窓のない、暗い部屋。その中心にある巨大な水槽の中で彼女は生きている。
人でありながら水底でしか生きられなくなってしまった彼女は、自分の罪だった。
幼い頃。共に過ごした無垢な時は、今も鮮やかに輝いている。どんな時でも一緒だった、そして自分よりも少しだけ優れていた彼女に憧れて、そして妬ましく思ってしまった。
妬み嫉み。あの頃には気づけなかった、大好きな彼女に対してのどろどろとした澱みのような気持ちを思い返しては、唇を噛みしめる。皮膚を食い破り血が滲んでも、それ以上の後悔に気にはならない。
水槽に手を触れ、そのまま寄り添う。水の中の彼女が気づいて、触れた手に重ねるようにして厚い硝子越しに手を触れた。視線を合わせて柔らかく微笑み、美しい唇が何かの言葉を形作る。聞こえないそれを自分にとって都合の良い言葉に解釈しそうになり、きつく目を閉じた。
彼女をこの暗い水底に閉じ込めてしまったのは自分だ。それを忘れてはいけない。
何度も繰り返す。許されていると勘違いしそうになる度に、刻み付ける。
あの日。あの夕日に赤く染まった帰り道で、彼女を呪った。
自分よりも速く長く泳げる彼女を周りは皆褒めて、彼女も嬉しそうで。自分の両親ですら彼女を天才だと褒め、お前も彼女に並べるくらいに努力しなければと実の娘を叱咤し、そして最後には彼女が娘だったらよかったのに、と嘆いた。
周囲はいつも彼女ばかりを見て、彼女よりも劣る自分は精々が彼女の引き立て役だった。それでも彼女が自分を優先にして、笑って手を差し伸べてくれるから。だから周りなど気にしないようにしていたのに。
けれどあの日。彼女は自分との約束よりも、別の誰かを優先した。
たった一回。今ではその内容すら思い出せぬほどのちっぽけな約束を破られただけで、自分を保ってきた均衡は呆気なく崩れてしまった。
申し訳なさそうに謝る彼女を一方的に罵り、泣き喚き。
そして、言ってしまったのだ。呪いの言葉を。
――そんなに泳ぐのが好きなら、ずっと水の中にいればいいんだ!
本心ではなかった。それでも一度言葉にしてしまったものを、取り消すなど出来るはずもなかった。
何も言わず、悲しげに笑う彼女を今でも覚えている。それすらもあの時は怒りを覚えて。
何かを言いかけた彼女を無視して、一人家へと帰ってしまった。
その次の日から彼女は外に出なくなり。勇気を出して訪ねた彼女の家で、彼女は陽の光の下では生きられなくなってしまったのだと聞かされた。
自分の言った通りに。
だからきっとあれは呪いの言葉で、自分は彼女を呪ってしまったのだ。
「ごめん。ごめんなさい」
繰り返し謝罪する。それが例え自分が許されたいためのものだとしても、止める事が出来ない。
目を開ける。水槽から体を離し、手を離した。
彼女は変わらず笑顔のまま。
「また、来るから」
その笑顔に背を向けて、歩き出す。
部屋を出る瞬間。枯れ果てたと思っていた涙が、一筋流れた。
少女の背が扉の向こうへ消えていくのを見届けて、彼女は浮かべていた笑みを消す。
今日もあの子は、此方側へは来なかった。
水槽から手を離し、水を蹴って水面に顔を出す。
歌うのは、人を惑わせる旋律。愛しいあの子を再び此処へ呼び寄せるための誘いの言葉。
恍惚を目に浮かばせる彼女のその姿は、化生のモノであった。
そも、少女と出会った時にはすでに、彼女は化生であった。
己がいつ化生に堕ちたのか、彼女自身すら知り得ない。
気づけば暗い水底を漂い。月のない夜にだけ地上を彷徨う。
陽を厭い、闇を好む。彼女とはそういうモノであった。
だがいつだったか。戯れに夕暮れを彷徨っていた時、幼子であった少女と出会った。
燦めく瞳。僅かに朱を帯びたまろい頬。薄紅に色づいた小さな唇から紡がれる、心地の良い響きの声音。
少女は彼女が厭うていた太陽の愛し子だった。
初めてほしいと思った。だから近づいた。
少女を、少女の周りを惑わせ。少女の友人として、幼なじみとして共に在った。
少女よりも優れた振る舞いを見せたのは、執着を育てるため。
少女を愛し愛された者を惑わし孤立させ、その上で少女を何よりも優先していたのは、依存を育てるため。
少女の太陽の如く輝く目が、憧れや嫉妬の感情を乗せて彼女だけを見るのを、彼女の言葉や態度一つでそれが恍惚に蕩けていく様を眺めるのは、たまらないものであった。
そうして少しずつ彼女だけを求めるように冷たく切り離させ、甘く優しく包み込んで。
最後の仕上げに、一度だけ少女を裏切った。
全てが順調でだった。予想通り泣きながら責め立てるその目が、それでも縋り求める色を濃くしているのを見た時、彼女は声を上げて嗤いそうになるのを、そのまま連れ去ってしまいそうになるのを必死で耐えていた。
連れ去るのはいけない。少女から求めさせねば意味がない。
それほどまでに彼女は少女を愛していた。眩い太陽が暗闇に染まり堕ちていくのを、ずっと待ち続けていた。
それなのに。
少女を堕とすための言葉を紡ぐより先に、夕陽が少女の手を引き家路につかせてしまった。
それならばと。少女の言葉の通りに水底を漂ってみせれば、少女は罪悪感に泣きながら彼女の元へ通い続けるようになった。
だが、それだけだ。それ以上には、境界を越えるまでには足りなかった。
いつも太陽が邪魔をする。
さきほどもそうだ。彼女から目を逸らし、声を聞かず。結局は部屋を出て、太陽の下へと帰っていってしまった。
焦ることはない。そう己自身に言い聞かせる。
太陽の下で笑う少女がこの暗闇に、彼女に会いに来ているのだから、と。
それに人間の精神はとても脆い事を化生である彼女は知っている。
そう遠くない未来に、少女は罪悪感に耐えきれなくなることだろう。そうすればきっと、少女は此方側へ、この水の中へ堕ちて来てくれるはずだ。
その時を夢想して、くすり、と彼女は嗤う。
そして今日もまた、太陽に焦がれた憐れな化生は、水底に己の太陽が堕ちてきてくれるのを待っている。
20241126 『太陽の下で』
数本の棒針を操り、毛糸玉から色鮮やかな幾何学模様のセーターが編み上がっていくのを、少年はどこか夢見心地で眺めていた。
「そんなに見られると、ちょっと恥ずかしい」
手を止めて呟く少女に、はっとして視線を逸らし俯いた。
「ごめん。何だか魔法みたいで、すごかったから」
謝罪の言葉と共に正直な感想を述べれば、少女の頬が朱に染まる。
見れば、俯く少年の耳も少女の頬と同じ色に染まっていた。
「ありがとう。暇で始めたものだけど、そう言ってもらえると嬉しい」
「暇なの?」
意外な言葉に、逸らしていた視線を戻し少女を見る。つい先日出合ったばかりの間柄ではあるものの、記憶にある限り少女は果樹園や畑での作業に忙しくしていたはずだった。
「収穫が終わってしまうとね。やる事も少ないし、何より皆が外に出してくれなくなるから」
困ったようにはにかんで、この時期はやる事が限られて退屈なのだと少女は愚痴る。彼女の家の庭に住まうモノ達や何よりあの過保護な妖ならばやりかねないな、と少年は少女に対して甲斐甲斐しく世話を焼く彼らの姿を想像して小さく笑った。
「笑わないでよ。困っているんだから」
「大切にされている証拠だよ。いい事だと思うな」
「それは分かるけど、いつまでも子供扱いされるのは嫌なの」
精一杯背伸びをして少しでも大人に近づこうとする少女の姿は、傍目から見ればとても微笑ましいものだ。しかしそれが親を失った寂しさや不安から目を逸らすためのものだと言う事を少年は知っていた。
少年も母を失ったが、父はまだ側にいてくれている。失った当初は少女のように大人になろうと聞き分けの良い子を演じていたが、最近になり父と話す機会が増えた事で少しずつ父に寄りかかる事が出来るようになっていた。
だが少女は違う。彼女は今家の中で一人きりだ。時折現れる妖が、事ある毎に少女の世話を焼こうとしてはいるが、彼は結局は妖であり、人ではない。況してや少女にとって、親は母だけだ。妖も見た事のない父も、絶対的な信を置く存在にはなれはしない。
「どうしたの?」
黙り込んだ少年を、少女は少し不安な面持ちで見る。
それになんでもない、と首を振って、少年は話題を切り替えるために笑って口を開いた。
「桔梗《ききょう》はとっても器用だし何でも出来るから、俺も見習いたいなって思って」
「そんな事ないよ。出来ない事なんてたくさんあるし、樹《たつき》みたいに何でも知っているわけじゃないし」
「桔梗の育てたりんごはおいしかったし、編み物だって魔法みたいだ。十分すごいよ…りんごは無理でも、編み物なら俺にも出来るかな」
小さく呟いた思いつきに、少女はか細い声で教えようか、と答える。
「いいの?」
「いい、よ。でも、もうこれ以上、何も言わないで…今、すごく恥ずかしいし、変な感じなの」
同じ年頃の友人に純粋に褒められる経験がないせいだろう。少女の頬は先ほどよりもさらに赤みを増し、まるで彼女の育てた林檎のよう。忙しなく彷徨う視線に、少年は自分の言った言葉を思い返し、目の前の少女を見て、同じように頬を朱に染めた。
「あ、えと。その…ごめん」
「別に。私こそ……編み物、教えるんだよね。じゃあ、棒針、取ってくる」
「急がなくていい、よ。そのセーターが編み終わってからで大丈夫だから」
ぎこちないやり取りの後、互いに沈黙する。
気まずいような、こそばゆいような、何とも言えない空気に何か言わなければ、とどちらからともなく口を開き。
「邪魔するぞ、愛い子」
だが二人が声を上げるよりも速く。戸を開けた妖に、二人揃って脱力した。
「おや、本当にお邪魔だったかな」
「馬鹿っ!本当に馬鹿。出てけ!」
状況が飲み込めず首を傾げる妖は、だが悪い空気ではない事ににんまりと笑みを浮かべる。悪態を吐く少女を気に留めず部屋に入り込むと、二人の頭を無遠慮に撫で回した。
「うわっ」
「ちょっ、何するの!」
「仲が良くて何よりだ。どれ、儂も混ぜてはくれないか」
上機嫌な妖の言葉に少年は困惑し、少女は嫌そうに顔を顰める。頭を撫でる手を払いのけ、帰れ、と妖の背を押し部屋から追い出そうとする少女を少年は宥めながら、どことなく微笑ましげな彼女達のやり取りに苦笑した。
「編み物をしている所を勝手に見ていただけなので、混ぜるも何もないですけど」
「私がいいって言ったんだからいいの。それにこのセーターを編み終わったら、樹に編み物を教える約束をしてるんだから、さっさと帰って」
「つれないなぁ。儂がいても構わぬだろう」
「構うから!いちいち口を出してきてうるさいの!」
まるで思春期の娘と過保護な父親のようだ。少女が聞けば全力で否定するであろう事を考える。
きっとこれからも、少女の態度は変わらないのだろう。少年とその父のような関係には、少女と妖はなる事はない。
だが少なくとも、少女の表情はとても生き生きしているように少年には見えた。その関係は決して悪いものではないと知り、少年は自分の事のように嬉しくなる。
「俺は気にしないから。一緒でもいいよ」
「ちょっと何言ってるの!」
「そうかそうか。坊主はやはり優しい子だな。坊主もこう言っている事であるし、一緒にいさせてもらおうか」
笑いながら許可を出せば少女は驚いたように少年を窘め、妖は笑いさらに少年の頭を強く撫でる。
その強さに揺れる視界の片隅に、編み途中のセーターが見えて。
それは一体誰のセーターなのか。その送る相手を想像して、少年はまた小さく笑った。
20241125 『セーター』
飛ぶ事を止めた。どれだけ高く飛ぼうと、あの輝く陽に届く事はなかった。
翼を折りたためば、地に引かれ抗う事なくこの矮小な身は落ちていく。
あれだけ焦がれた陽は遠ざかり、雲の海を突き抜けて。その下に広がる空のそれとは異なる青を認めて、どこか穏やかな気持ちで目を閉じた。
海の中とはどのような所であろうか。詮無き事を考える。
どこまでも深い水の中は、陽の光すら通さぬ暗闇だとも聞く。暗く冷たい所であると。
それでいい。それがいいと、思った。届かぬ陽を見続ける位であれば、いっそその存在が認識できぬほど深く落ちてしまいたかった。
その前に、叩きつけられた身は千々に砕けてしまうのだろうが。
ふふ、と口元に笑みが浮かぶ。風に混じる潮の匂いに終わりが近い事を感じ。
だが、不意に向きを変えた風が己の体を吹き上げ勢いを殺し、そのまま暖かな何かの腕に抱き留められた。
「飛び方でも忘れたの」
抑揚の薄いよく知る声に、目を開ける。声と同じく表情の乏しい彼の深い藍色の瞳が己を認め、緩やかに細まった。
「急に落ちて来たから驚いた」
小さな呟きに、すまなかった、と謝罪を返す。
それに首を振る彼の、その背の翼を見て。彼も飛べたのだな、と不躾な事を思った。
「たたき込まれたから。君ほど速くも高くも飛べはしないけれど」
知らず口に出していたか。或いは、考えている事を察したのか。
僅かに唇の端を上げ笑ってみせる彼に、すまなかった、と謝罪を繰り返した。
「どうしたの。落ちてくるのは初めてだ」
彼の疑問も尤もだ。
どう答えたものかと、暫し悩む。何を言ってたとしても、言い訳にすらならない気がした。
「少し疲れてしまったようだ」
正しくはなく、だが間違いでもない理由を述べる。
届かぬものに手を伸ばし求め続ける行為は、こうして諦めてしまった今、酷く疲れたものに感じていた。あれほどまでに焦がれた熱量は、今や何処を探しても見当たりそうにない。
「珍しい事もあるものだね」
「珍しいだろうか」
「珍しいよ。他の兄弟達が飛ぶのに疲れる姿を見た事はないから」
確かに。一族が飛ぶ事に疲労を感じるなど聞いた事もない。
疲れた、と兄弟が口にするその対象は、常に飛ぶ事以外にあった。
曰く、鍛錬に。曰く、学ぶ事の多さに。曰く、友や兄弟と遊び続けてしまった事に。
「今までは、おれみたいな半端物だけが疲れるんだと思っていた」
遠く、屋敷のある方角に視線を向けて。彼の凪いだ声音や表情からは、何を思っているのか察せられない、
そう言えば、彼だけが一族の中で異端であったか。
混じりモノ。
元々直ぐに消えてなくなるだけだったはずの彼を繋ぎ止めるため、海に住まう永遠の肉を与えたのは誰であったか。
それにより背に翼を持ちながらも、海の底に沈む事を好む彼を屋敷へと連れ戻すのに苦心した一族がどれだけいた事か。
今となっては懐かしい思い出話となり、活発で反抗ばかりしていた彼も大分落ち着いたと言われているが。彼のそれは、落ち着いたのではなく摩耗して擦り切れてしまっているのだと、どれだけ気づいているだろうか。
「疲れたのか」
問いかける。それに瞬きを一つして。屋敷から空の上、雲より遙か彼方の陽を見るようにして、空を仰いだ。
「どうだろう。前は確かに疲れていたのに。今はあまり感じる事がないや。疲れも、それ以外も。全部」
おそらくは落ちた理由を、正しく彼は理解しているのだろう。
何も問いただす事のない彼に、何も気づいていないふりをして甘える事にした。
「そろそろ屋敷に戻った方がいいかな」
陽から視線を逸らして彼は呟く。
それに肯定するため頷こうとして、止めた。
「まだここにいるの」
その問いには首を振り、否を返す。
「少し疲れてしまったからな」
飛ぶ事に。手を伸ばし、求める事に。
疲れた、と繰り返せば、彼は目を瞬いて屋敷を見、その下に広がる森を見た。
背の翼を羽ばたかせ、森へと飛ぶ。
「飛ぶのに疲れたのなら、歩こう」
「そうだな。屋敷に戻る前に、歩いていこうか。いっそどこか遠くへ行くのも良いのかもしれない」
空高く飛ぶのではなく。深い海の底に沈んでいくのでもなく。
広い大地をどこまでも歩いて行く。
一族に見つかる事は直ぐにはないはずだ。深い森は空を飛ぶ彼らから身を隠してくれるし、そもそも彼らは空か海しか探す当てはないだろう。
「遠く…怒られてしまうよ」
不安を口にしながらも、彼は行き先を変える事はない。
「その時はその時だ。一緒に怒られようか」
地に降り立ち笑ってそう言えば、同じように地に降りた彼は小さく頷いた。
手を差し出す。恐る恐る手を取った彼と共に歩き出す。
「翼は歩くのには必要ないな」
「そう、だね。歩くだけなら足があればいい」
「それと触れるための腕と、話すための唇は必要か」
「あと、聞くための耳と、見るための目もほしいよ」
「では、必要ないのは翼だけか」
歩みを止めぬまま、切り捨てるために不必要なものを思い描く。こちらを見る彼の目が僅かに見開かれたのを見て、上手く捨てられたのだと笑った。
彼も翼を切り捨てる事にしたようだ。霞み消えていく彼の翼を見ながら、これからどこへ行こうか考える。
「行きたい所はあるか」
「分からない。屋敷と海の中しか知らないから」
「それもそうだな。では気の向く方へ行ってみるとするか」
そう言いながらも、足は自然と屋敷とは反対方向へ向かっている。
この先に何があるのか。空を飛んでいた時には見る事の出来なかった光景に、目を奪われながらゆっくりと歩いて行く。
「きれい」
吐息にも似た囁きに彼を見る。
色鮮やかな木々の葉が風に踊るのを見る彼の笑顔に息を呑んだ。虚ろだった藍が燦めいて、かつてのただの子供だった彼がそこにいた。
「綺麗だな」
空を見上げる。木々の合間から僅かに見える陽は遠い。
それでも求め続けていた時より優しい輝きに見えるのは、隣で彼が笑うからか。
「本当に、綺麗だ」
足取り軽く。行き先を決めず。
極彩色の世界を歩いていく。
その先に、擦り切れなくしてしまったものがあればいいと、願った。
20241124 『落ちていく』
「わたくしと夫婦《めおと》になって下さい」
そう言って、見知らぬ少女はにこりと笑った。
「え?なんて?」
「わたくしと夫婦になって下さい」
思わず聞き返せば、先ほどと寸分違わぬ台詞が返ってくる。
やはり、聞き間違いではないようだった。
「誰かと間違ってない?」
「いいえ。あなた様と夫婦になりたいのです」
人間違いでもないらしい。けれどどんなに記憶を漁ろうと、目の前の少女に覚えはなかった。
どうしよう、と内心で焦る。
今は誰もいないとはいえ、公園で、しかも年端もいかないであろう少女に結婚を迫られるのは、周りの目が怖い。この様子ではごっこ遊びや冗談ではないのだろう。微笑みながらも真剣な眼差しは、早く答えろと急かしているようだ。
断るのは当然として、どう答えるのが正解なのか。出来るだけ少女を傷つけないような断り方を考える。だが何一つ思いつかず、そうしている間に側に来た少女が笑みを浮かべたまま、手を取り引いた。
「では、参りましょう」
「参るって、何処に」
「決まっているではありませんか。わたくしたちの屋敷に帰るのです」
「待って!ねえ、本当に待って」
参りましょう、と歩き出そうとする少女を必死で止める。このまま流されてしまうわけにはいかない。
「まだ何も言ってないし、あなたの名前も知らないんだけど!」
きょとり、と首を傾げ、不思議そうに目を瞬かせ。けれどその表情は次第に憂いを帯びていく。
「わたくしと夫婦になるのはお嫌ですか」
「嫌というか、知らない相手と結婚するのはハードルが高いというか。見た目的に無理があるというか。出来れば普通がいいというか」
「でも旦那様はこの年頃の童がお好きでしょう」
悲しげに伏せられた目に酷く心が痛むが、それよりも誤解を生みかねない少女の言葉に焦る。心当たりがないわけではないが、そもそもが仕事で相手をしているだけだ。
「お忘れですか。弱ったわたくしを旦那様が救って下さったではありませんか。傷の手当てをし、痛む体を優しく撫で摩り、大丈夫だとお声をかけ昼夜を共にしたでしょう。わたくし、あの時に決めたのです。旦那様と夫婦になると」
記憶にない。いや、心当たりが多すぎてどれだか分からない。
狐か、狸か、はたまた猫か。人に化けられるのであれば、鼬や狢も当てはまるだろうか。
「ですからわたくしと夫婦になって下さい。それとも既に心に決めた方がおられるのですか」
「それはいないけど。そういうのじゃないけど、何というか」
「でしたら何の障害もありませんね。この姿がお嫌であれば、別の姿に変えれば良いだけの事です」
ふわり、と微笑んで少女の姿が揺らぐ。
大きくたくましくなっていくその姿に、思わずひっと声を漏らして後退った。
これは逃げた方がいいやつだ。
「何処へ行くのですか、旦那様」
けれど走り出すより速く、少女だった男に腕を掴まれ、そのまま引かれて抱きしめられる。
息苦しさに腕を叩くが、さらに強く抱きしめられて頬ずりをされた。
「何してるんですか。先輩」
「ん。楽しそうだったから」
何が、とは敢えて聞こうと思わない。どうせいつもの思いつきなのだろう。
男との付き合いはそれなりに長いが、知っている事はほとんどない。こうして触れあいを好んでいるが、何を考えているのか、その表情からは全く見えてこないのだ。
「相変わらず化かし甲斐があるなぁ。心当たりを必死に探して、周りの目を気にして。焦って…全然オレに気づかなかったなぁ」
愉しくて仕方がないのだろう。彼がこうして人を化かして遊ぶのはいつもの事だ。
はぁ、と溜息を吐く。逃げ出す事を諦めて彼にもたれかかれば、良い子と髪を撫でられた。
「人間とは何でこうも馬鹿なんだろうね。オマエは可愛いし愉しいからいいけど」
「先輩」
「簡単に化かされ、騙されて死んでいく奴らを守る必要なんてあんのかねぇ。退屈しのぎになるかと思って付き合ってはいるが、そろそろ飽きてきたぞ」
「先輩」
腕を叩く。笑んではいるが、どこまでも冷たく鋭い眼を見据えて口を開く。
「そろそろ離してください」
「嫌だと言ったら?」
「この場で舌を噛み切って死ぬ」
はっきりと告げれば、彼は耐えきれずに声を上げて笑った。
「それで死ねない事は分かっているだろうに。何度試した。オレに体も魂も弄られて、オマエという存在以外を奪われて。あと何度試せば理解するんだろうか。本当に馬鹿で、愚かで、惨めで」
分かっている。そんなこと。
何度も試した。無駄だと笑われても繰り返し続けた。
それでも敢えて言葉にするのはただの意地であって。そして確認でもある。
彼がまだ、人に興味を持っているのか。それとも全てに飽いてしまったのか。
「そんな憐れなオマエが、オレは一等好きだよ」
戯れを口にする。何度も繰り返されたやり取りだ。
そう言えば先輩と後輩という、ごっこ遊びを始めたのも彼だったかと思い出す。結局は全て彼の遊びの一つなのだろう。
飽きたら捨てる。そして思い出す事もない。ただそれだけ。
その時が来るのを待つだけだ。
「じゃ、行くか」
「……何処に?」
「言っただろう。オレ達の屋敷だよ。しっかり断らなかったのはあれだが、受け入れはしなかったからな。及第点ってやつだ」
何を言っているのか。彼の言葉はいつも突拍子もないが、これはまるで。
「オマエが受け入れたなら、誓約を違えたとして爺共を縊れたんだがなぁ。仕方がない。何もしなくとも爺共は近くくたばるだろうし、今暫くは従っておいてやろう」
残念だ、と。然程思っていないだろう事を呟いて。
有無を言わさず抱き上げられる。下ろせと藻掻く体を意に介さず、歩き出す。
可哀想に、と弧に歪む唇が囁いた。
「オレに捧げられたばっかりに、死ぬ事も出来ないなんてなぁ。でも心配すんな。結納は眷属共と盛大にしてやるから…ま、雨を降らせられないのは残念ではあるが」
当たり前だ。雨を降らせるのは狐であって狸ではない。
溜息を一つ。唯一の望みが絶たれた事を受け入れられない気持ちごと吐き出した。
「永遠に大切にさせてもらうぜ?オマエさん」
上機嫌な求婚の言葉に、彼に凭れる事で応えとした。
20241123 『夫婦』
白椿の咲く一本の木の前で、一人立ち尽くしていた。
これは夢だ。ぼんやりとそう思う。
記憶にあるそれよりも幾分か小さな椿は、溢れんばかりの白い花を咲かせ。風に葉を揺らし、時折花を地に落とす。
何にも縛られる事のない自由な椿は、何の力も持たないただの椿だった。
「どうか皆をお守り下さい。傷ついた者達に安らかな眠りを与えて下さい」
必死に祈る声が聞こえた。
いつの間にか椿の前に、幼い少女が一人。椿に水を与え、祈っていた。
いくら祈った所で、椿はただの椿だ。そうは思えど口には出さず。少女に習うようにして、椿に祈る。
祈る度、瞬きの度に少女は大人になっていく。やがて少女の姿が消えても、ただ一人椿に祈っていた。
「助けて下さい」
声がして、目を開けた。
椿の前。先ほどとは違う少女が倒れ伏していた。
「助けて」
少女の願う言葉は、椿にではない。
弱りながらも強さを失わない目は、椿ではなくこちらを見ていた。
「どうすればいいの?」
助けて、と言われても、何を求めているのか分からなかった。
誰を助ければいいのか。何をすれば助ける事になるのか。
問いかければ、少女の強い目が迷うように揺れて。
「名前がほしい。このまま消えたくない」
そう言って必死に腕を伸ばす少女に、応えるようにその手を掴んだ。
「目が覚めたか」
「神様?」
目を開けると、彼が奉られている社にいた。
随分と暖かい。彼の腕の中は酷く安心する。
夢うつつに微睡む意識で、彼の胸元に擦り寄った。
「黄櫨《こうろ》。俺の眼を欺くな。お前を失いたくはない」
静かな声に、目を瞬いた。
彼を見上げる。揺らぐ金色が怖れの色を浮かべているのが見えた。
「ごめんなさい、神様」
腕を伸ばし、彼の頬に触れる。ここにいるのだと、どこにも行かないと伝えるように、彼を呼んだ。
「許さぬ。暫くはここから出られると思うな」
「曄《よう》が心配するよ」
「炎が側にいる。問題はないだろうよ」
頬に触れた手に重なる手が、微かに震えている事に気づく。
怖ろしかったのだろうか。彼を一人置いていなくなると思われているのだろうか。
そんな事あるはずないのに。
「あれは黄櫨を求めていた。黄櫨の神になり、呼んでほしかったのだ」
消えてしまった一人きりの妖を思い出す。
妖は妖だ。妖が守る一族にとって式であり、守り神であったけれども、それだけだ。それ以外の者にとっての神には成れない。
それに私の神様は一人だけでいい。
「私の神様は御衣黄《ぎょいこう》様、ただ一人だよ」
言葉にして伝える。彼の金色を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
彼がいい。過去に縋るしかなかった弱い私の手を引いていてくれたから私はここにいる。未来に生きられるように、新しく名前をくれた彼だけが私の神様だ。
「何処にも行かない。離れてもちゃんと神様を呼ぶよ。最初から呼んだのは私だったでしょう。だからこれからも、あの時だって神様を呼べたんだから」
妖の庭で妖と対峙した時、無意識に彼を呼んでいた。
守るように現れた彼の背を見て、本当は泣きたくなるくらいにほっとしたのだ。
「黄櫨」
名を呼ばれる。頬に触れていた手を取られ、指先に彼の唇が触れた。
「どうしたの、神様」
彼は何も答えない。答えの代わりに手が離されて、そのまま彼の手が視界を覆った。
ほんの僅かな違和感と、穏やかで暖かな熱。
「暫し眠れ。怖かったのであろう」
優しい声。それでもどこか憂いを帯びた声音に、彼はまだ不安なのかと思う。
怖いのはきっと神様も同じだ。大丈夫だと言葉で伝えても、不安は消えてくれなかった。
言葉だけでは伝わらないのだろうか。どうすれば彼の不安を、怖れを取り除く事が出来るのか、分からない。
「神様、私はどうすればいい?神様のために私は何が出来るの?」
問いかける。さっき夢で見た少女にしたのと同じ問いを、彼にする。
「名を、呼んでくれ」
ただ一言。
その小さな囁きは、あの椿の元にいた少女達の祈りの言葉によく似ている気がした。
「御衣黄様」
彼の名を呼ぶ。何度も繰り返す。
想いを込めて、只管に。
「御衣黄様。私の名前も呼んで」
彼の名を呼ぶ合間にそう願えば、微かな笑う声と共に黄櫨、静かに名を呼ばれる。
彼が与えてくれたもの。今の私を定めてくれる大切な宝物。
段々と瞼が重くなっていく。緩やかに落ちていく意識の中、夢の中の少女が彼女と重なり、あぁそうか、と理解する。
転校生として彼女と初めて会った時。懐かしいと言われたのは、本当の事だった。
彼女があそこまで私達に心を砕いて動いてくれたのは、彼女に名付けたからか。
昔、椿の元で出会った彼女は、人でありながらも、妖のように消えかけていた。遠い昔、呪に蝕まれた亡くなった祓い屋の、その歪み捻れた魂を取り込んで生まれてしまった彼女は、生まれた時から妖に近い存在だった。
両親からもらった、祓い屋の名の一部である白という名がさらに彼女を不安定にさせ、きっと出会わなければあのまま消えていたのだろう。
名がほしい、と彼女は願った。存在を確かにするために。
だから差し出した。忘れ去られ、消えていくだけの名を。
「封が大分解けてしまっているな。それ以上思い出すな。お前は今、黄櫨なのだから」
眠れ、と今一度彼に促され、思考が解けていく。
目が覚めれば、二度と思い返す事もないのだろう。
「お前には俺がいる。孤独に彷徨った過去などいらぬだろう」
途切れる意識の間際。
それでも確かに聞こえた救いのような彼の言葉に、泣くように微笑った。
20241122『どうすればいいの?」