軽快な音楽と賑やかな人の声を聞きながら、暖かな日差しに微睡みそうになる意識を繋ぎ止める。
文化祭。午後になり賑やかさを増す学校の空気は、少しばかり苦手だ。
とはいえ、そろそろ交代の時間になってしまう。戻らなければ、と体を起こして伸びをした。
「こんなところにいた」
聞き覚えのある声に振り返る。
「交代の時間はまだでね?」
「寝てるかもしれないからって、起こす時間も含めて早めに休憩時間をもらったの」
「何でそんな信用ないんだ」
肩を落とし、溜息を吐く。
そんな自分の姿に、彼女は楽しそうに笑った。
「何故かしら。律《りつ》がいつも眠そうにしてるからじゃないかしらね」
「だからって寝てて遅刻した事なんてないし」
もごもごと文句のような愚痴のような言葉を呟いて、視線を逸らすように時計を見た。
やはり、まだ戻るには早い。
これからどうするべきかを悩んでいると、少女が隣の椅子に座る気配がした。
「せいとかいちょー?」
「私も少しだけ休憩しようかしら」
窓の外を見る彼女に、僅かな違和感を感じ。けれどそれを言葉にするべきかを迷う。
不用意に踏み込むべきではない。
同じクラスで、同じ生徒会に所属しているだけという間柄なだけで、さほど親しいという訳でもないのだから。
「どした?かいちょー」
無遠慮に内側に入り込むのはお互いに得にはならないだろうと思いながらも声をかける。
はっとした顔でこちらに視線を向ける彼女に首を傾げてみせれば、小さく息を呑む音がした。
「何が、かしら」
「ん?何でもないならいいけどさ。空気?雰囲気?が疲れてるなって」
曖昧な言葉で誤魔化しながらも、視線は彼女から逸らす事なく。
沈黙。賑やかな音が遠くに聞こえる。その音すら段々に気にならなくなっていく。
「少し、ね。家族の事で悩んでいて」
掻き消されそうなほど小さな声が、鼓膜を震わせる。
視線を外し俯いた彼女の表情は分からない。
ただ声は。悩んでいると溢した声音は、確かに震えていた。
まるで、怖れているように。
「かいちょーも、悩む事あんだね」
「私だって悩む事くらいはあるわ」
意外だと呟けば、少し拗ねたように彼女が答える。
彼女の言う家族が誰を示しているのかは察しがつくが、踏み込む事はしなかった。
これ以上は彼女との関係が変わる。
今の距離感が縮まる事は、まったくもってよろしくない。
聞いたのは自分の方だというのにも関わらず、随分と勝手な事だ。そう内心で呆れながら、表情には出さずに何も知らない顔で笑った。
時計を見る。そろそろ戻った方がよさそうだ。
「そんじゃ、戻るね。かいちょーはどうする?」
「もう少しここにいるわ。寄り道しないで、真っ直ぐ行ってね」
「ほんとに信用ないね」
彼女の作り笑顔に、何も気づいていないように拗ねて見せながら、立ち上がる。
軽く手を振り、出口に向かい足を踏み出して。
知らない気配が近づいている事に気づき、足を止めた。
「どうしたの?何か、っ」
不思議そうな彼女の声。
しかしそれは、扉が開く音と共に不自然に途切れてしまう。
「瑠璃《るり》」
入ってきたのは、作り物めいた、ぞっとするほどに綺麗な女。
自分には一切目もくれず、背後の彼女だけを見つめている。
「お姉様。何故こちらへ?」
「先生方に頼まれていた件があったのよ。それが終わったものだから、あなたに会いに来たの」
「そう、でしたか。ありがとうございます。会いに来て下さって嬉しいです」
近づく女を避けるように、脇によける。
横目で見た彼女は表情こそ微笑んでいるが、手が微かに震えていた。
恐ろしいのだろう。姉であるこの蜘蛛のような女が。
関わる気はない。関わって、自分に特になる事は何一つないはずだ。
女に会釈をし、すれ違う。
「なんつうか…高飛車で悪趣味な女って、今時もてんよ?」
小さく呟く。
いつかの夜の公園で抱いた感想を、もう一度言葉にする。
「おまえ」
振り向く女と視線を合わせ、嗤ってみせる。
表情の抜け落ちた女は、元の綺麗な造りが強調されて恐ろしさが増している。
「やはり鳥は誤魔化しか」
「さあ?どうだろうね」
嘯いて、女の背越しに見える困惑した彼女に改めて手を振った。
「じゃね、かいちょー。早めに戻ってきてくれてもいいよ。その方が皆嬉しいだろうし」
この後に彼女が問い詰められる事がないように、自分の居場所を女にも伝えるように別れの言葉を紡ぐ。
くるりと背を向け、早足にならないように気を張りながら廊下へと出て扉を閉めた。
いつもよりゆっくりと、教室へ向かう。
休んでいた部屋から十分離れてから、緊張に詰めていた息を盛大に吐き出した。
「やっちまった」
常ならば見て見ぬ振りをするほど、関わり合いにはなりたくなかったはずだ。
彼女の悩みが彼女であると知っていながら、踏み込んで聞かなかったというのに。
「これで平穏ともおさらばか」
これからを思い、密かに項垂れる。
きっとこれから、普段の穏やかさとはかけ離れていくのだろう。
始まりとはいつも些細な切っ掛けで起こるものだ。
そして新しい始まりの代償に、今までの何かが終わりを告げる。それがたとえどんなに手放し難いものであろうと、一切の躊躇なく奪い去っていく。
あぁ、と言葉にならない呻きを漏らす。
第一印象はお互いに最悪だ。最悪命の危険性があるのかもしれない。
それでも、と自分の両手を見て仕方がなかったと自分自身に言い訳をする。
彼女の手が震えていた。自分ですら恐ろしいと感じる女だ。彼女はもっと、ずっと怖かったのだろう。
手を握る。前を向く。
少しだけ歩く速度を上げて教室へと向かう。
「さよなら日常。こんにちは非日常。ってね」
いつものように一人戯けて見せる。
過ぎた事をいつまでも悔やむ事は、自分らしくないのだから。
20241021 『始まりはいつも』
白んでいく東の空が、夜の終わりを告げている。
そろそろか、と立ち上がる己の服の裾を、形を持った影が控えめに引いた。
「おねえちゃん」
「おはよう。直に朝が来るよ」
優しく声をかけ、服を掴むその手と己の手を重ねる。
まだ小さく影のままの手だ。空の明るさに反して、日の出はまだなのだろう。
「おいで。まだ時間はあるようだ。それまで少し話そうか」
先ほどまで座っていた草原に座る。手を一度離し声をかければ、影は首に腕を回し抱きついた。
その必死さは、むしろ縋り付いているようだ。
宥めるように頭を撫で、背を抱く。おねえちゃん、と微かな声が繰り返すのを目を細めて、ただ聞いていた。
「ごめんなさい。おねえちゃん、ごめんなさい」
「もういいよ。仕方がない事なのだから」
「いやだ。お姉ちゃん、お願いだから」
行かないで。
掠れた懇願に、緩く首を振り否を示す。
このやり取りはもう何度目だろうか。
大分明るくなった空と、大きく人らしくなった影を見ながら考える。
朝と夜。その境目の、刹那の時間しか共にいられないというのに。こうして触れ合う度に、泣きながら謝罪を繰り返す。
後悔し続けているのだろう。お互いに同じ時間を共に在れない事を。共に在るべき術を探して禁忌を犯し、常世の怒りに触れてしまった事を。
「お姉ちゃん」
縋り付いていた腕が背に回り、抱き上げられる。
東の山間に一等眩い光が滲み出し、己の姿を小さく黒い影に変え、彼を大きく人へと変えていく。
「そろそろ完全に夜が明ける。誰そ彼時までさよならだ」
「っ、お姉ちゃん」
「もう泣かないでくれ。次はもっと別の話をしよう。そうだな、昼の間の話が聞きたいな」
己にはもう、日の光のある場所に在る事は出来ないのだから。せめて、話を聞きたかった。
昼の話でなくてもいい。彼と、話す事も叶わぬと思っていたはずの彼と、ただ話がしたかった。
「ごめんなさい。お姉ちゃん」
流れる涙を拭おうと伸ばした手は、すでにほとんどが影になってしまっている。
朝が来る。彼の影として眠る時間が訪れる。
「おやすみ」
彼がしたように、首に腕を回し。
微笑んで目を閉じた。
「お姉ちゃん」
すっかり明けた空を睨めつける。
彼女の姿はない。伸びた影があるだけだ。
こうして出会い、そして別れを何度繰り返したのか。
日の光の下でしか人としての形を保てない己。
月の光の下でしか人としての形を保てない彼女。
太陽と月。交わる事のない光が、同じ時に在る事を許さず、己らをすれ違わせている。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
影に触れる。そこにはもう、先ほどまで感じた温もりなどどこにもない。
「ごめんなさい。お姉ちゃんの望みに応える事は出来ないよ」
彼女が話をしたがっている事には気づいている。気づいて、今までそれに応えず、ひたすらに謝罪を続けていた。
本当は、己も彼女と話がしたいのだけれど。
「だって、お姉ちゃんの望みに応えてしまったら、お姉ちゃんは満足してしまうでしょう?」
聞こえてはいないと知りながらも、影に向かって言い訳じみた言葉を並べる。
彼女の心残りがなくなれば、こうして境目の時間に触れ合う事が出来なくなってしまうかもしれない。
言葉を交わすだけでも、どうなるかは分からない。不確定要素が多すぎる。
「どうして刹那でも触れ合う事が出来るのか分からない。分からないからこそ、怖いんだ」
何が切っ掛けで、この奇跡にも似た時間がなくなってしまうのか。確かめる勇気はなく、必要だとも感じなかった。
今のままで十分だ。刹那でも触れ合う事が出来るだけで。
彼女はすれ違うこの状況を、常世の怒りに触れたのだと評した。
それは間違いではないのだと思う。けれどそれが正しいかは判断が出来ない。
あの時。閉じた歪が開いた時に。
逃げ出したのだ。
迎えに来た手を振り払い。彼女がかつて己にしたように、彼女の体を己の影に仕舞い込んで。
出来るだけ遠くにと、駆けだして。日の光の煌めく空の下、当てもなくただ逃げていた。
「いつまでも、このまま二人でいられるなんて思ってない。でも今だけは。もう少しだけでいいから」
呟いて、立ち上がる。
行かなければ。迎えが来る前に、逃げなければ。
見上げた空は青く、見下ろす大地はどこまでも青々とした草原が広がっている。
足を踏み出す。
かさり、と音を立てて草を踏み締める。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
謝罪を繰り返す。
許さなくてもいい。我が儘な己を許さないでほしい。
これは彼女に対しての冒涜だ。
己のために命を賭した彼女の眠りを妨げ、縛り付けるだけの呪いだ。
「ごめんなさい。それでも」
歩き出す。
どこへ向かうのか。向かう先に何があるのか。
何一つ分からないまま、それでも足が止まる事はない。
「一緒にいられる今が幸せで、まだそれを手放す事が出来ないんだ」
たとえすれ違うだけだとしても。
触れ合う刹那の時ですら、言葉を交わす事が出来なくとも。
彼女と共に在る。
その事実は、己にとって何よりの幸福であり。
最良の形だった。
20241020 『すれ違い』
手持ち無沙汰に澄んだ青が続く空を見上げ、流れる雲を目で追いかけた。
いつもならば持ち歩いているはずのスケッチブックは、今日は家の中だ。不用意に持ち歩いて彼に出会ってしまえば、また一つページが彼で埋まってしまうから仕方がない。
空から目を逸らし。落ち着かなさに鞄を求めて彷徨う手を、きゅっと握る。
嫌な訳ではない。彼を描く事にまだ緊張はするけれども、それに苦しさを感じる事はなかった。
ただこれからも彼を描く事が少しだけ怖い。
描く度に気持ちを抑える事が出来なくなっているのが、絵を見て気づかれてしまう事が恐ろしかった。
――彼が好きなのですね。
恩師の言葉を思い返し、握る手に力が籠もる。
彼の絵を描き始めてから、まだ一月しか経っていない。彼の絵も片手で数えられるくらいだ。
――彼に対する気持ちが、絵に現れていますよ。
それなのに、恩師はその少ない彼の絵をすべて見て、そう言った。
気づかれるとは思っていなかった。いつもと変わらないようにあるままを描いていたはずだったから。
思わず赤面する自分に、恩師は柔らかく微笑んでいた。
「何してんの?」
背後から聞こえた声に、びくりと肩が跳ねる。
「今日は絵を描かないんだ」
硬直する自分を気にせず近づく足音。目の前まで来ると、握りしめたままの手を取り、そっと開いていく。
彼の手の熱に益々動けなくなってしまう自分に、彼は小さく笑い、開いた手に綺麗な赤色の飴を一つ乗せた。
「なに、これ」
「好きじゃん。イチゴ味」
手のひらの上の飴を見る。透明な袋の中の澄んだ赤はとても綺麗だ。
彼のようだな、と見入っていると、焦れた彼が飴を取り袋を破く。取り出した飴を口元まで運ばれて、促されるままに口を開いた。
「甘い」
「でしょ?」
飴の甘さに頬が緩む。
からころと転がしてその甘さを堪能しながら、お礼を言おうと彼を見て。
指先が視界に入り、一瞬前の記憶を思い出す。
彼の少し冷えた指先を、その冷たいはずの熱を思い起こす。
「どうした?」
固まる自分を心配して伸ばされた手から逃げるように、慌てて後退った。
鼓動が速くなる。頬がじわじわと熱を持つのを感じる。
「っ、なに、するの」
「何って、急に黙り込むから」
「そうじゃないっ!なんで、急に、なに、こんな、っ」
ほとんど意味のない言葉の羅列に、それでも言いたい事が伝わったのだろう。
彼の笑みが、いたずらが成功した子供のようなにやりとしたものに変わる。
「だって、ずっと見てるだけだったから。食べさせてほしいのかなって」
「そんな事言ってないし!思ってもなかったから!」
「でも、食べたじゃん」
あれは、と言いかけて黙り込む。ぼんやりしていたからだとか、出されたからだとか、同じような言い訳は思い浮かぶが、きっとそれを言葉にしても笑われるだけだ。
笑う彼から視線を逸らす。
このまま逃げてしまおうか。思いついて踏み出した足は、けれどそれ以上は動かせない。
「離してよ」
「やだ。折角いい天気なんだしさ、これからどっか行こうよ」
掴まれた手が熱い。
彼の誘いに答えを返さないでいると、有無を言わさずに手を掴んだまま歩き出した。
「ちょっと、行くって言ってない」
「行かないとも言ってないよ。いいじゃん。最近雨ばっかで、どこにも行けなかったんだし」
「だからって、急に。そんなの」
どうすればいいのだろうか。
嫌ではないのだから、余計に分からなくなる。
掴まれたままの手を軽く引けば、手は簡単に離されて。けれどその手はすぐに離した手を捕まえて、しっかりと繋ぎ直された。
がり、と。思わず噛んだ飴が小さな音を立てて割れる。
口の中の甘さと繋いだ手の熱で、くらりと一瞬だけ世界が回った気がした。
「どこ行こっか?いい天気だし、クレープとか買って公園散歩する?」
「…勝手にすれば」
割れた飴を甘さごと噛み砕く。小さな呟きに笑う彼から逃げるように、見上げた空はどこまでも青い。
秋晴れ。
涼やかな風が赤い顔を揶揄うように吹き抜けて、手や頬の熱を冷ましていく。その感覚が心地よい。
「手、離してよ。逃げないから」
「俺が繋いでたいからダメ。今日は絵を描けないから、その分手を繋いでいられるし」
繋いだ手を軽く振られ、風が冷ましたはずの熱がまた湧き上がる。
「ばか」
呟いて、おとなしく彼に連れられるまま歩いて行く。
彼を描いては、気持ちが溢れ。けれど彼を描かなくても、こうして触れた場所から気持ちが熱として伝わっていきそうだ。
どちらがましなのだろう。
形として残らない分、今がましだろうか。
空を見る振りをしながら、彼に視線を向ける。
「たまにはこういうのもいいよね」
上機嫌な彼に、どちらも変わらないのだと思い知る。
きっとこれから先、この青空を描く度に思い出してしまう。
口の中に広がる甘さを。手の熱を。
――彼が好きなのですね。
あの時は何も言えなかった。
肯定も、否定もしなかった。
けれど、次に会う時には。描き終わったスケッチブックがまた一つ増える頃には。
おそらく、返せる答えはあるのだろう。
「本当に、ばか」
憎らしい程に澄んだ青空と、笑顔の彼から視線を逸らして。
拗ねたように呟いた。
20241019 『秋晴れ』
何度でも繰り返す。
過ちでしかないと知りながらも、今更止める事など出来はしない。
「なぜ」
その言葉を何度繰り返したのだろうか。
目の前の、黒の塊に触れる。
力を入れずとも形を崩して風に舞う黒を、ただ目で追いかけた。
大切だったはずの。守らなければいけなかった者。
先を永遠に失って、過去にしかなれない骸。
「また駄目か」
呟いて、目を閉じる。
失敗した結果に心を動かされる事は、疾うになくなった。繰り返す事にも慣れている。
望む結果が得られるまで、おそらく何度でも同じ罪を犯し続けるだろう事は、誰よりも己が一番知っていた。
目を、開ける。
焼け跡など、欠片も残さず。
記憶の中にある、いつもの家に戻った事を確認して、その玄関扉を開けた。
穏やかな表情をして、うたた寝をする妹に触れる。
体を痛めてしまわぬようにと、そっと抱き上げれば縋り付く無意識の行為に、笑みが浮かぶ。
保護者としては、寝るのならば部屋へと戻るように起こすのが最良だろう。だが兄としては、こうして無意識ながらに頼られる事を期待して、つい甘やかしてしまう。
贅沢な悩みに、浮かべた笑みに僅かばかりの苦さを乗せ、妹の部屋に入るとベッドへとその華奢な体を横たえた。
顔に掛かる髪を払い、今は瞼に閉ざされた瞳を思う。
かつて、体だけを戻そうと繰り返していた時には、最後まで戻る事のなかったものだ。
今と方法は違えど、あれが繰り返しの最初だった。
己の一時の激情に流され、妹を失った事があった。
その理由は覚えてはいない。平静を取り戻した時にはすでに、彼女は人の形すら留めてはいなかった。
己が殺したのだ。他人事のように、呆然とする意識がその事実を認識し。
治さなければ。壊れ始めた自我が判断した。
そうして亡骸を掻き集めて、妹の新しい体を作り始めた。
最初の体は、人の形すら取る事が出来ず。耳障りな叫び声を上げながら逃げ出した泥の塊を、二つに切り落とした。
次の体は、足こそ人の形になれど、自らの意思で動く事はなかった。泥の上半身が床を這いずり回るのが不快で、その背を踏み潰した。
足、腕、胴、首、頭。
切り捨て潰し、新しく作り直す度に、人の形に近づける事は出来た。だが、その度に体は意思をなくしていった。
力なく投げ出された四肢は、まるで人形のようだ。
それでも良かった。
すでに壊れていた己の救いは、妹しかなかった。
動けずとも、そこに在れば救われていた。
形があれば、それだけで良かったのだ。
「なぜ」
しかし、その形すら完成する事は終ぞなかった。
瞼を開ければ、その瞬間にどろりと溶け出した瞳が、まるで涙を流しているかのように流れ落ちていく。
その不完全な眼が。流れ落ちていくその様が、新しく作られていく事を拒んでいるように見えた。
「なぜ、泣く」
眼を拭い、問う。
答えが返らない事は知っている。
首が正しく出来たその時から、あの耳障りな声は失われてしまった。
それでも、問わずにはいられなかった。
「…に、さん…?」
「あぁ、起きたね。おはよう」
瞼が震え、目が開く。
まだぼんやりとしている瞳が、溶け出す事はない。
「お、はよう?」
「いい加減、ソファで寝るのは止めなよ。眠くなったなら、ちゃんとベッドに行って」
形ばかりの注意に、妹は頷きながらも気まずげに目を逸らす。
「眠くなったらの前に寝ちゃうんだから、どうしようもないよ」
「なら、最初からベッドに行ってて」
「いじわる」
呟いて、欠伸が漏れる。
僅かに溢れる涙が、いつかを思い出させ。知らず手が伸び、滴が落ちる前に掬い取った。
「兄さん?」
「…夕飯まで寝てる?寝ないなら、顔を洗ってきた方がいい」
「……起きる」
少しの逡巡の後に、妹はベッドを抜け出し部屋を出た。
ふっと、息を漏らす。
強く握りしめていた、涙を拭った手とは違う手を開けば、赤い滴が滲んでいた。
繰り返す事には慣れている。
だが、段々に目的が繰り返す事に変わっている気がして、苦しさを覚えた。
忘れられないからだろう。
妹を戻すために、繰り返し妹を壊した事を。
忘れてしまえば、こうして涙を見る度に壊してしまいたくなる衝動はなくなるはずだ。
けれども、忘れてしまったのならば。
繰り返す理由を失って、取り戻すために作り上げたこの家は崩壊していくだろう。そうなれば、二度と妹は戻る事はない。
手を握り、息を吐く。もう一度手を開けば、滲む赤は炎へと変わり、一瞬に燦めきを残して跡形もなく消え去った。
忘れたい。忘れる事は出来ない。
いつかの妹が言った言葉を思い出す。
――人形遊び。
確かにそうだ。これ以上に適切な言葉はないと自嘲する。
あの妹はどこまで覚えていたのだろうか。
最初の体は何度も作られ、壊されて。新しい生ですら、こうして拐かされて、繰り返すための家に囚われている事を知っていたのか。兄と慕う己が、人でなくなっている事に気づいていたのか。
今となっては、知る事など叶わない事ではあるけれど。
「どうしたの、兄さん」
戻ってきた妹が訝しげな顔をする。
それになんでもないと首を振り。
「今日の夕飯は何にしようか」
兄として、優しく妹に笑いかけた。
20241028 『忘れたくても忘れられない』
カーテン越しの柔らかな光に、目が覚める。
起きなければと頭では考えるものの、未だ微睡んでいるらしい体は、もう少し眠っていたいと訴える。
今日は、学校は休みではなかっただろうか。他に何か予定はあっただろうか。
考えて、思いつかず。
それならば、と。
朝の柔く暖かな光を避けるように、窓に背を向けて。
「ちょっと、そのまま二度寝しようとしないでよ」
咎める声と、引き剥がされる掛け布団に、眠りに落ちかけていた意識が急速に覚醒した。
「あーちゃん?」
確かめるように呼べば、布団を剥がした親友は苦笑したようだった。
何故、と昨日の記憶を思い返しながら、深く呼吸をする。
柔らかな光とは裏腹に、朝の鋭く冷えた空気が肺を満たし、混乱する思考を少しだけ冷静にさせた。
部屋を見回す。ベッドと机とクローゼット。端によけられているローテーブルは、今自分が寝ている布団がある場所に置かれていたものだろうか。
「いい加減、目を覚まして。さっさと起きなよ。今日は朝から一緒に出かける約束でしょ?」
約束。
その一言で思い出す。
出かけたい所があった。やりたい事もあった。
今までは親友の体の事を理由に言えなかったたくさんを、連休を機に吐き出したのだった。
「ほら起きて。母さんが朝ご飯、作ってくれてるよ」
「それを早く言って!すぐ準備するから」
親友の言葉に慌てて飛び起きる。
急なお泊まりを、快く迎え入れてくれたのだ。
もう遅いかもしれないが、準備の手伝いくらいは行いたい。
「手伝いとか、気にしないで。初めて友達を連れてきたから、何か張り切ってるんだ」
着替えている横で、使っていた布団をたたんでくれていた親友が、くすりと笑う。
「今まで学校の話とかした事なかったし、発作の事もあって家にいるよりも病院や寺の方にいるのが多かったから。だから嬉しかったみたい。さっき見てきたけど、何かすごい豪華なご飯になりそう。それに、きっと色々質問攻めにあうだろうから、急がなくてもいいと思うよ」
「でも、ただでさえちゃんと連絡しないで押しかけちゃったし。その上で、何でもかんでもしてもらうのって悪い気がする」
「律儀。益々母さんが張り切るじゃん」
口では呆れながらも、その表情はとても楽しげだ。
「あまり張り切らせると、後で大変になるよ。どんどんご飯は豪華になるだろうし。定期的にお泊まり会が発生する、とかありそう」
「何それ。楽しそうじゃん。でも、今度は私の家に泊まりに来てよ。お母さんが会いたいってさ」
「泊まりじゃなくてもよくない。それ」
確かに、と笑う。
泊まりでなくてもいい。ただ遊ぶだけでも、約束をするというのはとても嬉しい事だ。
夏休みが来る前までは、考える事も出来なかった。
「これ使って。洗面台の場所は分かるでしょ」
「大丈夫。ありがと」
着替えの終わったタイミングで、タオルを投げ渡される。軽く礼を言って、洗面台へと向かおうと足を踏み出したその時に、軽い電子音が鳴った。
どうやらスマホにメッセージが届いたらしい。
「紺のスマホじゃない?」
「ほんとだ。誰からだろ」
タオルを片手にスマホを取れば、待ち受け画面には先日親友の件で知り合った少女の名前。
ロックを外す。メッセージアプリを立ち上げた。
――帰ってきた。
ただ一言。
そして、一枚の写真が添付されていた。
「誰から?」
「ん。友達?」
「何故に疑問形」
親友にこのメッセージを見せるかどうか、少しだけ悩む。
彼女にとって、送り主と縁はない。
忘れていくだけの過去になった写真に写る人物を、今の彼女に見せる意味はあるのだろうか。
「連絡先は交換したけど、状況報告しかお互いしてないし。だから友達というか、何というか」
「状況報告?何でそんな事してんの」
「色々あるんだよ…それより、帰ってきたんだってさ」
誰が、と困惑する親友に写真を見せる。
訝しげな目が写真を見て、驚きに見開かれ。
泣きそうな、嬉しそうな、寂しそうな。
たくさんの感情を乗せて、柔らかく微笑んだ。
「そっか。よかった」
「会いに行ってみる?」
「さよならをしたし、覚えてないだろうから、会わない。きっと泣くから、困らせるよ」
「さよならをしたなら、今度は初めましてをしたらいいじゃん」
終わりにしたのなら、また一から始めればいい。
さよならをしたら、二度と会ってはいけないなんて、そんな決まりはないのだから。
「会って、今度は普通の友達になればいいよ。皆でさ、旅行とか行ったら、絶対に楽しいはず」
「…心の準備が出来たら、ね」
「じゃあ、早く準備してね…っと。私も早く準備しないと」
顔を洗いに行く途中だった事に気づき、スマホを置いて急いで洗面台へと向かう。
柔らかな夕陽が注ぐ教室。
満面の笑みを浮かべた少女と、その隣で戸惑いながらも微笑む少女。
画面を開いたままのスマホの中で、二人。
再び出会えた奇跡を喜んでいた。
20241017 『柔らかな光』