sairo

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「わたくしと夫婦《めおと》になって下さい」

そう言って、見知らぬ少女はにこりと笑った。


「え?なんて?」
「わたくしと夫婦になって下さい」

思わず聞き返せば、先ほどと寸分違わぬ台詞が返ってくる。
やはり、聞き間違いではないようだった。

「誰かと間違ってない?」
「いいえ。あなた様と夫婦になりたいのです」

人間違いでもないらしい。けれどどんなに記憶を漁ろうと、目の前の少女に覚えはなかった。
どうしよう、と内心で焦る。
今は誰もいないとはいえ、公園で、しかも年端もいかないであろう少女に結婚を迫られるのは、周りの目が怖い。この様子ではごっこ遊びや冗談ではないのだろう。微笑みながらも真剣な眼差しは、早く答えろと急かしているようだ。
断るのは当然として、どう答えるのが正解なのか。出来るだけ少女を傷つけないような断り方を考える。だが何一つ思いつかず、そうしている間に側に来た少女が笑みを浮かべたまま、手を取り引いた。

「では、参りましょう」
「参るって、何処に」
「決まっているではありませんか。わたくしたちの屋敷に帰るのです」
「待って!ねえ、本当に待って」

参りましょう、と歩き出そうとする少女を必死で止める。このまま流されてしまうわけにはいかない。

「まだ何も言ってないし、あなたの名前も知らないんだけど!」

きょとり、と首を傾げ、不思議そうに目を瞬かせ。けれどその表情は次第に憂いを帯びていく。

「わたくしと夫婦になるのはお嫌ですか」
「嫌というか、知らない相手と結婚するのはハードルが高いというか。見た目的に無理があるというか。出来れば普通がいいというか」
「でも旦那様はこの年頃の童がお好きでしょう」

悲しげに伏せられた目に酷く心が痛むが、それよりも誤解を生みかねない少女の言葉に焦る。心当たりがないわけではないが、そもそもが仕事で相手をしているだけだ。

「お忘れですか。弱ったわたくしを旦那様が救って下さったではありませんか。傷の手当てをし、痛む体を優しく撫で摩り、大丈夫だとお声をかけ昼夜を共にしたでしょう。わたくし、あの時に決めたのです。旦那様と夫婦になると」

記憶にない。いや、心当たりが多すぎてどれだか分からない。
狐か、狸か、はたまた猫か。人に化けられるのであれば、鼬や狢も当てはまるだろうか。

「ですからわたくしと夫婦になって下さい。それとも既に心に決めた方がおられるのですか」
「それはいないけど。そういうのじゃないけど、何というか」
「でしたら何の障害もありませんね。この姿がお嫌であれば、別の姿に変えれば良いだけの事です」

ふわり、と微笑んで少女の姿が揺らぐ。
大きくたくましくなっていくその姿に、思わずひっと声を漏らして後退った。
これは逃げた方がいいやつだ。

「何処へ行くのですか、旦那様」

けれど走り出すより速く、少女だった男に腕を掴まれ、そのまま引かれて抱きしめられる。
息苦しさに腕を叩くが、さらに強く抱きしめられて頬ずりをされた。

「何してるんですか。先輩」
「ん。楽しそうだったから」

何が、とは敢えて聞こうと思わない。どうせいつもの思いつきなのだろう。
男との付き合いはそれなりに長いが、知っている事はほとんどない。こうして触れあいを好んでいるが、何を考えているのか、その表情からは全く見えてこないのだ。

「相変わらず化かし甲斐があるなぁ。心当たりを必死に探して、周りの目を気にして。焦って…全然オレに気づかなかったなぁ」

愉しくて仕方がないのだろう。彼がこうして人を化かして遊ぶのはいつもの事だ。
はぁ、と溜息を吐く。逃げ出す事を諦めて彼にもたれかかれば、良い子と髪を撫でられた。

「人間とは何でこうも馬鹿なんだろうね。オマエは可愛いし愉しいからいいけど」
「先輩」
「簡単に化かされ、騙されて死んでいく奴らを守る必要なんてあんのかねぇ。退屈しのぎになるかと思って付き合ってはいるが、そろそろ飽きてきたぞ」
「先輩」

腕を叩く。笑んではいるが、どこまでも冷たく鋭い眼を見据えて口を開く。

「そろそろ離してください」
「嫌だと言ったら?」
「この場で舌を噛み切って死ぬ」

はっきりと告げれば、彼は耐えきれずに声を上げて笑った。

「それで死ねない事は分かっているだろうに。何度試した。オレに体も魂も弄られて、オマエという存在以外を奪われて。あと何度試せば理解するんだろうか。本当に馬鹿で、愚かで、惨めで」

分かっている。そんなこと。
何度も試した。無駄だと笑われても繰り返し続けた。
それでも敢えて言葉にするのはただの意地であって。そして確認でもある。
彼がまだ、人に興味を持っているのか。それとも全てに飽いてしまったのか。

「そんな憐れなオマエが、オレは一等好きだよ」

戯れを口にする。何度も繰り返されたやり取りだ。
そう言えば先輩と後輩という、ごっこ遊びを始めたのも彼だったかと思い出す。結局は全て彼の遊びの一つなのだろう。
飽きたら捨てる。そして思い出す事もない。ただそれだけ。
その時が来るのを待つだけだ。


「じゃ、行くか」
「……何処に?」
「言っただろう。オレ達の屋敷だよ。しっかり断らなかったのはあれだが、受け入れはしなかったからな。及第点ってやつだ」

何を言っているのか。彼の言葉はいつも突拍子もないが、これはまるで。

「オマエが受け入れたなら、誓約を違えたとして爺共を縊れたんだがなぁ。仕方がない。何もしなくとも爺共は近くくたばるだろうし、今暫くは従っておいてやろう」

残念だ、と。然程思っていないだろう事を呟いて。
有無を言わさず抱き上げられる。下ろせと藻掻く体を意に介さず、歩き出す。
可哀想に、と弧に歪む唇が囁いた。

「オレに捧げられたばっかりに、死ぬ事も出来ないなんてなぁ。でも心配すんな。結納は眷属共と盛大にしてやるから…ま、雨を降らせられないのは残念ではあるが」

当たり前だ。雨を降らせるのは狐であって狸ではない。
溜息を一つ。唯一の望みが絶たれた事を受け入れられない気持ちごと吐き出した。

「永遠に大切にさせてもらうぜ?オマエさん」

上機嫌な求婚の言葉に、彼に凭れる事で応えとした。



20241123 『夫婦』

11/23/2024, 12:19:59 PM