sairo

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11/24/2024, 9:46:59 PM

飛ぶ事を止めた。どれだけ高く飛ぼうと、あの輝く陽に届く事はなかった。
翼を折りたためば、地に引かれ抗う事なくこの矮小な身は落ちていく。
あれだけ焦がれた陽は遠ざかり、雲の海を突き抜けて。その下に広がる空のそれとは異なる青を認めて、どこか穏やかな気持ちで目を閉じた。
海の中とはどのような所であろうか。詮無き事を考える。
どこまでも深い水の中は、陽の光すら通さぬ暗闇だとも聞く。暗く冷たい所であると。
それでいい。それがいいと、思った。届かぬ陽を見続ける位であれば、いっそその存在が認識できぬほど深く落ちてしまいたかった。
その前に、叩きつけられた身は千々に砕けてしまうのだろうが。
ふふ、と口元に笑みが浮かぶ。風に混じる潮の匂いに終わりが近い事を感じ。

だが、不意に向きを変えた風が己の体を吹き上げ勢いを殺し、そのまま暖かな何かの腕に抱き留められた。

「飛び方でも忘れたの」

抑揚の薄いよく知る声に、目を開ける。声と同じく表情の乏しい彼の深い藍色の瞳が己を認め、緩やかに細まった。

「急に落ちて来たから驚いた」

小さな呟きに、すまなかった、と謝罪を返す。
それに首を振る彼の、その背の翼を見て。彼も飛べたのだな、と不躾な事を思った。

「たたき込まれたから。君ほど速くも高くも飛べはしないけれど」

知らず口に出していたか。或いは、考えている事を察したのか。
僅かに唇の端を上げ笑ってみせる彼に、すまなかった、と謝罪を繰り返した。

「どうしたの。落ちてくるのは初めてだ」

彼の疑問も尤もだ。
どう答えたものかと、暫し悩む。何を言ってたとしても、言い訳にすらならない気がした。

「少し疲れてしまったようだ」

正しくはなく、だが間違いでもない理由を述べる。
届かぬものに手を伸ばし求め続ける行為は、こうして諦めてしまった今、酷く疲れたものに感じていた。あれほどまでに焦がれた熱量は、今や何処を探しても見当たりそうにない。

「珍しい事もあるものだね」
「珍しいだろうか」
「珍しいよ。他の兄弟達が飛ぶのに疲れる姿を見た事はないから」

確かに。一族が飛ぶ事に疲労を感じるなど聞いた事もない。
疲れた、と兄弟が口にするその対象は、常に飛ぶ事以外にあった。
曰く、鍛錬に。曰く、学ぶ事の多さに。曰く、友や兄弟と遊び続けてしまった事に。

「今までは、おれみたいな半端物だけが疲れるんだと思っていた」

遠く、屋敷のある方角に視線を向けて。彼の凪いだ声音や表情からは、何を思っているのか察せられない、
そう言えば、彼だけが一族の中で異端であったか。
混じりモノ。
元々直ぐに消えてなくなるだけだったはずの彼を繋ぎ止めるため、海に住まう永遠の肉を与えたのは誰であったか。
それにより背に翼を持ちながらも、海の底に沈む事を好む彼を屋敷へと連れ戻すのに苦心した一族がどれだけいた事か。
今となっては懐かしい思い出話となり、活発で反抗ばかりしていた彼も大分落ち着いたと言われているが。彼のそれは、落ち着いたのではなく摩耗して擦り切れてしまっているのだと、どれだけ気づいているだろうか。

「疲れたのか」

問いかける。それに瞬きを一つして。屋敷から空の上、雲より遙か彼方の陽を見るようにして、空を仰いだ。

「どうだろう。前は確かに疲れていたのに。今はあまり感じる事がないや。疲れも、それ以外も。全部」

おそらくは落ちた理由を、正しく彼は理解しているのだろう。
何も問いただす事のない彼に、何も気づいていないふりをして甘える事にした。


「そろそろ屋敷に戻った方がいいかな」

陽から視線を逸らして彼は呟く。
それに肯定するため頷こうとして、止めた。

「まだここにいるの」

その問いには首を振り、否を返す。

「少し疲れてしまったからな」

飛ぶ事に。手を伸ばし、求める事に。
疲れた、と繰り返せば、彼は目を瞬いて屋敷を見、その下に広がる森を見た。
背の翼を羽ばたかせ、森へと飛ぶ。

「飛ぶのに疲れたのなら、歩こう」
「そうだな。屋敷に戻る前に、歩いていこうか。いっそどこか遠くへ行くのも良いのかもしれない」

空高く飛ぶのではなく。深い海の底に沈んでいくのでもなく。
広い大地をどこまでも歩いて行く。
一族に見つかる事は直ぐにはないはずだ。深い森は空を飛ぶ彼らから身を隠してくれるし、そもそも彼らは空か海しか探す当てはないだろう。

「遠く…怒られてしまうよ」

不安を口にしながらも、彼は行き先を変える事はない。

「その時はその時だ。一緒に怒られようか」

地に降り立ち笑ってそう言えば、同じように地に降りた彼は小さく頷いた。
手を差し出す。恐る恐る手を取った彼と共に歩き出す。

「翼は歩くのには必要ないな」
「そう、だね。歩くだけなら足があればいい」
「それと触れるための腕と、話すための唇は必要か」
「あと、聞くための耳と、見るための目もほしいよ」
「では、必要ないのは翼だけか」

歩みを止めぬまま、切り捨てるために不必要なものを思い描く。こちらを見る彼の目が僅かに見開かれたのを見て、上手く捨てられたのだと笑った。
彼も翼を切り捨てる事にしたようだ。霞み消えていく彼の翼を見ながら、これからどこへ行こうか考える。

「行きたい所はあるか」
「分からない。屋敷と海の中しか知らないから」
「それもそうだな。では気の向く方へ行ってみるとするか」

そう言いながらも、足は自然と屋敷とは反対方向へ向かっている。
この先に何があるのか。空を飛んでいた時には見る事の出来なかった光景に、目を奪われながらゆっくりと歩いて行く。

「きれい」

吐息にも似た囁きに彼を見る。
色鮮やかな木々の葉が風に踊るのを見る彼の笑顔に息を呑んだ。虚ろだった藍が燦めいて、かつてのただの子供だった彼がそこにいた。

「綺麗だな」

空を見上げる。木々の合間から僅かに見える陽は遠い。
それでも求め続けていた時より優しい輝きに見えるのは、隣で彼が笑うからか。

「本当に、綺麗だ」

足取り軽く。行き先を決めず。
極彩色の世界を歩いていく。
その先に、擦り切れなくしてしまったものがあればいいと、願った。



20241124 『落ちていく』

11/23/2024, 12:19:59 PM

「わたくしと夫婦《めおと》になって下さい」

そう言って、見知らぬ少女はにこりと笑った。


「え?なんて?」
「わたくしと夫婦になって下さい」

思わず聞き返せば、先ほどと寸分違わぬ台詞が返ってくる。
やはり、聞き間違いではないようだった。

「誰かと間違ってない?」
「いいえ。あなた様と夫婦になりたいのです」

人間違いでもないらしい。けれどどんなに記憶を漁ろうと、目の前の少女に覚えはなかった。
どうしよう、と内心で焦る。
今は誰もいないとはいえ、公園で、しかも年端もいかないであろう少女に結婚を迫られるのは、周りの目が怖い。この様子ではごっこ遊びや冗談ではないのだろう。微笑みながらも真剣な眼差しは、早く答えろと急かしているようだ。
断るのは当然として、どう答えるのが正解なのか。出来るだけ少女を傷つけないような断り方を考える。だが何一つ思いつかず、そうしている間に側に来た少女が笑みを浮かべたまま、手を取り引いた。

「では、参りましょう」
「参るって、何処に」
「決まっているではありませんか。わたくしたちの屋敷に帰るのです」
「待って!ねえ、本当に待って」

参りましょう、と歩き出そうとする少女を必死で止める。このまま流されてしまうわけにはいかない。

「まだ何も言ってないし、あなたの名前も知らないんだけど!」

きょとり、と首を傾げ、不思議そうに目を瞬かせ。けれどその表情は次第に憂いを帯びていく。

「わたくしと夫婦になるのはお嫌ですか」
「嫌というか、知らない相手と結婚するのはハードルが高いというか。見た目的に無理があるというか。出来れば普通がいいというか」
「でも旦那様はこの年頃の童がお好きでしょう」

悲しげに伏せられた目に酷く心が痛むが、それよりも誤解を生みかねない少女の言葉に焦る。心当たりがないわけではないが、そもそもが仕事で相手をしているだけだ。

「お忘れですか。弱ったわたくしを旦那様が救って下さったではありませんか。傷の手当てをし、痛む体を優しく撫で摩り、大丈夫だとお声をかけ昼夜を共にしたでしょう。わたくし、あの時に決めたのです。旦那様と夫婦になると」

記憶にない。いや、心当たりが多すぎてどれだか分からない。
狐か、狸か、はたまた猫か。人に化けられるのであれば、鼬や狢も当てはまるだろうか。

「ですからわたくしと夫婦になって下さい。それとも既に心に決めた方がおられるのですか」
「それはいないけど。そういうのじゃないけど、何というか」
「でしたら何の障害もありませんね。この姿がお嫌であれば、別の姿に変えれば良いだけの事です」

ふわり、と微笑んで少女の姿が揺らぐ。
大きくたくましくなっていくその姿に、思わずひっと声を漏らして後退った。
これは逃げた方がいいやつだ。

「何処へ行くのですか、旦那様」

けれど走り出すより速く、少女だった男に腕を掴まれ、そのまま引かれて抱きしめられる。
息苦しさに腕を叩くが、さらに強く抱きしめられて頬ずりをされた。

「何してるんですか。先輩」
「ん。楽しそうだったから」

何が、とは敢えて聞こうと思わない。どうせいつもの思いつきなのだろう。
男との付き合いはそれなりに長いが、知っている事はほとんどない。こうして触れあいを好んでいるが、何を考えているのか、その表情からは全く見えてこないのだ。

「相変わらず化かし甲斐があるなぁ。心当たりを必死に探して、周りの目を気にして。焦って…全然オレに気づかなかったなぁ」

愉しくて仕方がないのだろう。彼がこうして人を化かして遊ぶのはいつもの事だ。
はぁ、と溜息を吐く。逃げ出す事を諦めて彼にもたれかかれば、良い子と髪を撫でられた。

「人間とは何でこうも馬鹿なんだろうね。オマエは可愛いし愉しいからいいけど」
「先輩」
「簡単に化かされ、騙されて死んでいく奴らを守る必要なんてあんのかねぇ。退屈しのぎになるかと思って付き合ってはいるが、そろそろ飽きてきたぞ」
「先輩」

腕を叩く。笑んではいるが、どこまでも冷たく鋭い眼を見据えて口を開く。

「そろそろ離してください」
「嫌だと言ったら?」
「この場で舌を噛み切って死ぬ」

はっきりと告げれば、彼は耐えきれずに声を上げて笑った。

「それで死ねない事は分かっているだろうに。何度試した。オレに体も魂も弄られて、オマエという存在以外を奪われて。あと何度試せば理解するんだろうか。本当に馬鹿で、愚かで、惨めで」

分かっている。そんなこと。
何度も試した。無駄だと笑われても繰り返し続けた。
それでも敢えて言葉にするのはただの意地であって。そして確認でもある。
彼がまだ、人に興味を持っているのか。それとも全てに飽いてしまったのか。

「そんな憐れなオマエが、オレは一等好きだよ」

戯れを口にする。何度も繰り返されたやり取りだ。
そう言えば先輩と後輩という、ごっこ遊びを始めたのも彼だったかと思い出す。結局は全て彼の遊びの一つなのだろう。
飽きたら捨てる。そして思い出す事もない。ただそれだけ。
その時が来るのを待つだけだ。


「じゃ、行くか」
「……何処に?」
「言っただろう。オレ達の屋敷だよ。しっかり断らなかったのはあれだが、受け入れはしなかったからな。及第点ってやつだ」

何を言っているのか。彼の言葉はいつも突拍子もないが、これはまるで。

「オマエが受け入れたなら、誓約を違えたとして爺共を縊れたんだがなぁ。仕方がない。何もしなくとも爺共は近くくたばるだろうし、今暫くは従っておいてやろう」

残念だ、と。然程思っていないだろう事を呟いて。
有無を言わさず抱き上げられる。下ろせと藻掻く体を意に介さず、歩き出す。
可哀想に、と弧に歪む唇が囁いた。

「オレに捧げられたばっかりに、死ぬ事も出来ないなんてなぁ。でも心配すんな。結納は眷属共と盛大にしてやるから…ま、雨を降らせられないのは残念ではあるが」

当たり前だ。雨を降らせるのは狐であって狸ではない。
溜息を一つ。唯一の望みが絶たれた事を受け入れられない気持ちごと吐き出した。

「永遠に大切にさせてもらうぜ?オマエさん」

上機嫌な求婚の言葉に、彼に凭れる事で応えとした。



20241123 『夫婦』

11/22/2024, 11:16:03 AM

白椿の咲く一本の木の前で、一人立ち尽くしていた。
これは夢だ。ぼんやりとそう思う。
記憶にあるそれよりも幾分か小さな椿は、溢れんばかりの白い花を咲かせ。風に葉を揺らし、時折花を地に落とす。
何にも縛られる事のない自由な椿は、何の力も持たないただの椿だった。

「どうか皆をお守り下さい。傷ついた者達に安らかな眠りを与えて下さい」

必死に祈る声が聞こえた。
いつの間にか椿の前に、幼い少女が一人。椿に水を与え、祈っていた。
いくら祈った所で、椿はただの椿だ。そうは思えど口には出さず。少女に習うようにして、椿に祈る。
祈る度、瞬きの度に少女は大人になっていく。やがて少女の姿が消えても、ただ一人椿に祈っていた。


「助けて下さい」

声がして、目を開けた。
椿の前。先ほどとは違う少女が倒れ伏していた。

「助けて」

少女の願う言葉は、椿にではない。
弱りながらも強さを失わない目は、椿ではなくこちらを見ていた。

「どうすればいいの?」

助けて、と言われても、何を求めているのか分からなかった。
誰を助ければいいのか。何をすれば助ける事になるのか。
問いかければ、少女の強い目が迷うように揺れて。

「名前がほしい。このまま消えたくない」

そう言って必死に腕を伸ばす少女に、応えるようにその手を掴んだ。





「目が覚めたか」
「神様?」

目を開けると、彼が奉られている社にいた。
随分と暖かい。彼の腕の中は酷く安心する。
夢うつつに微睡む意識で、彼の胸元に擦り寄った。

「黄櫨《こうろ》。俺の眼を欺くな。お前を失いたくはない」

静かな声に、目を瞬いた。
彼を見上げる。揺らぐ金色が怖れの色を浮かべているのが見えた。

「ごめんなさい、神様」

腕を伸ばし、彼の頬に触れる。ここにいるのだと、どこにも行かないと伝えるように、彼を呼んだ。

「許さぬ。暫くはここから出られると思うな」
「曄《よう》が心配するよ」
「炎が側にいる。問題はないだろうよ」

頬に触れた手に重なる手が、微かに震えている事に気づく。
怖ろしかったのだろうか。彼を一人置いていなくなると思われているのだろうか。
そんな事あるはずないのに。

「あれは黄櫨を求めていた。黄櫨の神になり、呼んでほしかったのだ」

消えてしまった一人きりの妖を思い出す。
妖は妖だ。妖が守る一族にとって式であり、守り神であったけれども、それだけだ。それ以外の者にとっての神には成れない。
それに私の神様は一人だけでいい。

「私の神様は御衣黄《ぎょいこう》様、ただ一人だよ」

言葉にして伝える。彼の金色を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
彼がいい。過去に縋るしかなかった弱い私の手を引いていてくれたから私はここにいる。未来に生きられるように、新しく名前をくれた彼だけが私の神様だ。

「何処にも行かない。離れてもちゃんと神様を呼ぶよ。最初から呼んだのは私だったでしょう。だからこれからも、あの時だって神様を呼べたんだから」

妖の庭で妖と対峙した時、無意識に彼を呼んでいた。
守るように現れた彼の背を見て、本当は泣きたくなるくらいにほっとしたのだ。

「黄櫨」

名を呼ばれる。頬に触れていた手を取られ、指先に彼の唇が触れた。

「どうしたの、神様」

彼は何も答えない。答えの代わりに手が離されて、そのまま彼の手が視界を覆った。
ほんの僅かな違和感と、穏やかで暖かな熱。

「暫し眠れ。怖かったのであろう」

優しい声。それでもどこか憂いを帯びた声音に、彼はまだ不安なのかと思う。
怖いのはきっと神様も同じだ。大丈夫だと言葉で伝えても、不安は消えてくれなかった。
言葉だけでは伝わらないのだろうか。どうすれば彼の不安を、怖れを取り除く事が出来るのか、分からない。

「神様、私はどうすればいい?神様のために私は何が出来るの?」

問いかける。さっき夢で見た少女にしたのと同じ問いを、彼にする。

「名を、呼んでくれ」

ただ一言。
その小さな囁きは、あの椿の元にいた少女達の祈りの言葉によく似ている気がした。

「御衣黄様」

彼の名を呼ぶ。何度も繰り返す。
想いを込めて、只管に。

「御衣黄様。私の名前も呼んで」

彼の名を呼ぶ合間にそう願えば、微かな笑う声と共に黄櫨、静かに名を呼ばれる。
彼が与えてくれたもの。今の私を定めてくれる大切な宝物。
段々と瞼が重くなっていく。緩やかに落ちていく意識の中、夢の中の少女が彼女と重なり、あぁそうか、と理解する。

転校生として彼女と初めて会った時。懐かしいと言われたのは、本当の事だった。
彼女があそこまで私達に心を砕いて動いてくれたのは、彼女に名付けたからか。
昔、椿の元で出会った彼女は、人でありながらも、妖のように消えかけていた。遠い昔、呪に蝕まれた亡くなった祓い屋の、その歪み捻れた魂を取り込んで生まれてしまった彼女は、生まれた時から妖に近い存在だった。
両親からもらった、祓い屋の名の一部である白という名がさらに彼女を不安定にさせ、きっと出会わなければあのまま消えていたのだろう。
名がほしい、と彼女は願った。存在を確かにするために。
だから差し出した。忘れ去られ、消えていくだけの名を。

「封が大分解けてしまっているな。それ以上思い出すな。お前は今、黄櫨なのだから」

眠れ、と今一度彼に促され、思考が解けていく。
目が覚めれば、二度と思い返す事もないのだろう。

「お前には俺がいる。孤独に彷徨った過去などいらぬだろう」

途切れる意識の間際。
それでも確かに聞こえた救いのような彼の言葉に、泣くように微笑った。



20241122『どうすればいいの?」

11/21/2024, 12:44:46 PM

「寒緋《かんひ》さん。少しいい?」

全てが終わり。後に残った面倒事も一区切りがついた頃。少女は男へと声をかけた。
その腕の中には黒い子猫。しなやかな尾を大きく揺らしながらも、少女の腕から逃れようとする様子はない。

「何だよ」

訝しげに男は少女を見る。僅かに苛立ちが浮かぶのは、少女の腕の中の子猫が記憶の中の唯一と同じ名を持つからだ。
そも、兄姉以外とは関わりを持とうとしない男が未だにこの場にいるのは、兄に後始末を指示されたからに過ぎない。
男にとってはこの屋敷に住まう者がどうなろうと、それこそ死に絶えてしまおうと興味はなかった。屋敷内に来た際、広間に立て籠もる者達に手を貸したのも、邪魔をされたくなかったからに過ぎない。
ただ兄に残れと言われたから。それだけがこの場に留まる理由の全てであり、他と交流を持つ事など端から求めていなかった。

「この子。陽光《ようこう》と言うのだけれど。無茶ばかりをしていてね。だから無茶が出来ないようにしようと思って」
「それが何だってんだ…って、おいっ!」

はい、と子猫を手渡され、思わず受け取ってしまった男の顔が不快に歪む。
遠い昔の男の大切な唯一の名は、男の記憶の柔い部分を揺さぶり、酷く不快な気持ちにさせる。況してやこんな畜生に名付けられていると思うだけで、腸が煮えくり返りそうだというのに。
けれども少女は男には見向きもせず。子猫に向かい、呆れを乗せて話しかけた。

「もう人の姿を取れるくらいまで回復したでしょう。さっさと姿を見せてあげなよ、陽光」

少女が子猫の名を呼んだ刹那。子猫の姿が揺らぎ、人の形へと変わっていく。
その姿に男は目を見開き、息を呑んだ。不快に耐えられずその小さな体を握り潰そうとした腕は、焦り抱き留めるようにして人に変わった子猫の体に巻き付いた。

「主!お許し下さい。後生ですので行かないで下さいまし!」

子猫が必死で少女へと手を伸ばす。それに笑顔で手を振って去って行く少女を、それでも諦めきれず男の腕から逃れようと藻掻き出した。

「離して下さいまし!このままでは主に置いて行かれてしまわれます」
「陽光」
「お願いで御座います。主は私のような畜生めを救って下さるほどの尊いお方。今世では主にお仕えする事こそが私の務めなのです。ですのでどうか離して下さいまし、父上」

子猫の言葉に、男は名を呼ぶばかりで離そうとはしない。

「陽光」

噛みしめるように愛しさを込めて名を呼ぶ。男がかつて愛した者との間に生まれたただ一人の、何にも代え難い大切な娘の名を。
霞み色褪せてしまってはいるが、忘れた事など一度もない。
気高く、美しい娘だった。聡明で何事にも動じる事のない強さを抱いた、男の自慢の宝だった。
きつく目を閉じる。それでも耐えられず溢れ落ちた涙が子猫を濡らし、その冷たさに、己の言葉を聞く事のない男に、焦りを浮かべた子猫の表情が段々と苛立ちと怒りに変わっていく。

「父上。離して下さい」
「陽光」

ぷちり、と何かが切れる、音がした。

「いい加減にせぬか、親父殿!離せと何度言うたら理解するのか、この軟弱者めがっ!」
「陽光だ。本物の陽光だ」
「ええい、いつまでも泣くでないわ!あれから何百年も経っているというに、その泣き癖は変わらぬとは全くもって嘆かわしい。疾く離せ。擦り寄るでない」

子猫の手が男の頬を張る。それでも男は子猫を離す事はなく。目尻を下げ、口元を笑みの形に歪めて、嬉しくて仕方がないのだとさらに強く抱きしめた。

「陽光。ごめんな。俺がもっとしっかりしていれば、あんな野郎に嫁ぐ事なんてなかったのに。あんな脆弱で女一人守れんような奴なんかに」

後悔を口にする。娘を手放した事を、男は今も悔いていた。
例えその婚姻が娘の意思であったとしても。男の唯一の宝である娘を手元に置いておきたかったのだ。

「殿を謗るのはやめよ。親父殿よりも余程素晴らしきお人であったわ」

男から顔を背け、子猫は窘める。
だが子猫の纏う気は幾分か落ち着いている。夫婦であった時は僅かではあったものの、穏やかで愛おしい過去を懐かしむように子猫は目を細めた。
子猫にとっては男と共に過ごした時より、己が認め愛した殿との記憶が何よりも大切な宝であった。
それに不満を覚えて、男は子猫を幼子を抱くようにして抱き上げ視線を合わせる。愛しい者との記憶を辿る行為を邪魔され、子猫はまた苛立たしげに男を強く睨めつけた。

「何だ、親父殿」
「…俺の方が、強い」

微かな、訴えかける呟きを、子猫は鼻で笑う。

「殿は最期の時まで人前では涙一つ見せぬ、立派な男子であったぞ」

押し黙る。それでも目だけで不満を表す男に、子猫は致し方ない、と呆れて柔らかく笑った。
かつて娘であった子猫は、男のこの表情に弱いのだ。

「分かった分かった。そうだな、親父殿は誰よりも強い男であったな。詫びに暫くは親父殿の元で厄介になる故、許せ」
「本当だな。嘘じゃないな」
「この陽光に二言はない。それに此度の所業に主は甚く気分を害されてしまった事であるし、今更戻れぬ」
「そうか」

子猫の言葉に、男は泣くように顔を歪めて笑う。
幸せだと、目を細めて。男は己の唯一である宝を強く抱きしめ、その額に口付けた。





「あ。ふっとんだ」

男達とは離れた場所。
少女と少年は、男が子猫に殴られ蹴られ吹き飛ばされていくのを笑いながら見ていた。

「師匠。陽光はあれでいいのか?」

笑いながらも不安を宿して、少年は少女に問いかける。少年の記憶にある限り、子猫はかつての親の元へ帰る事を拒んでいたはずであった。

「いいんだよ、あれで。陽光は素直でないからね」

子猫は男と会いたくはないと言ってはいたが、男が嫌いだとは一言も言わなかった。ああして男に手を上げる事はあれど、男と離れてもその場を去ろうとしないのが何よりの証拠だ。
それを指摘すれば、少年はそういうものかと首を傾げながら、男と子猫のじゃれ合いを眺めていた。

「あのおっさん。陽光に頼まれてちび達がおっさんの永遠を解こうとしたって知ったら、どう思うんだろうな」
「さあね。でも案外嬉しがるんじゃないかな。手段はどうであれ、一人を苦しむ父を救うためだったんだから」

実際は、男にはすでに共にいてくれる兄姉がおり、一人を苦しむ事はなかったようであるが。
それでも愛娘が己を想い続けていたと知れば、幸せ者だと男は泣くように笑い、終を受け入れるのかもしれない。
男達から視線を逸らし、庭中を駆け回る童女達に視線を向ける。
傍らの少年よりもさらに幼い少年の指示で、あやとり紐を手に走る二人の童女はとても楽しそうだ。指示役の少年も、いつもより表情は柔らかいように見える。
目を細め、笑みを溢し。
けれどそう言えば、と笑みを消して、少女は傍らの少年に話しかけた。

「様子見だって言ったのに勝手に動いた事のお説教がまだだったね」

ぎくり、と少年の肩が跳ねる。

「嵐《あらし》がおちびのお願いに弱いのは知ってるけど、意味のない事だって知ってたでしょう?ちゃんと止めてよ」
「だってさ、ちび達が失敗して落ち込んでたし、褒めてほしかったんだって。あのおっさんと同じくらいの呪いは、あれくらいしかなかったし」

もごもごと言い訳をするも、次第に声は小さくなり。
小さなごめんなさいの言葉に、少女は仕方ないと笑った。

「まあいいや。そろそろあの子達も休憩した方がいいだろうし。皆が揃ってからお説教をしようか」

えぇ、とぼやく声は聞こえないふりをして。

「晴《はる》、天《そら》、光《ひかり》。戻っておいで。休憩にしよう」

視線に気づき、笑顔で手を振る少女の宝物達に声をかけた。



20241121 『宝物』

11/20/2024, 2:02:45 PM

蝋燭に火を灯す。
揺らめくその炎で香に火をつければ、ゆらりと立ち上る煙が形を作り、やがて緋色の妖の姿になった。

「まさか貴女に呼ばれるとはね」
「藤白《ふじしろ》さんを探せって教えてくれたって聞いたから。どうなったのか知る権利はあるかなって」

蝋燭の炎に視線を向けたまま呟く。

「色々あって、他の皆はまだ庭の中でやらないと行けない事があるって言ってた。だからあたしが話せるのは、クガネ様が消えた時までだけどね」

妖は何も言わない。その沈黙に甘えてゆっくりと話し出す。

「クラスに転校生が来たの。少し不思議な子」

自分達にとっては、彼女が始まりだった。
それからたくさんの事が起きた。
聞こえる声。送られた枯れない藤の花。
座敷牢とそこにいた二人の男の人。
変わり果てた叔父の屋敷。
そして、クガネ様。

要領の得ない、妖の話とは比べものにならないほどお粗末な話。
それでも話を止めるつもりはなかった。誰かに話を、クガネ様の事を知っていてほしかった。

話ながらも神に言われた事が繰り返し頭を過ぎていく。
妖は誰からも認識されなければ消える。消えてしまえば残るものなど何一つないのだと。
だからクガネ様に作られたという藤白も、彼に作られたという篝里《かがり》もクガネ様と共に消えてしまった。
そしていずれは自分達の記憶からも消えてしまうらしい。

「それで黄櫨《こうろ》がクガネ様のために歌って。クガネ様が笑って目を閉じたら、そのまま光になって消えたの」

ふぅ、と息を吐く。とても長い話になると思っていたけれど、話し方が下手なせいか思っていたよりは早く終わってしまった。
変わらず妖は何も言わない。多くを見知っている妖だから、既に知っていたのだろうか。

「クガネ様が消えた事で、屋敷は元に戻ったし、皆無事だった。でも皆クガネ様を忘れてた」

屋敷の主である叔父ですら、覚えてはいなかった。今回の事は離れに留まるたくさんのナニかが原因だと思われていた。
誰からも忘れられてしまうのは、とても寂しい事だ。
けれどあの場にいた自分以外は、それでいいのだと言う。
彼を正しく覚える者がいないのだから。離れの奥の怖ろしい存在として認識されていくよりは忘れられ消えて行く方がいいと。
それを否定するつもりはない。歪んだあの姿のままでいるのは苦しい事だと思ってもいる。
けれど如何しても。如何しても考えてしまうのだ。
長い間一人きりで、人々に誤解され歪んでいきながらも必死で守ろうとした優しい神様が、結局最後まで一人きりで消えていく結果を変える方法が本当はあるのではないかと。
「馬鹿な子ね。怖い目に遭ったというのに、その相手に心を砕くなんて」

静かな呟き。紡がれた言葉は呆れを含んではいるものの。その声音はどこか優しい。
妖に視線を向ける。以前出会った時の気怠い空気はなく、ただ柔らかい笑みを浮かべて手招いた。

「別に怖くない。クガネ様は怖くなかったよ」

妖の側に歩み寄りながらも、怖くはないのだと、繰り返し言葉にする。
クガネ様は怖くない。今は心からそう思える。
親友と二人、終わらせるために歌った時に流れ込んできたクガネ様の記憶が、それを伝えてくれている。
藤の花は、守ろうとして送られた。これ以上彼を見ないように、声に応えないように。僅かに残る彼の意識が、自分という魔から守られるようにと送らせた。
呪われた人を呼び寄せるのも、元はその呪いを代わりに取り込んで返していたらしい。けれど体に溜めた呪いが限界を超えて制御が出来なくなり、人の認識によって存在が歪んで。呪われた人を呼び寄せる意味を失って、行為だけが残ってしまった。
そしてその行為と、篝里に逢いたいという気持ちと。僅かに残る術の記憶が合わさって、人にも、況してや篝里にもなれない泥の塊がいくつも出来てしまった。

「クガネ様は怖くない。あたし達が怖がったから、クガネ様が怖くなってしまったんだ」

妖の招く手に触れて、はっきりと伝える。
順番を間違えてはいけないのだと。

「本当に馬鹿な子。真っ直ぐで甘い子に、一つ教えてあげましょうか」

抱き上げられて、妖の膝の上。
しなやかな指が差す方へ視線を向ける。蝋燭の火が妖の指に応えるように、ゆらりと揺れた。

「人が終を迎えて行く先がどこなのか、知っているかしら。全てが始まる場所であり、終わる場所でもある常世と呼ばれる世界」

指先がくるり、と円を描き。それに合わせて火の揺らめきが大きくなっていく。

「人はまた始まるためにそこへ還っていくのよ。藤白も篝里も還っていったようね。おまけを連れて」

揺らめく火の向こう側に何かが浮かび上がる。
三人の男の人の後ろ姿。
足取り軽く。真ん中の背の高い男の人の手を、二人が引いている。黒い鳥が三人の頭上を旋回し、戯れに誰かの肩や頭の上に止まっては、再び空へと飛び立っていく。
その姿はどこか見覚えがある気がした。

「少し違うけど藤白、さんと、篝里さん?じゃあ真ん中の金色の髪の男の人は」
「そうよ。あれが黄金《くがね》。藤白も篝里も、混ざるもののない姿がそれよ」

声は聞こえない。表情も見えない。
けれども皆笑っているように見えた。そう思えるくらい後ろ姿だけでも、楽しそうだった。

「あの二人は黄金に甘いもの。無理矢理にでも一緒に連れて行く事にしたようね」

くすくすと、妖は笑う。指を下ろせば蝋燭の火は消えて、白い煙が一筋上っていった。

「クガネ様は一人じゃないんだね」
「一人にさせてはもらえないのよ。過保護なのも考えものよね」

それくらいが丁度良いのではないだろうか。
少なくとも皆が笑っている。寂しい思いはしていないのだから。
振り返り、妖を見る。
鈍色に煌めく瞳が星のようで、とても綺麗だった。

「煙もそろそろ絶えるわね。戻るわ」
「お香ならまだあるよ。蝋燭はまた点ければいい」
「何が言いたいのかしら?」

笑みを浮かべたまま、妖はわざとらしく首を傾げる。
知っていて敢えて聞く、その意地の悪さに苦笑して。膝から降りて蝋燭に火を灯し、香に火をつけた。
振り返り、妖と同じように笑ってみせる。

「折角なんだから、何か話を聞かせてよ。一人で退屈しているの」

妖に、望む。
この美しい緋色の妖が、消えてしまわぬように。



20241120 『キャンドル』

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