sairo

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手持ち無沙汰に澄んだ青が続く空を見上げ、流れる雲を目で追いかけた。
いつもならば持ち歩いているはずのスケッチブックは、今日は家の中だ。不用意に持ち歩いて彼に出会ってしまえば、また一つページが彼で埋まってしまうから仕方がない。
空から目を逸らし。落ち着かなさに鞄を求めて彷徨う手を、きゅっと握る。
嫌な訳ではない。彼を描く事にまだ緊張はするけれども、それに苦しさを感じる事はなかった。
ただこれからも彼を描く事が少しだけ怖い。
描く度に気持ちを抑える事が出来なくなっているのが、絵を見て気づかれてしまう事が恐ろしかった。

――彼が好きなのですね。

恩師の言葉を思い返し、握る手に力が籠もる。
彼の絵を描き始めてから、まだ一月しか経っていない。彼の絵も片手で数えられるくらいだ。

――彼に対する気持ちが、絵に現れていますよ。

それなのに、恩師はその少ない彼の絵をすべて見て、そう言った。
気づかれるとは思っていなかった。いつもと変わらないようにあるままを描いていたはずだったから。
思わず赤面する自分に、恩師は柔らかく微笑んでいた。


「何してんの?」

背後から聞こえた声に、びくりと肩が跳ねる。

「今日は絵を描かないんだ」

硬直する自分を気にせず近づく足音。目の前まで来ると、握りしめたままの手を取り、そっと開いていく。
彼の手の熱に益々動けなくなってしまう自分に、彼は小さく笑い、開いた手に綺麗な赤色の飴を一つ乗せた。

「なに、これ」
「好きじゃん。イチゴ味」

手のひらの上の飴を見る。透明な袋の中の澄んだ赤はとても綺麗だ。
彼のようだな、と見入っていると、焦れた彼が飴を取り袋を破く。取り出した飴を口元まで運ばれて、促されるままに口を開いた。

「甘い」
「でしょ?」

飴の甘さに頬が緩む。
からころと転がしてその甘さを堪能しながら、お礼を言おうと彼を見て。
指先が視界に入り、一瞬前の記憶を思い出す。
彼の少し冷えた指先を、その冷たいはずの熱を思い起こす。

「どうした?」

固まる自分を心配して伸ばされた手から逃げるように、慌てて後退った。
鼓動が速くなる。頬がじわじわと熱を持つのを感じる。

「っ、なに、するの」
「何って、急に黙り込むから」
「そうじゃないっ!なんで、急に、なに、こんな、っ」

ほとんど意味のない言葉の羅列に、それでも言いたい事が伝わったのだろう。
彼の笑みが、いたずらが成功した子供のようなにやりとしたものに変わる。

「だって、ずっと見てるだけだったから。食べさせてほしいのかなって」
「そんな事言ってないし!思ってもなかったから!」
「でも、食べたじゃん」

あれは、と言いかけて黙り込む。ぼんやりしていたからだとか、出されたからだとか、同じような言い訳は思い浮かぶが、きっとそれを言葉にしても笑われるだけだ。
笑う彼から視線を逸らす。
このまま逃げてしまおうか。思いついて踏み出した足は、けれどそれ以上は動かせない。

「離してよ」
「やだ。折角いい天気なんだしさ、これからどっか行こうよ」

掴まれた手が熱い。
彼の誘いに答えを返さないでいると、有無を言わさずに手を掴んだまま歩き出した。

「ちょっと、行くって言ってない」
「行かないとも言ってないよ。いいじゃん。最近雨ばっかで、どこにも行けなかったんだし」
「だからって、急に。そんなの」

どうすればいいのだろうか。
嫌ではないのだから、余計に分からなくなる。
掴まれたままの手を軽く引けば、手は簡単に離されて。けれどその手はすぐに離した手を捕まえて、しっかりと繋ぎ直された。
がり、と。思わず噛んだ飴が小さな音を立てて割れる。
口の中の甘さと繋いだ手の熱で、くらりと一瞬だけ世界が回った気がした。

「どこ行こっか?いい天気だし、クレープとか買って公園散歩する?」
「…勝手にすれば」

割れた飴を甘さごと噛み砕く。小さな呟きに笑う彼から逃げるように、見上げた空はどこまでも青い。
秋晴れ。
涼やかな風が赤い顔を揶揄うように吹き抜けて、手や頬の熱を冷ましていく。その感覚が心地よい。

「手、離してよ。逃げないから」
「俺が繋いでたいからダメ。今日は絵を描けないから、その分手を繋いでいられるし」

繋いだ手を軽く振られ、風が冷ましたはずの熱がまた湧き上がる。

「ばか」

呟いて、おとなしく彼に連れられるまま歩いて行く。

彼を描いては、気持ちが溢れ。けれど彼を描かなくても、こうして触れた場所から気持ちが熱として伝わっていきそうだ。
どちらがましなのだろう。
形として残らない分、今がましだろうか。
空を見る振りをしながら、彼に視線を向ける。

「たまにはこういうのもいいよね」

上機嫌な彼に、どちらも変わらないのだと思い知る。
きっとこれから先、この青空を描く度に思い出してしまう。
口の中に広がる甘さを。手の熱を。

――彼が好きなのですね。

あの時は何も言えなかった。
肯定も、否定もしなかった。
けれど、次に会う時には。描き終わったスケッチブックがまた一つ増える頃には。

おそらく、返せる答えはあるのだろう。

「本当に、ばか」

憎らしい程に澄んだ青空と、笑顔の彼から視線を逸らして。
拗ねたように呟いた。



20241019 『秋晴れ』

10/20/2024, 6:32:11 AM