sairo

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10/28/2024, 12:00:39 AM

気づけば、暗闇の中。
一寸先すら見えぬ暗闇に、けれども懐かしさを覚え眼を細めた。

――おねえちゃん?

りん、と鈴の音。

「銀花《ぎんか》」

振り返り、声をかける。
姿は見えない。だが確かにそこにいる気配に、徐に腕を伸ばしその手に触れた。

「大丈夫だ。怖くない」

びくりと体の震えが触れた手から直に伝わる。
これ以上怖がらせぬようにと声をかけ、人差し指を軽く握る。
片割れが弟妹《きょうだい》によく行う仕草。それをまねれば、強張る体から僅かに力が抜けたのを感じた。

――おねえちゃん。

鈴の音。布ずれの音。
どうやら己に合わせ、身を屈めたらしい。
握る手を解かれ、代わりに額に指が触れる。
額から左瞼をなぞり。頬の輪郭を辿り、唇へと小さな熱が移動していく。
こそばゆさに身を捩れば、微かな吐息が暗闇を震わせた。

――違う。もう一人のおねえちゃん。

「正解だ。よく分かったな」

頷き、笑みを浮かべる。
離れてしまった指を追って手を伸ばし、触れた指を再び握る。

――おねえちゃんが、連れてきたの?

「どうだろうな。確かにここは私が作り上げた歪ではあるが、むりやり連れ出した記憶はないな」

辺りを見渡せば、変わらぬ一面の闇。
此処がかつて片割れと共に眠っていた鳥籠の中である事は、見えずとも分かる。
だが此処にいる理由も妹がいる意味も、何一つ分からない。
感覚からして、己の眼によるものであるのだろうが。

――皆探してる。一緒に帰ろ?

鈴が鳴り。指を握る手が外され繋がれる。
見えぬと知りながら、それに首を振って否を返した。

「すまないな。私はすでに拾われてしまっている。勝手に戻る事は出来ないよ」

綺麗で哀しい彼を思う。
終わりを求めて迷い込んだ箱庭の、停滞した孤独を抱えた術師を一人にする事など最早出来る訳もない。

――そう。分かった。

すべてを告げずとも戻れぬ理由を察したのだろう。
引き止める言葉はなかった。


「あぁ、そうだ。会えたのならば、聞きたい事があったんだ」

――何?

沈黙を乱し、妹に問いかける。

「お前は己の名を、どのように思っている?」

狭間で生まれた弟妹の中で、末に生まれた彼女だけが両親以外の妖に名付けられた。
弟二人とは異なり、母の血を濃く継いでしまったためであるのだろうが、それを妹は嘆く事などあったのか。

――大切な宝物。東風《こち》が私を想ってつけてくれた、私だけの特別。

りぃん、と澄んだ鈴の音色。
名を与えられた事が幸せだと、何よりも嬉しい事なのだと。
柔らかく音を響かせる。

――おねえちゃんは?名前、嬉しくないの?

逆に問われ、否、と笑う。
名を与えられて嬉しくないなどあるものか。

「うれしいさ。私を想い付けてくれた名だから。満月《みつき》と呼ばれる声が何よりも好きだ」

腕を伸ばし、妹の髪を撫でる。
銀花、と想いを込めて名を呼んだ。

――満月お姉ちゃんに名を呼んでもらえるの、嬉しい。

「私も銀花に名を呼ばれるのは好きだ」

たまには、彼以外に名を呼ばれるのも悪くない。
ふふ、と思わず声を上げて笑う。

「心配ではあった。銀花だけが両親に名を与えられぬ事を、本当は気に病んでいるのではないかと。ただでさえ、やっかいな眼を持ったのだから。これ以上傷ついてはほしくなかったんだ」

――気にかけてくれてありがとう。満月お姉ちゃん。

ふわりと微笑む妹が、暗闇の中はっきりと見えて。
もう時間かと、少しばかり残念に思った。
手を離す。一歩だけ後ろに下がり。

「そろそろだな。次に会えるかは分からないが、また会えればいいと思うよ」

鈴の音が鳴る前に、目を閉じた。





目を開ける。
変わらぬ暗闇に、けれども眼前に映し出される白黒の光景に、まだ陽が落ちていない事を知る。

妹との会話を思い出し、唇に触れる。
何故、あんな事を言ったのか。
名を呼ばれる事を、その声を好きなどと。

名とは呪だ。
一番身近であり強力な、時に在り方すら定められるもの。その者を支配する不可視の鎖。
それは言い換えるとするならば、名付けた者の愛だ。
想いや願いを込めた、愛の言葉。先の生を照らす導であり、離れぬようにと結びつける印。

「満理《みつり》」

名を呼ぶ。己に名を与えた彼の名を。
ただ形を定めるためだけの言葉だと思っていた。拾われた事も彼の気まぐれであると。故に妹に問われるまで、気にかけた事もなかった。

「満理」

歌うように、囁くように、名を口の中で転がして。その響きに目を細めた。

不意に白黒の光景が音もなく掻き消える。
暫しの沈黙。
かたり、と音がして、闇が溶けるように消えていく。
広がる星空と草原。
何よりも綺麗な、人。

「満月」

名を、呼ばれる。触れる指の熱が心地良い。
目を閉じて擦り寄れば、くすりと笑う声がした。

「妹御との逢瀬は如何で御座いましたか?気になさっていたでしょう」
「満理のしわざか」

目を開けて彼を見上げる。
今日は随分と機嫌が良いらしい。優しく細まる深縹に、落ち着かず身を捩る。

「満月」

名を呼ばれる。普段とは異なる響きのそれが、目眩にもにた感覚を呼ぶ。
止めようと伸ばした手は絡め取られ、形の良い唇が満月、と何度も繰り返す。

「満理。それ以上は」
「おや。好きなのでしょう。妹御に話していたではありませぬか」
「っ、聞いていたのか」
「満月は私のものに御座いますれば」

くすくすと少女のように軽やかに笑う。

「満月も妹御も随分と厄介なものに好かれてしまったのですね。可哀想に…知っていますか。銀花とは雪を差す事もあるのですよ。風に舞う雪。本来は風花と名を付けたかったのでしょうね」

己のものであると示すために。

愉しくて仕方がないと笑う彼に、呆れたように一つ息を吐く。己の事すら揶揄って笑う彼は気づいていないのだろう。
「それはつまり、満理も愚弟も似たような者だという事か」

彼の笑みが消える。
口にするつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。

「満月」
「だってそうだろうが。だが口に出すつもりはなかった。悪かったと思っている。だからその顔を止めろ。それ以上強く手を握るな。痛いって!」

絡めたままの手を強く握られ、痛みに涙が滲む。
本当に心の狭い男だ。
逃れようと身を捩れど逃れる事は叶わず。満理、と縋るように声を上げれば、漸く手を離された。

「不用意に言葉を紡ぐからで御座います。反省なさい」

言葉こそは冷たいが、その声音はどこか窘めるような響きを持って紡がれる。

「満月」

名を呼ばれる。優しく愛おしげに。
何故か気恥ずかしくなり、視線を外し空を見た。
彼の箱庭に広がる空には月は見えない。ただどこまでも星が続いているだけだ。

「満理の箱庭には月がないのだな」

ふと気になっていた事を呟けば、呆れたような溜息が一つ。

「月なれば此処にあるでしょう。小さく粗雑ではありますが」

そっと頬に触れられ、促されるようにして視線を合わせる。
揺れる深縹が、淡く微笑んだ。



20241027 『愛言葉』

10/27/2024, 12:20:07 AM

「聞いてない」
「言ってないもん」

にこりと笑う友人を睨めつける。

「っ、帰る」
「今更だよ。覚悟決めなって」
「だから、心の準備がまだ、」

言いかけた言葉は、見知った少女を視界に入れた事でそれ以上は形にならず。
逸らそうとして逸らす事が出来ない視線が、逆に不自然で目立つような気がして。助けを求めるように、責めるように友人を見た。
その視線に、やはり友人は笑みを返し。事もあろうに少女達に向けて大きく手を振り呼び寄せた。

「こっち!」

こちらに気づき、近づく二人の少女。
活発そうな少女がもう一人の手を引き、おまたせ、と声をかけた。

「ごめん。待った?」
「全然。私達も今来たとこ」

ね、と同意を求められ、無言で頷く。

「取りあえず、お茶にしよっか。この近くにいいお店があるんだ」

友人に促され、そろって歩き出す。
すぐ側に、手を伸ばせば触れられるほど近くに、懐かしい彼女がいる。
その事実に、酷く泣きそうだった。





落ち着いた曲の流れる、カフェ内。
奥の四人席にそれぞれ座り、一通り注文を済ませた後の事。

「まずは自己紹介からだね。私は紺《こん》。んでこっちがあーちゃん」
「あだ名で自己紹介なんてしないで……彩葉《あやは》。一応よろしく」

笑顔で適当な自己紹介をされそうになり、溜息を吐きながら名を名乗る。
よろしく、でいいのかは分からない。そもそもこの集まりがどういうものなのか、友人からは何一つ知らされていなかった。
不安に少し冷たい言い方になってしまった気もするが、目の前の二人は気にしていないようだ。

「あたしは曄《よう》。よろしく」

活発そうな少女が、こちらを見て笑いかける。それに小さくよろしく、と返して、自然と目がもう一人の彼女へと移る。
目が合う。小さくはにかんで、ゆっくりと口を開いた。

「黄櫨《こうろ》、です。よろしく」

思わず伸ばしかけそうになる手を、机の下で強く握り締める。
今の彼女とは初対面だ。出会ったばかりの見知らぬ女にちゃんと自己紹介が出来た事を褒められても、困るだけだろう。

「それで?これは何の集まりなわけ?」

意識を逸らすように、友人へと視線を向ける。
無意識に目つきがきつくなってしまうのは、仕方がない。

「何って…女子会?みたいな。状況報告でお互いに落ち着いたみたいだし。連休だったしで、いいかなぁって」
「あたしもこの子を連れ出したかったし。ちょうど良かった」

顔を見合わせ笑う友人と少女に、溜息が漏れる。
文句の一つでも言おうかとも思ったが、タイミング良く注文した品が来た事で、取りあえずは口を噤んだ。



「彩葉さんが頼んだやつって、あんみつ?珍しいね」

少女の言葉に、顔を上げて首を傾げた。

「あんみつだけど。そんなに珍しい?」
「あたしがただ知らないだけだと思うけど。近所のカフェは皆ケーキとか洋菓子メインだから」

言われれば確かに。ここ以外であんみつやぜんざいなどがメニューにあるのを見た事がない。あって抹茶パフェくらいなものだ。
友人に視線を向ける。最近よく来るカフェではあるが、ここがおいしいと連れてきてくれたのは友人だった。

「だってあーちゃん。和菓子、好きじゃない。お寺にばっかいすぎたせいもあるんだろうけどさ」
「まあ、確かに。ケーキと大福なら、大福の方が好き、かな……ありがとう」

つまりは自分の好みに合わせて、カフェを探してくれたのだろう。
礼を言って気恥ずかしさに視線逸らし、白玉を掬って口に入れる。
仄かな甘みを噛みしめながら、ふと視線を上げる。
ちらちらとあんみつを見ていた彼女に、そういえば餡子は彼女の好物だったなと思い出し。
深く考えず、白玉と餡をスプーンに乗せて彼女に差し出した。

「え、あの。その」
「ぁ…ごめん」

困惑する彼女にはっとして、慌ててスプーンを下げ俯く。
やってしまった。彼女を困らせてしまうつもりはなかったのに。

「あ、別に嫌とかじゃなくて。あの、びっくりしたというか。その」

こちらを気にしてだろう。慌てて不快ではないと伝えてくれる彼女に、ただ申し訳なさが募る。

「ごめん。やっぱ帰る」
「あーちゃん」
「っ、待って!」

立ち上がりかけた体は、けれど友人の手と彼女の呼び止める声にそれ以上動けず。
縋るように友人を見れば、何も言わずに首を横に振られた。
彼女を見る。先ほどとは違い真っ直ぐな眼に、促されるようにして席に着いた。

「あの、本当に嫌ではなかったんだ。なんかどちらかというと、うれしかったし。懐かしいな、って」

柔らかく微笑まれる。
懐かしい、の言葉には、どう返すのが正解なのか。分からず何も言えない自分に、大丈夫だと掴まれたままの手が優しく繋ぎ直される。

「きっと彩葉さんは、お社にいる私にとって大切な人なん
だなって分かる。思い出せない事がすごく苦しいくらいだ…だから、これは私のわがままでしかないけれど、彩葉さんが許してくれるなら、友達になってもいい?」

何か頼み事があるとまず相手に許可を求めるのは、彼女の良い所であり、悪い所だ。昔からずっと変わらない。
そしてその頼み方に、自分は一等弱いのだ。

「彩葉でいいよ……こちらこそ、よろしく」

視線を逸らして、小さく呟く。ふふっ、と隣から聞こえた噛み殺したような笑い声に、八つ当たりも兼ねて、足を蹴った。

「ちょっ、暴力反対」
「五月蠅い。笑う方が悪い」

くすくすと、今度は目の前の二人も笑い出し、もう一度友人の足を蹴って誤魔化すように笑う。
何だか、先ほどまで色々と気にしてぎこちないと思っていた空気が嘘みたいだ。
気にしていたのは自分だけだったのだと気づいて恥ずかしくなる。

「あーちゃんは気にしすぎさんだからねぇ」

心を読んだように友人が笑う。

「ま、いいや。あーちゃんが慣れてきたみたいだし。改めて、女子会の開催でも宣言しちゃおっか」
「もう、紺の好きにするといいよ」
「仲良いね、二人とも。あぁ、そうだ。あたしも彩葉って呼んでいい?あたしの事も曄って呼んでいいから」
「分かった。さん付けって慣れないから、正直助かった」
「それじゃ、改めてよろしく、彩葉…で、あんたは物欲しそうにあんみつ見ないの。また今度買ってあげるから」
「み、見てないから」

急に賑やかになってしまった。だがこの賑やかさは苦ではない。
少しだけ、懐かしくて寂しい気もするけれど。

「一口だけだよ」

もう一度差し出したスプーンに、今度は困惑する事なくうれしそうに口を開ける彼女を見ながら。
どこかぼんやりと、過ぎてしまったあの夏を思い出していた。



20241025 『友達』

10/25/2024, 10:30:06 PM

かさりと、手の中の白い紙が小さく音を立てた。

「やだな。なんでこんなになるかな」

呟いて、ただの紙に戻った式を摘まみ上げる。
右手に当たる部分はなく、まるで鋭い刃物で切られたようだ。頭の部分はひしゃげ、潰され、見る影もない。
何の変哲もない人型の紙が、これを形代としていた少女に重なって、心底嫌だと顔を顰めた。

「ここまでになると、呪われてるのと変わんないな。最近は殆どなかったのに」

愚痴りながら、紙を香皿に置き火をつける。
青の炎を纏い、灰すら残さず燃え尽きるのを見届けて。引き出しの中から新しい式を取り出した。

形代。
仮初の体。人ならざるモノから身を守る術。
教えてくれたのは、長い間行方不明になっていた妹だった。
幼い彼女の事は、よく覚えてはいない。
ただいなくなった夜の事は、はっきりと記憶している。
怒鳴る声。泣く声。扉を開ける音。何かが倒れる音。サイレンの音。
五月蠅くて目が覚めた。暗闇が少し怖くて。縋るものを求めて伸ばした手は何も掴む事が出来ず。
そこで初めて、妹がいない事に気づいてしまった。
パニックになって、布団から抜け出して。
明かりが点いていたリビングに向かえば、そこには怖い顔をしたたくさんの大人達。
その中心で座り込む、祖母。
異様な光景に、声を上げて泣いた。
泣いて、しゃくり上げながら妹を呼ぶ。声が枯れるまで只管に。

その夜から、妹が帰って来る事はなかった。


「やめよ。思い出すもんじゃない」

頭を振って、思い出を散らす。
意識を切り替えるように、新たな式に息を吹きかければ、空を漂う式は形を揺るがせ、ただの紙から妹の姿へと形を変えた。

「ありがと、にぃ」
「ん。どいたしまして」

ふわりと微笑う妹の頭を、少しだけ強めに撫でる。無茶をしたのだろう事に対してのお仕置きをかねて。

「にぃ。ごめんなさい。怒ってるの?」
「怒ってる。んで、怖がってる。なに、あの切れ方と潰れ方。ちゃんとすぐに意識切った?」
「…少し切れただけだよ」

視線を逸らし、右腕を隠される。そんな事をしなくても式には反映されないだろうに。
形代は仮初ではあるが、しっかりとした自分の体だ。感覚も共有しているからこそ、怪我をすればそれが自身の体にも反映されてしまう。
会う事の出来ない本物の妹の体には、今回のものだけではない、今までの傷跡が残っているのだろう。
そう考えて、落ち込んだ。可愛い妹に傷が出来るのは、想像するだけで悲しくなる。

「にぃ。元気出して」
「そう思うなら、無茶しないで。今回はなにがあったのさ」
「えとね。大きい蜘蛛だった。糸の代わりに鎖を吐く蜘蛛」
「忘れなさい。今すぐに」

それは、なんだかとても嫌な予感がする。
思わず真顔になれば、妹はぱちり、と眼を瞬かせて頷いた。

「にぃが言うなら、忘れる。会わないように気をつける」
「そうして。そろそろ心配すぎで胃に穴が空きそうだ」
「それ。たぶんにぃも悪い。また危ない事に関わりに行ったでしょ」

ぎくり、と妹の頭を撫でていた手が止まる。

「あれはさ。つい、というか。思わず、というか」

言い訳にもならない言葉を溢して、様子を伺うように妹を見た。
凪いだ黒曜と間近で視線が交わり、思わず手で眼を塞ぐ。
これは妹の眼ではない。妹の眼はどこにもない。

「にぃ」
「なんでもない。なんでもないし、大丈夫だし。無茶するほど気が強いわけでもないし。そもそも怖いのは大嫌いだから」

その事実を改めて認識しかけて、先ほどよりも支離滅裂な言葉を羅列し意識を逸らす。
されるがままの妹には、すべて見透かされているのだろう。とても聡い子だ。そして誰よりも優しい子。

「あのさ。調《しらべ》」

――いかないで。

思わず口をついて出かけた言葉を呑み込む。
眼を塞いでいた手を外し、何でもないと首を振った。
そんな事を言っても困らせるだけだと分かっている。

あの夜。祖母は妹の眼を神社の神に捧げたのだと聞いた。
顔も知らない祖父に一目会うために。
捧げたのは眼だけだと言っていたが、大人達がその神社をいくら探しても妹の姿はどこにもなかったという。
神に隠されたか。野犬にでも食われたか。
誰もが後者だと思っていた。自分でさえもそう思った。
数年後、妹だという鳥に会うまでは。

「にぃ」
「ごめん。ちょっと昔を思い出してた。形代、教えてもらった方法から、色々弄ってるけど大丈夫?」
「うん。調子いいよ。上手」

妹の笑顔に、ほっと息を漏らし。そっか、と笑みを返す。
教えてもらった形代は基本だけ。移動し見る事しか出来ない。
それを自分なりに調べ上げて、仮初の体にまで改良したのは、偏に妹に会いたかったからに他ならない。
言葉を交わし、触れあえる。それだけで良かったのに。

「無茶はしないでよ。これ以上は形代作るのが怖くなる」
「気をつける。せんせいにも怒られてしまったし」
「今度またお参りに行くから。甘やかさないでくださいって、お願いしておく」

戯けて笑ってみせる。本心に気づかれないように。
今更後悔しているだなんて、形代を作りたくないなんて思っている事が知られれば、悲しませてしまうだろう。

不意に、室内に電子音が鳴り響く。
ポケットの中に入れたままのスマホを取り出すと、表示されていたのは知らない番号。
だが見覚えのある数字の羅列に、電話に出るため立ち上がり、部屋を出るため歩き出す。
けれど。

「調?どした」

服の裾を引かれ、立ち止まる。
振り返り妹を見るが、軽く俯いているためにその表情は分からない。

「どした」
「にぃ」

――いかないで。

微かな、着信音に掻き消されてしまうほど小さな声。
さっき自分が呑み込んだ言葉。

「ごめん。なんでもない」

服を掴む手が離される。それでも動く気にはならなかった。

「出ないの?」

鳴り続ける電話を気にする妹に、首を振る。

音が止む。
それを確認して、スマホの電源を落としポケットにねじ込んだ。

「良かったの?」
「良くないかも。でもなんとかなるよ」

大丈夫だと、笑う。
心配するなと手を取って。

「いかないよ。どこにも行かないし、逝かない。だから調もいかないで」

祈るように目を閉じた。



20241025 『行かないで』

10/25/2024, 12:07:35 AM

「せんせい」

か細い声が男を呼ぶ。
男が視線を向ける先。果たしてそこに、男を呼んだ少女はいた。
年の瀬は二十にも満たないだろう。まだあどけなさが抜けきらない。しかしながらその瞳には刃の切っ先のような鋭さを宿した娘。
簡易的な床から身を起こし男を呼ぶその華奢な四肢には、包帯代わりの白い布端が幾重にも巻かれていた。

少女の元へと歩み寄り、男はその右手を取る。
手背から前腕にかけて巻かれている布が、赤く染まっていた。

「傷はそこまで深くはないです。その前には意識を切り離せましたから」
「調《しらべ》」
「兄は変わらず元気です。厄介事に自ら首を突っ込むのはどうにかしたい所ですが」

眉尻を下げ笑う少女に、男は名を呼んだきり何も答えず。
布を解き、白く細い肌を滲ませる赤い傷口に薬を塗る。

「やはり体を動かしながらの視界は、十が限度みたいです。数が増える分、どうしても反応が遅れてしまう」

少女の眼がつい、と虚空を視る。
少女の体は床にありながらも、その眼は遙か遠くを鳥の式を通じて視ていた。

「狭間や歪を視るのに、百でも足りないくらいなのに…本当に、口惜しい」
「調」

男が再度、少女を呼ぶ。
はっとして、口を噤む少女の右腕に新たな布を巻き直し、男は少女の眼を塞ぐように手を当てた。

「形代を教えたのは、誤りであったのやもしれぬな」

静かに紡がれた男の言葉に、少女は唇を噛みしめる。

「死すために授けたのではない」
「分かっています。分かってる、ちゃんと」

視界を塞ぐ手を外そうと、触れる少女の手の力は哀しいほどに弱く。
縋るようにも見えるその様に、男はそれ以上咎める事なくその手を下ろした。
少女の眼が仄かな室内の光に晒される。
だがその眼は塞がれる前の黒曜の色を失い。焦点の合わぬ虚ろな眼差しで、男の声のする方へ向き直った。

「かみさま」
「呼ぶな。国一つ守れぬ無力な男だ。奉らずとも祟りはせぬ」
「せんせい」
「師と呼ばれるほどに授けたつもりはないがな。どうした」
「せんせい」

少女の手が男を求め、空を彷徨う。
その手を取れば少女は淡く微笑み、ほぅ、と安堵の息を漏らした。

「せんせいはわたしたちの守り神様です。せんせいがいなかったら、わたしは空が青い事も、兄の顔も知らず。生きるという意味さえ分からないまま、祖母の悲願の贄になっていました」

男の手を引き、頬をすり寄せる。
男が側にいる事を確かめるように。触れられる事を愛おしむかのように。

「せんせい。今日の空は青いです。どこまでも、どこまでも。せんせいの大切な方々のいる場所も…きっと祖父のいる場所も」

緩々と少女の瞼が落ちていく。

「せんせい」

少女の背に手を差し入れ、その身を床に横たえる。
眠れるようにと離れようとする男を、幼さを残した響きの声と手が呼び止める。

「暫し休め。目覚めたならばまた、話の続きを聞かせてくれ」

縋る手を無理に離す事はせず、男は少女の側に座り直す。
見えずとも、気配を感じ取ったのだろう。少女の表情が穏やかになり、そっと男の手を離した。

「ねえ、せんせい」
「どうした」
「おじいちゃんが、見つかったら。おばあちゃん。少しは、安心して、くれるかな。おかあさん、喜んで、くれるかな。にぃも、一人で、外に行ける、の」

段々と途切れていく言葉。
微睡みの中で、抑える事の適わなくなった不安が、少女の唇から溢れ落ちていく。
それを否定も肯定もせず。
男はただ、ここにいると伝えるかのように、少女の髪を撫でていた。

「せんせい」

少女の閉じていた瞼が開く。
褪せた黒曜が男を正しく見上げ。

「わたし、ちゃんと、おうちに帰れる、かな。帰りたい、なあ…帰りたい。にぃたちに、会いたい」

不安から懇願へ。
懇願から祈願へ。
想いを込めた言葉と、一筋溢れた涙と共に。少女の瞼は再び閉じられた。


「その願いに応えよう」

涙を拭い、男は言葉を紡ぐ。
眠る少女を起こさぬよう、静かに立ち上がり部屋を出れば、少女の言う青い空が見え、目を細めた。


少女の出会いから幾度の季が過ぎたのか。
七つに満たない幼子だった少女との出会いを思い返す。

朔の昏い夜の事であった。
男を奉る社に妙齢の女が現れたのは。
腕には眠る幼子を抱き。眼には狂気を宿して。

「捧げます。どうか夫に一目会わせてください」

幼子を地面に横たえ、祈るように呟いて。
手にした凶器を、躊躇なく――
泣き叫ぶ幼子。地を濡らす赤。
今更怖じ気づいたのか。凶器を取り落とし、言葉にならぬ呻きを上げて女は立ち去ってしまった。
一人残された幼子は、不安と苦痛と恐怖に泣き。しかしそれは次第に勢いをなくしていく。
後数刻もしない内に、その小さな命は終わりを告げるのだろう。

七つまでは神のうち、という。
幼子を女は捧げると言った。それは神である男に対して、願いの対価なのだろう。
捧げたものを受け入れる事は、女の願いを聞き入れると同意。
捧げられた幼子を受け入れる事で、契約が成されてしまうとしりながらも、男はその幼子に憐みをかけた。


目を伏せ、歩き出す。
空はどこまでも青く、そして果てない。
少女の言う通り、この続く空の下に彼女の祖父はいるのだろう。
女が残した凶器に残された想いから、女の夫が神隠しに会った事を知った。
忽然と姿を消したようだ。何の前触れもなく。唐突に。
優れた薬師であり庭師であったとの事であるから、おそらく木霊や古木に拐かされたのであろう。

ある程度の検討はついている。
後は確かめるだけだ。

「願いに応えよう。必ずその身を現世へ」

己自身に言い聞かせるかの如く、強く言葉を紡ぐ。
その黒曜の瞳は、かつて人であった頃の。
民を導く主のそれであった。



20241024 『どこまでも続く青い空』

10/23/2024, 10:48:16 PM

「ちょっと待って。これはさすがにないわ」

思わず頭を抱える。
隣で申し訳なさそうにしている彼女には悪いが、何一つ擁護出来る部分がない。

「なんで制服以外に、まともな服がほとんどないの」
「え、と。一応神様がいくつかくれたよ?」
「これを着てどこに行けると思う?というか、一人でこれ着れるわけ?」

目の前の箪笥にしまわれた、色鮮やかな着物を横目に溜息を吐く。
素人目にも高価な代物だとは分かるが、だからこそ普段着として使用するには気後れしてしまうだろう。
これ以上見ていられなくて引き出しを閉めれば、彼女が困惑するのが見て取れた。

「一応、着方は分かる、けど。そうか。これで皆出かけたりはしないんだ」
「あ、うん。分かった。それ以上言わないでいい。一から順に確認していこう」
「なんか、ごめん」
「気にしないで。薄々そんな予感はしてたから」

段々に痛む頭を押さえつつ、気にするなともう片方の手を軽く振る。
忘れてしまっているのか。それとも元々がそうであったのか。
後者である気もするが、理由がどうであれ彼女に今の知識が欠けているのは確かな事だ。

それに気づいたのは、彼女と再開して帰る道すがらの事だった。
何気なく住んでいる場所を尋ねると、きょとんとした幼い顔で事も無げに答えた。

――曰く、住む所はなく、学校にそのままいるつもりであると。

あまりの衝撃に、一瞬言葉を失い。
問い質せば、その勢いが恐ろしかったのか。少々怯えを含みながらも素直に詳細を語ってくれた。


「人らしく、って言うわりに、細かい所で雑だよね」
「だって食事とか、睡眠とか必要ないし。ただいるだけなら、学校も家も変わらないと思って」
「そういう所が雑なんだってば。人は寝て起きて、ご飯食べて動くのが最低限の普通なんだから。それすっ飛ばして人らしくなんて出来るわけないじゃん」

必要なものをスマホにメモしていきながら思った事を口にする。うぅ、と反論できずに呻く彼女の声が聞こえ、小さく笑った。

「丁度衣替えの時期で良かったね。その分必要なものが少なくてすむ」

取りあえず必要だろうものをメモし終え、彼女の手を引いて自室へと向かう。
彼女とさほど背丈が変わらないのだから、自分の服を貸せば外出は問題ないだろう。
自室のクローゼットを開けて、どれがいいか考えながら色々とあてがっていれば、あのさ、と怖ず怖ずと声がかかる。

「やっぱり一緒に住むの、止めにしない?」
「何を今更」
「だって、何だか申し訳なさ過ぎて。特にお金の事とかさ」
「気にしなくていいって言ったじゃん。ママもパパも喜んでたし」
「だからってさ」

俯きながら、養われるのはちょっと、と尚も食い下がろうとする彼女に見繕った服を押しつける。

「一人で着れる?」
「着れる。そこまで子供じゃない」
「そう。じゃあ、終わったら呼んで」

彼女がこれ以上何か言う前に、部屋を出る。
少々強引ではあるが、これまで何回か繰り返したやり取りだ。これくらいの方が、遠慮の言葉が続く事はなくちょうどいい。

「まったく。いい子過ぎるのも問題だな。欲がないのがさらに質が悪い」

はぁ、と息を吐く。
彼女の現状を聞いて、ルームシェアを提案したのは自分から。
遠慮する彼女を説き伏せ。ぐちぐちと五月蠅い彼女の神を正論でねじ伏せて。
両親が反対しない事は分かっていた。
母の実家の関係で人ならざるモノへの警戒が強い二人は、だからこそ守り椿のある学校への進学を一人暮らしになると分かった上で望んだのだから。
それなりに由緒のある神の眷属として在る彼女を、両親はやはり歓迎した。彼女の衣食住を保証すると言い出し、すぐにその分の金額を振り込んでくるくらいには。
自分としても、彼女と共にいられる時間が増えるのは嬉しい事であるし、彼女の世話を間近で出来るのは安心だ。

彼女がいるという事で、ついてくる彼を除いては。

「あんたさ。本当にあの子をどうしたいの?」
「意味が分からぬな。貴様こそ、何を考えている」
「あんたよりはまともな事よ。少なくとも、学校に通わせとけば人らしく生きられるだろうとかいう単純思考よりは複雑でまともだと思っているわ」
「減らず口を」

忌々しいと睨み付ける彼女の神を、鼻で笑う。

「元々は人だったって聞いたけど、古すぎるのも問題しかないね。今を生きるのに必要なものが全然足りないじゃん。特にあんたが」

そう言って指を差す。
不快に顔を歪める彼を気に留める事なく、この際だからと溜め込んでいたすべてを吐き出す。

「あんたの時代に衣替えの習慣はなかったわけ?なんでいつも同じ格好してんのよ。人らしく言う前にまず、自分の身だしなみを何とかしなさいよ。だからあの子が色々と気にしなっちゃうんだから」
「貴様に言われる筋合いはないな」
「は?関係大ありなんだけど。ここの家主はあたし。あんたは居候なんだから」

彼の表情が訝しげなものへと変わる。
こちらの真意を問うように細められた眼を真っ直ぐ見返して、笑ってみせる。

「あんたの部屋はこの隣。あの子から呼ばれない限りはこの部屋への立ち入りは禁止ね。食事は必ず皆でそろってリビングで取る事。あとは」
「暫し待て。小娘」
「なによ」

指折り数えて必要事項を伝えていけば、彼の手に制止される。

「我にもここに住め、と」
「何言ってんの?当たり前じゃん。視てなかったわけ?」

重苦しい溜息を吐かれる。
顰めた顔をする彼を冷めた目で見ていれば、扉の向こう側から控えめに彼女の呼ぶ声がして返事をした。

「とにかく、あたし達これから買い物に行くから。その間に何とかしておいて。衣替えの時期なんだし、全部一新させといてよ」

それだけを告げて、彼の返答も聞かずに部屋に入る。

「どうしたの?神様と何か話してたようだけど」
「何でもない。この家にいる限りは我が家のルールに従ってもらうよって話してただけ」

心配そうな彼女に、笑って首を振る。
着替えた彼女を見て、一通り可笑しな所がないかを確認して、手を差し出した。

「じゃあ、行こうか。今日は忙しくなりそうだ」



20241023 『衣替え』

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