軽快な音楽と賑やかな人の声を聞きながら、暖かな日差しに微睡みそうになる意識を繋ぎ止める。
文化祭。午後になり賑やかさを増す学校の空気は、少しばかり苦手だ。
とはいえ、そろそろ交代の時間になってしまう。戻らなければ、と体を起こして伸びをした。
「こんなところにいた」
聞き覚えのある声に振り返る。
「交代の時間はまだでね?」
「寝てるかもしれないからって、起こす時間も含めて早めに休憩時間をもらったの」
「何でそんな信用ないんだ」
肩を落とし、溜息を吐く。
そんな自分の姿に、彼女は楽しそうに笑った。
「何故かしら。律《りつ》がいつも眠そうにしてるからじゃないかしらね」
「だからって寝てて遅刻した事なんてないし」
もごもごと文句のような愚痴のような言葉を呟いて、視線を逸らすように時計を見た。
やはり、まだ戻るには早い。
これからどうするべきかを悩んでいると、少女が隣の椅子に座る気配がした。
「せいとかいちょー?」
「私も少しだけ休憩しようかしら」
窓の外を見る彼女に、僅かな違和感を感じ。けれどそれを言葉にするべきかを迷う。
不用意に踏み込むべきではない。
同じクラスで、同じ生徒会に所属しているだけという間柄なだけで、さほど親しいという訳でもないのだから。
「どした?かいちょー」
無遠慮に内側に入り込むのはお互いに得にはならないだろうと思いながらも声をかける。
はっとした顔でこちらに視線を向ける彼女に首を傾げてみせれば、小さく息を呑む音がした。
「何が、かしら」
「ん?何でもないならいいけどさ。空気?雰囲気?が疲れてるなって」
曖昧な言葉で誤魔化しながらも、視線は彼女から逸らす事なく。
沈黙。賑やかな音が遠くに聞こえる。その音すら段々に気にならなくなっていく。
「少し、ね。家族の事で悩んでいて」
掻き消されそうなほど小さな声が、鼓膜を震わせる。
視線を外し俯いた彼女の表情は分からない。
ただ声は。悩んでいると溢した声音は、確かに震えていた。
まるで、怖れているように。
「かいちょーも、悩む事あんだね」
「私だって悩む事くらいはあるわ」
意外だと呟けば、少し拗ねたように彼女が答える。
彼女の言う家族が誰を示しているのかは察しがつくが、踏み込む事はしなかった。
これ以上は彼女との関係が変わる。
今の距離感が縮まる事は、まったくもってよろしくない。
聞いたのは自分の方だというのにも関わらず、随分と勝手な事だ。そう内心で呆れながら、表情には出さずに何も知らない顔で笑った。
時計を見る。そろそろ戻った方がよさそうだ。
「そんじゃ、戻るね。かいちょーはどうする?」
「もう少しここにいるわ。寄り道しないで、真っ直ぐ行ってね」
「ほんとに信用ないね」
彼女の作り笑顔に、何も気づいていないように拗ねて見せながら、立ち上がる。
軽く手を振り、出口に向かい足を踏み出して。
知らない気配が近づいている事に気づき、足を止めた。
「どうしたの?何か、っ」
不思議そうな彼女の声。
しかしそれは、扉が開く音と共に不自然に途切れてしまう。
「瑠璃《るり》」
入ってきたのは、作り物めいた、ぞっとするほどに綺麗な女。
自分には一切目もくれず、背後の彼女だけを見つめている。
「お姉様。何故こちらへ?」
「先生方に頼まれていた件があったのよ。それが終わったものだから、あなたに会いに来たの」
「そう、でしたか。ありがとうございます。会いに来て下さって嬉しいです」
近づく女を避けるように、脇によける。
横目で見た彼女は表情こそ微笑んでいるが、手が微かに震えていた。
恐ろしいのだろう。姉であるこの蜘蛛のような女が。
関わる気はない。関わって、自分に特になる事は何一つないはずだ。
女に会釈をし、すれ違う。
「なんつうか…高飛車で悪趣味な女って、今時もてんよ?」
小さく呟く。
いつかの夜の公園で抱いた感想を、もう一度言葉にする。
「おまえ」
振り向く女と視線を合わせ、嗤ってみせる。
表情の抜け落ちた女は、元の綺麗な造りが強調されて恐ろしさが増している。
「やはり鳥は誤魔化しか」
「さあ?どうだろうね」
嘯いて、女の背越しに見える困惑した彼女に改めて手を振った。
「じゃね、かいちょー。早めに戻ってきてくれてもいいよ。その方が皆嬉しいだろうし」
この後に彼女が問い詰められる事がないように、自分の居場所を女にも伝えるように別れの言葉を紡ぐ。
くるりと背を向け、早足にならないように気を張りながら廊下へと出て扉を閉めた。
いつもよりゆっくりと、教室へ向かう。
休んでいた部屋から十分離れてから、緊張に詰めていた息を盛大に吐き出した。
「やっちまった」
常ならば見て見ぬ振りをするほど、関わり合いにはなりたくなかったはずだ。
彼女の悩みが彼女であると知っていながら、踏み込んで聞かなかったというのに。
「これで平穏ともおさらばか」
これからを思い、密かに項垂れる。
きっとこれから、普段の穏やかさとはかけ離れていくのだろう。
始まりとはいつも些細な切っ掛けで起こるものだ。
そして新しい始まりの代償に、今までの何かが終わりを告げる。それがたとえどんなに手放し難いものであろうと、一切の躊躇なく奪い去っていく。
あぁ、と言葉にならない呻きを漏らす。
第一印象はお互いに最悪だ。最悪命の危険性があるのかもしれない。
それでも、と自分の両手を見て仕方がなかったと自分自身に言い訳をする。
彼女の手が震えていた。自分ですら恐ろしいと感じる女だ。彼女はもっと、ずっと怖かったのだろう。
手を握る。前を向く。
少しだけ歩く速度を上げて教室へと向かう。
「さよなら日常。こんにちは非日常。ってね」
いつものように一人戯けて見せる。
過ぎた事をいつまでも悔やむ事は、自分らしくないのだから。
20241021 『始まりはいつも』
10/21/2024, 11:49:54 PM