いただけ。眠れないほどに啼くから来てみただけ。いつも通り」
背を撫でられて、その温もりに目を閉じる。
「現世は生き難いか?」
「分からない。もうどうでも良いのかもしれない」
「そうか。すまないな」
彼女が謝る事ではない。
この体に妖の血が流れていてもいなくても、それほど変わりはなかったのだろうから。
周りに興味を持てないのは、きっと性分だ。
「ボクらの終わる先の話をして、悲しませてしまったんだ」
「別に、大丈夫」
背後から聞こえた声に、目を開ける。
視線だけを向けて首を振り、否定した。
「いつも通り。さっきの話なんて気にしていない。大丈夫だから」
「相も変わらず、素直でない事だ」
「別に、そんな事はない。優しい子だと言われたばかりだし」
素直になれないのも性分だ。
素直であったならば、とは常に思っている。けれどどうしてもなれないのだから仕方ない。
くすり、と笑われる。
くすくす、くすり。笑い声が響く。
「笑わないで」
「笑いたくもなるさ。お前は言葉だけが素直でないのだから」
言葉以外は、とても素直だと言うのに。
笑う周りに耐えきれず、ぺちぺちと彼女の胸を何度も叩く。肩口に額を擦り寄せれば、背を撫でる手が一層優しくなった。
「すまんすまん。詫びにはならんが、可愛いひ孫に一つ言っておこう」
「…何?」
「近く、南に住まう狸が祝言を挙げるらしい。それを冷やかしに行こうと思っているのだが」
急に何を言っているのか。
顔を上げれば、愉しげに笑う彼女と目が合った。
何故か、とても嫌な予感がした。
「お前も来い。彼方よりもお前の方が美しい花嫁になるのだと、自慢させてくれ」
本当に、何を、言っているのか。
彼女から離れ、数歩下がる。背を撫でていた手が簡単に離れてしまった事が、逆に怖ろしい。
彼女はそれ以上何も言わず。ただ愉しげにこちらの反応を伺っている。
また一歩、後ろに下がりかけ。
けれど何かに背中が当たり、それ以上は下がれなかった。
恐る恐る振り返る。
虚を衝かれたように瞬く目と、視線が交わり。
今は子供の姿をしている彼が、照れたように微笑んだ。
20241206 『眠れないほど』
夢を見ていた。
「近づかないで!」
叫ぶ彼女の、その目の鋭さに足が竦む。
止めなければいけない。それは意味のない事なのだと。
だが意思とは裏腹に、体は動こうとはせず。声をかける事すら出来ず。
「邪魔をするなら許さない。綺麗事ばかりで、あなた達ばかりに都合のいい言葉を聞くのはもううんざりなの!」
そうだろうな、と不謹慎ながらに思う。
彼女ばかりが苦しんだ。皆、可哀想にと言いながらも、彼女に本当の意味で寄り添うことはなかった。
大切なもの、全てを奪われて。たった一人きりで、誰かに縋る事も許されず。
仕方のない事、受け容れなければいけない事と強要されて来たのだから。
あぁ、と声が漏れた。
彼女の想いに気づいた。見ない振りをしてきたものに、気づいてしまった。
「来ないで。嘘つきのくせに、今更前みたいに近づこうとしないで」
気づいてしまえば、体は軽くなる。彼女の元へ歩き出して。
「ごめんなさい」
涙に濡れる彼女を、強く抱きしめた。
ふと、気づけば一人、傘を手に立ち尽くしていた。
何故か、胸が苦しい。悲しい夢を見ていたような。
傘を打つ雨の音が、どこか微睡む意識を現へと引き戻していく。
頭を軽く振り、歩き出した。
今まで何をしていたのか、これから何をしようとしていたのかは、分からない。
だがこの道の先には、彼女の家があるはずだ。ならば彼女に何か用事でもあったのだろう。
深く考える事もなく。足は彼女の家へと向かい出す。
彼女に会って目的を思い出せるのならば良し。思い出せずとも、彼女と共にいられるのならば、それだけでもいい。足取り軽く、道を行く。
彼女と会うのも久しぶりだ。会って何を話そうかと、考えるだけでも心が浮かれた。
だがそんな浮ついた気持ちは、遠く見えた光景に一瞬で凪いでしまう。
道の先。家の前で傘も差さずに佇む彼女が、いた。
慌てて駆け寄り、傘を差し掛ける。彼女の虚ろな目と視線が合い、その瞬間に意識が鮮明になった。
何故忘れていたのか。
彼女は先日、夫と子を失ったばかりではないか。
「みんな、いなくなっちゃった。どうして、置いていかれたの。一人は嫌いだっていったのに。いじわるだ」
薄く笑みを浮かべて、彼女は誰にでもなく呟く。
視線は合っているはずなのに、彼女は自分を見てはいなかった。
彼女の手を握る。指先の、その氷のような冷たさが悲しかった。
「あぁ、来てくれたんだ。久しぶり」
手に触れた事で、気づいたらしい。
虚ろな目が焦点を結んで、自分を見つめる。触れていない方の彼女の手に頬をなぞられ、肩が跳ねた。
「いなくなっちゃったの、みんな。一人は嫌いだって、あれだけ言ったのに。酷いよね」
酷い、と言いながらも彼女は笑みを深くする。頬をなぞる指がそのまま首筋を辿り、その度に冷たさに跳ねる肩を見てくすくすと笑う。
「ねぇ、これからは一緒にいてよ。もう置いていかないで」
首元に腕が回り、抱きつかれる。
握っていたはずの手は、いつの間にか指を絡められ、まるで逃がさないとでも言っているかのようだった。
目を閉じる。
手にしていた傘を放って、彼女の背に手を回した。
「うん。これからはまた一緒にいるよ。約束する」
何故だろうか。
その約束だけは、破ってはいけないと強く感じていた。
「ねえ、そろそろ起きなよ。いつまで寝てるの」
揺り起こされて、微睡んでいた意識が浮上する。
机に伏せていた体を起こし、辺りを見回した。
夕暮れに染まる教室。自分と彼女以外は誰もいない。
「やっと起きた。もうとっくに下校時間過ぎてるんだけど」
頬を膨らませて怒る彼女を見上げる。
彼女はいつもと変わらない。変わらないはずなのに。
何故か、その幼い仕草に違和感を覚えた。
「目を開けたまま寝ないでよ。さっさと帰る準備して帰ろうよ」
ぽすん、と頭に軽い衝撃。彼女の手が頭を軽く叩いて、そのまま左右に揺らされる。
まだ寝ているのだろうか。随分と意識がはっきりとしない。
ここが夢なのか現実なのか。その境目が見えない。
「ねえ」
声をかける。
自分の声が遠い。そんな錯覚を覚えながら、動きを止めた彼女を見つめ。
「ここは現実?それともまだ夢の中?」
問いかけるその言葉に、彼女は声を上げて嗤い出した。
「ふふ、あはは。いいよ。夢でも現実でも、好きな方を選んで。どっちでも変わらない。そうでしょう?」
可笑しくて堪らないと、彼女は嗤う。
「どれがいい?どんなわたしが好き?憎まれたい?縋られたい?好かれたい?どれでもいいよ。どれを選んでも結末は変わらない!」
嗤う彼女の影が揺れる。
いくつもの彼女を無理矢理一つにしたような歪さに、吐き気を覚えて思わず体が逃げを打つ。
だが頭に触れていたままの彼女の手がそれを阻み。
嗤う事を止め、表情すらも消した彼女の鋭い目に射竦められ、声にならない悲鳴が漏れた。
「逃げるのは許さない。二度とわたしを見捨てさせはしない」
何を言っているのだろう。
彼女の言っている事が分からない。記憶にはない。
それとも思い出せないだけなのか。
それを問いたくても、混乱する思考では言葉一つ絞り出せず。
涙に滲む視界の中、ただ彼女の目を見つめ返す事しか出来はしなかった。
「一人になるのは嫌い。嘘つきはもっと嫌いなの。でも大好きなあなたのために、繰り返してあげるわ。今度は嘘つきにならないように」
頭に触れていた手が下り、瞼を辿って頬をなぞる。
いつかのような冷たい指に、さらに涙が零れ落ちた。
「わたし達は生まれた時から一緒だもの。最期まで一緒でないと駄目でしょう?」
窘める声は、ぞっとするような甘さを孕んで。
「そうだね。一緒にいるよ。これからもずっと」
目を閉じる。
この永遠に続く夢の終わりを待ちながら、彼女の抱擁をただ受け容れた。
20241205 『夢と現実』
大きな背。
それが少年の見た、彼女の最後の姿だった。
大人達の険しい話し声を、彼女の背越しに聞いていた。
何を話しているのかは分からない。けれど時折聞こえる怒鳴り声や彼女を責め立てる声から、その内容が決して穏やかではない事を少年は感じていた。
不意に会話が途切れる。振り向いた彼女は凪いだ微笑みを浮かべて身を屈め、少年の頭をそっと撫でた。
「巫女様?」
彼女は何も言わない。ただ微笑み一つを残して身を起こし、村の奥へと歩き出す。
誰も何も言わない。彼女を止める者もない。
急に怖くなり、少年は早足で彼女に追いついて袖を引く。今までならば気づいて止まってくれていた彼女は、何故か歩みを止める事はなかった。
不気味な静寂の中、彼女は迷いなく歩みを進める。袖を引く少年の歩幅に合わせ、幾分かその速さは穏やかになってはいるが、それでも立ち止まる様子はない。
彼女と少年の後。離れて大人達がついて歩く。複数の足音が、どこか耳障りに少年の鼓膜を揺すった。
彼女が立ち止まる。どうやら彼女の目指していた場所に着いたらしい。
俯いていた少年が彼女を見上げ、そして目の前の淵を見る。
ざあざあ、と奥の小さな滝が立てる音を、どこか夢心地で聞いていた。
彼女の手が袖を引いたままの少年の手を離す。名残惜しげに彼女を追う手に背を向けて。
「左様ならば、仕方ない」
凜とした別れの言葉と共に、彼女は躊躇いなく淵にその身を沈めた。
「どうしたの?」
柔らかな声に顔を上げる。
見上げた先には、少年の姿。蹲り泣く幼子よりは幾分か年上に見える彼は、心配そうに身を屈めて幼子に手を差し出した。
「麓の子かな?こんな所まで来てはいけないよ」
優しく窘められて、幼子の目からは新たな滴が溢れ落ちる。しゃくり上げながら、ごめんなさい、と謝れば、少年は小さく笑って大丈夫だと、頭を撫でた。
「おいで。麓まで送ってあげる」
少年に促され、幼子は少しよろけながらも立ち上がる。
手を引かれ、そのまま歩き出そうとして。
「?」
少年に引かれている手とは反対側。
袖を引かれた、気がした。
振り返る。けれどそこには誰もいない。
「どうしたの?」
少年が不思議そうに小首を傾げ問いかける。それに何でもないと首を振って、幼子は少年に連れられて歩き出した。
「ここはね、巫女様の眠る淵があるんだよ。だから巫女様の眠りの邪魔をしないように、誰も入ってはいけないんだ」
幼子の手を引きながら、少年は語る。
この先にある淵には巨大な毒蛇が住むと言われており、その毒蛇を鎮めるために、昔旅の巫女が人身御供として淵に身を沈めたのだと。
少年の話を聞いて、幼子は不思議に思う。
誰も入ってはいけないのならば、何故少年はこの場所にいたのだろうか。
それは聞いてもいい事なのか。幼子には判断がつかない。
不用意に聞いて、少年は怒りはしないだろうか。聞いた事でもしもこの場に置いていかれでもしたら。
そんな不安が幼子の口を閉ざす。少し前を歩き、手を引く少年の後ろ姿を静かに見つめていた。
その視線に気づいたのだろう。あぁ、と小さく頷いて、歩きながらも振り返り、幼子に笑いかける。
「きみみたいに、迷い込んでしまった人の案内をするのが、ぼくのお役目なんだ」
管理人みたいなものだよ、と少年は明るく告げてまた前を向くが、そういえば、と何かに気づき立ち止まった。
一歩遅れて幼子も立ち止まる。
「一つ言い忘れてた。ここでは別れの言葉を言ってはいけないよ」
振り返る少年の表情には、もう笑みはなく。真剣な眼差しに、どうして、と幼子は首を傾げる。
「巫女様にはね。大切にしていた子がいたのだけれど、その子のお別れの言葉を聞く前に眠ってしまったんだ。だから別れの言葉を聞くと、その子がお別れを言いに来たのだと勘違いをして巫女様が来てしまうよ」
そうなのか、と。あまりよく分からないままに幼子は頷く。
素直な幼子に笑みを返して、少年はまた幼子の手を引き歩き出した。
「このまま真っ直ぐ行けば、戻れるよ」
木々の合間を抜け、獣道を辿り。
少年に手を引かれ歩き続けて、ようやく広い場所に出た。
ほぅ、と安堵の息が漏れる。長い道のりは幼子の体力を大分削ってはいたが、あと少しだという思いが、幼子の足を前に進ませる。
手が離される。それが少しだけ寂しいと、幼子は名残惜しげに己の手を見つめた。
少年と出会ってから、さほど時間が経っている訳ではない。だが少年と過ごした時間は、幼子にとってとても楽しいものであった。
離れがたいと思ってしまうくらいには。
「気をつけて。もうここに来てはいけないよ」
柔らかく微笑んで背中を押す。
少年の言葉を寂しく思いながらも、おとなしく頷いた。
「左様なら。元気でね」
手を振る少年に、同じように手を振り替えして。
「ありがと。さよなら」
別れの言葉を、口にした。
ざわり、と響めく風の音。
ざわり、ぞわり、と木々を揺らし、草葉を鳴らして。
がらり、と空気を変えた周りに、幼子の唇から声にならない悲鳴が漏れた。
先ほどまで優しい笑みを浮かべていた少年から、表情が抜け落ちる。
「言ってしまったね」
静かな呟き。その声音は、今まで手を引いてくれていた少年のものとは思えぬほどに冷たく響いて。
ぞくり、とした恐怖がこみ上げて、逃げようと背後を振り返る。
「ぇ?」
そこに道はなかった。
鬱蒼とした木々が生い茂り、あったはずの帰り道はどこにも見えない。
呆然とする幼子の耳に、ざあざあ、と水の落ちる音が響く。
はっとして辺りを見回せば、そこは先ほどいた場所ではなくなっていた。
「別れの言葉は口にしてはいけないと、言ったはずなのに」
無感情な声が響く。
恐る恐る振り返り見た少年の背後。淵の奥にある滝がざあざあ、と音を立てる。
なんで、と震える唇で、幼子は声も出せずに呟いた。
なんで。どうして。
少年が先にさようならを言った。だから大丈夫なのだと思って。
疑問ばかりがこみ上げる。恐怖で滲む涙で、周囲がぼやけていく。
ざり、と地を擦り、少年が一歩足を踏み出す。思わず後退る幼子の体は、けれど何かにぶつかり下がる事はなかった。
冷たい、濡れた感覚。頭に、肩に落ちる、いくつもの水滴。
「左様ならば、仕方ない…そうでしょう?巫女様」
少年が口元を歪めて嗤う。
背後から伸びた、鱗に覆われた白い腕が幼子を閉じ込め。
促されるようにして見上げる幼子の視線の先。
濡れた長い髪を無造作に垂らし、見下ろす表情の抜け落ちた美しい女と。
目があった。
「おいしかった?巫女様」
膝に頭を乗せ眠る大蛇を、少年は優しく撫でる。
二刻もあれば全て消化され、目を覚ます事だろう。
「人間はいつも約束を破ってばかりだね」
呟きながら、鬱蒼と生い茂る木々へと視線を向ける。
そこにはかつて道があり、その先には小さな村があった。
今は無い。村があった事すら覚えている者はいないだろう。
「巫女様との約束を破らなければ、今もあの村はあったのかな」
無理だろうな、と少年は嗤う。
村の者は約束を守るつもりなど、最初からなかったのだから。もしもを考えても意味のない事だ。
あの時。人身御供として立てられたのは、少年だった。
身寄りのない、悲しむ者のない子供。食い扶持を減らす、口実もあったのだろう。
――私が鎮めましょう。代わりに子を生かして下さい。
それを見越して、巫女は村の者と取引をした。彼らを信じて、子供を託した。
だが結局は。
数年後には、巫女と同じように子供は淵に沈められ。
巫女の怒りに触れた村は、一夜にして焼き尽くされた。
「仕方がない。約束を破ってしまったのだから」
村の者も。先ほどの幼子も。
約束を、契約を違えたのだから、その咎を受けるのは仕方のない事だ。
くすり、と嗤う。
少しだけ、可哀想だな、と他人事のように思った。
「最初から帰す気なんてなかったって知ったら、あの子は何を思うかな。帰り道のふりをして巫女様の所へ連れてきて、わざと別れの言葉を口にさせたなんて」
ねぇ、と隣に視線を向ける。
少年と同じ見目をした幻が、声なく泣いていた。
20241204 『さよならは言わないで』