飛ぶ事を止めた。どれだけ高く飛ぼうと、あの輝く陽に届く事はなかった。
翼を折りたためば、地に引かれ抗う事なくこの矮小な身は落ちていく。
あれだけ焦がれた陽は遠ざかり、雲の海を突き抜けて。その下に広がる空のそれとは異なる青を認めて、どこか穏やかな気持ちで目を閉じた。
海の中とはどのような所であろうか。詮無き事を考える。
どこまでも深い水の中は、陽の光すら通さぬ暗闇だとも聞く。暗く冷たい所であると。
それでいい。それがいいと、思った。届かぬ陽を見続ける位であれば、いっそその存在が認識できぬほど深く落ちてしまいたかった。
その前に、叩きつけられた身は千々に砕けてしまうのだろうが。
ふふ、と口元に笑みが浮かぶ。風に混じる潮の匂いに終わりが近い事を感じ。
だが、不意に向きを変えた風が己の体を吹き上げ勢いを殺し、そのまま暖かな何かの腕に抱き留められた。
「飛び方でも忘れたの」
抑揚の薄いよく知る声に、目を開ける。声と同じく表情の乏しい彼の深い藍色の瞳が己を認め、緩やかに細まった。
「急に落ちて来たから驚いた」
小さな呟きに、すまなかった、と謝罪を返す。
それに首を振る彼の、その背の翼を見て。彼も飛べたのだな、と不躾な事を思った。
「たたき込まれたから。君ほど速くも高くも飛べはしないけれど」
知らず口に出していたか。或いは、考えている事を察したのか。
僅かに唇の端を上げ笑ってみせる彼に、すまなかった、と謝罪を繰り返した。
「どうしたの。落ちてくるのは初めてだ」
彼の疑問も尤もだ。
どう答えたものかと、暫し悩む。何を言ってたとしても、言い訳にすらならない気がした。
「少し疲れてしまったようだ」
正しくはなく、だが間違いでもない理由を述べる。
届かぬものに手を伸ばし求め続ける行為は、こうして諦めてしまった今、酷く疲れたものに感じていた。あれほどまでに焦がれた熱量は、今や何処を探しても見当たりそうにない。
「珍しい事もあるものだね」
「珍しいだろうか」
「珍しいよ。他の兄弟達が飛ぶのに疲れる姿を見た事はないから」
確かに。一族が飛ぶ事に疲労を感じるなど聞いた事もない。
疲れた、と兄弟が口にするその対象は、常に飛ぶ事以外にあった。
曰く、鍛錬に。曰く、学ぶ事の多さに。曰く、友や兄弟と遊び続けてしまった事に。
「今までは、おれみたいな半端物だけが疲れるんだと思っていた」
遠く、屋敷のある方角に視線を向けて。彼の凪いだ声音や表情からは、何を思っているのか察せられない、
そう言えば、彼だけが一族の中で異端であったか。
混じりモノ。
元々直ぐに消えてなくなるだけだったはずの彼を繋ぎ止めるため、海に住まう永遠の肉を与えたのは誰であったか。
それにより背に翼を持ちながらも、海の底に沈む事を好む彼を屋敷へと連れ戻すのに苦心した一族がどれだけいた事か。
今となっては懐かしい思い出話となり、活発で反抗ばかりしていた彼も大分落ち着いたと言われているが。彼のそれは、落ち着いたのではなく摩耗して擦り切れてしまっているのだと、どれだけ気づいているだろうか。
「疲れたのか」
問いかける。それに瞬きを一つして。屋敷から空の上、雲より遙か彼方の陽を見るようにして、空を仰いだ。
「どうだろう。前は確かに疲れていたのに。今はあまり感じる事がないや。疲れも、それ以外も。全部」
おそらくは落ちた理由を、正しく彼は理解しているのだろう。
何も問いただす事のない彼に、何も気づいていないふりをして甘える事にした。
「そろそろ屋敷に戻った方がいいかな」
陽から視線を逸らして彼は呟く。
それに肯定するため頷こうとして、止めた。
「まだここにいるの」
その問いには首を振り、否を返す。
「少し疲れてしまったからな」
飛ぶ事に。手を伸ばし、求める事に。
疲れた、と繰り返せば、彼は目を瞬いて屋敷を見、その下に広がる森を見た。
背の翼を羽ばたかせ、森へと飛ぶ。
「飛ぶのに疲れたのなら、歩こう」
「そうだな。屋敷に戻る前に、歩いていこうか。いっそどこか遠くへ行くのも良いのかもしれない」
空高く飛ぶのではなく。深い海の底に沈んでいくのでもなく。
広い大地をどこまでも歩いて行く。
一族に見つかる事は直ぐにはないはずだ。深い森は空を飛ぶ彼らから身を隠してくれるし、そもそも彼らは空か海しか探す当てはないだろう。
「遠く…怒られてしまうよ」
不安を口にしながらも、彼は行き先を変える事はない。
「その時はその時だ。一緒に怒られようか」
地に降り立ち笑ってそう言えば、同じように地に降りた彼は小さく頷いた。
手を差し出す。恐る恐る手を取った彼と共に歩き出す。
「翼は歩くのには必要ないな」
「そう、だね。歩くだけなら足があればいい」
「それと触れるための腕と、話すための唇は必要か」
「あと、聞くための耳と、見るための目もほしいよ」
「では、必要ないのは翼だけか」
歩みを止めぬまま、切り捨てるために不必要なものを思い描く。こちらを見る彼の目が僅かに見開かれたのを見て、上手く捨てられたのだと笑った。
彼も翼を切り捨てる事にしたようだ。霞み消えていく彼の翼を見ながら、これからどこへ行こうか考える。
「行きたい所はあるか」
「分からない。屋敷と海の中しか知らないから」
「それもそうだな。では気の向く方へ行ってみるとするか」
そう言いながらも、足は自然と屋敷とは反対方向へ向かっている。
この先に何があるのか。空を飛んでいた時には見る事の出来なかった光景に、目を奪われながらゆっくりと歩いて行く。
「きれい」
吐息にも似た囁きに彼を見る。
色鮮やかな木々の葉が風に踊るのを見る彼の笑顔に息を呑んだ。虚ろだった藍が燦めいて、かつてのただの子供だった彼がそこにいた。
「綺麗だな」
空を見上げる。木々の合間から僅かに見える陽は遠い。
それでも求め続けていた時より優しい輝きに見えるのは、隣で彼が笑うからか。
「本当に、綺麗だ」
足取り軽く。行き先を決めず。
極彩色の世界を歩いていく。
その先に、擦り切れなくしてしまったものがあればいいと、願った。
20241124 『落ちていく』
11/24/2024, 9:46:59 PM