かさりと、手の中の白い紙が小さく音を立てた。
「やだな。なんでこんなになるかな」
呟いて、ただの紙に戻った式を摘まみ上げる。
右手に当たる部分はなく、まるで鋭い刃物で切られたようだ。頭の部分はひしゃげ、潰され、見る影もない。
何の変哲もない人型の紙が、これを形代としていた少女に重なって、心底嫌だと顔を顰めた。
「ここまでになると、呪われてるのと変わんないな。最近は殆どなかったのに」
愚痴りながら、紙を香皿に置き火をつける。
青の炎を纏い、灰すら残さず燃え尽きるのを見届けて。引き出しの中から新しい式を取り出した。
形代。
仮初の体。人ならざるモノから身を守る術。
教えてくれたのは、長い間行方不明になっていた妹だった。
幼い彼女の事は、よく覚えてはいない。
ただいなくなった夜の事は、はっきりと記憶している。
怒鳴る声。泣く声。扉を開ける音。何かが倒れる音。サイレンの音。
五月蠅くて目が覚めた。暗闇が少し怖くて。縋るものを求めて伸ばした手は何も掴む事が出来ず。
そこで初めて、妹がいない事に気づいてしまった。
パニックになって、布団から抜け出して。
明かりが点いていたリビングに向かえば、そこには怖い顔をしたたくさんの大人達。
その中心で座り込む、祖母。
異様な光景に、声を上げて泣いた。
泣いて、しゃくり上げながら妹を呼ぶ。声が枯れるまで只管に。
その夜から、妹が帰って来る事はなかった。
「やめよ。思い出すもんじゃない」
頭を振って、思い出を散らす。
意識を切り替えるように、新たな式に息を吹きかければ、空を漂う式は形を揺るがせ、ただの紙から妹の姿へと形を変えた。
「ありがと、にぃ」
「ん。どいたしまして」
ふわりと微笑う妹の頭を、少しだけ強めに撫でる。無茶をしたのだろう事に対してのお仕置きをかねて。
「にぃ。ごめんなさい。怒ってるの?」
「怒ってる。んで、怖がってる。なに、あの切れ方と潰れ方。ちゃんとすぐに意識切った?」
「…少し切れただけだよ」
視線を逸らし、右腕を隠される。そんな事をしなくても式には反映されないだろうに。
形代は仮初ではあるが、しっかりとした自分の体だ。感覚も共有しているからこそ、怪我をすればそれが自身の体にも反映されてしまう。
会う事の出来ない本物の妹の体には、今回のものだけではない、今までの傷跡が残っているのだろう。
そう考えて、落ち込んだ。可愛い妹に傷が出来るのは、想像するだけで悲しくなる。
「にぃ。元気出して」
「そう思うなら、無茶しないで。今回はなにがあったのさ」
「えとね。大きい蜘蛛だった。糸の代わりに鎖を吐く蜘蛛」
「忘れなさい。今すぐに」
それは、なんだかとても嫌な予感がする。
思わず真顔になれば、妹はぱちり、と眼を瞬かせて頷いた。
「にぃが言うなら、忘れる。会わないように気をつける」
「そうして。そろそろ心配すぎで胃に穴が空きそうだ」
「それ。たぶんにぃも悪い。また危ない事に関わりに行ったでしょ」
ぎくり、と妹の頭を撫でていた手が止まる。
「あれはさ。つい、というか。思わず、というか」
言い訳にもならない言葉を溢して、様子を伺うように妹を見た。
凪いだ黒曜と間近で視線が交わり、思わず手で眼を塞ぐ。
これは妹の眼ではない。妹の眼はどこにもない。
「にぃ」
「なんでもない。なんでもないし、大丈夫だし。無茶するほど気が強いわけでもないし。そもそも怖いのは大嫌いだから」
その事実を改めて認識しかけて、先ほどよりも支離滅裂な言葉を羅列し意識を逸らす。
されるがままの妹には、すべて見透かされているのだろう。とても聡い子だ。そして誰よりも優しい子。
「あのさ。調《しらべ》」
――いかないで。
思わず口をついて出かけた言葉を呑み込む。
眼を塞いでいた手を外し、何でもないと首を振った。
そんな事を言っても困らせるだけだと分かっている。
あの夜。祖母は妹の眼を神社の神に捧げたのだと聞いた。
顔も知らない祖父に一目会うために。
捧げたのは眼だけだと言っていたが、大人達がその神社をいくら探しても妹の姿はどこにもなかったという。
神に隠されたか。野犬にでも食われたか。
誰もが後者だと思っていた。自分でさえもそう思った。
数年後、妹だという鳥に会うまでは。
「にぃ」
「ごめん。ちょっと昔を思い出してた。形代、教えてもらった方法から、色々弄ってるけど大丈夫?」
「うん。調子いいよ。上手」
妹の笑顔に、ほっと息を漏らし。そっか、と笑みを返す。
教えてもらった形代は基本だけ。移動し見る事しか出来ない。
それを自分なりに調べ上げて、仮初の体にまで改良したのは、偏に妹に会いたかったからに他ならない。
言葉を交わし、触れあえる。それだけで良かったのに。
「無茶はしないでよ。これ以上は形代作るのが怖くなる」
「気をつける。せんせいにも怒られてしまったし」
「今度またお参りに行くから。甘やかさないでくださいって、お願いしておく」
戯けて笑ってみせる。本心に気づかれないように。
今更後悔しているだなんて、形代を作りたくないなんて思っている事が知られれば、悲しませてしまうだろう。
不意に、室内に電子音が鳴り響く。
ポケットの中に入れたままのスマホを取り出すと、表示されていたのは知らない番号。
だが見覚えのある数字の羅列に、電話に出るため立ち上がり、部屋を出るため歩き出す。
けれど。
「調?どした」
服の裾を引かれ、立ち止まる。
振り返り妹を見るが、軽く俯いているためにその表情は分からない。
「どした」
「にぃ」
――いかないで。
微かな、着信音に掻き消されてしまうほど小さな声。
さっき自分が呑み込んだ言葉。
「ごめん。なんでもない」
服を掴む手が離される。それでも動く気にはならなかった。
「出ないの?」
鳴り続ける電話を気にする妹に、首を振る。
音が止む。
それを確認して、スマホの電源を落としポケットにねじ込んだ。
「良かったの?」
「良くないかも。でもなんとかなるよ」
大丈夫だと、笑う。
心配するなと手を取って。
「いかないよ。どこにも行かないし、逝かない。だから調もいかないで」
祈るように目を閉じた。
20241025 『行かないで』
「せんせい」
か細い声が男を呼ぶ。
男が視線を向ける先。果たしてそこに、男を呼んだ少女はいた。
年の瀬は二十にも満たないだろう。まだあどけなさが抜けきらない。しかしながらその瞳には刃の切っ先のような鋭さを宿した娘。
簡易的な床から身を起こし男を呼ぶその華奢な四肢には、包帯代わりの白い布端が幾重にも巻かれていた。
少女の元へと歩み寄り、男はその右手を取る。
手背から前腕にかけて巻かれている布が、赤く染まっていた。
「傷はそこまで深くはないです。その前には意識を切り離せましたから」
「調《しらべ》」
「兄は変わらず元気です。厄介事に自ら首を突っ込むのはどうにかしたい所ですが」
眉尻を下げ笑う少女に、男は名を呼んだきり何も答えず。
布を解き、白く細い肌を滲ませる赤い傷口に薬を塗る。
「やはり体を動かしながらの視界は、十が限度みたいです。数が増える分、どうしても反応が遅れてしまう」
少女の眼がつい、と虚空を視る。
少女の体は床にありながらも、その眼は遙か遠くを鳥の式を通じて視ていた。
「狭間や歪を視るのに、百でも足りないくらいなのに…本当に、口惜しい」
「調」
男が再度、少女を呼ぶ。
はっとして、口を噤む少女の右腕に新たな布を巻き直し、男は少女の眼を塞ぐように手を当てた。
「形代を教えたのは、誤りであったのやもしれぬな」
静かに紡がれた男の言葉に、少女は唇を噛みしめる。
「死すために授けたのではない」
「分かっています。分かってる、ちゃんと」
視界を塞ぐ手を外そうと、触れる少女の手の力は哀しいほどに弱く。
縋るようにも見えるその様に、男はそれ以上咎める事なくその手を下ろした。
少女の眼が仄かな室内の光に晒される。
だがその眼は塞がれる前の黒曜の色を失い。焦点の合わぬ虚ろな眼差しで、男の声のする方へ向き直った。
「かみさま」
「呼ぶな。国一つ守れぬ無力な男だ。奉らずとも祟りはせぬ」
「せんせい」
「師と呼ばれるほどに授けたつもりはないがな。どうした」
「せんせい」
少女の手が男を求め、空を彷徨う。
その手を取れば少女は淡く微笑み、ほぅ、と安堵の息を漏らした。
「せんせいはわたしたちの守り神様です。せんせいがいなかったら、わたしは空が青い事も、兄の顔も知らず。生きるという意味さえ分からないまま、祖母の悲願の贄になっていました」
男の手を引き、頬をすり寄せる。
男が側にいる事を確かめるように。触れられる事を愛おしむかのように。
「せんせい。今日の空は青いです。どこまでも、どこまでも。せんせいの大切な方々のいる場所も…きっと祖父のいる場所も」
緩々と少女の瞼が落ちていく。
「せんせい」
少女の背に手を差し入れ、その身を床に横たえる。
眠れるようにと離れようとする男を、幼さを残した響きの声と手が呼び止める。
「暫し休め。目覚めたならばまた、話の続きを聞かせてくれ」
縋る手を無理に離す事はせず、男は少女の側に座り直す。
見えずとも、気配を感じ取ったのだろう。少女の表情が穏やかになり、そっと男の手を離した。
「ねえ、せんせい」
「どうした」
「おじいちゃんが、見つかったら。おばあちゃん。少しは、安心して、くれるかな。おかあさん、喜んで、くれるかな。にぃも、一人で、外に行ける、の」
段々と途切れていく言葉。
微睡みの中で、抑える事の適わなくなった不安が、少女の唇から溢れ落ちていく。
それを否定も肯定もせず。
男はただ、ここにいると伝えるかのように、少女の髪を撫でていた。
「せんせい」
少女の閉じていた瞼が開く。
褪せた黒曜が男を正しく見上げ。
「わたし、ちゃんと、おうちに帰れる、かな。帰りたい、なあ…帰りたい。にぃたちに、会いたい」
不安から懇願へ。
懇願から祈願へ。
想いを込めた言葉と、一筋溢れた涙と共に。少女の瞼は再び閉じられた。
「その願いに応えよう」
涙を拭い、男は言葉を紡ぐ。
眠る少女を起こさぬよう、静かに立ち上がり部屋を出れば、少女の言う青い空が見え、目を細めた。
少女の出会いから幾度の季が過ぎたのか。
七つに満たない幼子だった少女との出会いを思い返す。
朔の昏い夜の事であった。
男を奉る社に妙齢の女が現れたのは。
腕には眠る幼子を抱き。眼には狂気を宿して。
「捧げます。どうか夫に一目会わせてください」
幼子を地面に横たえ、祈るように呟いて。
手にした凶器を、躊躇なく――
泣き叫ぶ幼子。地を濡らす赤。
今更怖じ気づいたのか。凶器を取り落とし、言葉にならぬ呻きを上げて女は立ち去ってしまった。
一人残された幼子は、不安と苦痛と恐怖に泣き。しかしそれは次第に勢いをなくしていく。
後数刻もしない内に、その小さな命は終わりを告げるのだろう。
七つまでは神のうち、という。
幼子を女は捧げると言った。それは神である男に対して、願いの対価なのだろう。
捧げたものを受け入れる事は、女の願いを聞き入れると同意。
捧げられた幼子を受け入れる事で、契約が成されてしまうとしりながらも、男はその幼子に憐みをかけた。
目を伏せ、歩き出す。
空はどこまでも青く、そして果てない。
少女の言う通り、この続く空の下に彼女の祖父はいるのだろう。
女が残した凶器に残された想いから、女の夫が神隠しに会った事を知った。
忽然と姿を消したようだ。何の前触れもなく。唐突に。
優れた薬師であり庭師であったとの事であるから、おそらく木霊や古木に拐かされたのであろう。
ある程度の検討はついている。
後は確かめるだけだ。
「願いに応えよう。必ずその身を現世へ」
己自身に言い聞かせるかの如く、強く言葉を紡ぐ。
その黒曜の瞳は、かつて人であった頃の。
民を導く主のそれであった。
20241024 『どこまでも続く青い空』
「ちょっと待って。これはさすがにないわ」
思わず頭を抱える。
隣で申し訳なさそうにしている彼女には悪いが、何一つ擁護出来る部分がない。
「なんで制服以外に、まともな服がほとんどないの」
「え、と。一応神様がいくつかくれたよ?」
「これを着てどこに行けると思う?というか、一人でこれ着れるわけ?」
目の前の箪笥にしまわれた、色鮮やかな着物を横目に溜息を吐く。
素人目にも高価な代物だとは分かるが、だからこそ普段着として使用するには気後れしてしまうだろう。
これ以上見ていられなくて引き出しを閉めれば、彼女が困惑するのが見て取れた。
「一応、着方は分かる、けど。そうか。これで皆出かけたりはしないんだ」
「あ、うん。分かった。それ以上言わないでいい。一から順に確認していこう」
「なんか、ごめん」
「気にしないで。薄々そんな予感はしてたから」
段々に痛む頭を押さえつつ、気にするなともう片方の手を軽く振る。
忘れてしまっているのか。それとも元々がそうであったのか。
後者である気もするが、理由がどうであれ彼女に今の知識が欠けているのは確かな事だ。
それに気づいたのは、彼女と再開して帰る道すがらの事だった。
何気なく住んでいる場所を尋ねると、きょとんとした幼い顔で事も無げに答えた。
――曰く、住む所はなく、学校にそのままいるつもりであると。
あまりの衝撃に、一瞬言葉を失い。
問い質せば、その勢いが恐ろしかったのか。少々怯えを含みながらも素直に詳細を語ってくれた。
「人らしく、って言うわりに、細かい所で雑だよね」
「だって食事とか、睡眠とか必要ないし。ただいるだけなら、学校も家も変わらないと思って」
「そういう所が雑なんだってば。人は寝て起きて、ご飯食べて動くのが最低限の普通なんだから。それすっ飛ばして人らしくなんて出来るわけないじゃん」
必要なものをスマホにメモしていきながら思った事を口にする。うぅ、と反論できずに呻く彼女の声が聞こえ、小さく笑った。
「丁度衣替えの時期で良かったね。その分必要なものが少なくてすむ」
取りあえず必要だろうものをメモし終え、彼女の手を引いて自室へと向かう。
彼女とさほど背丈が変わらないのだから、自分の服を貸せば外出は問題ないだろう。
自室のクローゼットを開けて、どれがいいか考えながら色々とあてがっていれば、あのさ、と怖ず怖ずと声がかかる。
「やっぱり一緒に住むの、止めにしない?」
「何を今更」
「だって、何だか申し訳なさ過ぎて。特にお金の事とかさ」
「気にしなくていいって言ったじゃん。ママもパパも喜んでたし」
「だからってさ」
俯きながら、養われるのはちょっと、と尚も食い下がろうとする彼女に見繕った服を押しつける。
「一人で着れる?」
「着れる。そこまで子供じゃない」
「そう。じゃあ、終わったら呼んで」
彼女がこれ以上何か言う前に、部屋を出る。
少々強引ではあるが、これまで何回か繰り返したやり取りだ。これくらいの方が、遠慮の言葉が続く事はなくちょうどいい。
「まったく。いい子過ぎるのも問題だな。欲がないのがさらに質が悪い」
はぁ、と息を吐く。
彼女の現状を聞いて、ルームシェアを提案したのは自分から。
遠慮する彼女を説き伏せ。ぐちぐちと五月蠅い彼女の神を正論でねじ伏せて。
両親が反対しない事は分かっていた。
母の実家の関係で人ならざるモノへの警戒が強い二人は、だからこそ守り椿のある学校への進学を一人暮らしになると分かった上で望んだのだから。
それなりに由緒のある神の眷属として在る彼女を、両親はやはり歓迎した。彼女の衣食住を保証すると言い出し、すぐにその分の金額を振り込んでくるくらいには。
自分としても、彼女と共にいられる時間が増えるのは嬉しい事であるし、彼女の世話を間近で出来るのは安心だ。
彼女がいるという事で、ついてくる彼を除いては。
「あんたさ。本当にあの子をどうしたいの?」
「意味が分からぬな。貴様こそ、何を考えている」
「あんたよりはまともな事よ。少なくとも、学校に通わせとけば人らしく生きられるだろうとかいう単純思考よりは複雑でまともだと思っているわ」
「減らず口を」
忌々しいと睨み付ける彼女の神を、鼻で笑う。
「元々は人だったって聞いたけど、古すぎるのも問題しかないね。今を生きるのに必要なものが全然足りないじゃん。特にあんたが」
そう言って指を差す。
不快に顔を歪める彼を気に留める事なく、この際だからと溜め込んでいたすべてを吐き出す。
「あんたの時代に衣替えの習慣はなかったわけ?なんでいつも同じ格好してんのよ。人らしく言う前にまず、自分の身だしなみを何とかしなさいよ。だからあの子が色々と気にしなっちゃうんだから」
「貴様に言われる筋合いはないな」
「は?関係大ありなんだけど。ここの家主はあたし。あんたは居候なんだから」
彼の表情が訝しげなものへと変わる。
こちらの真意を問うように細められた眼を真っ直ぐ見返して、笑ってみせる。
「あんたの部屋はこの隣。あの子から呼ばれない限りはこの部屋への立ち入りは禁止ね。食事は必ず皆でそろってリビングで取る事。あとは」
「暫し待て。小娘」
「なによ」
指折り数えて必要事項を伝えていけば、彼の手に制止される。
「我にもここに住め、と」
「何言ってんの?当たり前じゃん。視てなかったわけ?」
重苦しい溜息を吐かれる。
顰めた顔をする彼を冷めた目で見ていれば、扉の向こう側から控えめに彼女の呼ぶ声がして返事をした。
「とにかく、あたし達これから買い物に行くから。その間に何とかしておいて。衣替えの時期なんだし、全部一新させといてよ」
それだけを告げて、彼の返答も聞かずに部屋に入る。
「どうしたの?神様と何か話してたようだけど」
「何でもない。この家にいる限りは我が家のルールに従ってもらうよって話してただけ」
心配そうな彼女に、笑って首を振る。
着替えた彼女を見て、一通り可笑しな所がないかを確認して、手を差し出した。
「じゃあ、行こうか。今日は忙しくなりそうだ」
20241023 『衣替え』
木々の間をすり抜けるようにして、小柄な人影が駆け抜けていく。
「来ないで」
駆け抜ける速度は緩める事なく、人影が声を上げる。高めの澄んだ少女の声音。
「来ないでってば!」
後ろを振り返り、叫ぶように声を上げる。
その背後には一定の距離を保って追う、少女よりも大きい人影。少女の言葉を気にする事なく、逃げ続ける少女を追っていた。
「なんでっ」
唇を噛みしめ、前に向き直り速度を上げる。敢えて木々や藪の中に踏み入れて背後の人影を撒こうとしても、距離が一向に離れない事に苛立ちが隠せない。
何故。如何すれば。
答えの返らない疑問が頭を掠めていく。
だが、それがいけなかったのだろう。
「っ!?」
急に視界が開ける。
眼下に広がる深い谷底に、逃げ場を失った事を悟る。
「鬼事はおしまい?」
じゃり、と土を踏み締める音。
振り返れば、少女とさほど変わらぬ年頃の少年が表情もなく少女を見つめていた。
「来ないで」
思わず下がりかけ、足が空をかく。
これ以上下がれぬ事を思い出し、少女の顔が僅かに歪んだ。
「なんでっ…なんで来たのよ。今更、なんで!」
声を張り上げる。
疑問。警戒。怯え。そして僅かばかりの嬉しさ。
様々な感情が少女の思考を惑わせる。判断力を鈍らせていく。
「なんでよ。ごめんって言った。好きな人がいるって言ったのに。だから全部思い出してしまったのに、今更。今更わたしの前に現れないでよ!終わったままにさせてよっ!」
「言いたい事は、それだけ?」
少年の言葉に、少女は続く言葉を失う。
凍てつくような、冷たい響き。彼女の記憶の中にはない、少年の声。
寂しさや怒り、憎しみをすべて混ぜたような。どろどろと濁った、それでいてどこまでも綺麗な声音。
戸惑う少女を気にもかけず、少年が一歩足を踏み出す。
「やだ。来ないで、来ないで!早くわたしを忘れてよ!思い出さないで。お願い」
「忘れた事なんてない。他のすべてが熒《けい》を忘れても、俺は一度も忘れなかった」
「な、んで。わたし、ちゃんと」
少女の瞳が戸惑いと怯えに揺れ、溢れ落ちる。
それを気にする様子もなく、少年がまた一歩足を踏み出した。
「ぃや。やだ。やめて、お願い。今はまだ兄様だけにさせて。忘れたくないの。まだ愛しているの。だから、来ないで。これ以上、わたしの中に入ってこようとしないでっ!」
「断る」
さらに距離を詰めて、少女へと腕を伸ばす。
蕩々と流れ落ちていく涙を拭い、そのまま引き寄せた。
「いつまでも過去に恋い焦がれるのは許さない。それに、先に俺の中に入り込んで来たのは熒の方だ。入り込んでかき回して、それで思い出したからさよならなんて勝手な事、許されるはずがないだろう」
「ゃ、そんな、事…知らない」
「なら知らないままでもいい。結果は変わらない」
引き寄せた体を強く抱き締め、少女の耳元に唇を寄せる。
そして、囁いた。
「ほら、捕まえた」
「っ、ぃや。やだっ!離して。離してぇぇ!」
叫ぶ声に、少年の喉が愉しげにくつりと鳴った。
少女の抵抗など意にも介さず、可哀想にと言い聞かせる。
「あのまま逃げ出さないで、幼なじみの続きが出来ていれば良かったのにね。そうすれば、俺も思い出す事はなかったのに」
「な、にを。言って…?」
「勝者と敗者の関係なんて、俺も忘れたままでいたかったよ」
その言葉に、少女の肩がびくりと震えた。
抵抗が止んだ華奢な体を拘束する腕の力を僅かに緩め、背を撫でる。まるで慰めるかのようなそれに、少女の強張った体から力が抜けていくのを感じ、知らず口元が笑みを形作った。
「思い出してしまったものは仕方ない。でも前の関係にも戻る事が出来ないのなら、いっそ閉じてしまおうか」
「なにを。そんな事、出来るわけ」
「やってみないと分からない。閉じる事が出来たのなら、好きなだけ俺以外の名を叫ぶ事を許そうか。声が枯れるまで叫んで、逃げて。そしたら、少しは諦めがつくだろうから」
どこまでも優しく、哀しく。歌うような声音に少女は顔を上げ、真っ直ぐに少年と視線を合わせる。
涙に滲む中でもはっきりと。
少年が同じように泣いているのが見えた。
「依和《いより》」
「何?」
涙を流しながらも名を呼ばれ首を傾げるその様は、どこか幼い。
「たとえ声が枯れたとしても、それで声を失ったとしても、わたしが兄様を愛する気持ちに変わりはないわ。声なんてなくても、わたしの心は兄様を求めて叫ぶもの」
だから、と。
手を伸ばして涙を拭い、頬を撫でる。
息を呑む少年に微笑みかけて。
とん、と。
胸を押し、緩んだ腕の隙間から逃れて少女の体が倒れていく。
引き止めようと伸ばされる腕を拒み、抗う事なくその体は谷底へと落ち。
そのまま少女は無数の蝶へと姿を変えて、方々へ飛び去り消えていった。
「逃げられたか」
蝶の消えた谷底を暫し見つめ、小さく呟く。
その眼にはもう涙はない。
けれど口元には穏やかな笑みを浮かべて。
惜しむように、安堵したように。
ほぅ、と一つ息を吐いた。
20241022 『声が枯れるまで』
軽快な音楽と賑やかな人の声を聞きながら、暖かな日差しに微睡みそうになる意識を繋ぎ止める。
文化祭。午後になり賑やかさを増す学校の空気は、少しばかり苦手だ。
とはいえ、そろそろ交代の時間になってしまう。戻らなければ、と体を起こして伸びをした。
「こんなところにいた」
聞き覚えのある声に振り返る。
「交代の時間はまだでね?」
「寝てるかもしれないからって、起こす時間も含めて早めに休憩時間をもらったの」
「何でそんな信用ないんだ」
肩を落とし、溜息を吐く。
そんな自分の姿に、彼女は楽しそうに笑った。
「何故かしら。律《りつ》がいつも眠そうにしてるからじゃないかしらね」
「だからって寝てて遅刻した事なんてないし」
もごもごと文句のような愚痴のような言葉を呟いて、視線を逸らすように時計を見た。
やはり、まだ戻るには早い。
これからどうするべきかを悩んでいると、少女が隣の椅子に座る気配がした。
「せいとかいちょー?」
「私も少しだけ休憩しようかしら」
窓の外を見る彼女に、僅かな違和感を感じ。けれどそれを言葉にするべきかを迷う。
不用意に踏み込むべきではない。
同じクラスで、同じ生徒会に所属しているだけという間柄なだけで、さほど親しいという訳でもないのだから。
「どした?かいちょー」
無遠慮に内側に入り込むのはお互いに得にはならないだろうと思いながらも声をかける。
はっとした顔でこちらに視線を向ける彼女に首を傾げてみせれば、小さく息を呑む音がした。
「何が、かしら」
「ん?何でもないならいいけどさ。空気?雰囲気?が疲れてるなって」
曖昧な言葉で誤魔化しながらも、視線は彼女から逸らす事なく。
沈黙。賑やかな音が遠くに聞こえる。その音すら段々に気にならなくなっていく。
「少し、ね。家族の事で悩んでいて」
掻き消されそうなほど小さな声が、鼓膜を震わせる。
視線を外し俯いた彼女の表情は分からない。
ただ声は。悩んでいると溢した声音は、確かに震えていた。
まるで、怖れているように。
「かいちょーも、悩む事あんだね」
「私だって悩む事くらいはあるわ」
意外だと呟けば、少し拗ねたように彼女が答える。
彼女の言う家族が誰を示しているのかは察しがつくが、踏み込む事はしなかった。
これ以上は彼女との関係が変わる。
今の距離感が縮まる事は、まったくもってよろしくない。
聞いたのは自分の方だというのにも関わらず、随分と勝手な事だ。そう内心で呆れながら、表情には出さずに何も知らない顔で笑った。
時計を見る。そろそろ戻った方がよさそうだ。
「そんじゃ、戻るね。かいちょーはどうする?」
「もう少しここにいるわ。寄り道しないで、真っ直ぐ行ってね」
「ほんとに信用ないね」
彼女の作り笑顔に、何も気づいていないように拗ねて見せながら、立ち上がる。
軽く手を振り、出口に向かい足を踏み出して。
知らない気配が近づいている事に気づき、足を止めた。
「どうしたの?何か、っ」
不思議そうな彼女の声。
しかしそれは、扉が開く音と共に不自然に途切れてしまう。
「瑠璃《るり》」
入ってきたのは、作り物めいた、ぞっとするほどに綺麗な女。
自分には一切目もくれず、背後の彼女だけを見つめている。
「お姉様。何故こちらへ?」
「先生方に頼まれていた件があったのよ。それが終わったものだから、あなたに会いに来たの」
「そう、でしたか。ありがとうございます。会いに来て下さって嬉しいです」
近づく女を避けるように、脇によける。
横目で見た彼女は表情こそ微笑んでいるが、手が微かに震えていた。
恐ろしいのだろう。姉であるこの蜘蛛のような女が。
関わる気はない。関わって、自分に特になる事は何一つないはずだ。
女に会釈をし、すれ違う。
「なんつうか…高飛車で悪趣味な女って、今時もてんよ?」
小さく呟く。
いつかの夜の公園で抱いた感想を、もう一度言葉にする。
「おまえ」
振り向く女と視線を合わせ、嗤ってみせる。
表情の抜け落ちた女は、元の綺麗な造りが強調されて恐ろしさが増している。
「やはり鳥は誤魔化しか」
「さあ?どうだろうね」
嘯いて、女の背越しに見える困惑した彼女に改めて手を振った。
「じゃね、かいちょー。早めに戻ってきてくれてもいいよ。その方が皆嬉しいだろうし」
この後に彼女が問い詰められる事がないように、自分の居場所を女にも伝えるように別れの言葉を紡ぐ。
くるりと背を向け、早足にならないように気を張りながら廊下へと出て扉を閉めた。
いつもよりゆっくりと、教室へ向かう。
休んでいた部屋から十分離れてから、緊張に詰めていた息を盛大に吐き出した。
「やっちまった」
常ならば見て見ぬ振りをするほど、関わり合いにはなりたくなかったはずだ。
彼女の悩みが彼女であると知っていながら、踏み込んで聞かなかったというのに。
「これで平穏ともおさらばか」
これからを思い、密かに項垂れる。
きっとこれから、普段の穏やかさとはかけ離れていくのだろう。
始まりとはいつも些細な切っ掛けで起こるものだ。
そして新しい始まりの代償に、今までの何かが終わりを告げる。それがたとえどんなに手放し難いものであろうと、一切の躊躇なく奪い去っていく。
あぁ、と言葉にならない呻きを漏らす。
第一印象はお互いに最悪だ。最悪命の危険性があるのかもしれない。
それでも、と自分の両手を見て仕方がなかったと自分自身に言い訳をする。
彼女の手が震えていた。自分ですら恐ろしいと感じる女だ。彼女はもっと、ずっと怖かったのだろう。
手を握る。前を向く。
少しだけ歩く速度を上げて教室へと向かう。
「さよなら日常。こんにちは非日常。ってね」
いつものように一人戯けて見せる。
過ぎた事をいつまでも悔やむ事は、自分らしくないのだから。
20241021 『始まりはいつも』