腕を伸ばす。
伸ばした先には何もなく。その腕すら視界に捉える事は出来ない。
暗闇。ただ一面の黒は輪郭を曖昧にして、己が今立っているのか横になっているのかすら分からなくさせる。
腕を伸ばしていた、はずだ。だがこの闇の中では、本当に腕を伸ばしたのか、伸ばしたと思っていただけなのか、判断がつかない。
そも、己は目を開けているのだろうか。
「――」
声を上げた、はずであった。
しかし声は形にならず、吐息すら音を伴う事はない。
静かだ。闇と相俟って、己の存在すら曖昧になっていくような錯覚を覚える。
このまま闇に解けていくような。己という存在が闇と混じり、広がっていくような。
不思議と恐怖はない。この闇は怖ろしいものではないのだと、知っている。
あるのはただ、安堵にも似た心地良さだけだ。
「――」
音にならぬ言葉を呟く。腕を伸ばして、身を委ねる。
暗く静かなこの闇は、とても暖かい。
ふと、気づく。
この闇は、似ているのだ。己を抱き上げる、あの優しい腕の温もりに。
口元が笑みの形に緩む。微睡みのような穏やかさに、目を閉じた。
「満月《みつき》」
柔らかな声が聞こえて、目を開けた。
暗闇の中。針のように細い光が一つ見えた。
「満理《みつり》」
呟いた声は、何故か遠く。
聞こえたのは確かに、己の声音であった。それが遠く聞こえるならば、己の声が己以外の唇から紡がれている事を示している。
「満理」
名を呼ぶ。
己の声音を持って己以外の唇から紡がれるその響きは、甘い熱を孕んで鼓膜を揺する。
くすり、と思わず笑みが溢れる。その声すら誰かの唇から溢れるのだから、面白い。
「満理」
繰り返す。その甘い響きを堪能する。
己が斯様な思いを込めて名を呼んでいる事が、何故だか嬉しいと感じていた。
かさり、と紙の音。
針のような細い光が広がり、合間から広がる星空が見えた。
かさり、びり、と何かを剥がす音がして、その度に空が広がっていく。
思わず腕を伸ばす。指先が星空の下、淡く微笑む彼の頬に確かに触れた。
「満理」
名を呼べば、彼の唇から己の声が紡がれる。
くすくすと、笑う声。己のそれとは異なる、綺麗な声音。
「斯様に呼ばずとも、私はここにおりますよ。満月」
ゆるく細まる深縹に、微睡んでいた意識が覚醒した。
「離してくれ」
「何故?求めていたのは満月ではありませぬか」
「頼む。しばらく一人にさせてくれ」
逃げだそうとした体は、それより早く術師の腕に引き寄せられる。
頬が熱い。羞恥に溶けてしまいそうだ。
「満月は私のものに御座いましょう。一人になぞなれぬと分かっているでしょうに」
抱き上げられて間近に見る深縹が、愉しげに歪む。
それでもどこか優しい色を湛えて、満月、と名を呼んだ。
「試しと符を張ってはみましたが、満月が寂しいと啼くのであれば他の手法を考えねばなりますまい」
「別に、私は寂しいなどとは」
目を逸らす。
寂しい訳ではないが、名を繰り返した理由を告げるのは気恥ずかしい。
横目で伺い見た術師は少女のような美しい笑みを浮かべて、己の言葉の続きを待っている。
全てを知って敢えて言わせようというのだから、本当に質が悪い。
「満理は随分と酷い男になったものだな。少し前までは母のようであったというのに」
機嫌を損ねると分かっていながらの戯れ言に、術師は何も言わず。
諦めて逸らしていた視線を向けた。
以前は抱き上げられて尚、見上げるしかなかった幼い己の体は、今こうして僅かに見下ろすまでに成長している。
その事実が、少しばかり惜しい。成長し、何れ抱き上げられなくなる事で離れていく、その距離を手放し難いと思っている。
「寂しい訳ではない。符を張られていた時は、寂しくはなかった」
暖かな暗闇。見えずとも、聞こえずとも、その温もりは他の何よりも己を心穏やかにさせる。開く距離と共に失っていくものの中で一等手放したくないものだ。
「もういいだろう。これで勘弁してくれ」
抱く腕を叩き、下ろせと伝える。
それでも一向に下ろす気配のない術師を睨めつければ、宥めるように背を撫でられ、そのままさらに引き寄せられた。
術師の首元に凭れる状態に離れようと藻掻くが、静かで柔らかな声に動きを止める。
「満月にその姿は、少々早かったのやもしれませぬね。戻す事は出来ぬ故、せめて今暫くは留めておく事に致しましょう」
「満理?何を言って」
言葉の意味を分かりかね、身を起こして術師を見る。
だが問う言葉は、最後まで形にはならず。
柔らかな深縹が揺らめく。静かに意識が沈んでいく。
「眠りなさい。深く、夢も見ぬほどに」
縋るように伸ばした手が繋がれる。その温もりにほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
暖かい。
けれど温もりに安堵しながらも、何故かその触れ合う距離ですらもどかしいと、泣いてしまいたかった。
眠りについた少女の目尻をなぞる。指先を伝って落ちる滴を見つめ、息を吐く。
さて、どうしたものか。
妖の血を濃く継ぎ歪で眠り続けていた少女が、徒人より成長が早い事は分かっていた。だが精神は異なるらしい。
術師を度々母と呼ぶ事を、少女は嫌がらせだといった。だがその実、少女の目は強く母を求める幼子の色を湛えていた。
抱き上げる度に、安堵に蕩ける眼差し。背を、頭を撫ぜれば擦り寄り笑うその表情は、幼子が親に甘えている時のそれだ。
「満月」
幼子のような、それでいて時折大人びた言動を取る少女の名を呼ぶ。
それに答えるように僅かに口元を緩ませ、少女は無意識に術師へと擦り寄る。その幼い仕草に、術師は目を細めて微笑った。
「温もりを母と違えるほど幼い満月には、妖の血もその眼も、過ぎたるものに御座いましょう。負担にしかならぬのであれば、封じてしまうが最良か」
濡れ縁に少女を下ろし、その体に呪符を貼り付けていく。
封印符。しかし先ほど少女に貼り付けたものよりも強く、多く。
「まさか私の影の中を好むとは思わなんだ。本当に満月は見ていて飽きぬ」
そうして封じられた少女を優しく抱き上げて。
おやすみ、と声をかけ、少女の体を己の影へと沈めていく。
「機を見て式へと移しましょう。それまでゆるりと休むがよいでしょう」
沈んだ少女に声をかけ、術師は屋敷へと足を踏み入れる。
少女の眠る間に、彼女に見合う形代を作らなければならない。
部屋へと戻る道すがら、穏やかに眠る少女の気配を近く感じて、くすりと笑う。
「それにしても。満月も存外欲張りなのですね。触れ合う距離すら遠いと泣くくらいには」
少女が聞けば、間違いなく頬を染めて逃げ出すだろう戯れを呟いて。
己も然程変わらぬか、と術師は苦笑し己の影を見下ろした。
20241202 『距離』
「どうして」
「ごめんね」
問いかければ、眉を下げ困ったように微笑みながら謝られる。
謝ってほしいわけではなかった。逆に謝らなければいけないのは自分の方だったのに。
恐る恐る触れる指先は、氷のように冷たくて。
泣きたいのは彼なのに、どうしても泣く事を止められなかった。
「泣けよ。泣いてくれよ」
しゃくり上げながら願っても、彼は微笑んだままだ。
「泣きたいのはお前だろ!なんで」
「ごめんね」
謝る声に、違う、と唇を噛みしめる。
彼は泣かないんじゃない。泣けないのだ。
自分が、そうした。
昔、泣き虫だった彼に、泣くなと何度も言い聞かせた。
彼を庇って事故にあった時だって、目の前で泣き続ける彼に対して泣くなと言って。
自分のせいだ。
あの時から彼が泣いた所を見た事はなかった。
「俺が悪かったから。なあ、だから泣いてくれよ」
ごめん、と彼がまた繰り返しそうになるのを、手を強く握る事で止める。
「こんな時くらい泣けよ。泣かないんだったら、諦めないでくれ。生きる事を、そんな簡単に笑って諦めるな」
無茶を言っている自覚はある。
呆れるくらい我が儘なのも分かっている。
泣くなと言い続けてきたのに、今更泣けなどなんて酷い事を言っているのか。
それでも願わずにはいられなかった。彼が怒らない事に甘えて、ひたすらに泣いてくれ、と繰り返した。
「泣かないで」
静かな声に、肩が跳ねる。
恐る恐る見上げる彼の表情はとても穏やかだ。それがとても悲しくて、また涙がこみ上げる。
「ごめんね。でも泣きたいとは思わないんだ」
「それ、は。俺がっ」
「ううん。今ね、本当に穏やかなんだ。僕のためにこうして泣いてくれる親友がいて、最期まで一人じゃないのがすごく幸せで」
だから泣けないのだと。
幸せそうな笑顔に、何も言葉が出てこない。
「でも何だかすごく不思議。泣いてくれるのがとても嬉しいって思うのに、それと同じくらい泣いてほしくないって思ってる。あの時、泣くなって言われたのはこんな気持ちだったからなのかな」
笑顔のまま彼は首を傾げる。
違うのだと、言ってしまえればよかった。あの時のはただの八つ当たりだったのだから。
二度と会えなくなるかも知れない事に、不安で、怖くて。
だから今のその、優しい気持ちでは決してないのだと。
けれど伝えようとしても、口から溢れるのは泣く声ばかりで。違う、の一言すら出てはこない。
「泣かないで」
柔らかな声が繰り返す。
冷たい指先が、涙を拭っていく。
「もう僕の事は忘れていいよ。今の涙だけで十分なんだ。これ以上はもっと、って夢を見たくなっちゃう」
「いいじゃん。夢、見ろよ。諦めないでくれよ」
諦めないでほしい。
そのために出来る事があるならば、どんな事だって協力するのに。
そう思いを込めて見上げれば、彼はやはり困った顔をしながら笑った。
「俺。頑張ったんだ。もう二度と歩けなくなるかもしれないって言われて、すごく怖かった。でも、もう一度お前の隣に立ちたかったから、頑張ったんだよ」
「うん、知ってる。僕のせいなのに何も出来なくてごめん」
「謝ってほしいわけじゃない。でも俺に悪いって思うんなら、諦めるなよ」
酷い言い方だ。これでは脅しと変わらない。
けれど仕方がない、と。笑って諦めてしまう彼を繋ぎ止めるのなら、手段を選ぶつもりはなかった。
睨むようにして彼を見る。
冷たい手を、強く握った。
「諦めなくても、元通りにはならないんだ。たぶん一生このまま。もう隣に立つ事は出来ないんだよ」
「じゃあ、会いに来るよ。元通りでなくてもいい。足りないなら、その部分を俺が補うから」
息を呑む音がした。
笑顔が崩れて、ようやくくしゃり、と泣くように顔が歪む。
「駄目だよ。それじゃあ、僕に縛りつける事になる。それは嫌だ」
「一緒にいたいんだよ。嫌なんて言わないでくれ」
泣きそうな顔をしながら、彼は首を振る。
嫌だ、と繰り返す彼に、どうして、と縋り付いた。
「だって諦めない限り、不安になるよ。明日が怖くなる。もう会いに来てくれないかもしれない、って考えるだけで、苦しくて。離れられなくなる」
「そんな事ない!絶対に会いに来る。誓ってもいい」
彼の小指に、小指を絡める。
指切り。こんな子供だまし、約束にもならないのかもしれないけれど、これしか伝える方法を知らなかった。
「なんでそこまでしてくれるの?僕、奪ってばっかなのに」
ぽつり、と。呟いた彼の言葉に、目を瞬く。
彼は自分から何か奪っていっただろうか。思い返しても、記憶にはない。
「なんでって…俺ら親友だし。ライバルだし。奪われた事もないし」
「足。奪いそうになったよ。それから、時間」
確かに。理解はしたが、納得は出来ず。
奪われたつもりはない。戻るために諦めなかった時間も、そしてこれからの時間も、自分で決めて選んだ結果だ。
「馬鹿。そんな変な事考えているなら、いっそ泣いちゃえよ」
泣きそうな顔をしながらも涙を見せない彼に、笑って告げる。
「俺はこれまでも、これからもお前を一人にしない。絶対にだ。だからお前も諦めるな」
涙のない彼の目を見て、はっきりと言葉にする。
泣くように笑う彼は、やはり涙を流さなかった。
「酷いな。でもそこまで言われたら仕方ないや。もう少し、頑張ってみるよ」
「おう。頑張れ。それで泣いてしまえ」
「泣かないよ。目の前でずっと泣かれると泣けないものだからね」
くすくすと笑う声。
涙を拭う指が、自分がまだ泣いていた事を教えていた。
「泣かないで。会いに来てくれる限りは頑張るから」
「分かってる。泣き止むから、そしたらちゃんと泣けよ」
目をこする。それでも止まる事のない涙に。
彼が声を上げて、楽しそうに笑った。
20241201 『泣かないで』
「季は滞りなく移っている。目覚めの春が訪れるまで、確とこの壬《みずのえ》が全てを眠らせ留まらせよう」
内に灯る温もりが消え。秋から冬へと季が移った。
ほぅ、と息を吐く。此度も無事に役目を終えられた事に安堵した。
「また、ね。お役目、頑張って」
「あぁ。庚《かのえ》も、次の役儀まで休むといい」
淡々とした声音ではあるものの、頭を撫でるその手は変わらず優しい。
小さく笑みを溢し別れを告げて、くるり、と振り返った。けれどそこに在るはずのものは何処にも見えず。
息を呑む。こみ上げる不安に、ただ狼狽えるしか出来ない。
「何かあったか」
「帰り道が」
怪訝な声に、震える声で一言を返す。
「道が開かぬのか。まぁ、よくある事だ。心配せずとも時期に開く」
「でも」
落ち着いた声が、案ずるな、と宥めるように背を撫でる。
それでも不安は消える事なく胸の内に燻り続けて、耐えきれずに傍らの温もりに縋りついた。
初めての事だ。少なくとも己にとっては。
夏や冬とは違う。四節の中でも強いこの二季は、季を移しても影響が残りやすく、そのために道が開かない事は珍しくはない。
秋とは違うのだ。もたらした実りを、人間は収穫し終えている。あとはもう目覚めが来るまで眠るだけ。
秋はすでに役割を終えてしまっている。季も冬へと移っている。それなのに、帰るための道は開かない。
「このまま他の皆のように、わたしも消えてしまうのかな」
知らず溢れ落ちてしまった言葉に、はっとして口を塞ぐ。
考えないようにしていた事だった。けれどどうしても考えてしまう事でもあった。
「消えぬだろう。庚が最後の秋だ。秋が消えれば四節は崩壊し、世界が終わる」
「でも今までこんな事はなかった」
背を撫でる手が止まり、代わりに抱き上げられる。
「案ずるな。道が開くまでは壬が庚を守るのだから、不安に思う事はない」
間近で見るその目は、冬のように静かで優しい。
その目に写る己の不安そうな表情がその優しさに溶けて、少しだけ笑う事が出来た。
「ありがとう」
「庚のためだ。問題はない」
当然だと告げる言葉に、ありがとう、と繰り返す。
最後に残ったのが壬で本当によかった。不謹慎ながらにそう思う。
他の冬よりも己に甘く、何かと世話を焼いてくれていたのが壬だった。兄弟に手を引かれ、緊張しながらも初めて壬に季を移した事を、懐かしく思う。
ふふ、と小さく溢れた笑う声に、静かな目が問いかける。
「何でもない。昔の事を思い出していたの」
「そうか。壬も覚えている。庚はよく泣いていたな。今は泣かなくなったのだから、しっかりと成長している。喜ばしい事だ」
「それは忘れていて」
恥ずかしさで、頬が熱を持つ。
自覚はないのだろう。意味を分かりかねて首を傾げるその姿に、それ以上は何も言えなくなってしまう。
「庚は忙しないな。こうして長く語り合う事はなかった故、気づきもしなかった」
「今までは、季を移したらすぐに戻っていたから」
「そうだな。だが、悪い事ではないと壬は思っている」
意外な言葉に目を瞬く。
そのような酷い事を、己以外が思う事などないと思っていた。
「庚。望もうと、望むまいと世界は終わりを迎える。或いは既に終わっていたのかもしれん。壬ら、異端がなくば四節は疾うに停滞していた」
「異端?」
言っている意味が分からず、今度は己が首を傾げた。
己が異端であると言われるのは理解できる。役目に疑問を持つ己は、異端でしかない。
けれど壬は、他の残った季は役目に疑問を持つ事などないだろうに。
「そうだ。壬は己を壬と認識している。そして庚や甲《きのえ》を季ではなく、個として認識している。庚や甲、おそらくは丙《ひのえ》も同じだろう」
「個として、認識」
「故に人間から認識されずとも、壬は消える事なくここに在る…だがそれも限界なのだろう」
あぁ、と限界の言葉の意味を理解して、目を伏せる。
ひとりきりでは限りがある。帰る道も開かない。
世界は緩やかに、静かに、終わってしまったのか。
「庚。話をしよう。壬は庚を知りたい。その絶えず変化する感情の意味を教えてくれ」
「お話」
「道が開くまでで構わない。庚は何に泣くのか気になっていた。壬に聞かせてくれ」
何を話せばいいのだろう。泣いていた昔を思い返す。
あの時はただ不安だった。己に季を移す事など出来るのか、怖かったのだ。
「泣いていたのは、昔の話だから。あの時はひとりで季を移す事になれていなかったから、不安だっただけで。今は、泣いてない」
今は泣かなくなった。少なくとも誰かの前では泣いてはいない。
誰かがいれば淋しくはないのだから。
伏せていた目を上げる。近い目が優しく細められて、庚、と呼んだ。
適わないな、と諦めて笑う。
「ひとりになると淋しくなって、このままひとりきりで消えてしまうような気がして怖くなって、泣くの。誰かといれば泣かない。もしそこで消えてしまっても、ひとりじゃないから」
「淋しいのは怖いか」
「怖いし、嫌だ。昔も、今も。ずっと」
「そうか」
ではこうしよう、と静かな声が囁く。
「このまま道が開かぬのならば、消える前に壬が庚を眠らせよう。眠る庚と共にいよう」
「ずっと一緒?」
「あぁ、そうだ。淋しくはないだろう」
確かに、一緒ならば淋しくはない。
その優しさが嬉しくて、少しだけ気恥ずかしくて。誤魔化すように首に腕を回して擦り寄った。
「ありがとう。壬」
お礼を言えば、頭を優しく撫でられる。
「庚は淋しがりなのだな。新しく庚が知れた」
穏やかな声に気恥ずかしさが増すが、撫でる手の心地よさに聞こえないふりをした。
「他にも教えてくれ。庚が知りたい」
「いいよ。その代わり、壬の事も教えて」
知りたいと思っていたのは、己も同じだ。
答えの代わりに、頭を撫でていた手が離れ、くるり、と指先で宙に円を描く。
ひゅう、と風が吹き抜ける。
秋とは違う、その鋭い冷たさと匂いに。
初めて、冬を知った。
20241130 『冬の始まり』
くらり、と歪む世界。
近づいてくる終わりに、あと少しと歯を食いしばり耐える。
ここで終わる訳にはいかない。せめてあと一月耐えなければ意味がない。
途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら、ゆっくりとベッドを抜け出した。
「何してんのよ!」
がちゃり、とドアの開く音とほぼ同時に、強く憤る声がした。
ベッドから抜け出し、そのまま崩れ落ちていた自分の元へ駆け寄ると、華奢な白い手が強く肩を掴む。
「そんな死にそうな顔して、どこに行こうとしたのよ!」
顔を上げる。怒りに歪んだ表情をした妹に大丈夫だと、必死に笑ってみせた。
だがそれがさらに彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。眦をきつく吊り上げ、許さない、と睨めつけられる。
「勝手に抜け出そうとした事、おにいちゃんに言いつけてやるんだからっ!」
それは止めてほしい。
震える指で、妹の服を掴んで引き止める。簡単に振りほどけるだろうか細い力ではあったが、立ち上がりかけていた妹を留める事が出来た事に安堵した。
兄の事は、少しだけ苦手だ。
強い目が、あの全てを見通すような鋭い眼差しが、怖い。
家族の中で、一番最初に自分のこれに気づいてしまったのが兄だった。気づかれなければ、きっと今頃終わるための用意が出来ていたはずだったのに。
「言いつける必要はねぇな。ここにいるから」
ドアの前。聞こえた静かな声に、思わず肩が跳ねる。
「おにいちゃん」
振り返る妹が嬉しそうに立ち上がる。移動した事で近づく兄の姿が視界に入り、ひ、と声にならない呻きが漏れた。
「また抜け出そうとしたのか。今度はどこに行くつもりだったんだ?」
優しい声音。笑みを浮かべながらも、その目は鋭さを湛えて。
その目に怯えて後ずさりしそうになる体は、しかし背後に回った妹に抱き竦められて動けない。
「どうした?何がしたかったんだ?」
身を屈めた兄の冷たい手が頬に触れる。
引き攣った喉から声は出せず。僅かに首を振って何もないと答えれば、そうか、と兄は愉しそうに笑った。
「そういや。お前のそれ、ようやく原因が分かったぜ」
触れるだけだった兄の両手が頬を包み、視線を合わせられる。笑みを浮かべながらも、その目には隠しきれない怒りの感情が渦巻いていて、ただ怖かった。
「形代」
目を見開いて、息を呑んだ。
「お前の事だから、家族の中の誰かだろうなぁ。俺ではないし、お袋や親父も違う…なら、残りは一人だけだなぁ」
額を合わせて、静かに言い聞かせるようにして囁かれる。
言い逃れは出来ない。それが出来る段階は、疾うに過ぎてしまっていた。
「たしか、十年くらい前だったか?お前らが神隠しにあったのは。戻ってはきたが、お前は泣いて話も出来ねぇし、こいつはずっと眠ったまんまだったし…一体、あの時何があったんだろうなぁ」
「ぁ…ごめ、な、さ……」
兄の鋭い視線に耐えかねて、謝罪の言葉が口から溢れ落ちる。
意味がないと知っている。けれど恐怖に混乱する思考では、それしかもう言葉には出来なかった。
「何謝ってんだ?悪い事でもしていたのか?なら、お兄ちゃんに何したか、全部教えてくれるよな」
兄の瞳孔が猫のように広がっていく。焦点も合わぬ程近いその目の中で、あの時の自分達の姿が浮かび上がる。
妹に手を引かれて入り込む森の中。止めようと引いた手は逆に振り払われ、駆けだしていく妹の小さな背中。追いかけるその先にあった、朽ちた鳥居。
まるで映画のように、あの日の記憶が兄の目の中で流れて行く。その先を見たくはないのに、目を逸らす事も閉じる事も許されない。
鳥居を抜けた先。急に訪れた夜の暗闇を手探りで進んで、辿り着いた場所。朽ちて形を留めていない社と、その奥にある巨大な古木。
たくさんの誰かが吊されて、取り込まれているのが見えた。
そしてその古木の根元にいた、意識のない妹の姿。
駆け寄って、肩を揺すっても起きない妹を必死に抱え上げた。来た道を戻るために、数歩歩き出し。
最後に見えたのは、妹に向かい伸びる鋭い枝。
咄嗟に妹に覆い被さって、そこで何も見えなくなった。
「良い子だ。怖かったなぁ」
離れていく兄をただ見つめる。離れても焦点が合わない事を不思議に思っていれば、ぐい、と後ろに体が引かれ今度は妹と目を合わせられる。
「ちょっと、おにいちゃん。あんまりおねえちゃんを泣かせないでよ」
目尻を拭われ、妹の唇が触れる。焦点が合わないのは、泣いていたからだと気づいた。
「可哀想なおねえちゃん。大好きよ…でも、許さないから」
激しい怒りを湛えた目をして、妹は笑う。
「おねえちゃんはもう、あたしとおにいちゃんのものにするわ。だからその命、勝手に終わらせようとする事は許さないから」
「そうだなぁ。俺らが何にも言わないのをいい事に、ここまでぼろぼろにしちまったんだ。寂しがりのくせにこのまま一人きりで終わらせるってなら、俺らがもらって終わらないように大事にしまって置くしかないわなぁ」
妹の指に顎を掬われ、兄に向けて喉を晒される。嫌な予感に逃れようと藻掻くものの、弱りきって自由にならない体は妹の細い指一つ振りほどく事が出来ない。
「そんなに怯えんな。少し痛いが、今よりは楽になるから」
兄の指が喉を撫で上げ、唇を寄せる。止めて、と願う声は形にはならず、悲鳴に成り代わった。
痛い。食い破られてしまいそうな、痛み。そして体に溜まった澱みを吸い上げられていく感覚。
耐えられず目を閉じる。止めようと、縋ろうと彷徨う手はそれぞれ二人に繋がれて、もう離れる事が出来ない。
「まあ、こんなもんか。時間稼ぎにはなるだろ」
兄が離れていく気配がする。けれどもう目を開ける気も、況してや逃げる気力もなく、そのまま妹にもたれ掛かった。
幾分か楽になった体が睡眠を欲しがって、意識を落としていく。
「しばらく戻れねぇが、良い子にしてろよ?」
「大丈夫よ、おにいちゃん。でも早く帰ってきてね。でないと、おねえちゃんだけじゃなくて、あたしも悪い子になってしまいそうだもの」
二人の声が遠い。
触れる熱が、微睡んだ意識をさらに深く沈めていく。
「あたしのためとか、終わるための言い訳は許さない。終わらせてなんかあげないわ。おねえちゃんはこれからずっとあたしとおにいちゃんのものだから」
「そうだな。これまでも、これからも三人一緒だ。約束したからな」
笑う声がする。
遠い昔。幼い頃の自分が寂しさに耐えかねて、泣きながら差し出した小指が。
酔いそうな熱を持ち始めた、そんな気がした。
20241129 『終わらせないで』
母は子供達を皆平等に愛していた。
誰か一人を愛でる訳でも、蔑ろにするでもなく。母は持てる全てを子供達に与え続けていた。
だが母である前に、彼女はただの弱き人であった。与えられるものは限りがあり、その両の手は子供達を守るにはあまりにも小さい。
だからこそ、時に取りこぼし切り捨てなければならない事は仕方がないと、誰もがそう思っていた。
母である、彼女以外は。
今日もまた彷徨い歩く彼女を見下ろして、彼は小さく息を吐く。
じゃら、じゃらり、と体に巻き付く鎖を鳴らしながら、腕を上げて風を起こす。風に体を押し留められ、木々の騒めく音に気づいた彼女の子供達に連れ戻されていく彼女を見届けて、いい加減諦めてほしい、とぼやいた。
彼女は子供達を愛している。それは痛いくらいに分かっている。
愛情だけで救い守れるものなど、ほんの僅かしかない。それも分かりきった事だ。
よくある話。
彼も零れ落ち終わってしまった者の一人だ。
仕方がない事だと、彼自身も分かっていた。
今でも思い出せる。
笑い合い、話す声。母と兄を上の兄と妹と一緒に待っていた。
どこかで響く爆発音。停電。悲鳴。
崩れ落ちてきた天井から、咄嗟に妹を庇えたのは奇跡に近かった。
妹を突き飛ばし、代わりに崩れた天井に巻き込まれた。
隣で泣きじゃくる妹と、瓦礫の向こう側の弟。
まだ子供の兄には酷な選択だった。けれど聡明な兄だったからこそ、正しく選ぶ事が出来たのだろう。
――助けにくるから。必ず戻ってくるから。それまで頑張れ!
泣きながらも告げた兄の言葉に何と答えたのか、彼はもう覚えてはいない。答える事すら出来なかったのかもしれない。
しかし引き止める事だけはしなかったと、それだけは断言できた。激痛に霞む意識の中、どうか戻ってこないでと願い続けていたのだから。
そのまま彼は終わりを迎えた。迎えたのだと思っている。今際に聞こえた母の声は、一人の不安が作り出した幻聴であると願っている。
たとえそれが、普段の母とは似つかぬ強く荒々しい言葉だったとしても。
皆が戻っていった事を確認して、ゆっくりと地に降りる。
じゃらじゃらと音を立てる鎖が煩わしい。肉体を失い魂だけとなった彼が未だにこうして現世に留まっているのは、この全身に巻き付く鎖が留めているからだった。
何度か訪れた迎えも鎖を解く事は出来ず、こうして今も彼はこの場所で一人鎖が解ける日を待ち続けていた。
「こんにちは」
「あぁ、また来てくれたんだ」
聞こえた声に振り返れば、いつも訪れてくれる常世の迎えのモノ。しかし今日はその傍らに見た事のない黒い男の姿があった。
「なんだこれは」
眉間に深く皺を刻み、男は不機嫌を隠しもせずに吐き捨てる。男の視線が鎖に向けられているのを見て、確かにこれは見苦しいものだな、と苦笑した。
「解けない。鋏にも切れなかった」
「当然だ。鋏で鎖は切れん」
嘆息し、男は彼に近づいていく。その手にはいつの間にか黒い刀が握られており、躊躇いもなく男は刀の鯉口を切った。
だが男の動きが止まる。眉間の皺はそのままに怪訝を浮かべた目が鎖の先、彼女達が去って行った方を見遣り細くなる。
「腕が足りんな」
腕、と言われ、彼は己の腕を見下ろす。そこに腕はある。しかし左腕だけだ。
言われて、初めて腕が一本足りない事を彼は認識した。
「鎖の先?」
「そうだ。ただの執着かと思ったが、これは反魂だろう」
反魂。魂を呼び戻し、死者を蘇らせる術。
何故、と彼は首を傾げる。そこまで求められる理由が、彼には思い当たらなかった。
あれは仕方がない事だった。時折聞こえてきていた大人の声も何度も言っていた。
仕方がない事だ。兄の判断は正しかった。残った子供達を大切にしてほしい。
最近は聞こえなくなっていたが、それはつまり納得したからだと思っていた。
少なくとも母以外は彼の死を乗り越えているだろうに、一体誰が。
「切るのは容易いが、最悪術師が死ぬな」
「それは、だめ」
「分かっている。人間の死に我らが関わるわけにいかぬのだから、しばらくはこのままにするしかないだろう」
舌打ちして男は踵を返す。咄嗟に引き止めようと伸ばした彼の腕は男に届く事はなかったものの、じゃらり、と耳障りな鎖の音に、男の足が止まる。
「あの。誰が、ぼくを」
やはり、母なのだろうか。
母は子供達を愛している。それは今も変わらない。
彼を取り戻そうと手を尽くしてくれるような存在は、母以外に思いつかなかった。
「貴様の血に連なる者だ。それも複数のな」
え、と。気の抜けた声が漏れた。
「貴様の一部は術師の元にある。それを縁に戻るのも、この地に留まるのも好きにしろ」
「術が解けたら、また迎えにくる」
「術師が死ぬまでの時間だ。そう長くはないだろう。もしも術師が化生に堕ちたのならば、その時は切り捨ててやろう」
そう言って、常世のモノ達は去って行く。
一人残された彼は、受け容れがたい事実に呆然と立ち尽くし。
「見つけた」
「お母さん!おお兄ちゃん!こっちだよ」
鎖を引かれた。
突然の事によろける体を支えるように、逃がさないと閉じ込めるようにして背後から大きな腕に抱き留められる。
「ちぃ兄ちゃん。わたしよりも小さくなっちゃった」
「あの時から変わんないんだろ。ま、これくらいが丁度いいよな。抱き心地いいし、可愛いし」
大人になった下の兄と妹がくすくすと笑う。二人のその右手に巻き付く鎖を見て、彼はびくり、と肩を震わせた。
何故、と混乱する思考で彼は必死に考える。意味が分からなかった。優しかったはずの二人に巻き付く赤色の鎖の先が、己の左右の足にそれぞれ巻き付いている事を認めたくはなかった。
「あぁ、こんな所にいたのか。随分探したんだそ」
低い男の声。
記憶にあるより、大きくたくましくなった上の兄を見上げた。やはりその右腕に巻き付くのは朱殷の色をした鎖。その先が己の左腕に巻き付いているのを見て、彼の目に僅かに怯えの色が浮かんだ。
口元を歪めて、上の兄が軽く鎖を引く。下の兄に抱き留められているためにその身が倒れ込む事はなかったが、己の意思に反して持ち上がった左腕を上の兄はそっと手に取り、唇を触れさせた。
「帰ろうな。父さんはいなくなってしまったけど、俺達がいるから寂しくはないだろう?」
何処までも優しい声音。それに底知れぬ恐怖を覚え、かたかたと体が震え出す。
「お母さん!おお兄ちゃんがちぃ兄ちゃんを怖がらせてるよ」
「怖がらせるつもりはなかったんだが」
「兄貴、大きくなったからな。見下ろされるのはけっこう怖いと思うぜ?」
「大丈夫よ。急に皆が来て少し驚いてしまったのでしょう。ずっと一人だったから安心したからかもしれないわね」
柔らかな、記憶のそれと変わりのない声。
そっと左腕が離される。背後から抱き留めていた腕が離れていく。
そうして微笑む彼女が――母が目の前に来て、そっと彼を抱きしめた。
抱きしめられる前に見えた彼女の右腕に巻き付く柘榴色した鎖の先は、きっと己の胴に巻き付いている事だろう。
「迎えにくるのが遅くなってごめんなさいね」
母は子供達を皆平等に愛していた。
そして子供達も母を愛し、兄弟を愛していた。
ただそれだけの事。少し違うのは、その愛情が他の誰よりも深く、重い事だけ。
父はいなくなったと兄は言った。彼女達を止めてくれる人はもう、誰もいない。
「迎えに来てくれて、ありがとう。おかあさん」
目を閉じて、彼は母の背に左腕を回す。
そのまま抱き上げられる。母が歩く度にじゃらじゃら、と鎖が音をたてた。
絡み付く鎖のような愛情は、あの時の瓦礫よりも重くのし掛かる。
諦め全てを受け入れながら、彼は密かにこの終わりが少しでも早く来る事を願った。
20241128 『愛情』