気づけば、暗闇の中。
一寸先すら見えぬ暗闇に、けれども懐かしさを覚え眼を細めた。
――おねえちゃん?
りん、と鈴の音。
「銀花《ぎんか》」
振り返り、声をかける。
姿は見えない。だが確かにそこにいる気配に、徐に腕を伸ばしその手に触れた。
「大丈夫だ。怖くない」
びくりと体の震えが触れた手から直に伝わる。
これ以上怖がらせぬようにと声をかけ、人差し指を軽く握る。
片割れが弟妹《きょうだい》によく行う仕草。それをまねれば、強張る体から僅かに力が抜けたのを感じた。
――おねえちゃん。
鈴の音。布ずれの音。
どうやら己に合わせ、身を屈めたらしい。
握る手を解かれ、代わりに額に指が触れる。
額から左瞼をなぞり。頬の輪郭を辿り、唇へと小さな熱が移動していく。
こそばゆさに身を捩れば、微かな吐息が暗闇を震わせた。
――違う。もう一人のおねえちゃん。
「正解だ。よく分かったな」
頷き、笑みを浮かべる。
離れてしまった指を追って手を伸ばし、触れた指を再び握る。
――おねえちゃんが、連れてきたの?
「どうだろうな。確かにここは私が作り上げた歪ではあるが、むりやり連れ出した記憶はないな」
辺りを見渡せば、変わらぬ一面の闇。
此処がかつて片割れと共に眠っていた鳥籠の中である事は、見えずとも分かる。
だが此処にいる理由も妹がいる意味も、何一つ分からない。
感覚からして、己の眼によるものであるのだろうが。
――皆探してる。一緒に帰ろ?
鈴が鳴り。指を握る手が外され繋がれる。
見えぬと知りながら、それに首を振って否を返した。
「すまないな。私はすでに拾われてしまっている。勝手に戻る事は出来ないよ」
綺麗で哀しい彼を思う。
終わりを求めて迷い込んだ箱庭の、停滞した孤独を抱えた術師を一人にする事など最早出来る訳もない。
――そう。分かった。
すべてを告げずとも戻れぬ理由を察したのだろう。
引き止める言葉はなかった。
「あぁ、そうだ。会えたのならば、聞きたい事があったんだ」
――何?
沈黙を乱し、妹に問いかける。
「お前は己の名を、どのように思っている?」
狭間で生まれた弟妹の中で、末に生まれた彼女だけが両親以外の妖に名付けられた。
弟二人とは異なり、母の血を濃く継いでしまったためであるのだろうが、それを妹は嘆く事などあったのか。
――大切な宝物。東風《こち》が私を想ってつけてくれた、私だけの特別。
りぃん、と澄んだ鈴の音色。
名を与えられた事が幸せだと、何よりも嬉しい事なのだと。
柔らかく音を響かせる。
――おねえちゃんは?名前、嬉しくないの?
逆に問われ、否、と笑う。
名を与えられて嬉しくないなどあるものか。
「うれしいさ。私を想い付けてくれた名だから。満月《みつき》と呼ばれる声が何よりも好きだ」
腕を伸ばし、妹の髪を撫でる。
銀花、と想いを込めて名を呼んだ。
――満月お姉ちゃんに名を呼んでもらえるの、嬉しい。
「私も銀花に名を呼ばれるのは好きだ」
たまには、彼以外に名を呼ばれるのも悪くない。
ふふ、と思わず声を上げて笑う。
「心配ではあった。銀花だけが両親に名を与えられぬ事を、本当は気に病んでいるのではないかと。ただでさえ、やっかいな眼を持ったのだから。これ以上傷ついてはほしくなかったんだ」
――気にかけてくれてありがとう。満月お姉ちゃん。
ふわりと微笑む妹が、暗闇の中はっきりと見えて。
もう時間かと、少しばかり残念に思った。
手を離す。一歩だけ後ろに下がり。
「そろそろだな。次に会えるかは分からないが、また会えればいいと思うよ」
鈴の音が鳴る前に、目を閉じた。
目を開ける。
変わらぬ暗闇に、けれども眼前に映し出される白黒の光景に、まだ陽が落ちていない事を知る。
妹との会話を思い出し、唇に触れる。
何故、あんな事を言ったのか。
名を呼ばれる事を、その声を好きなどと。
名とは呪だ。
一番身近であり強力な、時に在り方すら定められるもの。その者を支配する不可視の鎖。
それは言い換えるとするならば、名付けた者の愛だ。
想いや願いを込めた、愛の言葉。先の生を照らす導であり、離れぬようにと結びつける印。
「満理《みつり》」
名を呼ぶ。己に名を与えた彼の名を。
ただ形を定めるためだけの言葉だと思っていた。拾われた事も彼の気まぐれであると。故に妹に問われるまで、気にかけた事もなかった。
「満理」
歌うように、囁くように、名を口の中で転がして。その響きに目を細めた。
不意に白黒の光景が音もなく掻き消える。
暫しの沈黙。
かたり、と音がして、闇が溶けるように消えていく。
広がる星空と草原。
何よりも綺麗な、人。
「満月」
名を、呼ばれる。触れる指の熱が心地良い。
目を閉じて擦り寄れば、くすりと笑う声がした。
「妹御との逢瀬は如何で御座いましたか?気になさっていたでしょう」
「満理のしわざか」
目を開けて彼を見上げる。
今日は随分と機嫌が良いらしい。優しく細まる深縹に、落ち着かず身を捩る。
「満月」
名を呼ばれる。普段とは異なる響きのそれが、目眩にもにた感覚を呼ぶ。
止めようと伸ばした手は絡め取られ、形の良い唇が満月、と何度も繰り返す。
「満理。それ以上は」
「おや。好きなのでしょう。妹御に話していたではありませぬか」
「っ、聞いていたのか」
「満月は私のものに御座いますれば」
くすくすと少女のように軽やかに笑う。
「満月も妹御も随分と厄介なものに好かれてしまったのですね。可哀想に…知っていますか。銀花とは雪を差す事もあるのですよ。風に舞う雪。本来は風花と名を付けたかったのでしょうね」
己のものであると示すために。
愉しくて仕方がないと笑う彼に、呆れたように一つ息を吐く。己の事すら揶揄って笑う彼は気づいていないのだろう。
「それはつまり、満理も愚弟も似たような者だという事か」
彼の笑みが消える。
口にするつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。
「満月」
「だってそうだろうが。だが口に出すつもりはなかった。悪かったと思っている。だからその顔を止めろ。それ以上強く手を握るな。痛いって!」
絡めたままの手を強く握られ、痛みに涙が滲む。
本当に心の狭い男だ。
逃れようと身を捩れど逃れる事は叶わず。満理、と縋るように声を上げれば、漸く手を離された。
「不用意に言葉を紡ぐからで御座います。反省なさい」
言葉こそは冷たいが、その声音はどこか窘めるような響きを持って紡がれる。
「満月」
名を呼ばれる。優しく愛おしげに。
何故か気恥ずかしくなり、視線を外し空を見た。
彼の箱庭に広がる空には月は見えない。ただどこまでも星が続いているだけだ。
「満理の箱庭には月がないのだな」
ふと気になっていた事を呟けば、呆れたような溜息が一つ。
「月なれば此処にあるでしょう。小さく粗雑ではありますが」
そっと頬に触れられ、促されるようにして視線を合わせる。
揺れる深縹が、淡く微笑んだ。
20241027 『愛言葉』
10/28/2024, 12:00:39 AM