「せんせい」
か細い声が男を呼ぶ。
男が視線を向ける先。果たしてそこに、男を呼んだ少女はいた。
年の瀬は二十にも満たないだろう。まだあどけなさが抜けきらない。しかしながらその瞳には刃の切っ先のような鋭さを宿した娘。
簡易的な床から身を起こし男を呼ぶその華奢な四肢には、包帯代わりの白い布端が幾重にも巻かれていた。
少女の元へと歩み寄り、男はその右手を取る。
手背から前腕にかけて巻かれている布が、赤く染まっていた。
「傷はそこまで深くはないです。その前には意識を切り離せましたから」
「調《しらべ》」
「兄は変わらず元気です。厄介事に自ら首を突っ込むのはどうにかしたい所ですが」
眉尻を下げ笑う少女に、男は名を呼んだきり何も答えず。
布を解き、白く細い肌を滲ませる赤い傷口に薬を塗る。
「やはり体を動かしながらの視界は、十が限度みたいです。数が増える分、どうしても反応が遅れてしまう」
少女の眼がつい、と虚空を視る。
少女の体は床にありながらも、その眼は遙か遠くを鳥の式を通じて視ていた。
「狭間や歪を視るのに、百でも足りないくらいなのに…本当に、口惜しい」
「調」
男が再度、少女を呼ぶ。
はっとして、口を噤む少女の右腕に新たな布を巻き直し、男は少女の眼を塞ぐように手を当てた。
「形代を教えたのは、誤りであったのやもしれぬな」
静かに紡がれた男の言葉に、少女は唇を噛みしめる。
「死すために授けたのではない」
「分かっています。分かってる、ちゃんと」
視界を塞ぐ手を外そうと、触れる少女の手の力は哀しいほどに弱く。
縋るようにも見えるその様に、男はそれ以上咎める事なくその手を下ろした。
少女の眼が仄かな室内の光に晒される。
だがその眼は塞がれる前の黒曜の色を失い。焦点の合わぬ虚ろな眼差しで、男の声のする方へ向き直った。
「かみさま」
「呼ぶな。国一つ守れぬ無力な男だ。奉らずとも祟りはせぬ」
「せんせい」
「師と呼ばれるほどに授けたつもりはないがな。どうした」
「せんせい」
少女の手が男を求め、空を彷徨う。
その手を取れば少女は淡く微笑み、ほぅ、と安堵の息を漏らした。
「せんせいはわたしたちの守り神様です。せんせいがいなかったら、わたしは空が青い事も、兄の顔も知らず。生きるという意味さえ分からないまま、祖母の悲願の贄になっていました」
男の手を引き、頬をすり寄せる。
男が側にいる事を確かめるように。触れられる事を愛おしむかのように。
「せんせい。今日の空は青いです。どこまでも、どこまでも。せんせいの大切な方々のいる場所も…きっと祖父のいる場所も」
緩々と少女の瞼が落ちていく。
「せんせい」
少女の背に手を差し入れ、その身を床に横たえる。
眠れるようにと離れようとする男を、幼さを残した響きの声と手が呼び止める。
「暫し休め。目覚めたならばまた、話の続きを聞かせてくれ」
縋る手を無理に離す事はせず、男は少女の側に座り直す。
見えずとも、気配を感じ取ったのだろう。少女の表情が穏やかになり、そっと男の手を離した。
「ねえ、せんせい」
「どうした」
「おじいちゃんが、見つかったら。おばあちゃん。少しは、安心して、くれるかな。おかあさん、喜んで、くれるかな。にぃも、一人で、外に行ける、の」
段々と途切れていく言葉。
微睡みの中で、抑える事の適わなくなった不安が、少女の唇から溢れ落ちていく。
それを否定も肯定もせず。
男はただ、ここにいると伝えるかのように、少女の髪を撫でていた。
「せんせい」
少女の閉じていた瞼が開く。
褪せた黒曜が男を正しく見上げ。
「わたし、ちゃんと、おうちに帰れる、かな。帰りたい、なあ…帰りたい。にぃたちに、会いたい」
不安から懇願へ。
懇願から祈願へ。
想いを込めた言葉と、一筋溢れた涙と共に。少女の瞼は再び閉じられた。
「その願いに応えよう」
涙を拭い、男は言葉を紡ぐ。
眠る少女を起こさぬよう、静かに立ち上がり部屋を出れば、少女の言う青い空が見え、目を細めた。
少女の出会いから幾度の季が過ぎたのか。
七つに満たない幼子だった少女との出会いを思い返す。
朔の昏い夜の事であった。
男を奉る社に妙齢の女が現れたのは。
腕には眠る幼子を抱き。眼には狂気を宿して。
「捧げます。どうか夫に一目会わせてください」
幼子を地面に横たえ、祈るように呟いて。
手にした凶器を、躊躇なく――
泣き叫ぶ幼子。地を濡らす赤。
今更怖じ気づいたのか。凶器を取り落とし、言葉にならぬ呻きを上げて女は立ち去ってしまった。
一人残された幼子は、不安と苦痛と恐怖に泣き。しかしそれは次第に勢いをなくしていく。
後数刻もしない内に、その小さな命は終わりを告げるのだろう。
七つまでは神のうち、という。
幼子を女は捧げると言った。それは神である男に対して、願いの対価なのだろう。
捧げたものを受け入れる事は、女の願いを聞き入れると同意。
捧げられた幼子を受け入れる事で、契約が成されてしまうとしりながらも、男はその幼子に憐みをかけた。
目を伏せ、歩き出す。
空はどこまでも青く、そして果てない。
少女の言う通り、この続く空の下に彼女の祖父はいるのだろう。
女が残した凶器に残された想いから、女の夫が神隠しに会った事を知った。
忽然と姿を消したようだ。何の前触れもなく。唐突に。
優れた薬師であり庭師であったとの事であるから、おそらく木霊や古木に拐かされたのであろう。
ある程度の検討はついている。
後は確かめるだけだ。
「願いに応えよう。必ずその身を現世へ」
己自身に言い聞かせるかの如く、強く言葉を紡ぐ。
その黒曜の瞳は、かつて人であった頃の。
民を導く主のそれであった。
20241024 『どこまでも続く青い空』
10/25/2024, 12:07:35 AM