sairo

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木々の間をすり抜けるようにして、小柄な人影が駆け抜けていく。

「来ないで」

駆け抜ける速度は緩める事なく、人影が声を上げる。高めの澄んだ少女の声音。

「来ないでってば!」

後ろを振り返り、叫ぶように声を上げる。
その背後には一定の距離を保って追う、少女よりも大きい人影。少女の言葉を気にする事なく、逃げ続ける少女を追っていた。

「なんでっ」

唇を噛みしめ、前に向き直り速度を上げる。敢えて木々や藪の中に踏み入れて背後の人影を撒こうとしても、距離が一向に離れない事に苛立ちが隠せない。

何故。如何すれば。
答えの返らない疑問が頭を掠めていく。
だが、それがいけなかったのだろう。

「っ!?」

急に視界が開ける。
眼下に広がる深い谷底に、逃げ場を失った事を悟る。

「鬼事はおしまい?」

じゃり、と土を踏み締める音。
振り返れば、少女とさほど変わらぬ年頃の少年が表情もなく少女を見つめていた。

「来ないで」

思わず下がりかけ、足が空をかく。
これ以上下がれぬ事を思い出し、少女の顔が僅かに歪んだ。

「なんでっ…なんで来たのよ。今更、なんで!」

声を張り上げる。
疑問。警戒。怯え。そして僅かばかりの嬉しさ。
様々な感情が少女の思考を惑わせる。判断力を鈍らせていく。

「なんでよ。ごめんって言った。好きな人がいるって言ったのに。だから全部思い出してしまったのに、今更。今更わたしの前に現れないでよ!終わったままにさせてよっ!」
「言いたい事は、それだけ?」

少年の言葉に、少女は続く言葉を失う。
凍てつくような、冷たい響き。彼女の記憶の中にはない、少年の声。
寂しさや怒り、憎しみをすべて混ぜたような。どろどろと濁った、それでいてどこまでも綺麗な声音。
戸惑う少女を気にもかけず、少年が一歩足を踏み出す。

「やだ。来ないで、来ないで!早くわたしを忘れてよ!思い出さないで。お願い」
「忘れた事なんてない。他のすべてが熒《けい》を忘れても、俺は一度も忘れなかった」
「な、んで。わたし、ちゃんと」

少女の瞳が戸惑いと怯えに揺れ、溢れ落ちる。
それを気にする様子もなく、少年がまた一歩足を踏み出した。

「ぃや。やだ。やめて、お願い。今はまだ兄様だけにさせて。忘れたくないの。まだ愛しているの。だから、来ないで。これ以上、わたしの中に入ってこようとしないでっ!」
「断る」

さらに距離を詰めて、少女へと腕を伸ばす。
蕩々と流れ落ちていく涙を拭い、そのまま引き寄せた。

「いつまでも過去に恋い焦がれるのは許さない。それに、先に俺の中に入り込んで来たのは熒の方だ。入り込んでかき回して、それで思い出したからさよならなんて勝手な事、許されるはずがないだろう」
「ゃ、そんな、事…知らない」
「なら知らないままでもいい。結果は変わらない」

引き寄せた体を強く抱き締め、少女の耳元に唇を寄せる。
そして、囁いた。

「ほら、捕まえた」
「っ、ぃや。やだっ!離して。離してぇぇ!」

叫ぶ声に、少年の喉が愉しげにくつりと鳴った。
少女の抵抗など意にも介さず、可哀想にと言い聞かせる。

「あのまま逃げ出さないで、幼なじみの続きが出来ていれば良かったのにね。そうすれば、俺も思い出す事はなかったのに」
「な、にを。言って…?」
「勝者と敗者の関係なんて、俺も忘れたままでいたかったよ」

その言葉に、少女の肩がびくりと震えた。
抵抗が止んだ華奢な体を拘束する腕の力を僅かに緩め、背を撫でる。まるで慰めるかのようなそれに、少女の強張った体から力が抜けていくのを感じ、知らず口元が笑みを形作った。

「思い出してしまったものは仕方ない。でも前の関係にも戻る事が出来ないのなら、いっそ閉じてしまおうか」
「なにを。そんな事、出来るわけ」
「やってみないと分からない。閉じる事が出来たのなら、好きなだけ俺以外の名を叫ぶ事を許そうか。声が枯れるまで叫んで、逃げて。そしたら、少しは諦めがつくだろうから」

どこまでも優しく、哀しく。歌うような声音に少女は顔を上げ、真っ直ぐに少年と視線を合わせる。
涙に滲む中でもはっきりと。
少年が同じように泣いているのが見えた。

「依和《いより》」
「何?」

涙を流しながらも名を呼ばれ首を傾げるその様は、どこか幼い。

「たとえ声が枯れたとしても、それで声を失ったとしても、わたしが兄様を愛する気持ちに変わりはないわ。声なんてなくても、わたしの心は兄様を求めて叫ぶもの」

だから、と。
手を伸ばして涙を拭い、頬を撫でる。
息を呑む少年に微笑みかけて。

とん、と。
胸を押し、緩んだ腕の隙間から逃れて少女の体が倒れていく。
引き止めようと伸ばされる腕を拒み、抗う事なくその体は谷底へと落ち。
そのまま少女は無数の蝶へと姿を変えて、方々へ飛び去り消えていった。


「逃げられたか」

蝶の消えた谷底を暫し見つめ、小さく呟く。
その眼にはもう涙はない。
けれど口元には穏やかな笑みを浮かべて。
惜しむように、安堵したように。
ほぅ、と一つ息を吐いた。



20241022 『声が枯れるまで』

10/23/2024, 1:08:12 AM