母は子供達を皆平等に愛していた。
誰か一人を愛でる訳でも、蔑ろにするでもなく。母は持てる全てを子供達に与え続けていた。
だが母である前に、彼女はただの弱き人であった。与えられるものは限りがあり、その両の手は子供達を守るにはあまりにも小さい。
だからこそ、時に取りこぼし切り捨てなければならない事は仕方がないと、誰もがそう思っていた。
母である、彼女以外は。
今日もまた彷徨い歩く彼女を見下ろして、彼は小さく息を吐く。
じゃら、じゃらり、と体に巻き付く鎖を鳴らしながら、腕を上げて風を起こす。風に体を押し留められ、木々の騒めく音に気づいた彼女の子供達に連れ戻されていく彼女を見届けて、いい加減諦めてほしい、とぼやいた。
彼女は子供達を愛している。それは痛いくらいに分かっている。
愛情だけで救い守れるものなど、ほんの僅かしかない。それも分かりきった事だ。
よくある話。
彼も零れ落ち終わってしまった者の一人だ。
仕方がない事だと、彼自身も分かっていた。
今でも思い出せる。
笑い合い、話す声。母と兄を上の兄と妹と一緒に待っていた。
どこかで響く爆発音。停電。悲鳴。
崩れ落ちてきた天井から、咄嗟に妹を庇えたのは奇跡に近かった。
妹を突き飛ばし、代わりに崩れた天井に巻き込まれた。
隣で泣きじゃくる妹と、瓦礫の向こう側の弟。
まだ子供の兄には酷な選択だった。けれど聡明な兄だったからこそ、正しく選ぶ事が出来たのだろう。
――助けにくるから。必ず戻ってくるから。それまで頑張れ!
泣きながらも告げた兄の言葉に何と答えたのか、彼はもう覚えてはいない。答える事すら出来なかったのかもしれない。
しかし引き止める事だけはしなかったと、それだけは断言できた。激痛に霞む意識の中、どうか戻ってこないでと願い続けていたのだから。
そのまま彼は終わりを迎えた。迎えたのだと思っている。今際に聞こえた母の声は、一人の不安が作り出した幻聴であると願っている。
たとえそれが、普段の母とは似つかぬ強く荒々しい言葉だったとしても。
皆が戻っていった事を確認して、ゆっくりと地に降りる。
じゃらじゃらと音を立てる鎖が煩わしい。肉体を失い魂だけとなった彼が未だにこうして現世に留まっているのは、この全身に巻き付く鎖が留めているからだった。
何度か訪れた迎えも鎖を解く事は出来ず、こうして今も彼はこの場所で一人鎖が解ける日を待ち続けていた。
「こんにちは」
「あぁ、また来てくれたんだ」
聞こえた声に振り返れば、いつも訪れてくれる常世の迎えのモノ。しかし今日はその傍らに見た事のない黒い男の姿があった。
「なんだこれは」
眉間に深く皺を刻み、男は不機嫌を隠しもせずに吐き捨てる。男の視線が鎖に向けられているのを見て、確かにこれは見苦しいものだな、と苦笑した。
「解けない。鋏にも切れなかった」
「当然だ。鋏で鎖は切れん」
嘆息し、男は彼に近づいていく。その手にはいつの間にか黒い刀が握られており、躊躇いもなく男は刀の鯉口を切った。
だが男の動きが止まる。眉間の皺はそのままに怪訝を浮かべた目が鎖の先、彼女達が去って行った方を見遣り細くなる。
「腕が足りんな」
腕、と言われ、彼は己の腕を見下ろす。そこに腕はある。しかし左腕だけだ。
言われて、初めて腕が一本足りない事を彼は認識した。
「鎖の先?」
「そうだ。ただの執着かと思ったが、これは反魂だろう」
反魂。魂を呼び戻し、死者を蘇らせる術。
何故、と彼は首を傾げる。そこまで求められる理由が、彼には思い当たらなかった。
あれは仕方がない事だった。時折聞こえてきていた大人の声も何度も言っていた。
仕方がない事だ。兄の判断は正しかった。残った子供達を大切にしてほしい。
最近は聞こえなくなっていたが、それはつまり納得したからだと思っていた。
少なくとも母以外は彼の死を乗り越えているだろうに、一体誰が。
「切るのは容易いが、最悪術師が死ぬな」
「それは、だめ」
「分かっている。人間の死に我らが関わるわけにいかぬのだから、しばらくはこのままにするしかないだろう」
舌打ちして男は踵を返す。咄嗟に引き止めようと伸ばした彼の腕は男に届く事はなかったものの、じゃらり、と耳障りな鎖の音に、男の足が止まる。
「あの。誰が、ぼくを」
やはり、母なのだろうか。
母は子供達を愛している。それは今も変わらない。
彼を取り戻そうと手を尽くしてくれるような存在は、母以外に思いつかなかった。
「貴様の血に連なる者だ。それも複数のな」
え、と。気の抜けた声が漏れた。
「貴様の一部は術師の元にある。それを縁に戻るのも、この地に留まるのも好きにしろ」
「術が解けたら、また迎えにくる」
「術師が死ぬまでの時間だ。そう長くはないだろう。もしも術師が化生に堕ちたのならば、その時は切り捨ててやろう」
そう言って、常世のモノ達は去って行く。
一人残された彼は、受け容れがたい事実に呆然と立ち尽くし。
「見つけた」
「お母さん!おお兄ちゃん!こっちだよ」
鎖を引かれた。
突然の事によろける体を支えるように、逃がさないと閉じ込めるようにして背後から大きな腕に抱き留められる。
「ちぃ兄ちゃん。わたしよりも小さくなっちゃった」
「あの時から変わんないんだろ。ま、これくらいが丁度いいよな。抱き心地いいし、可愛いし」
大人になった下の兄と妹がくすくすと笑う。二人のその右手に巻き付く鎖を見て、彼はびくり、と肩を震わせた。
何故、と混乱する思考で彼は必死に考える。意味が分からなかった。優しかったはずの二人に巻き付く赤色の鎖の先が、己の左右の足にそれぞれ巻き付いている事を認めたくはなかった。
「あぁ、こんな所にいたのか。随分探したんだそ」
低い男の声。
記憶にあるより、大きくたくましくなった上の兄を見上げた。やはりその右腕に巻き付くのは朱殷の色をした鎖。その先が己の左腕に巻き付いているのを見て、彼の目に僅かに怯えの色が浮かんだ。
口元を歪めて、上の兄が軽く鎖を引く。下の兄に抱き留められているためにその身が倒れ込む事はなかったが、己の意思に反して持ち上がった左腕を上の兄はそっと手に取り、唇を触れさせた。
「帰ろうな。父さんはいなくなってしまったけど、俺達がいるから寂しくはないだろう?」
何処までも優しい声音。それに底知れぬ恐怖を覚え、かたかたと体が震え出す。
「お母さん!おお兄ちゃんがちぃ兄ちゃんを怖がらせてるよ」
「怖がらせるつもりはなかったんだが」
「兄貴、大きくなったからな。見下ろされるのはけっこう怖いと思うぜ?」
「大丈夫よ。急に皆が来て少し驚いてしまったのでしょう。ずっと一人だったから安心したからかもしれないわね」
柔らかな、記憶のそれと変わりのない声。
そっと左腕が離される。背後から抱き留めていた腕が離れていく。
そうして微笑む彼女が――母が目の前に来て、そっと彼を抱きしめた。
抱きしめられる前に見えた彼女の右腕に巻き付く柘榴色した鎖の先は、きっと己の胴に巻き付いている事だろう。
「迎えにくるのが遅くなってごめんなさいね」
母は子供達を皆平等に愛していた。
そして子供達も母を愛し、兄弟を愛していた。
ただそれだけの事。少し違うのは、その愛情が他の誰よりも深く、重い事だけ。
父はいなくなったと兄は言った。彼女達を止めてくれる人はもう、誰もいない。
「迎えに来てくれて、ありがとう。おかあさん」
目を閉じて、彼は母の背に左腕を回す。
そのまま抱き上げられる。母が歩く度にじゃらじゃら、と鎖が音をたてた。
絡み付く鎖のような愛情は、あの時の瓦礫よりも重くのし掛かる。
諦め全てを受け入れながら、彼は密かにこの終わりが少しでも早く来る事を願った。
20241128 『愛情』
「37.3℃。微熱だね」
体温計に表示された数字を読み上げ、少年は呆れたように溜息を吐いた。
「微熱なら、大丈夫。起きてもいいよね?」
「これからもっと熱が上がるんだよ。おとなしく寝てて」
もぞもぞと起き上がろうとする少女を布団の中に戻しつつ。幼子のように頬を膨らませて拗ねる少女の目を手で覆い、内側からこみ上げてくる数多の感情に耐えるようにして唇を噛みしめた。
何故こんな状況になったのか。
少し前の自分を、少年は恨みがましく思う。
気まぐれに外に出なければ。記憶を辿って通学路を歩かなければ。
ふらふらと夢見心地で彷徨い歩く少女に、声をかけなければ。見て見ぬ振りが出来たのならば。
されるがままの少女を見下ろして、少年は幾度目かの溜息を吐く。噛んだ時に切ってしまったのか、ぴり、と唇に小さな痛みを覚えるが、それを気にしていられるほどの余裕は少年にはなかった。
「何で、戻ってきたの」
「なにが?」
ぽつり、と溢れ落ちた少年の言葉を、舌足らずな少女の声が問い返す。
目を覆う手が熱い。錯覚か、それとも本当に熱が上がってきているのかは分からない。
それでもこうして無抵抗に側にいて甘えて擦り寄るのは、少女が熱に浮かされているからなのだろう。
「まだ、わすれてくれないの?」
歌うような囁く声に、少年の肩が僅かに跳ねる。
「はやく、わすれてよ」
忘れてくれ、と強く願われるほどに嫌われているのか。そうまでして離れていきたいのだろうか。
訊かずとも分かりきっている答えに、少年は自嘲した。
分かっている。遠い過去の記憶の中の少年と少女の関係性は、穏やかさとは対極的なものであった。
敵対関係。勝者と敗者。殺した者と殺された者。
呪いにも似た過去が、ほんの僅かな期待すらも持つ事を許さない。
それでも、と少年は胸中で呟いて。泣くのを堪えるように口元に笑みを浮かべた。
「忘れてなんかやらない」
こみ上げる感情を必死で押し殺し、ただそれだけを伝える。
少女はきっと悲しむのだろう。忌々しい過去の亡霊が離れない事を嘆くのかもしれない。
少女は変わらず横になったまま。目を覆う少年の手に触れるだけで、退けようとする様子はない。
暫しの沈黙。
やがて少女の唇が、言葉を紡ぐためにゆっくりと開かれていき。
だがその声音は、少年が覚悟していた悲痛さは欠片もなく、穏やかでありながら幼い怒りを宿していた。
「わすれてよ。じゃないと、最初からができない」
最初から。その意味を分かりかねて、少年は眉をひそめる。
「何それ。何が最初なの?」
問いかける言葉に、少女はくすくす笑う。夢見るような弾んだ声音が、あのね、と囁いた。
「わすれたらね。つくえの中に手紙をいれるの」
何を言いたいのか欠片も理解出来ない。困惑する少年を置き去りに、上機嫌な少女の声がさらに続けていく。
「そうしてね。放課後の校舎の裏にきてもらったら、こくはくするの。『せんぱいのことが好きです。付き合ってください』って」
「待って。話が見えない。先輩って誰。もしかして、俺の事?」
「それで、付き合ったらね。いっしょに帰ったりして。途中の公園とかでおしゃべりしたりして」
「何で当然のように付き合ってる事になってんの。断られたらどうするんだよ」
え、と少女は純粋な疑問を乗せた微かな吐息を溢し。
不思議で仕方がない、と少し首を傾げて、なんでって、と呟いた。
「だって依和《いより》。断っても五回くらい付き合ってって言えば、頷いてくれるでしょう?」
至極当然だと言わんばかりの声だった。
「馬鹿。断られたんなら普通は諦めるんだよ」
「ん?なにか言った?」
見えていないと知りながら、少年は首を振る。
何も応えがない事に少女は、依和、と少年の名を呼ぶ。
何も知らなかった幼い頃から何一つ変わらないその響きに、責め立ててしまいたいような、泣き縋りたいような思いを抱え、少年はただ笑った。
「忘れてほしい?そんなに俺と放課後デートがしたいんだ」
「そうよ。それからおやすみの日にお出かけもしたいんだから。やりたいことがたくさんあるの」
「例えばどんな?」
「出かけるやくそくをしたら、せんぱいの好きな服はどんなのかな、とか考えて。なやんで、ちょっとわるいこと考えたりするの」
ふふ、と少女は笑う。片手を宙に彷徨わせ、思わず少年が目を覆う手とは反対の手で取れば、指を絡ませ引き寄せた。
「お出かけの日には少し薄着をするの。そうしたら、こうやって手を繋いでくれるでしょう?距離が近くなって、どきどきして…ねぇ、だからわすれて?」
手に擦り寄って、少女はわすれて、と繰り返す。少女の熱い吐息に酔いそうになるのを耐えながら、少年はでも、と口を開いた。
「あいつの事が好きなんだろう?」
「兄様?もちろん愛しているわ。愛して、いるの…忘れられない。わたしたちが生きていた事を、なかった事になっていくのが怖いから」
ぽつり、と溢れた囁き。消え入りそうな、不安を帯びた声音。
少女の目を覆う手を外す。熱で潤んだ瞳は、それでも真っ直ぐに少年を見据えていた。
「わたしたちは確かに生きていた。生きていただけだったの。兄様以外に従うつもりはなかったけれど、誰かを害そうとするつもりもなかった。それを忘れないで」
「熒《けい》」
一筋流れた滴を拭い、少年は少女の名を呼んだ。
それ以外に何かを言えるはずもなかった。
「忘れるわけにはいかないの。でも、依和はわすれて。わたしに優しい夢を見せてくれた大好きな依和は、わたしたちの事なんか全部なくして、幸せになって」
次々と溢れ落ちる涙をそのままに、少女は笑う。
笑いながら、泣きながらも手を離し、ゆっくりを体を起こした。
「ごめんね。今日のぜんぶは嘘だよ。熱に浮かされた夢の話。わすれてほしいのはほんとだけど」
ふらつきながら立ち上がる少女を、少年はただ見ていた。腕も足も縫い止められたように動かす事が出来ず。唯一縛られていない唇で、熒、と少年は静かに名を呼んだ。
「なあに?」
「忘れてなんかやらない。これ以上熒の好きにはさせたくないから」
「わすれてよ。今の依和には必要ないんだから」
膨れてそっぽを向く少女に、少年は口元だけで笑ってみせる。
遠い過去の記憶は、確かに今まで平穏に暮らしていた少年には重すぎるものだ。それでもすべてを思い出してから今まで、忘れてしまいたいと思った事はなかったのもまた事実であった。
「忘れない。でも先輩と後輩ごっこはしてあげてもいいよ」
だから戻っておいで、と声なく願う。
きょとり、と少女は瞬く。新しく溢れ落ちた滴が光を反射して、宝石のように煌めいた。
「いやよ」
囁く声は、柔らかい。
「忘れないなら、幼なじみのままがいい。一番近くにいられる関係がいいの」
ふわり、と笑って少女の姿が霞み消える。
それを見届けて、自由を取り戻した手に唇を触れさせて。
「本当に我が儘なやつ」
少女の熱が移ったように上がる己の体温を感じて、一人少年は笑った。
20241127 『微熱』
窓のない、暗い部屋。その中心にある巨大な水槽の中で彼女は生きている。
人でありながら水底でしか生きられなくなってしまった彼女は、自分の罪だった。
幼い頃。共に過ごした無垢な時は、今も鮮やかに輝いている。どんな時でも一緒だった、そして自分よりも少しだけ優れていた彼女に憧れて、そして妬ましく思ってしまった。
妬み嫉み。あの頃には気づけなかった、大好きな彼女に対してのどろどろとした澱みのような気持ちを思い返しては、唇を噛みしめる。皮膚を食い破り血が滲んでも、それ以上の後悔に気にはならない。
水槽に手を触れ、そのまま寄り添う。水の中の彼女が気づいて、触れた手に重ねるようにして厚い硝子越しに手を触れた。視線を合わせて柔らかく微笑み、美しい唇が何かの言葉を形作る。聞こえないそれを自分にとって都合の良い言葉に解釈しそうになり、きつく目を閉じた。
彼女をこの暗い水底に閉じ込めてしまったのは自分だ。それを忘れてはいけない。
何度も繰り返す。許されていると勘違いしそうになる度に、刻み付ける。
あの日。あの夕日に赤く染まった帰り道で、彼女を呪った。
自分よりも速く長く泳げる彼女を周りは皆褒めて、彼女も嬉しそうで。自分の両親ですら彼女を天才だと褒め、お前も彼女に並べるくらいに努力しなければと実の娘を叱咤し、そして最後には彼女が娘だったらよかったのに、と嘆いた。
周囲はいつも彼女ばかりを見て、彼女よりも劣る自分は精々が彼女の引き立て役だった。それでも彼女が自分を優先にして、笑って手を差し伸べてくれるから。だから周りなど気にしないようにしていたのに。
けれどあの日。彼女は自分との約束よりも、別の誰かを優先した。
たった一回。今ではその内容すら思い出せぬほどのちっぽけな約束を破られただけで、自分を保ってきた均衡は呆気なく崩れてしまった。
申し訳なさそうに謝る彼女を一方的に罵り、泣き喚き。
そして、言ってしまったのだ。呪いの言葉を。
――そんなに泳ぐのが好きなら、ずっと水の中にいればいいんだ!
本心ではなかった。それでも一度言葉にしてしまったものを、取り消すなど出来るはずもなかった。
何も言わず、悲しげに笑う彼女を今でも覚えている。それすらもあの時は怒りを覚えて。
何かを言いかけた彼女を無視して、一人家へと帰ってしまった。
その次の日から彼女は外に出なくなり。勇気を出して訪ねた彼女の家で、彼女は陽の光の下では生きられなくなってしまったのだと聞かされた。
自分の言った通りに。
だからきっとあれは呪いの言葉で、自分は彼女を呪ってしまったのだ。
「ごめん。ごめんなさい」
繰り返し謝罪する。それが例え自分が許されたいためのものだとしても、止める事が出来ない。
目を開ける。水槽から体を離し、手を離した。
彼女は変わらず笑顔のまま。
「また、来るから」
その笑顔に背を向けて、歩き出す。
部屋を出る瞬間。枯れ果てたと思っていた涙が、一筋流れた。
少女の背が扉の向こうへ消えていくのを見届けて、彼女は浮かべていた笑みを消す。
今日もあの子は、此方側へは来なかった。
水槽から手を離し、水を蹴って水面に顔を出す。
歌うのは、人を惑わせる旋律。愛しいあの子を再び此処へ呼び寄せるための誘いの言葉。
恍惚を目に浮かばせる彼女のその姿は、化生のモノであった。
そも、少女と出会った時にはすでに、彼女は化生であった。
己がいつ化生に堕ちたのか、彼女自身すら知り得ない。
気づけば暗い水底を漂い。月のない夜にだけ地上を彷徨う。
陽を厭い、闇を好む。彼女とはそういうモノであった。
だがいつだったか。戯れに夕暮れを彷徨っていた時、幼子であった少女と出会った。
燦めく瞳。僅かに朱を帯びたまろい頬。薄紅に色づいた小さな唇から紡がれる、心地の良い響きの声音。
少女は彼女が厭うていた太陽の愛し子だった。
初めてほしいと思った。だから近づいた。
少女を、少女の周りを惑わせ。少女の友人として、幼なじみとして共に在った。
少女よりも優れた振る舞いを見せたのは、執着を育てるため。
少女を愛し愛された者を惑わし孤立させ、その上で少女を何よりも優先していたのは、依存を育てるため。
少女の太陽の如く輝く目が、憧れや嫉妬の感情を乗せて彼女だけを見るのを、彼女の言葉や態度一つでそれが恍惚に蕩けていく様を眺めるのは、たまらないものであった。
そうして少しずつ彼女だけを求めるように冷たく切り離させ、甘く優しく包み込んで。
最後の仕上げに、一度だけ少女を裏切った。
全てが順調でだった。予想通り泣きながら責め立てるその目が、それでも縋り求める色を濃くしているのを見た時、彼女は声を上げて嗤いそうになるのを、そのまま連れ去ってしまいそうになるのを必死で耐えていた。
連れ去るのはいけない。少女から求めさせねば意味がない。
それほどまでに彼女は少女を愛していた。眩い太陽が暗闇に染まり堕ちていくのを、ずっと待ち続けていた。
それなのに。
少女を堕とすための言葉を紡ぐより先に、夕陽が少女の手を引き家路につかせてしまった。
それならばと。少女の言葉の通りに水底を漂ってみせれば、少女は罪悪感に泣きながら彼女の元へ通い続けるようになった。
だが、それだけだ。それ以上には、境界を越えるまでには足りなかった。
いつも太陽が邪魔をする。
さきほどもそうだ。彼女から目を逸らし、声を聞かず。結局は部屋を出て、太陽の下へと帰っていってしまった。
焦ることはない。そう己自身に言い聞かせる。
太陽の下で笑う少女がこの暗闇に、彼女に会いに来ているのだから、と。
それに人間の精神はとても脆い事を化生である彼女は知っている。
そう遠くない未来に、少女は罪悪感に耐えきれなくなることだろう。そうすればきっと、少女は此方側へ、この水の中へ堕ちて来てくれるはずだ。
その時を夢想して、くすり、と彼女は嗤う。
そして今日もまた、太陽に焦がれた憐れな化生は、水底に己の太陽が堕ちてきてくれるのを待っている。
20241126 『太陽の下で』
数本の棒針を操り、毛糸玉から色鮮やかな幾何学模様のセーターが編み上がっていくのを、少年はどこか夢見心地で眺めていた。
「そんなに見られると、ちょっと恥ずかしい」
手を止めて呟く少女に、はっとして視線を逸らし俯いた。
「ごめん。何だか魔法みたいで、すごかったから」
謝罪の言葉と共に正直な感想を述べれば、少女の頬が朱に染まる。
見れば、俯く少年の耳も少女の頬と同じ色に染まっていた。
「ありがとう。暇で始めたものだけど、そう言ってもらえると嬉しい」
「暇なの?」
意外な言葉に、逸らしていた視線を戻し少女を見る。つい先日出合ったばかりの間柄ではあるものの、記憶にある限り少女は果樹園や畑での作業に忙しくしていたはずだった。
「収穫が終わってしまうとね。やる事も少ないし、何より皆が外に出してくれなくなるから」
困ったようにはにかんで、この時期はやる事が限られて退屈なのだと少女は愚痴る。彼女の家の庭に住まうモノ達や何よりあの過保護な妖ならばやりかねないな、と少年は少女に対して甲斐甲斐しく世話を焼く彼らの姿を想像して小さく笑った。
「笑わないでよ。困っているんだから」
「大切にされている証拠だよ。いい事だと思うな」
「それは分かるけど、いつまでも子供扱いされるのは嫌なの」
精一杯背伸びをして少しでも大人に近づこうとする少女の姿は、傍目から見ればとても微笑ましいものだ。しかしそれが親を失った寂しさや不安から目を逸らすためのものだと言う事を少年は知っていた。
少年も母を失ったが、父はまだ側にいてくれている。失った当初は少女のように大人になろうと聞き分けの良い子を演じていたが、最近になり父と話す機会が増えた事で少しずつ父に寄りかかる事が出来るようになっていた。
だが少女は違う。彼女は今家の中で一人きりだ。時折現れる妖が、事ある毎に少女の世話を焼こうとしてはいるが、彼は結局は妖であり、人ではない。況してや少女にとって、親は母だけだ。妖も見た事のない父も、絶対的な信を置く存在にはなれはしない。
「どうしたの?」
黙り込んだ少年を、少女は少し不安な面持ちで見る。
それになんでもない、と首を振って、少年は話題を切り替えるために笑って口を開いた。
「桔梗《ききょう》はとっても器用だし何でも出来るから、俺も見習いたいなって思って」
「そんな事ないよ。出来ない事なんてたくさんあるし、樹《たつき》みたいに何でも知っているわけじゃないし」
「桔梗の育てたりんごはおいしかったし、編み物だって魔法みたいだ。十分すごいよ…りんごは無理でも、編み物なら俺にも出来るかな」
小さく呟いた思いつきに、少女はか細い声で教えようか、と答える。
「いいの?」
「いい、よ。でも、もうこれ以上、何も言わないで…今、すごく恥ずかしいし、変な感じなの」
同じ年頃の友人に純粋に褒められる経験がないせいだろう。少女の頬は先ほどよりもさらに赤みを増し、まるで彼女の育てた林檎のよう。忙しなく彷徨う視線に、少年は自分の言った言葉を思い返し、目の前の少女を見て、同じように頬を朱に染めた。
「あ、えと。その…ごめん」
「別に。私こそ……編み物、教えるんだよね。じゃあ、棒針、取ってくる」
「急がなくていい、よ。そのセーターが編み終わってからで大丈夫だから」
ぎこちないやり取りの後、互いに沈黙する。
気まずいような、こそばゆいような、何とも言えない空気に何か言わなければ、とどちらからともなく口を開き。
「邪魔するぞ、愛い子」
だが二人が声を上げるよりも速く。戸を開けた妖に、二人揃って脱力した。
「おや、本当にお邪魔だったかな」
「馬鹿っ!本当に馬鹿。出てけ!」
状況が飲み込めず首を傾げる妖は、だが悪い空気ではない事ににんまりと笑みを浮かべる。悪態を吐く少女を気に留めず部屋に入り込むと、二人の頭を無遠慮に撫で回した。
「うわっ」
「ちょっ、何するの!」
「仲が良くて何よりだ。どれ、儂も混ぜてはくれないか」
上機嫌な妖の言葉に少年は困惑し、少女は嫌そうに顔を顰める。頭を撫でる手を払いのけ、帰れ、と妖の背を押し部屋から追い出そうとする少女を少年は宥めながら、どことなく微笑ましげな彼女達のやり取りに苦笑した。
「編み物をしている所を勝手に見ていただけなので、混ぜるも何もないですけど」
「私がいいって言ったんだからいいの。それにこのセーターを編み終わったら、樹に編み物を教える約束をしてるんだから、さっさと帰って」
「つれないなぁ。儂がいても構わぬだろう」
「構うから!いちいち口を出してきてうるさいの!」
まるで思春期の娘と過保護な父親のようだ。少女が聞けば全力で否定するであろう事を考える。
きっとこれからも、少女の態度は変わらないのだろう。少年とその父のような関係には、少女と妖はなる事はない。
だが少なくとも、少女の表情はとても生き生きしているように少年には見えた。その関係は決して悪いものではないと知り、少年は自分の事のように嬉しくなる。
「俺は気にしないから。一緒でもいいよ」
「ちょっと何言ってるの!」
「そうかそうか。坊主はやはり優しい子だな。坊主もこう言っている事であるし、一緒にいさせてもらおうか」
笑いながら許可を出せば少女は驚いたように少年を窘め、妖は笑いさらに少年の頭を強く撫でる。
その強さに揺れる視界の片隅に、編み途中のセーターが見えて。
それは一体誰のセーターなのか。その送る相手を想像して、少年はまた小さく笑った。
20241125 『セーター』
飛ぶ事を止めた。どれだけ高く飛ぼうと、あの輝く陽に届く事はなかった。
翼を折りたためば、地に引かれ抗う事なくこの矮小な身は落ちていく。
あれだけ焦がれた陽は遠ざかり、雲の海を突き抜けて。その下に広がる空のそれとは異なる青を認めて、どこか穏やかな気持ちで目を閉じた。
海の中とはどのような所であろうか。詮無き事を考える。
どこまでも深い水の中は、陽の光すら通さぬ暗闇だとも聞く。暗く冷たい所であると。
それでいい。それがいいと、思った。届かぬ陽を見続ける位であれば、いっそその存在が認識できぬほど深く落ちてしまいたかった。
その前に、叩きつけられた身は千々に砕けてしまうのだろうが。
ふふ、と口元に笑みが浮かぶ。風に混じる潮の匂いに終わりが近い事を感じ。
だが、不意に向きを変えた風が己の体を吹き上げ勢いを殺し、そのまま暖かな何かの腕に抱き留められた。
「飛び方でも忘れたの」
抑揚の薄いよく知る声に、目を開ける。声と同じく表情の乏しい彼の深い藍色の瞳が己を認め、緩やかに細まった。
「急に落ちて来たから驚いた」
小さな呟きに、すまなかった、と謝罪を返す。
それに首を振る彼の、その背の翼を見て。彼も飛べたのだな、と不躾な事を思った。
「たたき込まれたから。君ほど速くも高くも飛べはしないけれど」
知らず口に出していたか。或いは、考えている事を察したのか。
僅かに唇の端を上げ笑ってみせる彼に、すまなかった、と謝罪を繰り返した。
「どうしたの。落ちてくるのは初めてだ」
彼の疑問も尤もだ。
どう答えたものかと、暫し悩む。何を言ってたとしても、言い訳にすらならない気がした。
「少し疲れてしまったようだ」
正しくはなく、だが間違いでもない理由を述べる。
届かぬものに手を伸ばし求め続ける行為は、こうして諦めてしまった今、酷く疲れたものに感じていた。あれほどまでに焦がれた熱量は、今や何処を探しても見当たりそうにない。
「珍しい事もあるものだね」
「珍しいだろうか」
「珍しいよ。他の兄弟達が飛ぶのに疲れる姿を見た事はないから」
確かに。一族が飛ぶ事に疲労を感じるなど聞いた事もない。
疲れた、と兄弟が口にするその対象は、常に飛ぶ事以外にあった。
曰く、鍛錬に。曰く、学ぶ事の多さに。曰く、友や兄弟と遊び続けてしまった事に。
「今までは、おれみたいな半端物だけが疲れるんだと思っていた」
遠く、屋敷のある方角に視線を向けて。彼の凪いだ声音や表情からは、何を思っているのか察せられない、
そう言えば、彼だけが一族の中で異端であったか。
混じりモノ。
元々直ぐに消えてなくなるだけだったはずの彼を繋ぎ止めるため、海に住まう永遠の肉を与えたのは誰であったか。
それにより背に翼を持ちながらも、海の底に沈む事を好む彼を屋敷へと連れ戻すのに苦心した一族がどれだけいた事か。
今となっては懐かしい思い出話となり、活発で反抗ばかりしていた彼も大分落ち着いたと言われているが。彼のそれは、落ち着いたのではなく摩耗して擦り切れてしまっているのだと、どれだけ気づいているだろうか。
「疲れたのか」
問いかける。それに瞬きを一つして。屋敷から空の上、雲より遙か彼方の陽を見るようにして、空を仰いだ。
「どうだろう。前は確かに疲れていたのに。今はあまり感じる事がないや。疲れも、それ以外も。全部」
おそらくは落ちた理由を、正しく彼は理解しているのだろう。
何も問いただす事のない彼に、何も気づいていないふりをして甘える事にした。
「そろそろ屋敷に戻った方がいいかな」
陽から視線を逸らして彼は呟く。
それに肯定するため頷こうとして、止めた。
「まだここにいるの」
その問いには首を振り、否を返す。
「少し疲れてしまったからな」
飛ぶ事に。手を伸ばし、求める事に。
疲れた、と繰り返せば、彼は目を瞬いて屋敷を見、その下に広がる森を見た。
背の翼を羽ばたかせ、森へと飛ぶ。
「飛ぶのに疲れたのなら、歩こう」
「そうだな。屋敷に戻る前に、歩いていこうか。いっそどこか遠くへ行くのも良いのかもしれない」
空高く飛ぶのではなく。深い海の底に沈んでいくのでもなく。
広い大地をどこまでも歩いて行く。
一族に見つかる事は直ぐにはないはずだ。深い森は空を飛ぶ彼らから身を隠してくれるし、そもそも彼らは空か海しか探す当てはないだろう。
「遠く…怒られてしまうよ」
不安を口にしながらも、彼は行き先を変える事はない。
「その時はその時だ。一緒に怒られようか」
地に降り立ち笑ってそう言えば、同じように地に降りた彼は小さく頷いた。
手を差し出す。恐る恐る手を取った彼と共に歩き出す。
「翼は歩くのには必要ないな」
「そう、だね。歩くだけなら足があればいい」
「それと触れるための腕と、話すための唇は必要か」
「あと、聞くための耳と、見るための目もほしいよ」
「では、必要ないのは翼だけか」
歩みを止めぬまま、切り捨てるために不必要なものを思い描く。こちらを見る彼の目が僅かに見開かれたのを見て、上手く捨てられたのだと笑った。
彼も翼を切り捨てる事にしたようだ。霞み消えていく彼の翼を見ながら、これからどこへ行こうか考える。
「行きたい所はあるか」
「分からない。屋敷と海の中しか知らないから」
「それもそうだな。では気の向く方へ行ってみるとするか」
そう言いながらも、足は自然と屋敷とは反対方向へ向かっている。
この先に何があるのか。空を飛んでいた時には見る事の出来なかった光景に、目を奪われながらゆっくりと歩いて行く。
「きれい」
吐息にも似た囁きに彼を見る。
色鮮やかな木々の葉が風に踊るのを見る彼の笑顔に息を呑んだ。虚ろだった藍が燦めいて、かつてのただの子供だった彼がそこにいた。
「綺麗だな」
空を見上げる。木々の合間から僅かに見える陽は遠い。
それでも求め続けていた時より優しい輝きに見えるのは、隣で彼が笑うからか。
「本当に、綺麗だ」
足取り軽く。行き先を決めず。
極彩色の世界を歩いていく。
その先に、擦り切れなくしてしまったものがあればいいと、願った。
20241124 『落ちていく』